文芸俳句小林一茶・選集

                                  小林一茶・選集              


    
  wpe4F.jpg (12230 バイト)     touge.13.jpg (1193 バイト)           
                                                    参考文献: ひねくれ一茶/田辺聖子/講談社文庫・・・他

  トップページHot SpotMenu最新のアップロード/                         選者: 星野 支折

  INDEX                                   wpe50.jpg (22333 バイト)    

プロローグ   = 選者の言葉 =  (1) 一茶の句の選集に当たって 2010.11.18
No.1   寝た犬にふわとかぶさる一葉かな 2010.11.18
No.2   猫の子のちょいとおさえる木の葉かな 2010.11.18
No.   団栗とはねつくらする子猫かな 2010.11.18
No.4   蝶とぶや狐の穴も明るくて 2010.11.18

  

選者の言葉   = 選者の言葉 = (2) 行脚・俳諧師/一茶 2010.12. 3
No.5   やれ打つな蠅が手をすり足をする 2010.12. 3
No.6   今日からは日本の雁ぞ楽に寝よ 2010.12. 3
No.7   梅が香やどなたが来ても欠け茶碗 2010.12. 3
No.8   元旦や我のみならぬ巣なし鳥 2010.12. 3

 

選者の言葉   = 選者の言葉 = (3) 一茶/江戸ぐらし 2010.12.18
No.9   椋鳥と人に呼ばるる寒さかな    2010.12.18
No.10   むさしのや涼む草さえ主があり 2010.12.18
No.11   人は旅 日は朝ぼらけ 草の露 2010.12.18
No.12   擂粉木で蠅を追いけりとろろ汁 2010.12.18

    

選者の言葉   = 選者の言葉 = (4) 一茶/海と船旅 2010.12.29
No.13   海見えて一汗入る木陰かな 2010.12.29
No.14   利根川は寝ても見ゆるぞ夏木立 2010.12.29
No.15   暑き夜の荷と荷の間に寝たりけり            2010.12.29
No.16   たばこの粉扇で掃いておきにけり 2010.12.29

 

選者の言葉   = 選者の言葉 = (5) 一茶/旅空の下 2011. 1. 7
No.17   大根引き大根で道を教へけり   2011. 1. 7
No.18   有明や浅間の霧が膳を這ふ 2011. 1. 7
No.19   木曽山へ流れ込みけり天の川 2011. 1. 7
No.20   づぶ濡れの大名を見る炬燵かな 2011. 1. 7

 

選者の言葉   = 選者の言葉 = (6) 一茶/小さきものへの視線   2011. 1.18
No.21   雀の子そこのけそこのけお馬が通る 2011. 1.18
No.22   鳴く猫に赤ん目をして手まりかな 2011. 1.18
No.23   蟻の道 雲の峰よりつづきけん 2011. 1.18
No.24   悠然として山を見る蛙かな 2011. 1.18

 

選者の言葉   = 選者の言葉 = (7) 一茶/心が静まる時   2011. 1.29
No.25   しづかさや湖水の底の雲の峰 2011. 1.29
No.26   秋の夜や旅の男の針仕事 2011. 1.29
No.27   通し給へ蚊蠅の如き僧一人 2011. 1.29
No.28   蝶とぶや此世に望みないやうに 2011. 1.29

 

    プロローグ     

          wpe4F.jpg (12230 バイト) wpe82.jpg (27870 バイト)

選者の言葉 (1) 一茶の句の選集に当たって

      

星野支折です!久しぶりに、文芸のお仕事です!

  このたび、小林一茶(1763〜1828年)俳句を、選集/考察することになりまし

た。小林一茶は、江戸時代を代表する、俳諧師の一人です。松尾芭蕉(1644〜

1694年)から、およそ100年ほど後の人です...」

 

小林一茶(/本名は弥太郎)は...

  信濃北部/北国街道/柏原宿(現在の長野県上水内郡信濃町大字柏原)の、貧農の長

男として生を受けました。3歳の時に生母を失い、8歳で継母を迎えます。でも、

継母に馴染めず、15歳の時に、江戸へ奉公に出ます。

  江戸には、近在で江戸へ出て働いている人々のツテ(縁故、てづる)があり、故郷

との交流も、人を介して頻繁にあったようです。また、江戸での同郷のつながり

や、助け合いもあり、そうした中で生きていく道を選んだようです。人生の門出は、

現在江戸時代も、基本的に変わりはないようですね...

  一茶は...江戸で、薪を割る仕事や車を引く仕事やらの、荒奉公を始めます。

しかし、そのうち、俳諧の趣味をかわれて、その方面へ足を踏み入れて行ったよ

うです。そして、25歳の時、二六庵・小林竹阿に師事して、本格的俳諧を学ん

だようです。

  このページでは...一茶に関する歴史的事実や、背景の考察よりも、一茶

優れた俳句を選集し、独自の視点から、考察したいと思っています...

  あ、それから...当時江戸社会というものも、非常に興味深くもあり、その

方面も、現在と比較して考察して行きます...どうぞ、ご期待下さい!」

 

「ちなみに...

  ボス(岡田)は...ご存じのように、“一風”という俳号を持っています。これは、

“一茶”から一文字を拝借したものだと、言っていました。実は、ボスが子供時代

を過ごした、新潟県/杉野沢村は、信濃北部/柏原とは、県境の谷川を挟んで、

すぐ隣でした。

  もっとも...そうかといって、ボスはこれまで、一茶に憧れたわけでもなく、た

だ、地理的に近かったというだけの関係です。ボスが時折つくる句も、一茶

細な視点の俳句とは程遠く...


       ≪ 林冠の 深き浄土に 風光る  ≫

       ≪ 芋恋し 秋沈み行く 閻浮提(えんぶだい) ≫

              ≪ 今深し 水辺の秋の 天と地と  ≫

                                       ・・・・・<詳しくは、こちらへどうぞ>  

  ...というような...禅的境涯をスケッチしたもので、まるで異質なものです。

私としては...もちろん、ボスの句は好きなのですが、一茶の句も、本当に気に

入っています。

  一茶の句は、“理屈ではない”と言います。理屈ではないものが、口をついて

出て来るようです。でも...どうしてあのような...繊細優しい句が、流れるよ

うに口の端に上って来るのでしょうか...?...不思議です。

  では...その一茶の屈折した生涯と...“小さき者への優しさの真髄”を、見

て行きましょうか...

  私も...ボスが子供時代を過ごした隣村という事で、非常に親近感を持って、

時代考証を眺めて行くことができそうです...」



 <1>
        寝た犬にふわとかぶさる一葉かな  
                                            (ひとは)

 

「眠っている犬に...大きな枯れ葉でしょうか...ふわっと被さる情景

が...限りない優しさにあふれています。

  私も、これから一茶について研究して行くわけですが...この優しさ

は、一茶独特の、小さきものに対する、優しい境涯なのでしょうか...」 


 <2>

       猫の子のちょいとおさえる木の葉かな    

 

「子猫が、舞い落ちてきた木の葉でしょうか...それをチョイと押さえる

可愛いしぐさは、昔も今も変わらないのでしょうか。そうした情景を、一茶

の鋭い感性が、活写している一句です」 

                              

 <3>


        団栗とはねつくらする子猫かな     
               (どんぐり)

 

「ドングリと遊んでいる子猫の幸せが、いつまでも続くといいのですが...

そんな優しい眼差しで見つめる、一茶の視線を感じます。

  こんな気持ちは、誰しもが、持ったことがあるのではないでしょうか。で

も、それを、不朽の俳句にしてしまう所が、一茶の独特の感性と、理屈で

はない、才能なのでしょうか...」

 

 <4>
        蝶とぶや狐の穴も明るくて     

 

「狐の巣穴というのは、現代社会では馴染みの無いものかもしれません。

でも、明るい春の陽射しの中で蝶が舞い、狐の巣穴にも明るい陽光が

降り注いでいる情景が目に浮かびます...その陽の光が、時代を超え

て、今も輝いているようです」



 

 


選者の言葉 (2)   行脚・俳諧師/一茶

    touge.13.jpg (1193 バイト)         wpe4F.jpg (12230 バイト) house5.114.2.jpg (1340 バイト)

「支折です...

  一茶研究を始めたばかりですので、いつ頃の句/作品かは、まだ分かりか

ねています。でも、今回のは、晩年の作品というわけではないようですね。

  ともかく一茶は、行脚・俳諧師ということで、年中、下総(しもうさ: 現在の千葉県北部と

茨城県南部)房総(特に、安房と上総を言う・・・現在の千葉県)を回ったり、関東一円を歩いて

いたようです。そうやって...巡回し、句会を催して礼金をもらい...接待を受け

ながら、やがては江戸で、(そうしょう: 俳諧の師匠)の看板を掲げることを、夢見て

いたようです。

  ズングした体躯と、ドングリ眼で、田舎親父の風体一茶は、女性に好かれ

ることはなかったようです。でも、俳諧仲間からは好かれたようです。敵を作るよ

うな性格ではなく、世間慣れ/人慣れもしていたようです。

  ただ、お金儲けに関しては、とんと才能もその気力もなかったようです。こんな

種類の人間は、私たちの身の回りにも、けっこういるのではないでしょうか。そう

そう、ボス(岡田)も、その部類の人間かも知れません。

  それから一茶は...おべんちゃらを使い、世渡り/出世するということにも

がなかったようです。ただ、俳諧好きで、人がよく田舎臭さの抜けない一茶は、

それゆえに、俳諧仲間からは好かれていたのでしょうか...

