Community Space ボスの展望台ボスのTwitter文学/響子の小倉百人一首/<61~80>

         響子の・・・ 小倉百人一首  

     4 <61 ~ 80 /完 >   (2015年/7月30日~翌/1月30日) 


 
                           
    

トップページNew Page WaveHot SpotMenu最新のアップロード         担当: 里中 響子 

                               

【61番 → 伊勢大輔】  いにしへの 奈良の都の 八重桜 けふ九重に にほひぬるかな
【62番 → 清少納言】   夜をこめて 鳥の空音は はかるとも よに逢坂(あふさか)の 関はゆるさじ
【63番→左京大夫道雅】   今はただ 思ひ絶えなむ とばかりを 人づてならで いふよしもがな
【64番→権中納言定頼】   朝ぼらけ 宇治の川霧 たえだえに あらはれわたる 瀬々(せせ)の網代木(あじろぎ)
【65番 → 相模(さがみ)  恨みわび ほさぬ袖だに あるものを 恋にくちなむ 名こそ惜しけれ
【66番 → 大僧正行尊】  もろともに あはれと思へ 山桜 花よりほかに 知る人もなし
【67番 → 周防内侍】  春の夜の 夢ばかりなる 手枕に かひなく立たむ 名こそ惜しけれ
【68番 → 三条院】  心にも あらでうき世に ながらへば 恋しかるべき 夜半の月かな
【69番 → 能因法師】  嵐吹く 三室(みむろ)の山の もみぢ葉は 竜田の川の 錦なりけり
【70番 → 良暹法師】  さびしさに 宿を立ち出でて ながむれば いづくも同じ 秋の夕暮
【71番 → 大納言経信】  夕されば 門田の稲葉 おとづれて 蘆(あし)のまろ屋に 秋風ぞ吹く
【72番 → 佑子内親王家

紀伊】
 音に聞く 高師(たかし)の浜の あだ波は かけじや袖の 濡れもこそすれ
【73番→前中納言匡房】  

 高砂(たかさご)の 尾上(をのへ)の桜 咲きにけり

                     外山(とやま)の霞(かすみ) 立たずもあらなむ

【74番 → 源俊頼朝臣】  (う)かりける 人をはつせの 山おろしよ はげしかれとは 祈らぬものを
【75番 → 藤原基俊】  契りおきし させもが露を 命にて あはれ今年の 秋も去(い)ぬめり
【76番 → 法性寺入道

前関白太政大臣】

 わたの原 漕ぎ出でて見れば ひさかたの 雲居にまがふ 沖つ白波
【77番 → 崇徳院】  瀬をはやみ 岩にせかるる 滝川の われても末に あはむとぞ思ふ
【78番 → 源兼昌】  淡路島(あわじしま) かよふ千鳥の なく声に 

               幾夜(いくよ)寝ざめぬ 須磨(すま)の関守
(せきもり)
【79番→左京大夫顕輔】  秋風に たなびく雲の 絶えまより もれ出づる月の 影のさやけき
【80番→待賢門院堀河】  長からむ 心も知らず 黒髪の みだれて今朝は ものをこそ思へ

 

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 7月 30日

岡田健吉‏@zu5kokd1 伊勢大輔   

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(566)

【61番 → 伊勢大輔】(いせのたいふ、いせのおおすけ/平安時代中期の女流歌人。大中臣輔親の娘。祖父

                    は・・・【49番 → 大中臣能宣】(★ みかきもり 衛士のたく火の 夜はもえ 昼は

                    消えつつ ものをこそ思へ)で・・・伊勢祭主、後撰和歌集の撰者の1人、三十六歌仙

                    の1人です。父/大中臣輔親も伊勢祭主、中古三十六歌仙の1人。伊勢祭主の家系

                    で、歌人の家系です。

                    伊勢大輔は・・・高階成順に嫁し・・・康資王母・筑前乳母・源兼俊母など優れた歌人を

                    生みました。中古三十六歌仙女房三十六歌仙の1人です。)


★ いにしへの 奈良の都の 八重桜 けふ九重に にほひぬるかな


  < その昔…

         奈良の古き都に…

                咲き匂った八重桜…

            それが今日は…

                    九重の宮中に…

                           美しく咲き誇っています… >


岡田健吉‏@zu5kokd1 伊勢大輔   

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(567)

「このは…

『詞花集(/『詞花和歌集』(しかわかしゅう)は・・・八代集の第六にあたる勅撰和歌集) - 巻1』詞書に…

<一条院の御時、ならの八重桜を人の奉りけるを、その折御前に侍りければ、そ

の花を題にて歌よめとおほせごとありければ>

…として、載っています。

有名な歌で、分かりやすい歌ですよね…

 

岡田健吉‏@zu5kokd1 伊勢大輔   

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(568)

<いにしへ = 古><けふ = 今日><八重桜><九重>対応させ…巧み

にまとめています。

<九重>皇居のことで、宮中をさします。昔の中国では、宮門九重に巡らせた

(/大昔にあった物や出来事から、こう呼ばれました。

このは…詞書にありますが、作られた時の背景が重要です。



 8月 3日

岡田健吉‏@zu5kokd1 伊勢大輔   

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(569)

伊勢大輔(いせのたいふ、いせのおおすけ)は…一条天皇中宮/彰子に仕え始めた、新参

若い女房です。彼女は…代々伊勢祭主の家系であり、また代々歌人の家系に生ま

れていました。


春たけなわの宮廷…

女房や殿上人(てんじょうびと/五位以上の人、及び六位の蔵人(くろうど)で殿上にのぼることを許された人が、

花やかに集います…


そこに…奈良僧都(そうず/僧官の1つ。僧綱のなかの第2位。推古 32年 (624) 年に、この官位が設けられ

た。正五位または正四位に叙された。)から、大ぶり咲き誇った八重桜が届けられまた…

 

岡田健吉‏@zu5kokd1 伊勢大輔   

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(570)

宮廷の花やかさは…

見事な八重桜の到着で、いっそう花やぎ…

そこに大ぶりの八重桜が、凛(りん)と匂うように輝き…

宮廷の花やかさは極致に達していました…


使者から八重桜を受け取り、御前に捧げる役割は、古参/紫式部に与えられていま

す。でも彼女は、そのような事で、ひけらかす必要のない人柄でした。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1 伊勢大輔   

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(571)

そこで、新参伊勢大輔に、まさに、持たせようと思い…

「今年のお取り次ぎは、新しくいらした方にどうぞ」

…と言います。

すると道長(/中宮・彰子の父親で、時の権力者)声が掛かります。

「うむ、それもよい。新参の伊勢に頼もう。ただし、桜を受け取る時には、歌を詠

まねばならぬぞ」

 

岡田健吉‏@zu5kokd1 伊勢大輔   

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(572)

「おお、そういえば・・・」

…並み居る、公達(きんだち/1、 親王・諸王など、皇族の人々。2、摂関家・清華家(せいがけ)などの子弟・子

女)1人が言います。

「伊勢大輔どのは名高い歌詠(うたよみ)のお家柄。ここはぜひ、佳(よ)き歌のあるべ

きところ」

一座視線は、伊勢大輔に集まります。

彼女家名を背負い、一世一代の事態緊張します。でも、紫式部洞察力は、彼女

なら出来る…と見抜いていたのですね。



 8月 4日

岡田健吉‏@zu5kokd1 伊勢大輔   

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(573)

さあ…伊勢大輔が、小さな唇を結び…うなづきます…


★ 「いにしへの・・・」


彼女が、緊張した若い娘の声で、緩やかに
(うた)始めると…華やいだ宮廷の中

が、水を打ったように静まり…聞き耳を立てます。彼女頭の中には、が湧く様に

が浮かんで来ます。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1      

                                                               『石山月』 (月岡芳年『月百姿』) ・・・『源氏物語』を執筆する紫式部

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(574)

★ 「・・・奈良の都の・・・八重桜・・・けふ九重に・・・にほひぬるかな・・・」


並みいる女房殿上人達が…水を打った静けさから…ドッ沸きかえり宮廷感嘆

の声に包まれます。

「見事じゃ!」と…道長も言ったのでしょうか。

紫式部も、新参大仕事に、にうなづき返します。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1     

                                                                  ( 『紫式部日記絵詞』 より )/・・・画中表示・・・

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(575)

中宮/彰子は…自分の所新参女房才気を、大いに喜ばれ…それでは、と返歌

お返しになられました。


★ 「九重に・・・にほふを見れば・・・桜狩(さくらがり)・・・

                  重ねてきたる・・・春かとぞ思ふ・・・」


彰子伊勢大輔<九重>をふまえ、宮中は去ったが、重ねて春が来た様

、と詠みます。が散った後に、八重桜が満開になるわけですね。




 


 


 






 


 


 8月 8日

岡田健吉‏@zu5kokd1 伊勢大輔   

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(576)

当時宮廷人達は…

こんな風に遊び学び研鑽(けんさん/学問などを磨き、深めること)を重ね、宮廷運営していた

わけです。天皇家があり、藤原氏摂関政治を行い…権謀が渦巻く中でも、素朴に

耳を澄ませ女性も輝いていました。

平安時代日本の人口は…およそ600万人台で、横這いで推移しています。そうした

中での、古の王朝ですね…

 

岡田健吉‏@zu5kokd1 伊勢大輔   

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(577)

このは…

すらりと詠めば<八重><九重>のと頓智(とんち/機に応じて即座に働く知恵。機知)の様な

です。でも背景事情を知ると、伊勢大輔当意即妙(とういそくみょう/すばやくその場面に適応

して、機転をきかすこと。)機知(きち/その場に応じてとっさに働く鋭い知恵。ウイット。)が輝いて来ます。

小式部内侍(こしきぶの・ないし)の…からかわれて切り返す機知に、このが並ぶわけです

が、小娘の機知というものを…定家(/『小倉百人一首』の編集者)は…重く見ている様ですね

…」



 8月 9日

岡田健吉‏@zu5kokd1 清少納言   

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(578)

【62番 → 清少納言】(せいしょうなごん/平安時代の女流作家、歌人。随筆/『枕草子』が有名です。<梨壺の五

                   人>の1人で、著名歌人であった清原元輔の晩年の娘。曽祖父または祖父に、『古今和歌集』

                   の代表的歌人/清原深養父(きよはらの・ふかやぶ)がいる。)


★ 夜をこめて 鳥の空音は はかるとも よに逢坂(あふさか)の 関はゆるさじ



  < 夜が明けないうちに…

          鶏の鳴き真似をして…

                 人をだまそうと、函谷関(かんこくかん)の真似を謀(はか)っても…

              この逢坂の関は許しません…

                     だまそうとしても、決して逢(あ)いませんよ… >

 

岡田健吉‏@zu5kokd1 清少納言   

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(579)

「このは…『後拾遺集 - 巻16/雑』にあり、長い詞書があります。でも、便宜上、『枕

草子』の方から、歌の背景を見てみましょう。

清少納言は…一条朝(/第66代・一条天皇の時代)<四納言>(しなごん/源俊賢・藤原公任・藤原

斉信・藤原行成・・・<四納言>の言葉の由来は、漢の高祖の時代に実在した<四皓>と呼ばれた賢者に例えられたと

言われています。<四納言>は藤原道長・政権を積極的に支えた、すぐれた公卿たち。)1人/大納言行成

藤原行成/・・・藤原北家、右少将・藤原義孝の長男・・・能書家として三蹟の1人に数えられ、その書は後世『権蹟』(ご

んせき)と称された。書道/世尊寺流の祖。)とは親友でした。

恋人というよりは…気の合う、年下ボーイフレンドでしょうか…

 

岡田健吉‏@zu5kokd1 清少納言   

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(580)

清少納言については…

これまでも何度か触れていますが…第66代/一条天皇中宮/定子にお仕えし、

(だいり/天皇の住む御殿。皇居)お局(おつぼね/・・・寝殿造(しんでんづくり)の宮殿内に、屏風(びょうぶ)

几帳 (きちょう/室内の仕切りに立てた道具)などで区画されて設けられた部屋・・・転じて、そこに居住を許された女房な

どをいう・・・)を頂いている身分です。

紫式部和泉式部赤染衛門伊勢大輔が仕える中宮/彰子は、権力者/道長の娘

で…強引に、中宮押し込んだ形でしょうか。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1 清少納言  

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(581)

そして、やがて…

中宮/定子3度目出産があり…その直後に、定子亡くなられます。以後、中宮

/彰子名実ともに一条天皇中宮となります。

この話は…清少納言がまだ、内裏お局を頂いていた頃ですから、中宮/定子

在だった頃の話になりますね。



 8月 20日

岡田健吉‏@zu5kokd1 清少納言   

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(582)

さて…そんな清少納言(つぼね)に、ボーイフレンド藤原行成(ふじわらの・ゆきなり)が来

て、話し込んでいます。

行成一条朝・四納言(いちじょうちょう・しなごん/源俊賢・藤原公任・藤原斉信・藤原行成・・・藤原斉信が大

納言、他の3人が権大納言まで昇った。)1人で、能書家(のうしょか/歴史上の書人で今も書名の高い人物・・・

行成は、書道/世尊寺流の祖。)です。

行成は…【51番 → 藤原実方朝臣で、実方(さねかた)敵役(かたきやく)として紹介して

います。殿上(てんじょう/御殿の中・・・特に、清涼殿にある殿上人の詰所)で、実方(しゃく)(かん

むり)打ち落とされ庭に捨てられた、蔵人頭(くろうどのとう/蔵人所の実質的な長。勅旨や上奏を伝

達する役目を受け持つなど・・・天皇の秘書的役割を果たす。)です。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1 清少納言   

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(583)

話し込んでいるうちに…夜も更け…

行成は…<明日は宮中の御物忌(おんものいみ)にこもらねばなりませんから>と…急

いで帰って行きました。

そして…あくる朝早く行成からが来ます…

<まだ話し足らぬ気持ちですよ。鷄の声に催促されて、帰ってしまいましたが、>



 8月 21日

岡田健吉‏@zu5kokd1  

                                                           清少納言 (菊池容斎・画/明治時代)

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(584) 

  「申し訳ありません

             584 ~ 588  を修正し・・・再アップロードします」


(ふみ)といえば…行成能書家です。この走り書きも、さぞ後の世の手本となるよう

な、見事な筆跡だったのでしょう。

清少納言は…さすがね…と行成墨跡(ぼくせき)の流れを眺めつつ、ほくそ笑みます。

そして直ぐに、負けじと、機知を総動員して返歌を詠み…行成に送ります。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1  

                                                           清少納言 (菊池容斎・画/明治時代)

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(585)

  「申し訳ありません

             584 ~ 588  を修正し・・・再アップロードします」

 

★ 夜をこめて 鳥の空音は はかるとも よに逢坂の 関はゆるさじ


清少納言気持ちは、こうですね…


       “ほほ…鷄
(とり/にわとり)の声ですって?

            あの夜更けに?

                 それは函谷関(かんこくかん)

                      孟嘗君(もうしょうくん)の鷄の鳴き声かしら?”


これは…中国『史記』(しき/中国・前漢の武帝の時代に司馬遷によって編纂された中国の歴史書)にあ

故事を引用したものですよね。能書行成に、得意機知対抗したのでしょうか?

 

岡田健吉‏@zu5kokd1  

                                                           清少納言 (菊池容斎・画/明治時代)

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(586)

  「申し訳ありません

             584 ~ 588  を修正し・・・再アップロードします」



中国における戦国時代

(せい)王族/孟嘗君(もうしょうくん/田文(でん・ぶん)のことであり、戦国四君の1人。斉の威王の孫に

当たる。)秦王(/初代・始皇帝に捕らえられ、後に脱出して函谷関まで逃げ延びます。

函谷関までが関中(かんちゅう/関中は、函谷関の西側の地域。現在の中国陝西省渭水盆地の西安を中心

とした一帯。春秋戦国時代の秦の領地であり・・・その後、前漢・唐も、この地に首都を置きます。その都/長安/現

在の西安は、咸陽の郊外に別に造られました。)であり…都/咸陽(かんよう/秦朝の首都)を守る難攻

不落要害(ようがい/地勢がけわしく、敵を防ぐのに適している所)であり、そこに作られた関所

す。

孟嘗君は、夜陰に紛れて函谷関まで来ましたが、関所鷄が鳴くまでは開きません。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1   

                        清少納言  (枕草子絵巻/鎌倉時代)

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(587)

  「申し訳ありません

             584 ~ 588  を修正し・・・再アップロードします」


でも…

孟嘗君食客(しょっかく、しょっきゃく/居候(いそうろう)、客の待遇で養われている人)の中に、鷄の鳴き

真似(うま)い者がいました。それではと…彼が一番鷄鳴き声を発すると、

次々と鳴き出し、関所の門が開けられます。

うーん…(だま)されたのは、なのか、関所の役人なのか?ともかく、孟嘗君虎口

(ここう/恐ろしい虎の口の意で・・・非常に危険な所、危険な状態の例え)を脱し、無事関中の外に出ま

した。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1   

                        清少納言  (枕草子絵巻/鎌倉時代)

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(588)

  「申し訳ありません

             584 ~ 588  を修正し・・・再アップロードします」


清少納言は…

この函谷関故事にかけて返歌を詠み…能書家の墨跡に、エイッ、と打ち込みます。

教養の高い芸術家どうしの、(いき/さっぱりした気立てで、あかぬけがし、色気もただようこと)

度な遊びですね。いかにも、清少納言ラシイという事でしょうか?

打てば響くように…故事直下に理解した行成は、清少納言機知嬉しくてしょう

がありません。それで、またを返します…



 8月 22日




岡田健吉‏@zu5kokd1        

★★★★★ 《 響子の・・・ 小倉百人一首 》 ★★★★★

 【★(584~588)を訂正します★】  


「…(>_<)… 申し訳ございません!

