淡々と流れる「時」を、人間が勝手に区切っているのでしょうが、それでも、こうして世紀の境目をご一緒に越えることができるめぐり合わせに感謝いたします。と同時に、21世紀に立会うことなく去って逝ったなつかしい人々の顔がしきりに思い出されてなりません。21世紀なる世の中を、あとどのくらい見ることができるのか、わかりませんが、これまでと同様に、どうかよろしくお願い申し上げます。
新春は1月19日(金)に恒例のシャンテ・サロンコンサートです。今回は6:10-と7:40-のいずれの回に来ていただいても、ロシアの100年間を大急ぎで駆けぬけられるように選曲しました。それにしても曲数が多いので、どうすれば各回を50分程度に納められるか、知恵を絞っております。どうかお楽しみに、お誘い合わせてお越し下さいませネ!
タイヘン、タイヘン…。このヤーマチカ通信は、12/20-12/29のロシア演劇打合せ兼、観劇ツアーに出かける前に発送するつもりだったのに、清書が間に合わず、なんたることか、ペテルブルクまで持って来てしまったのです。どうやって東京の○○○印刷(HTML作者註:伏せ字は社名です)へ送ろうか…至急の国際郵便でも仕事納め日までに間に合うかどうか…。FAXさと字がにじんで読みづらくなるかも知れない…。その場合は、今号に限り、どうかお許し下さーい!
ドジなまま20世紀を終えようとしている山之内です。それでは皆様によき新年を! よき新世紀を! (12/22 ペテルブルクにて記)
(HTML作者註:「シャンテ」で予定された曲は、一回目、
(2000年12月のレート:1ドル=28ルーブル=117円)
席の良し悪しを言わなければ、ロシアの劇場では、コーヒー一杯の値段で芝居が観られるのですが、ボリショイ劇場とマリインスキー劇場は例外です。どちらも有名な帝室オペラ・バレエ劇場で、外国人観光客が集中してつめかけるからです。
ボリショイ劇場の方は、旅行会社やホテルが手配するツアー客用チケットは50ドルほどですが、劇場窓口へ買いに来る個人客には、ナニジンであっても原則的に同一価格です。ところが実際には、優先的に買える劇場出身年金生活者を介してダフ屋が買い占めるので、一般ロシア人の手にはまず入らず、外国人も、劇場前にたむろするダフ屋から50-100ドルで買うしかありません。
一方、絶好調の指揮者ゲールギエフが率いるマリインスキー劇場では、だいぶ前から、ロシア人と外国人に対し数倍の差を設ける二重価格です。今回のツアー第1夜は、この劇場のバレエ「ショパニアーナ」でしたが平戸間(一階席)の私のチケットは1400ルーブル(5850円)と印刷してあり、隣の席のロシア人は250ルーブル(1040円)でした。そして1月1日からは値上がりする告知も出ていました。それによれば、2001年1月からはロシア人(ロシアの給料で働く外国人も)には8р(33円)〜500р(2106円)、外国人は 140р(585円)〜3500р(14625円)。
松下朗(ろう)さん(1926年11月30日〜2000年4月28日)は、戦後間もなく村山知義主宰の新協劇団(現・東京芸術座)に入団し、舞台美術家として舞台、イベント、TVなどの多くの作品を手がけ、劇団の文芸部演出部長として業績を残された以外にも、ハバロフスク、オムスクなど、ロシア極東やシベリアの多くの劇団と共同制作を推進なさった方です
私が初めてお目にかかったのは、1996年10月初旬のオムスクでした。日本フェスティバルの団長として、日本の劇団だけでなく、茶の湯、生け花、絵画の代表団を率いておられましたが、私が瞠目したのは、その一環として国立オムスク・ドラマ劇場で松下さんが共同制作なさった「砂の女」の舞台稽古を見た時でした。安部公房の小説を戯曲化し、ロシア人俳優と日本人女優(荒木かずほ)二人だけによる、ロシア語と日本語混交の秀逸な芝居が立ち現れようとしていました。演出家ペトロフの才能にも目を見張りましたが、工夫を凝らした松下さんの舞台美術や、何度も日本との間を往復し、材料の移送や資金調達の苦労を重ね、それまでにも十年余にわたり根気強く日露の演劇共同制作を黙々と続けてこられた情熱に、心底、頭が下がりました。
果たせるかな、「砂の女」は、ロシア全土の年間最優秀演劇に与えられる「黄金のマスク賞」の、演出・女優・男優の三部門を制覇しました!