 

  ただし...そうした中で...故郷信濃/柏原実家/農家については、

産分与で、意固地なまでの執着を示します。その家族内・抗争で、信濃にもずい

ぶん通うようになりました。そうした事情で、善光寺(長野盆地)の周辺にも、俳句

縁者弟子が、しだいに増えて行ったようです。

  ここに...屈折した一茶人間性と、本質的心優しい俳風の妙があるよう

です。それにつけても、江戸俳壇での一茶の存在は、行脚・俳諧師ながら、誰

もが活目する、独特の俳風があったのでしょうか。まだ未完成ながら、蕉翁(しょう

おう: 芭蕉 1644〜1694年)蕪村(ぶそん: 蕪村 1716〜1783年)のように...時代を生き

抜く...独特の俳風を感知させるものがあったようです。

  そうした江戸俳壇での...ほのかな存在感が...様々な句集の流通を通し

て、全国俳諧好きに、静かに浸透していったようです。それが、故郷/信濃

も、しだいに安定した存在感を示して行ったようです。それでも、一茶は、相変わ

らずの行脚・俳諧師を続けています。

 

  江戸時代には...江戸の文化というものが...緩やかに人の足手紙で、

地方へ伝えられていたようです。また、地方では、江戸の出来事噂を渇望して

いました。行脚・俳諧師は、それを仲介するの一助として、歓迎されたのかも知

れません。生活にゆとりのある人たちは、こうした文化人逗留させ、文化全般

吸収していたようです。

  総じて...江戸時代というのは...私たちが想像しているよりも、はるかにし

っかりと、江戸地方人の足で結ばれていたようです。まず、武家社会参勤

交代があり、宿場本陣は整備され、江戸と地方往来は、意外なほど多かっ

たようです。

  そうした中で...木戸(要所や町々の門)関所はあったものの...人・物・文が、

かなり正確に流れたようです。それが、今から200年300年前の、日本社会

の姿です。そういえば...ボス(岡田)少年時代を過ごしたという...妙高山

黒姫山の谷間あたりも、一茶は、朝に夕に見ていたわけです」

 

「ええと、ついでに...

  江戸時代飛脚のことを、簡単に述べておきましょうか...まず、継飛脚

名飛脚町飛脚...の種類がありました。

  継飛脚は...江戸幕府の文書を運んだ飛脚です。通常は2人1組で、街道を

宿場から宿場へと、引き継ぎながら運んだようです。

  大名飛脚は...大名専用飛脚ですね。赤穂浪士・事件などで、江戸藩邸

国もととの通信で、その実態というものが、うかがい知れると思います。

  町飛脚も...かなり発達していていました。これには、並飛脚早飛脚仕立

便(臨時便)があったようです。

  でも、全国の道というものは、五街道(東海道、中山道、甲州街道、日光街道、奥州街道)

さえ、現在の整備された舗装道路とは、雲泥の差でした。現在でいえば、舗装さ

れていない...田舎道か、山道の感じでしょうか」

 

一茶は...

  まさにそんな道を...関東一円...縦横に歩き回っていたわけです。この意

味では、現代の車社会さながらに、相当に広い視野/生活圏を持っていたわけ

ですね。ちょうど富山の薬売りも、この頃に始まっていますが、一茶も、行脚・俳

諧師としての、知己・弟子/緩やかな縄張りを持っていたようです。

  行脚・俳諧師という職業は...一般人が、あまり大旅行をすることのない江戸

時代においては、稀有な文化人だったということでしょうか。一茶という人は、

もなく、風流のままに、ともかく、まめに旅をしたようです。歩くのが、本当に好き

だったようですね...」


   

 <5>

      やれ打つな蠅が手をすり足をする     
                      
(はえ)

 

「...一茶の、代表的な句として有名ですね...

  私は小さな頃に、学校でこの句を知りました。そして、本当にそうなの

かしらと、虫メガネで蠅をのぞいてみました。すると本当に、蠅は手をす

り足をすりしていました。一茶は、肉眼でそれを見つめ、蠅の所作を観察

していたわけですね。でも、私はそれ以来、蠅の所作を、じっくりと観察し

たことはありません...つくづく凡人を感じます。

  それにつけても、一茶の“小さきものに対する優しさ”、観察眼の鋭さに、

感心させられます。一茶という俳人の、真骨頂の一句だと思います」


 <6>

   今日からは日本の雁ぞ楽に寝よ    
                             (かり)

 

「...渡り鳥の雁が...空を渡って来た...御苦労、御苦労...

  生き物に対する、一茶の限りない優しさが満ちています。一茶が、そう

俳句に詠もうが詠むまいが、雁の生活には何の関係もないことです。で

も、せめて一茶が、日本の雁ぞ楽に寝よ、と宣言することが、雁にとって、

そして人にとっても、どれ程心温まり、嬉しいことでしょうか。

 あ、それから...この時代/江戸時代の中期から後期に当たるでしょ

うか。すでに、日本という言葉が、俳句の中に詠み込まれていたわけです

ね。鎖国をしていても、日本という概念が、すでに庶民の間にも広がって

いたのが分かります。

  この時代...蝦夷地ではオロシャ(ロシアの旧称)の動きが活発化し

ていて、間宮林蔵が、樺太(サハリン)の調査などを始めているわけです」



 <7>

      梅が香やどなたが来ても欠け茶碗     
                                                       
(か)
 


「さあ...

  一茶の借家/あばら家にも、小さな庭に梅が咲き、春よ梅よと華やい

だ空気になって来ました。

  無骨な田舎親父の一茶ですが、俳句での付き合いは良く、友人知己も

多くいました。一茶のあばら家を訪ね、俳論に花が咲き、泊って行く客も

多かったようです。

  この時代...俳句をやるほどの者は...生活にゆとりがあり、裕福

な人々が中心でした。江戸でも田舎でも、そうした人々が、江戸時代の

文化の中枢を形成していたわけです。また、一方には、武士文化があっ

たわけですね。

  ともかく、裕福な人々が、風流な俳諧を好み、そうした人たちが、一茶

のような行脚・俳諧師を、文化の伝達者として厚遇していたようです。そ

んな一茶のあばら家では、どんな身分の人が訪ねて来ても、欠け茶碗と

いうことです。それでも、風流として満足するのは、俳句、連句(俳諧の連

歌)に花が咲くからでしょう。

  また、一方...江戸は庶民文化の町です。そうした、いわゆる裕福な

人たちだけが、俳句を楽しんでいたわけではありません。いわゆる普通

の庶民も、一茶の俳諧仲間や俳諧弟子には大勢いました。そこで、誰が

来ても、欠け茶碗ということでしょう...」




 <8>

   元旦や我のみならぬ巣なし鳥   house5.114.2.jpg (1340 バイト)  touge.13.jpg (1193 バイト)

 

「...うーん...

  一茶は、商売柄、家を空けることが多く、ある時帰ってきたら、その借

家/あばら家は、他の人に貸し出されていました。この当時は、空家に

すると家が荒れるということで、大家には嫌がられたようです。

  家を失った一茶は、いつも世話になっている...俳友でもある金持ち

/蔵前の札差/井筒屋/成美...の別邸に転がり込むわけです。人の

接待から接待への、行脚・俳諧師の流れ旅は慣れたものですが、この時

は師走でもあり、一茶もよほどこたえたようです。

  ところが...その文化6年正月元旦...日本橋あたりから出火し、大

火事になります。これは、その時に詠んだ句です。我も巣なし鳥になって

しまったが、この大火事で、多くの人々が巣なし鳥になってしまったことに、

一茶は深く同情しています...」 

 

 

 



選者の言葉 (3)   一茶/江戸ぐらし

       house5.114.2.jpg (1340 バイト)     

「支折です...

  猛暑の夏も何処へやら、いつの間にか寒い季節がやって来ました。未曾有の

社会混乱/世情が騒然とし、落ち着かないせいでしょうか。あるいは、“地球

暖化”/気候変動/世界構造の破綻の中で、人類文明変動期に入っている

せいでしょうか。ともかく、落ち着かない中途半端な季節が流れて行きます。

  本当に、人類文明/私たちの社会は、どうなって行くのでしょうか。《当ホー

ムページとしては、この問題に対し、〔人間の巣のパラダイム〕提唱してい

ます。一応、私たちの文明戦略は打ち出しているわけです。後は、それをいかに

実現するかという事になります。

  そういうわけで...こんな息苦しい時代だからこそ、全く別の俳句の世界で遊

んでみたいと思います。“文明の折り返し”/〔人間の巣のパラダイム〕で実現

するのは...郷愁精神性...明治時代江戸時代でしょう。それが、

句の世界には脈々と生きています」

 

「...さあ、住み難(がた)といえば...

  江戸時代においても、貧乏人には世知辛い世の中だったようです。一茶

の風交で、大金持ちから貧乏人まで、幅広い生活圏の中で生活していました。

でも、当人が、行脚・俳諧師/極貧生活者であったことに変わりはありません。そ

の風景を、一茶はこんな俳句にして自嘲しています。

 

       梅咲くやあわれ今年ももらい餅

       袖口は去年(こぞ)のぼろなり梅の花

       春立つや四十三年人の飯

 

  こうした極貧生活の中で、一茶世の中世知辛さも、ずいぶんと味わってい

たようです。それでも、貧乏生活客観視し、俳句昇華している所が、俳人/

一茶人間的な面白さです。貧乏嘆きつつも、俳句にして、それを楽しんでい

わけです。

  また、信濃/柏原実家財産分与で争うのも、田舎者人間臭さと、屈折

した人間性を感じさせます。でも、一茶は、そうした人生しか、生きられなかった

のでしょう。そして、そうした人生の中から2万句に及ぶ、一茶の俳句が紡(つむ)

ぎ出されてきたわけです。一茶の、“小さきものに対する・・・優しい心”も、それは、

風交の旅人/極貧生活者/信濃の田舎者と、表裏一体のものだったわけです。

  もちろん、一茶は、江戸宗匠の看板を掲げるために、懸命の努力を重ねまし

た。でも、“何らかの・・・運命の絆”というものは、断ち切れなかったようです。私

は、そのように解釈していますが、どうでしょうか...」

 

「現在...一茶の時代から、およそ200年ほどがたちます...