しばらく、間が空いたので…勘違いしてしまいました。

(584~588)を削除し、修正して、再度アップロードします…」

 

岡田健吉‏@zu5kokd1  

                                                           清少納言 (菊池容斎・画/明治時代)

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(584)  (★ 修正)


といえば…行成能書家です。この走り書きも、さぞ後の世の手本となるような、

事な筆跡だったのでしょう。

清少納言は…さすがは…と行成墨跡の流れ(ほ)れ惚れと眺めつつ、返事を書き

ます。

<鷄(とり/ニワトリ)の声ですって? あの夜更けに?

                 それはきっと、孟嘗君(もうしょうくん)の鷄なのね、>

 

岡田健吉‏@zu5kokd1  

                                                           清少納言 (菊池容斎・画/明治時代)

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(585)  (★ 修正)


清少納言の言う<孟嘗君の鷄>は…中国『史記』にある故事ですよね…

中国春秋戦国時代(せい)王族/孟嘗君(もうしょうくん/田文(でん・ぶん)のことであり、戦

国四君の1人。斉の威王の孫に当たります。)秦王(/初代・始皇帝に捕らえられ、後に脱出して

谷関(かんこくかん)まで逃げ延びます。

函谷関までが関中(かんちゅう/関中は、函谷関の西側の地域。現在の中国/陝西省/渭水盆地の西安を中

心とした一帯。春秋戦国時代の秦の領地であり・・・その後、前漢・唐も、この地に都を置きます。その都・・・長安/現

在の西安は・・・秦の都/咸陽の郊外に、別に造られました。)であり…都/咸陽(かんよう)を守る難攻不

落の要害(ようがい/地勢がけわしく、敵を防ぐのに適している所)であり、そこに作られた関所です。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1  

                                                           清少納言 (菊池容斎・画/明治時代)

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(586)  (★ 修正)


孟嘗君(もうしょうくん)は…

夜陰に紛れて函谷関まで来ますが、関所が鳴くまで開きません。でも、孟嘗君

食客(しょっかく、しょっきゃく/居候(いそうろう)、客の待遇で養われている人・・・剣豪/宮本武蔵も、豊前・小倉藩の

家老/小笠原忠真の食客でした。の中に、鷄の鳴きまね(うま)い者がいました。それでは

と、彼が一番鷄鳴き声を発すると、が次々と鳴き、関所の門が開けられます。

うーん…(だま)されたのは…なのでしょうかか?関所の役人なのでしょうか?

 

岡田健吉‏@zu5kokd1  

                        清少納言  (枕草子絵巻/鎌倉時代)

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(587) (★ 修正)


ともかく、孟嘗君は…偽りの鷄の鳴き声で、虎口(ここう/恐ろしい虎の口の意で・・・非常に危険な

所、危険な状態の例え)を脱し、無事関中の外に逃れました。

行成が…<鷄の声に催促されて>に書けば…清少納言打てば響くように、

<孟嘗君の鷄なのね>と…切って返す。

能書家漢籍(かんせき/中国の書籍。漢文で書かれた書物。)堪能(たんのう/その道にすぐれているこ

と)行成は…これが嬉しくてたまらない。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1  

                        清少納言  (枕草子絵巻/鎌倉時代)

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(588) (★ 修正)


行成は、またを返します…

<あれは函谷関の事でしょう。

      あなたと私は逢坂の関ですよ。

           その名も色っぽい、忍び逢いの逢坂じゃないですか・・・>

これは、少々、行成筆が滑った感じです。2人恋人同士なら、こんな思わせぶりな

を、書く必要もないわけですね。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1  

                        清少納言  (枕草子絵巻/鎌倉時代)

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(589)


さあ、そこで…清少納言この歌

彼女で、行成突っ込み過ぎに、一矢報(いっしむく)いているわけですね。


★ 夜をこめて 鳥の空音(そらね)は はかるとも よに逢坂の 関はゆるさじ



清少納言は…函谷関ならともかく、逢坂の関絶対ダメですよ、と詠んでいます。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1  

                        清少納言  (枕草子絵巻/鎌倉時代)

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(590)


『枕草子』によれば…にはこの歌の後に、もう一行書き添えてありました…

<心かしこき関守はべり> <しっかりした、関守がいますよ>

この歌よくできた歌だから、行成が言いふらし、人々の評判になった様です。清少納

も、カラリとした性格で、それを(とが)めるのではなく、一緒に喜んだ様子です…」



 9月 5日

岡田健吉‏@zu5kokd1左京大夫道雅

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(591)

【63番 → 左京大夫道雅】(さきょうの・だいぶ・みちまさ/・・・藤原道雅・・・儀同三司伊周の長男。弟66

                       代・一条天皇の皇后/定子の甥

                       祖父・中関白道隆に溺愛されるも、道隆は死去し、翌年、内大臣の父・伊周が花

                       山法皇に対し弓を射掛ける不敬事件を起こし、大宰権帥に左遷され(長徳の変)

                       実家の中関白家が没落する中で成長しました。権力者は叔父/道長の時代。)


★ 今はただ 思ひ絶えなむ とばかりを 人づてならで いふよしもがな



  < 今はもう…

       あなたへの想いを…

             あきらめてしまおう…

          このことだけを…

                人づてではなく、直接逢って…

                     言う方法があってほしいものだ… >


岡田健吉‏@zu5kokd1左京大夫道雅

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(592)

このは…『後拾遺集 - 巻13/恋』に…次のような詞書があり、載っています…

<伊勢の斎宮わたりより、まかり上りて侍(はべ)りける人に忍びて通ひける事をお

ほやけもきこしめして、守り女(まもりめ)などつけさせ給ひて、忍びにも通はずなりに

ければよみ侍りける>

 

岡田健吉‏@zu5kokd1左京大夫道雅

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(593)

うーん…このは、『百人一首』の中でも屈指の秀歌と言われます。歌人ではない道雅

が、悲恋に苦しみ歴史の中に輝く秀歌を残しました。

和歌というのは、こうした秘めた想いを謳(うた)い上げるのに、非常に優れた文学なので

しょうか。(いにしえ)の王朝の恋の風景ですね。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1左京大夫道雅

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(594)

比較的長い詞書(ことばがき)があるように、この歌深い事情があります…

第67代/三条天皇が…政治的立場健康上の理由譲位されたのは1016年(長和

5年)です。御代替(みよが)わりとなれば、伊勢斎宮(いせさいぐう/伊勢神宮に奉仕した斎王の御所。

平安時代以降は、賀茂神社の斎王(斎院)と区別するため、斎王のことも指しました。)お代わりになります。

前・斎宮は…三条天皇娍子(せいし)皇后皇女/当子(とうし)内親王です。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1左京大夫道雅

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(595)

当子内親王は…

10歳斎宮となられて神に仕え5年の間清らかな暮らしを過されて来ました。その

斎宮の任を解かれ、伊勢から帰京された内親王は、涼やかな美少女に成人されていま

した。譲位された三条院皇后も、この姫宮深い想いで迎えられました。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1左京大夫道雅

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(596)

そして…

その翌年春頃から…不思議な噂が広がりました。清らかな花の様な16歳の姫

に、三位中将(さんみのちゅうじょう)・道雅が通っているというです。

藤原道雅は…中関白家(なかの・かんぱくけ/藤原北家の中の・・・平安時代中期の関白・藤原道隆を祖とす

る一族)嫡男ですが、父/伊周失脚してからは、政治生命が絶たれています。

(★ 父/伊周の失脚・・・伊周は8歳年上の叔父/道長ら3人の先任者を飛び越えて内大臣に昇進。伊周の後任の権

大納言は3歳上の異母兄/道頼に譲るという強引な伊周への官位引き上げは、一条天皇の生母東三条院詮子(道隆

の妹)をはじめとして朝野上下の不満を募らせた。

道隆が薨去後・・・人々の伊周への反発を招き、道長の政権奪取の素地を作りました・・・)



 9月 7日

岡田健吉‏@zu5kokd1   左京大夫道雅     

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(597)

道長一族全盛の世で…道雅出世を断絶さたれた、悲運貴公子でした。

一方、皇女というのは…原則独身生涯を終える事になっていた様です。『源氏物

語』にも、<内親王だから、独身でいらっしゃればよかったのに>と、嘆いている下

りがある様ですね。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1   左京大夫道雅     

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(598)

うーん…内親王として宮殿に留まり…子を産むこともできたのでしょうか。そうだとした

ら、その方が楽ですよね。

『小倉百人一首』編者/藤原定家が密かに想いを寄せたのも、式子(しきし)内親王

言われていますよね。文献によれば、内親王家というような言葉もあり、女主(おんなある

じ)の家を形成していた様ですね。

(★ 定家の父/歌人/藤原俊成(ふじわらの・しゅんぜい)も定家も・・・この内親王家に出入りしていた様子です。式子

内親王の依頼で、歌論書/『古来風体抄』(こらいふうていしょう)を執筆し、定家もこれを手伝っていた様です・・・)

岡田健吉‏@zu5kokd1   左京大夫道雅     

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(599)

あ、でも…

自由恋愛などは以ての外(もってのほか)だった様ですね。結婚望むのであれば、天皇

適当な相手を選び、皇室から降嫁(こうか)せしめられました。天皇身内ともなれば、

大騒動火種にもなるからです。

それで…内親王として、宮廷内で、大人しくしているのであれば…めでたし、という事

ですね。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1   左京大夫道雅     

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(600)

さあ…当子内親王不思議に戻りますが…

皇后心配され、ついに三条院お耳にも入ります。御立腹され、内親王のおそ

ばに<守り女>をお付けになります。

これで…道雅忍んで逢うことも、かなわなくなります。世間では、益々広がりま



 9月 8日

岡田健吉‏@zu5kokd1   左京大夫道雅     

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(601)

三条上皇処置に対し、道雅同情する人々もありました。

『伊勢物語』で、在五中将(ざいごちゅうじょう)・在原業平(ありわらの・なりひら/平安時代初期のスーパー

スター・・『伊勢物語 - 第6段/芥川』 で、二条の后/高子姫との逃避行も有名です。)が、伊勢斎宮忍び逢

ったという話もあるではないか。しかも、当子内親王はすでに、斎宮を下りられているで

はないかと…

でも…三条院お怒り解けませんでした。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1   左京大夫道雅     

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(602)

皇后も、ご兄弟の宮々も…姫宮のご様子に接しられ、大変お苦しみになられます…

そして、道雅も苦しんだわけですね。どんなにしても、もう高貴な恋人には、二度近づ

くことがかないません。そこで、わずかな風の便りにことづけて、姫宮を贈ります。



 9月 9日

岡田健吉‏@zu5kokd1      

                          左京大夫道雅/百人一首図会  版本

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(603)

★ 榊葉(さかきは)の ゆふしでかげの そのかみに 押し返しても 似たる頃かな


  < あなたが神々に仕えられていた頃…

       榊(さかき)の葉の木綿四手(ゆうしで/木綿をたらすこと)で、清らかに護られて…

             俗人は近付けなかったように…

                   今のあなたも、やはり近付けないのですね… >


岡田健吉‏@zu5kokd1      

                          左京大夫道雅/百人一首図会  版本

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(604)

このも…

『後拾遺集 - 巻13/恋』にあるのですが…他にも何首か道雅の歌が載っています。

悲運の貴公子/道雅は…にもある様に…諦めるにせよ、せめてもう一度逢って

自分の気持ちを伝えておきたい…という思いが深かった様ですね。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1     

                          左京大夫道雅/百人一首図会  版本

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(605)

ええと…もう1首…紹介します。


★ 陸奥
(みちのく)の 緒絶(をだ)えの橋や これならむ

                 踏みみ踏まずみ 心惑(こころまど)はす


  < 陸奥の…

       緒絶えの橋というのは、これなのか…

             踏み渡ったり、踏み渡らなかったり…

                   (文を頂いたり、頂けなかったり…)

                          思い乱れています… >


岡田健吉‏@zu5kokd1      

                          左京大夫道雅/百人一首図会  版本

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(606)

道雅は…このを密かに、姫君御所高欄(こうらん)に結び付けてきました。そしてこ

に、『小倉百人一首』で採られた…


★ 今はただ 思ひ絶えなむ とばかりを 人づてならで いふよしもがな


…のが添えられていました。道雅(こ)がれる恋心が…古の彼方(いにしえのかなた)

から、(しの)ばれます。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1      

                          左京大夫道雅/百人一首図会  版本

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(607)

『栄華物語』(えいがものがたり/・・・平安時代後期の歴史物語。『大鏡』男性官人の観点を貫くのに対し・・・

年体の体裁をとる『栄花物語』女性の手になるため・・・構造や行文には、『源氏物語』などの女流文学の投影が色濃

く見える様です。)によると…

当子内親王悲しみも、また深く…その年の秋17歳で髪を下ろしになられます。

斎宮(さいぐう/伊勢斎宮)になるのもヘンかも知れませんが、斎宮に戻るわけにもいき

ません。

天皇家では…第40代/天武天皇<国づくり>より、神道仏道非常に近かった

という事が分かりますよね。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1      

                          左京大夫道雅/百人一首図会  版本

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(608)

清らかな花の様な当子内親王は…になられた後…やがて、若くして亡くなられます。

一方、道雅三条院勘当もあり…道長の権勢の下では栄達も絶たれ…<荒三位>

(あらさんみ)<悪三位>(あくさんみ)と呼ばれる程に、素行が荒れ狂ったと言います。

この結末を聞けば…人々若い2人贔屓(ひいき)し、周囲が苦しまれた事情も分かり

ます…」

(★/道雅は・・・一方で和歌は巧みであり、中古三十六歌仙の1人としても知られています。うーん・・・若い頃は、歌人

ではなかったのかも知れませんが・・・『後拾遺和歌集』に5首、『詞花和歌集』に2首と、勅撰和歌集に合わせて7首が

入集されていますから、和歌での功績は大きいですよね。晩年は、出家の直後に薨(こう)じています。これは当子内親

王と似ているかも知れませんね。)



 9月 14日

岡田健吉‏@zu5kokd1 権中納言定頼

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(609)

【64番 → 権中納言定頼】(ごんちゅうなごん・さだより/平安時代中期の公家・歌人。権大納言・藤原公任

                        の長男中古三十六歌仙の1人。 少し軽薄な性格であったようで、小式部内侍

                        にやり込められた逸話が残っています。相模や大弐三位などと関係を持った。音

                        楽・読経・書の名手であり、容姿も優れていた様ですが・・・病のため出家します。)


★ 朝ぼらけ 宇治の川霧 たえだえに あらはれわたる 瀬々(せせ)の網代木
(あじろぎ)


  < 朝ぼらけの頃… 

                    空が徐々に明るくなり…

               宇治川の川面の朝霧も薄らぐ…

             切れ切れの霧の間から…

                   瀬々に打ち込まれた…

                         網代木が見えて来る… >


岡田健吉‏@zu5kokd1 権中納言定頼

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(610)

この歌は…『千載集 - 巻6/冬』に、<宇治にまかりて侍りける時よめる>として、

載っています。

歌の背景には…『万葉集』柿本人麿があると言われています。そのとは…


★ もののふの 八十
(やそ)宇治川の 網代木に いさよふ浪の ゆくへ知らずも


岡田健吉‏@zu5kokd1 権中納言定頼

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(611)

  < 宇治川の…

                      網代木に漂う波のように…

                 行く末が分からないことだなあ … >



<網代木
(あじろぎ)…まず<網代>は、湖や川
(しば)を細かく立て並べ、

(す)の中へ誘い込んで採る仕掛けです。そして、<網代木>とは…網代に用いる

(くい)のことです。もののふとは…物部で、文武官人のこと。<八十(やそ)

は…数が多いことですね。

つまり、柿本人麿は…朝廷に仕えた多くの官人たちは、<いさよふ浪>の様に消え、

その行方も分からない、と詠んでいます。



 9月 15日

岡田健吉‏@zu5kokd1  権中納言定頼

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(612)

うーん…

冬の早朝・・・川面の霧が流れ・・・所々に網代木がほの見える・・・

(りん)とした美しい情景歌ですね。宇治川は、琵琶湖から流れ出ている唯一の河川

で、瀬田川・宇治川・淀川と名前を変えて、大阪湾に注ぐ一級河川です。網代氷魚

(ひお、ひうお/アユの稚魚。 体長2、3センチで、体が半透明で氷のようなのでこの名があります。 秋から冬にかけて、

琵琶湖でとれるものが有名です。)を採るのは冬の宇治川景観とか…

 

岡田健吉‏@zu5kokd1  権中納言定頼

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(613)

の作者…権中納言定頼/藤原定頼は…<四納言(しなごん/第66代/一条天皇の時代に活

躍した4人の公卿で、藤原道長の政権を支えた。)1人/藤原公任(ふじわらの・きんとう/三十六歌仙

元となった『三十六人撰』は公任の撰による。長男です。和泉式部1人娘/小式部内侍を、か

らかいに出かけ…


★ 大江山 いく野の道の 遠ければ まだふみも見ず 天の橋立
 

                                                 【60番 → 小式部内侍】


…と即座に切り返され、を抱えて逃げた貴公子ですね。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1 権中納言定頼

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(614)

この、軽薄貴公子が…こんな歌も詠むわけです。公任(きんとう)血を引くのですから

当然かも知れませんが、軽薄さ引き継いだ(公任も、子の無い妹の件で・・・“お妹さんの素腹の后は

お元気なの”と、痛烈なしっぺ返しを受けています様です。

でも、こんな人間がいるから、世の中は楽しいのかも知れませんね。定頼は、小式部

内侍にも惚れたフシがあり、紫式部1人娘/大弐三位(だいにの・さんみ)とも浮名があり

ます。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1  権中納言定頼

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(615)

少年の頃から…

定頼才気溢れる歌人だった様です。でも、軽薄性も併(あわせ)せ持っていて、若い頃

暴力沙汰でしくじり、第67代/三条天皇逆鱗(げきりん)にも触れています。度々(た

びたび)お役目も取り上げられている様で、ズボラでもあった様ですね。でも、こんな美し

い情景歌も詠むわけです…」



 9月 23日

岡田健吉‏@zu5kokd1相模

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(616)

【65番 → 相模(さがみ)中古三十六歌仙、女房三十六歌仙の1人。実父は不詳で、摂津源氏・但馬守頼光

                     の養女。母は能登守慶滋保章の娘。)


