(* HTML編集者註 文中伏字は個人名です *)

ヤーマチカ通信 No.32

日本とロシア…'98年3月1日号

2月18日(水)夜7:20発のsu583便(エアバス310)摂氏-24度のモスクワを発ち、10時間後、翌19日(木)日本時間午前11:15に、摂氏+5度の成田に帰ってきました。

最初は「まるで初夏のような温かさ!」と感じたものの、2-3日過ごしているうち「ウーン、東京の冬はなんて寒いんだ!」。

戸外と室内の温度差が40度くらいあるモスクワの方が寒さを感じず、温度差が小さいために外でも内でもあまり着衣を変えようがない東京の方が風邪をひきそうです。

成田の飛行場でトイレに入ったら、その清潔さに「ウワー、美しい、おとぎの国みたい」。便座が低くて、腰が落っこちそうになった。自宅でテレビをつけたら、「どうして、みんな、舌ったらずの子供っぽい喋り方ばかりしてるのかしら?」。すんなり聞けるな、と思ったら、意外なことに、2年前には、「ナンテ乱暴な毒舌」と感じていたはずの大竹まことと、タケシさんでした。こんなふうに、帰国後のカルチャーショックをボチボチ感じています。

外国でしばらく暮すはめになった日本人の多くが、そこでの人間関係の率直さにホッとしたという実感をもつようですが、私もずい分元気にさせてもらいました。

ただ、両親の死後、自分を癒す時間を貰いに行ったモスクワでの生活の期限がまさに終わろうとする寸前になって、またしても大切な人の死の報せに打ちのめされ、1月は正月どころではなく、げっそりやせました。

京都で療養と学研生活を続けていたユーラが12月30日に亡くなりました。49才。棺でしか帰ることのできなかった故郷ペテルブルグへモスクワから付き添い、埋葬に立合いました。モスクワでの成果を見せて、一番喜んで貰いたかった人だったのに…


'98年 年明けのロシア

通貨千分の一切り下げのデノミ、元旦から実施される。けれど2日まで官公庁は休みで銀行などの機関へ新通貨が運び込まれたのはそのあとなので、実際に巷に流通し始めたのは一月下旬。私の場合、一月中旬に受け取った12月分の給料は旧貨のまま。新札を初めて目にしたのは1月21日に出たボーナスの時。今年中は旧貨も使えるので、新旧入り交じって使われています。

新しい紙幣は古いものと色も模様も大きさも同じで、数字の0が3つはずれただけのので、わかりやすいのですが、問題は硬貨です。新貨から、はみ出てしまったのは3ケタなのに、復活したカペイカは2ケタしかないので、支払いの時にいつも計算を間違えてしまう。

・1月にはまたまた地方の公務員給与未払に対する抗議行動が続発。国の分担金である50%は年末に地方行政体に振り込まれたそうなのですが、沿海州など8つの行政体ではいまだに公務員の手に届いておらず、8ヶ月、15ヶ月、ひどい所は2年間も未払のまま。

・チェチェンでは、独自のパスポートと自動車のナンバー制度を導入して、白昼堂々の独立国家きどり。しかも新内閣には、病院テロ事件の首謀者としてロシアの法律ではお尋ね者になっているバサーエフを首相に据えロシア政府の神経を逆ナデしたばかりか、公式の諸交渉で彼を相手にせねばならぬジレンマに追い込んでいる。

・オリンピックの長野からTV3局がルポ。日本が身近に。


たとえば、
新人の日本人女性職員アケミさん(33才)が一年前にラジオ局スタッフに加わった当座、私が到来物の和菓子を同僚たちに分けようと、箱ごと持って好きな種類を選んでもらおうとしたら、彼女、見たとたんに目を輝かせ、ツバをゴクンと呑み込んだあと、上目遣いにそろりと私を見上げて
アケミ 「本当にいいんですか?」
私   「いいから出しているんだから、好きなのを
     選んで」
アケミ 「でも私が貰ったら数が足りなくなりませんか?」
私   「アノネ、私をバカにしているの? ロシア人
     職員の分も計算した上で配っているのだから、
     欲しいか、欲しくないか、だけなの」
アケミ 「ウワーッ、それじゃこの抹茶味のをいただ
     きます!」
と、手間がかかること。

