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参加者が書いた「自分史」

 この講座では「自分史」をどのように書くか、特に規制を設けていません。スタイルは参加者それぞれに自由です。カルチャースクールの自分史講座のように文章に手を加えることもありません。
 入力変換が精一杯で文章としての推敲が不十分なもの、「私の戦中戦後」という大作が時間の関係から東京大空襲で終わっているものなど、さまざまですが、その一部を抜粋してご紹介しましょう。

Aさんの場合
 戦時色はいちだんと強まり、昭和19年3月、中学生以上に対する学徒勤労動員大綱が発令され、3学年進級間もない春先から、大谷口の日大病院裏のガケ下の防空壕掘りに動員された。
 土方と一緒に、数人が一組となって横穴を掘る作業である。1日の掘り進む割り当て分が終わると、午後の早い時間でも解散。ガケしたを流れる小川で水遊びに興じた。
 防空壕掘りの次は、防火帯をつくるための家屋の取り壊しの手伝い。取り壊したのは、東上線金井窪駅(戦後廃駅、大山と下板橋駅の間にあった)近くの大衆浴場や民家だった。
 取り壊し作業が終わって、授業が受けられのもつかの間、3クラス150名が、魚雷を作っている前野町の興亜重工という工場に動員される。この工場の跡地は、いまは高層の住宅になっている。
 工場では、旋盤や研磨機などの操作を教えられ、工員さん並みの仕事を与えられ、私は鋳物工場だった。砂で鋳型をつくる仕事で、われわれ学徒十数人と、数名の女子挺身隊(工場などに動員された、家事手伝いの若い女性や主婦などの名称)を含めて、60名前後の職場だった。
 昭和20年になると、いつ命を落としても、不思議に感じないほどに、空襲が日常化してくる。生徒2人に先生が加わり、空襲に備えて、学校に泊りこむことが始まった。
同じ鋳物工場に働く級友のk君が泊り込んだ3月10日夜、彼の自宅のある深川一帯は大空襲にあい、両親、祖父母、兄妹の家族8人を一挙に失った。16歳の少年にとって、戦時下とはいえ、どんなにか衝撃だったことか。
工場の片隅の着替室で、家族を思い出しては、忍び泣きしているK君を女子挺身隊のT子さんと慰めたり、励ましたりしているうちに、T子さんと親しくなった。、
 ある日の帰りがけ、一片の紙切れを彼女から渡された。「たまゆらも み姿見えぬそのときは 胸の騒ぎてやるせなき身に」という歌がしたためられていた。恋文である。これを境に、2人の間は急速に接近した。
桜の咲き始める頃だったと思う。工場が終わってから、大山の自宅に帰るT子さんを送って、川越街道を大山まで、2人で腕を組んであるいたことがあった。
 誰かに後ろから、肩をたたかれた。先輩か先生に見つかったかと、ふり返ると巡査だった。2人は交番に連れてゆかれ、別々の部屋に離されて、延々1時間余にわったて 「このこの非常時に、なんたることをしてをる」と大目玉をくらい、そのあげく「これから本署に連行する」と告げられた。家にも学校にも連絡がゆくだろうと観念したとき、彼女が必死に懇願「君は先に帰ってよろしい」と放免された。22歳の彼女の知恵だった。
 この事件から間もなく、興亜重工も空襲で全焼、われわれは別の動員先に移ることになった。工場と別れる日が、T子さんとの最後の日になってしまった。16歳の中学生と年上の女性との 3カ月あまりの恋だった。
 次の動員先はわずかな期間だったが、成増の陸軍飛行場の軍の畑の草取りだった。
初夏の頃、4クラス全員が、戸田橋の大鹿振興に変わる。木製飛行機をつくる接着剤を大豆の蛋白から製造していた。空襲はますます激しくなり、交通機関が途絶、歩いて工場にたどりつく日もあった。
 8月15日の終戦の放送は、工場正門前に集まって、雑音のひどいラジオで聞いた。晴れた暑い日だった。真夏の暑い日がくると、時々この日を思い出す。

