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10/12
4章完了。まだ半分にも到達していないが、全体の構想がようやく見えてきたので、気分的には折り返し点を通過したという感じがする。この作品は書き始めた当初は一カ月で草稿が書けるのではないかと考えていたが、それは楽観的にすぎる見通しだった。軽い文体で書くということを前提にしていたのだが、ある程度、神秘的な奥行きを必要とするので、短い文体ではあるが軽くならないように書く必要が出てきた。神話の構造そのものを事前に準備しておく必要があるので、かなり時間がかかった。
並行して掲示している「業務日誌」は、仕事関係の業務報告で、人と会ったり、どこかに出かけたりしたことを、項目だけを書くようにしている。日記的な部分は、この「創作ノート」に書くことになるのだが、ここ一カ月の間、進行中の作業のことしか書いていない。考えたことや、感じたことが、まったくなかったわけではないが、このノートに書くほどのことは考えなかった。この一カ月といえば、ニューヨークの貿易センタービルにテロの飛行機が突入してからの一カ月ということになる。その間、書くべきほどのことを考えなかったというのは、作家としては怠慢かもしれない。
まあ、多少、考えることはあった。ひどいテロであることは確かだが、弱者には必ず言い分があるから、アメリカの報復攻撃は、大統領が言うような「正義の闘い」ではない。暴力に対して、暴力で応じるということにすぎない。大統領はまた、「これは戦争だ」と言ったけれども、わたしは、戦争というものは利権が絡んだ集団的な暴力の行使だと考えているので、テロは戦争ではないと思う。原理主義の側には、利権がないからだ。
確かに同時多発テロによって、航空会社や保険会社の株が下がるとか、ドルが下がるとか、経済の動きがあり、テロを企てた側に資金があれば、多少のインサイダー取引が可能だろうが、それは利権というほどのものではない。利権といえば、アメリカのイスラム圏支配によって、アメリカやユダヤ資本は利権を得ている。これは「経済戦争」とでもいうべきものだ。これに対して、イスラム圏は、せいぜいオペック会議を開いて原油の生産調整を図り、原油の価格を維持することくらいしか、対抗手段をもたない。しかも原油の値上がりで利得を得るのは、イスラム圏の王族にすぎない。
イスラム圏の民衆は、「経済戦争」によって、一方的に負け続けるしかない。これに対抗するための絶望的な、ほとんど自殺に近い攻撃が、今回のテロとなって現れたのだろう。「経済戦争」は「正義の闘い」ではない。ルールを決めたゲームという意味では、そのルールに従っている限りは「正当な闘い」ではあるが、そのルールを認めないというのが「原理主義」の立場だから、どちらに正当性があるとはいえない。無実の人を殺してはならない、というのは、一般的な原理ではあるが、イスラム原理主義の立場からすれば、アメリカ資本がしかけた経済戦争は、すでに多くの無実の民衆を殺しているということになるのだろう。
以上のことは、わたしにとっての「原理」だから、「考えた」ことにはならない。わたし自身が、アメリカと軍事同盟を結んでいる日本という国で暮らし、経済戦争にも加担することによってある程度の経済的繁栄があり(バブルははじけたが、それでも産業基盤の基礎力は残っている)、その繁栄と平和の中で、本を書き、その本を読者に買っていただくことで生活を営んでいるわけだから、わたし自身も経済戦争に加担していることになる。つまり、アメリカ側の人間だということになる。
で、アメリカの報復攻撃は、正義の闘いではなく、経済戦争の利権を軍事的な力で支えようというものだから、邪悪とはいえないが、正義とはとてもいえない、要するに経済戦争の延長上にある軍事行使というふうにとらえている。逆に、アメリカを悪と決めつけたり、平和憲法をたてに軍事協力を批判する社会党のような勢力に対しては、口先だけの無責任な論理だと感じる。アメリカの闘いは、正義ではないが、邪悪なものではない。経済戦争によって、発展途上国の民衆が飢え死にする、という「平和」な時代の侵略を、目に見える侵略に置き換えたものにすぎない。
ただし、これは経済的な侵略ではない。ベトナム戦争には、まだ利権が絡んでいたが、アフガニスタンを攻撃することには、アメリカ側にも利権はない。貧者の暴動を警察が鎮圧するようなものだ。暴動を鎮圧しても、警察が儲かるわけではない。警察だから、しようがなくて仕事をしているのだ。ただ今回のテロで、経済戦争というゲームの正当性に意義を唱える人々がいるということは明らかになったし、そういう人々がハイジャックをしたり、細菌をばらまいたり、命がけの反抗を示した場合に、経済戦争の「勝ち組」の人々には、なすすべがないということも明らかになった。例えば、狂牛病のプリオンを羊腸ソーセージにまぜて売る、といったテロが起こったとして、われわれは防ぐことができないし、そんな事件が起これば、もはや何も食べられなくなって、われわれは飢え死にするしかなくなってしまう。結局のところ、「経済戦争」を正当なルールのゲームだと一方的に決めつけ、何の痛みもなく勝ち続けるということが、許されない、ということが、明らかになったと考えるべきだろう。
