ノルマン征服

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 ノルマン・コンクェストは、エドワード懺悔王(Edward the Confessor;在位1042-66)の跡継ぎなく没したことによって始まった、と考えてもよいでしょう。

とはいえ、その萌芽は彼の父親の代に遡ります。

 父親の名は無策王と渾名されるエセルレッドでした。(AEthelred the Unready;在位978-1012)彼は、1013年、ノルウェー王スヴェインによって王位を奪われ放浪の身となります。その時逃げていった所が、彼の妻の故郷、ノルマンディーでした。そのようにして、彼の息子のエドワード懺悔王もフランスはノルマンディーで幼年時代を過ごし、育てられたわけで、エドワード自身は英国人と言うよりもフランス人でした。だからスヴェインの息子クヌート王 (Kanute/Cnute/Knútr1016-35)の、さらに息子のハルディクヌート(1040-42)が後継者なくして亡くなった後、エドワードが王位を取り返したとき、ノルマンディーから多くの友人たちをつれてきて、彼らに財を分け、要職につけるなどをしていたのでした。彼の在位は24年間でしたが、その宮廷はフランス風の雰囲気が漂ったものだったのです。

 エドワード懺悔王の即位の当時、英国を幾つかの大きな領主たちによって分割されていました。その中で最も有力な領主はゴドウィンと言う名でした。彼はウェスト・サクソン王国内の伯領を所有していました。ゴドウィンの長男ハロルドは、エドワード在位当時から既に実務を父親から引き継いで、イングランド内に大きな影響力を持っていたのです。エドワードが没したとき、王として選挙されたのはハロルドでした。

 ハロルドの王位については、そのままでは済みませんでした。ノルマンディーのウィリアムはエドワードの又従兄弟に当たりました。その姻戚関係のみによれば、ウィリアムは王位継承者として認められない位置におりました。けれども、恐らくはエドワードから王位継承をほのめかすことを聞いていたのでしょう。ウィリアムは以前イングランドに来たことがありまして、その時にはエドワードは、ウィリアムの継承権を認める約束をしていたようです。ハロルド自身も一度ウィリアムの手に落ちたときがあったので、自由の身となる引換に継承者の候補及びウィリアムの政敵にならないことを誓わせられたのでした。

ある日、嵐に船を流され、ハロルドノルマンディー公領内の海岸に流れ着きます。そこで彼は捕らえられてしまうのでした。ウィリアムは彼を自分の宮廷に護送させます。ハロルドは半ば客人、半ば囚人の生活を続けるのでした。2人は見かけは非常に仲がよくなったようでしたが、ハロルドをイングランドに返すための船は調達されないままでした。そしてついにウィリアムは、エドワード懺悔王に、王位を約束されたのだといい、もしもハロルドが彼を後押ししてくれるなら、彼がウェセックスの王国を治め続けさせてもよいというのでした。ウィリアムにはハロルドが既に持っているウェセックス王国の王権をどうにかする権利など何もないことをハロルドは分かっていました。けれども、イングランドから、エドワード王が病気だと言う知らせを聞いたハロルドは、誓いをしなくてはイングランドに急いで戻ることができなくなると踏んだのでした。恐れながら、と、彼はある聖人の遺骨に向けて誓いをします。しかし、実際にイングランドに帰り、王冠を捧げられたとき、ハロルドにはその誓いなどなんの意味もないように思われたのでした。いずれにせよ、当時のイングランドの宮廷、というか王の周りの雰囲気はフランス風であり、もしもウィリアムを王として選ぼうというのであれば、ウィリアムの支持者たちには可能だったはずです。それにも拘わらずハロルドが選ばれた、ということで、ハロルドは自分の王位の正当性を確信することが出来たと言うことになります(Baugh & Cable 107)。

 しかし、ウィリアムは、戦によらなければ王位を手に入れることはできないと分かったとき逡巡などする男ではありませんでした。彼は直ちに兵をまとめ、戦の準備にとりかかりました。

 一方、ハロルドの王座をねらう、もう一つの勢力が、この時いたことを忘れてはなりません。言わずと知れた、北欧の王であります。

 ノルウェー王ハラルドゥルは、英語読みをすればやはり「ハロルド」となります。つまり、当時、イングランド王になろうとする「二人のハロルド」がいたということです。

 二人のハロルド、特にこのノルウェーのハロルドゥルがいなければ、今日のイングランドはあり得なかった、いえ、少なくとも、こう易々とノルマン王ウィリアムは英国の王の座には座れなかっただろうと言うのが、私の考えです。

 ウィリアムの動向を伺っていたイングランド王ハロルドに、9月、北からの侵入者の知らせが届きます。5月からずっとウィリアムの動きを見張っていたのに、卓越風のためにノルマン人達は港に釘付けでした。ハラルド側の食糧がなくなり、収穫の秋も来てこれ以上兵を徴収させたままでいられなくなり、ちょうど解散をさせた矢先のことでした。ハロルドは迎え討とうと急ぎ兵を再び集め、北のヨークまで急行します。一方、ノルウェーのハラルドゥル(ハロルド)は、ヨークを落とし、有名なスタンフォード・ブリッジの戦いで、イングランド軍に破れ戦死します。それが9月25日。ウィリアムが自軍を率いてイギリス南部のペヴェンシー (Pevensey) に上陸したのは9月25日。言い伝えによれば、ハロルドウィリアム上陸の報を聞いたのは、戦勝の宴の席に於いてだったと言います。

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 世界史に名だたるヘイスティングズの戦い(the Battle of Hastings)は、9時に開始されました。

彼は自分たちの軍隊をヘイスティングズからほど遠くないセンラック(Senlac)という所に集結させ、ウィリアムの軍の到来を待ち受ける。ハロルドは、地の利を生かした布陣で、有利に戦いを進め、午後にいたるまで、彼の優位 は動かなかった。彼らはセンラックの丘の上に陣取っていて、ウィリアムらノルマン人の軍勢はいっかな彼らを責め落とすことが出来なかったのです。ウィリアムは、そこで自分たちの軍を退却させ、イングランド人たちをおびき寄せようとします。イングランド人たちはその罠に陥り、ノルマン人たちを追撃し、皆殺しにしようとするのでした。しかし、ノルマン人たちは立ち向かい、戦いは互角の様を呈します。ここで起こったことは中世の戦争にしばしば見られた出来事でした。すなわち、いつも混戦の中にいたハロルドは戦いのさなかに殺されてしまったのでした。伝説によれば、ハロルドノルマン人の矢の一つを目に指し貫かれて戦死したということです。(しかしながらバイユー・タペストリーの描いたものによれば、矢のささったのは彼をガードする二人の兵士のひとりで、ハロルド自身は剣に倒されています図版7172)。いずれにせよ、ハロルドの死は突然のものであったようです。ハロルドの2人の弟は既に戦死していました。指導者を失ってイングランド人は混乱し、その混乱はどんどん広がっていきました。ノルマン人たちは機を見て動くのに遅くはなかったのです。。

ヘイスティングズの戦いはこうして終わりましたが、その後もウィリアムはイングランド南東部を蹂躙し、ついにロンドン市民たちも彼を受け入れることを決定したのでありました。そして1066年のクリスマスの日に、ウィリアムはイングランド王として王冠を受け取ったのです。

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