★ 恨みわび ほさぬ袖だに あるものを 恋にくちなむ 名こそ惜しけれ



  < あなたのつれなさを、恨んでは思い悩み…

        私の衣の袖は乾く間さえもない…

              ああ、その上に、恋の痴れ者と…

                     世に指差して、嗤(わら)われる…

                             我が名が、惜しいのです… >


岡田健吉‏@zu5kokd1相模

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(617)

「このは…『後拾遺集 - 巻14/恋』 に…<永承6年 内裏歌合に >として載って

います。

まず、このは…若い小娘の歌ではなく、堂々たる貫禄の漂う女性の、恋の歌です。

相模(さがみ)は、平安王朝末期女流歌人で、女性的貫禄を持つ、知的美人だった

様です。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1相模

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(618)

戦いに没頭する無心の、男性の魅力の様に…

宮廷の様な所では…﨟長けた(ろうたけた/・・・主に女性が、洗練されて美しくなること)上に…恋に脆

(もろ)相模(さがみ)の様な女性も居るわけですね。

彼女は…紫式部清少納言が活躍していた頃は、まだ幼女・童女だった様です。

源頼光(/摂津源氏で、但馬守頼光。彼女は養女だった様です)は、能登守/慶滋保章(よししげの・

やすあきら)と言われます。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1相模

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(619)

相模母方慶滋(よししげ)は、詩文に長じた家柄です。

父/頼光は…驍勇(ぎょうゆう/強く勇ましいこと)で鳴る武人で、政界にも顔のきく大富豪

土御門邸(つちみかどてい/土御門殿(つちみかどどの)・・・藤原道長の邸宅の1つ。)新築した時に

は、当代一流家具一切を、新調して献上した程の大金持です。つまり相模は、その

大富豪の家で、何の不自由なく育った、お姫様ですね。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1相模

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(620)

そんなが、第69代/後朱雀天皇皇女/祐子内親王家(ゆうし・ないしんのうけ)女房

して出仕し、若い時から歌人として有名でした。

相模守(さがみのかみ)/大江公資(おおえの・きんすけ)結婚し、任地の相模(北東部をのぞく、神奈

川県の大部分)にも下った様です。相模の呼び名は、ここから来ています。公資歌人で、

仲が良かったのですが、後に離婚します。

(/公資が現地の女と懇(ねんご)ろになり・・・、彼女は悩み、百首の歌に詠んで、伊豆走湯権現の社頭に埋めた・・・と

か。)

 

岡田健吉‏@zu5kokd1 相模

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(621)

その後…中納言/定頼(/四納言の藤原公任の長男。和泉式部の1人娘/小式部内侍に、しっぺ返しを食ら

った・・・【60番 → 小式部内侍】・・・貴公子で歌人です。)をはじめ、多くの恋愛遍歴を重ねた様です。

そして、再び祐子内親王家に仕え、多くの歌合に出て、勅撰集にも多く(と)られてい

ます。

うーん…環境・才能に恵まれ、恋の荒波も超え、自由堂々と、生きた女性ですよね。

でも…この貫禄も、研鑽(けんさん/(学問などを)みがき深めること)努力賜物(たまもの)です。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1 相模

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(622)

さて…詞書(ことばがき)の…<永承6年 内裏歌合(だいり・うたあわせ)に>ですが…

『栄華物語』 によれば…

第70代/後冷泉天皇永承6年5月5日、久々に大がかりな歌合が催されました。

白左大臣頼通(よりみち)後見し、若き27歳帝を中心に…中宮・皇后・女房、そして

殿上人(てんじょうびと/五位以上の人、および六位の蔵人(くろうど)で殿上にのぼることを許された人。)たちが

流れて…

 

岡田健吉‏@zu5kokd1 相模

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(623)

…それはまるで、1世紀前<天徳4年の歌合(/天徳4年3月30日(/960年4月28日)・・・

第62代/村上天皇によって行われた歌合。その典雅さなどにおいて、後世の歌合の手本となった。)を見る様

だったと言います。そして、この歌合は、平安王朝落日も近く、王朝としての最後の

輝きともなった様です。

この時…相模50代半ばでした。女流歌人としての貫禄も有り、源経俊と番(つ

が)えられて、勝っている様です…」



 10月 1日

岡田健吉‏@zu5kokd1  

                                                             大僧正行尊/・・・前大僧正行尊 坊主

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(624)

【66番 → 大僧正行尊】 (だいそうじょう・ぎょうそん/平安時代後期の天台宗の僧・歌人。平等院大僧正とも呼

                      ばれる。父は参議/源基平。園城寺(三井寺)の明尊の下で出家、頼豪(らいごう)

                      ら密教を学び、覚円から灌頂(がんじょう)を受けた。大峰山・葛城山・熊野などで修行し

                      て、修験者として知られた人です。)


★ もろともに あはれと思へ 山桜 花よりほかに 知る人もなし



  <もろともに…

        愛しいと思っておくれ、山桜よ…

              この深い山奥では、桜の花の他に…

                     知り合いもおらず…

                           互いに、ただ独りなのだから…>

 

岡田健吉‏@zu5kokd1 

                                                              大僧正行尊/・・・前大僧正行尊 坊主

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(625)

「このは…『金葉集 - 巻9/雑』 に、詞書(ことばがき)に…

<大峰にておもひかけず桜の花の咲きたりけるをみてよめる 僧正行尊>

…として載っています。

大峰山とは…大和/吉野(/奈良県)主峰(/吉野熊野国立公園に含まれ・・・【紀伊山地の霊場と参

詣道】として、世界遺産に登録されています。)ですよね。ここは知る人ぞ知る修験道(しゅげんどう)

聖地現在女人禁制(にょにんきんせい/女性の立入りを禁じ、男性主体の修行や参拝に限定する事。)

を貫いている所です。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1  

                                                         大僧正行尊/・・・前大僧正行尊 坊主

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(626)

行尊は…この山中厳しい修行中に、ふと、ひっそり可憐に咲く山桜の花に出逢っ

たのでしょう。

桜の花といえば、西行法師かと思ますが、西行行尊よりも半世紀以上後の

です。

(★ 西行法師

・・・平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての武士・僧侶・歌人です。北面の武士でしたが、出家して僧侶になった人

です。

『吾妻鏡/東鑑』(あずまかがみ/ 平安時代末期から鎌倉時代中期までの、歴史の推移を叙述した歴史書の1つ )

よれば・・・東大寺再建の勧進(かんじん/浄財の寄付を求める。)を奥州藤原氏に行うため、2度目の奥州への旅の途

上・・・たまたま鎌倉の鶴岡八幡宮の境内で、源頼朝に声をかけられ、鎌倉御所に招かれて対談しています。褒美に銀

作りの猫をもらいますが、すぐに近所で遊んでいた子供にくれたことが、『吾妻鏡』に記されています。そして、それから、

まもなく頼朝に滅ぼされる、大戦前夜の奥州・平泉へ、珍客として参上し・・・都から来た遠い親戚筋の者・・・として歓待

されています。源義経の、その後の静御前の動静も、届けられたのでしょうか・・・)

うーん…行尊は…

俗世(ぞくせ)を捨てた厳しい修行中にあって…なおも可憐な花に、<熱い血が残る・・・

我身>なのでしょうか…

 

岡田健吉‏@zu5kokd1

                                                            大僧正行尊 (京都時雨亭所蔵)

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(627)

行尊は…第67代/三条天皇皇子(みこ)である、小一条院敦明(こいちじょういん・あつあき

ら)・親王孫にあたる人です。敦明親王は、第68代/後一条天皇御代(みよ)

太子ですが、藤原道長圧迫があり、辞して小一条院(こいちじょういん)となられます。そ

悲運親王の子/参議・源基平(みなもとの・もとひら)3男が、行尊と言われます…



 10月 2日

岡田健吉‏@zu5kokd1 

                                                            大僧正行尊 (京都時雨亭所蔵)

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(628)

行尊10歳を失い、12歳の時、近江園城寺(おんじょうじ/三井寺(みいでら)・・・滋賀県

大津市にある、天台寺門宗の総本山。)出家します。そして17歳で寺を出、諸国を巡る修行

始めました。

山伏修験者(やまぶし・しゅげんじゃ)として(ほま)れ高く様々な逸話(いつわ)に飾られた人

です。また、白河・鳥羽・崇徳(すとく)天皇護持僧(ごじそう)として、朝野(ちょうや/朝廷と

在野)尊崇(そんすう)(あつ)かった…と言われます。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1

                                                            大僧正行尊 (京都時雨亭所蔵)

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(629)

行尊は…後に延暦寺(えんりゃくじ/・・・天台宗・総本山比叡山延暦寺の事。滋賀県大津市坂本本町にあ

り、標高848mの比叡山全域を境内とする寺院。比叡山、または叡山と呼ばれることが多い。平安京の北にあった

北嶺とも称された。)座主(ざす/大寺を統括する首席の僧職・・・天台座主)/大僧正(だいそうじょう/僧

の最高の位)となっています。

あ…護持僧(ごじそう)というのは、加持祈祷(かじきとう)によって災難(いや)し、

(はら)ものです。

うーん…

大峰山(おおみねさん/奈良県の南部にある山。現在では広義には大峰山脈を・・・狭義には山上ヶ岳(さんじょうが

たけ)をさします。)の修験道(しゅげんどう/山へ籠もって厳しい修行を行うことにより、悟りを得ることを目的とする

日本古来の山岳信仰が、仏教に取り入れられた、日本独特の混交宗教(/様々なものが入りまじった宗教)です。

験宗とも言います。修験道の実践者を修験者または山伏と言います。)というのは、ずいぶん古くからある

様ですね。

仏教公伝(ぶっきょうこうでん/国家間の公的な交渉として仏教が伝えられたことを指します。上代の日本において

は、6世紀半ばの第29代/欽明天皇期において、百済から倭(古代日本)への仏教公伝のことを指すのが一般的。)

以前大陸交流で、密教(みっきょう/秘密の教え・・・秘密仏教。日本では、空海を開祖とする真言宗の東密

や、天台宗での台密がある。)陰陽道(おんみょうどう/太古に発生した中国の民間信仰。天の動きと人の世の動

きには、関係があるという思想に立ち、万事に吉凶を天文の変化から予知し、これによってどう対処してゆくかを決めるも

の・・・とか・・・。)日本に入ってきて…

 

岡田健吉‏@zu5kokd1

                                                            大僧正行尊 (京都時雨亭所蔵)

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(630)

…これが、日本古来民族宗教融合し、修験道を作り上げた様ですね。

修験道は…燃焼度の高い荒行(あらぎょう)で知られ、山を疾駆(しっく)断崖絶壁を覗

(のぞ)き、体力の限界の苦行を、一定期間続けます。

行尊は…その苦行の中で、ふと、桜の花に出逢い、覚醒(かくせい)するものが、あった

のでしょうか。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1

                                                         行尊/・・・ 画・菱川師宣  国立国会図書館蔵

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(631)

限界的な苦行の中にあり…<なお・・・可憐な桜の花に心を動かす・・・ゆとり>

は、行尊力量を示すものですよね…

この山伏修行聖地は…女人禁制(にょにんきんせい/女性に対して社寺や霊場、祭場などへの立入

りを禁じ、男性主体の修行や参拝に限定する事。)の上に、(まい)る人入山に先立ち精進潔斎

(しょうじん・けっさい/肉食を断ち、行いを慎んで身を清める事。)しなければなりません。王朝の頃は、

三七日(さんしちにち/21日間)・五十日・百日精進(しょうじん/身を清め、行いを慎む事。)した様

す。



 10月 3日

岡田健吉‏@zu5kokd1

                                                        行尊/・・・  画・菱川師宣  国立国会図書館蔵

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(632)

紫式部夫/藤原宣孝(ふじわらの・のぶたか)は…蔵人(くろうど/天皇の秘書的役割。蔵人所は事

務を行う場所のことで、内裏校書殿の北部に置かれました。)(けん)左衛門尉(さえもんの・じょう/左衛門府

の判官)優秀ですが、派手好き伊達男(だておとこ)です。この御嶽詣り(みたけまいり/大峰

山に入ることをいう。その前に精進潔斎することを、“御嶽精進”と言います。に、規定粗末な白衣をまと

わず、派手に着飾って行って、世間ビックリさせました。人々はバチが当たると思っ

ていたら、昇進したから、二度ビックリしたと言います。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1

                                                      行尊/・・・ 画・菱川師宣  国立国会図書館蔵

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(633)

いずれの時代にも、こうした物見湯山的(やから)はいるものですね…

でも…修験者(しゅげんしゃ)巌窟(がんくつ/岩の洞穴)に寝て葛布(くずふ/葛の繊維で作った布。

耐水性があり、雨具・ふすまはりなどに使う。)を着、を喰らい、水垢離(みずごり/神仏に祈願するため、

冷水を浴びて体のけがれを去り、清浄にすること。)をとって欲界の垢(よくかいのあか)をそそぐ者共で

す。

行尊も、こうした苦行真摯(しんし/まじめで、ひたむきなさま。)に対峙する修行者でした。だ

からこそ、延暦寺座主ともなったわけですね。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1

                                                        行尊/・・・  画・菱川師宣  国立国会図書館蔵

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(634)

そんな大僧正の…<若き苦行時代の歌>と見ると…格別な思いが湧きますよね…

芭蕉『奥の細道/羽黒山』(はぐろさん/山形県鶴岡市にある山。出羽三山の主峰/月山の、北西山麓

に位置する丘陵です。修験道を中心とした山岳信仰の山として知られます。)で…

<春を忘れぬ遅桜(おそざくら)を見て、行尊を偲んでいます…

<行尊僧正の歌のあはれもここに思ひ出でて、なほまさりておぼゆ>

ともかく…解脱者/行尊清々しい歌ですね…」

                               ★ ・・・・・<『奥の細道』/羽黒山・・・は、こちらへどうぞ



 10月 6日

岡田健吉‏@zu5kokd1周防内侍

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(635)

【67番 → 周防内侍】 (すおうないし/平安時代後期の歌人。女房三十六歌仙の1人。本名は平仲子(たい

                    らの・ちゅうし)。掌侍/正五位下。父は桓武平氏の周防守/従五位上/平棟仲。母

                    は加賀守/従五位下/源正軄の女で、後冷泉院の女房となり小馬内侍と呼ばれた

                    者、と言われます。)

                    ★ 掌侍(ないしのじょう)・・・とは律令制における女官の1つ。本来は内侍司の判官

                       でしたが、後に尚侍・典侍とともに後宮全体の実務を取り仕切る立場になりました。

                      掌侍の第一臈(上首)を特に勾当内侍(こうとうのないし)と称しました。



★ 春の夜の 夢ばかりなる 手枕に かひなく立たむ 名こそ惜しけれ


  < 春の夜の…

        夢のようにはかない…

              お戯れの手枕のせいで…

           浮き名が立ってしまったら…

                 口惜しいではありませんか…

                        ホホホ…イヤねえ… >

 

岡田健吉‏@zu5kokd1周防内侍

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(636)

「このは…『千載集 - 巻16/雑』にあり、詞書この時の様子が紹介されています…

< 陰暦2月頃の月の明るい夜・・・関白教通(かんぱく・のりみち)の邸(やしき)に女房たち

が集まり、夜通し語り明かしていた時でした。周防内侍が、ふと横になろうとして

・・・「枕がほしいわね」・・・と呟きました。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1周防内侍

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(637)

・・・それを耳にした大納言忠家(だいなごん・ただいえ)が・・・「これを、枕にどうぞ」・・・と

御簾の下から自分の腕を差し入れました。そこで周防内侍が、この歌を詠んで返

したものです>

当意即妙(とういそくみょう/すばやくその場面に適応して機転をきかすこと。)が光るですね。現代なら

セクハラ沙汰(ざた・さた/人々の口にのぼるような、事件・行為)ですが、笑いさざめく声と、

の高い機知(きち/その場でとっさに働く智慧)に、感嘆の声に包まれたのでしょうか…

 

岡田健吉‏@zu5kokd1周防内侍 

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(638)

うーん…

このは、<かいな>甲斐なくと、腕のかいなを掛けていますよね。流麗な調べで、

言葉も美しく男の冗談見事に受け流していて…しかも、座を白けさせていません。

【65番 → 相模】 は、臈長けた(ろうたけた/洗練されていて美しいこと、様々な苦労や経験をして成熟し

ていること)を感じますが…周防内侍中々のものですね…



 10月 7日

岡田健吉‏@zu5kokd1周防内侍 

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(639)

さて…

見事、ボールを投げ返された大納言忠家は、どう(さば)いたのか?ここでコケたり、

式部内侍に袖を掴まれ(/【60番 → 小式部内侍】逃げ出し定頼の様では、女性1本

取られてしまいます。大納言忠家は…


★ 契りありて 春の夜ふかき 手枕(たまくら)を いかがかひなき 夢になすべき



…と返歌を返しました。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1周防内侍 

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(640)

  < 前世からの…

        深いご縁があるのに…

              この春の夜更けの手枕を…

                     何故、無意味で儚(はかな)い夢に…

                  終わらせられるでしょうか…

                         私は、真剣ですよ…真剣… >


うーん…

大納言忠家も、それなりに上手返歌を返していますね。でも、やはり、取って付けた

がありますよね…

 

岡田健吉‏@zu5kokd1周防内侍 

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(641)

周防内侍平安時代・後期11世紀末~12世紀初め頃の人です。桓武平氏(か

んむ・へいし/第50代/桓武天皇の系統で臣籍降下(しんせきこうか)により平姓を賜った一族です。 平氏の由来は桓

武天皇が築いた平安京にちなむとする説が有力です。桓武天皇から1000年にわたり、日本の都は平安京におかれま

す。明治維新の時、天皇が動座して江戸に移り、東京となります。)周防守/平棟仲(たいらの・むねなか)