  江戸の風景北国街道の風景も、ずいぶんと様変わりしました。文明の器

移り変わり、人の心も変わりました。でも、私たちは文化において、人間性におい

て、果たして進歩して来たのでしょうか。

  社会インフラも充実し、技術面では誰でも分かるように、明確に進歩してきまし

た。一方、精神的・覚醒の方は、経済原理/欲望の原理/競争社会の中で、む

しろ廃頽/退化してしまったのが、現状ではないでしょうか。

  日本社会は...国家上流域/国家三権/司法・立法・行政、そして公共放送

/マスメディアモラルハザードに陥り...国民の信頼を失いつつあります。さ

あ、これは、何処で踏み止まることができるでしょうか...まさに、正念場です」

 

「私たちは...

  そんな国内情勢/未曾有の大混乱の中で...現在、“文明の折り返し”

の状況です。さあ、この事も果たして、実現するのでしょうか。加速度が付いた

まま、経済成長持続すれば、文明破局点へ突入します。本当に、これでい

いのでしょうか。

  それにつけても...200年前/江戸の社会に...強い郷愁を感じます...」




 <9>
   椋鳥と人に呼ばるる寒さかな         
        (むくどり)

「一茶は、よほど江戸が好きだったようです...

  江戸の風物が好きだったし、芝居や講釈や落し話をよく見聞に行った

ようです。どんなに貧乏をしていても、働きさえすれば、江戸では飯が食

えました。そのうえ、盛り場をはじめ、面白いことも多く、社会に活気があ

りました。

  一方...好きなのと同じくらい、一茶は江戸が嫌いだったようです。そ

れは、俳句にも詠まれています。でも、それはつまるところ、極貧生活者

で、信濃の芋助で、行脚・俳諧師の呑太郎/与太郎の境涯にありました。

都会は好きだけど嫌いというのは、現代人でも変わらないのかも知れま

せん。都会は今も昔も、お金のない者にはトゲトゲしく、生きにくい社会で

す。

  また江戸者は...田舎から江戸へ出た出稼者や旅人を、“椋鳥/む

くどり”とさげすみ、わらいました。花のお江戸で、気が利かなくて、薄ボン

ヤリとしていて、品のない方言を話し、まるっきり垢ぬけしていなかったか

らでしょう。一茶も、そうした中で、荒奉公をして来たわけです。

  やがて、江戸俳壇で存在感を示すようになった一茶ですが、相変わら

ずの極貧生活者/行脚・俳諧師であり、自分を椋鳥に例え、強い疎外感

を感じていたようです。

  一茶が、江戸で宗匠の門戸を張れなかった原因は、組織力の無さ、政

治力の無さにあったようです。そして、その反面としての、“純朴な人間性

/田舎臭さの抜けない個性”に、強い磨きがかかって行くわけです。

  それだからこそ、松尾芭蕉や与謝蕪村に続く、江戸時代を代表する俳

人として、小林一茶の名が銘記されることになったわけですね。一茶は、

江戸での夢が破れて信濃/柏原へ帰るわけですが、それもまた人生の

行路です...そう考えると、面白いですね...

  結局、何処にいても、何をしていても...“これ人生!”...ではない

でしょうか。そこに各々の、“リアリティー/真実の結晶世界”の輝きがあ

ります...一茶もまた、それを悟り、その中に溶け込んで行ったのでしょ

うか」



 <10>
   むさしのや涼む草さえ主があり    
                     (すず)                        (ヒマワリ: 北米原産。元禄時代に中国より伝来 )

 

「江戸時代には...

  一面に武蔵野の原野が広がり、江戸の街中も水路が流れ、のどかな

風景と思われるのですが...一茶は、“涼む草さえ主があり”...と読ん

でいます。これはまるで、現代日本の風景のようです。

  でも、一茶は、何処でこんなことを感じたのでしょうか?広々とした空の

もとで、西国や関東の原野を跋渉(ばっしょう)していた一茶には、せせこま

しい江戸の町割りは、よほど耐えかねたのでしょうか。

  それにしても...“涼む草さえ・・・”というのは、強烈ですね。それでも、

現在の息苦しさ、居場所の無さ、社会の隙間の無さに比べれば、江戸時

代はおおらかな社会だったと思います。世知辛さはあっても、反面、おお

らかな人々も多かったわけです。その江戸時代を、うらやましく思います」

 

 <11>
   人は旅 日は朝ぼらけ 草の露 


「一茶は、心底、旅が好きだったようです...

  ようやく腰が落ち着くと、また旅心がうずくといった有様だったようです。

日々息災で、あちこちを俳諧行脚ができ、親しい俳友や門弟たちに会う。

一茶は、それを人生の最大の楽しみにしていたようです。そうした、腰の

落ち着かない“人間性/生活”ゆえに、人を組織し、一門を形成するとい

仕事は、向いていなかったようです。

  一茶は俳人ですから...十徳(独特の形状をした広袖の羽織/現代では僧侶

や茶道の宗匠などが用いる)をはおり、股引(ももひき)、手甲脚絆(てっこうきゃは

ん)、菅笠(すげがさ)という旅姿です。腰帯には、煙草入れを差し込み、懐

には句日記を入れていたでしょうか。

  でも現在のような、しっかりとした雨具や防寒具、それに薬などはありま

せんでした。当時は旅をするのは、相当に難儀な、覚悟を必要とするもの

でした。芭蕉のように、旅の途上で、命を落とす人々も多かったわけです。

皆がそれを覚悟で、旅を重ねていたわけですね。

  当時の旅は、朝が早かったようです。夜がほのぼのと明ける、朝ぼらけ

の頃、草の露を踏んで出発しました。現在で言えば、山歩きの、早朝の出

発の様相です。そうやって、1日に10里/40キロメートルほど歩いたよう

です。そして午後は早目に、余裕を持って、宿場や目的地に着くようにした

わけですね。

  旅そのものは、風雨に晒され、体調管理もあり、いくら好きであっても、

難儀なものでした。それから、治安の問題もありました。武士は2本差し、

侠客(きょうかく)などは長ドスを1本差していたわけです。もちろん、一茶は

俳諧師ですから、そんな武器は持っていませんでした。

  でも...旅は難儀なものであっても、それ以上の喜びや楽しみがあっ

たわけです。刻々の大自然の変転や、風景の美しさ...また、先々の土

地での珍しいものや、親しい俳友や弟子たちに会うことが、一茶は何より

も嬉しかったようです」 



 <12>
   擂粉木で蠅を追いけりとろろ汁   eb1514.jpg (1928 バイト)   
           (すりこぎ)      (はえ)

 

「...江戸時代の庶民生活...

  穏やかで、豊かな日常風景が、目に浮かびます。擂粉木で蠅を追って

も、そっと追い、打つわけではありません。蠅も寄ったり離れたり、人間の

する様にまとわりつきます。

  人は、そして蠅は...何故生まれ、何を為し、何処へ、去って行くので

しょうか...争い事や、恨みつらみではなく...穏やかな日常風景の、

その無為の行為の中にこそ、人生の無上の喜びがあります。

  でも、その同じ日常風景でも...その無為の行為の輝きを、知ると知

らないとでは、天地の開きがあります。一茶は、軽妙にその一事を、その

無為の行為の輝きを、五七五でまとめています。

  江戸へ出て荒奉公をしていた一茶は、根っからの教養人ではありませ

ん。でも、努力と天性の感受性で、“日常生活の輝き/人生のエキス”を、

軽妙な一句でスケッチしています。緩やかな一瞬の中に、人生の全てを

凝縮し、永遠のものに昇華しています...“軽味”のきいた、一茶らしい

1句ですね」

 

 

 

選者の言葉 (4)   一茶/海と船旅   house5.114.2.jpg (1340 バイト)

          touge.13.jpg (1193 バイト)   wpe4F.jpg (12230 バイト) 

「ええ、支折です...

  今回は、船旅を取り上げてみました。一茶は、海のない信濃/柏原で、百

姓の長男として生まれました。本来ならば、生涯この土地で百姓をし、海を見るこ

ともなく、その一生を終えたものと思われます。でも、人間力変動値/変動幅

大きい人の人生は、本当に何があるか分かりません。一茶人間力という意味に

おいて、俳句/文学の面で、大冒険をした人でしょう。

  私は...一茶は、“何らかの・・・運命の絆を・・・断ち切れなかった”、と考えてい

ます。でも、その運命/試練を陽気にこなしたと思っています。歴史上の人物は、

しばしばこうした“大きな作用・・・天の支配”を受けているように思えます。私たち

の知り得ない、上位システム・レベルがあり、その【人間原理空間・ストーリー】

から来る、未知の運行であり、影響なのでしょうか。

  人間のもつ、感性才能天命などというものは...何処の土地何処の人

間集団に埋もれているか、本当に分からないものです。継母との折り合いが悪く、

江戸へ荒奉公に出た一茶が、やがて江戸時代を代表する俳人になるとは、当時、

誰が想像できたでしょうか。人の一生とは、面白いものですね...」

 

「さあ...

