貧乏人の死に方

著: ジョージ・オーウェル
訳: The Creative CAT

This is a Japanese translation of "How the Poor Die" by George Orwell.

訳註:この作品には差別に関わる今日では社会的に受け入れられない表現があります。歴史的な価値に鑑み、そのまま訳出しましたのでご了承ください。

1929年のこと、パリ十五番町のさる病院で数週間を過ごした。係員に受付へと回され、そこで例の如き拷問を受けた。二十分間ばかりの間ひたすら尋問が続いた後、やっとのことで中に入れてもらえた。ラテン諸国で書類を埋める作業を行ったことがあるなら、どんな質問だったかわかるだろう。数日前から列氏から華氏への換算に困難をきたすほどの容態だったのだが、体温が華氏103度(*1)あたりなのは分かっており、問診の終わりにはもう立つのが辛くなっていた。背後では、一塊の患者たちが色付きのハンカチーフをくたくたと括った布束を手に、諦め顔で自分の順番が来るのを待っていた。

問診の次は入浴だった —— この手順は新参者全員に義務付けられているらしい。まるで牢獄か救貧院だ。服は剥ぎ取られ、ぶるぶる震えながら十五センチもないお湯に何分間か浸かった後に、リンネルの寝間着とフランネルの青い病衣が渡され —— スリッパはなかった。私の足に合うほど大きなのはないのだという —— 屋外に引っ張り出された。二月の晩のことで、私は肺炎を起こしていた。目指す病棟までは二百メートルあり、病院の中庭を横断しないとたどり着けないようだった。誰かがランタンを持ってふらふらしながら先導してくれた。裸足の下は凍てついた砂利、風は音を立てむき出しの脹脛(ふくらはぎ)に寝間着を纏わり付かせた。病棟に入った時、妙に見知った感じがあった。その出所(でどころ)に漸く思い当たったのは夜更けてからのことだった。そこは天井が割に低い細長い部屋で、照明が暗く、驚くほど隙間なく並べられた三列のベッドと患者のうめき声で満ちていた。ひどい臭いだ。どこか甘ったるい糞臭。横になって向かいのベッドを見ると、灰色の髪をしたなで肩の小柄な男が半裸で座り、一人の医者と一人の学生が何やら変梃(へんてこ)な治療を施しているところだった。医者が黒い診察鞄からワイングラスに似た小さなグラスを十二個取り出すと、学生がそれぞれのグラスの中でマッチを燃やして空気を追い出した。そのグラスは男の背中と胸にポンポンと置かれ、中の真空が大きな黄色い火ぶくれを吸い上げた。彼らが患者に何をしているのか、それを理解するのにはちょっとした時間が必要だった。確か吸玉(カッピング)とか呼ばれるやつで、古い医学書に出てくる。だが今の今まで、こんな治療法は馬に対して施すものだとなんとなく思っていた。