Bさんの場合
 18歳で叔母を頼って上京、夕方発。上野まで13時間半。夜明け前到着。都会に近づくにつれ田舎の振るような星空、送りにきた父母、友達、村人を思いだし無性に悲しくなり涙ぐんだ。自分で決心したのにネ。
 世相は、暗かったけど、なんとなしに活気があり、心がときめいていた。また新宿のガード下の闇市や、渋谷の恋文横町の小路を、男の人と腕組みし、颯爽と歩く女の人の姿に驚くばかりでした。
 4月デパート勤務、気持ちはすっかり都会の人、言葉や仕事を、覚えるのが、大変でした。桜の咲き誇る季節、花のトンネルをくぐって通勤、帰りは友達もでき銀ブラをした。季節の変化にあわせて、ディスプレーの見事さに感嘆したり、日劇、国際、宝塚、を見物、おとぎの国に迷い込んだみたいで、毎日が楽しかった。忘年会は、仕事の都合上毎年11月の末でした。初仕事は4日より、目の回る忙しさでした。
 いまは様変わりし、昔の面影はなくなり、数寄屋橋が消え、東京タワーが建ち、36階ビルができ、勝ち鬨橋の開閉も終わり、ホテル、デパートが,軒並みに、建ち並び、京王線がホームだけを残して、2駅、地下に潜った。
 続いて一気に高速道路、高層ビルが、地上を走り、電気製品の普及、丸の内線も走り、高度成長時代に、突入。

Cさんの場合
 昭和26年に入店し5年以上働いてくれた店員が、31年7月配達の途中に都電の安全地帯に衝突し即死するという出来事に遭う。その時はショックの余りすぐに商売を辞めようと考えたのも事実である。彼の葬儀は自分が受け持った。告別式の時、出棺を前に、亡くなった自分の息子に対しての母親の言葉は今も脳裏に焼き付いている。彼女は「○○、お前は旦那様にえらい御迷惑をおかけしたんだぞ。生まれかわったらしっかりお勤めするんだよ」と泪一つ見せず言い放ったのです。明治生まれの女性の気丈さを目の当たりみた思いがした。
 そして本当に有り難いことにその後も男子店員、女子店員も数名ずつ紹介していただいた。一方で店員の病死や交通事故による入院、また反対に相手方が長期間入院するような事故や工場内での機械事故等、いろいろあった。その度に心を痛めはしたものの仕事の方は順調に伸び続け、45年12月には株式会社設立という運びになった。会計事務所に相談し社員の持ち株制度を採用した。

