黒い封印の話

(「三人の詐欺師」より)

アーサー・マッケン著、The Creative CAT訳

This is a Japanese translation of Arthur Machen's 'Novel of The Black Seal' from "The Three Imposters" by The Creative CAT.

[訳注]
考古学マニアの堅物英国紳士、フィリップス(Mr. Phillipps)は、散歩の途中ライチェスター・スクェア(Leicester Square)で、泣いているらしく見える若い女性と話す羽目に陥ります。その女性は兄を捜しているのだといい、これまでの生い立ちを説明しますが、かつて高名な文化人類学者の下で働いていたことがあり、その際奇怪な経験をしたことがあるといいます。その経験とは…
[訳注終わり]

プロローグ

「貴方はコチコチの合理主義者なのですね。」と女性は言った。「私がもっと恐ろしい経験をしたことがあると言ったのをお聞きにならなかったのですか? 私もかつては懐疑論者だったのですが、ある事を知ってしまってからは疑うふりをすることはもうできなくなってしまいました。」

「マダム、」フィリップス氏は答えた。「なにものをもってしても、私の信条を曲げることはできませんよ。私は二足す二が五になるというようなことを信じることも、信じるふりをすることも決してありません。二つの辺だけを持つ三角形が存在することを認めるふりもできないのです。」

「まあせっかちな方ですわね」女性は返した。「ですが、貴方はグレッグ教授の名をお聞きになったことがおありですか、民俗学とその周辺のテーマでの権威者の。」

「聞いたことがある、などという生易しいものではありません。」 フィリップスは言った。「私は常に教授のことを、極めて鋭敏な、最高級の頭脳を持った観察者だと尊敬してきました。最後の著作である『文化人類学教程』は実に偉大で、圧倒されましたよ。私がその本を入手した直後、恐ろしい事故でグレッグ教授の経歴が中断されてしまったと聞いたのです。確か、イングランド西部のカントリーハウスで夏を送っていた時で、川に落ちたと考えられているのでしたね。覚えている限りでは、遺体は見つかっていないとか。」

「サー, 確かに貴方は格別でいらっしゃる。お話の仕方からもわかりますし、あの書物を難なくお挙げになったことからも、貴方が中身が空っぽな雑魚ではないことがはっきりわかりますわ。一言で申し上げれば、頼りになる方ですね。グレッグ教授は故人であるとお考えのようですが、私にはそれを信じる理由がわかりません。」

「何?」動揺しながらフィリップスは驚いた声を上げた。「何か不名誉なことがあると仄めかすのではありませんよね? 私には信じられない。グレッグ教授は大変な人格者で、プライベートな生活は高潔にして慈愛に富んだものでした。私自身は迷信とは無縁の者ですが、教授は真摯な、経験なキリスト者であったと信じています。いかがわしい過去のために教授が国外に高飛びしたなどと吹き込むのはありえないことです。」

「これまたせっかちさんですね、貴方は」女性は答えた。「そのようなことは全く言っていません。簡単に説明しなければいけませんわね。グレッグ教授は心身とも全く健康な状態で家を出たのです。彼は帰ってこず、時計と鎖、金貨で三シリングが入った財布、日頃身につけていた指輪のついた緩い銀が見つかりました。これらが見つかったのは三日後のことで、そこは荒涼とした未開の丘の麓、川からは何キロも離れた所だったのです。それらの物は幻想的な形をした大理石の岩の脇に置いてあり、ラフな羊皮紙のようなもので一つに包まれ、ガットで結んでありました。包みを開けると、羊皮紙の内側には何らかの赤い物質で碑文が書いてありましたが、解読できない文字で、楔形文字が崩れたように見えました。」

「実に興味をかき立てられますね」フィリップスは言った。「お話を続けていただけませんかね? 貴女が言及された状況というのは、この上なく不可解に思えます。私は解明なしでは我慢できません。」