外の冷気のせいで熱が下がったのだろう、私はこの野蛮な治療法を他人事として、それどころかちょっとばかり面白がって眺めていたのだ。だが次の瞬間、医者と学生がこっちにくるではないか。私を引っ張ってまっすぐに座らすと、無言で同じグラスをあてがってきた。消毒は一切せずに。弱々しい声で一言二言抗議しても、こちらを動物とでも思っているかのような反応が返ってくるだけだった。施術にとりかかる際に二人が見せた非人間的なやり方は実に印象的だった。これまで病院の公共用病棟に入ったことはなかったし、こんな医者にあたったこともなかった。一言もなく、人を人とも思わぬような医者なんて。私の場合、用いたグラスは六個だけだったが、同様に処置した後、火ぶくれにいくつも切り傷を作ってもう一度グラスをあてがった。各々のグラスにデザートスプーン一杯ほどの黒い血が上がってきた。辱めを受け、私は再び横になった。彼らがこの身体にしでかしたことにムカつき、恐れを抱きながら、いくらなんでも、もうこのまま放っておいてくれるだろうと思っていた。だが南無三、それは大外れだった。次なる治療がやってきたのだ。マスタードの湿布である。入浴と同じくお決まりらしい。だらしない身なりの看護婦が二人、湿布の準備を終えていた。彼女らはそれを私の胸に拘束衣なみにきつく巻きつけた。その間、病棟を歩き回っているシャツとズボンの男たちが私の周りに集まってきた。彼らは半ば同情の目でにやにやしていた。後になって、この病棟ではマスタード湿布をくらう患者を見物するのが人気の娯楽となっていることを知った。通常十五分ほどかかるこの処置は確かに面白い見世物だろう。あなたが当事者でない限りにおいて。なぜかというと、最初の五分間、痛みは激しいものの「自分は我慢し切れるぞ」と思えるのだが、こんな信念は次の五分間で雲散霧消する。それなのに湿布は背中にバックルで留められていて外せない。見物人が最も喜ぶ時間帯である。経験からいうと、最後の五分間を支配するのは痺れた感じだ。湿布を取り外した後は防水型の氷枕が頭の下に押し込まれ、私は一人で放置された。その夜はまんじりともせず過ごした。どれほど記憶を辿ってもこんな夜は一生でただ一度だったと思う —— ベッドの中で過ごした夜の話だ —— 一分たりとも眠れなかった夜は。

某院での最初の一時間に、互いに相反する各種治療の数々をこれでもかと受けさせられた。とはいえ、こう言ってしまうと誤解を招くだろう。おもしろい教育的な症例でない限り、治療なんかまず受けられないからだ。朝の五時になると看護婦が病棟を回って患者を起こし体温を測る。だが清払はしなかった。元気のある患者なら自力でするし、そうでなければ歩ける患者の厚意にすがることになる。尿瓶や汚らしいおまる —— la casserole(キャセロール鍋)という愛称で呼ばれていた —— を運ぶのも普通は患者だった。八時に朝食が運ばれる。軍隊式la soupe(ラスープ)と呼ばれていた。これまたスープには違いないが、薄い野菜スープにヘドロのような厚切りパンを浮かべた代物だった。その日遅くなってから黒ひげをたたえた背の高い医師が、一人のインターンと医学生の一隊を引き連れて厳かに回診してきた。だがこの病棟だけでも患者は六十名を数える上、他にも回診すべき病棟があるのが明らかだった。来る日も来る日も彼は数多くの病床の傍を通り過ぎてきた。縋り付くようなうめき声がその後を追ったこともあったことだろう。一方、貴方に医学生たちが勉強したくなるような疾病があるとするなら、ある種の注意がふんだんに与えられることになる。私自身はというと、気管支のラッセル音に関する素晴らしく良好な標本として珍重された。時折、私の胸の音を聴こうとして一ダースもの医学生が列をなしたものだ。ひどく奇妙な感じがした —— 奇妙だ、というのは、彼らの職業学習にかける強烈な熱意と、一方で患者が人間であるという認識の完全な欠如が共存しているのだ。言葉にすると変なのだが、若い学生が、いよいよ順番が回って来て貴方をいじり始めたとする。歩み寄ってくる彼は、高額な機械部品をやっとのことで手渡された男の子のように興奮に打ち震えていたものだった。そして耳から耳が —— その耳は若い男の場合も、女の子の場合も、黒人の場合もあった —— 貴方の背中に押し当てられ、指という指が荘厳に、かつ不器用に、あなたの背中を叩く。だが、誰一人として貴方に言葉をかけないし、貴方の顔をまっすぐ見ることもない。お揃いの寝間着を着た、診察料を払わない一患者として、貴方は基本的に標本なのだ。腹は立たなかったが、かといって慣れてしまうこともできなかった。