  その一茶俳句から...江戸時代の海...江戸時代の風光...江戸時代の

...を感受してみましょう。一茶とのかかわりは、信濃/柏原という山育ち

であるだけ、興味深いものを感じます。ボス(岡田)も、生まれた時が違っていたら、

信濃/柏原の渓谷の向こう側で、百姓をして暮らしていたのかも知れませんね。

  ええ、ともかく...江戸公方(将軍)がいて...江戸幕府/幕藩体制が敷か

れていて...世界的にも希長い平和な時代が続いていました。そうした、鎖国

太平の世で、日本独特の文化が、絢爛(けんらん)と開花 した時期です。

  さて、一茶29歳の頃だったでしょうか...師/二六庵・小林竹阿(にろくあん・こ

ばやしちくあ)が没し、彼がその後継者(/小林性を名のる)に選ばれます。そして、今日庵

(こんにちあん)・執事となり、渭浜庵(いひんあん)・執事を経て、江戸俳壇での足掛かり

できました。若い一茶が、皆に可愛がられ、意気揚々と未来を夢見ていた時期で

す。

  一茶/30歳の時...(はく: 金箔などの箔で、値打ちが高くなること)をつけるために、

四国九州と、西国への俳諧行脚長旅に出ます。そして36歳の時に、7年

ぶりに帰ってきています。一茶は、その西国の旅の先々で、様々な海を見、幾度も

船旅を重ねています。今回は、そうしたや、船旅を取り上げたわけですね。

  この頃に一茶は...『旅拾遺(たびしゅうい)『さらば笠』刊行しています。西国

の旅では、二六庵・竹阿後継者という事、また一茶実力も認められ、歓待

れたようです。もちろん、まだ若くて、旅先での苦労も多かったわけですが、俳諧・

縁故を頼りに、そうした長旅も可能だったわけです。

  ところが...さて、いざ江戸へ戻ってみると...『旅拾遺(たびしゅうい)『さらば

笠』は、期待していたほどの評判にはなっていませんでした。また、前にも言いま

したが、一茶の人間性組織力のなさなどが重なって、宗匠の門戸が張れない年

月が続くことになります...」

 

「それから...

  船旅といえば...江戸と、その近辺にも、運河はたくさんありました。

下総(しもうさ: 茨城県の南部と千葉県の北部)利根川水郷(すいごう: 利根川下流の低湿地帯)

それから、上総(かずさ: 千葉県の中部)安房(あわ: 千葉県の南部)、そして対岸にある

(うらが: 神奈川県/横須賀市東部)などへは、しばしば海路も使ったようですね。

  江戸時代浮世絵版画などには、当時の江戸の海が描かれています...

江戸湾(東京湾の旧称)には、帆を上げた五大力船(江戸を中心に、関東近辺の海運に用いられた

海川両用の廻船)や、舟足の速い七挺櫓(ななちょうろ)押送船(おしおくりぶね: 和船の一種で、

帆走・漕走併用の小型の高速船 )などが、にぎやかに、そして力強く、たち働いています。

大消費地江戸へ、年貢米をはじめとする様々な物資や、新鮮な魚介類などを

運び込んでいるのでしょう。ともかく、江戸の海辺は賑わっていたようです...」

 

一茶は...ともかくよく歩きました。でも、川舟海路も利用したようですね...

  そして、自他共に認める極貧行脚・俳人ですが、行く先々で、俳友門人

定宿もできてきました。そうした定宿拠点に、句会を催して礼金をもらい、接待

受けながら、旅から旅を重ねていたわけです。行脚・俳人の場合、旅役者・一座

ようではなく、たった1人/風交の文化人であり、俳諧のスターだったわけです。

  こうした...“芭蕉のような風雅の漂泊”に、憧れを持つ人々は多かったようで

す。でも、誰でも、それで生活ができるわけではありません。一茶の場合は、俳句

人柄の評判もよく、文のやり取りもまめで好まれたからこそ、多くの知己が集ま

り、行く先々で句会を催すことができたわけです。

  当時、生半可行脚・俳人も多く輩出した様子ですが、そうした人たちは継続

するのが困難だったようです。その点、一茶は実力があったわけですね。そうした

意味では、真贋(しんがん: 本物と偽物)のきびしい世界だったと思われます...」

 

 

 <13>
   海見えて一汗入る木陰かな       
                      
(ひとあせ)

 

「...ようやく、海が見えてきた...

  旅を重ね、峠道を登り、初めて海が遠望できた時、それはどれ程の感

激だったでしょうか。一茶のように、どれ程旅を重ねても、初めて海が見

えてきた時は、心が洗われる感動があったと思います。

  そこで...強い日差しを避けて木陰に入り、汗をふく...江戸時代の、

健康的な旅人の情景が目に浮かびます。それにしても、江戸時代の海の

広さの感覚は、どれほどだったでしょうか。

  現在のように...“地球温暖化/海洋酸性化/海洋資源の枯渇”と、

その有限性を感じさせるものは皆無で、ただ茫洋と果てしなく、何処までも

海が広がっていたわけです。それだけでも、壮大なロマンを感じます。か

つては、そうした時代もあったわけですね。私たちは、再びそうした海を取

り戻せるでしょうか。

  これは余計なことですが...私たちはそのために、“文明の折り返し/

反グローバル化/人間の巣のパラダイム”を、提唱しています。

  人間が...“巣を持つ動物”...に変貌して行くことが可能なら、200

年後には、このような海が戻っているかも知れません...」

 

 

 <14>
   利根川は寝ても見ゆるぞ夏木立    

 

「...下総(現在の茨城県南部・千葉県北部)...

  この地方を旅するには、利根川などの川舟が便利でした。下総は、江

戸で活動した一茶の最も近い縄張り地帯であり、ちょくちょく出かけたよう

です。

  舟/船の運搬力は...現在で言えば、自動車のようなものでしょうか。

江戸時代には、運河や細かな水路が多く張り巡らされ、水運が発達して

いました。そうした川や運河には、“引き船道”がありました。荷物を満載

している時や、川を遡る時には、綱を張り、“引き船道”を引いて歩いたよ

うです。

  場所によっては、そうした“引き船道”を、馬にも引かせたのでしょうか。

ともかく、現在のようなエンジン付きスクリューはなかったわけですが、水

が作り出す浮力は、巨大な運搬力を可能にしたわけです。この水路によ

る水運をなくしては、18世紀当時/人口100万人/世界最大都市の維

持は、不可能だったでしょう。

  この句は...一茶がいくばくかの金を払って舟に乗り...そのうちに

横になり、舟が川を下って行くのを見ていたのでしょうか...川風が涼し

く、川面が陽光にキラキラ光り、川岸の夏木立が過ぎ去って行きます...

まさに、極楽極楽と言ったところでしょうか。

  一茶の俳句の特徴の1つに、“軽味”というものがあります。それは、川

柳などで詠まれる、“安味/軽薄”とは、明確に違うものです。この清浄/

清透な、“軽味/軽さ”の中に、一茶の独特の世界があります。

  この句も、川舟の中で寝ていて、夏木立が過ぎ去って行くのを詠んでい

るわけですが、まさにその“軽味”が光っています。同じ光景に遭遇しても、

脱俗した芭蕉翁なら、こんな句は詠まないでしょう...」

 

 <15>
   暑き夜の荷と荷の間に寝たりけり      

 

「...この船は、かなりの大型の、夜の航行でしょうか...

  江戸時代には、コンパスや六分儀などはなく、船の運航は島づたい、陸

づたいでした。陸が見えなくなると、後は太陽の位置と、日の出と日没の方

向、そして星座などが頼りだったのでしょう。そのため、陸が見えなくなると

非常に心細くなり、さらに嵐にでもあえば、遭難することも多かったようです

ね。

  例えば、この時代...大黒屋光太夫(だいこくやこうだゆう)は、伊勢国白

子/現・三重県鈴鹿市の港の回船の船頭でしたが...漂流して、北方の

アリューシャン列島に漂着しました。以後...シベリヤを横断し、帝政ロシ

アの首都ペテルブルグで、皇帝エカテリーナ2世謁見し、日本への帰国を

願い出ています。それが許され、帰国したのは9年後、皇帝使節/ラクス

マンの船が、蝦夷(えぞ)/根室に入港(1792年)した時です。

  それから...幕末に活躍した、ジョン・万次郎の漂流も有名ですね。彼

は、土佐国中濱村/現・高知県土佐清水市中浜の、漁師の次男に生ま

れました。ある日(1841年)漁に出て嵐に遭い、漁師仲間4人と共に遭難し

ました。そして、5日半の漂流の後、奇跡的に太平洋に浮かぶ無人島/

鳥島に漂着します。そこで、アメリカの捕鯨船ジョン・ハウランド号に救助さ

れます。彼もまたアメリカに渡り、帰国したのは10年後(1851年)です。ま

ず、琉球に上陸し、番所で尋問を受けた後、薩摩本土に送られています。

  大黒屋光太夫も、ジョン・万次郎も、地球の裏側まで旅をし、10年前後

をかけて近代文明に接し、帰国を果たしているわけです。人間力の、変動

値/変動幅の大きい人の人生航路というのは、想像を絶するものですね。

この2人に共通しているのは、頭が非常に良かったことと、不屈の精神で

しょうか。

  当時の船旅/廻船は...そうした漂流の危険をはらみつつ、嵐を避

け、風を待ち、日本列島近海で盛んに行われていました。特に、四国や九

州へ渡る時は、必ず船が必要だったわけです。

  ともかく...一茶の乗った船は、夜の海上にあり...熱気がムンムン

だったのでしょう。この句は、そうした船上の、暑い一夜を詠ったものです。

利根川での極楽極楽の船旅とは違い、やるせない船上の、暑い一夜の経

験です。 当時の船旅の様子が、よく分かると思います...」

 

 <16>
   たばこの粉扇で掃いておきにけり         
                           (おおぎ)   (は)    

 

「これは、夜ではなく、昼間の船の光景ですね...