娘はしばらく黙考したかに見え、やがて語りだしたのが次の物語である。

黒い封印の話

そういうことですと、私の来歴について、きちんとお話し申し上げないといけないでしょう。私の父は市中の技術者でした。スティーヴン・ラリーという名前で、不運なことに、仕事を始めてすぐ死んでしまったので、十分な蓄えがありませんでした。そのため、残された妻と二人の子供は生活に困窮することになったわけです。母は、言葉にできない程減ることになってしまった財布でなんとかやりくりしようと工夫しました。私たちは都会に比べてたずきが安くすむ僻村に住みましたが、それでも厳しい台所事情だったのです。父は聡明な読書家であり、数は少ないものの厳選された蔵書を遺してくれました。その中にはギリシャ語、ラテン語、英語の最良の古典があり、これらこそ私たちの唯一の楽しみだったのです。そうです、兄はラテン語をデカルトの「瞑想」で学びましたし、私は普通子供が聞いたり読んだりするような可愛らしいお話など、「ローマ戦記」の翻訳本に比べたら全然魅力的じゃないと思っていたものですわ。私たちはこのように、静かで勉強好きな子供に育ち、そのうちに兄は先ほど話したようなやり方で自活するようになりました。私は家にとどまりました。母が可哀想にも身体を壊したので、ずっと私が介護しなければいけなくなったのです。二年程前に、何ヶ月も苦しんだ後、母は亡くなりました。私の置かれた状況は慄然とするものでした。なけなしの家財は、無理矢理契約させられた負債を返済するために消えました。本は価値のわかっている兄に渡しました。もう私には何もありませんでした。兄はロンドンで職を探そうとしている私を援助してくれるだろうとは思いましたが、兄の収入が乏しいことを知っていましたから、その期間は一か月に限ろうと誓ったのです。もしその期間内に仕事が見つからなければ、兄が苦心惨憺稼いだ悲惨な数ポンドを横取りするよりもいっそ飢え死にしようと。私は郊外のそのまた外れに、小さくてできるだけ安い部屋を探し出して、パンとお茶だけで生きながら、求人広告の返事を待つことに時間を費やしていました。メモしておいた求人先を歩き回ることは更に無駄でした。何日たっても、何週たっても、うまくいかないままに、自分で区切った期限が近づいてきてしまったのです。目の前に見えるのは、じわじわと餓死して行くしかないという惨めな予想だけでした。大家の女性はそれなりに良い人で、私のお金がわずかだと知っていて、それでも私をたたき出すようなことはなかったでしょう。そうなると私に残された道は、部屋を出て行き、どこか静かなところで死ぬことだけでした。冬のことで、午後の早い頃から白い霧が出て、時が経つに連れ濃くなって行きました。覚えています、それは日曜日でした。下宿の人々は教会に行っていました。三時頃私はこっそり抜け出して、ろくなものを食べていなかったせいで身体が弱っていましたが、その分できるだけ足早にそこを立ち去りました。街路は白い霧の中に静まり、木々の枝はびっしりと厚い霜で覆われていて、木柵にも霜の結晶が光り、私の足下には冷たく惨い地面があったのです。私は右へ左へと行き当たりばったりに歩き続け、なんという街にいるのかすら気にも留めなくなっていました。日曜日に歩き回ったそのことは、切れ切れの悪夢の断片のようにしか思い出せません。幻の中のように混乱しながら、私はよろよろと歩き続けました。半ば町中、半ば田畑のような道を通り、私の片側には灰色に塗り込められた霧の世界が広がり、その反対側には快適そうなヴィラが壁に灯火を点していました。けれども、すべてが非現実にしか思えませんでした。赤煉瓦の壁も、明るい窓も、枝をたたえた木々も、底光りのする農地も、光り始めたガス灯の白い火影も、高い築堤の下の鉄道線路が彼方に消えて行く様子も、鉄道信号灯の緑や赤 — こういった物どもは、私の疲れ果て飢えに鈍麻した脳と感覚の前に、まるでコマ撮りの絵のように浮かんでは消えて行ったのです。そうこうする内、鉄の路面をすたすたと踏みならして行く音が聞こえ、良い身なりの男の人達が通り過ぎて行くようでした。暖みを求めて、早く暖炉の炎を楽しみたいと。霜に覆われた窓をしっかりカーテンで閉ざし、友人を迎えようと。しかし黄昏れて宵闇迫るなかで、通行人は見る間に減って行き、私はたった一人で街路から街路へとさまよったのです。白い沈黙の中を、まるで埋葬された都市を歩むかのように私はよろめいて行きました。弱り、疲れ果て、周囲は何やら死の恐怖が厚く垂れ込めていました。ある角を曲がったとき、ランプの下で突然、礼儀正しい声が私を呼び止めました。それはエイヴォン・ロードに行く道を教えていただけないでしょうかと問う声でした。突然聞いた人間的な口調に驚いて、私は強がりを忘れてひれ伏しました。歩道の上にへたり込み、喚き、すすり泣き、笑いました。ひどいヒステリーでした。私は死ぬために出てきたのです。身を守ってくれていた閾(しきい)を越えた時に、全ての希望に、全ての思い出に、はっきりと意思をもって「アデュー」と告げたのです。雷のような音をたてて私の背後で扉が閉まった時、それは自分の短かった一生を閉ざす鉄のカーテンが降りる音に聞こえ、それから先はほの暗い闇と影の世界を少しばかり歩こうと思ったのです。死出の旅路の第一歩を踏み出していたのですよ。霧の中をさまよい始め、全ての物が白に覆われて、街は空虚で押し殺されたような静寂に包まれていました。私に話しかけたその声は、私を死から生へと連れ戻してくれたようなものでした。自分の気持ちを整理するのに数分間かかりました。立ち上がってみると、目の前にはきちんとした身なりの快活そうな中年の紳士がいました。私はこの界隈には不案内であるとどもりながら説明しようとしました。実際、自分がどこを彷徨っているのかなど、実際のところまるで気にならなかったからです。ところがそれより早く、私を哀れがる表情で見てこう話したのです。

