Are you being served? と、CV
Are you being served? 、こう聞かれて、ちょっと何のことかわかりませんでした。
まあ、今までにも耳にしていながら、こっちの能力不足で聞き逃していたのかも知れせんが、どうも聞き慣れない言いぐさと今回感じます。
辞書で調べたら載っていました。「serve」の意味からも分かるように、日本流の言い方に直せば、「お客様、誰かがご用件を(ご注文を)承っておりますでしょうか?」といった感じになります。直訳すれば、「もう奉仕され中ですか」でしょうが、これじゃあ日本語になりませんから(貴族の豪邸などで、執事が「お食事の用意ができました」と告げるとき、「The dinner is being served!」と言いますが)。
要するに、店内で客が所在なげに立っている、あるいは、テーブルでじっと誰かが注文を取りに来るのを待っている、そうしたところをお待たせしちゃあいけない、飛んでいって、誰かほかの係りの者がもう応対したのかどうかまず確認をしよう、というところ、まさしく「サービス精神」の現れです。
ご存じのように、店員などが来客に通常話しかけるのは、「Can I help you?」です。これも直訳すれば、「お手伝いしましょうか」になってしまいますが、それほどのものじゃなく、「いかがでしょうか」「ご用は?」「ご注文は?」といった軽い挨拶です。これはもちろん今も日常的に聞くせりふですが、「Are you being served?」のほうは、幾分珍しい部類に属します。
英国でもこのせりふが比較的目新しいものなのだろうということは、そのせりふそのままを題名にしたTVのコメディドラマが放映されていることでも推測できます(もっともこれ自体は、だいぶ前のものの再放送ですが)。当然、レストランを舞台にしたものです。
なぜ「珍しい」と感じるのかと言いますと、ものの本にも書かれていたように、この英国では、「お客様は神様」なんて絶対に考えちゃいけない、どんなところでも、客と店員、あるいは客とウェイターは対等、客は間違っても、「こっちは客なんだから、その都合にあわせろ」なんて思いこんでいてはいけない、この大原則がかつては多く当てはまったからです。店員が客をほっぽらかして、商品の整理やら金の勘定やらをやっている、甚だしくは他の店員とおしゃべりをしている、電話をかけまくっている、そんなときにも店員の「ご都合」があくまで客はじっとおとなしく待ち続けている、これが日常風景でした。あるいはレストランなどでも、誰彼構わず「注文を」なんて声をかけてもダメで、座った席に応じてウエイターの担当が分かれている、あるいは注文を取る係りと、運ぶ係りは別である、さらには食事の注文に応じる係りと飲み物の係りも別である、なんていうのも通常でした。
ですから、この「分業」と「客の都合よりこっちの都合」ルールはおのずと、「queuing(行列)」のルールと一体だったのです。長い行列になってでも、客を待たせるのも平気である以上、その客の間に「不公平」まであっては客もかなわないので、客同士のあいだの「順番」は重要きわまるルールなのです。ウェイターは、来客のあいだの注文取りの順序には常に気を配る、そのかわり、よくスーパーのレジで見られたように、商品の値段がわからないとか、クレジットカードの確認の返事が来ないとか、面倒がおきて、ひとりの客のところで作業がストップしても、係りはそれをさておいて、あとの客の方にかかることは絶対にしない、みんな動作を止め、じっと待ち続ける、こういった光景がよく見られました。
そんな「英国式」(日本人が感じるところの)が当たり前だと思っていたら、どうも今回違ってきたな、という印象です。「Are you being served?」という言い方には、ともかく理由はどうあれ、客を待たしてはいけないんだ、という精神が感じられます。担当係は誰かは二の次、That's not my business (アッシにはかかわりのないこって)なんて言っていてはいけない、あるいは、作業が止まってしまっていては店全体が混乱するから、どんどん片づけていこう、こういう流れです。実際、「Are you being served?」なんて口に出されずとも、レジでの処理が手間取っている、客の行列ができてしまっている、そういった際にはほかの作業をやっていた者などが飛んできて、他のレジを動かしてあとの客のものを処理するとか、代わって扱いにかかるとか、気がついてみると、こんな光景がよく見られるようになっているのです(そのかわり、「queuing のルール」の方もかなり怪しくなってきました。バス停なんか、もうだれも行列せず、バスが来たらわれがちに乗っています)。
そんなの日本じゃ当然過ぎるルールでしょう(あるいは、日本では失われつつあるルールかも)、と思われるでしょうが、まあ英国では目新しい光景ではあります。ともあれ、「商売」の原則とも言うべきものがやっと根付いてきたんだという解釈も可能でしょう。