Dさんの場合
 1931年昭和6年兄弟の中で両親が頼りにしていた兄次男が夏休みに大学卒業を前にして満州に1週間見学に選ばれ喜び帰宅し間もなく急病で死亡。兄三男が米屋の家業をする事で一生懸命両親と働く毎日でしたが1935年昭和10年父61歳で死亡した。 何と言っても力仕事のため兄と55歳の母では思うように出来ないし、1年後日中戦争のため兄は出征、私は女学校3年、どんなに考えてもむりな商売だった。
 兄が東京市滝野川高等小学校の教師のため商売をあきらめ家財と家を処分して昭和12年板橋区板橋8丁目(今の仲宿)に家を買って兄夫婦と2歳の甥に4歳の姪と母と祖母私の7人家族で幸せな毎日でした。
 昭和13年女学校卒業後教員養成所に入学。昭和14年茨城県水戸にいる姉夫妻(水戸師範の教授)を頼って鹿島郡大谷国民小学校代用教員となり、在職中少し頑張って小学校教員検定試験に合格した。やっと正教員として月俸45円を手にした時の嬉しさは今でも忘れられません。学校のまわりは田畑と雑木林で一人で歩くのが寂しいくらいでしたが、土地の人の親切で東京から来た先生さんと言っていろいろ話かけてくれました。
 22歳の時でした。母から田舎に長くいないで帰ってこい、結婚の時季を失うと心配との手紙を受け取りました。色々考えた末1941昭和16年思い切って東京に帰る準備のため教員採用試験の前日に上京して受験しました。幸いに合格の知らせで1942昭和17年新学期より北区稲田国民学校に就職が決定しました。
 4月1日入学式と赴任式を終わらせ生徒を帰らせまもなく空襲警報となり、荒川土手に爆弾が落ちたとの連絡に恐ろしい思いをしました。次第に国内も戦争のニュースが激しく衣食が1日1日少なく配給制になり、健康な男性から召集の赤紙で外地に行き内地に女性と高齢男性が多くなってきました。母も年頃の娘(私)を早く結婚させることに気を配っていた様子でした。たまたま小学校の先生が彼を連れて我が家の母に紹介し夕食をともにしたときから母と祖母の気に入り私に相談なくこんな娘でよければと返事をしてしまいました。考え戦争も激しくなり何時彼が戦地に行くか知れない不安で私は反対をしたのですが、意見を通すことが出来ず1943年昭和18年3月22歳のとき警戒警報中薄暗い式場で結婚式を挙げ親を安心させました。
 結婚したら女は家庭の仕事と言われ、残念ですが教員を退職して市川市行徳に新所帯の出発でした。家計のやりくりに夢中で頑張っているころ、心配していた召集の赤紙を昭和19年3月に受け取りました。そのとき妊娠5カ月の体のため実家にお世話になり8月14かに無事男子を出産。家族親戚みな喜んでくれ母としての責任感を感じ主人の復員を祈りつつ食糧不足に衣服の不足毎日毎夜の空襲にも耐えました。
 次第にアメリカの攻撃も激しくなり、兄の小学校でも学童疎開が始まりました。生徒と兄の子(2年と5年)をつれ埼玉県岩槻のお寺に疎開をしたため、板橋の家には祖母、母、私、6ヶ月の忠之がのこって家を守っることになりました。板橋も次第に空襲の回数も増え幼児を抱えているので市川の家に帰ることになりました。1月夜B29に爆弾1個を家の前100mの麦畑に落とされ、泥や小石が屋根の上に降り玄関の戸が曲がり障子も曲がり廊下は泥とほこりで大変恐ろしい思いをしました。
 それから2ヶ月すぎた3月10日、夜の空襲でB29数10機が関東地方に向かいつつあると放送があり、間もなく東京の空が昼のように明るくなりました。寝ている忠之を連れ防空壕に避難し解除になるまで1時間あまりを過ごしました。朝になって東京全滅の話が耳に入り板橋に残した母と祖母のことが心配になり行こうと思っても総武線不通、開通の見通しはないそうです。
 ニュースでは江東区墨田区の広い範囲に被害ありと詳しい報告のないまま数日が過ぎました。開通の見込みなく自分の足で歩けるところまで行く気持ちで朝早く弁当を作り市川駅より平井までは電車、その先は鉄柱があめのように曲がり開通不能8ヶ月になるというのです。忠之を背に地下足袋で神田の市電の通るところまで歩くことにしました。

Eさんの場合
 そして20年7月、川上に赤痢が蔓延し村中に広がって参りました。ここは井戸を掘りましても水が出ないため生活用水は全て一本の川で行います。当然私たちも感染いたしました。それはそれはひどい状態で、いま考えますとぞっといたします。
 最初に感染しましたのは当時3歳ぐらいでした妹です。その後は一番下の弟、まだお誕生前でした。母に言わせますとお乳を飲まないなと思いましたら、もうそれが最後だったそうです。
 後は続けてバタバタと、ただ母だけは頑張り通しました。 後日聞いたことですが一度もしかしたらと思ったことがあったそうですが、もし私がここで倒れたら一家はこれで終わりになると思い、ニンニクをすり下ろして飲み胃の中がちりちりとやけさうだったと言っておりました。
 しかし生命力というのは凄いものですね。薬もなく食べる物もなく立ち上がる力もなく病魔と闘う私たちも少しずつ快復に向かい学校にも行けるようになりました。そして8月15日先生から今日は大切なお話があるので早く帰つてラジオを聞きなさい、と言われ急いで帰って参りました。ラジオの前には村の方々も集まり、病気の方も少し良くなって起きられるようになった父も座っておりました。
 そして放送が始まると泣き出す人、喜び合う人。私には余りよく意味が分かりませんでしたが父は大変喜び、これからは自分の力で本当の生き方ができる、と言っておりました。父は語学の方に自信がありましたのでその方を生かしていきたかったのだと思います。
 そんなにこれからのことを喜んでおりました父も20年10月29日、帰らぬ人となってしまいました。

