西上総の鎌倉街道下新田・立野ルート
|
|
西上総の鎌倉街道下新田・立野ルート1
|
地図はこちら |
|
上総の鎌倉街道の中でも一番知られているルートが、袖ヶ浦市下新田から市原市立野に伝わる鎌倉街道です。このルートは木更津市の示道標のページで触れた郷土研究家の小熊吉蔵氏が、示道標を手がかりに地名からルートを探り当てられたものでした。
このルートは小櫃川の低地の北側に東西に延びる台地上を通るもので、約10キロメートルにも及びその一部は袖ヶ浦市と市原市の境界になっています。市境界意外でもほとんどが字名の境界線となっていて、更に中世古道や古代道の特徴である直線的な道なのです。 このルート周辺には次の鎌倉街道に関連した地名が伝わっています。袖ヶ浦市野田字鎌倉街道、袖ヶ浦市蔵波字鎌倉街道、袖ヶ浦市川原井字鎌倉通、市原市中高根字大街道、市原市立野字鎌倉街道、約10キロメートルの間にこれだけの鎌倉街道を伝える地名があるのです。 上記の地名が果たしてどれほど古い時代から使用されていたのか、その詳細はわかりませんが、鎌倉街道という言葉が使われ始めたのは江戸時代になってからと言われていますので、おそらく遡っても江戸時代中期以降と思われます。 小熊吉蔵氏が踏査されていた昭和初期頃では、このルートの道幅は4〜5間(7〜9メートル)で道の両端には土手が築かれていたところもあったと伝えています。土手上には桜の樹齢数百年にも及ぶものもあったといいますから、土手がかなり古い時代の築造であったとも考えられるわけです。そして現在は残念なことに、このルート上には土手らしき跡はどこにも見られず、また道もほとんど100パーセントが舗装されたものとなってしまっています。 |
関東平野には幾つもの鎌倉街道が通りそれぞれに案内書やガイドブックなどが書かれていますが、ここ房総の鎌倉街道を案内した本は一般的な本屋さんなどには全く無く、房総に鎌倉街道が在ること自体を知らない人が多いのではないかと思われます。しかしながらご紹介する下新田・立野ルートは千葉県では唯一、「歴史の道百選」にも選ばれている街道なのです。それならばその道はどんなに素晴らしい古道かと初めての人は興味をそそられます。左の写真は袖ヶ浦公園近くのバス通りから鎌倉街道の通る台地に登る坂の道端に立っている石仏です。 | ||
袖ヶ浦市下新田の台地に登る道端の石仏
|
鎌倉街道の下新田には右の写真の八幡神社があります。八幡神社を繋げれば鎌倉街道と言われるように、房総の鎌倉街道沿いにもやはり八幡神社が多いようです。下新田の八幡神社の祭神は誉田別命とあり、神社の創建の年代は不明のようです。拝殿前の石灯篭は正徳元年(1711)に寄進されたものといいます。この神社近くに白羽(しらげ)と呼ばれる地名があり、源頼朝軍の道案内を白鳥が努めたことから付けられた地名と伝えられているようです。また一説にはこの八幡神社の御神体は白馬にまたがる頼朝だといわれているようです。 |
下新田の八幡神社 |
|
|
三ツ作の台地上を東西に通る伝鎌倉街道 |
鎌倉街道下新田・立野ルート沿いには源頼朝に関連した伝承が多く残っているようです。下新田の西に飯富というところがあり、そこにある飽富(あきとみ)神社は延喜式にみられる飫富神社と考えられていて、またその付近は古代の藤潴駅の想定されているところです。飽富神社の北東の蔵波から、更に南西の木更津市大寺にかけて直線的な古道ルートが存在します。この古道ルート上に白幡という地名があり、付近には頼朝が必勝祈願したという八幡神社や、村人が頼朝軍にご飯類を入れる篭を差し出したと伝える飯篭塚(えごづか)などがあります。 | |
|
上の写真のところから、左の写真の付近までは直線的な舗装路が続きますが、車の往来は多くはありません。道沿いには畑と樹林帯があるだけなので、のんびりとした古道散策ができます。右の写真付近は平成3年に発掘調査が行われた「七人堀込遺跡」の辺りです。北の長浦方面から来る道と交差している信号があります。写真手前の道の北側雑木の中に野田八幡塚と呼ばれる塚があり、これも房総半島を北上する頼朝が休憩したところと伝えています。 | ||
伝鎌倉街道の七人堀込遺跡付近
|