  こぼした煙草の灰を、扇でパッパッと掃くということは、周囲を気にして

いるからでしょう。さしずめ、混雑した渡し船の中で、煙草盆を借りてきて、

煙管(きせる)で一服つけた時でしょうか。何という事もない日常の光景です

が、そこに一茶の特有の、“愛嬌”と“軽味”が光っています。

  今となっては...現代の私たちには、江戸時代の雰囲気や繊細な心と

いうものは、なかなか伝わってきません。最近は、時代劇も時代考証がい

い加減になり、内容的にも民主主義的であったり、現代風のギャルがいた

りで、古(いにしえ)の雰囲気や、真の心は、ほとんど伝わって来ません。

  でも、俳句の中には...当時の呼吸や繊細な心が...生き生きと息づ

いているのが感じられます。例えば、こうした何でもない船上の1句に、江

戸時代の裸の心が語られているわけです。

  船板にこぼした灰を...扇で掃くというせこいしぐさ...一茶の身に付

いたものぐさ...そうかといって、他にすべもないわけです。でも、これも、

芭蕉翁なら、こんなことは俳句には詠まないでしょう。

  この時代...俳壇では、芭蕉は初祖/教祖として...絶対的な存在

感をもっていました。もちろん、今でもそうかも知れませんが、当時は庶民

が文化に接するものは、現代ほど多くはなかったわけですね。もちろん、

一茶も、芭蕉風/蕉風/正風の水脈の中にいて...芭蕉翁の心を慕い、

それを基軸にして、俳句を作っていたのは間違いありません。

  でも一茶は...芭蕉とは、何処がが違うわけです。私は、一茶の研究

を始めたばかりですので、まだ深くは分かりませんが、一茶は独特の世界

を確立していたようです。

  そして、それゆえに...時代の荒波を生き残り、江戸時代を代表する

俳人の1人として、小林一茶の名が銘記されたのだと思います。つまり、

“小さきものに対する優しさ”や、日常生活の中の清浄な“軽味”が、庶民

の心と適合し...、広く受け入れられたという事でしょうか...」

 

 

 

選者の言葉 (5)  一茶/旅空の下       

        wpe4F.jpg (12230 バイト)  

「星野支折です...

  小林一茶の考察も、いよいよ面白くなってきました。今回は、“旅空の下”という

テーマで、一茶の句を拾ってみました。

  一茶は、行脚・俳諧師ですから、旅を住処(すみか)としています。それでも一人旅

というものは、寂しいものだったようです。一茶の句には、そうした一人旅寂しさ

(わび)しさを詠ったものも多くあります。

  でも...そうしたそうした境遇の中にあって、それを乗り越え、一茶の句には、

陽気さ/おかしさがあります。これは、一茶生命力の強さでしょうか。“神は人

に耐えられる試練しか与えない”と言われますが、一茶もよくその試練に耐えてい

たと思います。そして、謙虚に、男らしく...2万句もの俳句を残して、その生涯

を終えています。

  さあ、それではまた一茶を通して...江戸時代の旅を、江戸時代の風物を、そ

して、江戸時代の夜空を、感受してみましょう」 

 

 <17>

      大根引き大根で道を教えけり     
       
( だ いこ

 

「...うーん、これは愉快な句ですね...

  江戸時代には...五街道(東海道、甲州街道、中山道、日光街道、奥州街道)

では、道標や宿場なども整備されて、道に迷うことはなかったでしょう。そ

れでも、一歩わき道に入ると、現在のような地図はなく、相当に主要な道

でも迷うことがあったようです。

  それから、村や町で家を訪ねるとなれば、それはもう土地の人に聞く他

はありません。そういうことからも、よそ者が地域社会に入って来ると、すぐ

に分かりました。特に、身分のはっきりしない流れ者や、身なりの良くない

者は、乞食・泥棒・強盗の類と疑われ、非常に警戒されたようです。当時

は、山賊や人さらいのような類もいたわけですね。

  その点では、一茶は俳諧の縁者を頼っての風交の旅です。苦労は比較

的少なかったと思います。俳諧をするほどの知識人は、ほとんどが地方の

有力者だったからです。

  そうした生活にゆとりのある人たちは、様々な理由で、逗留させる文化

人等も多かったわけです。また一茶は、そういう有力者の客人という事で、

村人などの態度も丁重(ていちょう)だったと思います。

  一方...ヤクザなどは、その地方のヤクザの親分に仁義を切り、そうし

たネットワークの中で旅を重ねていたわけです。湯治の旅などで、単に通

りかかっただけでも、一応、親分さんに挨拶を通しておくこともあったようで

す。そうしておかないと、何処でどのような因縁をつけられるかも分かりま

せん。

  あと...一般の人の旅は、宿場や各所の旅宿を使うわけですが、泊り

を重ねる旅といえば、湯治場や、寺社参りや、海浜などへの旅でしょうか。

こうした旅というのは、お金がかかったようです。それに場合によっては、

雑用/用心棒を兼ねた、信用のできる男衆も必要だったのかも知れませ

ん。ともかく、旅は道ずれということだったのでしょう。

  さあ、この句ですが...一茶が大根畑のわきで、お百姓さんに道を尋

ねています。一茶の方も、百姓風体/田舎親父の風貌ですから、お百姓さ

んの方も、引き抜いた大根で道を指し、教えてくれます。

  これがおかしくて、一茶は1句をものに、早々に書き記して置きました。

俳人/一茶の独特の感性ですね。他の俳人は恋の句などを詠っています

が、一茶にはそういう句はありません。かわりに、このような感性があった

わけですね。ともかく一茶という人は、理屈ではなく、俳句が口をついてス

ラスラ出て来たようです。

  何度も言うことですが...一茶は女性に好かれることはなかったようで

す。でも何故か、老人には非常に好かれたようですね。そしてお百姓さん

は、お仲間といったところでしょうか。そんなわけで、お百姓さんも気軽に道

を教えてくれます。

  この後...大根(だいこ)引きのお百姓さんと一茶は、どんな一言二言を

交わしたのでしょうか。まさに...“一期一会の人間交差”が、今も光り輝

いています...田舎道での、“軽味”のきいた愉快な句です...」

 

 <18>

      有明や浅間の霧が膳を這う       
       
(ありあけ)                        (は)

 

「...この句は、浅間根腰の三宿(追分宿・軽井沢宿・沓掛/くつかけ宿)の軽井

沢宿だったようです...

  “有明”というのは...陰暦の16日以後、月が空に残りながら夜が明

けることです。そうした中、早立ちで朝食の膳に付くと、浅間山からの霧が

部屋に流れ込んで来たのでしょう。霧は膳のまわりにまで立ち込めます。

  一茶の経験した、濃霧のたたずまいですね。現代なら、さしずめデジタ

ルカメラでパチリといったところでしょうか。優れた俳句だと、その場景がよ

り鮮明に、私たちの心に映し出されます。

  俳句は、情景のスケッチとも言われます。そうした心象風景のスケッチ

というのは、デジタルカメラ以上の自在性と深みがあります。一茶は、旅宿

での朝食をそそくさとすませ、“さて、故郷/柏原宿までは、もう少しだな”、

などと心の中でつぶやいていたのでしょうか。

  “中山道”は、日本橋から京都まで続く山間ルートですが、軽井沢宿の2

つ先の追分宿が、善光寺平(長野市)方面へ向かう“北国街道”の分岐点に

なっています。“北国街道”は直江津から西などもあるわけですが、信州方

面では、追分宿から日本海の直江津宿(上越市)までになっています。その

間に、善光寺平と柏原宿もあります。

  でも...その故郷の柏原では、一茶は農家の財産分与で、ひと悶着を

起こさなければなりません。父親の遺言どおりの財産分与とはいえ、江戸

住まいの一茶の側が仕掛けるひと悶着です。心の軽いはずもありません。

  人間とは、こうしたことで悶着をくり返しながら、それぞれその生涯を終

えて行くわけです。俳人/一茶でさえ、“それとこれは別”と心の片隅で笑

いながら、自分の居場所を主張し、それにこだわり続けたわけですね。

  でも、そうした所が、一茶のナマの人間性の見えるところです。そうした、

絶妙の味付けから、“軽味”のきいた一茶の俳句が誕生したわけです。半

分は脱俗し、半分は面白おかしい俗界にあり、その両方を兼備している所

が、私たちの共感を呼ぶのでしょうか...」

 

 

 <19>

      木曽山へ流れ込みけり天の川       
        
(きそさん)

 

「うーん...木曽路(中山道の鳥居峠付近から、馬籠/まごめ峠に至る間。11宿が置

かれた)の深い山中で...天の川を詠んだ句ですね...

