2024.09.12, 追加 2025.08.12
中島みゆき関連書籍を借りに図書館に行ってきて、書架で『バッハと対位法の美学』(松原薫、春秋社)を見つけた。東大の博士論文ということである。序文と結論だけ読んで帰った。また暇なときに中身を読んでみよう。
勝手に要約する。バッハの生きていた時代、対位法という言葉は音楽における調和そのものを意味したが、やがて理性よりも感性が、教会よりも世俗が重視されるようになって、時間軸方向での自由な旋律的展開を束縛する対位法というものが否定的なものとして攻撃されるようになった。そのような時代の流れの中で(神の秩序を求めて?)バッハは頑固に対位法を極めていった。やがて、作曲技法が、同時並行する単音の間の調和的推移(和声)と同時並行する旋律の間の調和的推移(対位法)に整理されることで、バッハの極めた対位法が「古典的」価値として研究されるようになり、ソナタ形式の楽章に追加して(単一テーマの)対位法的扱いの楽章が使われるようになった。人々はその中で、自由な旋律の展開を越えて、ある種の普遍的な秩序や美学を表現することが可能であることを再発見した(バッハに教えられた)のである。このようなバッハの復活にはまた楽譜の印刷技術の普及も大きく貢献している。
博士論文データベースに本人による概要があった。・・・J.S. バッハと18世紀における対位法の美学(松原 薫)
2025.08.12 本を借りて中身を読んだのでまとめておく。
「バッハと対位法の美学」は大分前に序論と結論を読んでまとめたので、中身の章を順に読んでいるが、細かい資料の説明が込み入っていて判りにくい。バッハ以前はそもそも和声論というものが無かったから、対位法というのは多声部音楽の作曲技法そのものだった。協和する音程や協和しない音程をどう扱うかという技術が体系化されたのである。しかし、その中には旋律そのものの議論は無かった。作曲家は自由に旋律を作るのではなくて、既にある旋律を組み合わせたり発展させたりするのが仕事だったからである。しかし、音楽は教会や王侯貴族のものから大衆のものへと変化していて、旋律の自由度が求められた。旋律の自由度を求めると厳格な対位法が邪魔になる。数理学としての音楽を離れて、旋律それ自身の自然な発展とは何か?という文脈の中で和音の協和や不協和の処理が考えられるようになった。旋律の自然な発展を対位法の規則で規定するのは困難である。何故ならば、(それまでの)対位法の規則には音楽の自発性が内包されていないからである。そこで、当時感じ取られた旋律の自然な発展を和音の推移、つまり和声として整理することになり、その和声が音楽の根底にあるという観点が作曲家の中に芽生えた。これがホモフォニーである。しかし、ホモフォニーというのもそれだけでは音楽にはならない。旋律を発想するのは和声ではなくてそれに触発された人間であるから。それでは和声以外に補助する原理があるか(そのためにソナタ形式があるのだが)、と考えたとき、対位法というものが別の意味を帯びてきた。和音の経時的発展変化だけでなく、旋律線そのものの反復や反転等の操作が作曲法として必要になった。(旋律を上下反転させたり時間をずらしたりして副声部を作るとかがよく使われる。)それこそバッハが追求してきた一見古臭いフーガだった。とまあ、こんなことかなあ、と思う。和声は旋律の動く方向を指し示すが、作曲家の素朴な感性と対位法は旋律の新たな始まりを創造する、とも言えるか?(それにしてもヨーロッパでは「音楽論」が盛んである。その背景にはキリスト教が音楽を利用していた、ということがある。)
18世紀、「対位法」という概念自身が、音符と音符の(数学的)関係から、旋律と旋律の関係へと変貌し、音符と音符の関係は和音として整理され、その和音の推移として和声理論がまとめられた。それは、旋律に自由度を与えた上で、和声で音楽としての一貫性を保証するものであり、「理性」から「感性」への変化ともいえる。しかし、晩年のバッハはその流行の変化に抗って、厳格な対位法の枠を守ったままでその「感性」的可能性を探索した。18世紀後半になると、「理性」「感性」の対立軸は「厳格書法」「自由書法」というより技術的な対立軸に変化していく。