数日すると、起き上がって周囲の患者の様子を見ることができる程度に回復した。むっとする部屋の中には幅の狭いベッドが敷き詰められ、あらゆる種類の患者がぎゅう詰めになっていた。ベッド間の距離があまりに近いので、簡単に隣の患者の手を取れたくらいだ。思うに感染力の強い患者はいなかったのだろう。私の右にいたのは赤毛の小柄な靴職人で、片脚がもう一方より短かった。この患者はよく他の患者が死ぬと(これは何度も起こったし、この隣人は真っ先にそれを聞きつけるのだ)口笛を吹いて教えてくれた。両腕を振り上げ、「四十三号!」(あるいはそんな番号)と叫びながら。この患者はさして重症ではなかったが、視界に入るベッドというベッドでは、軒並み不潔な悲劇かさもなければ明瞭な恐怖芝居でもいうべきものが上演されていた。死ぬまで私と足と足を向かい合わせにしていた小柄な患者(彼が死ぬところは見なかった —— 他のベッドに移されていった)は、どんな病魔に侵されていたのかわからなかったが、衰弱した上、何かのせいで全身が過敏になっており、寝返りを打つだけで、それどころか時には布団の重さがかかっただけで、痛いよ痛いよと大声で助けを呼んだ。彼が最も苦んだのは尿意を催した時だ。排尿はそれはそれは大変だった。看護婦は尿瓶を渡すと、あとはベッドサイトで長時間立ったままヒュウヒュウ音を立てた —— 馬に対して馬丁がこうすると聞くのだが —— ついに彼が苦しげに「Je pisse!(おしっこが出る!)」と声を漏らして事を始めるまで。その隣は黄土色の髪の男で、前に吸玉を施されるのを見たのがこの男だ。彼はいつも咳をして、血の混ざった痰を吐いていた。背が高く、たるんだ感じの若者で、背中に定期的に管を差し込まれていた。そこからは多量の泡混じりの汁が垂れてきた。体の一箇所からどうしてこんなにと驚いたほどだ。その向こうのベッドでは1870年戦役(*2)の従軍兵が死にかけていた。白いナポレオン髭をたくわえた見目良い老人で、面会時間じゅうずっと、四人の黒衣の老女に取り囲まれていた。まるでカラスのように座るこれら親族は、乏しい遺産を狙っているに違いなかった。反対側、遠い方の並びには口ひげをだらりと垂らした禿頭の老人がいた。彼の顔も体もひどく浮腫んでおり、何の病気からかひっきりなしに排尿していた。ベッドの脇にはいつも巨大なガラス容器が立ててあった。ある日、奥さんと娘さんとが連れ立って面会にやってきた。彼は二人の姿に驚くほど優しげに微笑み、娘 —— 二十歳くらいに見える可愛い女の子だった —— が近づいてくると、彼はベッドの上掛けの下からそろそろと手を出した。きっと娘はベッドの脇に跪くのだろう、老人はその手を娘の頭の上に乗せ、末期の祝福を成すのだろうと思った。だが豈図らんや、彼は尿瓶を渡しただけだった。娘はさっさとそれを受け取ると、中身を脇のガラス容器にあけたのだ。

十床ほど先には五十七号 —— そんな患者番号だったと思う —— がいた。肝硬変の患者だ。時々医学教育の題材になっていたから、病棟の誰もが一目で彼とわかった。週に二度、午後になるとのっぽの厳つい医者が病棟にやってきて、医学生の群れに向かって臨床講義を行った。懐かしの五十七号氏がストレッチャーのようなものに載せられて病棟の中央に運ばれたのも一度きりではなかった。そこでは医者が、五十七号の病衣を剥いて、お腹にあるぼてっとした突起 —— おそらく病んだ肝臓 —— を指で広げてみせながら、重々しく、これはアルコール依存の合併症であって、ワインをよく飲む国でより一般的に見られると説明した。例によって医者は自分の患者に声を掛けることもなければ微笑みを向けることもなく、首肯き一つ見せなかった。そういう患者を認める行動は何も示さなかったのだ。医者は厳粛な口調で語りつつ、力なく横たわる患者の体を両手で静かにゴロゴロと転がした。ちょうど女性が伸し棒を扱うような態度で。こんなにされても五十七号は気に留めなかった。明らかに彼は病院の老囚人みたいなもので、講義用常設展示物であり、その肝臓は遠の昔から、どこかの病理学博物館の標本瓶向けに叩き売られるべく唾をつけられていた。彼はどんな陰口が叩かれていようと気にすることなく、医者が彼をアンティーク陶器さながらに見せびらかしている間じゅう、横たわったまま色のない目を空(くう)に向けていたものだった。歳は六十くらいだったろうか、酷く萎びていた。その顔は羊皮紙のように青ざめ、人形の顔とおっつかっつなほど縮んでいた。