4月に松下さんが73才で亡くなられた時には、国立オムスク・ドラマ劇場のメルドリッチ支配人が東京での葬儀に駆けつけ、シベリア諸劇団の希望として、「分骨し、シベリアの地にも松下さんの墓を建てさせてほしい」と懇願なさいました。困惑した妻の芳江さんでしたが、ご子息と相談の上でやっと同意なさり、今回の旅は、納骨と、松下さんの医師を受け継ぐための日露合同シンポジウムが主目的でした。
モスクワから飛行機で東へ3時間(時差も3時間)。西シベリアの美しい都市オムスク。劇場で心のこもった告別式が行われたあと、町の芸術家墓地の入口を入ったすぐ右手の、とても目立つ場所で、パイプを手にした松下さんの遺影をまん中に彫り込み、両脇に日本語とロシア語でそれぞれ「松下朗--シベリアと演劇を愛した日本人」と刻字した白い大理石の墓の除幕が行われ、納骨されました。百人近いロシア人演劇人が花を手に参列し、日本からは妻の芳江さんの他、東京芸術座制作部長の釘崎康治さん、同・演出家の杉本孝司さん、演劇評論家の中本信幸さんと村井健さん、劇団昴の演出家、菊池准、現代演劇協会理事長の福田逸さん、青山学院大学教授の村田真一さんらと私の15人が参加しました。オムスク・ドラマ劇場では、三谷幸喜「笑いの大学」(もちろんロシア語版)、レールモントフ「仮面舞踏会」などを観劇。ロシア演劇の三極都市は、モスクワ、ベテルブルク、オムスクなのです。
9月時点で、1ドル=28ルーブル=110円の計算
9月11日から郵便料金が倍に値上がりしていました。ロシアから日本宛てのハガキは5рだったのが10р(39円)に、封書は7рだったのが14р(55円)になりました。
オムスクとモスクワに5日ずつ滞在しましたが、この間ずっと、TVニュースは、「独立テレビ」を擁する「メディア・モスト」に対する政府の強権スキャンダルでもちきりでした。
「メディア・モスト」は5/11に強制捜索を受け、その後グシンスキー会長が逮捕されて7月に事実上国外追放になりましたが、その際に政府からの脅迫で株の譲渡契約書に強制的に署名させられていたことを、国外から暴露したのです。彼に反目していた「公共テレビ」のオーナー、ベレゾフスキー氏も政府と対立して11月に国外へ。メディア財閥と政府の攻防激化。
世界の現代演劇に甚大な足跡を残したロシアの演出家フセヴォロド・メイエルホリド(1894/2/10-1940/2/2、スターリンの粛正で銃殺された)の没後60年にあたり、パリで一週間にわたる国際学会が開かれました。報告者だけでも世界各国から110人。連日、平均300人の聴衆が各会場で耳を傾けました。
これらは、ソ連時代にはとても実現できなかったでしょう。私もソ連崩壊前後にモスクワのフィルム保管局で探し出そうと手を尽くしましたが3種類しか見つけることができませんでした。今回の件数の多さには感嘆しました。それだけ、崩壊後の年月が経ったお蔭でもあるのでしょうが、フランスの研究者たちによる実行事務局の執拗な努力の賜物です。亡命ロシア人を受け入れ、これまでにも深いつながりを持ち続けてきたフランスだからこそなし得た大規模な学会だったと思います。
メイエルホリドによって育てられた俳優たちの演技を、映画の断片で多く目にでき、身体動作の自由さが、むしろ深くて柔らかい心理表現を可能にしていたことを強く感じました。また、劇音楽の楽譜が残されていたことは知っていましたが、今回、実際に演奏されたのを聞いてみて、演出作品のイメージがずい分把握できました。
パリは、メイエルホリドが、公演を含め何度か訪れた街であり、ミハイル・チェーホフら亡命ロシア演劇人たちとも会い、また危険を予知し残留を勧める彼らの忠告を退けてソ連に帰国し、生命を落とす事になったいわれのある街でもあります。連日10時間におよぶ学会だったので観光には縁がありませんでしたが、移動中の車窓から街の風景やカフェなどを見て胸に迫る感慨がありました。マリヤさんの強い希望で郊外のロシア人墓地へ行き、ソ連時代に国外追放された詩人ブロツキー、吟遊詩人ガーリチ、映画監督タルコフスキー、亡命したダンサー、ヌレーエフの墓に詣でました。
学会にひときわ重みを与えていたのは、メイエルホリドの孫娘マリヤ・ヴァレンティ(76才)の出席でした。彼女は単に孫娘であるだけでなく、当事者たちを知る生き証人であり、ソ連当局の弾圧に抗して、メイエルホリドの復権と資料保全・出版に生涯を賭けてきた中心人物だからです。ヤーマチカ通信にたびたび登場する「マリヤさん」です。体力がもつかと心配でしたが、大概の参加者が長時間の座りづめに音を上げ、テーマによっては抜けて息をつく中で、終始一貫、凛として目撃し続けたのは、マリヤさんと、そして会場でもホテルでも彼女に付き添っていた私という結果になり、改めて驚嘆。