ところで上総の鎌倉街道下新田・立野ルート上では近年発掘調査が相次いで行われています。西側から袖ヶ浦市下新田の「境遺跡」、袖ヶ浦市野田の「七人堀込遺跡」、袖ヶ浦市野田と大曽根の境界の「山谷遺跡」、市原市天羽田と袖ヶ浦市上泉の境界の「天羽田稲荷山遺跡」、市原市風戸の「外迎山遺跡」などが上げられます。
袖ヶ浦市下新田の境遺跡の発掘調査行では、伝鎌倉街道と方行が一致する溝状の遺構が発見されているそうですが鎌倉街道に関連する遺構なのかはわかっていないようです。 七人堀込遺跡袖ヶ浦市野田字七人堀込にあり、平成3年(1991)に「君津郡市文化財センター」により発掘調査が行われています。私道の拡幅工事に伴い、拡幅部分のみの発掘でその結果柱穴列1条、ピット郡2ヶ所、土坑4基、溝状遺構23条、道路遺構8条、水田状遺構1ヶ所、硬化面遺構1ヶ所が検出されていて、平安時代後期と江戸時代後期の遺物が発見されています。遺跡の報告書には古代に遡る道路跡と考えられる内容のものが書かれていて、道路幅は11.5m〜11.8m、溝間心々距離12.7m〜13.1mを想定されているようです。 鎌倉街道下新田・立野ルートは須田勉氏などの説から古東海道の可能性が指摘されています。この発掘でも幅10メートルを超える道路跡と報告されていることから、古東海道説を裏付けるような報告ではありますが、遺跡の時期が10世紀後半と見られていて、その時代の古代道はほとんどが幅6メートル前後であることから本遺構は古代道路遺構としては例外的なことになると報告書には書かれています。また緩やかに曲線を描くように南西方向に曲がっていることなどからも古代道として考えるには問題があるとしています。 |
伝鎌倉街道の山谷遺跡付近 |
七人堀込遺跡地付近の交差点信号を渡り緩く南にカーブしながら坂道を上り詰めると、そこは高架橋の橋になっています。この橋の名前は「鎌倉街道橋」とあり橋の下には館山自動車道が通っています。
そしてこの橋のところが高速道路建設前に発掘調査が実施された「山谷遺跡」なのです。 |
|
|
山谷遺跡
遺跡の位置と歴史的環境 この遺跡が所在する野田及び大曽根地区に直接関連した中世文献史料は確認されていないもようです。平安時代中期の小櫃川流域は、中〜下流域が上総国望陀郡(もうだぐん)、中〜上流域が上総国畔蒜郡(あびるぐん)と呼ばれていたことが『和名類従抄』にあり、遺跡の西方約3キロメートルには上総国延喜式内社五社の一つの飽富神社(飫富神社)があります。 鎌倉時代に望陀郡には近衛家管生庄、得宗家飫富庄、国衙領金田保が、畔蒜郡では全域が熊野山領畔蒜郡庄として成立していて、遺跡の位置は飽富神社を中心とする飫富庄の東南域、加津庄の北西域に当たると見られています。小櫃川沖積地は地理的にも鎌倉・三浦半島に近く中世前期には鎌倉幕府や鎌倉府権力と密接な結びつきをもつ金沢称名寺や円覚寺等の荘園であったもようです。 戦国時代に入ると上杉禅秀の乱、永享の乱等を通じ、鎌倉の求心性がなくなり、この地域は政治的に空白状況となり、その間を突いて真里谷武田氏が小櫃川流域から西上総地方を短期間に領有し、この段階で鎌倉と上総・安房で長い間続いた政治・経済・文化などの密接な関係は薄れていったといいます。真里谷武田氏は16世紀前葉には一族間の内乱や天文7年(1538)の第一次国府台合戦以降に衰亡し、替わって南から里見氏、北から後北条氏がこの地域に進出して両勢力の境界にこの地は位置することになりました。 山谷遺跡の調査結果 道路遺構
道路の構造は断面逆台形の堀状に堀込まれていて底面を道路面としていました。上幅は最大で10.6メートル、最小で4.5メートル深さは周囲よりも0.6〜1メートル低く堀込まれていました。道路両側には側溝があり側溝心々距離は2.7〜4.5メートルで道路面幅は1.6〜3.1メートルでした。側溝幅及び道幅は場所によってかなりの違いがあり特に遺跡の東端部では北側から入り込む小支谷を避けるように急に狭くなっているようです。全体として128メートルの区間内では直線道ではなく緩やかに蛇行しています。また道路面には幅1.1メートルの轍の痕跡が確認され車も通っていたことが窺われると報告書にはあります。 道路側溝外壁にはピット列が堀こまれていて(特に南側側溝西半分)、また並木状植裁痕列なども確認されています。