ある朝、看護婦が回って来る前から、隣の靴職人が枕をむしり取るので目が覚めた。「五十七号!」 —— と彼は両腕を頭上高く振り回した。明かりが一つ灯っていたおかげで病棟内を見ることができた。五十七号老人は横向きになって潰れていた。頭部はベッドの脇を超えて突き出し、顔をこちらに向けていた。夜の間のどこかの時点で人知れず息を引き取ったのだ。看護婦たちがやってきたが、彼が死んだことを聞いても知らん顔で自分たちの仕事に行ってしまった。長い時間が経ち —— 一時間かもっとだ —— 別の二人の看護婦が兵隊じみた横列になって靴音高く現れ死体をシーツで縛り上げたものの、ひとまずそれを置き去りにしていった。妙な話だが、死んだヨーロッパ人を見たのは初めてだった。死体を見たことはあったが、それは常にアジア人であり、大抵は暴力沙汰で命を落としたものだった。五十七号の目は開いたままで、口も開いたまま、小さな顔は苦悶に歪んでいた。しかしながら、最も印象的だったのは顔の蒼白さだった。以前から悪かった顔色が、しかし今やシーツと変わらない。縮こまったしかめっ面を見るうち、見るに耐えないこの姿、やがて運び去られ解剖台の上に転がされるはずのこれこそが、連祷の中で祈願するものの一つたる「自然な」死の、その一例であることに思い至った。私は思った。二十年、三十年、四十年後に貴方がたを待つものがここにある。年寄りになれるほど幸運だった者の死の姿。無論、人はひとえに死の恐怖ゆえに生きようとする。だが私はその時思ったし、今も思っている。歳をとりすぎないうちに暴力の中で死ぬ方がまだマシなのではないかと。人々は戦争の恐怖を口にする。だが、人が発明したどんな武器が、ありふれた病気のいくつかがもたらす悲惨さに対して僅かでも近き得るだろうか? もとより、ほとんど定義からして「自然な」死は、緩慢な、悪臭芬々たる、苦痛の多い何かなのだ。それでもなお、これを公共施設ではなく自宅で迎えられるか否かで違いが生じる。今し方蝋燭が消えるように死んでいったこの不幸な老貧乏人には、ベッドサイドで誰かが死に際を見てとるだけの重要性すらなかった。彼は番号に過ぎず、だから医学生の解剖刀の「材料」でしかなかった。それにこんな開けっぴろげでむさ苦しい場所で死ぬなんて! 某院の病床はぎゅう詰めで、仕切り幕はなかった。想像して欲しい、例えば、私としばらく足を付き合わせて寝ていた小柄な男のように死んでいくことを。寝具が触れるだけで叫び声を上げ、「おしっこ!」を辞世の句として残した男のように! きっと、死にそうな人にとってはそんなことはどうでもいいのさ —— というのは少なくとも優等生的回答ではあろう。そうは言っても、死にゆく者の精神はしばしば最期の日までそれなりに正常なものなのだ。