「これはご婦人、大変な苦境にあるとお見受けしますな。どれ程私の注意を惹いたか思いもよらないことでしょう。ですが、貴女の難題がどのような性質の物か、質問してもよろしいかな? 私のことは信頼してくださって結構ですぞ。」

「ご親切な方ですわね、ですが、恐ろしいことに私にはもはや為す術がないのです。状況は絶望的としか思えません。」

「そんな、そんな馬鹿なことはない! 貴女はそのような話をなさるような歳ではない。来なさい。一緒に歩きながら貴女の直面している困難を私に教えるのです。おそらくは力になれるでしょう。」

彼の振る舞いには説得力と何かしら心を大変宥められるものがあり、私は並んで歩きながら自分自身の身の上を概略伝え、私を死の瀬戸際へと追いやった絶望について語ったのです。

「そんな全面降伏をするものではないな。」 私が沈黙するとこう話しました。「一ヶ月ではロンドンのやり方を感得するのに短すぎる。あのね、ロンドンというところは無防備に寝転がっているようなところではないのだよ。塹壕や二重の堀で複雑に囲まれた要塞なのだ。須く大都市に起るべくして起る事態だが、生存条件は大いに人工的なものになり、男であれ女であれ、乱入しようとする者は反撃されるんだ。それも尖った杭を以てのみばかりか、地雷だの陥穽だのといった陰険な仕掛けが束になって、それらにやられないようにするにはちょっとした技術が必要なのだ。貴女は、なんとも単純に、これらの防壁に向かい喊の声を上げれば良いように思い込み、その結果虚無へと沈んでしまったわけだが、そのような栄えある時代は過去のものですぞ。勇気をお持ちなさい。成功するための秘訣を学ぶのに、それほど長い時間はかからないでしょうな。」

「ああ、貴方のお話をいささかも疑う訳ではありませんが、今現在わたくしは餓死へ一直線に進んでいるのです。秘訣とは何なのです、どうかお願いですから教えてください、少しでもわたくしを哀れとお思いでしたら。」

彼はにこやかに笑いました。「そこが奇妙なところでね。秘訣というものは口では言い表せないものなのだよ。筆舌に尽くしがたいことフリーメーソンの最奥の教条のようなものに違いない。ですが、これは言えますな。貴女は既に神秘の外殻を破っているのですよ。」と言い、再び笑いました。

「貴方がわたくしをおからかいになっているのではありませんように。わたくしが成し遂げたことというのは何なのでしょう、クセジュ? 次の食事のあてもない程に愚かになり果てていますのに。」

「これは失礼。貴女が成功なさったことですか。私と会ったことです。一緒においでなさい。これ以上やり合う必要はないでしょう。私の見たところ貴女は自力で学ばれた。学ぶことこそ、汚れきっていない唯一のものです。私は二人の子供のために住み込みの家庭教師が必要だと思っていたところなのですよ。何年も前から男やもめでしてな。私の名はグレッグです。今言った仕事はどうですか? 年に100ポンドでは?」

私にできたのはもごもごと感謝を告げることだけでした。真剣な様子で住所を書いた紙とお札(さつ)を私の手に滑り込ませながら、明日か明後日にでも来てほしいと言って、グレッグ教授は別れを告げました。