加賀守/源正軄(/?)の娘です。

後に…<源平の合戦>を引き起こす平氏源氏武家流れが、まだこの様な関係

にあったわけですね。彼女双方の血を引いています。

(★ 源氏は・・・

   桓武天皇の第2皇子で第52代/嵯峨天皇の系統から臣籍降下した嵯峨源氏や・・・第56代/清和天皇の系統か

   ら臣籍降下した清和源氏を含め、21の流派があるとされます。)



 10月15日

岡田健吉‏@zu5kokd1周防内侍 

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(642)

「ええ…」響子が言った。「ちなみに…

彼女宮廷での呼名/周防内侍(すおうないし)は、父/平棟仲(たいらの・むねなか)周防守

(すおうのかみ/・・・周防国は、現在の山口県の東南半分)だったからですね。

周防内侍王朝末期紫式部1人娘/大弐三位乳母となった第70代/後冷泉

天皇第72代/白河天皇第73代/堀河天皇に仕えた様ですね…」

 

岡田健吉‏@zu5kokd1 三条院 

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(643)

【68番 → 三条院】  (さんじょういん/第67代天皇・・・第63代/冷泉天皇の第2皇子。冷泉天皇が弟・守平親

                  王(円融天皇)に譲位してから7年後、冷泉上皇と、女御藤原超子の間に生まれました。

                  超子の父は、当時、正三位権大納言であった藤原兼家。7歳で母を失い、父帝・冷泉上皇

                  は精神病を患っていたため、その後見は薄弱でした。一方、外祖父/藤原兼家に容姿が酷

                  似し、風格があったといい、兼家の寵愛を受けて育ったことが・・・『大鏡』に記されています。)


★ 心にも あらでうき世に ながらへば 恋しかるべき 夜半の月かな



  < 心ならずも…

         はかなきこの現世で…

                もしも生きながらえたなら…

            今宵の夜半の月は…

                   恋しく思い出されるに違いない…

                          もう目の見えなくなった…この身には… >



 10月16日

岡田健吉‏@zu5kokd1 三条院 

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(644)

「このは…『後拾遺集 - 巻15/雑』に…

<例ならずおはしまして、位など去らむとおぼしめしけるころ、月のあかかりける

を御覧じて>

…として載っています。はお身体の具合が悪く退位を決意された頃、月の明るい

を御覧になられて、詠まれました。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1 三条院 

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(645)

薄れゆく視力に、夜半(よわ)の月美しかったのでしょう。

三条院第67代/三条天皇は、お気の毒な方でした。4年間の在位の間に、内裏(だ

いり)2度も炎上しています。

健康もすぐれず目を病み、その上…時の権力者/道長との関係も、円滑を欠いてい

ご様子です…

 

岡田健吉‏@zu5kokd1 三条院 

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(646)

権力者/道長は…

自分の孫先帝の皇子を、1日も早く即位させるべく、<早く退位すればよい>…と

言わんばかりの仕打です。

廷臣道長の顔色を伺う有様であり、帝の立場がありません。お目を悪くされた帝は、

幼い皇女お髪(おぐし)を撫でつつ月を眺め落涙されます…



 10月17日

岡田健吉‏@zu5kokd1 三条院 

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(647)

今…三条院視界から、全てが薄れ消えようとしています。そして…

<心にも あらでうき世に ながらへば・・・>

…と失意の中で、静かに詠まれます。

この詠まれて…1月後に、退位翌年崩御(ほうぎょ/天皇・皇后・皇太后・太皇太后が死ぬこ

との尊敬語。)されました。御製歌(ぎょせいか/・・・御製とは、天皇・皇族の作った詩文や和歌。現在では、特に

天皇のものに限定されています。)は、三条院人間性が溢れていますよね。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1 三条院 

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(648)

うーん…

<心にも あらでうき世に ながらへば・・・>ですか…

三条院本当のお気持ちは分かりませんが…分かる部分もあります。などは、逆の

意味ですが…《当HP/企画担当》仕事も、思いの外、上手くいったと思っています

し…もう、あまり思い残す事も無いという意味で…交錯します。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1

                               三条天皇北山陵

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(649)

私自身は…ふわふわと生き長らえていますが…それも良し、としています。

うーん…さて…

三条院第1皇子/小一条院(こいちじょういん/敦明親王(あつあきらしんのう)は…皇太子であら

れましたが、道長の圧迫に堪(た)えかねて辞退されます。かくして、道長の孫に当たる

2皇子が、続けて皇位に就くことになります。

(★ 敦明親王(あつあきらしんのう)は・・・

自ら皇太子廃位を願い出ました。これにより、寛仁元年(1017年)8月9日に皇太子を辞退、同25日に道長の計らいで、

小一条院の尊号が贈られ、いわゆる准太上天皇(じゅん・だいじょうてんのう/・・・太上天皇(/上皇)に准じた待遇)とし

ての処遇を得ます。また、道長の娘/寛子(母・源明子)を妃に迎えます。更に家司として受領・随身を受け、親王所生の

子供達が三条天皇の猶子の資格として、二世王でありながら親王宣下を受けるなど、破格の待遇を受けます。

一方・・・親王に捨てられる形となった妻・延子は、悲しみの余りに寛仁3年(1019年)に急死し、続いてその父親の左

大臣藤原顕光も、治安元年(1021年)失意のうちに病死します。顕光父娘はその後、怨霊となって道長一族に祟った

されます。)



 10月19日

岡田健吉‏@zu5kokd1    

                                                                 『紫式部日記絵巻』 に描かれた土御門殿釣殿に立つ藤原道長

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(650)

第67代/三条天皇(/父親は第63代・冷泉天皇)退位に追い込み、皇太子/敦明(あつあきら)

親王辞退させ…

第68代/後一条天皇8歳即位します。第66代/一条天皇第2皇子

道長の娘/中宮彰子です。紫式部和泉式部赤染衛門伊勢大輔が仕え…清少納

が仕えた中宮定子が、亡くなる経緯があります。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1           

                                                             『紫式部日記絵巻』の旧森川家本 ・・・藤原道長

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(651)

道長摂政となり、歴史的な権勢を振るいます。

              

                               (上の画の全体) ・・・ 旧森川家本第五段(個人蔵)

       几帳(きちょう/室内の仕切りに立てた道具)のかげに隠れていたところを道長に見つかり、祝いの和歌を詠

       むように迫られる、紫式部と宰相の君。
 

幼い天皇に…道長の娘/叔母にあたる威子(いし、たけこ)中宮として入ります。天皇の

外戚の地位藤原氏御堂流(ふじわらし・みどうりゅう/ 中臣氏→ 藤原氏→ 藤原北家→ 九条流→ 御堂流)

以外に渡すまいと…他に妃は入れず(/当時としてい異例)内親王2人のみをもうけ、皇子

には恵まれませんでした。そして後一条天皇は、29歳の若さで崩御します。



 10月27日

岡田健吉‏@zu5kokd1           

                                                              ネットより、写真借用

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(652)

さあ…

後一条天皇には皇子がなく…実弟第69代/後朱雀天皇即位します。一条天皇の

第3皇子道長の娘/中宮彰子です。

後朱雀帝の後は…第1皇子第70台/後冷泉天皇即位します。道長の娘/

中宮嬉子乳母紫式部1人娘/大弐三位(だいにの・さんみ)です…

 

岡田健吉‏@zu5kokd1           

                                                              ネットより、写真借用

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(653)

でも…

藤原系皇子は、ここで、後を絶ちます。道長は既(すで)この世にはなく、その子/頼

(よりみち)世代になっています。

その…

頼通内裏(だいり)に入れた藤原系の姫達は、いずれも皇子を産むことができなかった

のです。こだわりにこだわった…その運命的・反動が来たのでしょうか…

 

岡田健吉‏@zu5kokd1      

                                                                   後三条天皇   /画像はパブリックドメイン=著作権フリー

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(654)

ついに…第2皇子皇統を継ぎます。

その第2皇子母君こそが…あの三条天皇鍾愛(しょうあい/あつく寵愛(ちょうあい)すること()し、

お髪(おぐし)を撫でながら月を眺め、このを詠まれた姫君/禎子(ていし)内親王その人

だったのです。

つまり三条院・女系孫宮(まごみや)が…帝位に即かれます。英明の聞こえ高い、第71

代/後三条天皇であり…その名継がれています。



 10月28日

岡田健吉‏@zu5kokd1

                                                      太陽神である天照大神が隠れ、世界が真っ暗になった岩戸隠れ伝説の舞台

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(655)

道長は…

次々と内裏に入れ、外孫2皇子続けて帝位に即(つ)けて…


★ この世をば わが世とぞ思ふ 望月
(もちづき)の 欠けたることも なしと思へば


…と…三条院の歌とは対称的な、傲慢(ごうまん)な歌を詠んでいます。でも、人智を超え

高天原(たかまがはら、たかあまはら、たかあまのはら/・・・『古事記』に含まれる日本神話および祝詞(のりと、

しゅくし)において、天津神(あまつかみ)が住んでいるとされた場所のことで、有名な岩戸の段(/天の岩戸)も、高天原

が舞台です。)で、<天の采配>があった様ですね…」


★ 天津神(あまつかみ)国津神(くにつかみ)

大国主(おおくにぬし/“国譲りの神”とも呼ばれる。出雲大社の祭神。)など、天孫降臨以前からこの国土を治めていた

とされる土着の神(地神)を、“国津神”・・・

天照大神(あまてらす・おおみかみ/日本神話に登場する神。皇室の祖神で、日本民族の総氏神とされています。)など

がいる高天原の神を、“天津神”といいます。)



 10月30日

岡田健吉‏@zu5kokd1 能因法師

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(656)

【69番 → 能因法師】 (のういんほうし/平安時代中期の僧侶・歌人。俗名は橘永愷(たちばなの・ながやす)

                    法名は初めは融因。近江守・橘忠望の子で、兄の肥後守・橘元愷の猶子となった。子に

                    橘元任がいる。中古三十六歌仙の1人

                    甲斐国や陸奥国などを旅し、多くの歌を残しています。『後拾遺集』に31首の他、勅撰

                    和歌集に67首が入集しています。歌集に『能因集』があり、ほかに私撰集/『玄々集』

                 歌学書/『能因歌枕』があります。)


★ 嵐吹く 三室(みむろ)の山の もみぢ葉は 竜田の川の 錦なりけり



  < 山風が吹いている…

        三室山の紅葉…

             それが吹き散らされて…

                   竜田川の水面は…

                         錦のように絢爛(けんらん)たる美しさだ… >


岡田健吉‏@zu5kokd1 能因法師

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(657)

「このは…『後拾遺集 - 巻5/秋』に…<永承4年(1049年) 内裏歌合によめる>

して載っています。

能因法師には、『古今著聞集』(ここんちょもんじゅう/鎌倉時代の13世紀前半に、伊賀守橘成季によって編纂

された世俗説話集)有名な逸話があります。

能因はある時、歌作に没頭して、我ながら名作と思う歌を得ます…


★ 都をば 霞
(かすみ)とともに たちしかど 秋風ぞ吹く 白河の関


岡田健吉‏@zu5kokd1 能因法師

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(658)

…というものです。

でも、この歌を作ったのではハクがないと思い…長い間家に籠(こも)って人にも会

わず日に当たって黒く日焼けしてから…

<みちのくへ修行に行ったときによみました>

…と披露(ひろう)したと言います。

うーん…気持ちは分かりますが、能因法師ほどの歌人が…こんなウソをつくとは…?

 

岡田健吉‏@zu5kokd1 能因法師

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(659)

画家にも…

野外キャンパスを置いて描く人と、画廊心象風景描く人などもいますから、創作

千差万別です。でも…<創作活動を・・・これほど偽る>というのは、どうなのでしょ

うか?

さて…『小倉百人一首』この歌ですが…

この歌も昔から、地理的矛盾があると指摘されています…



 11月 1日

岡田健吉‏@zu5kokd1 能因法師

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(660)

三室山(みむろやま)竜田川(たつたがわ)とは離れていて、紅葉竜田川へ散るわけがな

と言います。

あ、でも、三室山奈良県明日香村(あすかむら)とする人と、斑鳩町(いかるがちょう)

南備山(かんなびやま)という人と、様々です。竜田川の方も、大和川上流といいますが、

諸説あります。いずれも、紅葉の名所として名高い所です。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1 能因法師

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(661)

つまり…

ここでも能因法師は、実証的には詠んでいないのです。三室山竜田川というイメージ

から、絵の様な美しい一首を創り上げたのです。

これも芸術であり、すぐれた能因の感性ですよね。でも、<絵の様な>ということで、

この歌評判は、あまり良くない様です。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1能因法師

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(662)

うーん…

凡歌(ぼんか/平凡な歌)と見るならば、地理的矛盾から来る弱さは、確かにありますよね。

いずれにしても、この『古今集 - 秋/下』の…


★ 竜田川 もみぢ葉ながる 神奈備(かんなび)の 三室の山に しぐれ降るらし



…を意識している様です。



 11月 2日

岡田健吉‏@zu5kokd1能因法師

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(663)

能因には…

『後拾遺集』にもう1首嵐を詠んだ歌があります。

詞書(ことばがき)に…<十月ばかり山里に夜泊りてよめる>として…


★ 神無月 ねざめに聞けば 山里の あらしの声は 木の葉なりける

うーん…『小倉百人一首』では…こっちの歌の方を、採らなかったわけですか…?

 

岡田健吉‏@zu5kokd1能因法師

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(664)

能因法師永延2年の生まれで、没年は分かりません。ただ永承5年があり、こ

の時は63歳でした。

俗名橘永愷(たちばなの・ながやす)文章生(もんじょうしょう/律令制で、大学寮で詩文・歴史を学ぶ学生)

肥後進士(ひごの・しんじ/・・・初め、文章生に補されて肥後進士と号した。)といいます。

歌人/藤原長能(ふじわらの・ながよし/姉(/母が同じかは不明)に藤原道綱母。姪に菅原孝標女がいる。)

師事し…中古三十六歌仙の1人です。

能因<やらせ(/報道などで、事前に当事者と打ち合わせて事を進めておきながら・・・自然に起きたか

のように装うこと。)もありますが、人々には愛されていた様です…」



 11月 6日

岡田健吉‏@zu5kokd1良暹法師

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(665)

【70番 → 良暹法師】 (りょうぜん・ほうし/平安時代中期の僧・歌人。生没年不詳。出自・経歴については不

                    明ですが、比叡山の僧で、祇園別当となり、その後大原に隠棲し、晩年は雲林院に住

                    んだといわれています。)


★ さびしさに 宿を立ち出でて ながむれば いづくも同じ 秋の夕暮



  < 何とはない寂しさが…

          そぞろ、身を噛む秋の夕に…

               たまらなく…

            庵を出て、辺りを見回せば…

                  どこも同じ、もの寂しい…

                        秋の夕暮が広がるばかり… >


岡田健吉‏@zu5kokd1良暹法師

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(666)

「この歌は…『後拾遺集/秋』に載っています。

うーん…

<秋の夕暮>結句とするは、有名なものが多いと言います。それだけで、深い寂

寥感(せきりょうかん/寂しく、わびしい様子)と、孤独なロマンが漂います。でも、この良暹法師

かなり早くに作られ、『新古今集』 時代の先駆けなのだそうです。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1良暹法師

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(667)

良暹法師(りょうぜん・ほうし)は…第70代/後冷泉天皇(/紫式部の1人娘・大弐三位が乳母)時代

歌人の様ですが、生没年は不明です。1説では、祇園の別当(べっとう/長官)で、

藤原実方(ふじわらの・さねかた/【51番 → 藤原実方朝臣】・・・第66代/一条天皇の面前で藤原行成と歌に

ついて口論になり、怒った実方が行成の冠を奪って投げ捨てるという事件が発生。天皇の怒りを買い、<歌枕を見てま

いれ>と命じられ、実方は陸奥守に左遷された。藤原公任・源重之・藤原道信などと親しかった。また、清少納言と交

際関係あったとも伝えられる。)の家に仕えた女童(めのわらわ)/白菊といいます。

良暹(りょうぜん)は…

後拾遺集(/『後拾遺和歌集』(ごしゅういわかしゅう)は・・・八代集の第四、『拾遺集』の後継たるべく編まれた

和歌集。勅命は白河天皇、撰者は藤原通俊。)活躍し、詞花集(/『詞花和歌集』(しかわかしゅう)は・・・

八代集の第六にあたる勅撰和歌集。崇徳院が下命、撰者は藤原顕輔や、千載集(/『千載和歌集』(せんざい

わかしゅう)とは・・・平安時代末に編纂された勅撰和歌集『詞花和歌集』の後、『新古今和歌集』の前に撰集され、勅撰

和歌集の第七番目。後白河院より藤原俊成に撰集の院宣が伝達された。『小倉百人一首』の編者/藤原定家も、父/藤

原俊成の編纂の助手を務めた。)にもがある様です。

それらのから…大原(京都市左京区北東部の、比叡山西麓高野川上流部に位置する小規模盆地)雲林

(/京都市北区紫野にある臨済宗の寺院。)にも住んでたと推察されます…


*******************************************************************************

★ 勅撰和歌集 ★

天皇や上皇の命により編集された歌集のことです。古今集に始まり、新続古今集までの

534年間で、21の勅撰和歌集があり、総称して 「二十一代集」 といいます。

三代集 ・・・ ( 1. 古今集  2. 後撰集  3.拾遺集 )

八代集 ・・・ ( 1. 古今集  2. 後撰集  3. 拾遺集  4. 後拾遺集  5. 金葉集  6. 詞花集 

           7. 千載集  8. 新古今集 )         (★ 三代集と八代集は重複しています。)

十三代集

         ( 9. 新勅撰集 10. 続後撰集  11. 続古今集 12. 続拾遺集 13. 新後撰集

          14. 玉葉集 15. 続千載集 16. 続後拾遺集 17. 風雅集 18. 新千載集

          19. 新拾遺集 20. 新後拾遺集 21. 新続古今集 )

    *******************************************************************************


 11月 7日

岡田健吉‏@zu5kokd1  良暹法師

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(668)