これがロシア人なら、「今、お腹がいっぱいだから要らない。」または「チョコ味がいいわ。」または「甘い物は食べないの」と単純明快。私がロシア人家庭に泊りに行って、ほどよく酔い、お腹もふくれて眠たくなった頃、新しいお客が到着。私が「一緒につきあった方がいいかしら」と聞くと、その家の主婦で友人のナターシャは「アノネ、シゲミ、ここでは(ロシアでは)、何でもプローシェ(проще「単純」の比較級)なの。したいことだけすればいいの。眠たければベッドで寝てればいいし、話したくなったら起きてくればいい。気持のままに動けばいいのよ。みんなそうして暮らしているんだから」

ロシアの国はあっちこっちシッチャカメッチャカ、新しい国作りはギクシャクと大変そうですし、各地で給料未払いの抗議デモもありますが、それでも人々は元気で、自然と寄り添いながら、ゆったりと時間が流れています。

バスやトロリーの発着時刻は20分くらい平気で前後しますし、時には勝手に間引き運転され、私は最高58分間、バス停で待ち続けたこともある。運転手が路線を間違え、回れ右したり、乗客に誘導されながら運転しているバスに乗り合わせたことが3回ある。コンサートや芝居が定刻より30分以上遅れて始まったことも数回あった。満員の客席からは、催促の拍手の波が時折起こるけれど、それでイライラしたり、帰る人は誰もいない。いったん始まれば、それこそ時間を忘れさせ、陶酔させてくれる最高の演奏や芝居を楽しめることを知っているから。

こんな単純さやゆったりリズムが、20年余りの自由業を経て、金属疲労がたまっていたらしい私を、因幡の白ウサギのように、じっくり癒してくれました。心と身体が一体となって呼吸できました。このおおらかさはどこから来るのか、と時々考えましたが、自然との一体感と、ほどよい不便さと、そして食べることと住むことには基本的にあまりお金の心配がいらないからかな。昨日と今日の気温差が10度以上ということが夏でも冬でもザラだし、交通が荒っぽくて道路を渡る時にも油断がならないし、他人との横並びや人の言動に神経質になるヒマなんかないんじゃないか、と思うんです。


'98年度予算が国会を通過しないまま'98年度が始まってしまったロシア!!

仕方がないので1-3月については前年と同じ額を暫定的に出す、とチェルノムイルジン首相が発表したのですが4月以降は全く不明。ラジオ局「ロシアの声」は100%国営なので、今働いている人達も3月末日までしか契約更新されておらず、私の後任に決まっている早大の新卒者ヒラノさんの入社手続きがとれない。苦肉の策として、私は今回、籍を残したまま休暇扱いで帰国。3/5から始まる劇場銅鑼の「ボルクマン−氷の炎」(4/17初日俳優座劇場)の稽古通訳(演出ユールスキー)の仕事を終えた4月21日に再度モスクワへ戻り(その頃にはいくら何でも予算が通過しているはず)、ヒラノさんとの交替手続きをして5月14日に引き上げてくる予定なんですが…


ここから裏面です。

北の町モスクワは、気候が厳しい半面、いたる所に緑があり、日本の感覚では林や森と言いたくなるくらい広くて大きな辻公演や草地で、犬も子供たちも思いきり走りまわり、ころげまわり、午後11時頃まで日が暮れない夏の夕方には、大人たちまでサッカーなどに打ち興じ、お年寄りたちもベンチでのんびり喋っているのを見て、羨ましいナ、と思うことがしばしばありました。同じ寿命しかないものなら、人間、どこに住み、どういう時間の過ごし方をする方が幸せなのだろうか、と。

夏は摂氏30度になることもあるけれど、比較的乾燥しているし、職場にも交通機関にも冷房などはないので夏の3ヶ月間はストッキングを履く必要も、上着を持って出かける必要もなく、素足で半袖、日の照るままに汗をかく、まるごとの夏です。

冬、ギシギシと雪を踏みしめながら歩く夜道の両側には雪の結晶がキラキラと、ダイヤモンドか水晶のようにきらめいていて、その美しさに心がふるえます。夕陽も月も星も身近です。

