ヤーマチカ通信 No.29

やっと新緑に包まれたモスクワから
(モスクワ便り IV)…'97年5月29日号

5月一週までは新芽のカケラさえない裸木ばかりだったのに、柔らかい黄緑色の点が枝に見えたかな、と思ったとたん、またたく間に町は新緑におおわれ、りんご、桜、リラ、水仙、たんぽぽ、チューリップなどの花々も一斉に咲き始めました。なんと大胆で鮮やかな季節の変り目でしょう! 去年の6月に「キッチリ一年で帰ります」と大ミエを切って日本を発ってきたのに、モスクワ滞在を7ヶ月延長せざるを得なくなりました。

後任スタッフの着任が大幅に遅れ、私がそれまでに帰国してしまうと、ラジオ局の日本課がアパートを一つ失うことになるという事態との板バサミになりまして…(詳細は裏面に)。

当初の予定の一年の期限でさえ、「アンタ、仕事先やファンから忘れられちゃうョ!」と警告されていたというのに…。こういう時、「アトは野となれ、山となれ」と、振り切ってサッサと帰るための強力な理由がないのも弱い所でして…(恥しながら「早ョゥ、帰ってコーイ!」という家族も恋人もいないのだ、トホホ)。ライブハウスで待ってて下さる皆さんの他にも気がかりなのは、伊東一郎さんに代講をお願いしてきた朝日カルチャーセンターと、11月8日の附属京都中学校の50周年記念同窓会の司会をするというお約束。ラジオ局の窮状を救うための延長なので、休みは取らせるという保証をもらいましたから。11月には必ず帰りますケン、許してつかわさい!!

(5月17日、摂氏6度晴、モスクワにて記)


盆・暮れを合わせたような復活祭(пасха)と、
しっとりせつない戦勝記念日(день победы)

ソ連時代のロシアの人々にとって、年間最大のイベントは、1)正月 2)革命記念日(11月7日) 3)メーデー(5月1日) 4)戦勝記念日(5月9日)…だったと思いますが、ソ連崩壊後の今では、それが1)正月 2)戦勝記念日 3)復活祭(4月最終日曜日)と変わってきたように思います。
11月7日も5月1日も、単なる休日として過ごされました。11月7日は、今年からは「和解と合意の日」と呼び名が変わりますが、祝日のまま残されます。、メーデーの方も、ロシアでは祝日のままですが、(でも旧ソ連内でも、私がNHKの仕事のお手伝いで5/2〜5/5に訪れたウズベキスタンでは、5月1日は祝日でさえなく、普通の日だったそうです)、共産党や労働組合のそれぞれのデモや集会に参加したい人だけが参加するという、日本と同じくらいの感じになりました。その上、今年の5月1日は、モスクワでは、21度という今年初めての陽気の上天気になったので、ダーチャの野菜作りに家族総出で出かける人が多かったようです

復活祭(4月最終日曜日、今年は4月27日)

ペレストロイカの末期からロシア正教の復調はめざましく、一時は、ソ連時代のタブーに対する反動で、洗礼を受けることがブームになった時期もありましたが、今はそれもおさまり、むしろ国民的な文化・習慣として根を下ろし始めたようです。

復活祭の前日の土曜日には、昼間のうちから、市内の大小の寺院や教会に、お年寄りを始めとしてさまざまな年齢の人々が礼拝に訪れ、ロウソクを献じ、司祭の手に口づけして、祝福を受ける人がひきもきりませんでした。その人波は、何となく正月の買物をととのえる。日本の晦日の人の動きを思わせました。そして夜中の11時頃から、今度や若者や中年層を中心に寺院の内外が人波で埋まりました。夜のしじまの中で、手に手に、ロウソクをかざして、0時を待ちます。(まるでお盆の迎え火のようなおごそかさ。または初詣での人の波)。

0時になる15分位前から鐘が響き渡りはじめ、(除夜の鐘みたい)、0時を期して司祭を先頭に寺院の外を一周した後、内部で復活祭のミサが3時過ぎまで続けられます(テレビでも主要2チャネルが未明まで中継)。市内交通も動いています。