良暹法師(りょうぜん・ほうし)は…単純・素直で、人々の心に受け入れられやすく、日常

の中で愛された様です。歌人としても尊崇されていたらしく、『袋草紙』(ふくろぞうし/平安時

代後期に、藤原清輔(ふじわらの・きよすけ/【84番 → 藤原清輔朝臣】が著した歌論書)に、こんな話があり

ます。

<源俊頼(みなもとの・としより/【74番 → 源俊頼朝臣】/平安時代後期の官人・歌人)が、友人と大原

へ遠乗りに行った時…急に馬を下りた。人々が驚いてわけを聞くと…

 

岡田健吉‏@zu5kokd1  良暹法師

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(669)

…ここはかって、良暹法師が住んでいた辺りだ。どうして馬に乗ったままでおれよ

う。そんな無礼なことはできない、と言います。皆も感嘆し、馬を下りた。>

…という事です。深く愛されていた様ですね。



さて…<秋の夕暮>結句ですが、この後の『新古今集』(/後鳥羽院の命によって編纂。撰者

は、源通具・六条有家・藤原定家・藤原家隆・飛鳥井雅経・寂蓮の6人が、後鳥羽院の院宣により定められた。)の時

(/あえて言えば・・・『万葉集』は荒々しく・・・『古今集』は中庸・・・『新古今集』は気取っている・・・と評されます

は、一種の流行になります。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1  良暹法師

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(670)

うーん…良暹法師(りょうぜん・ほうし)は、その流行走り(/出回り期の、最初に出るもの)だっ

たという事ですね。

良暹比叡山修行していたのですが、年老いたので下山し、洛北大原(らくほく・おおはら

/京都の北東部で、若狭へ通ずる鯖街道にも近く、周囲をなだらかな山に囲まれた盆地)を結びます。

このは、厳しく賑やかだった比叡を離れ、侘び住い(わびずまい/世間から離れてひっそりと暮

らしていること)一人修行を始めた頃の歌で…無性に寂しかった様ですね。



 11月 8日

岡田健吉‏@zu5kokd1  良暹法師

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(671)


うーん…良暹法師人間性心に沁(し)ます…

原始仏教でも…

釈尊(しゃくそん/釈迦牟尼世尊・・・80歳で入滅)晩年にも、こんな話があります。高弟舎利

(しゃりほつ/サーリープッタ・・・釈迦の10大弟子の1人)目犍連(もっけんれん/モッガラーナ・・・釈迦の10

大弟子の1人。)が…釈尊に先立ってこの世を去ります。

その訃報(ふほう/死去したという知らせ)に齎(もたら)された時…教団(/釈尊の関わる8大聖地

があり、教団本部は祇園精舎)には、深い寂寥感(せきりょうかん)が漂った様です。そうした時、

は…くり返し、弟子たちに語りました…

 

岡田健吉‏@zu5kokd1  良暹法師

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(672)


<比丘(びく/修行僧たちよ、ここに汝(なんじ)らは…

自らを洲(す)とし、自らを依拠(いきょ)として、他人を依拠とせず…

(ほう/仏法)を洲とし、法を依拠として、他を依拠とせずして…

(じゅう)するがよい…>

良暹法師晩年になり…釈尊この教えを依拠として、一人修行に励んでいたわけで

すね。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1  良暹法師

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(673)


それでも…

身の震える様な寂しさがこみ上げ…庵の外に出てみたわけです。でも、そこにも同じ

に、寂しい秋の夕暮があるばかりです。それは、命の風景そのものです。

この情景が…『新古今集』 時代の、流行の走りになるわけですが、良暹もよくぞ詠み

切っていますよね。



 11月 9日

岡田健吉‏@zu5kokd1           

                                          現在の祇園精舎  (ネットより、画像借用)/一帯は歴史公園に指定されています

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(674)


また『犀角経』(さいかくきょう)という…(げ)/偈陀(げだ)経文で仏徳をたたえて教理を説

く詩…があります。


群衆を喜ぶ者が…

解脱(げだつ/悟りをひらくこと)に至る道理はない…

仏の言葉にしたがって…

(さい)の角のごとく、独(ひと)り往(ゆ)くべし…


は群れず、(ただ)1本の角を前に突き出し、真っすぐに進みますよね。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1  良暹法師   

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(675


<三夕歌/三夕の歌>(さんせきか/さんせきのうた/『新古今集-巻4に並んでいる、<秋の夕暮れ>

                   を詠んだ3首の名歌。『新古今集』の代表的な名歌で、いずれも新古今調の特色を

                     なす、三句切れ・体言止め。)

 

★ さびしさは その色としも なかりけり まき(槇/緑樹の総称)立つ山の 秋の夕暮

                                      (寂蓮法師)(じゃくれん・ほうし)

    <この寂しさは

          特にどの色のせいだということは、なかったのだなあ

                杉や桧の常緑樹の茂る山の秋の夕暮れよ



★ 心なき 身にもあはれは 知られけり しぎたつ澤の 秋の夕ぐれ

                                      (西行法師)

    <ものの趣など、解すべくもないわが身にも 

           しみじみとした情趣は、感じられることだ

                鴫(しぎ)の飛び立つ沢辺の、秋の夕暮れよ



★ 見わたせば 花も紅葉も なかりけり 浦のとまや(苫屋)の 秋の夕ぐれ

                                      (藤原定家)

    <見わたすと

           花も紅葉も何もない

                  浦の苫屋(とまや/とまぶきの(粗末な)家)だけが見える

                         秋の夕暮れよ

 

岡田健吉‏@zu5kokd1  良暹法師    

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(676)


うーん…

藤原定家は、『小倉百人一首』編者ですね。寂蓮法師定家と同じく、『新古今集』

6人の撰者1人です。でも、途中没した様です。

西行法師は、北面武士(ほくめんのぶし/・・・院御所の北面(北側の部屋)の下に詰め、上皇の身辺を警衛、

あるいは御幸に供奉した武士のこと。 11世紀末に白河法皇が創設した。)でしたが出家し…平安王朝

最後期奥州/平泉(/奥州藤原氏は清衡、基衡、秀衡、泰衡と4代100年に渡って繁栄を極め、平泉は平

安京に次ぐ日本第2の都市となっていました。戦乱の続く京を尻目に、平泉は発展を続け、半ば独立国でした。でも、源

平の争乱に勝利した源頼朝は、次に奥州/平泉に兵を進めます。)における、からの最後の珍客(/都

からの、僧であり歌人であり、親戚筋でもある・・・最後の文化人/西行法師という珍客。実は東大寺再建の勧進のた

めの訪問でした。平泉は、弓の弦が張りきったような戦争前夜の様相です。そして、別ルートからの逃亡者/義経主従

の到着となり・・・時代が大きく動きます。)となりました…」



 11月14日

岡田健吉‏@zu5kokd1  大納言経信

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(677)


【71番 → 大納言経信】 (だいなごん・つねのぶ/源経信(みなもとの・つねのぶ/平安時代後期の公家・歌人。

                      宇多源氏、権中納言・源道方の六男。官位は正二位・大納言。桂大納言と号す。

                      詩歌・管絃に秀で、有職故実(/朝廷や公家の礼式・官職・法令・年中行事・軍陣など

                      の先例・典故。また、それらを研究する学問。平安中期以後、公家や武家の間で重んじ

                      られました。)にも通じ、その多芸多才は藤原公任に比較された。

                      長久2年(1041年)の<祐子内親王家名所歌合>など、多くの歌合に参加しています

                      。当代一の歌人とされましたが、経信をさしおいて藤原通俊が撰集した『後拾遺和歌集』

                      に対して、
『後拾遺問答』『難後拾遺』を著して批判しました。)


夕されば 門田の稲葉 おとづれて 蘆(あし)のまろ屋に 秋風ぞ吹く


    < 夕方になると…

              家の門前の、豊かな水田の稲穂に…

                   さわさわと風が吹き渡って来る…

                 蘆(あし)ぶきの小屋にも…

                   早や、秋風が吹いている… >


岡田健吉‏@zu5kokd1  大納言経信

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(678)


「このは…『金葉集 - 秋』(きんようしゅう/『金葉和歌集』(きんよう・わかしゅう)とは、平安時代後期に編

纂された勅撰和歌集。全10巻。『後拾遺和歌集』の後、『詞花和歌集』の前に位置し、第5番目の勅撰集。)に…

<師賢(もろかた/経信と同じ宇多源氏で、参議・源資通の長男)の朝臣の梅津の山里に人々まか

りて田家秋風といへる事をよめる>

…として、載っています。

初秋の秀歌双璧の、1方として…人々に愛されてきた歌です。もう1方は、『古今集

- 秋歌/上 169 』藤原敏行(ふじわらの・としゆき)で…

 

岡田健吉‏@zu5kokd1  大納言経信

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(679)


★ 秋来ぬと 目にはさやかに 見えねども 風のおとにぞ おどろかれぬる

                                                  
(藤原敏行)

…ですね。

大納言経信/源経信は、王朝後期有名歌人です。82歳の長寿で…紫式部は彼の

生まれる2、3年前には、他界したと推定されます。藤原氏権勢も衰え、時代は源平

の争乱に移行る頃です。 



 11月15日

岡田健吉‏@zu5kokd1  大納言経信  

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(680)


でも…

人々は、時代の胎動などは気づかず、のんびりとした平安王朝が、永遠に続くと思っ

ていたのでしょう。

当時の人口は、1千万人に届かず(/推定700万人ぐらいでしょうか?)大原野が支配し…

地図未整備です。

ただ…この経信の歌は、次に来る新たな時代直感している…と言います。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1  大納言経信  

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(681)


経信の、この歌は…

フレッュで、新しい時代精神文化示唆すると言いますが…浅学には、まだそ

全体像が描けません。

さて…源経信人物像ですが、宇多源氏系(/臣籍降下(しんせきこうか)した源氏姓は・・・嵯峨天皇

から分かれた嵯峨源氏や、清和天皇からの清和源氏を含め、二十一の流派があるとされます。その中の・・・第59代宇

多天皇の皇子・諸王を祖とするのが宇多源氏。)で、権中納言・源道方(みなもとの・みちかた/左大臣・源重信

の五男)6男です。博学多芸であり、その才は“三舟の才”の藤原公任(ふじわらの・きんと

う/一条朝の“四納言”と称された学才。その子/定頼ともども、歴史に残る<痛烈なしっぺ返し>を受けています。定

頼が受けたのは和泉式部の1人娘/【60番 → 小式部内侍】・・・です。)と、並び称されます。

(★ “三舟の才”・・・とは・・・

当時の権力者/道長が、大堰川(おおいがわ)漢詩の舟管絃の舟和歌の舟を出し、それぞれの分野の名人を乗

せた際、乗る舟を尋ねられた公任は、和歌の舟を選び

   ★ 小倉山 嵐の風の 寒ければ もみぢの錦 きぬ人ぞなき

と詠んで賞賛されました。ところが公任は、漢詩の舟を選んでおけば、もっと名声が上がったはずだと悔やみました。

その故事にちなみ・・・源経信は、同じような舟遊びが催された時に、遅れてやって来て、岸を離れている舟に・・・

   <どの舟でもいい、岸へお寄せください>

・・・と言った。

確かに、その才はあったのですが・・・『古今著聞集』 (ここんちょもんじゅう/鎌倉時代に、伊賀守橘成季によって編纂さ

れた世俗説話集)では・・・

   <かくいはんれうに遅参せられけるとぞ>

・・・と皮肉っています。)

 

岡田健吉‏@zu5kokd1  大納言経信  

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(682)


うーん…

でも、『古今著聞集』では多少皮肉られています。それから、同時代歌人藤原通

(ふじわらの・みちとし/平安時代後期の公家・歌人)『後拾遺集』撰者に任じられ、経信がそ

の任にあずからなかったの腹を立て…出来上がった『後拾遺集』に対し、『後拾遺問

答』『難後拾遺』を書き、批判しています。

つまり、人間として、こういう側面があると言うことです。でも、このうぬぼれが深いのも

<お妹さんの素腹の后はお元気なの・・・と、痛烈なしっぺ返しを受ける>

とそっくりだとも、言えますよね。そのぐらいになると、天狗の鼻になるのでしょうか。



 11月16日

岡田健吉‏@zu5kokd1  大納言経信  

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(683)


つまり…多少、大人気ない所もあったのでしょうか。

あ、でも…琵琶もよくし、別荘(かつら/京都市西行区)にあったところから、桂大納言

も呼ばれ、琵琶桂流の祖と…物の本にはある様です

鼻高々な所は、公任とも似ているわけですが、それだけの事で…才溢れた好人物です

ね…」

 

岡田健吉‏@zu5kokd1 佑子内親王家紀伊 

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(684)


【72番 → 佑子内親王家紀伊】(ゆうし・ないしんのうけの・きい/後朱雀天皇の皇女・祐子内親王の女房。女

                            房三十六歌仙の1人。一宮紀伊、紀伊君とも呼ばれる藤原師長の娘である、

                            堀河院御乳母典侍紀伊三位師子と同一人物ともいわれる。父親は定かでは

                            ない。母は『岩垣沼の中将』の作者/祐子内親王家小弁(こべん)。紀伊守藤
                            
                            原重経
(素意法師)は兄とも夫とも言われます。)


★ 音に聞く 高師(たかし)の浜の あだ波は かけじや袖の 濡れもこそすれ


  < 噂に聞く…

           高師の浜の仇波(あだなみ/軽薄さを喩えて言う語)は…

                被りませんわ…

                     袖が濡れては、大変ですもの… >

          (浮気者と、噂に高いあなたの言葉、心ひかれたりはしませんよ!)


岡田健吉‏@zu5kokd1 佑子内親王家紀伊 

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(685)


「この歌は…『金葉集 - 巻8/恋』に載っています。詞書(ことばがき)から、堀川院(/第73

代・堀川天皇)御代に行われた<艶書合>(えんしょあわせ/左右の組に分かれ、恋文や恋歌を作り合

って優劣を競う遊び)と分かります。これは恋歌大会だといいます。

平安王朝末期になると、人々の芸術的衝動も痩(や)せ細り、ある種の頽廃(はいたい)

が支配します。そして、やがて武家の時代(源平の騒乱を経て、鎌倉時代への移行)が始まります。



 11月21日

岡田健吉‏@zu5kokd1 佑子内親王家紀伊 

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(686)


でも…

この時はまだ、平安王朝末期頽廃の中にあるわけですね。和歌文学<艶書合

(えんしょあわせ)ゲームと化し…疑似恋愛ゲームが、類型化(るいけいか/似たものの間

に共通に認められる型をまとめ、形式化すること)して行った様です。

さて…

<艶書合せ>というのは…まず殿上人(てんじょうびと/五位以上の人、および六位の蔵人(くろうど)

殿上にのぼることを許された人。)の歌よみ/男性側から…宮仕えの女性側に、恋の歌を贈らせ

ます。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1 佑子内親王家紀伊 

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(687)


次に…その返し歌を、女性から男性へ返させ、それを披講(ひこう/詩歌などの会で、作品を読

み上げること)するというものです。

この【72番 → 佑子内親王家紀伊】 は…男性側中納言俊忠(としただ)/藤原俊成

(しゅんぜい)の父/藤原定家『小倉百人一首』の編集者)の祖父


★ 人知れぬ 思ひありその 浦風に 波のよるこそ いはまほしけれ



…への返し歌です。



 11月22日

岡田健吉‏@zu5kokd1 佑子内親王家紀伊 

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(688)


あ、意味は…


  < 私は人知れず…

         貴方を慕っています…

               浦風に波が寄るように…

            貴方に一夜逢い…

                  この想いを、打ち明けたいものです… >


…と言うものですね。

<ありその浦>は、北陸歌枕<ありそ/荒磯>と、<思ひあり>を掛けていま

すよね。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1 佑子内親王家紀伊 

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(689)


男の誘いに…女性側ヒジ鉄で返すのが常道の様です。

返し歌<高師(たかし)の浜>は、摂津(せっつ/大阪府の中北部、淀川右岸)歌枕<あだ

波><高師/高い>に掛かります。

こんな風に、和歌ゲーム化し、その中で文学を楽しんでいた様です。中納言俊忠は、

この時は29歳女性側/紀伊は、なんと70歳ぐらいとか…

 

岡田健吉‏@zu5kokd1 佑子内親王家紀伊 

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(690)


この作者/紀伊は…

平経方(たいらの・つねかた)と言われます。紀伊守/藤原重経(ふじわらの・しげつね/素意法

師)は、ともとも言われますが、それで紀伊と呼ばれました。当時は有名女流歌

で、家集もあり、『後拾遺集』 以下の勅撰集29首が入っている様です。

後朱雀帝(ごすざくてい/第69代・後朱雀天皇)中宮嫄子(ちゅうぐう・げんし)に仕えたので、<中宮

の紀伊>と呼ばれました。



 11月23日

岡田健吉‏@zu5kokd1 佑子内親王家紀伊 

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(691)


そして後に…嫄子(げんし)お子で、高倉邸(たかくらてい)に住んだ祐子内親王(ゆうし・ないし

んのう/後三条天皇の母)に仕えたので、<高倉一宮紀伊>とも呼ばれました。

祐子内親王後見は、藤原頼通(ふじわらの・よりみち/道長の長男で、朝政の第一人者・・・平等院鳳

凰堂を造った。晩年には・・・頼通と疎遠な第71代・後三条天皇(/【68番 → 三条院】が、涙ながらに歌を読んだ時、

頭を撫でていた姫宮のお子に当たり、後三条と名も継いでいます)が即位したこともあり、摂関家は衰退へ向かい、

がて院政と武士の台頭の時代へ移ります。)でしたから、宮家羽ぶりはよく、歌合が度々あり、

才媛(さいえん/才女)も多く集ったことと思われます。平安王朝の末期が、偲ばれます…」

 

岡田健吉‏@zu5kokd1 前中納言匡房      

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(692)


