法恩寺・・・太田道灌漑ゆかり
Last updated 98.06.07


日蓮宗平河山法恩寺縁起

このお寺は、私が中学生時代にちょうど通学路沿いにあって、
お寺の名前はよく知っていましたし近くには法恩寺橋という橋も
あってなじみ深いのですが、どういう訳かお寺の中にはほとんど
入っったことがあいませんでした。 ましてや、由緒ゆかしいお寺
だなんて知りませんでした。
場所は、JR総武線錦糸町駅北口から徒歩10ぐらいです。
墨田区太平のあたりです。 

日蓮宗平河山法恩寺縁起
開山は本住院日佳上人
開基は太田道灌公

長禄2年(1458)

江戸城築城にあたり丑寅の方に城内鎮護の祈願所として本住院を建立。

資康、資高城主となり、資高の代に本住院を法恩寺と改称。

元禄8年

家康江戸城入城後、城内拡大に当たって神田柳原谷中清水町と移され、元禄八年現在の地に移された。

昭和20年3月

戦災に遭遇、焼失。

昭和29年10月

檀信徒並びに地元の外護のより再建、本堂落成さる。

昭和7年 ?

経石塔(三重塔)は宗祖六百五十年遠忌記念として建立、
天平風鉄筋造り、当時新様式鐘楼として名高い。

 

太田道灌は江戸城を築城したことで有名ですが、他にも川越城や岩槻城を
建設したなど築城の名人であったそうです。
ですから、石垣・土塁を作り濠をうがち、さまざまな工夫をほどこし、
また古今の兵法書を漁りどのような攻城にも耐えられるようの万全の配慮
をしました。完成後も城内に住み、あれこれと手直しを行いました。
また、築城の名人であっただけでなく、歌人でもあったそうです。


そんなある日、道灌はふと思い立って鷹狩に出かけました。
ところが、午後になってにわかに空に雲が広がり驟雨にあってしまいました。
従者は民家を見つけ慌てて土間に逃げ込みました。
すると、奥から少女が出てきましたので
「思わぬ雨にあってしまった。すまぬが、蓑をひとつ貸してはもらえぬか。
あとで城の者から返させよう」
裏口から外に出ていった娘を道灌が蓑を貸してくれるものとばかり思って
待っていると、黙って少女が差し出したのは、一枝の山吹であった。
雨に濡れて、八重の花の黄色が薄暗い土間の中で、ひときはあざやかであった。
意味のわからぬ道灌は蓑を貸してはもらえず結局ビショ濡れになって城に帰った。
その夜、近臣たちが集まったとき、道灌はこのことを語った。
「娘の行いがどうも腑に落ちない」
すると中村重頼というものが進み出て、「おそれながら・・・・」と次のような話を
するのだった。
「後拾遺集の中に、醍醐天皇の皇子中務卿兼明親王の読み給いし、

七重八重花は咲けども山吹の

       実の(蓑)一つだになきぞかなしき

  という歌があります。少女は、蓑のないのを恥じたのでありましょう」
道灌は、おのれの不明を恥じた。翌日、少女のところに使いを出した。
山吹の代わりに、自分の蓑をもたせて−−−−。
しかし、少女の家は昨夜のうちに引き払われて、行き先もしれなくなっていた。
道灌はその後、少女のことを想っては歌道に精進した。
というエピソードが伝わっています。

境内にこのエピソードを表わした歌碑が立てられています。写真では、周りの木立影が重なってみづらいのですが、右側に道灌公が弓をたづさえ、

左側に膝まづいて山吹の枝を差し出す場面が刻まれています。

(参考;これは知っておきたい!日本の歴史 名場面100、童門冬二、三笠書房 P164より)


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