このようにして私はグレッグ教授と知り合いになりました。死の門から吹き付けてきた寒風と絶望感を思い起こし、私が教授を第二の父と仰がないではいられなかったのはおわかりですわね。その週が終わるまでには新しい仕事についていました。教授はロンドン西部の郊外に煉瓦造りの古いマナーハウスを借りていて、それは気持ちのいい芝と果樹園に囲まれ、屋根の上まで枝を伸ばした古い楡の木が風にそよいで心安らかなつぶやきを語る、そんな場所でした。私の人生の新しい一章はそこで始まったのです。教授の仕事というものがどんなものかご存知でしょうから、館の階下の部屋が隅々まで書物や、奇妙なもの、場合によってはおぞましい資料で一杯になった棚といったもので溢れかえっていたと申しても驚かれないことでしょう。グレッグ教授は知識を押し広げることだけを考えていた人でした。私もまた、時を経ずして彼の熱意にとりこまれ、研究にかける彼の情熱に飛び込んで行ったのです。数ヶ月の内に私は、彼の二人の子供の相手をする単なる家庭教師ではなく、恐らく秘書と呼べるまでになっていたのです。幾夜も私はランプを点した机の前に座り、暖炉の明るい火をうけつつ部屋を往復する教授の話を書き留めました。このような口述筆記が『文化人類学教程』のもとになったのです。しかし私は常に、このようなより冷静で正確な研究の蔭になにかしら隠秘なもの、彼があからさまにしたことのない何らかの題材に関する希求があることを感じ取っていました。折に触れてうっかり言葉の端に夢物語を、遠大ななにかを見つけ出そうという野心のようなものを垣間見せることがあったのです。教科書の執筆が終わり、印刷所からゲラ刷りが上がってき始めました。まず私が下読みをし、次いで教授が最終的な校正を行いました。その間、やらなければいけない目下の仕事が増えていきましたが、やがてある日、刷り上がった本を私に渡しながら、教授は学期休みに入った学生のように嬉しそうに笑って言いました。「さあて、これで私は約束を果たしたぞ。この本は書くと言っておいたものだが、これで完成だ。これから自由に私は奇妙な物事を扱える。ラリーさん、白状するが、私はコロンブス並になりたいのですよ。私が冒険者になるところをきっと貴女にお見せできるぞ。」

私は言いました。「ですが、もう探検すべき土地はほとんど残っておりませんわ。先生はお生まれになったのが何百年か遅すぎましたわね。」

彼は答えました。「それは間違っていると思うな。見方によっては、今なお古の未知の国々や不思議の大陸というものがあるのです。ああ、ラリーさん、私のいうことを信じなさい、私たちは聖なる物や恐怖に満ちた神秘の物どもに囲まれており、我らの真の姿もまた顕然してはいない。私を信じなさい、生命は単純な物ではない。外科医のメスによって露にできるような、ただの灰白質と血管系と筋肉の固まりではないのです。人間こそ私が探求したい秘密なのです。それに到達するまでには、大洋の波濤を、数千年期の霧を乗り越えなければならないだろう。消えたアトランティスの神話を知っているね、もしその話が真実で、私がその素晴らしい世界を発見する者として運命づけられているとしたら?」

それらの言葉の裏側には沸々と滾る興奮が見え、顔には猟師のような熱意がありました。私の目の前にあったのは、未知のものと競うべく召喚された信念ある男の姿だったのです。私もまた一緒に冒険に向かうのかと思うと痛みを感じる程の歓喜にとらえられ、同じように探索への渇望に焼き尽くされました。いったい何を暴いていくことになるのか自分にはわかってもいないではないかという考えすら起りませんでした。

翌朝、グレッグ教授は私を研究室の奥の部屋に連れて行きました。そこには壁に沿って鳩の巣箱のようにびっしりと並んだ分類棚が立ち、その全ての引き出しには丁寧にラベルが付けてありました。何年にもわたる刻苦の結果が1メートル余の空間に整理されているのです。

彼は言いました「ここにあるのは、私の生涯そのものだ。大変苦労して集めた各種の事実が全てここにある。だけれども、これらには未だに意味がない。いや、これからやろうとしている事にとっては意味がないのだよ。これをご覧なさい。」 彼は部屋の角にある、古風でくすんだ書き物机の所に私を連れていきました。鍵を開け、引き出しの一つを開けました。