【73番 → 前中納言匡房】
(さきの・ちゅうなごん・まさふさ/大江匡房(おおえの・まさふさ)は、平安時代

                        後期の公卿、儒学者、歌人。官位は正二位・権中納言。藤原伊房・藤原為房

                        とともに、白河朝の<三房>と称されました。曾祖母は赤染衛門【59番 →

                      赤染衛門】で、曾孫の誕生を喜ぶ彼女の歌があります。) 


★ 高砂(たかさご)の 尾上(をのへ)の桜 咲きにけり

                  外山(とやま)の霞(かすみ) 立たずもあらなむ


  < はるか見渡せば…

          高い山の峰に…

                ようやく桜が咲き始めた…

             里近い山々の霞よ…

                   どうか、立たずにいてほしい… >



 12月 1日

岡田健吉‏@zu5kokd1 前中納言匡房      

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(693)


「このは…『後拾遺集 - 春』に…

<内のおほいまうち君の家にて、人々酒たうべて歌よみ侍りけるに、はるかに

山の桜を望むといふ心をよめる 大江匡房朝臣>

…として載っています。<内のおほいまうち君>とは内大臣・藤原師通(ふじわらの・も

 ろみち/院政期の公卿で関白・藤氏長者。長者とは、藤原氏一族全体の氏長者のことです。父親は藤原師実で、

原頼通の六男。頼通はあの絶頂を極めた藤原道長の長男です。)のことです。


院政期/院政時代とは・・・白河上皇の1086年から平家滅亡の1185年頃までを呼びます。院政は、太上天

  皇(上皇)が天皇に代わって政務を直接行う政治形態。上皇は“院”と呼ばれたので、院政と言います。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1 前中納言匡房      

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(694)


<高砂(たかさご/高砂市は・・・兵庫県の播磨南東部に位置する市)は、播磨国(はりまのくに/番州・・・

ばんしゅう/兵庫県南西部に相当)名所ですよね。

でも、ここでは地名ではなく…高い山山の峰、という意味です。<外山(とやま)

(みやま)に対していう言葉で、里に近い、手前の低い山のことです。

<桜>南から、そして里では低い所から咲き、高い山の山頂へ移って行きます。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1 前中納言匡房      

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(695)


<高砂の 尾上の桜>とは…格調があり、いい響きですね。

作者の大江匡房は…大江匡衡(おおえの・まさひら/平安時代中期の儒者・歌人。中古三十六歌仙の1人

赤染衛門曾孫にあたり…学者の家系で、秀才の誉れ高い人物です。

71歳で、1111年(天永2年)に亡くなります。彼の生きた時代(/後冷泉天皇、後三条天皇、白河

天皇、堀河天皇、鳥羽天皇・・・に仕えています。)は、平安王朝文化残照時代と言われています。



 12月 2日

岡田健吉‏@zu5kokd1 前中納言匡房      

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(696)


ええ、もう少し匡房(まさふさ)について言うと…

幼児から秀才の誉れが高かった様ですね。軍学も詳しく、有職故実(ゆうそくこじつ/朝廷や

公家の礼式・官職・法令・年中行事・軍陣などの先例・典故。また、それらを研究する学問。平安中期以後、公家や武

家の間で重んじられました。)をも究め、堂々たる学者でした。

もともと碩学(せきがく/学問が広く深いこと。大学者。)家系ですが、この匡房特に傑出して

いて、異例の昇進を果たし、権中納言・正二位・大蔵卿(おおくらきょう/律令制で、大蔵省の長

官。)になっています。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1  前中納言匡房wpe75.jpg (13885 バイト) 

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(697)


堅物(かたぶつ/きまじめで、融通がきかない人)匡房は…

若い頃宮中女房達にからかわれています。女房達匡房御簾(みす)のそばに

呼び寄せ、<弾(ひ)いて下さい>と、あずま琴を押し出します。むろん匡房は弾けま

せん。でも、即答しました。


★ 逢坂(あふさか)の 関のこなたも まだ見ねば あずまのことも 知られざりけり



 12月 3日



岡田健吉‏@zu5kokd1  前中納言匡房wpe75.jpg (13885 バイト) 

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(698)


<あずまのこと(/事)も>は…あづま琴を掛けていますよね。それは、<まだ見ねば

/見たこともないから…<知られざりけり>/知らない(/・・・見たこともないから、弾けない)

と言います。この機知に、女房達は返すことができなかったと言います。

うーん…でも、このは、【60番 → 小式部内侍】(/★ 大江山 いく野の道の 遠ければ まだふみ

も見ず 天の橋立 )の様子と、よく似ていますよね。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1  前中納言匡房wpe75.jpg (13885 バイト) 

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(699)


ベテラン新参者をからかい…見事な機知で切り返され…返す言葉も無い、という形

ですね。

王朝文化では、こうたコト好まれたのでしょう。正当に評価しあい、小娘若者も、し

っかりと居場所があった様ですね。ただ、この明るさは、豊かな宮廷生活のみのコト

す」



 12月12日

岡田健吉‏@zu5kokd1 源俊頼朝臣      

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(700)


【74番 → 源俊頼朝臣】(みなもとの・としより・あそん/平安時代後期の官人・歌人。宇多源氏。【71番→

                    源経信】の三男。官位は従四位上・木工頭。

                      10歳代より一時期・・・修理大夫・橘俊綱の猶子(/養子)となる。篳篥(ひちりき

                      /漆を塗った竹の管で作られ、表側に7つ、裏側に2つの孔を持つ縦笛。雅楽では、

                      笙(しょう)、龍笛(りゅうてき)と篳篥(ひちりき)をまとめて三管と呼ぶ・・・)
に優れ、

                      はじめ堀河天皇近習の楽人として活動。『承暦内裏歌合』には楽人として参加して

                      います。

                      父/経信が大宰権帥に任ぜられたため、父ともに大宰府へ下向。経信の死去に伴

                      い帰京する。

                      その後は、堀河院歌壇の中心人物として活躍し、多くの歌合に作者・判者として参

                      加するとともに、『堀河院百首』を企画・推進した。天治元年、白河法皇の命により

                      『金葉和歌集』を撰集。藤原基俊とともに当時の歌壇の中心的存在であった。歌風

                      としては、革新的な歌を詠むことで知られました。)

★ 憂(う)かりける 人をはつせの 山おろしよ はげしかれとは 祈らぬものを


  < 私に冷淡で、つれないあの人が…

         私を想ってくれるようにと…

               初瀬(はつせ)の観音様に祈ってみたが…

      どうだい、この初瀬の山おろしの激しさは…

 

岡田健吉‏@zu5kokd1 源俊頼朝臣      

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(701)

  
         はは、彼女そっくりじゃあないか…

                 激しかれとは、祈らなかったものを… >



「このは、<題詠
(だいえい/題を決めて作った詩歌)ですね。『千載集 - 巻12/恋』に…

<権中納言俊忠(ただとし/権大納言・藤原忠家の子、藤原道長の孫)の家に恋十首の歌よみ侍

りける時、祈れども逢はざる恋といへる心をよめる>

…として載っています。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1 源俊頼朝臣      

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(702)


<題詠>ということですが…

うーん…“神仏に祈っても、逢うことのできない恋”…という難儀お題です。

でも…長谷観音様に掛けて、見事1つのストーリイを創り出しています。さすがは、

当代最高の歌人/源俊頼ですね。この長谷寺観音様というのは、古(いにしえ)から

王朝の人々尊崇を集めていました。



 12月13日

岡田健吉‏@zu5kokd1 源俊頼朝臣      

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(703)


定家は、『小倉百人一首』に先だって『百人秀歌』撰集していますが…俊頼の歌は、

『小倉百人一首』では別の歌を採(と)っています。


★ 山桜 咲きそめしより ひさかたの 雲居に見ゆる 滝の白糸



…というものです。こっちの方が昂揚
(こうよう)した美しい歌ですね。うーん…その間、

心境の変化があった様ですね。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1 源俊頼朝臣      

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(704)


定家撰歌したこれらの歌集で、双方に名前があるものの、異なる歌『小倉百人一

首』の方に採られているのは、源俊頼だけだそうです…

昂揚した美しい歌から…悶々(もんもん)とした(う)かりける…とは、どの様な心境

の変化があったのでしょうか?

あ、でも、私は…この歌冷徹コミカルな男心と解し、現代語訳しています。所詮(しょ

せん)は、一種のゲームだということではないでしょうか?

俊頼は…定家よりも1世代前の人で、【71番 → 源経信】3男ですよね。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1 源俊頼朝臣      

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(705)


それから…この後出て来る、【85番 → 俊恵法師】でもあります。親子3代にわ

たり、『小倉百人一首』に採られているわけですね。

源俊頼生きた時代は…平安王朝/最後の輝きの中にあり、道長の長男/頼通(より

みち)存命…あの<平氏の台頭から源平の争乱>に続く世も、見ずに亡くなって

るわけですね。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1 源俊頼朝臣      

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(706)


俊頼は、王朝の歌人として生き…革新/清新な歌風を確立し…後の世の、藤原俊成

その子/定家などに、大きな影響をあたえた様ですね。当時花壇の指導者であ

り、歌論家であり、内裏歌合の判者にも君臨しています。

でも…この<題詠>“神仏に祈っても、逢うことのできない恋”とは…まさに<文学

ゲーム>の様です。巧みな創造性は認めても、ある種の堕落/廃退が漂います…」



 12月14日

岡田健吉‏@zu5kokd1  藤原基俊      

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(707)


【75番 → 藤原基俊】 (ふじわらの・もととし/平安時代後期の公家・歌人。父は右大臣/藤原俊家。藤原氏

                    の主流である藤原北家の出身で藤原道長の曾孫、官位には恵まれず従五位上左衛

                    門佐にとどまった。1138年(保延4年)に出家し、覚舜(かくしゅん)と称した。

                    歌壇への登場も遅かったが、歌合では作者のほか、多くの判者もつとめ、源俊頼とと

                    もに院政期の歌壇の指導者として活躍した。革新的な作風であった俊頼に対し、基俊

                    の作風は古い歌風を重んじたものであったという。晩年には藤原俊成を弟子に迎えた。)


★ 契りおきし させもが露を 命にて あはれ今年の 秋も去(い)ぬめり



  < お約束して下さった…

          させも草の露の様なお言葉を…

              有難き命と…

                  望みを繋(つな)いで来ましたのに…

           ああ、今年も空しく…

             秋は過ぎ去って行く様ですね… >


岡田健吉‏@zu5kokd1  藤原基俊      

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(708)


「このは…『千載集 - 巻16/雑』に載っています。

詞書(ことばがき)を読まないと背景の分からないですが、<平安時代の裏口入学・・・

親バカの歌>…の様ですね。

<契りおきし>恋の契りではなく、裏口入学の契りの様です。とは言っても、学校

はなく、出世コースの話です。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1  藤原基俊      

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(709)


うーん…

だいぶ下世話な話ですが、まだまだ藤原氏全盛平安時代であってみれば、コネを頼

って出世していくのは、ごく当然の事です。

ただ、そうは言っても…

さすがに、僧籍(そうせき/僧・尼としての籍。所属宗派に登録された籍。)もそうだったのかと思うと、

ガッカリしますよね…でも、ともかく、どういう事か、見て行きましょうか。



 12月15日

岡田健吉‏@zu5kokd1  藤原基俊    

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(710)


藤原基俊に…光覚僧都(こうかく・そうず/僧都光覚とも・・・僧都は僧官の1つ。僧綱のなかの第2位)

という者がいました。奈良/興福寺で、維摩会(ゆいまえ)講師(こうじ)になりたいと

願っていました。

維摩会は毎年、10月10日~16日まで、興福寺で行われる『維摩経』(ゆいまきょう)

法会で、講義を務めた僧は、やがて宮中最勝会(さいしょうえ/国家の平安を祈って行われ

る、『金光明最勝王経』(こんこうみょう・さいしょうおう・きょう)を講ずる法会。ちなみに・・・薬師寺では、3月7日から7日間、

最勝会が行われる。)講師と決まっていました。

(★ 『維摩経』・・・大乗仏教経典の1つ。別名/『不可思議解脱経』(ふかしぎげだつきょう)

 漢訳は7種あったと伝わりますが・・・支謙訳/『維摩詰経』、鳩摩羅什訳/『維摩詰所説経』、玄奘訳/『説無垢称経』

のみ残存します。一般に用いられるのは、鳩摩羅什(くまらじゅう)訳です。)

(★ 『金光明最勝王経』・・・四天王をはじめとする、諸天善神による国家鎮護の教説を含んだ経典。10巻から成る。漢

訳は5種あったが、現存するのは3種。後世重視されたのは義浄訳です。)


岡田健吉‏@zu5kokd1  藤原基俊    

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(711)


つまり、仏教本来の…

<覚醒/悟り・・・真理の体験的伝承>とは別に…王朝社会ではとしての別のエ

リートコースがありました。そして、その要職任命権は、藤原氏の長者(/藤氏長者・・・

藤原氏一族全体の氏長者のこと)に委ねられていました。

光覚僧都は、修行と共に、その方面へも働きかけていたわけですね。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1  藤原基俊    

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(712)


そこで、父/基俊はかねてより…

法性寺入道/前太政大臣/藤原忠通に、<子息の光覚に・・・維摩会の講師を務

めさせて頂きたい>…と願い出ていました。

さあ、今年こそ…と期待するも、また選に洩れた恨み言の歌です。ほほ…こっちもこっ

ち、どっちもどっち…ですよね。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1  藤原基俊      

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(713)


平安王朝も…

歌壇における<文学ゲーム>だったり、<仏教法会の出世コース>だったり…イン

チキコミカル(/喜劇的で、こっけい味のあるさま)な、廃退の側面色濃くなって来ます。

<熱苦しい恋のゲーム>にも、アキが来たということでしょうか。そして、ここから、

しい武士の時代が芽吹いて来る…わけですね。



 12月20日

岡田健吉‏@zu5kokd1  藤原基俊      

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(714)


さて、コトの次第ですが…

基俊は、今年こそ期待するのですが、その度選に洩れます。それで恨み言を述べ

ると、忠通はこう言います。

「心配するな。<しめぢが原>だよ」

意味は…『新古今集 - 巻20/釈経』の、清水(きよみず)の観音お歌

 

岡田健吉‏@zu5kokd1  藤原基俊      

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(715)


★ ただ頼め しめぢが原の させも草 われ世の中に あらんかぎりは

 
    
< たとえ

          しめじが原のもぐさを焼くように

                思い悩むことがあっても

             私を頼みとしなさい

                    私がこの世にいる限りは


…を示唆したものです。つまり…<しめぢが原>とは、ともかく<任せておけ>とい

う事です。歌の喩え(たとえ)で言うとは…王朝の人々は、風流物言いをしますよね…

 

岡田健吉‏@zu5kokd1  藤原基俊      

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(716)


でも…この秋もまた選に洩れた様です。そこで基俊この歌/【75番 → 藤原基俊】

を、<よみてつかわしける>…という次第になります。

【74番 → 源俊頼】と共に、院政期(/狭義では白河・鳥羽院政期の約70年。広義では、 院政前史とも

いうべき後三条・白河朝を加え、さらに平氏滅亡までを含めて110年余をいいます。)歌壇の重鎮である

は…縁語を使って流麗に仕立てていますが、<恨みっぽく、ひがみっぽく>…なっ

てしまいますよね。でも、そもそも、その意図が含まれているわけです。



 12月22日

岡田健吉‏@zu5kokd1        

                              藤原忠通/法性寺入道前関白太政大臣

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(717)


<しめぢが原>だよ…

と、忠通/次の【76番 → 法性寺入道前関白太政大臣】…に言われ、基俊歌壇

の重鎮ですから、意図瞬時理解します。

基俊はの出自は、右大臣/藤原俊家息子であり、道長曾孫(そうそん/孫の子・・・ひま

ご)であり血統も十分…ただ性格に、相当に難があった様です。

83歳高齢で没しますが、人望がなく微官(びかん/階級の低い官職)で終わり、1138年

(保延4年)出家して、覚舜(かくしゅん)と称しました。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1  藤原基俊    

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(718)


つまり…

基俊その性格が祟(たた)って人望がなく…出世する政治力もなく…息子/光覚僧都

(こうかく・そうず)維摩会(ゆいまえ)講師(こうじ)にする実力も無かったわけですね。

その観点から、改めて眺めてみると…<しめぢが原>の話も、この【75番 → 藤原

基俊】の歌も、空虚感が漂います。うーん…でも、そんな事があるのでしょうか?