Fさんの場合
 連日連夜の米空軍機の空襲にこの日も朝から警戒警報が出たり解除になったりしていた。日中は春一番の様な南風が吹き暖かかったが、夕方前線が通過した後は北西の強風に変わった。
 夜寝てからも一度警報が出たがすぐ解除になった。 まだ12時前だったと思うが、また空襲警報が出て敵機の編隊が房総半島の南端に近づいているとニユ〜スが流れた。 布団から起き出して外をみるといつもと違って空一面幾筋もの光の帯がうごき回っている。日本軍の探照灯の光だ。
 その光の中を「わっ’すげ〜え」と大声を出して叫ぶほど低空を大きな機影のB29が横切って飛んで行く。 昼間の空襲時には高度10,000米の上空をキラキラと輝いて飛行するのは何度も見たが、こんなに大きな機影を見たのは初めてだった。 これは大変だ、と思ったとき「焼夷弾」がバラバラと我が家に直撃落下した。どう家を飛び出したのか覚えていないが、母と三番目の姉の三人で逃げ出した。
 父は前の浜町川の橋の下にもやってあった船を守るため一人で船に乗って降り落ちてくる火の粉を消しながら我が家最大の財産である檜造りの船に火がつくのを一晩中必死で防いだという。翌日再会したとき両手と顔全体に(やけど)を負って居た。姉は日頃から万一のこんなときに備えて何時も枕元に防空頭巾と雑のうをきちんと用意して寝ていたので逃げ出したときも服装などすっきりしていた。 
 私は袷の寝間着のまま裸足で出てしまった。後で非常に悔しいおもいをする。というのは当時学校に履いてゆくズックの編み上げ靴は「配給」制で一月程前にやっと当たった貴重品だったのだ。  
 母姉と三人で、前の橋を渡り、先ず明治座に行った。ここは今まで空襲警報が出ると近隣町内会の、老人や女性達の避難場所に指定されていた。私達が着いたときすでに場内は満員で出入り口のシヤッターが降ろされていた。 仕方なく隣の浜町公園に行ったが、ここは陸軍の高射砲陣地になっていて中には入れなかった。
 もういちど明治座横の金座通りまで戻り北西の強風と共に降り注いでくる火の粉を払い除けながら風上の馬喰町方向へ三人で歩いた。
途中誰かが脱いで行ったのか下駄が一足おちていたのを拾って履いた。 小伝馬町から浅草橋へ通じる市電通りまで来たら、この大通りにはまだ焼けていないビルが何軒かあったので、そのうちの一軒の地下室に入れてもらい、夜の明けるのを待った。
 外が明るくなるのを待って昨夜来た通を家に向かって戻った。 通りの両側の家々は殆ど焼け落ちていたがまだ方々で火炎があがっていた。明治座まで戻ってきたら大通りの真ん中あたりあっちこっちに、何人もの人が一山にかたまって焼け死んで居た。
 そんな山の一つのそばにまわりの焦げた「するめ」が一束落ちていたのを覚えて居る。 こんな状況の中に居たのに食べ物には気を引かれた。
 明治座の外壁は立っていたが屋根は焼け落ち、もうもうと煙が出ていた。 周りに人影はなかった。 蠣浜橋まで戻ったら私の家も隣り近所も、跡形もなく更地の様に真っ平らになり台所にあった水道管が20センチ程たちあがって先が熔けそこから水が吹き出していた。 すぐ橋の下を見たら、父は前記の様に両手、顔全体に火傷を負いながらも元気に船上に居た。
 橋の下には他に本家の鈴木屋の叔父さんと、従兄弟の茂ちゃんと冨美ちゃんが二艘の船に分乗し無事で居た。 家の焼け跡から西へ通り二本目(直線距離で100米程)から市電の人形町通り方面は被災しておらず家家は無事だった。
 私達はまず姉の友人のお宅に隣りのタバコ屋のお兄ちゃんといっしょに寄せてもらった。そしてこの日初めて南京豆を食べさせてもらった。 こんな時でも食べ物のことだけは忘れなかった。この日わかれて以後このお兄ちゃん(定雄ちゃん)に再会する事はできなかった。後日疎開先の宮城県で亡くなったと聞いた。
 夕方、小石川駕町(現千石町)から武雄叔父さん(母の二番目の弟)がリヤカーを引いて迎えにきてくれた。その日のうちに本家のおばあさんと、やけどのひどい父をリヤカーに乗せ母、姉、私、そして従姉妹の富美ちゃんが代わる代わるリヤカーの後押しをしながら市電通りを上野駅方向へ歩いた。岩本町から御徒町三丁目で左折し、上野松坂屋の前を通り湯島の坂を本郷三丁目へと上がっていった
 ここまで来る途中でも、道の両側あちこちで土蔵などが焼け続けていた。小石川の叔父さんの家は小さな旋盤工場をやっていた。 私達が6人も一度に入って来たんだから叔母さんはさぞびっくりしたことだろう。

