あぁ、なんて時の経つのははやいこと!
ヤーマチカ通信のインターバル新記録を作ってしまいました。お許し下さいませ〜!!
NHKラジオロシア語講座テキストの「絵解き面白まめ辞典」連載と、目黒区の「ロシア民謡(!?)を歌おう」講習会はともに2年目。早大の授業に加え、去年からは中央大法学部での「芸術家と政治状況」の授業、レジュメ作りに四苦八苦。…と、仕事はお陰様で順調なのですが、前回の通信後、中学のクラスメイトが二人も他界するなど沈みがちな一年でした。世界情勢も永田町も、「一体私たち、どこへ向かっているの?」という感じだしナァ
ユーラシア・ブックレットのロシア愛唱歌集の続編が出ました〜〜〜!! 「黒い瞳から百万本のバラまで-ロシア愛唱歌集」の発売から3年。御蔭様で第4刷になりました。地味ながら、ユーラシア・ブックレットの中では最多の売れ行きだそうで、早くも続編を送り出すことができました。今回の掲載曲は
モスクワの北東250kmにあるヤロスラーヴリ市から、市制995周年の祝賀祭に招かれ、40人編成の民族オーケストラの伴奏で歌ってきました。
あと5年待てば千周年なのになんでそんな中途半端な年に? と不思議でしたが、今年は第二次世界大戦終結60周年の区切りでもあるので、合わせて盛大なお祭りを、というワケのようでした。
ロシアは国土が戦場にもなって、膨大な戦死者が出ましたので戦時の記憶は風化していませんし、戦勝した連合国側でしたから、モスクワにもヤロスラーヴリにも戦後60周年のポスターが溢れていました。
ヴォルガ河沿岸で最古の都市と言われる、緑したたるいにしえの町、1750年にロシアで最初の地方劇場として誕生したヴォルコフ劇場は、今も、夜毎公演しています。宇宙飛行士テレシコワさんの故郷でもあります。
近在を含め人口65万人こぞってのお祭りは3日間続き、歩行者天国になった市中やヴォルガ河畔の遊歩道にはヤールマルカ(露店)が立ち並び、林や森かと見紛う公園や緑地では、あちらこちらで、グープや家族合同のバーベキュー。そして、期間中の昼間には、たくさんの美術館や博物館の中庭や、町のいたる所にある広場という広場で時間をずらしながら一斉に無料の野外コンサート。夜はホールでクラシックからロックまでさまざまな演奏会が繰り広げられ、モスクワはじめロシア各地からのオーケストラや合唱団も招待演奏し、国外からはフィンランドの民族楽器アンサンブルと日本の山之内が加わり、私はロシア版『リリー・マルレーン』と言ってもよい『青いプラトーク』や、日本の井上陽水さんの『愛は君』を、トークを交えながら歌いました。
最終日、メインの5月28日には、町の中心にある屋外スタジアムで総勢五百人余りの一大ページェント。
私は緑のそよ風の中で、10万人の観客を前に、ハンサムなミハイルさんと『スムグリャンカ』をデュエットしました。
祭りのフィナーレは、ヴォルガ河畔から打ち上げられ、町のどこからでも眺められる大輪の花火でしたが、開始は夜の11時過ぎ。なにしろ夕陽がやっとその頃にならないと沈まないからです。
打ち上げ時間は30分ほど。日本と比べれば、つましい量でしたが、大人たちも子供のようにはしゃいで楽しんでいました。
リラの花が甘く香る日の長〜い夏の祭りを老いも若きも、子供も大人も自然と一体になって存分に楽しみ、音楽に親しんでいる様子に少なからず心を打たれました。日本ともモスクワとも違う、圧倒的な自然の中の地方都市ののびやかさでしょうか。