1750年バッハ没。1751年には「フーガの技法」が出版された。曲の難解さゆえに公的演奏や上演はほぼ無かったが、バッハの伝承は弟子達を中心としてベルリンを拠点として行われていた。マールブルクはイタリア音楽やフランス音楽に対するドイツ音楽の独自性はフーガにあり、それを集大成したのがバッハである、という見解をまとめ上げた。
キルンベルガーはバッハの四声コラール集をまとめ、「純正作曲の技法」を出版して、バッハの作曲技法を後世に伝えた。ルネッサンス期のパレストリーナの二声をベースにした声楽ポリフォニーに対して、バッハは四声のポリフォニーを対置したと言える。「純正作曲」というのは厳格な和声や拍節を守ることだけでなく、適度な係留音や装飾音も含めたギャラント様式も含んでいた。何よりもまず、これを学ぶことが重要である。その上で重要なことは「表現の多様性」であり、その点にこそ天才が発揮される。そこでキルンベルガーが考えたことは、ギリシャ以来の旋法の伝統であった。旋法は1720年代に急速に使われなくなって、長調と短調にまとめられた。例えば、それ以前に書かれたバッハの無伴奏ヴァイオリンソナタの1番にはドリア旋法が使われていて、ト短調でありながら、♭記号が1つしかない。キルンベルガーは教会旋法の中に作曲の基盤ではなく「豊かな感情や表現」を見出した。多様性という観点から、キルンベルガーは平均律よりも純正調によって生まれる各調の特性を重視していた。
ライヒャルトはゲーテの影響を受けて、疾風怒濤運動の文脈でバッハを再評価した。ごたごたした寄せ集めと思われていたゴシック建築は実際によく見ると、全体としての複雑性と細部に亘っての整合性が均衡した魅力を持っていて、その有様が古典に対する疾風怒濤の理想形のように見えた。そしてバッハもそう見えた。だだし、ライヒャルトは18世紀後半の「多感様式」に共感しており、バッハの作品の本質を評価していたわけではなかった。実際、フーガとして彼が評価したのはむしろパレストリーナの方であった。
19世紀に入るとバッハの器楽作品が盛んに出版されるようになった。その中で、スイスという手稿入手困難な場所にありながら、ネーゲリは「厳格様式の音楽芸術作品」という一貫したテーマの元にバッハの鍵盤楽器作品を刊行した。「音楽について」「バッハ論」「音楽講義」という残された著述にその考えを窺うことができる。「厳格書法」とは規則に従ったフーガのことであり、「自由書法」とはホモフォニーに見られるような旋律の自由を追求した作曲法である。厳格書法には人々を楽しませる「遊動」が欠けており、自由書法には曲を大規模に展開するための「模倣技法」が欠けている。しかし、リズムの巨匠である J.S.バッハは厳格書法の制限の中で最大限に「遊動」を実現している。他方自由書法においては、模倣技法の替わりに、リズムや旋律の新規性を積極的に追及した。その代表が C.P.E.バッハであった。
19世紀になると、そもそも、音楽の在り方に変化が見られる。それまで作曲と演奏は一連のことであり、音楽はその作られた時点で演奏されて終わるのが一般的であった(機会音楽)。楽譜は印刷されるよりも書き写されることが一般的だった。19世紀になると、過去の音楽を作品として保存しようとする動きが出てくる。バッハの鍵盤作品はその嚆矢となった。作曲技法の資料として永続的価値を持つと認められたのである。鑑賞や演奏の対象というよりは鍵盤奏者や作曲者にとっての学究の対象としてである。バッハの成し遂げたこと、その技術は、過去の対位法や和声法のような理論的に整合された形でまとめられるものではなくて、実際の楽曲の在り方として学ぶしかなかった、とも言える。ネーゲリの意図はバッハに限らず、過去の厳格書法作品(フーガ)を体系的にまとめることであったが、実際上は購読者の要望が高い「平均律クラヴィーア曲集」や「フーガの技法」が優先された。キルンベルガーはバッハの対位法を作曲の基本と考えていたが、ネーゲルは一つの選択肢として考えていた。対位法は過去の技法ではあるが、現在においても活用すべき技法である、と。この見方は現在でも通用している。