  芭蕉の句に...“荒海や佐渡によこたふ天の川”...という有名な句

があります。一茶も当然、この句は知っていたはずですよね。『奥の細道』

の原文では、“天の川”は“天河”になっています。

  この芭蕉の句は...実景とは異なるとか、色々と言われますが、ともか

く雄大なロマンの溢れる句です。一茶は、その豪壮な天の川が、木曽路の

深い山の中で、木曽山に流れ込むのを詠んだわけです。

  私としては...芭蕉の句よりも一茶の句の方が...山の中ということ、

“流れ込みけり”という豪壮な動きがあるということで、こちらの方が好きで

す。私も海辺の育ちではないので、山にかかる天の川の方が、想像豊か

に心に響きます...一茶にも、芭蕉に対する対抗心があったでしょうか。

そういう意味でも面白いですね。

  私は...このような銀河/天の川を眺めた経験はないのですが、ボス

(岡田)は子供の頃、こうした勇壮な銀河をよく眺めていたそうです。柏原の

渓谷の向こうでも、黒姫山にかかる銀河は、吸い込まれるような世界だっ

たと聞きました。

  私も...空気の澄んだ初秋の空に、山にかかる天の川を見たことはあ

ります。でも、それほどの感覚はありませんでした。それを話すと、大人に

なったからだとボスは笑っていました。でも一茶の句には、そうした純粋さ

と勇壮さの感動が、今も残されているわけです。

  それにしても、芭蕉や一茶の時代と現代とでは、天文学的知識や宇宙

観というものが、相当に違って来ていると思います。海にしてもそうですね。

科学的な構造解明が、地球や宇宙をどんどん小さく狭くしていくようです。

そして私たちは、別の意味で、あらためてその深さと複雑さを知り始めてい

るわけですね。

  純粋な感動というものは、純粋無垢な心に宿るのでしょうか。一茶の研

究を始めてまだ日の浅い私は、これは一茶のいつ頃の句かは分かりませ

ん。でも、木曽山へ流れ込む天の川が、よほど迫力があったのでしょう。

  季語(きご: 俳句で季節と結び付いている語)は天の川で、初秋になります。天

の川は、この初秋の頃に最も明るく、高い位置に見えます...」

 

 <20>

      ずぶ濡れの大名を見る炬燵かな   
                                    
(こたつ)

 

「...氷雨に打たれ、ずぶ濡れの大名行列が通り過ぎて行く...

  一茶は、二階の障子の隙間から、そっとその様子をのぞき、炬燵で酒で

も飲んでいるのでしょうか。“ご苦労なことだ...本陣(ほんじん: 大名・公家・

幕府役人などが宿泊した公的な旅宿)のある宿場はもう1つ先だ。こっちは一人

旅、早々に宿に入って、一杯ってとこだあ”...一茶のつぶやきが、聞こえ

てくるようですね。

  一茶は、一人旅の寂しさ、また行脚・俳人で他人の家を渡り歩く侘(わび)

しさを、しばしば俳句に詠んでいます。でも、こんな句も詠んでいるわけで

すね。この一茶の句から、江戸時代の宿場の空気、宿場を通り抜けて行く

大名行列の場景が垣間見えて来ます。

  これは...いかにも俗人(ぞくじん)らしい句ですが...ここを“透脱”(とう

だつ: 迷いから覚めて悟りを開くことして“無我/無心”に到達してしまえば、そも

そも、俳句に詠む必要も無くなるわけです。それでは俳人とは言えません。

  したがって...俗界にあって、脱俗に近い所で、花よ月よと風雅にこだ

わり、俳句を詠むわけです。そこに、人々の共感があるということでしょう。

もちろん一茶も、芭蕉翁を慕っていたわけですから、そのあたりのこともよ

く分かっていたわけですね。

  ええと、もう一度、一茶の状況ですが...炬燵に入って安酒を飲んでい

るか、煙管(きせる)でタバコをふかしているのでしょうか。こうした状況という

のは、現代社会とさほどの違和感はないと思います。つい私たちの祖父の

時代までは、煙管でタバコを吸っていました。

  こうした風物の中...大名行列/参勤交代という制度が...200年前

の、一茶の時代にはあったわけです。でも、参勤交代の膨大な無駄遣い

や、江戸での二重生活の無駄遣いは、社会的な意味で良い影響もあった

のです。

  そうした無駄遣いの強制は...300諸侯の財力を奪い、戦力を奪い、

また戦意をも奪って行きました。その一方、無駄遣いは庶民を潤わせ、経

済を回転させ、幕藩体制/260年という長い平和な時代を維持するのに、

大きく貢献していたわけです。また江戸の文化を、地方へも普及させる役

割をも果たしていました。

  氷雨の降りしきる中...重い2本の刀を腰につけ、奥女中・腰元・長持

等を従えて、濡れそぼって長い行列を作っている風景は、どこか滑稽であ

り、悲惨です。幕藩体制というのも、そういう側面から見れば、罪作りなこと

ですね。

  でも...人生とは、文明とは...こうした壮大な徒労の集積なのかも知

れません。現代人も、そうした中で、ひたすらマラソンを続けています...」

 

 

 

  選者の言葉 (6)  小さきものへの視線         

wpe58.jpg (17024 バイト)      wpe4F.jpg (12230 バイト)  

「支折です...

  “小さきものへの視線/小さきものへの優しいまなざし”は、一茶俳句特徴

1つです。それを構造的に裏返せば、視界が狭く構成も小さ過ぎる、というきら

いがあります。

  でも...その一茶視線/感性は...私たちに、優しい気持創出させます。

私たちの日常に、一茶と同様の新しい視点/優しい感性を、開拓してくれます。

 (すずめ)にしても、(かえる)にしても、(あり)や、(はえ)にしても、一茶以前

はなかった、独特の親近感創起させます。

  私たちの日常に...これほどの影響力を持つとは、すごいことですよね。俳句

とは、研ぎ澄まされた言葉で、直接に私たちの感性に語りかけるからでしょうか。

  良い俳句/心に残る俳句とは...私たちの感性の基本ベースとして...生涯

にわたって私たちの心に残ります。

  さあ、それでは...今回は、以下の4句を選びました。さっそく、俳句の方を見

て行きましょうか...」



 <21>

     雀の子そこのけそこのけお馬が通る    

 

「一茶には...

  “われと来て遊べや親のない雀”...という句もよく知られています。こ

れは、幼い頃に母を亡くし、継母とは折り合いが悪く、さみしい思いをした

心境を詠(うた)ったものです。

  今/現在の日本社会も...未曾有の大混乱に陥っています。様々な理

由から、親子が離れ離れになっている人も多いと思います。早く、安定した

良い社会を作って欲しいですよね。これは大人の、そして社会をリードして

行く人たちの責任です。

  さあ、この句ですが...雀が道で遊んでいる所に、お馬が通ります。田

舎道での、農耕馬のお通りでしょうか。馬の親子が、川へ水を飲みに行く

のでしょうか。それともお侍さんの乗った、騎馬がやって来るのしょうか。雀

の子らに、“危ないよ”...と一茶が気づかっています。

  一茶の、“優しいまなざし”が、情景にあふれています。その心は、少年

のように細やかで、純粋です。私たちは、雀に対するそのような優しい気

持ちというものを、一茶から学びました。その心は、営々と現在の私たちに

も、受け継がれています...」

 

 <22>

     鳴く猫に赤ん目をして手毬かな      
                                    (てまり)

 

「...手毬は、新年の季語ですね...

  新年に、子供たちが手毬を始めています。そばで籠に入っている小猫

が、遊んでくれと、ニャーニャー、と鳴きます。それでも今日は、手毬の方

が面白そう。子供たちは手毬に興じます。子猫がじゃれて来ても、赤ん目

です。

  “赤ん目”とは...目の下を引いて、赤い血管を見せるということでしょ

うか。“赤んベー”は、べろ/舌を出すのだと思うのですが、どうでしょうか。

  他愛のない、小猫と子供の優しい関係に、思わず口元が緩んでしまい

ます。子供たちは、小猫とは仲良しですが、ちょっぴり身勝手もするわけで

すね。一茶はその情景を巧みにスケッチしています...」

 

 <23>
     蟻の道 雲の峰よりつづきけん      

 

「...この句も、“雲の峰”が、夏の季語です...

  キラキラする夏空に、白い入道雲がわいています。そして、草の間を通

り、向こうの赤土の山へ、黒い蟻の列が延々と続いています。いったい何

処から来ているのだろうかと、一茶が眺めています。それはまるで、その

向こうの、白い雲の峰から続いているようです...

  純真で想像豊かな、少年のような視点です。江戸時代のある日、ある場

所の情景が、目に浮かびます...

  私たちの心は、一瞬で、その時空間へワープ(/SF小説で、宇宙空間のひず

みを利用し、瞬時に目的地に到達すること)することができます。俳句とは、すごい

ものですね。それとも、俳句を解する私たちの心、私たちの芸術的感性の

方が、すごいことなのでしょうか。

  歴史的時空間とは何か...夢と現実とは何か...いま生きている人と

死者はどう違うのでしょうか...それから...俳句で重なった、一茶の心

と私の心とは、いったい何事なのでしょうか...全ては同じテーブルの上

にあり、私という主体性の上に花開いた、1つの全体世界なのでしょうか。

 

      ...“蟻の道 雲の峯よりつづきけん”...

 

  キラキラする青空をながめ...1句を作っている一茶が...まさに今、

ここに存在しているようです...

  “お元気ですか、お体を大切にして下さい”...と言いたいですね...」

 

 
 <24>

    悠然として山を見る蛙かな          
      (ゆうぜん)                  (かえる)


「...蛙が...悠然として...遠くの山を眺めています...

  うーん、そうですか...そりゃ蛙でも、山ぐらいは眺めますよね。でも、

何故か哲学的な印象を受けます。“悠然として”、という所がミソなのでしょ

うか。

  それにしても、いったい蛙は何を考えながら...“悠然として”、山を見

ているのでしょうか。ふふ...興味津津(きょうみしんしん)ですよね...

