上総国分寺跡と国分尼寺跡
上総の古代について(国分寺・国分尼寺跡)1
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上総国分尼寺跡に復元された中門と回廊及び金堂前の銅灯篭

上総国分寺跡と国分尼寺跡(発掘された古代道と国府につて)

西上総の鎌倉街道を語るにあたり上総の古代史(主に国分寺と国府について)を見て行きたいと思います。中世鎌倉時代には律令国家の国の行政機構であった国府は機能形態は少しずつ変えながらも存続していたものと思われます。鎌倉時代初期の道は古代の官道を踏襲した例が多く、ここ房総においても鎌倉街道は東京湾から上陸して国府を経由した道と考えられるわけなのです。

古代の東海道(いわゆる古東海道)は足柄峠から相模国に入り相模湾沿いを東進し三浦半島から海を渡り房総半島に上陸したと考えられています。現在の富津市から木更津市付近に上陸した後は安房国へ南進する道と、上総・下総・常陸へと北進する道があったと想定できます。

袖ヶ浦市から市原市に伝わる鎌倉街道は従来までの研究者からは古東海道と重なる道ではないかと考えられていたようです。確かにそのルートの東進先は上総国府域を目指しているように思えます。現在伝わる西上総の鎌倉街道が古代官道であったかどうかは別に考察するとして、ここでは上総国分寺・国府、そしてその付近から発掘された古代道について簡単に触れてみたいと思います。

上総国分寺は現在の市原市に建てられていました。市原市役所がある付近の台地上に市役所を挟むように僧寺と尼寺跡が発掘調査で確認さっれています。国分寺については「東山道武蔵道」のページの武蔵国分寺でも簡単に説明させてもらっていますが、ここ上総国分僧寺の七重塔跡前の説明坂に大変わかりやすく書かれていましたので改めてそれをそのままここで引用させて頂きます。

国分寺は、天平13年(741)聖武天皇の詔によって全国60余国に造営された僧寺(金光明四天王護国之寺)と尼寺(法華滅罪之寺)とからなる国立の寺院です。僧寺は釈迦如来、尼寺は阿弥陀如来を本尊とし、国家を護るための金光明最勝王経、大般若経、法華経の護国三法を根本教典としました。また、全国国分寺を統括する寺として、奈良東大寺・法華寺を総国分僧・尼寺とし、ここに律令国家の目指した日本全土を仏法に護られた地にするという仏教国家が完成しました。
しかし、国家の崇高な理想とはうらはらに造営事業は困難をきわめ、その完成には、民衆の労役と地方豪族の協力を得て、20年近くの歳月を要しました。
日本の歴史の中で最大の国家事業であった国分寺も、国を護る寺であるがゆえに民衆の支援が得られず、律令国家と運命をともにしました。個人の救済を目的とした中世仏教は、こうした国家仏教の廃墟の中から次第に芽生えていきました。

右の写真は上総国分寺の七重塔跡に残る礎石です。塔は現存する礎石の間隔から推測すると相輪を含めて60m前後の高さであったと考えられているようです。上総国分寺の伽藍配置は藤原京の大官大寺に似たもので塔は中門と金堂で囲まれた回廊内の金堂手前右側に東塔だけがあったものと考えられています。写真の塔跡のまわりは広い空き地になっていて史跡指定地になっています。空き地の南には中門跡がありこの広い空き地から国分寺がいかに大きなものであったかがうかがえます。
上総国分僧寺跡に残る七重塔の心礎

現在の上総国分寺は西を向いて諸堂が並んでいます。左の写真は仁王門で門後方の林の中がかっての国分寺の金堂跡と伝えています。写真の仁王門前方の車道に面したところには国分寺の西門跡があり発掘の結果三間一戸の八脚門であったことがわかっていて、更に門が建てられる前に南北5間12m、東西3間6.75mの掘立柱建物が建っていたことが確認されているそうです。現在は西門の位置や規模がわかるように整備されています。
上総国分僧寺跡に建つ現在の国分寺仁王門

右の写真は仁王門の前右手に建つ「将門塔」と呼ばれる宝篋印塔です。説明板によると今は消滅してしまった菊間新皇塚古墳の墳丘上にあって将門の墓と伝えられてきたものだそうです。しかし塔身に応安第五壬子十二月三日の銘が刻まれていて、将門の命日天慶三年二月十四日と違うことや、塔が南北朝時代のものと考えられることなどから将門に関連したしたものでは無いということです。ただ塔は中世の遺物としては貴重なもので市原市の指定文化財になっています。
仁王門前に建つ宝篋印塔

