ヤーマチカ通信 No.61

この「くに」で…

2006年8月20日号

幼い頃には「私は本当にこの家の子なのだろうか? 拾われてきたんではないだろうか?」とゆえなき不安に捕われたり、少女時代には母と口論になると、「なにも頼んで産んでもらったわけじゃない!」と憎まれ口をたたいてダダをこねたことを思い出します。

大人になってからは、たまたま(!)日本に生まれ合わせた不思議と、そしてそのことに感謝する気持ちを抱いて生きてきました。納豆も梅干しも味噌汁も、日本語も、大好きだし、その上、「戦争放棄と恒久平和を願い努力する国「なんていうカッコイイ誇らしさを、生まれながらに身に備えさせていただいたのですから。どの外国へ出かけても、堂々と胸を張っていられたのは、なんと幸せなことだったでしょう。

と同時に、もし、ロシア人だったら、中国人だったら、朝鮮半島に生まれたのだったら…最近では、イラク人だったら、アフガンだったら、ルワンダだったら、とか、パキスタン人だったら、ユダヤ人だったらどうしていただろうと置き換えて、想像してきました。

皆、たまたま生まれ合わせた「くに」で、それぞれに生を営み、人生を終えていきます。「愛国心」なんて感情は、最初から植え付けられるのではなく、結果的にじわじわとこみ上げてくるものであってほしい。そういう共同体で生きていられるよう努力したいものだと思っています。

友人で、あるいは知り合いであって下さってありがとうございます!

バラライカのザジーギンさんと再会・共演

バラライカ奏者のワレーリイ・ザジーギンさんが、ライブコンサート「ロシア浪漫vol.3〜バラライカと唄う」(7月31日南青山マンダラ)にゲスト出演し、独奏と伴奏で魅惑して下さいました。

ご来場下さった皆様、ありがとうございました! モスクワではしょっちゅうお家へお邪魔していましたが、共演では'95年のリサイタル「黒い瞳いずこ…」以来。彼は今やグネーシン音楽大学の教授で、円熟の「人民芸術家」です。

2006年夏ハバロフスク

今年はまとまった期間モスクワに滞在する日程がとれなかったため、ほんの駆け足旅行で久しぶりの極東を訪ねました。ハバロフスクは実に15年ぶり。その変貌ぶりに目を見張り、石油価格の高騰ゆえと言われる好景気下のロシアを、首都から遠く離れた極東地域の生活の中にも実感しました。

庶民の生活

'89年夏と'91年秋にホームステイさせてもらったセルゲイ一家と再会しました。当時、工場の運転手だった彼は年金庁に転職し、やはり運転手をしています。妻のオーリャはそこの事務職。小学生だった一人娘のヴェーラは、専門学校を経て、会計主任のカレシはコンピュータ技師。

同居している家族全員が同じ職場というのはとても便利でしょう。「日本では経営者一族ででもなければ無理だなあ」と私が言うと、「ロシアでは逆さ。上層部はかえって非難されるからできない。ヒラだから自由に就職できるのさ」と言われました。

4人の月給を円に換算すると
夫 セルゲイ (51歳) 3万9千円
妻 オーリャ (51歳) 2万4千円
娘 ヴェーラ (26歳) 8万1千円
カレシ オレーク (27歳) 6万9千円

一番若いヴェーラが高給なのは、大学へ行かず就職したのでキャリアが長く、主任のポストだから。妻オーリャには、月給の他に、ほぼ同額の障害者年金が支給されています(ロシアでは、女性は50歳から年金受給、男性は55歳から)。

この数年感に、薄給のはずの公務員の給料も5倍程に増え、確かにゆとりの生活ぶり。デジカメもパソコンも楽しむようになり、運動不足なのか、セルゲイは少し太り気味。15年前には、毎日せっせとダーチャで野菜を作り、野鴨を撃つ狩猟姿も精悍だったのに。

「最近はせっかく植えた苗を引き抜いて盗む泥棒が増えたから、甲斐がないのよ」とオーリャは言うけれど、金銭的な余裕ができて、自給自足の必要性がなくなったせいだだろう、と、私には感じられました。

ところで、私が訪ねた7月1日には、セルゲイとオーリャはすでに45日間の夏期休暇のまっ最中(休暇中は月給の半額が支給される)。「モスクワでの公務員の休暇は36日間だったけど」と言うと、「地方では45日間なのだ」という答え。日本の勤労者の皆さん、どうお聞きになります? 「45日間もの夏休みは退屈しないの?」と尋ねると、「とんでもない。鳥の声を聞きながら散歩したり、パソコンでアルバムを作ったり、のびのびしてるさ。残業があったり、休みが少ない職場では、僕は絶対働きたくないね」とのことでした。

セレブの生活

メインストリートの古い街並は淡く明るい色に塗り改められて、ディズニーランドを思わせるよう。州庁舎前の広場も、アムール河畔の高ジェンも美しく整えられ、市民憩いの華やかな公園がいくつも新設され、大型スーパーマーケットは世界の日用品を取り揃え…。ハバロフスクってリッチな市なの?