  うーん...蛙は...何かを考えているのか?それとも無心に、眼前す

るリアリティーに接しているのでしょうか。もし、考えているとすれば、生物

学的にも、俗人的にも、その内容を知りたいものです。また、無心に、眼前

しているリアリティーに接しているのであれば、それこそ、私たちが求め続

けている、“無我/無心”の境地です。

  私たちは...母親の子宮の中では...自己と世界とは未分化の意識

状態にあります。生物体としても、意識としても、母子一体の状態です。そ

れが、へその緒が切れ、食物を摂取することで...“食べる側と、食べら

る側/自己と他者”とに、意識の分化/進化が始まります。

  やがて意識は...“世界の中に存在する自己・・・に文化的に定型化”

して行きます。そして私たちは、“種の共同意識体・・・ホモサピエンスの文

明座標の中”で、学習し、適応し、生涯を過ごすことになります。

  でも...その“意識の発現”こそが...生物体の最大の謎であり、最大

の特徴なのでしょう。そして、その“意識の分化/煩悩(ぼんのう)の始まり”

は、生物体としての、“受精卵の分割/幹細胞の分化”とも、共通したもの

を感じますよね

  ここで...発達心理学や、細胞の分化について述べるつもりはありませ

んが...赤子の無知というのは、禅的な“悟り/覚醒”に近いとも聞いてい

ます。“悠然として”山を見ている蛙は、まさにこのような“感覚/境地”なの

でしょうか。

  高杉・塾長は...“36億年の彼/全・地球的人格”...の存在/介在

を提唱しておられます。そうした上位システムに置いて、全ての生物体が、

そうした超越的人格とリンクしている場合...“命も・・・情報も”...全生

物体で平等であり、不可分のもの...という事になります。

  この蛙は...“全体が巨大な1つ・・・唯心”の...絶対境地にあるので

しょうか。そして無心に、“この世の参与者・・・自らの命/自らの風景”を、

見つめているのでしょうか。それが、私たちに、哲学的な雰囲気を感じさせ

るのでしょうか。

  自意識の発達と、それゆえの“消滅/死”への恐れ...蛙は、その虚

構は知らず...無心に、唯心の風景を眺めているのでしょうか...

  それでは私も、一茶をまねて、1句...

 

   “・・・ 悠然として 夕陽を見る 蛙かな  ・・・・・ ≪支折≫”

 

  うーん...これもなかなか、味があるのではないでしょうか。そして私た

ちの、蛙を見る目に、新しい視点が加わるのかも知れませんね...」

 

 

 

  選者の言葉 (7)  心が静まる時        

     wpe4F.jpg (12230 バイト)     house5.114.2.jpg (1340 バイト)

「お早うございます!」

  支折が腰に手を滑らせ、椅子に掛けた。メモ帳を手元にひき、ノートパソコンに

両手を添えた。

「ええ、今回は...

  一茶が若い頃に、故郷/柏原の近くの野尻湖を詠んだ句と、旅の夜の針仕事

を詠んだ句、関所の難儀の様子を詠んだ句...そして、もう1つ、一茶落ち込

んでいる時の句を、あえて選んでみました。

 

  さて、今回は...江戸時代(1603〜1867年)社会的背景/思想的背景として

定着していた、仏教寺の檀家(だんか)制度/寺請(てらうけ)制度について、簡単に

説明しておきましょう。この時代背景の考察なくして、江戸時代文化庶民生活

は、理解できないと思います。

  寺の檀家制度/寺請制度が始まったのは、江戸時代・初期/ 1635年です。

当初は、西欧からの侵略/社会秩序を乱す可能性のあった、キリスト教排斥

つまり、切支丹禁制のための政策でした。この檀家制度/寺請制度”の他にも、

“五人組”“ 宗門改め”“踏絵”(ふみえ: 聖母マリアやキリスト像の木版・銅板を踏ませ、信者でな

いことを証明させた)などが知られています。

 

  でも...もともとキリスト教弾圧は、天下統一の邪魔になるとして、豊臣秀吉

が始めたものです。そして、天下分け目の関ヶ原の合戦(1600年)の後、徳川家康

も、キリシタン団結力を恐れ、キリスト教排斥をますます強化します。

  それほどまでに、当時の天下人/権力者たちは、キリスト教的信仰心団結

を、恐れていたようです。そして、 1635年に始まった寺の檀家制度/寺請

制度によって、キリスト教の排斥制度化されていったわけですね。

 

  同時並行して... 1633年第1回・鎖国令/奉書船以外の渡航禁止

出されて、鎖国政策が始り、 1639年第5回・鎖国令/ポルトガル船来航禁

が出され、鎖国が完成します。

  以後、ペリー来航(/1853年、米国軍艦4隻を率いて浦賀に来航)まで、214年に及ぶ鎖国

政策が続きます。その目的は、キリスト教の排斥であり、封建制度の維持です。そ

うした中で、国交を開いていたのは、オランダ中国朝鮮の3国ですね...

 

  ええ、ついでに...寺の檀家制度/寺請制度の始まった2年後/ 1637年

に...“天草・島原の乱”(日本史上、最大規模の農民一揆・宗教一揆/・・・内乱に発展)が勃発

(ぼっぱつ)しています。この乱は、関連性が高いので、簡単に触れておきましょう。

  うーん...初期/徳川幕府震撼させた、この九州の内乱では...剣豪/宮

本武蔵鎮圧軍の側で、参加しています。関ヶ原の合戦から37年後ですから、ま

武断政治の気運が残っていた頃ですよね。でも、この“天草・島原の乱”以降、

徳川幕府武断政治から文治政治転換していきます。これは、3代将軍・家光

の時代ですね。

  ええと...“天草・島原の乱”では...最後に...天草四朗・時貞(あまくさしろう・と

きさだ/宗教的カリスマ性を持った少年)が率いる、一揆軍/反乱軍は、原城に籠城(ろうじょう)

します。そして、3万7千の反乱軍と、12万の幕府軍とが、3か月ちかい壮絶な死

を展開されたと言われます。うーん...反乱軍側には、有能な軍師もいたよう

ですよね。

  でも、結局...補給を断たれ...食糧・弾薬も尽き...圧倒的な幕府軍に追い

詰めらました。そうした中で、キリシタンたちはアベマリアを唱えな がら、燃えさか

る炎の中に、身を投じていったといいます...

  普通の陣取り合戦とは違い、宗教がからんでいただけに、壮絶な死闘になった

ようですね。反乱後の処理も、幕府側仕置きは、凄惨なものだったようです。

 

  芭蕉が生まれたのは...この“天草・島原の乱”7年後/ 1644年になり

ます。俳人として活躍するのは、もっと先の元禄の頃になるわけですね。一茶は、

さらにそれから、100年ほど後の俳人になります...

 

  さあ...そうした背景をもつ、寺の檀家制度/寺請制度ですが...この制度

は...すべての人が、地域の寺の檀家として、登録されるように義務づけられま

した。そして、が発行する“寺請(てらうけ)証文”がなければ、就職結婚転居

なども、できなくなるようにしたのです。

  現在の、住民登録のような管理でしょうか。もちろん、んだ時も人別帳に記載

され、お世話になるわけですね。これで、キリスト教完全に排斥されて行く

ことになります。

  江戸庶民である一茶も...このような寺が発行する、身分保証/通行手形で、

風交の旅ができたというわけです。通行手形は、今でいう旅券/パスポートのよ

うなものでしょうか。つまり、庶民生活管理/思想管理寺が掌握し、さらにそ

身分保証もしていた、という制度ですね。

  キリスト教・排斥から始まった寺の檀家制度は、やがて民衆管理の制度に、

していったようです。江戸幕藩体制にとって、仏教寺の檀家制度は、社会の

維持管理上必須の制度になって行くわけですね。

  一方、寺の側も...一定の信者囲い込むことになり...この檀家制度

されました。信者財政の両面で安定し、その上、特権意識を持つように

なったと言われています。

  このことが、いわゆる...“葬式仏教・・・葬式坊主の体制”...を作りだして

しまい、仏教形骸化して行く一端になったようです。この深刻さは、現代/日本

社会において顕著ですね。檀家制度は、日本人宗教性を、非常に劣化させてし

まったようです。

 

  ともかく、寺の檀家制度は、江戸幕藩体制と共に崩壊します。そして、明治政府

は、キリスト教も受け入れることになります。この時に、“何んらかの手当”が、必

要だったと思われるのですが、どうでしょうか...

  檀家制度は...制度としては崩壊しましたが...依然として、日本社会シス

テム一端を形成し、今日に及んでいます。それは、つまり、檀家制度に代わるも

のが、日本の社会にはなかったからです。

  西欧においては、キリスト教教会があり、きめ細かく民衆に対応しています。

でも、日本社会では、不完全な形/葬式仏教の形で、檀家制度がそれを担っ

てきたわけです。

  ともかく...〔明治維新〕において...檀家制度廃止したのならば、それに

代わる宗教体制を、再構築しておくべきだったと思います。

  それから、戦後/第2次世界大戦後戦後処理においても、宗教性が大きく損

なわれたように思います。

  現代/日本においては、様々宗教活動が許されています。したがって、一概

に、どれがいいとは言えませんが、伝統的な見地から...“仏教の再活性化が

・・・渇望される時代”...になった、ように思います...

 

  ええと...仏教について、色々と言いましたが、それでは、一茶俳句の方を、

見て行きましょうか...」

 

 <25>

    しづかさや湖水の底の雲の峰         
    

 

「...“湖水の底の雲の峰”...ですか...