私は、ダニーロフスキー修道院の屋外で、中に入りきれない人の群にまじって、スピーカを通しミサの様子を聞いていましたが、周囲は数人の同級生グループといった男女のハイティーンやパンク風の青年たちでした。鐘が鳴り始める前には、ロウソクの灯が消えないように手で囲いながら、ペチャクチャたわいのないおしゃべりをしている様子もほほえましかった。

若者達がめだって多く、彼らは宗教心からというより価値観の定まらない、ともすれば殺伐とした今の時代の中で、近隣の人々との共通体験やぬくもりを求めてやって来たという印象を受けました。

そして明けて日曜日の復活祭には、ほとんどの人がお墓参りに出かけました。

戦勝記念日(5月9日)

"戦勝"という訳語の語感からは、勝ち誇った戦勝国の勇ましい記念日という先入観を持っていたのですが、実際には、「再び涙にくれる日」、戦没者を悼んで、「静かに感謝する日」の方を強く感じました。ロシアでは大祖国戦争と呼ばれるドイツとの戦争(つまり第二次世界大戦)で二千七百万人の国民が亡くなったといわれます。身内に誰かしらがいるわけで、やはり戦争には、「勝ったも負けたも無い」と痛感します。無名戦士の墓にぞくぞくと詣で、テレビでも終日、回顧フィルムや当時の歌が流れましたが、しみじみとしたものでした。風化は起こっていません。

どんな時代にも赤ちゃんは生まれる

その一

親しくしている年金生活者のオリガ夫妻の一人息子サーシャ(37才)には16才の息子がいるのですが、ソ連崩壊後の「金が物言い始めた時代」の中で夫婦仲が壊れ、奥さんは4年前からコーカサス人の実業家と同棲。サーシャの方にもナターシャ(32才)という恋人ができました。サーシャは息子の気持を慮って、再婚しないつもりだったのですが、ナターシャは反対を押し切って妊娠、出産。ナターシャは「結婚しなくてもよいから、年齢的に子供だけは産みたかった」そうです。紙オムツ代が足りなくて、ミンクのコートを650ドルで手放しました。(最近ではパンパースも売っていて、16コ入り約800円)

その二

友人のヴェーラ(43才)も婚外出産。彼女は高等音楽院のフォークロア研究者で月給は約1万円。しかもその直前の9ヶ月は病気で入退院を繰り返していました。子宮筋腫の手術と同時の、命懸けの出産でしたが、「きっと大丈夫って、少しも怖くなかった」という驚くばかりの信念と楽天性です。
8ヶ月になったイゴールは丸々と健康優良児に育っています。オムツは昔ながらの布でせっせと洗たく。年金6千円のお母さんとの同居ですが、黒パンとジャガイモだけの食事でも笑顔が溢れていました。友人たちが、眠っていた乳母車やオムツ、乳児服を次々に届けてくれて、結局お金はほとんど使わなかったそうです。(ナント乳母車は4つも!)
ここから裏面です。

アパート事情

2万円の安月給でも、私が「気分は留学生」の足場にラジオ局を選んだのは、生活条件をなるべく一般のロシア人と同じにすること、つまりその中には、住居費が安いことも理由に含まれていました。

このアパートは14階建で基本的にはラジオ局の外国人職員ばかり百世帯ほど住んでいます。単身者は1DKですが、家族持ちは2DKで、廊下や入口の庭には、インドやパキスタンなど、いろいろな国の子供たちが仲良く遊んでいます。日本人職員は単身者ばかり5人住んでいますが、それぞれ階が違うので、同じ屋根の下の便利さと、日常的には全く別個に暮らしていられる有難さもあります。

以前には、この建物はラジオ局の所有物でしたが、ソ連崩壊後、各部門が独立採算制になり、このアパートの管理部としても、これまでの通例でロシア市民並に安く貸さなければならないラジオ局職員よりは、部屋が空いたら、外部の人に、民間並の高さで貸したいのが本音で、現に、もう何部屋かはそうなっています。