Gさんの場合
 佐賀の春日、山麓の田舎村で私は生まれ、育ちました。父は終戦まで外地赴任、母は産婆という職業婦人、五人兄弟の四番目、女一人といった家族構成でした。戦中、二人の兄は、町中にある叔母の家から学校に通い、実際は三人兄弟といった方がいいでしょう。そうした環境で父との思い出は、幼いときは全くありませんでした。
 私が10歳、小学校5年生の時に敗戦を迎えました。戦中といっても田舎のことですから、空襲などの攻撃はなく、警報が鳴ると、防空壕の中に入りママゴト、夜になると山向こうの東の空(福岡)は真っ赤に燃えていました。広島や長崎の原爆もラジオや新聞で報じられるぐらいで、幼い私たちには、戦争の体験は大きな実感としては残っていませんでした。
 実際の戦いはその後始まったと言っていいと思います。町から避難者がリヤカーを引いて山に登っていく。引き揚げ船が着くと外地からリックサックを背負った老若男女が続々と引き揚げ寮に集まる。ゆったり、のどかな村も人々の波で賑やかに動き出します。クラスにも、戦火を追われた被災者の子どもたち、引き揚げ寮からも見知らぬ友達が机を並べるようになりました。そのころ父も幸いに、北支から着物虱とリックだけで引き揚げてきました。 、
 さあ、ここから食料の危機はいっそう強くなりました。兄たちも帰ってきて、2反歩足らずの田畑は7人家族が生活するには苦しいものでした。強制供出をした残りのお米は1ヶ月分ぐらいしかありませんでした。荒れ地を耕してイモ、カボチャ、大根など量がとれるものを選んで作りました。父は一年あまりして村の農協に勤めるようになり、母は家族の食料調達の買い出しと向かいました。大根やイモが主食で、その周りにお米がついていると言ったところです。雑炊も塩がない、一升びん3〜4本を入れた大きなリュックを背負うってバスを乗り継ぎ海辺に塩水を買いに行くのです。帰ってくるときはリュックのひもが肩にくい込んでいる母の姿は小さく見えました。塩水が入ると雑炊、煮物。岩塩が手にはいると漬け物を漬けてくれました。菜っぱを作るには、リヤカーに樽を積んで、片道3時間はかかるであろう町へ人糞をもらいに行く。肥料の代わりだったのです。私も日曜日には、後押しについていったものです。恥ずかしいと思わなかったのがその時代でした。
 母の産婆の仕事も忙しくなってきました。雨の日、うだるような暑さ、天山おろしの北風にほっぺは赤くなる寒さの中、そして昼夜を問わずくる生命の誕生に母は自転車のペタルを走らせていました。特に朝方が多いので、そのために朝食の支度は夜のうちにしておかなければなりません。「えつこ〜、えつこ〜」と父の声に起こされ、私は朝の支度にかかります。学校から帰ると母は「大きな赤ちゃんだったよ」「かわいい女の子」など知らせてくれます。さまざまな思いと、願いを受けて誕生してきた小さな命に感動して帰ってきた母の顔は喜びいっぱいの笑顔でした。いくつもの体験からつかんだであろう優しさと、厳しさを重ね持った母の強さをその頃から、感じ取ったものでした。

