日本列島・全国郷土玩具の旅

----鹿児島県篇・第2回----

---- KAGOSHIMA(2)----






軽石人形
 軽石は桜島のあるこの県の特産品であり、活火山帯にある北九州の自然の産物です。これを素材にして軽石人形は作られています。
 この人形の主役は、「田の神」と「寿だるま」で、その他に「干支(えと)物」などがあります。いずれも軽石を彫るというよりも削り込んで成形したもので、すべて自然のかたちを利用して作られています。大小はもちろんのこと、同じ形のもの二つとはないという面白さがあります。
「田の神」は、県内でも大隅半島の姶良(あいら)、曽於(そお)、肝屬(きもつき)の各郡と宮崎県の一部でしか見られない、「田のカンサア(神様)」と呼ぶ農村民俗信仰の像です。
 この軽石人形は「鹿児島ブランドショップ」にも各種が出品されています。
製作者:大迫 隆「薩摩洞」:日置郡東市来町長里
1523..TEL: 0992-74-2800

 かっては鹿児島湾沿いの帖佐(姶良町)、日木山(加治木町)、向花(むけ:国分市)。垂水(たるみず:垂水市)、そして県北部の東郷町と宮之城(みやのじょう)町の6ケ所で、伏見(京都)や佐土原(宮崎県)の流れをくむ土人形が作られていました。
 そのほとんどが、昭和の初期頃から次第にその影をひそめてしまいました。現在は、帖佐人形と、復活した垂水人形が製作されています。
 廃絶した人形には「東郷人形」「宮之城人形」がありました。
帖佐(ちょうさ)人形
 帖佐人形の「歴史」は、かなり古く、県内の人形焼の窯元の中で最初が帖佐であったといわれています。慶長の役(1597)の朝鮮出兵の帰途、島津義弘と共に渡来した陶工「金海」が、帖佐村に窯を築いて帖佐焼を始めると共に、人形の製作もしたのがこの土人形の創始とされています。
 この人形も一時とだえていたのですが、昭和47年頃、折田太刀男氏が教員生活を退職して、帖佐人形の製作を始めたもので、それが孫娘の折田貴子さんに現在継がれているものです。
 折田貴子さんは、祖父の太刀男氏が、昭和59年に亡くなる5年ほど前から、祖父の手伝いをしながら土人形作りを習いました。晩年の太刀男は病弱であったので貴子さんがほとんど製作していたそうです。
 作品は、節供物の小型が多いのですが、大型の義経などの武者物、八重垣姫など。中型・小型には、牛若丸、大石良雄、金太郎、山姥、鯛乗りえびす、など60種ほどあります。
製作者:折田貴子:姶良郡姶良町西餅田1384..TEL: 0995-65-3022

垂水(たるみず)人形
 垂水人形の創始を明らかにした資料はありませんが、明治の初期に佐土原や帖佐にならって、渡辺家が作り始めたといわれています。3代目の渡辺操さんが戦後まで作っていましたが、昭和40年頃からはあまり作らなくなってついに廃絶していました。
 その後、中村信夫さんと中島三郎さんが、復元に努めました。この二人は同姓ですが親戚関係ではありません。数名の仲間達と「夢創庵」でこの人形を製作しています。
 中村信夫氏は40年あまり教育者として過ごし、昭和62年に退職、垂水人形研究会を結成します。昔の人形が残っている家を訪ねて型をとる仕事から始め、試行錯誤の末に復元にこぎつけました。
 中島三郎さんも、小学校の校長を最後に昭和52年退職、ステンドグラスの製作を始めていましたが、その手先の器用さから、垂水人形の製作に誘われ、その後、土人形製作の技術面での第一人者として活躍されています。
 現在製作されている型は、大物では竹内宿禰(たけのうちすくね)、鯉抱き童子、浦島太郎、。中物では、内裏雛、羽子板娘、まんじゅう喰い。小物では、花嫁、鯛乗り童子、などがあります。
製作者:工房「夢創庵」(中島三郎):垂水市木城1690..TEL: 0994-32-4088
【参考リンク】
CPH・全国郷土玩具マップ鹿児島県--「薩摩洞 : 軽石人形」「工房・夢創庵:垂水人形」--

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(2000.1.9号)