「新聞の切り抜きが少し」引き出しを指差して続けました。「奇妙な印が記され引っ掻き傷がついた一塊の黒い石 — この引き出しにあるのはこれだけだ。ここに取り出したのは古い封筒で、20年前の消印が赤黒く残っていて、裏に鉛筆で数行の文字を書いておいた。これは原稿用紙、こっちは名もない地方紙からの切り抜き。これらの収集物の題材はというと、取り立てて変わった物ではない — 田舎の農家から失踪してそれっきりの召使娘、山の仕事場から滑り落ちてしまったと思われる子供、石灰岩に残された奇妙な掘り痕、変わった兇器によって撲殺された男。私が痕をたどってきたのはこういったものなのだよ。そう、貴女がおっしゃるように、こんなものには全てお誂え向きな説明がつく。娘はロンドンかリバプール、あるいはニューヨークにでも逃げたのだろうし、子供は廃坑の底にいるのだろう。また岩に刻まれた文字はホームレスの落書きなのだろう。そう、そう、そんなのは全部判っている。だが私は真実の鍵を持っているのだ。見なさい!」そういって黄ばんだ紙片を取り上げたのです。

グレイ・ヒルズ(Grey Hills)の石灰岩に彫られたる文字とそこには書いてあり、地名と思しき単語が一つ消してありました。日付は15年程前のものでした。その下にはかなりの数の粗野な文字があり、それらの形は楔やダガーに似ていて、風変わりで異国風な点はまるでヘブライ語のアルファベットのようでした。

「さて次は封印だ」グレッグ教授はそう言って私に黒い石を手渡しました。長さ約5cmで、昔風のタバコ押さえをずっと大きくしたように見えました。

それを明かりにかざしてみて、私は驚きました。あの紙片にあった文字が同じようにそこにもあったからです。

「そうだ。」教授は言いました。「同じ文字だ。石灰岩の文字は15年前にある種の赤い物質で描かれた。一方、封印の文字は少なくとも四千年以上前のものだ。恐らくはそれより遥かに古いものだろう。」

「悪い冗談ではありませんよね?」私は言った。

「冗談ではない。それは考えたよ。自分の人生を誰かの冗談のタネにされたくはないからね。この件については非常に慎重な検証を必要とするものとして扱ったんだ。この封印の存在を知っている者自体、私以外には一人しかいない。それは措くとしても、他の理由もあってこの件については直ぐには取りかかれない。」

「ですが、いったいこれはどういうことなのでしょう?」私は言った。「これらのものから、どのような結論が導きだされるのか、理解に苦しみますわ。」

「ねえラリーさん、その答えはしばらく我慢してもらえませんか。根底にある秘密について話すことは多分できないだろうね。わずかなぼんやりとしたヒントしかない。村でおきた悲劇のアウトラインと、岩に赤土で書かれた、また太古の封印に彫られた文字という。依って立つためには妙なデータの集合だね? 半ダースほどしか証拠がなく、その中には20年も前の事件もある。その先にある幻影ないしterra incognita(未知の地)とはいったいどのような所なのだろう。私は深海の彼方を見ているのですよ、ラリーさん。その先の大地は単なる蜃気楼にすぎないのかもしれない。ですが、それでも私はそんな蜃気楼などではないと信じている。数ヶ月後には白黒をつけてみせますよ。」

彼は出て行き、一人残された私は、謎の深さに思いを馳せました。これほど奇矯な物事の終点というのはいったいどんなもの、証拠を積み重ねて行った帰着点は何なのでしょう。私自身にも想像力はありました。それが教授の堅固な知性を尊敬する理由にもなっていたのです。ですが、引き出しの中にあったのは幻想的な物以外の何物でもなく見え、このような断片から何らかの理論が導かれるのだと思い込もうとしても無駄でした。そうです、私が見聞きしたものからは、途方もない空想物語の第一章しか見いだせませんでした。それでも、心の奥底に好奇心の火が点り、毎日毎日グレッグ教授の顔を見てはこれから何が起きるのか、そのヒントが見つからないものかとじりじりしていたのです。

ついにその言葉を聞いたのは、ある日の夕食の後でした。

「出かける用意はすぐできるね」突然私に言うのです。「我々は一週間の内にここを出発する。」

「まあ、」驚いて私は言いました。「どこに行くのでしょう?」

「イングランド西部の、ケールメーンから遠くない所に田舎屋を借りたんだ。ケールメーンは静かな小さな町で、昔は都会だったこともあって、ローマ時代には防衛拠点だったところだ。町中は非常につまらないが、田舎の方は楽しい所だよ。空気が実にいい。」