自宅で臨終を迎えられる人たちにとっては、病院の大部屋で目にする恐怖などおよそ無縁のものである。あたかもある種の疾患はもっぱら低所得層の民衆だけを襲うかのように。だが、某院で私が見かけた中には実際、英国のどんな病院であろうと出会わさないだろう種類のものがあった。ここでは人々は動物の群のように死んでいく。例えば、誰にも看取られず、誰にも気にされず、朝になるまで誰にも気づかれない —— これが一度きりではなかったのだ。こんなのは英国ならとてもあり得ないだろう。死体を他の患者の視線に晒したままにするなど尚更あり得ないことである。英国の小さな田舎病院でお茶をしていたとき、一人の男が死んだことがあった。病棟にいたのが私たち六人だけだったのにもかかわらず、看護婦たちは実に巧みにことを運び、物音を立てずに男を看取り、遺体を片付けたため、お茶の時間が終わるまで私たちはそれに気づかなかった。我々が英国について過小評価している点の一つが、規律正しく、また訓練が行き届いた多数の看護婦を擁していることである。英国の看護婦は疑いなく薄らバカであって、お茶の葉で未来を占い、ユニオン・ジャックのバッジを身につけ、マントルピースの上に女王陛下の御真影を載せている。しかしながら、彼らは少なくとも面倒くさいからと言ってあなた方を清拭しないまま、糞詰まりにさせたまま、整えもしないベッドの上に放置したりはしないのだ。おまけに、某院の看護婦にはどこかギャンプ婦人めいたところがあった。後に私は第二共和制時代のスペインの軍病院で、体温すら碌に測れない低能看護婦を見ることになるのだが、英国ではこういった某院看護婦並みのゴミ屑は見かけないだろう。浴室が使えるくらいまで回復した時、そこに巨大な荷造り箱があり、中には残飯とともに病棟から出た汚い衣類が放り込まれているのを見た。羽目板には蟋蟀が群がっていた。

自分の衣服と足の力を取り戻すや否や私は某院から逃散した。医者の退院許可など待っていられなかった。病院から逃げ出した経験は他にもあるが、あそこの陰気さ、殺風景なこと、悪臭、そして何よりも、そこの精神的な雰囲気の中にあった何かが格別なものとして記憶に残っている。私が某院に収容されたのは、それが居住区に属した病院だからであって、悪評のことは入院後初めて知ったのだ。その後一、二年して、著名な詐欺師であるマダム・アノーが再拘置中に発病し、この某院に収容された。数日後、彼女は監視の目を盗んで逃亡しタクシーで舞戻ってきてしまった。牢屋の方が住み心地がいいという理由で。当時としても、某院がとてもじゃないが典型的なフランスの病院とは呼べなかったことを疑ってはいない。だが患者が —— ほとんどが労働者だ —— これを甘んじて受け入れていたのには驚いた。中にはほとんど快適そうにしている者もおり、少なくとも二人の極貧者が冬を乗り切るために仮病を使っていた。半端仕事を押し付けるのに好都合だからと看護婦もそれを黙認していた。だが大多数の者の態度ときたら:もちろん、ここは最低さ。でもこんなもんだろ? 五時に起こされ、それから三時間待ってやっと水っぽいスープにありつける、誰も病床に立ち会わないまま死ぬ、通り過ぎる医者の目を止められるかで治療の有無が決まる —— こんなのが彼らにとっては当然らしい。彼らの伝統に従えば、病院というのはこんなものなのだ。もし貴方がひどく具合悪く、しかも自宅療養できないほど貧しいなら、貴方は病院に行くしかない。そしてひとたびそこに行けば、兵隊に取られたのと同様の粗暴さと不快さを我慢しなければならない。だが、何よりも興味を惹かれたのは、英国ではとうの昔に忘れ去られた古い噂話がいまだに信じられているのに気がついた時だった —— 例えばほんの好奇心から貴方の体を切り刻む医者とか、麻酔が十分効かないうちに手術を始めて喜ぶ医者とか。浴室のすぐ裏にあるらしい小さな手術室にまつわる暗い噂があった。そこから恐怖の叫びが聞こえるというのだ。この噂を裏付けるものは何も目にしなかったし、疑いなくそれらは馬鹿げていたとはいえ、二人の医学生が十六歳の男の子を殺すところを確実に見た。いや、殺さないまでも、半殺しにするところを(私が某院を立ち去った時には、その子はもう死にそうだった。もっともその後回復したのかもしれないが)。治療費を払う患者相手にはまず施さない種類の実験を面白半分に試みたのだ。たしかに、思い起こせば、ロンドンではどこやらの大病院で解剖体にするために患者を殺しているという話が信じられていた。某院ではそんな話はなかったが、入院患者によっては信じただろうなと思う。なんとなれば、多分、手技だけではなく何か十九世紀的な空気が温存されている某院は、そういった異様な関心事が残っている場なのだから。