男女のややこしい感情なしに人々は何かというとシッカと抱き合い、そばで聞いているとケンカしているのかと思うほど率直な物のいい方。

職場に子供や伴侶が気軽に顔を出し、喫茶店などはないから、用事があれば家を訪ねあうのが普通。「大したおかまいもできなくて」とか「こんなにご馳走になって」などの表現は無用の、すぐに10人や15人の友人たちが自宅で食卓を囲める広さと気安さ。

国やお役所がからむと、相変わらず腹の立つことばかりのロシアですが、日常生活は人工的な要素が極めて少ない自然流で、そんな中で一休みできる自分は幸せだなあ、とよく思いました。

両親を看取るまでの3年間、仕事を離れて病人のそばで極力過ごしたあの時間の代わりを、今、両親がプレゼントしてくれているのだろうか、と思ったり、自分だけが楽をしていて、日本で家事や育児や仕事と格闘している同世代の友人たちに申し訳ないナ、と思ったり、それも、結婚生活や仕事が思うようにいかなかった私の人生の帳じりの合い方かしら、と思ったりもしましたけれど、もう一つ、絶えず思い出していたのはユーラのことでした。日本で生まれ育った私ですら、ここの人間関係の率直さに心がいやされているのだから、ロシアで生まれ育ったユーラが、日本の生活でストレスをつのらせていないだろうか。

ロシア人のユーラが故郷へ帰れす、日本人の私がロシアで暮らしていられる皮肉…。


さようならユーラ、そこは安らかですか?

ゲオルギー・ゲオルギエヴィッチ・スヴィリードフ(愛称ユーラ)が日本にとどまることになったいきさつは、以前ヤーマチカ通信14号にも書きましたが…

愛称のユーラで呼ばれていたゲオルギー・スヴィリードフの父親は、名前が同じゲオルギー・スヴィリードフ。30年前から、ロシアの主要テレビ局のニュース番組「ヴレーミヤ(時、「とき」)」のテーマ曲にも使われている「時よ進め」や、詩人プーシキンの作品に基づく幻想組曲「メチェーリ(吹雪)」な現代ロシア人作曲家の第一人者です。

ユーラが6才の時に父ゲオルギーと母アグラーヤが離婚。以後ユーラ母子はペテルブルグで二人暮らしでしたが、再婚した父親にはその後子供ができなかったので、一人息子として、父とのつきあいは文通で続いていたようです。

成人したユーラは、音楽の道ではなく、日本語や宇治拾遺など、日本中世の説話文学の研究が専門で、並行して、ソ連時代には、松本清張、仁木悦子、三好徹氏などの小説を翻訳し、それぞれ50万部単位で刊行されていました。

私との出会いは10年前の'88年1月2日。その前年、雑誌「LEE」8月号の対談が縁でおつきあいの始まった作家椎名誠さんの新刊「シベリア追跡」を持って10日余りのロシア旅行をしていた最中に、当時交換教授としてレニングラード大学へ赴任されていた大阪外国語大学の恩師 法橋(ほうきょう)和彦先生を訪ねたところ、正月に友人スヴィリードフ家へ誘われたのです。

ちょうど読みおわったばかりの「シベリア追跡」には、TBSテレビの特別番組「シベリア大紀行」でレポータをした椎名さんが、「ソ連での取材旅行中、最も人間的に好きになった人物」として大黒屋光大夫の住居跡を案内してくれたスヴィリードフ教授の名が記されていました。奇遇に驚く私と法橋先生をユーラ母子は大歓迎してくれ、ユーラの数年来の恋人インナがお嫁さん同様にかいがいしく料理を作り、食卓をととのえていました。痛飲し、歌い、踊り、楽しかった最初の出会いのあとも、私は、気の合ったユーラ宅を時々訪ね、'90年と'81年には、10日位づつ、居候(ホームステイ)させてもらいました。

そのユーラが日本文学を研究するために岡山大学に招かれたのは、'92年10月。ユーラは来日まもなく腎不全で倒れました。ペレストロイカ後期の食糧不足などの混乱の中で、無理や疲労がたまっていたものでしょう。「帰国するにもモスクワの空港まで生命がもたない」と宣告される重態に陥り、待ったなしで人工透析開始のための緊急手術が施されました。