 

岡田健吉‏@zu5kokd1  藤原基俊     

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(719)


歌壇では、【74番 → 源俊頼】張り合い(/革新的作風の俊頼に対し、基俊は古い歌風を重んじたと

いいます)ましたが…

<常々俊頼の下に立つ事を欲せずして、これにさからひて歌をも難(なん)ぜらるる

事多かりき>

…と、『百人一首一夕話』(ひゃくにんいっしゅ・ひとよがたり/・・・江戸時代に学者である尾崎雅嘉によって書

かれた百人一首の解説書。 百人一首を順番に並べ、歌の簡単な解釈、作者をめぐる話題で構成。 )にあります。

基俊は、漢詩文和歌もよくする才人ですから、人を批判する時は容赦がなかった

ですね。



 12月23日

岡田健吉‏@zu5kokd1  藤原基俊  

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(720)


基俊は…口を開けばライバル俊頼への悪口雑言俊頼の歌もけなしにかかり、そ

れがむき出しです。

対して俊頼の方は…温和なたちで、人々に敬愛されていました。歌合判者にも俊頼

が推(お)されることが多くなります。

そこで基俊は…こんな悪口も言っていた様ですね…

 

岡田健吉‏@zu5kokd1  藤原基俊  

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(721)


<俊頼は漢詩文の才なくして和歌をよくするが、あれはたとえば、馬がよく歩くよ

うなもので自慢にゃならない。漢詩文ができて歌がよめる、というのでなければウ

ソだな>

俊頼は…このウワサ話を聞いて、言いました…

<文時(/菅原文時・・・平安時代中期の文人・政治家。右大臣・菅原道真の孫。大学頭・菅原高視の次男。官位

は従三位・式部大輔。)、朝綱(/大江朝綱・・・平安時代中期の公卿、学者、書家。丹後守大江玉淵の子。同じく

参議に至った祖父音人が江相公と称されたことから、後江相公と称された。)の様に・・・漢詩文・経史(けい

し/経書と史書)に優れた・・・

 

岡田健吉‏@zu5kokd1  藤原基俊  

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(722)


・・・学者・文章家でも、名歌をよんだというのは聞かない。躬恒(みつね/【凡河内躬恒・・・

おおしこうちの・みつね】)、貫之(つらゆき/紀貫之・・・きのつらゆき)は漢詩文を操ったということは

聞かないが、だからといって和歌をよむのに不都合なことはない。基俊の非難は、

こじつけというものじゃないか>

うーん…基俊反論できませんよね。



 12月24日

岡田健吉‏@zu5kokd1  藤原基俊   

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(723)


うーん…

『田辺聖子の小倉百人一首』もう1つエピソードが載っています。それによると、

琳賢(りんけん)というとも仲が悪かったそうです。

ある時、琳賢基俊一泡吹かせてやろうと謀ります。勅撰集/『後撰集』の中の、

られていない歌ばかり20首集め…

 

岡田健吉‏@zu5kokd1  藤原基俊   

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(724)


歌合のように番(つが)えて書いて、基俊の所へ持って行き…

<ある人の歌合ですが、勝負を知りたいので審判してください>

…と言いました。

基俊『後撰集』とはつゆ知らず、例のごとくコテンパンけなす評を書きます。こ

れを得て、琳賢が言いふらします…

 

岡田健吉‏@zu5kokd1  藤原基俊   

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(725)


見たまえ、基俊にかかっては『後撰集』の撰者たち、梨壺の五人(なつぼのごにん)

もかたなしだ。なんと基俊は、上古の歌仙を凌ぐ歌仙だってさ

人々は大いに笑った。謀られたと知った基俊は、後の祭りでどうしようもく、地団駄(じ

だんだ)を踏みます。

基俊は…1138年(保延4年)78歳出家しますが…

(★ 梨壺の五人・・・天暦5年(951年)、弟62代/村上天皇の命により・・・平安御所/七殿五舎の一つである昭陽

舎に置かれた和歌所の寄人である。昭陽舎の庭には梨の木が植えられていたことから梨壺と呼ばれた。『万葉集』

解読、『後撰和歌集』の編纂などを行った。この9年後に、有名な<天徳内裏歌合(てんとくだいりうたあわせ)・・・/

天徳4年(960年)3月30日に催した・・・最も盛大な内裏歌合> があります。


以下が梨壺の五人・・・


大中臣能宣 (おおなかとみの・よしのぶ/祭主、神祇大副、三十六歌仙の1人)

源順 (みなもとの・したごう/嵯峨源氏、大納言・源定の曾孫、従五位上・能登守)

清原元輔 (きよはらの・もとすけ/清原深養父の孫、下総守・清原春光の子、娘に清少納言、三十六歌仙の1人)

坂上望城 (さかのうえの・もちき/加賀介・坂上是則の子・・・従五位下・石見守・・・父は三十六歌仙の1人)

紀時文 (きの・ときぶみ/紀貫之の子、従五位上・大膳大夫、父は三十六歌仙の1人)  


 ・・・)

 

岡田健吉‏@zu5kokd1 藤原俊成

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(726)


角も取れ

この晩年に、藤原俊成(ふじわらの・としなり、しゅんぜい弟子に迎えています。藤原俊成

言えば、定家の父であり、後に後白河院院宣(いんぜん/上皇からの命令を受けた院司が、奉

書形式で発給する文書。天皇の発する宣旨に相当します。)で、単独『千載集』撰集する超エリー

ト歌人です。

長年にわたるイザコザはともかく…基俊の実力のほどは…(うかが)ますよね、」



 1月12日

岡田健吉‏@zu5kokd1    法性寺入道前関白太政大臣  

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(727)


【76番 → 法性寺入道前関白太政大臣】 (ほっしょうじ・にゅうどう・さきの・かんぱく・だじょうだいじん

              平安時代後期から末期の公卿。従一位・摂政関白・太政大臣。通称は法性寺関白。摂政関白

              太政大臣/藤原忠実の長男。

              法皇の勅勘をこうむり、関白を辞した父/忠実に代わって藤原氏長者となり、25歳にして鳥羽

                天皇の関白に就任。その後も、崇徳・近衛・後白河の3代に渡って、摂政・関白を務めることに

              なりました。

              正妻腹の娘/聖子を崇徳天皇の後宮に女御として入内させ、翌5年、聖子は中宮に冊立されま

              した。崇徳帝と聖子との夫婦仲は良好でしたが子供は生まれませんでした。女房/兵衛佐局が

              崇徳帝の第1皇子/重仁親王を産むと、聖子と忠通は不快感を抱いたとい言います。<保元の

              乱>で崇徳上皇と重仁親王を敵視したのも、これが原因と言われます。


              ★ 
<保元の乱>(ほうげんのらん)・・・平安時代末期の保元元年(1156年)に皇位継承問題

              や摂関家の内紛により、朝廷が後白河天皇崇徳上皇方に分裂し、双方の武力衝突に至っ

              た政変。崇徳上皇は讃岐に配流されました。天皇方は反対派の排除に成功したのですが、宮

              廷の対立が武力によって解決され、<実力で敵を倒す中世という時代>の到来を示すものとな

              ります。

              慈円は、『愚管抄』で、この乱が<武者の世>の始まりであり、歴史の転換点としています。


★ わたの原 漕ぎ出でて見れば ひさかたの 雲居にまがふ 沖つ白波


   < 大海原に…

         船で漕ぎ出し…

              はるか、遠くを眺めれば…

           かなたには…

                雲と見がまうばかりに…

                     沖の白波が立っていたよ… >


岡田健吉‏@zu5kokd1    法性寺入道前関白太政大臣  

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(728)


「このは…『詞花集 - 巻10/雑』に…

<新院、位におはしましし時、海上遠望といふことを詠ませ給ひけるに詠める>

…として載っています。

うーん…<お題>に相応しいおおらかな歌ですね。大自然対峙した風格は、『詞花

集』にあっても万葉調に近いとか。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1    法性寺入道前関白太政大臣  

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(729)


<新院>とは崇徳院(すとくいん/第75代・崇徳天皇が譲位して上皇となった時の名前)ですね。次の、

【77番 → 崇徳院】ですから、その時に説明しますが…古代日本の3大怨霊/・・・菅

原道眞・平将門・崇徳院…の中の1人です。

この<保延元年4月29日の・・・内裏歌合>のものです。作者は、あの【75番

 → 藤原基俊】で…<しめぢが原>だよ、と言った人物ですね。<武家の時代>

なる、<保元の乱>(ほうげんのらん)惹起(じゃっき/事件・問題などをひきおこすこと)した張本人

1人です。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1    法性寺入道前関白太政大臣  

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(730)


法性寺入道/法性寺関白/藤原忠通(ふじわらの・ただみち)や、崇徳院が生きた12世紀

初めは…動乱時代の幕開け…でした。

崇徳院鳥羽上皇お子ですが、ご親子(ごしんし)の仲がお悪く父に疎(うと)まれ

母弟近衛帝(このえてい/第76代・近衛天皇)譲位しなければなりませんでした。

一方、関白家では…法性寺関白/忠通が、父と弟対立していました。



 1月13日

岡田健吉‏@zu5kokd1    法性寺入道前関白太政大臣  

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(731)


父/忠実(ただざね/藤原師通の長男。日記『殿暦』(でんりゃく/古写本22冊が伝わり、重要文化財)を残しまし

た。)は…次子頼長(よりなが/・・・苛烈で妥協を知らない性格により悪左府(あくさふ)の異名を取りました。

日記『台記』を残しました。保元の乱前夜の摂関家や当時の故実を知る上で優れた史料です。)愛し嫡男(ちゃ

くなん)忠通排斥しようとします。

また、武士たちも…源氏・平家とも、それぞれ同族の間角逐(かくちく/おたがいに競争する

こと)しています。

さて…近衛帝(このえてい/第76代・近衛天皇)崩御すると、後白河帝(ごしらかわてい/第77代・

後白河天皇)即位します。心ならずも譲位した、崇徳院(うら)は益々深まって行き

ます。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1    第74代/鳥羽天皇  

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(732)


そこへ…関白家頼長忠通争いに、武士たちが絡み始め…鳥羽院(とばいん/第74

代・鳥羽天皇・・・崇徳天皇・近衛天皇・後白河天皇の父親で、3代28年に渡り院政を敷いていました崩御

きっかけに、<保元の乱>(ほうげんのらん/保元元年(1156年)7月)勃発(ぼっぱつ/突然に発生

すること)します。

ここで…崇徳院側に賭けたのが頼長後白河帝に付いたのが忠通です。こうなって来

ると、武力の争いであり、<しめぢが原>【75番 → 藤原基俊】どころではありません。



     

   『保元・平治の乱合戦図屏風』 「白河殿夜討」 (江戸時代)メトロポリタン美術館所蔵

                                              パブリック・ドメイン/著作権フリー

 

岡田健吉‏@zu5kokd1 藤原頼長 

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(733)


天武天皇<壬申の乱>(じんしんのらん)もそうですが…武力の争い人々が死に

は早急に、そして、明確に決することになります。

崇徳院側はあえなく敗北し…頼長戦死崇徳院讃岐(さぬき)配流(はいる/島流し・・・

崇徳院は別名で、讃岐院とも言われます)となります。憤怒の塊となった崇徳院は、君臣を呪

(のろ)いつつ、その地生涯を終えます。



 1月14日

岡田健吉‏@zu5kokd1                

                                                                            法性寺入道前関白太政大臣

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(734)


戦死隠遁(いんとん/交わりを絶って俗世間からのがれて暮らすこと)忠通勝者とな

り、元の関白氏長者(うじ・ちょうじゃ/・・・藤氏長者(とうしの・ちょうじゃ)は、藤原氏一族全体の氏長者のこ

と。藤原不比等(ふじわらの・ふひと/飛鳥時代から奈良時代初期にかけての公卿で・・・<大化の改新>の中臣鎌足

/藤原鎌足の2男。)をもって初代とする説など、初代については諸説があります。)復します。

<保元の乱>は…鳥羽院崇徳院宿命的反目と憎悪から始まり、歴史の大車

を動かしました。

それにしても…忠通おっとりとした人柄で、人々にも好かれ中々の文化人だった様

です。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1                

                                                                            法性寺入道前関白太政大臣

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(735)


『保元物語』(ほうげんものがたり/保元の乱の顛末(てんまつ)を描いた軍記物語)に…

<此の関白殿は、よろづなだらかにおはしませば、人皆ほめもちひ奉れり>

…とあります。

また、書家としても法性寺流を開いています。肉太丸味力強さを兼ね備えた、生々

したもの…とか。

若い頃から和歌を学び、歌人面倒見も良く歌合もよく催しています。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1                     

                                                             法性寺入道前関白太政大臣

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(736)


忠通の歌は他に『新古今集 - 巻6/冬』に…


御狩(みかり)すと 鳥立(とだち)の原を あさりつつ

                交野(かたの)の野辺に 今日もくらしつ



さざなみや 志賀(しが)の唐崎(からさき) 風冴(さ)えて

                比良(ひら)の高嶺(たかね)に 霰(あられ)降るなり


『小倉百人一首』/『詞花集 - 巻10/雑』<わたの原・・・>同様に、ノビノビと

した清新な歌ですね。忠通人間性が偲ばれます。



 1月15日

岡田健吉‏@zu5kokd1                     

                                                              法性寺入道前関白太政大臣

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(737)


保延元年(1135年)4月29日内裏歌合(だいりうたあわせ)で…忠通<わたの原・・・>

詠んだのは38歳の時…すでに関白の位でした。

<新院/崇徳院>は…17歳若き帝です。意に沿わない譲位7年後のことです。

でも、21年後に…敵味方に分かれ、崇徳院讃岐に配流になるという運命は…夢に

も思わなかった…ことでしょう。」


 1月16日

岡田健吉‏@zu5kokd1    崇徳院        

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(738)

【77番 → 崇徳院】(すとくいん/第75代・崇徳天皇/・・・在位中から頻繁に歌会を催していましたが、上皇に

                 なってからは和歌の世界に没頭し、『久安百首』(きゅうあんひゃくしゅ/崇徳院の命により

                 作成した百首歌/作者は崇徳院のほか、藤原公能、藤原教長、藤原顕輔、藤原俊成など

                 14名)を作成し、『詞花集』を撰集した。鳥羽法皇が和歌に熱心でなかったことから、当時の

                 歌壇は崇徳院を中心に展開しました。)

                 (★ 譲位に際し・・・天皇が異母弟では将来の院政は不可能であり、崇徳上皇にとってこの

                    譲位は、大きな遺恨となりました。)


★ 瀬をはやみ 岩にせかるる 滝川の われても末に あはむとぞ思ふ


  < 川瀬の流れは、荒く速い…

          岩で滝川が2つに分かれても…

                  また1つになるように…

              君と僕も今は分かれても…

                      いつかはきっと…

                            再会できると思っています… >

 

岡田健吉‏@zu5kokd1    崇徳院        

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(739)

この歌は…『詞歌集 - 恋』(/しかしゅう/詞歌和歌集/・・・八代集の第六にあたる勅撰和歌集。崇徳院が

下命し、藤原顕輔が撰者となって編集。10巻、総歌数415首。)にあります。

うーん…【76番 → 法性寺入道前関白太政大臣】でも紹介した崇徳院ですが、怨霊

の面影はなく、それ以前の、純粋な恋の歌ですね。

<われても末に  あはむとぞ思ふ>をひねり、落語『崇徳院』と言うのがあるそ

うです。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1    崇徳院        

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(740)

落語ですから…最後にオチ笑いがあるわけですが…およそ、この真剣な恋を茶化

している事になるのでしょうか。

ともかく…崇徳院鳥羽天皇第1皇子として生を受けたのですが、天皇はこの皇子

親しみも、持たれなかったのです。これが、コトの始まりです。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1    崇徳院        

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(741)

鳥羽帝は…

<あれは私の子ではない。おじいさまの子だ。だから、私から言えば叔父にあた

るのさ。叔父子だよ>

…と放言し、(あざけ)られたようです。

鳥羽帝中宮は…美女の聞こえの高い待賢門院・璋子(たいけんもんいん・しょうし)で、おじ

い様白河院(しらかわいん/第72代・白河天皇)養女として育てられました。



 1月17日

岡田健吉‏@zu5kokd1  崇徳院       

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(742)

でも、これには忌わしい噂(うわさ)がありました。入内(じゅだい/中宮・皇后となるべき人が正式に

内裏(だいり)に入ること。)に、養父白河院と通じていられた、というものです。

白河院在世中コトもなく…鳥羽帝待賢門院との間には多くの皇子皇女をもう

けられています。この時代は、白河院院政時代であり、天皇単なる飾物でした。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1  崇徳院       

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(743)

第1皇子5歳になると…

白河法皇ご意思で…鳥羽帝譲位させられ、幼帝/崇徳天皇即位します。

でも白河院崩じられると…

鳥羽院は待っていた様に院政を執(と)ります。そして、待賢門院は避けられ、寵妃(ちょ

うひ/特にかわいがっている妃や婦人)/美福門院(びふくもんいん)との間に生まれた3歳の皇子/

近衛天皇(このえてんのう/第76代・近衛天皇)即位させます。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1  崇徳院       

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(744)

崇徳院は…

22歳の若さで皇位(お)われ自分に責任の無い事で、父君(うと)まれたわけ

で、やり場のない怨念蓄積して行きます。

皇位継承をめぐる、皇室関係者の確執は凄(すさ)まじいものです。かつては、多くの血

が流されて来ました。典型となるのが<壬申の乱>(じんしんのらん/・・・都落ちした天智天皇の

実弟/大海人皇子が吉野に隠遁し、天智天皇が崩じるとわずか数日間で数万の軍勢を糾合し、2方向から近江朝の都

/琵琶湖湖畔の大津を攻略します。大海人皇子は第40代/天武天皇になるわけですが・・・この軍略が稀代のカリス

マ性を生み、日本の国造りを推進しました。この天武天皇の后が第41代/持統天皇です。)ですね。



 1月18日

岡田健吉‏@zu5kokd1  崇徳院       

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(745)

その近衛帝17歳崩御され…鳥羽院はすぐに崇徳院弟/第77代・後白河天皇

即位させます。母親崇徳院と同じ待賢門院ですが、父親は間違いなく鳥羽院です。

さらに…皇太子には、後白河天皇皇子が立ちました。崇徳院は、せめて皇太子

私の皇子を、と思われていたのですが、それもかないません。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1  崇徳院       

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(746)

崇徳院激怒は…藤原一族内紛も絡み、武家もそれに加わり、紛糾します。そし

鳥羽院崩御をきっかけに、崇徳院後白河天皇に戦いを挑みます。

前にも触れましたが…崇徳院には、関白太政大臣/忠通父/忠実弟/頼長

与力しますが、それにも敗れます。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1    天武天皇    

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(747)

この争乱<保元の乱>(ほうげんのらん)で…

<壬申の乱>(じんしんのらん)と同じく絶対権力者崩御した時に勃発しています。ただ

違う所は、大海人皇子(おおあまの・みこ/第40代・天武天皇)は、兄/天智天皇比肩するか

それ以上の、戦略性を持つ歴戦の武人だった、ということです。

一方、崇徳院は…うーん…いい所まで行ったのですが…

 

岡田健吉‏@zu5kokd1  崇徳院       

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(748)

崇徳院の…戦略性・カリスマ性が、どれ程のものかは分かりません。でも、むしろ、

海人皇子のそれが、世界戦史の中でも、特筆すべき事項なのかも知れませんね。

讃岐に流された崇徳院は…憤怒は止むことがなく、生きながら妄執の塊となり、9年後

崩御されます。



 1月19日

岡田健吉‏@zu5kokd1  崇徳院       

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(749)