今回は、ハバロフスク日本センター長としてロシア人経営者たちと親しく交流のある知人のお蔭で、レストランやスーパーを経営しているセレブ層の生活も垣間見ることができました。大半が30代の、屈託なさげなスポーツマンタイプ。

アムール河と合流するウスリー河側へ、市中から30分車を走らせた所に「ザイームカ」という総合リクリエーションセンターができ、そうした層が家族ぐるみで夏を満喫していました。ホテル・レストラン・バー・テニスコート・卓球台・ビリヤード・バドミントン・ゴルフのミニコースやバーベキュー設備のほか、ミニ動物園もあれば、幼児・子供の遊具類も揃え、水泳のあいまにスケボーや自転車を乗り回す子供たちでも賑わっています。 (例:テニスコート使用料は1時間1350円)

新潟→ハバロフスクの機中で

新潟空港内の雰囲気からも異変は感じとれました。

成田←→モスクワという首都圏を結ぶ空路と違い、地方都市どうしを結ぶ空港なので国際空港とはいえ緩やかな警戒なのは理解できますが(ソ連時代の緊張感とは大違い)、それにしてもこのリラックス感は!

乗客の大半は若い一般ロシア人。それも、ビーチサンダルにヘソ出しルックの娘や、短パンの青年。見送りの日本人たちも同世代の、友人や恋人とおぼしき打ち上げ方で、はしゃいだりハグ(抱擁)しています。両者の持物や服装に差はなく(ロシア人の方がちょいとファッショナブルか)、リゾート感に溢れている。

気軽にちょくちょくと行き来をしている気配が濃厚です。私の隣の席は26才の娘(と思ったら一児の母)で、「ちょっと面白そうだから、3ヶ月間東京新宿区の日本語学校に遊学している途中なんだけど、夏休みだから1週間ハバロフスクの自宅へ帰る」のだそうな。キャリアのためでも、就職のためでも、勉学のためでもなく、趣味で、6才の子供を残して、物価の高い(はずの)東京へご遊学。ちなみに、学費は約20万円。航空券往復6万円。それにアパート代や滞在費を加えれば…。それを30才の夫がポンと出してくれたのだそうな。同機には、同じ日本語学校に通う娘が6人も乗っていました。

ハバロフスク最大のスーパーマーケットには、日本の食品も

黒パン(360g)8р80к
白パン10р30к
ジャガイモ(1kg)25р90к中国産
ニンジン(1kg)34р80к中国産
キャベツ(1kg)39р90к中国産
トマト(1kg)40р00к
リンゴ(1kg)52-84р80к
洋梨(1kg)89р90к米国産
スモモ(1kg)77р70к中国産
スイカ(1kg)58р80к中国産
パイナップル(1kg)5р80к中国産
メロン(1kg)48р80к中国産
バナナ(1kg)39р80кエクアドル産
緑茶ペットボトル(500ml)139р40к
醤油(400ml)184р80к
エバラ焼肉のたれ(300g)270р50к
カップヌードル(普通)69р80к
カップヌードル(大)99р20к
缶ビール・スーパードライ(500ml)65р00к

参考: コーラ(小瓶) 30р、ロシア・缶ビール(500ml) 23р80к

公式レートは一米ドル=26р50к=119円40銭(2006年6月30日)、рはルーブル、кはカペイカの意。1ルーブル=4円50銭の計算。

ダーチャで自給できる野菜まで輸入するようになった金持ちロシア。地の利から目下中国産が多いが農薬が心配なので、近々日本からの輸入に切り替えようという動きアリ。

ワルツ「アムール河の波」と作曲家の運命

「(サイト作者註: 歌詞冒頭部につき略)」と美しい日本語の訳詞で知られるワルツ「アムール河の波」には、もともと歌詞はありませんでした。

1903年に、東シベリア第二連隊の軍楽隊長だったマクス・キュッス(1874-1942)が、上官夫人に贈るために作曲し、一時はピアノ・ピースが売られ好評でしたが、その後、日露戦争や第一次世界大戦、革命が続き、忘れられていきました。

退役後、故郷のオデッサで音楽教師をしていたキュッスは、第二次世界大戦中にドイツの占領軍に連行され、町の人と共に銃殺されました。彼がユダヤ人だったからです。

わずかその2年後に、ハバロフスク極東軍付属「歌と踊りのアンサンブル」の指揮者ルミャンツェフが、偶然埋もれていた楽譜を見つけて合唱曲に編曲し、作詞も団員に命じてよみがえらせたのです。

更に補作詞を得て、広く愛唱されるようになりました。

ソ連残留元日本兵

第二次大戦でシベリアに抑留され、日本帰還が可能になってもハバロフスクに留まり、アムール河の港湾労働者として暮らされた○○さんご一家にお会いしたのは'89年でした。

ロシア人の奥さんと添い遂げる道を選び、娘さん夫婦やお孫さんとの睦まじい老年でした。消息がわからず案じていましたが、日本人墓地にお墓が建てられており、'92年に69才でお亡くなりになったことを知りました。

抑留中の犠牲者の墓は地面に平らな長方形ですが、墓地を見守るようにして奥の塀際に並んでいるのは残留日本兵の方々の墓で、日本式の角柱の墓石です。ここに、寄り添って葬られることを望まれたのでしょうか。ご冥福を。

Copyright by Yamanouchi Shigemi 2006