右の写真のお堂は現存する国分寺の薬師堂です。方三間入母屋造り茅葺きの建物で様式から考えて禅宗様の建物です。このお堂は堂内の墨書名から称徳5年(1715)頃の建立とされています。お堂の右手には薬師堂復元記念碑が建っています。かって復元改築以前は「老朽著しく軒傾き雨露堂内に漏れ倒壊寸前の様相を呈し」と記念碑に書かれています。公私の関連機関の理解と指導を受けて工事が実施され平成3年12月に落成したそうです。
国分寺と薬師仏の関係について古道研究家の北倉庄一氏はホームページ「街道を尋ねて」の中で「国分寺のなぞ」と題して論ぜられていますので、そちらを参照ください。


現在の国分寺の中心的建物である薬師堂

上総国分寺塔跡付近に立つ説明板に語られているように、国分寺は「国を護る寺であるがゆえに民衆の支援が得られず、律令国家と運命をともにしました。」と言うように、奈良時代に国家のプロジェクトとして諸国に建設された国分寺で現存するものは奈良の東大寺だけです。また国分寺の名が残されている寺があったとしても奈良時代の創建のものは無く、後の時代に再建された宗派の違う寺なのです。

上総国分寺の広大な寺院跡地を眺めていて、何故これだけの施設をともなった大寺院が今日まで存続できなかったのかと考えてしまいます。全国60余国の国分寺の大半が平安時代の半ばにはすでに荒廃していたといわれます。同じ東国の武蔵国分寺の場合は元弘3年(1333)の新田義貞の鎌倉攻めの際に消失していると伝えていますが、武蔵国分寺の場合は比較的後世まで残っていた方だと言えるのでしょう。

中央集権的な国家が仏教政策の総決算として全国に建設した国分寺でしたが、やはり結果として一握りの権力者の考えにより始められたものであり、実質的に建設に携わった人達には富・平安をもたらすことが出来なかったのでしょう。歴史の教訓から学ぶものとして、現在の世の中でも、これに類例するものはないかと考えたりしてみます。国家の事業といって超大な予算を費やし、あまり役に立たない事業建設に充てても、結果として建設されたものは長くは持たず、維持するだけで大変な負担が掛かってしまうものかもしれません。

さて、ここからは上総の国分僧寺跡から北東方向に約700メートルほど離れたところにある国分尼寺跡をご案内したいと思います。

左の写真は復元再現された上総国分尼寺の中門と回廊及び金堂の基壇です。上総の国分尼寺は寺域が広く、また発掘調査によって付属施設を含めて寺院の全貌がほぼ明らかになっています。市原市では平成5年から平成8年にかけて史跡の整備事業として中門と回廊の復元と展示館を建設しました。

復元された上総国分尼寺の中心部

上総国分僧寺跡は現在の国分寺の周辺から布目瓦が出土していたことから江戸時代よりその付近が国分寺跡と考えられて来たと言われます。大正13年(1924)に千葉県と内務省の調査により七重塔跡が確認され昭和4年(1929)に国の史跡に指定されています。一方の尼寺跡はその所在位置がハッキリしていなかったようですが、祇園原の老松付近に布目瓦の土壇があることからその場所が尼寺跡とされるようになったようです。

上総の国分僧・尼寺跡では戦後まもない昭和23(1948)より現在に至るまでに三期にわたる調査が行われてきていて、尼寺跡では主要伽藍配置や規模ならびに構造と変遷がわかり、全国でも先駆けて尼寺の全貌が解明されました。調査の結果として上総国分尼寺は地方の官寺として初めて尼坊等院や中心伽藍以外の政所院・賤院・修理院など運営施設を有することが確認され、規模的にも奈良の法華寺に匹敵するもので現在確認されている国分尼寺では全国最大のものであるそうです。

国分寺史跡の整備は公有化の終わった尼寺から始められました。史跡の性格を象徴し空間的特色を体感できるように、金堂院の中門・回廊などを遺構の真上に原寸大で復元されることになりました。平成2年から3ヵ年間は、文化庁の「ふるさと歴史の広場」事業として、史跡の案内施設である展示館を建設し、同時に中門の復元が行われ、平成5年8月から公開されています。さらに平成5年から4ヵ年間は、文化庁の地域中核史跡等整備特別事業として回廊を復元し平成9年7月より公開されています。今後は鐘楼の復元やその他の建物の基壇表示などが予定されているそうです。
(以上、展示館パンフレットより引用)

右の写真は復元された中門と回廊を金堂院南外から撮影したものです。中門は国分尼寺の本尊を祀る仏のための空間である金堂院の南表面の門で、ふだんは閉じられ、特別な行事の時にだけ使われたそうです。復元にあたって発掘調査の結果をもとに、現在残る法隆寺東大門、東大寺転害門、唐招提寺金堂、海竜王寺西金堂などの奈良時代の建築遺構を参考にして、建築史の専門家の指導を受けながら厳密に行われたと言うことです。
復元された上総国分尼寺の中門

上総国府寺跡と国分尼寺跡・・・・・ 1.  2.

木更津の道標  下新田-立野  立野-姉ヶ崎  上総国分寺
西上総表紙