中央部の南側側溝内に井戸跡が検出されていて排水水溜の機能も持っていたと考えられているようです。側溝内からは中世遺物が多く出土していて、大部分が覆土上層部でしかも宝永4年(1707)の富士山火山灰層の下からのものだということです。古代に遡る遺物はなかったもようです。 以上の結果から想定すると側溝幅や道幅、そして側溝出土遺物から考えて古代官道を踏襲している可能性は低いと報告書に記されています。道路の開通時期については調査資料からは決定することはできないが、おそらく道両脇の集落域から出土した遺物から14世紀には確実に使用されていたようです。道そのものは現在まで継続しているわけですが、側溝が埋没した後も中世遺物が流入していて側溝の維持管理は15世紀代までであったと考えられていて、中世鎌倉街道として機能していたのはこの時代までということのようです。 生活関連遺構 道路の北側の集落域では、道路に対して直交ないし並行する小道、溝、ピット列が確認でき、道路に規制される区画域であったもようです。それに対して南側は溝の方向など道路に規制されていないようです。 北側の集落跡は道路に沿って90メートル以上あるが、奥行きは15メートルほどしかなく、道路に沿う細長い展開をしているということです。また北側の建物跡では前後に空間が見られるようです。 遺跡の集落域は中世のものとしては大規模であるが、井戸跡は極めて少ないこともこの遺跡の特徴だそうです。 これらの結果から集落跡は東西方向の道路に平行する道沿いの集落跡であることは明らかで、出土遺物などから時代的には13世紀後半から15世紀後半のもので、道路の使用されていた時代と一致することが確認されているようです。問題としてはここで検出された集落遺構から、その集落がどのよな性格の集落跡なのかということのようです。建物跡の遺構の規模が広範囲のわりには掘立柱建物に復元できるものは少なく、建物跡は簡易的な小屋程度が想定され、集落は非日常的空間で街道沿いの「市」と考える説が有力のようです。ただ出土遺物が長期にわたる生活感が見られ、或いは屋敷跡とする説もあるようです。 葬送関連遺構 墓域の存在時期は、そこからの検出遺物が少ないためハッキリしていないようですが、大方は集落域と同年代が考えられているようです。また一部の土坑墓からは、宝永テフラ(富士山宝永年の火山灰)が確認でき近世前半までは墓域であったと見られているようです。
山谷遺跡の説明としてまとめてみると、道路跡、集落跡、墓跡と、これらは鎌倉時代から室町時代半ば迄が全盛期で道と集落が同じ時代に存在し廃絶時期も同時期と考えられていて、この遺跡は正に中世そのものの遺跡と捉えることができそうです。道路と集落の廃絶が15世紀後葉と見られると、東国武士の都である鎌倉が歴史の表舞台から外れて行った時期で、山谷遺跡は正に鎌倉街道とともに繁栄し衰退して行ったと考えられるわけです。そしてこの遺跡で問題とされるのは集落跡がどのような性格のものであったのかということのようです。果たして「市」なのか「宿」なのか、またはもう少し本格的な生活空間であったのか。その答えは今後の研究で明らかになって行くのでしょう。 最後に出土遺物として、中国磁器・瀬戸窯・常滑窯・カワラケなどがあり、中でも常滑産コネ鉢の量は県内では最も多く、使用痕跡などの生活感の資料も良好であるそうです。これらの遺物は中世の物流が活発であったことを裏付けるものでもあります。そして山谷遺跡を東西に結ぶ道が果たして古代まで遡るものなのかは、現在の段階では古東海道の可能性は極めて少ないと思われますが、伝路の可能性は残されているもようです。 |
数々の鎌倉街道の資料が発見された山谷遺跡ではありましたが、遺跡発掘後は予定どおりの館山自動車道が通過することになりました。そして現在では高速道路の上を跨るコンクリートの橋が道を繋いでいるだけでした。ただ唯一、橋には「鎌倉街道橋」と名前が刻まれているのみです。ここが山谷遺跡のあったところと示すものは何もなく、「歴史の道百選」に選ばれている上総の鎌倉街道は相変わらず、どこにでもあるような、ただの舗装路なのでありました。 | ||
伝鎌倉街道の山谷遺跡付近から東側を撮影
|
西上総の鎌倉街道下新田・立野ルート・・・・・ 次へ 1. 2. 3. 4.
|
|
|
西上総表紙 |
|
|