ソ連崩壊直後の、当時のロシアの医療現場は、病院にレントゲンフィルムさえなく、注射針も脱脂綿も洗って使い回しのありさまで、人工透析などまったく不可能でした。ロシアへ帰れば確実に死なねばならぬ事態になってしまったのです。

日本の友人たちが奔走しましたが、日本滞在に必要なビザ取得のための定職がすぐに見つかるはずもなく、文化行政の手厚いフランスなどとは違って、この優秀な日本文学者を生き延びさせるために、日本の公的機関は手をさしのべようとはしませんでした。

非常手段として、椎名さんが自分の会社に雇用する形でビザと社会保険を確保。私が両親のために購入しておいた京都の中古団地を提供して、ユーラ母子の日本での生活が始まりました。

岡山の病院を退院し、'93年4月初めに、岡山大学の鈴木みちたか助教授の運転する車で、ユーラ母子は京都へ移ってきました。平安時代に開祖されたのどかなお寺がすぐそばにあり、○○大学の脇にある○○の住まいは、ペテルブルグのユーラたちの自宅よりはかなり狭いものの67平米の3LDK。日本人やロシアの友人がよく泊りに来て、和やかな若衆宿のような雰囲気になっていきました。西陣で開業医をしている私の中学の同級生、○○○○○と夫君の○○さんが手配してくれた透析病院の桃仁会病院へ週3回、夜、人工透析に通う一方、ユーラは翌年から積極的にいくつかの大学で非常勤講師を始めました。椎名さんは「僕がくたばるまで、できるだけのことをしつづける」と言って下さっていましたが、ユーラにすれば、何とか自立できるようにしたかったのでしょう。ユーラの授業は学生さんたちにとても人気があり慕われていましたが、専任講師の審査ではいつも健康診断書がネックになり却下されました。度重なる不採用通知に涙をにじませていた姿が忘れられません。非常勤ではビザがおりないのです。

5年目の昨春、ユーラは待望の専任教授になりました。しかし、その大阪経済法科大学は、高速道路を使っても通勤に2時間以上かかり、主治医は断固反対したそうです。私も昨年11月の一時帰国時にユーラの車で行ってみましたが、こんな生活を続けていたら健康人でも事故を起こすのではないか」と思いました。けれど「健康に不安があるからこそ、彼のような才能ある研究者に安心して滞在できる資格を与えてあげるのが学究者の務め」と、採用を決めて下さった大学の好意を断ることも、ユーラにはできなかったのでしょう。「京都を引き払って大学近くに住み、病院も近くへ変えるように」と助言しましたが、信頼する医師たちから離れるのも心細かったようです。

通勤の疲労・ストレスに加え、ユーラを追い詰めていったもう一つの要素があります。

ユーラは昔から「ボクは母の犠牲者」と冗談混じりに言っていました。少子でしかも離婚率の高かったソ連時代には母子二人暮らしになる例も多く、母親が夫や恋人の代替としてまで息子を偏愛し、独占しようとする不幸なケースがあります。ユーラは来日前にインナと正式に結婚していましたが、激怒した母親が一方的に離婚届を送りつけ、インナが妻として日本に来られなくしました。

私はその後3度ペテルブルグへインナを訪ねましたがいつも滂沱の涙でユーラの身を案じていました。が、インナの連れ子で10才の頃からユーラになじんできた息子のキリルは「一方的に母を捨てたユーラを絶対許さない!」と吐き捨てました。

一方、京都の生活に慣れ、友人も収入も増えてきたユーラたちは'95年7月に私の所を出て、紫野の古い日本家屋へ越して行きました。ユーラのノイローゼが始まったのはその約1年後です。二人きりになったとたん母子の間は険悪きわまりなくなり、互いを憎み合うようにさえなりました。「別居して冷却期間を置くように。それでもダメなら、2月の帰国後、私が彼女を東京へ引取るから」と申し出ましたが、12月29日深夜、ついに母親を関西空港で見送って終電を逃がしたユーラは空港で夜を明かし、翌30日の午後、透析患者特有の心臓肥大に寝不足が追い打ちをかけ心臓発作で亡くなりました。

ユーラの棺がモスクワの着いた1月6日未明、二週間程前から危篤だった父スヴィリードフが82才で息をひきとりました。


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Original by Shigemi Yamanouchi, (C) 1998
Last Update : 12, Sep., 1998
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