崇徳院は…菅原道真(すがわらの・みちざね/845~903年)平将門(たいらの・まさかど/903~

940年)の様に、怨霊(/この3人が日本3大怨霊・・・)となるしかなかったのかも知れませんね。

権力者不条理傲慢増幅し…<保元の乱>(1156年)を引き起こし…王朝の栄

をも終わらせ…武家の世の扉を開いて行くわけです…

崇徳院不条理誕生し…陰惨なご生涯だったわけですね。」

 

岡田健吉‏@zu5kokd1   源兼昌         

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(750)

【78番 → 源兼昌】(みなもとの・かねまさ/平安時代中期から後期にかけての歌人・官人。宇多源氏で、美

                  濃介・源俊輔の子。子に昌快、前斎院尾張がいる。官位は従五位下・皇后宮少進。その

                  後出家。

                  源兼昌は・・・堀河院歌壇の下部集団である忠通家歌壇で活躍しました。勅撰和歌集に

                  は計7首入集していいます。)                 

 

★ 淡路島(あわじしま) かよふ千鳥の なく声に 

               幾夜(いくよ)寝ざめぬ 須磨(すま)の関守(せきもり)


  < 海の彼方の淡路島から…

         千鳥は波の上を通って来る…

               その寂しい鳴き声に…

            幾夜、目を覚 まさせられたことか…

                    須磨の関守は… >


岡田健吉‏@zu5kokd1   源兼昌         

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(751)

「このは…『金葉集 - 冬』『金葉和歌集』きんようわかしゅう)/平安時代後期に編纂された勅撰和歌集。

全10巻。『後拾遺和歌集』の後、『詞花和歌集』の前に位置し、第5番目の勅撰集に当たる。撰者は源俊頼。)に載っ

ています。

愛唱しやすく美しい歌で…よく知られた歌ですね。

文法的<寝ざめぬ>という言葉が、古来から問題視されている様です。<寝ざめ

ぬらむ><らむ>省略されたとか、<寝ざめぬる><る>省略されたと

か…

 

岡田健吉‏@zu5kokd1   源兼昌         

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(752)

でも…ともかく、歌の方勝って詠まれ続け…厳密にはあり得ない言い回しが、かえ

って歌の命となっているのでしょうか。ともかく、4句目で切れ<関守>問いかけ

いる様ですね。

<須磨の関>(/兵庫県神戸市須磨区にある、関守稲荷神社がその関所跡・・・)古代に存在してい

て、<淡路島>と共に歌枕(うたまくら/そこを歌った初めの作品を踏まえて、多くの人が和歌によみ込ん

だ名所)になっています。



 1月22日

岡田健吉‏@zu5kokd1   源兼昌         

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(753)

あ…遅くなりましたが…この詞書(ことばがき)は…

関路(せきぢ)ノ千鳥といへることをよめる

…というものですね。

この背後には…『源氏物語/須磨の巻』があると言われます。作者兼昌(かね

まさ)も、『源氏物語』は当然読んでいたはずですよね。光源氏(ひかるげんじ)が、都落ち

たのは…春/3月

岡田健吉‏@zu5kokd1   源兼昌         

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(754)

…そして須磨住みつき…やがてになります。

<須磨にはいとど心尽くしの秋風に、海はすこし遠けれど、行平の中納言の、

関吹き越ゆると言ひけむ浦波(うらなみ)、夜々(よるよる)はげにいと近く聞こえて、ま

たなくあはれなるものは、かかる所の秋なりけり>

…という名文があります。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1   源兼昌         

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(755)

この行平中納言は…


★ 旅人は たもと涼しく なりにけり 関吹き越ゆる 須磨の浦風


…というものです。でさえ淋しかった流人の暮らしに、さらに耐えがたい冬が来ます。

そしての、月あかき夜<まどろまれぬ暁の空に、千鳥いとあはれに鳴く>

 

岡田健吉‏@zu5kokd1   源兼昌         

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(756)

…と、『源氏物語/須磨の巻』にあります。光源氏は、口ずさみます…


★ 友千鳥(ともちどり) もろ声に鳴く 暁(あかつき)は ひとり寝ざめの 床もたのもし


  < 群れをなして飛ぶ千鳥が…

        声を合わせて鳴く…

             夜明けにひとり寝ざめの私も…

          それを聞き、心丈夫に思われる… >



 1月23日

岡田健吉‏@zu5kokd1   

                                                                     『源氏物語』 第十二帖  須磨  第三章

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(757)


うーん…

兼昌は、こういう『源氏物語』背景連想しつつ、<須磨の関守>を詠んだわけで

すね。

そして…『小倉百人一首』編者/藤原定家も、『源氏物語』愛された方ですから、

兼昌のこのにも共感されました。この<本歌取>(ほんかどり/和歌の作成技法の1つ

で、有名な古歌(本歌)の1句もしくは2句を自作に取り入れて、作歌を行う方法)し、1首、詠んでいます…

 

岡田健吉‏@zu5kokd1   源兼昌         

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(758)


★ 旅寝する 夢路はたえぬ 須磨の関 通ふ千鳥の あかつきの声  

                                                        (定家)

兼昌は…プロの歌人ではなかった様ですが、歌合で、何度か名前を残しています。

が良かったのですね。それで、歌よみとしても遇され名が通っていた様です。

内大臣/藤原忠通家の歌合(/源兼昌は、堀河院歌壇の下部集団である忠通家歌壇で活躍しました)

では…

 

岡田健吉‏@zu5kokd1   源兼昌         

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(759)


3首のうち2首勝ちとされています。その時の判者は、例の源俊頼藤原基俊

す。みんな、(つな)がっているのですね。

藤氏長者(とうしのちょうじゃ/藤原氏一族全体の氏長者のこと。藤原氏の代表者として、氏の政治・財務・宗教な

ど全般に関わります。)忠通は、歌人たちの面倒見も良かっということですが、おっとりした

中々の人物だった様ですね。

基俊には…【75番 → 藤原基俊】<しめじが原>だよ、などと言っていますが、や

がて<保元の乱>勃発します…」



 1月24日

岡田健吉‏@zu5kokd1 左京大夫顕輔 

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(760)


【79番 → 左京大夫顕輔】 (さきょうのだいぶ・あきすけ/藤原顕輔(ふじわらの・あきすけ)・・・平安時代後

                        期の公家・歌人。修理大夫・藤原顕季(ふじわらの・あきすえ/歌道家の流派

                        のひとつ六条藤家(ろくじょうとうけ)の祖・・・後の、藤原俊成・定家の御子左家

                        (みこひだりけ)と対抗する)の3男。官位は正三位・左京大夫。六条と号す。

                         多数の歌会や歌合で活躍し、父から六条藤家の象徴である人麻呂影供(ひと

                         まろえいぐ)を受け継いだ。崇徳上皇から勅撰集撰進の命を受けて、『詞花和

                         歌集』を完成させ、奏覧に供した。)


★ 秋風に たなびく雲の 絶えまより もれ出づる月の 影のさやけき



  < 秋風に吹かれ…

         引き流れる雲の切れ目から…

               月の光が洩れてくる…

            その月の光の…

                  なんと…

                        澄みきった美しさよ… >

 

岡田健吉‏@zu5kokd1 左京大夫顕輔 

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(761)


「このは…『新古今集/秋上』に…<崇徳院に百首の歌奉りけるに>として載って

います。うーん…平明美しい情景描写の歌ですね。

(まれ)に、美しい夜空と言うのは見ます。最も印象深かったのは、巨大台風の去っ

夜空でした。空のチリが全て運ばれ、まるで、別物の夜空/月でした。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1 左京大夫顕輔 

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(762)


日本列島チリ洗い清められた、言葉を失うほどの美しい夜空でした。こうした情景

に接すると歌心が湧きます。でも…詠み切るのは至難の技で、才能と、長い修行が必

要になるわけですね。

あ、でも…名歌名文名画には、私たちも簡単に接することができるわけです。



 1月25日

岡田健吉‏@zu5kokd1 左京大夫顕輔 

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(763)


顕輔(あきすけ)は…地味写実的明瞭新鮮な力強さがあります。

顕輔は、【84番 → 藤原清輔朝臣】父親です。そして父親/藤原顕季(あきす

え)は、歌道家流派1つ六条藤家(ろくじょうとうけ)です。顕季は、柿本人麿

人麿の絵像(まつ)って<人麿影供>(ひとまろえいぐ/歌聖・柿本人麻呂を祭る儀式/六

条家において歌道継承のシンボルになります。)を行いました。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1 左京大夫顕輔 

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(764)


顕季には…息子数人いました。でも、和歌堪能(たんのう/深くその道に通じていること)

なければ歌道家伝統(でんとう/昔からうけ伝えて来た、有形・無形の風習・しきたり・傾向・様式。特に・・・

その精神的な面。)と、<人麿の像>譲渡しませんでした。

さいわい…未子(まっし/すえっこ)顕輔歌才があり、父の意志を継いで六条家歌学

興すわけですね。顕輔は、俊成・定家父子以前歌壇大御所で、崇徳院で、

『詞花集』撰進(せんしん/詩歌・書物を編集して天皇などに奉ること)しています。



 1月26日

岡田健吉‏@zu5kokd1 左京大夫顕輔 

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(765)


<六条家歌学>六条家というのは…(やしき)六条烏丸(ろくじょうからすま/京都市下

京区烏丸六条)にあったからと言います。

その後、藤原俊成・定家父子<御子左家>(みこひだりけ)対抗するわけですが…

御子左家藤原北家/藤原道長6男/長家を祖とする藤原氏の家系です。俊成・

定家以降歌道の家として確立します。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1 左京大夫顕輔 

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(766)


藤原定家子/為家(ためいえ/官位は正二位・権大納言。別称は・・・中院禅師・冷泉禅門・民部卿入道)

は…蹴鞠(けまり/平安時代に流行した競技の1つで、鹿皮製の鞠を一定の高さで蹴り続け、その回数を競う競

技)の家としても知られます。

蹴鞠は、サッカーボールリフティングに似ていますよね。この蹴鞠の流れは、<御

子左流>(みこひだりりゅう/・・・もう1つの、<飛鳥井(あすかい)流>と並び、世に重んじられた。)と言われ

ました。

冷泉家(れいぜいけ/御子左家の分家/冷泉流歌道を伝承は…その流れをくみ、歌道宗匠(そう

しょう/文芸・技芸などの道に熟達しており、人に教える立場にある人)1つとして、現在も残っている

わけです。



 1月27日

岡田健吉‏@zu5kokd1 左京大夫顕輔 

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(767)


顕輔家集(かしゅう/王朝和歌では、個人または一家の和歌を収めた歌集)に、次の歌があります…


★ むらむらに 咲ける垣根の 卯(う)の花は 木の間の月の 心地こそすれ


★ さらぬだに 寝ざめがちなる 冬の夜を ならの枯葉に 霰(あられ)ふるなり


(/★・・・冬の夜の 寝覚にきけば 片岡の 楢のかれ葉に 霰ふるなり ・・・(初音僧正)の派生歌/本歌取)


『小倉百人一首』の、<秋風に>もそうですが、これも地味ですが、いい歌です

ね。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1    

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(768)


ついでに、私の好きな忠通/法性寺入道・前関白太政大臣も、並べてみます。


★ 風吹けば 玉散る萩(はぎ)の 下露(したつゆ)に はかなく宿る 野べの月かな


これに、【37番 → 文屋朝康】、も並べてみます…


★ しらつゆに 風の吹きしく 秋の野は つらぬきとめぬ 玉ぞ散りける



 1月28日

岡田健吉‏@zu5kokd1  待賢門院堀河  

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(769)


【80番 → 待賢門院堀河】 (たいけんもんいんの・ほりかわ/平安時代後期の歌人。女房三十六歌仙・中

                        古六歌仙の1人。父は神祇伯・源顕仲。白河院皇女で斎院を退いた二条大宮令

                        子内親王に出仕、六条と呼ばれました。後に鳥羽天皇の中宮・待賢門院藤原

                        璋子に出仕し、堀川と呼ばれるようになりました。主人・璋子の落飾に従い、同

                        僚の待賢門院中納言と共に出家しています。家集『待賢門院堀河集』があり

                        ます。)

★ 長からむ 心も知らず 黒髪の みだれて今朝は ものをこそ思へ


  <末永く心変わりしないと…

          貴方はおっしゃっいました…

                  でも、本心をはかりかね…

              お別れした今朝は…

                     黒髪のように心乱れ…

                            物思いにふけるのです…>


岡田健吉‏@zu5kokd1  待賢門院堀河   

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(770)


「このは…『千載集/恋』 (せんざいしゅう/『千載和歌集』(せんざいわかしゅう)は・・・平安時代末に編纂

された勅撰和歌集。全20巻。『詞花集』の後、『新古今集』の前に撰集され、勅撰和歌集の第7番目です。)に…

百首歌奉りける時恋の心をよめる…として載(の)っています。

待賢門院堀河は…崇徳院母/待賢門院に仕えた女房です。待賢門院鳥羽天皇

中宮ですが、白河法皇を宿していたと言われ、愛憎確執発火点となった

(きさき)ですよね。



 1月29日

岡田健吉‏@zu5kokd1  待賢門院堀河    

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(771)


恋歌での<今朝>は…後朝(きぬぎぬ)/逢瀬(おうせ)翌朝です。全イメージ<黒髪

に結集し、結句<ものをこそ思へ>に結ばれています。

男は去り残された女の心<黒髪>の様に乱れ次に通って来るのを待ちま

す。さあ、約束は信じられるのか…と恋の悩みが始まります。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1  待賢門院堀河  

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(772)


王朝女性恋の形ですね。では、好き勝手かというと、そうも行きません

【63番 → 左京大夫道雅】(さきょうの・だいぶ・みちまさ)の様に…伊勢斎宮(いせさいぐう/伊勢神

宮の祭祀に際し、宮中から派遣された未婚の内親王や斎王の居館ですが、その人をも指します)だった当子内親

(とうしないしんのう)との純愛が、父親/三条院逆鱗(げきけん)に触れ…姫宮17歳

落飾(らくしょく/貴人が髪をそりおとして仏門にはいること)し、若くして逝(い)ます。道雅<荒三

位>(あらさんみ)と呼ばれるほど、荒れ狂いました。



 1月30日

岡田健吉‏@zu5kokd1 待賢門院堀河  

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(773)


堀河は…家集/『待賢門院堀河集』があり、女流歌人として名高く技巧があり、調べ

も美しい歌ですね。彼女神祇伯(じんぎはく/神祇官の長官、定員1名。官位相当は従四位下・勲四等。

神々の祭りを司り、神官を統率する役所の長官)/源顕仲(みなもとの・あきなか/村上源氏、右大臣・源顕房の子)

で、待賢門院に仕えています。

平安時代末期であり…西行法師(さいぎょうほうし/【86番 → 西行法師】・・・平安時代末期から鎌

倉時代初期にかけての武士・僧侶・歌人)とは同時代人で、西行家集/『山家集』堀河との

の贈答が載っています。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1  西行法師   

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(774)


西行法師は…徳大寺家(だいとくじけ/清華家(せいがけ/公家の家格のひとつ・・・最上位の摂家に次ぎ、

大臣家の上の序列に位置する。)の家格を有する公家。藤原北家の閑院流で、西園寺家や三条家とは兄弟筋にあた

る。)仕えた人(/西行は・・・俵藤太の流れをくむ武門の家柄で、佐藤氏の嫡子です。佐藤家は徳大寺家を荘

園の寄進先にしていました。その関係で、元服後の西行は、多感な時期をこの徳大寺家の家人(けにん)として過ごし

ています。ここで、濃厚な和歌の雰囲気に触れた様です。)で、徳大寺家出身待賢門院とは近く…

彼女サロン女房たちとも、当然、親しかったわけですね。

堀河は、西行出家した後に、次の歌を贈っています。


★ この世にて 語らひ置かむ ほととぎす 死出の山路の しるべともなれ

 

岡田健吉‏@zu5kokd1待賢門院堀河 

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(775)


ホトトギスは、ここでは出家した西行を指していますよね。そのホトトギス別名で、

出田長(しでのたおさ)あの世での、旅の案内人のことです。つまり、このは…


   < 生きている内に…

          約束しておきましょう…

                ホトトギスよ…

             死出の山路の…

                   案内人になってくれることを… >


岡田健吉‏@zu5kokd1待賢門院堀河 

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(776)


そして、西行法師返歌は…


★ ほととぎす なくなくこそは 語らはめ 死出の山路に 君しかからば


陰々とした、三途
(さんず)の川向こう岸の話ですね。これが、王朝末期空気でもあ

るのでしょうか。うーん…<君しかからば>とは、君しか居ないという事でしょうか?

 

岡田健吉‏@zu5kokd1待賢門院堀河 

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(777)


さて…

堀河がこのを贈った相手は誰だったのでしょうか。彼女は、少なくとも一度結婚

た様ですが…その夫とは死別しています。

『待賢門院堀河集』に…

<ぐしたる人のなくなりたるをなげくに、をさなき人の物語するに>とうい詞書で、

次のが載っています…

 

岡田健吉‏@zu5kokd1       

                           待賢門院(法金剛院蔵) /パブリック・ドメイン=著作権フリー

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(778)


★ いふかたも なくこそ物は 悲しけれ こは何事を 語るなるらむ


幼い子を残し、亡くなった様ですね。<黒髪>は、この男性を想っての

だったのでしょうか?

白河院/白河法皇(/法皇(ほうおう)とは出家した上皇)崩御し…崇徳天皇皇位を逐(お)

れ…翌年崇徳院の母/待賢門院落飾されます。

 

岡田健吉‏@zu5kokd1       

                           待賢門院(法金剛院蔵) /パブリック・ドメイン=著作権フリー

《 響子の・・・ 小倉百人一首 》・・・(779)


待賢門院落飾にともない、堀河同僚待賢門院中納言と共に出家しています…

それから…崇徳院傾倒するわけですが、鳥羽上皇との確執エスカレートして

行くわけですね。<保元の乱>以後…彼女たちは、どうしていたのでしょうか…」