鶴岡八幡宮流鏑馬道

鎌倉街道を歩き続けていて、この道の上りの終点が相模灘に面した武士の都である「鎌倉」であることを忘れてはいません。現在の鎌倉市は関東では唯一、古都と呼ばれているところであります。休日には多くの観光客やハイカーで賑わい、四季折々の風情が現代人の心を癒してくれます。

私が初めてこの鎌倉に訪れたのは、いつ頃のことであったのか、確かな記憶はありません。古いアルバムなどで探して見ると、小学5年生の時に学校のバス旅行で訪れていて、鶴岡八幡宮の舞殿の前で記念撮影をしたものが残っています。その時に鎌倉のどこをまわったのかは全く憶えてはいなく、写真を見ていてその頃の私はどんなんだったのかと、遠い記憶がよみがえります。写真には懐かしい笑顔が並んでいました。

その後、何度この地を訪れたことでしょうか。大晦日の晩に仲間とやって来て、年明け早々に初詣をし、初日の出を見ようということで、朝まで寒い由比ヶ浜の浜辺で時間を過ごした思い出もあります。ちなみに由比ヶ浜からの初日の出は太陽は海からは昇らないのです。逗子方面の陸から昇るのです。

私は文化財や歴史といったものが学生の頃から好きであったので、若い頃には鎌倉にはよく訪れています。訪問の第一の目的は古寺散策が主であったと思います。しかし、ここ10年近くは忙しさのせいか、鎌倉には訪れていませんでした。そして鎌倉街道のホームページを作り始めてから、古道歩きを目的として再び鎌倉を訪れることになったのです。

大仏坂切通
名越坂切通

鎌倉街道を歩き始めてから、久々に訪れた鎌倉は、こんなにも狭いところであったのかという印象です。約800年前に源頼朝がこの地を東国武家政権の都としたことについては、様々な理由が語られています。

相模国鎌倉は源氏にとっては縁の土地。前九年の役の後に源頼義はこの地に京都の石清水八幡宮を勧請して元八幡宮を造営しています。そして頼朝の父義朝は今の寿福寺の境内に館をかまえていたと伝えています。そして何よりもこの地が天然の要害の地であったことが東国政権の基盤造りにふさわしかったと語り伝えられています。

ところで鎌倉幕府設立以前の鎌倉はどのようなところであったのでしょうか。古道を見る立場から決して無視することはできない問題なのです。そもそも鎌倉と呼ばれるその地名の由来は何なのか。興味のあるところではありますが、残念ながら詳しいことはわかっていないようです。地名の由来の中には藤原鎌足がこの地に夢のお告げで鎌を埋めたとかいう伝説もありますが、一般的にはこの地が東西北の三方が山に囲まれ、南側のみが相模湾にのぞんでいて、その地形が「かまど」に似ていることから「かまくら」となったとする説がもっともらしいようにも思えます。

開幕以前の鎌倉は相模国の海辺の一寒村でしかなかったという説もあれば、鎌倉大仏こそが相模国の国分寺であったとする説など様々なものがあります。鎌倉市中の今小路西遺跡(現在の御成小学校内)では、大がかりな柱穴群が発掘され、天平時代の付札木簡も出土していて、ここが奈良時代の郡衛跡であったことが有力となっています。そうすると奈良時代の鎌倉は相模国でも開かれたところであったと考えるのが妥当と思われ、この狭い地に伝路が通っていたわけになります。

更に鎌倉には古東海道が通過していたと従来から考えられています。古代駅路は幅広の直線道であったことが近年の各地の発掘事例からわかって来ていますが、そのよな道がこの狭い鎌倉のどこを通過していたのかは、大変興味があるところです。

考古学者の赤星直忠氏は『三浦半島城郭史』で、「馬蹄形に丘陵で囲まれた地域は、要害の地として、平安時代の城の一様式であり、山城の都京都や、三浦党の本拠、衣笠城などこの形態をとる」と語られ、「かまど」の地形が馬蹄形と重なることを暗示させます。そして、九条兼実の日記『玉葉』の記述中に鎌倉全体を「鎌倉城」と表していることから、鎌倉の地形が「城」と見なされていたことがうかがわれるのです。

実際に鎌倉の三方の山稜部に登ってみると、ここかしこと人工的な不思議な地形が見られます。城郭遺構に詳しくない私でも、明らかに堀切や土塁、平場と想像できる地形があちこちに感じられるのです。