というふうに、考え始めればいろいろなことが考えられるが、それは頭の中で論理が空転しているだけで、説得力のある有効な論理とはなりえない。だからまあ、なるべき考えないようにしている。わたしが当面、やらなければならないことは、いまの仕事を続けることだ。いまは、崇神天皇の主人公とした神話的なファンタジーを書いている。その神話的な世界について考えなければならないことはたくさんあるから、仕事に集中したいと思っていた。
4章まで書いたところで、ふと、自分は何をやっているのだろう、ということを考えた。わたしは時おり、そういうことを考える。時々に、自分というものについて、「原理的に」考える。わたしが仕事をするというのは、職業だからであり、とくに今年は大学の先生をやっていないので、これしか仕事がないということもある。つまり生活のための仕事であり、これでお金を稼がないといけないということだが、でも、あまり売れそうもない神話的ファンタジーを書くことには、これを書きたいという意志が働いているはずだ。
神話を書きたい。そう思っている。神話とは何か。それは神の暴力を、理解可能な物語に変換する作業だ。神というものは、要するに、自然そのものといっていいが、自然は暴力的であり、理不尽であり、不条理なものだ。ここで不条理という意味は、例えば地震や台風で死者や被害者が出た場合、誰が被害者となり、誰が被害をまぬかれるかという選択に、条理が働かないということだ。もっとわかりやすくいえば、正しい人が難をのがり、邪悪な人だけが被害を受けるわけではなく、天災は平等に、誰にも襲いかかるということだ。正しい人、努力する人に、むくいはない。だとすると、何のために正しく生きるのか、という疑問が生じる。
神話というのは、理不尽な神の暴力を、わかりやすい物語に変換する。わかりやすい物語がないと、人間は安心して生きていくことができない。現代は、神話のない時代である。だから、人々は不安になり、生き甲斐を失い、努力することに空しさを感じている。こういう時代に、新しい神話を提示したいというのが、わたしの構想である。で、自画自賛的になるが、この作業の方が、同時多発テロについて考えることよりも、より重要であるという判断があるから、仕事に集中しているということになるだろう。これはお金を稼ぐといった次元の問題ではなく、わたしなりに、書くことに生き甲斐を感じていたいというモチーフがあるからだろうと思う。
突然、話はかわるが、いま、長男が一時帰国している。『ウェスカの結婚式』を読んでいただいた方には、事情はわかっていただけたと思う。まだ読んでいただいてない読者には、『いちご同盟』の主人公となった長男、というふうに受け止めていただきたい。ピアノを勉強していて、ブリュッセルの王立音楽院を、この9月に卒業した。で、帰国したのだが、これからは奥さんの実家のあるウェスカで暮らすことになるので、一週間ほどの滞在で、スペインに帰ってしまう。
今度いつ会えるかわからないので、この一週間は長男につきあってやろうと思った。ちょうど、筑波の研究所に勤務している次男も、休暇をとって帰ってきたので、何年ぶりかで、家族4人で毎日をすごしている。ふだん、老夫婦と犬一匹の静かな生活を送っているわれわれにとっては、にぎやかだけれどもけっこう疲れる日々が続いている。でも、仕事はちゃんとやっている。作家になった時、すでに子供は二人とも生まれていた。子育てをしながら、仕事を続けてきたので、いまの妻と二人きりの生活の方が異常事態とも感じられるのだが、しかし去年の春に次男が就職してから、すでに一年半の年月が流れているので、妻と二人きりの生活に体が慣れている。だから、親しい子供たちとはいえ、いくぶんかは緊張感があって、楽しいといえば楽しいのだが、疲れるといえば疲れる。まあ、一週間だけだから、楽しくやりたいと思っている。
また話題は変わるが、数日前、小田急の高架工事に対して、認可取り消しの判決が出た。わたしはこの高架工事に関して、反対闘争に、名前だけだが参加している。名前だけの参加というのは、抗議文みたいなものを出す時には、名前を出していいということにしているだけで、積極的な参加しているわけではない。それでも、抗議集会に何度が出たし、反対闘争の通信に原稿を書いたこともある。まあ、とにかく反対である。だから、この結果は当然だと考えるが、すでに工事の大半は完成しているので、この先が大変だろうと思う。
新聞の論調を見ると、住民に騒音被害が出ることは認めながらも、工事の早期完成を求める通勤客の意見を載せるなど、工事の必要性を認めるような感じになっているが、これは間違ったとらえ方だ。小田急の複々線化は必要だし、一刻も早く実現すべきであることは当然だが、それなら最初から、用地買収の必要のない、地下トンネル化を進めるべきだったのだ。小田急が高架工事を強行したのは、高架にしなければならない理由があったからだ。
経堂駅の高層ビル建設を含む駅前再開発事業と、下北沢に6階建ての細長い商業ビルを建てて、その屋上に電車を走らせるという構想である。下北沢の方は、のちにバブルがはじけたために中止となり、小田急の方が地下化に変更してしまった。つまり、地下化というのはやろうと思えばできたのである。それを、商業ビル建設による各種の利権を求めて、高架化にこだわり、地下化については、その費用の概算を出すといったこともやっていなかった。この点を裁判官が認めて、認可取り消しという事態になったのである。