任期が終われば一旦は明け渡さねばならず、そうなったら数ヶ月後に後任の人が来た時には、部屋を貰えなくなる危険性がきわめて大きいのです。日本人の職員どうしで引き継いでいかないと、日本課がアパートを一つ、失うことになる、ということは職員の枠も一人失うことになる。今、民間では、間借りでも10倍しますから、この月給では、入れるわけがありません。

例えば私の4月分の住居費

(A)基本部屋代 142565р(約3094円)
これは毎月同じです。日本と違って、中にいろいろ含まれています(内訳は下の表)。このうち、家具と管理費を除く全項目が去年11月に一挙に30〜50%値上がりし、数字の上では全体で40%(!)高くなりました。
(B)電気代 30240р(約656円)…メータ
検針で使用量に応じて。これも50%上がりました。4月の住居費は(A)+(B)=172805р(約3750円)。ただし、市内意外の電話代はこれとは別で一般家庭の3倍に設定(!)されている恐ろしさ。
(A)の内訳
部屋30000р
暖房(通年割)35750р
水道13000р
熱湯15000р
ラジオ使用料3000р
TVアンテナ使用料6000р
管理費7000р
家具使用料6825р
市内電話25000р
ガス1000р
1ドル=5760ルーブル(р)

アパートの間取りの図(GIF画像約15KB)
壁が厚いので静かです。
この中で私が買ったのはテレビだけ。コンポも食器類も前任者からの引き継ぎなので助かります。家具類は備品。1DKですが約40m2。(ソ連時代の習慣風に、部屋代のかかる寝室部分だけ云うと20m2ですが実際には2倍。


ロシアの声、こちらはモスクワからの日本語放送です

日本時間22:00〜23:00 中波720KHzが良好

戦争中に生まれた日本語放送

「ロシアの声」(旧「モスクワ放送」)の日本語放送は、4月14日に、55周年を迎えました。4/14・15の両日には、55年の歴史をペレストロイカ以前と以後にわけ、各時代の放送テープを織りまぜながらDJ風に振り返る特別番組を放送して、リスナーから好評でした。
ガガーリン('61年)やテレシコワ('63年)の宇宙旅行や、日ソ国交回復('56年)で鳩山首相がモスクワの飛行場に初めて降り立つ様子を興奮気味に中継で伝える当時のアナウンスを聞きながら、さまざまな日本人が、この放送局のマイクに向かってきたのだなあ、と感慨にふけりました。

日本語放送が始まったのは1942年4月14日。前年の12月8日に真珠湾攻撃で日米が開戦した約4ヶ月後です。つまり、ソ連からの日本語放送は、戦争を始めた日本国民に対するプロパガンダという、明確な政治目的を持って始められたわけです。その後も、ペレストロイカまでは、一貫して、独特な語調の政治宣伝臭が強く、私も、聞くのを毛嫌いしていました。きっと共産思想に共鳴したガチガチの教条主義的な人たちが放送に携わっているのだろうと思っていました。
ところがこうして一年近く放送に関わり、いろいろな人に接して、思い出話を聞くと、むしろ、戦争や東西冷戦下で、心ならずも、時代に人生をゆだねざるを得なかった人々がたくさんいらした事を知りました。

思いがけぬ人生の変転

戦争捕虜となりシベリア抑留中に思想に共鳴して、進んでモスクワにやってきて放送に携わった人たち(シベリアの天皇といわれた故ハカマダさんや、今もご健在なセイタさん)もいましたが、むしろ、そうでなかった人たちが多かったようです。
故・岡田嘉子さんの数奇な運命は有名ですが、その他にも例えば… さて、有難いことに時代も変わった今、このところかつてのBCLブームの頃のリスナーが戻ってきており「あの堅苦しかった放送がこんなに明るく楽しくなった」と驚きの投書を多く貰いますが、プロパガンダの必要がなくなった分、存続が危ぶまれる財政危機を迎えています。
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Original by Shigemi Yamanouchi, (C) 1997
Last Update : 3, Jun., 1997
by The Creative CAT, 1996-