私の伴奏もしてくれた市立民族オーケストラの指揮者兼音楽監督は、'95年に私が京都と東京でリサイタルをした時に駆けつけて演奏して下さったバヤン(ロシアのボタンアコーディオン)奏者のアゲーエフさんです。当時は工場付属のオーケストラでした。その後、経済が混乱した時期には、ピアノ教師の妻や娘ユーリャともども給料の遅配に苦しみましたが、数年前から、市営に昇格。彼自身も功労芸術家の称号を受けて、今や順風満帆です。その上夫妻ともに年金年齢(男性60才、女性55才から)に達したので、市内交通費は無料。住宅費割引もあるので、年に2度ほど家族がそれぞれに格安ヨーロッパツァーも楽しんでいるそうです。日本の皆様によろしくとのことでした。
帰りにモスクワで一週間過ごし、ちょうど始まったばかりの国際チェーホフ演劇祭で話題になっている舞台や、ミュージカル『キャッツ』のロシア版(『コーシキ』)の初演などを観てきました。(歌も踊りも達者過ぎて非の打ちどころがないロシア人キャストによるミュージカルは、なんだか切迫感があまり感じられず物足りないような気がしたのはなぜかしら)。「メモリー」のロシア語歌詞が興味深かった。
アゲーエフさんの場合だけでなく、今でも、ロシアでは「年金受給年齢」は、「定年=職場を去る」ことを意味しません。
折しも5月31日は、私のかつての職場であったロシア国営ラジオ「ロシアの声」の、'現役'レービン課長の、ナント80歳のお誕生日でした。
終業時刻の5時から、ラジオ局の仕事部屋に、管轄の日本課、中国課、朝鮮課などの職員や、職員の家族や、副社長さんも顔を出され、主に手作りの料理を仕事机に並べてのお祝いの宴があり、私も参加しました。
リスナーからの投書の整理や通信を出す担当の岡田さんも確か同い年のはずですが、お二人とも、お元気で優秀で、チャーミングで、現役を続けていらっしゃいます。
実はヤロスラーヴリもモスクワも、今年は2月に次いで二度目です。モスクワでは去年かさらに「不審な人や物を見かけたらただちに警察へ連絡を」という文章と共に「02」の警察TEL番号が大書された看板がやたらに目につくようになりました。だからヤロスラーヴリの人情あふれる素朴さにホッとしました。そのヤロスラーヴリでもIT部品の店は大繁盛。音楽小・中学校の教室にもパソコンがズラリと並んでおりました。
その反面、劇場やホール、学校など公共の場のトイレ事情は、首都ではすっかり清潔に改装されたのに比べ、ソ連時代と変わらぬ悲しい現状でした。
ところで、私は、マリヤさんが亡くなられてからは、モスクワでは、十数年来の知り合いである年金生活者のエリザベータさんご夫婦の家に泊めてもらうことが多いのですが、今回のモスクワ滞在中、お二人は10日間の日本旅行に出かけて留守でした。ヤロスラーヴリへ向かう前に、鍵をあずかって、一人で留守番しながら暮らしたのです。
二人は今年がちょうど結婚50周年。金婚式ですね。そのお祝いにモスクワ市が外国旅行をプレゼントしたそうです。
フランスかイタリアなら無料で行けたけれど、エリザベータさんは、どうせなら、日本に行きたかったので、その場合には一人350ドルずつ自己負担しなければいけなかったそうです。ご夫君は第二次世界大戦従軍者、彼女は勤続年数と業績を認められた「ベテラン」と呼ばれる年金者。でも、特別な地位や名前があるわけではない。まあ普通の年金生活者夫婦です。生活費は工夫して切り詰め、歯の治療や、目の手術といった加齢による有料のお医者様代が工面できずいつも苦労しています。
でも私がモスクワに来る時には、夏であれば、留守であることも時々あって、夫婦でソチの保養所へ一週間、とか、黒海のサナトリウムで海水浴してきたとか、「息子に鍵をあずけてあるから、受けとって、勝手に部屋を使いなさい」という置き手紙があったりするのです。よくぞまあ、外国人の他人に部屋の出入りを許してくれることにも驚きますが。(こういうことは他の知り合いの家族との間でも時々経験します。日本ではとても考えられない!!)、年金生活者へのサービスはソ連時代の名残のままなのですな。
ウーン、どうなっとるんじゃ
ロシアって国は……。