小田急は、私鉄としては路線が長く、特急、急行の割合が多い鉄道である。ノンストップの特急、急行が深夜まで頻繁に、高速で走行する。いまでも基準を上回る騒音を発しているのだが、これが高架の複々線になれば、もっとひどい事態になるだろう。この騒音被害を、沿線住民に一方的に押しつけ、商業ビル建設による利得を得るということは、許されないことである。東京都や世田谷区も、この商業ビルのプランに関わっているので、小田急だけがわるいわけではない。要するに、住民を無視した事業計画が否定されたわけで、役人も猛省すべきだ。
これからどうなるのかというと、高架工事は大半ができてしまっている。これを壊すと、もっと大きな騒音被害が、短期的には出るかもしれない。しかしこれから半永久的に高架を電車が走ることを考えれば、このまま電車を走らせることは、許されないと思う。で、これは反対闘争の人々の考えとも違うのだが、わたしだけの案をここに書いておく。
高架工事は完成させるしかない。しかし、特急急行の本数増加は認めない。速度制限も実施する。速度を抑えれば、騒音は大幅に軽減されるからだ。特急も急行も、高架区間は徐行するしかない。これでは輸送力強化にはならない。そこで、あらたに特急、急行専用のトンネルを掘る。駅を作る必要はないから、小さなトンネルでいいし、深いところを一直線に掘ればいい。現在のシールド工法なら簡単にできることである。深いところに駅を作ると、大変な費用がかかるが、トンネルを掘るだけなら、それほどの費用はかからない。それでも、運賃にはねかえらないように、トンネル掘削の費用は東京都が出せばいいだろう。過った認可を出したペナルディーだと考えればいい。これは税金から出すことになるが、沿線住民は都民であり、都民の騒音被害をなくすためだから、仕方がない。認可を出したのは、現在の石原都知事の責任ではないから、これで知事の立場がわるくなることはない。
で、地上の高架部分は、各駅停車だけがとろとろと走る。必要なら、ゴムタイヤの列車とか、騒音の少ない電車を走らせてもいいが、各駅停車だから、ゆっくり走ればいいのだ。特急、急行が地下を走れば、高架を走る本数が減るし、急行に追い越されるための通過待ちの停車時間がなくなるから、速度を下げても、終点までの時間はそれほど変わらないだろう。複々線の高架ができているから、幅にゆとりがある。両側に木を植えるなりしてもいいだろう。以上が、わたしの解決策である。
さて、長男ももうすぐ帰るので、自分の仕事に集中したいと思う。
10/15
本日、長男がスペインに帰っていった。成田まで送っていった。いつもは午前中の便なので妻が送っていくのだが、今回はブリュッセルではなくウェスカまで帰るので、バルセロナに早く着く必要があり、成田の最終便に乗ることになった。で、妻の運転だが、こちらも同乗して、成田でビールなど飲み、別れを惜しんだ。自宅に帰ってくると、突然、胸が痛くなるような寂寥感を覚えた。今回は、次男も休暇をとってしばらく自宅に戻っていたので、実に久しぶりに、家族4人で行動した。こういうことは、今場は二度とないかもしれない。
5章完成。10章の予定なので、これで半分。一カ月半もかかったが、ここから先はもっと早く書けると思うし、続編も一気に書けると思う。ようやく、作品の世界が見えてきた。ピッチを上げたい。
10/27
現在、7章の半ば。全体が10章だから、75パーセントのところまで来た。長い道のりだったがここまで来るとゴールが見えてくる。ただし、エンディングに近づくにつれて、さらに高い山場を作っていかないといけない。ここまでも、山場はたっぷりあったので、これ以上、盛り上がるのかなという気もするのだが、ここからパワーを発揮しないといけない。
主人公は丹波と吉備津を過ぎて、出雲に向かっている。丹波では、台詞のやりとりだけで問題を解決することになった。ここまで、動きのあるスペクタクルが多かったので、たまにはロジックの勝負をさせたい。吉備津では一転して、大スペクタクルとなる。ここには桃太郎伝説のもととなった吉備津彦の活躍があるのだが、犬、猿、キジなどが出てくると読者は笑ってしまうので、野の獣の霊、森の獣の霊、山の獣の霊、といった表現で登場させた。
出雲では、オオクニヌシと対決することになる。三十二丈の大神殿が出てくることになるだろう。最近、神殿の柱の跡が発見され、十六丈(48メートル)はあったということがはっきりしてきた神殿だが、わたしの作品は神話なので、さらに倍増した。三十二丈あったという伝説は残っている。
話はかわるが、本日、小田急高架反対闘争の会に出て挨拶してきた。このノートの少し前に、特急急行用のトンネルを新たに掘り、現在完成しつつある複線の高架は各駅停車だけ走らせるということにしてはどうかということを書いたのだが、力石定一氏の案では、高架の部分に緑道をつくることになっていて、わたしはなかなかいいプランだと思った。見晴らしがいい緑道というのは、世田谷の名物になるのではないかと思う。
さて、ゴールが見えてきた。がんばりたい。