このような地形の都ということからでしょうか、鎌倉七口というものが昔から伝えられてきていて、この鎌倉城の城門と考えられているようです。私自身は登山やハイキングが好きなものですから、各地の山や丘陵を歩いてきているのですが、これほど広範囲な城郭遺構のようなものが存在するのは、知る限りここ鎌倉だけです。

「道」をテーマとして、各地の鎌倉街道を歩いてきたホームページの作者として、鎌倉の古道とその歴史物語についてまとめてみたいと以前から考えていました。そして資料もだいぶ揃ってきたことから、このあたりで少しづつまとめることに致しました。歴史や古道に詳しくない方々にも、気軽に楽しく拝見できるホームページに作りあげられればと思っております。

朝比奈切通

鎌倉七口
朝比奈切通 名越切通 極楽寺坂切通 大仏切通
化粧坂切通 亀ヶ谷坂切通 巨福呂坂切通
鎌倉の古道
若宮大路 金沢道(六浦道) 小町大路 大町大路
長谷小路 今大路(武蔵小路) 二階堂大路
山稜部の道
裏大仏ハイキングコース 葛原ヶ岡ハイキングコース 天園ハイキングコース・鷲峰山
天園ハイキングコース・大平山 天園ハイキングコース・天台山 祇園山ハイキングコース
衣張山ハイキングコース
その他の道、史蹟等
釈迦堂口切通 二階堂から天園への道 小坪坂
稲村ヶ崎 五合桝 仏法寺跡 一升桝 鎌倉の「やぐら」について

リンク 鎌倉の観光ポータルサイト 鎌倉ぶらぶら

参考資料一覧

中世都市鎌倉の風景  松尾剛次   吉川弘文館
中世鎌倉の発掘    大三輪龍彦  有隣堂
よみがえる中世【3】武士の都 鎌倉    石井進・大三輪龍彦   平凡社
中世のみちと物流   藤原良章/村井章介-編   山川出版社
「鎌倉」の古道    阿部正道   鎌倉市教育委員会 鎌倉国宝館
神奈川の古代道    藤沢市教育委員会博物館建設準備担当 
新編鎌倉志鎌倉攬勝考   雄山閣
新編相模国風土記稿    雄山閣
かまくら    大森金五郎   日用書房
鎌倉の秘道   中野正皓    日本写真企画
鎌倉市史 総説編  鎌倉市鎌倉市史編纂委員会  吉川弘文館
鎌倉市史 考古編  鎌倉市鎌倉市史編纂委員会  吉川弘文館
東勝寺跡 第3・4次遺構確認調査報告書   鎌倉市教育委員会
東勝寺遺跡発掘調査報告書   東勝寺遺跡発掘調査団  鎌倉市教育委員会
東勝寺跡発掘調査報告書    東勝寺跡発掘調査団
切通周辺詳細分布調査報告書     鎌倉市教育委員会
大仏切通周辺詳細分布調査報告書   鎌倉市教育委員会
化粧坂周辺詳細分布調査報告書    鎌倉市教育委員会
亀ヶ谷坂周辺詳細分布調査報告書   鎌倉市教育委員会
国指定史跡名越切通保存管理計画策定報告書   逗子教育委員会
『古都鎌倉』を取り巻く山稜部の調査     神奈川県教育委員会
東勝寺跡・妙本寺周辺現状測量調査報告書   財団法人鎌倉風致保存会
瑞泉寺裏山周辺詳細分布調査報告書   財団法人鎌倉風致保存会
神奈川県に僅かに残る古道・旧道を探し歩いて   横山登志子
私のかまくら道   永井路子   かまくら春秋社
旧鎌倉街道・探索の旅-上道編  芳賀善次郎  さきたま出版会
旧鎌倉街道・探索の旅-下道編  芳賀善次郎  さきたま出版会
鎌倉事典    白井永二  東京堂出版
鎌倉史跡事典  奥富敬之  新人物往来社
中世のみちを探る  藤原良章「編」  高志書院
図説鎌倉歴史散歩  佐藤和彦・錦昭江  河出書房新社
鶴岡八幡宮寺ー鎌倉の廃寺  貫達人  有隣新書
中世都市鎌倉の実像と境界  五味文彦・馬淵和雄  高志書院
鎌倉歴史散歩  奥富敬之  新人物往来社
中世都市鎌倉を掘る 鎌倉考古学研究所 日本エディタースクール出版部
鎌倉のやぐら   大三輪龍彦   かまくら春秋社
日本の庭   立原正秋   新潮文庫
中世の鎌倉を語る  安西篤子  平凡社
マンガ日本の古典14・15・16  吾妻鏡-上・中・下 竹宮恵子  中公文庫