Hさんの場合
 私は其の地で楽市尋常高等小学校に入学し同校を卒業し炭坑に事務員として勤めました。昭和20年3月20日に会社を辞め甲種予科練習生として博多から筑紫線で前原で下車し小富士海軍航空隊に入隊した。戦況ははかばかしくはなかったが日本が負けるとは思わなかった。どの様な状況になろうと最後の一兵まで戦うのであると、余程前から本土決戦が叫ばれていた。入隊して毎日毎日手旗、モールス、体操、駈け橋が行われ罰直としての「バッタ」がある。「バッタ」は予科連にいった者ならこの名を知らない者はない。
 バッタには海軍精神注入棒だとか小富士魂とか書いてある。初の総員バッタを食らった。鬼瓦のような顔をした班長がその一番大きなやつを持って立ち、どんとゆかをついて「貴様たちは軍人精神が入っとらん」と怒鳴っている。私たちは縮み上がってしまった。みんなの顔は、初めて貰うバッタに青白くこわばっていた。「一番から前に出ろ」と言われ、背の一番高いやつが黒板に両手を支え、尻を後ろに突き出す。隆々たる班長の腕が力一杯バッタを5回、バツタが振られると「次」と叫ぶ。次の奴が駆け足で前に出る。帰ってきた奴に小さな声で痛いかと聞くと顔をしかめて小さな声で答える。私の心臓は急に早くなり、隣の奴に聞こえるのではないかと思うほどに動悸をうつ。
 いよいよ自分の番だ。バッタをくらうときの形を決める。このときからバツタがくるほんの短い時間が一番恐怖のつのるときである。バーンとひとつくる。なぜかほっとする。次から次ぎへときて5回痛い思いをすると班長が「次」と言う、ああ私の番は終わった。帰その日の入浴時はどの尻もどの尻もバッタの跡で赤や青の縞模様入りであつた。
 5月に長崎に派遣になった。長崎の駅前を東に緩やかな坂を登っていくと長崎神社を左にみてやがて電車の終点であった蛍茶屋に着く。そこを道に従って左に曲がり坂を上り詰めると日見峠の頂上である。此処にはトンネルがあり、これを通り抜けて日見峠を下っていくと、道の右側に島原半島に抱かれた橘湾が極まってゆるやかなカーブを描き静かな湾を形作っているのが見られる。小さな小さな湾である。この湾に沿う様に山並みが連なり人家が密集して建っている。此処が長崎県西彼岸郡日見村網場で私たちが此処で戦備作業を行っていた。
 8月9日長崎は朝から晴れ上がっていて大変な暑さであった。33度ぐらいあったのではないかと思う。
 私達は暑さの中で毎日の日課である戦備作業に狩出されていた。午前9時半か10時頃だったと思う空襲警報がかかり、沖縄から発進したB29の編隊約200機が長崎を猛爆していたがその空襲も午前11時には解除された。きっと長崎の人たちは皆ほっとして昼食のために防空壕を出たに違いない。私達は長崎市より山一つ越えた村にいたので空襲に何の関係もないので作業を続けていた。私はその日食卓当番だったので作業をやめ、他の練習生と二人で作業場から薯畑の急な坂道を降り海岸に出て小舟が昼食を運んでくるのを待っていた。そのとき東の島原半島の方から長崎市の方に向かって橘湾上空を飛んでいくB29、2機を見た。それが長崎の上空に達したと思うころ、小さな落下傘3個を落として急に島原半島の方向に反転していった。
 変なことをするなと思ってみていたいたがその時である。たばこを包んである銀紙の様な真っ白な光が空間いっぱいに充満したようになったと思うと腹の底から揺すられるようなドーンという爆発音が響いてきた。その音は一緒にいた同期生がとっさに岩陰に身を伏せたほどすざましいものであった。やがてあの原爆特有の茸雲が立ち登った。その先端はどす黒い色をしたドーナッツ型をしていて、雲がその中心に向かって激しい回転運動をしているのが見られ、それが上へ上へと登っていく。長崎の駅前にあったガスタンクが爆発したらしく茸雲はやがて天に達し長崎の町は厚い雲に覆われた。3個の落下傘はゆっくりと島原の方へ流されていった。これを大村からか諫早からか高射砲で撃っているのだがその炸裂する白煙が落下傘の周りを彩って絵でも眺める思いであった。其の夜に「誰々さんが死んだそうな」「誰々さんが2階にいて助かったそうな」と言う噂が広がっていた。その後8月15日終戦となった。我々はその2,3日後にいよいよ網場を引き上げ佐世保海兵団に行くことになった。日見峠の頂上に登ってみると瓦のやねが1枚1枚はりねずみのようになっていた。瓦の中の原子が破裂したものだろう。


 

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