英国進出日本企業にとっては、そのcustomer 客の「注文」に応じて商品やサービスを提供するlocal suppliers たちとの関係というのが、同じようなものと言えます。ですから、以前は「日本の常識」=customer first が通用しない、英国の「文化風土」に対する嘆き節をどこへ行っても聞かされました。トヨタ生産方式のJITなんていうのは、supplier が客である納品先の都合にすべてあわせるのが大前提なのですから、客の都合もこっちの都合も同じこと、客をどれだけ待たせようが、どんなに困っていようが、それはそれ、こっちにはこっちのルールと言い分あり、という「英国流」に遭ってはお手上げとなってしまうわけです。「週に一回ジャストインタイム納入」なんていうわけの分からない理解とか、「遅れたときの言い訳ばかりは立派、実に理路整然」という話とか、よく耳にしたものです。
そういったところがここ二、三年でがらっと変わってしまったのかどうか、何ともまだ判断がつきません。でも、少なくとも日常生活での印象は、明らかに意識の変化を感じさせます。
もちろん、郵便局とか、何にも変わっていないな、と感じさせるところも少なくありません。郵便局Post Officeというのは、どこの町にもある代わり、客がいようがいまいが休み時間になればさっと窓口を閉めてしまう、いつも長蛇の行列で、ひとりの客にかかっていくらでも待たせる、それでいてものの言い様が実に横柄かつ不明瞭、愛想の一つもない、これがどこへ行っても特徴です。それには昔も今も、現地人=British も怒っています。郵便局で怒っているのは、年金受け取りなどで一般に利用することの多い老人ですから、大昔は英国でも、「お客様第一」といったサービス精神があったのかも知れません。
英国の社会に意識の変化が起こっているとすれば、それはまた、一種の「日本化」Japanization現象とも感じられますし、あるいはそれに関連して、「教育熱」であるとも思われます。その辺は機会を改めて取り上げたいのですが、少なくとも言葉としてもう一つ面白いのが、「CV」です。
SBRC所長のロバートが「My CV!」と言ったとき、はじめは何のことかわかりませんでした。curriculum vitae と言いなおされて、わかりました。日本で言えば「履歴書」のことです。これもまた、以前から使われている略語で、辞書にも載っていますが、ロバートが「CV の書き方の見本だ」なんて言いながら皆に自分ののコピーを配っていたり、また書店には「成功するCVの書き方abc」なんていう題のハウツーものの本が並んでいたりするので、ともかくCVをちゃんと書く、持ち歩くといったことが重要な意味を持ってきているのでしょう。
「履歴書」が表舞台に出てくるのは、日本でも学生諸君が就職活動に苦労するのと同じことで、「就職」が重要である、そういう社会の状況を示しています。でも、元来「終身雇用」ではないこの国では、みんなクビになりそうで青くなっているからというより、むしろ「履歴書出せば職にありつけそう」という上向き状況を象徴していると言えましょう。もちろん今だって、学生など職に就くのは決して容易ではないのですが、一頃のようにともかく職がない、見通しない、お先真っ暗という状況ならば、「成功する履歴書の書き方」もあったものじゃなく、みんなお手上げだったでしょう。今は、英国経済のここのところの好調を反映して、人手不足気味である、賃金は上昇傾向である、となりますと、就職活動で「成功を収める可能性」も十分あるわけです。
そこで、「いいCVの書き方」も重要なノーハウとなりましょう。もちろんそれと、その中身としての「学歴」や「職歴」「資格」などが大いにかかわっているのは当然の話しです。curriculum vitae を、数々の輝かしい経歴と言葉で飾らなくちゃいけません。ともかく、今の英国では、幼児から青年まで、以前には想像もできなかったほど、「教育熱」が高まっていると感じさせます。かつては「先進国にあっては例外的なほど」教育への関心が低く、進学率の低いのが英国社会の特徴でした(英国のほんの一部の「エリート教育」を見て、「すばらしい!」とか感動していたのが、おめでたい日本の「学者」や「知識人」たちでした)。でも、今は違います。「経済学的に言えば」、「教育への投資」が報われる可能性が高まってきた、それが今日であり、そこに「CVの価値」も上がってきているのではないでしょうか。
こうした英国社会の最近の変化を、「メガコンペティション」「フレキシブル化」「脱労働組合主義」「脱福祉国家」「平等社会から競争社会へ」「working class culture からenterprise cultureへ」、さらには「日本化」「欧州化」など、さまざまなキーワードで安直に語るのは、もちろん早計に過ぎ、危険でもあります。でも、評価はどうあれ、注目すべき変化が急速に生じているという印象は否定できません。そして、サッチャーリズムからメージャー政治、今日の労働党ブレア政権と「第三の道」「cool Britannia!」といった一連の「文化的・社会的組み替えdeconstruction」の流れ、このような現実に対し、やはり正面から考えていくべき課題は大きそうです。
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