  夏の、時間の止まったような、緩(ゆる)やかな一瞬ですね...それに、

“しずかさや”がかかり...非常に静謐(せいひつ: 静かで落ち着いていること)

情景を醸(かも)し出しています。 

  これは、一茶の故郷/柏原の近くにある、野尻湖を詠んだ句のようです

ね。ボス(岡田)の故郷とも近いわけですが、ボスの記憶では、初めて野尻

湖を訪れたのは、小学校の遠足の時だったと聞きました。そこで泳いで、

水中の小魚や水草を見たことが、今でも原風景の1つとして、鮮明に記憶

に残っているそうです。

  一茶の時代となると、それよりも、はるかに昔のことになるわけですね。

この句には、若い一茶の、情熱のようなものを感じます。もちろん、その時

代にはその時代の、野尻湖があったわけです。さらに大昔/4万年ほども

前となると、ナウマン象(/湖底から化石が発見されています)が闊歩(かっぽ)し、

野尻湖人などと呼ばれる縄文人も、湖水を眺めていたわけですね。

  芭蕉の句に...“閑かさや岩にしみ入る蝉の声”...という有名な句が

あります。これは、山形県/山形市の山寺(立石寺)を詠んだものですが、一

茶はこの芭蕉の句から、“閑かさや・・・しずかさや”を、連想したものと思わ

れます。

  山寺の閑かさ”は、“蝉の鳴き声が・・・岩にしみ込むような閑かさ”です

が...“野尻湖のしずかさ”は、“湖水の底に・・・雲の峰を映すしずかさ”、

ですね。

  夏の水辺の、平和な充足感と、若い情熱が感じられます。心に残してお

きたい、1句ですね...」

 

 <26>

    秋の夜や旅の男の針仕事     touge.13.jpg (1193 バイト)    

「...男の人の...旅宿での針仕事ですか...

  “秋の夜”が、深みを加えていますね。独り者の一茶は、年中こうした針

仕事をしていたのでしょうか。裁縫は基本的には女性の仕事でしたが、旅

人や、冒険者、それに戦に備える兵士たちには、明日の準備は不可欠で

すよね。それは、現代の山歩きなどでも変わりません。

  一茶は、針仕事をしながら、明日の道行きを思い、煙管(きせる)で一服

つけ、気の付いたことを句日記に書き留め、万端怠りなく、旅支度をしてい

たのでしょう...まさに、心静まる、男のロマンの一時ですよね...

  ともかく...極貧生活の行脚・俳諧師は、非常に真面目で、非常に勉強

家で、風交の友との出会いを楽しみに、生涯歩き続けていました。確かに

こうした時間と、生涯というものがあったわけです。それが、時代を超えて

伝えられ、私たちの共感を呼んでいます...」

 

 <27>

    通し給へ蚊蠅の如き僧一人        
                   (か) (はえ)   

 

「...ここは関所ですね...何処の関所でしょうか...

  関所とは、軍事・経済・治安に重要な場所で...参勤交代や、人や荷

物の往来を取り締まる場所です。一般の旅人が関所を通る時は、奉行所

や寺などが発行する、身分証明/通行手形を見せなくてはなりません。

  関所では...“入り鉄砲に出女”の監視...盗人や強盗の手配書...

その他、上からの御取調べもあり...どんな嫌疑をかけられるかも分かり

ません。街道筋で盗難や争い事があった時にも、厳しい身体検査や荷物

検査もあったわけですよね。

  一茶も、寺で発行してもらった通行手形はちゃんとあり、通れると分かっ

てはいても、関所での御取調べはいやなものだったようです。極度の威圧

と、緊張があったのでしょう。それに、大名行列にでもぶつかれば、長く待

たされることにもなります。

  この句では、そんな関所の溜まり場での、拝むような心境が詠まれてい

ます。治安の面でも、現代のような安定社会ではありませんでした。それ

に、関所は軍事的な意味が非常に大きいわけですから、その武力を背景

とした威圧感は、相当なものだったと思われます。

  “僧一人”とはうのは、一茶は僧形(そうぎょう)で旅をしていたからです。前

にも言いましたが、俳人/一茶は...十徳(独特の形状をした広袖の羽織/現

代では僧侶や茶道の宗匠などが用いる)をはおり、股引(ももひき)、手甲脚絆(てっこ

うきゃはん)に、菅笠(すげがさ)という旅姿です。腰帯には、煙草入れを差し込

み、懐には句日記を入れていたでしょうか。芭蕉の旅姿というのも、当時の

肖像画を見ると、こうした僧形だったようです。

  “蚊蠅の如き”とは...関所の御取調べを前にしての、消え入りそうな

一茶の謙遜です。それが可笑しく...“ともかく通してくれ”...と拝むよう

にしている一茶が、目の前に見えるようです。

  一茶は、芭蕉翁を慕っていましたが、一方では...“一茶には一茶の感

性/俳句道あり”...と大きな自負心もあったはずです。また、そのぐらい

でなければ、2万句に及ぶ発句(ほっく)は作れません。

  でも、それもここでは猫を被って...“さっさと通してくれ”...とへり下っ

ています。関所とは、善人の一茶でも、それほど怖い所だったのでしょう。

そして、それは、大名にとっても同じだったわけです。ともかく、関所とは難

儀な所だったようです。

  江戸幕府は、交通網を整備する一方、江戸を防備するために、周辺の

街道には多くの関所を設けました。特に重要な関所としては...東海道で

は、“箱根関”と“新居関”です。甲州街道では、小仏峠の“小仏関”...中

山道では、碓氷峠の“碓氷関”と、“木曽福島関”ですね。

  それから...日光街道では“栗橋関”です。ここは、栗橋宿(現在の埼玉県

栗橋町)に置かれた関所で、“箱根関”と“碓氷関”と並ぶ三大関所の1つで

す。江戸を守備する、重要な軍事拠点になっていましたが、ここは峠では

ありません。背後に利根川があり、その向こうには古河宿(古河城下の宿場

で・・・現在の茨城県/古河市の中央町・本町・横山町に相当)がありました。

  一見...のどかな江戸時代に思われますが...軍事・経済・治安の面

での締め付けも、しっかりと行われていたわけですね。一茶の時代には、

長い江戸幕藩体制の中にあって、ようやく北方でも、オロシャ(ロシアの旧称:

 江戸時代の末期に用いられた)が、騒がしくなってきています...」

 

 <28>

    蝶とぶや此世に望みないやうに   
                    (このよ)
                      

「...蝶が飛んでいる...“此世に望みないように”...

  とは...淋しく悲しい句ですね。いったい一茶は、どういう状況下で、こ

の句を読んだのでしょうか。“存在すること/生きていること”への、淋しさ

がこみ上げてくる句です。

  一茶のような...百姓育ちの努力家、行動力のある外交家、小さきも

のへの愛情豊かな人間性は...真に落ち込むことなどは、ないように思

われるのですが...さすがに、鋭敏すぎるほどの感性も、持ちあわせてい

るということでしょうか。

  一茶の俳句は、明るい感性が光りますが、彼の俳句修行の生涯という

ものは、創作の喜びもありましたが、挫折・疎外感・極貧生活、そして勤勉

努力の連続でした。

  でも、そうした中にあって、一茶なりに友も多くあり、江戸下町の庶民生

活を謳歌していました。女性には好かれませんでしたが、芝居・講談・落と

し話、それに酒もタバコも好きでしたし、甘いものも好きだったようです。

  こうしたことから、一茶の陽気な生命力の強さ、というものを感じます。ま

た、へこたれない不屈の生真面目さ、反骨精神、そして優しさも、一茶の句

の真骨頂です。でも、そうではあっても、こうした存在に対する絶望感という

ものも、詠んでいるわけですね。

  ふーん...それにしても...黙って三途の川の上を飛んでいくような、

淋しく悲しい蝶の姿です。私は、このような淋しさというものには、正直なと

ころ、初めて接しました。命の本質的な淋しさ、本質的な孤独感、そして無

言で消えていく、淋しさでしょうか。

  もっとも...一茶の句として、その感性は汲み取りましたが...わたし

の世界観/人生観は、それとはだいぶ違います。一茶は、当時の仏教的

世界観をもって、彼岸へ飛び去って行く蝶のような淋しさを詠んでいるわけ

ですね。でもそれは、“その人/その時代”の世界観によって、異なると思

います。

  私は...高杉・塾長の提唱されている、“36億年の彼”のパラダイムを

信じています。命の本質は、生態系の個体群の上を、時間軸に沿って波

のように渡って行くもの...太極(たいきょく: /易に太極あり)へ帰って行くもの

と思っています。そして私という人格も、その“36億年の彼/超越的人格”

の中へ、昇華・吸収されて行くものと思っています。それが、ニルバーナ(涅

槃/ねはん)なのだと...

  あ、申し訳ありません...これは、あまりにも淋しく悲しい句に接したの

で、元気を取り戻すための、私の言いわけです。私の人生観の確認です。

 

  ともあれ、一茶も...この句を詠んだ後も...酒を呑み、煙管(きせる)

でタバコをふかし、句日記を懐に入れて、人生の旅路を歩いているわけで

す。歩くこと、行動することで、そうした絶望の黒い霧も晴れて行ったのだと

思います。

  それが、“生きる”という、ベクトル(力と方向)なのだと思います。生命体に

内包された、“存続/安定/新陳代謝”という、本能的なベクトルの発現で

す。そうして、私たちは歩き続け、何故とも知らず、存在し続けるわけです

ね。それが、命というものなのでしょう。

  ええと...この句の背景ですが...幾つか、心当たりがあります。それ

は、一茶が48歳の時、一茶の女弟子である上総(千葉県中部)/富津の織

本花嬌(おりもと・かきょう)が亡くなっています。一茶という人間を深く理解して

くれた、高根の花のような未亡人です。この時は、一茶もよほどこたえたよ

うです。

  それから、もう1つ...これは、晩年になりますが...故郷の信濃/柏

原に引きこもって、結婚した後の句かも知れませんね。一茶は晩年、次々

と我が子に先立たれています。長男/千太郎は1カ月で死に、長女/さと

は2歳で死に、二男/石太郎、三男/金三郎も2歳そこそこの、薄命だっ

たようです。

  この辺りのことは...申し訳ありません...もう少し、一茶の研究を深

めていけば、分かって来るかと思います。その時に、またコメントをしたい

と思います。

  ともかく、この句では...深い淋しさ悲しさというものを、一茶の俳句で

知りました。俳句とは、こういうことも、教えてくれるわけですね。こういうこ

とを知り、人は優しくなれるのでしょうか...」