ここ五十年ほどの間に医師と患者との関係は大きく変わった。何でもいいから十九世紀後半以前の文学作品を読んでみたまえ。ほとんどの場合、病院は監獄同様に見做されていることがわかるだろう。それも古臭いダンジョンめいた奴だ。病院は汚穢と責め苦と死の場所であり、墓地への控えの間みたいなものだ。まるっきりの素寒貧でなければ誰がそんなところに治療を受けに行こうと思うものか。それに、前世紀の初め頃といえば医学者が一層大胆不敵になり、それでいて碌な成果も上げられなかった時期であって、一般大衆が医業全般を恐れていた頃である。とりわけ外科は嗜虐趣味の特別恐怖版に他ならないと信じられ、おそらく死体盗賊の助けがなければ不可能であったろう解剖は降霊術(ネクロマンシー)と混同されさえした。十九世紀の恐怖文学には医者や病院と結びついたものが膨大な数みいだせる。哀れなジョージ三世のことを考えてみよ。耄碌した彼は、近づいてくるお抱え外科医 —— そいつは「失神するまで瀉血する」のだ —— が目に入ると、助けてくれと金切り声を上げたのだ! パロディとは到底いいがたいボブ・ソウヤーとベンジャミン・アレンの会話(*3)、『壊滅』(*4)や『戦争と平和』の野戦病院、あるいはメルヴィルの『白いジャケツ』の大腿切断場面のことを考えてみよ! 十九世紀英国の小説に出てくる医者につけられた名前ときたら、スラッシャー(切り裂き屋)、 カーヴァー(肉の切り分け屋)、ソーヤー(縫い屋)、フィルグレイヴ(墓場の充填屋)といった調子で、コミカルであると共に同じくらい不気味だ。外科を厭う伝統を最もよく表現しているのはテニスンの詩『小児病院にて』(*5)だろう。1880年という遅い執筆時期にもかかわらず、この詩は基本的にクロロホルム以前の事情を描いている。そればかりか、テニスンがこの詩の中に残した状況には、言及に値する点がいくつもある。無麻酔手術が如何なるものであったはずかを、実際それがどれほど悪名高いものだったかを考えると、施術者たちの動機について疑念を抱かざるを得ない。というのも、広く認められているように、医学生たちがかくも切望した血みどろの恐怖(「スラッシャーの仕業としても壮観だ」)は大なり小なり無意味だったからだ:ショックで死ななかった患者も壊疽で死ぬのが当然だとみなされていたのだ。現在ですら、怪しげな動機をもつ医者が見つかるではないか。病気がちな人や医学生の会話に耳を傾ける人ならだれでも、私が何を言わんとしているかわかるだろう。だが、麻酔薬の登場で事態は変わり、消毒薬と共に再び変わった。世界のどこに行こうと、アクセル・ムンテの『サン・ミケーレ物語』に描かれたようなシーンを見ることはなかろう。そこではシルクハットとフロックコートに身を固めた邪悪な外科医が、パリッとしたシャツの胸に血膿を散らし、ナイフを取り換えることもなく並居る患者を次々と捌いては、切り落とした手脚を放り投げて、テーブルの横に山積みにしていくのだ。加えて国民健康保険のおかげで、労働者階級の患者など見捨ててかまわぬ貧乏人だ、という考えがある程度撤回された。今世紀に入っても「無料の」患者は大きな病院に行き、そこで麻酔なしに抜歯されるのが普通だった。あいつらはカネを払わないじゃないか、そんな奴らに使う麻酔なんかないぞ —— こんな感じだった。それも今は変わった。 

