ウィーンを去ったのが一九四五年の一月三〇日です。前日のウィーン・フィルの演奏会ではフランクの交響曲ニ短調とブラームスの交響曲第二番ニ長調が演奏されています。予定ではその翌日、ベルリンに戻り、ベルリン・フィルのコンサートがあったのですが、以前からいろいろな人から「ゲシュタポのブラック・リストに載っていること」や、「逮捕間近」という噂などを聞いていたのですが、この時本当に自分は危険きわまる状態にあることを認識し、翌三〇日の早朝五時の列車でウィーンを離れたのだそうです。
その日、一〇時にフルトヴェングラーのホテルに踏み込んだゲシュタポは見事空振りに終わり、危機一髪でフルトヴェングラーし難を逃れたのです。
しかし、スイス入国に際して、書類が不備であったので、国境を通過するのは一種の賭けであったようです。スイスの国境の係官は書類の不備を見抜いたようであったそうですが、フルトヴェングラーを「どうぞ」と言って通してくれたのです。それによって彼は生きながらえ、戦後の多くの名演を残してくれたのですから、この国境の係官は、二十世紀の演奏芸術の歴史に大いに功績を残したともいえるでしょう。 スイスに入国し、先に来ていた家族と再会した彼は、周囲の冷たい視線にさらされることになります。
アンセルメは、スイス・ロマンド管とフルトヴェングラーの演奏会を二月十二日にローザンヌ、十四日にジュネーヴで開いたのですが、トーンハレ管との二月二十日と二十五日のコンサートは、強い反対運動のためにキャンセルになってしまいました。したがって、二月二十三日にヴィンタートゥーア管を振ったブルックナーの交響曲第八番の演奏が戦前の最後の演奏となったのです。
そして、フランス・アルプスから名山ダン・デュ・ミディに至るアルプスの雄大な風景がレマン湖に映えて美しいこの地で彼は二年間、ナチの戦犯容疑で、演奏活動を禁止され、半引退の日々を送ることになったのです。 彼の演奏会記録を調べても、ナチの演奏会とか、占領地での演奏会は皆無です。戦車の後をついていくようなことはしたくないと言って、頑として拒否の態度を貫いたのです。
更に、ユダヤ人音楽家たちを助けようと、獅子奮迅の活躍をし、彼のおかげで助かったユダヤ人音楽家はたくさんいたそうです。更に有名なヒンデミット事件の時、公然とナチスを新聞紙上で非難し、全ての公職を辞任するということまでしているのです。
なのに、フルトヴェングラーはナチの音楽家というレッテルが貼られ、演奏活動を禁止されるという大変理不尽なこととなったのであります。それは、大変な苦難の日々だったようですが、その間に彼はこの地で交響曲第2番を仕上げます。
このホ短調交響曲の、なんとも言えない深い憂愁と悲劇性は、同じ調性で書かれたバッハの「マタイ受難曲」に通じるものがあるように思います。それは、当時置かれていた彼の八方ふさがりの絶望的な状況の反映のようにも考えられるのであります。
全四楽章の一時間半近くの大作でありますし、流麗な聞き易いメロディーやハーモニーの作品ではありませんので、誰にも勧められる音楽とは言えませんが、深い精神世界を音楽の中で表現し尽くそうというあ気概にあふれた作品であり、彼の傑作であると私は考えます。
別に、アルプスを表現したとかいう音楽ではありませんが、それは紛れもなくスイスで生まれた、二十世紀の音楽の傑作の一つであると思います。
そんな中、ユダヤ人の大バイオリニストのメニューインは、自身で調べて彼の無実を信じ、彼の戦争裁判における無実の獲得のために身を捧げたのであります。
その結果、一九四六年十二月には一旦無罪という判定がおりたのですが、もう一度横槍が入って、一九四七年の五月、その年のシーズンの最後にやっと間に合う形で、演奏活動再開のゴーサインが出たのです。
四月にはイタリアのローマでチェチーリア音楽院管弦楽団でベートーヴェンのレオノーレ序曲第二番で彼の戦後は幕を開け、五月二十五日に、やっとベルリン・フィルの指揮台に帰ってきたのです。辛酸を舐め尽くした、フルトヴェングラーの復活の日、ベルリンのティティア・パラストという映画館のホールに彼の音楽は響いたのです。彼が指揮台に出てくると、全員が立ち上がり、いつ果てるともない長い熱狂的な拍手が彼を迎えました。ベートーヴェンの「エグモント」序曲、交響曲第六番「田園」、そして交響曲第五番「運命」というオール・ベートーヴェン・プログラムであったそうです。
その日の彼の意気込み、熱い思いが伝わってくるようなプログラムであると思います。そして演奏会が終わった後も、興奮した聴衆は帰ろうとはせず、彼を指揮台に十七回も呼び戻したのであります。まさに歴史に残るコンサートで当日の録音もCDとなっています。
その後、八月十三日のザルツブルクの音楽祭でフルトヴェングラーの無実を訴えたユダヤ人ヴァイオリニストのメニューインとフルトヴェングラーは出会い、共演した後、今度はルツェルンに向かい、同地の音楽祭でベートーベンのヴァイオリン協奏曲を共演しています。
CDになっているのでご存じの方もいるでしょう。その演奏はそれこそ見事で、メニューインは今後二度と彼以外とこの曲を演奏しないと、誓ったそうです。
まあそんなことはできなかったのですが、それでも、メニューインの入魂の演奏は、今日的な意味では確かに技術的に破綻しているところもありますが、その熱い表現こそ、彼の身上であると私は考えます。
スイスに深い縁があった二人の音楽家(メニューインはモントルーからゴールデン・パスというルートでベルナー・オーバーラントへ抜ける途中の景勝地グシュタートに別荘を持っていた)が、ルツェルンをはじめとして多くの共演を重ね、名演を数多く残したことなども、スイスの文化史として決して見逃してはならない事柄であると思われます。
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