とはいえ、いかなる施設も纏わり付くその過去の記憶からは逃れられないのだ。野戦病院には今もキプリングの亡霊が取り憑き、救貧院に足を入れれば否が応でも『オリヴァー・トゥイスト』が思い起こされる。病院は社会から爪弾きにされた人々をいったん収容し、死ぬのを待つ臨時施設のようなものとして始まり、その後も貧乏人の死体の上で医学生が技術を学ぶ場であり続けた。今でも、それらを特徴付ける陰鬱な建築様式の中に、微かに残る歴史の痕跡を見てとることができよう。英国の病院でこれまでに受けた治療のことをとやかく言いたいわけでは毛頭ないのだが、できるだけ病院、とりわけ公立病院には行かない方がいい、という戒めが健全な本能から生じているのはよくわかる。法的立場はどうであれ、「方針を受け容れざる者は立ち去るべし」ということになれば、疑いなく、貴方は自分が受ける治療をほとんどコントロールできないのだし、自分の体をくだらない実験の場にされないと確信することもできない。それに、戦死には及ばないにせよ、我が家の畳の上で死ねるのはとても素晴らしいことなのだ。どれほど親切で効率的であろうと、あらゆる病院での死には何か惨たらしく汚らしい細部がこびりつく。語るにはあまりに小さな何か、それでいてひどく辛い記憶を残す何か。日々、人が見知らぬ人々の中で死んでいく場所の、その性急さに、人混みに、その人間味のなさに。

病院への恐怖は、極貧の人々の間では今も生きているし、我々皆の中でそれが消えたのもほんの最近のことに過ぎない。それは我々の心を一皮剥いた所に黒い染みとして残っている。既に記したように、某院に入院した時、私は不思議な親近感を意識していた。無論のこと思い起こしたのは十九世紀の悪臭と苦痛に満ちた病院であって、直に見たことはなくとも、伝え聞いてはいた。それに多分、よれよれの黒い診察鞄を手にした黒衣の医師のことだ。あるいはそれは単なる悪臭であって、私の記憶に奇怪な作用をもたらしたそれが、この二十年間思い出すこともなかったテニソンの『小児病院にて』を掘り起こしたのだろう。子供の私にこんなものを大声で読み聞かせる看護人がいたのである。彼女自身の職業人生が、テニスンがこの詩を書いた時代と重なっていたのかもしれない。彼女は古手の病院の恐怖と苦痛とを克明に覚えていた。内容に二人して震え上がり、その後私の方は忘れてしまったのだ。たぶん題名を聞いても何も思い浮かばなかっただろう。しかし、薄暗く、ぎゅう詰めのベッドとうめき声に満ちた部屋が目に入った瞬間、それが属する一連の思いが一気に湧き上がってきた。その夜気がつけば、多くの行を丸々頭に浮かばせながら、私は詩の筋立てと雰囲気をすっかり思い出していたのだ。


翻訳について

底本はО. Дагさんのオーウェル関連サイトです。この翻訳は独自に行ったもので、先行する訳と類似した箇所があっても偶然によるものです。

この訳文は他の拙訳同様 Creative Commons CC-BY 3.0 の下で公開します。なし崩し的に著作権保護期間の延長が決定した現状で、ほとんど自由に使える訳文を投げることには多少の意味があるでしょう。

注:

固有名詞:Madame Hanaud、Bob Sawyer and Benjamin Alien、Slasher、Carver、Sawyer、Fillgrave


15, Jul., 2023 : とりあえずあげます
23, Jul., 2023 : ちょっと修正
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