彼の眼にはキラキラとする物があり、突然の引っ越しは、きっと数日前話したことと関係があるに違いないと考えたのです。

>P>グレッグ教授は言いました。「私は本を何冊か持って行くだけでいい。他の物は全部、帰ってくるまでここに置いておこう。休暇をとったのだから、」 彼は微笑みかけながら続けました 「我が懐かしき骨や石やがらくたといったものから離れるのも良かろうと。ねえ、」更に続けて「30年というもの、事実ばかりをコツコツいじってきたのだ。今度は幻想を楽しむ時ですよ。」

日々は飛ぶように過ぎました。傍目にも教授が秘かな興奮にほとんど震えんばかりなのがわかり、懐かしいマナーハウスを後に旅立つ時はほとんど信じられない程の欲望がその眼にあったのです。私たちは日の高いうちに出立しましたが、田舎の小駅に着いた時は夕暮れになっていました。私は疲れつつも興奮していました。そこから小道をたどってドライブしたのですが、まるで夢の中のようでした。アウグスティヌスの軍隊と戦さ、鷲を追う恐るべき華麗さについて話すグレッグ教授の声を聞きながら、初めに通ったのは忘れられた村の荒廃した街路でした。次いで、日暮れの最後の残照を映す、川幅一杯に黄色い水をたたえた大きな川、広い牧草地、白々とした穀物畑、丘々と川の間の斜面を縫って走る深い小道。最後に道は登りになり、空気は薄くなって行きました。見下ろすと、ぼんやりとした暗い土地が見え、純白の霧が経帷子のように包み、川の輪郭を見せていました。想像力と幻想をかきたてる膨らんだ丘々と凭れ掛かる木々、その向こうにも丘々がうっすらと姿を見せていました。彼方の山の上は溶鉱炉の火のように燃え、輝く炎の柱を放ったと見るや、光を失い鈍色の赤い点になっていきました。私たちは馬車に揺られてゆっくり進みました。空気は冷たくなり、あたりは深い神秘の森の中でした。真奥の森を彷徨うかのように、水のしたたりが聞こえるかのように、緑の木の葉のにおいと夏の夜の息吹を感じたのです。ついに停車し、しばし柱のある玄関で待った時は家の形も見分けられない程になっていました、それからの一夜は、あたかも森と谷と川の大いなる静寂によって周囲から隔てられた奇妙なものどもの夢を見ているかのようでした。

翌朝、古風で大きな寝室から弓形に張り出した窓から外を見ると、灰色の雲に覆われたその土地はなおまさに神秘の国のようでした。うねり見え隠れする川に沿った長く美しい谷の半ばに、控え壁のある中世の石橋がアーチをなしてかかっていました。その向こう側ははっきりとした上り坂になっていて、昨夜は影にしか見えなかった森に続いていました。森は魅力的に薄く色づき、柔らかな微風は開けた窓で吐息をつき、このような風にはここでしか出会えないだろうと思う程だったのです。谷の向こうを見やると、たたなづく丘々が見え、手前には灰色の古びた農家の屋根の煙突から、かすかな青い煙の柱がうっすらと朝の空気に姿をとどめていました。また別の所には黒い樅が繁る起伏の激しい高所があり、遠くには白い筋(すじ)のような道が消えて行き、その登った先は想像すらできない国なのでした。ですが、四方は全て大いなる山の壁で遮られ、殊に西側では急峻な斜面が要塞の如く立ち上がり、ドーム状の塚が空を背景にくっきりと見えていました。

窓の下のテラスの道にはグレッグ教授が行ったり来たりするのが見え、まるでひととき業務に別れを告げたかのように、自由を満喫している様子が手に取るようにわかりました。私がそばに行くと、教授は美しい丘々を縫って流れる渓谷を指差し、うれしそうに語りました。

「ああ、この土地は不思議なくらい美しい所だね。それに、少なくとも私にとってはここは神秘に満ちた土地だよ。前に見せた引き出しの中身を覚えているね? ラリーさん。やっぱり覚えていてくれたか。ここに来たのは子供に良い空気を吸わせるためだけじゃないこともお見通しなんだろうね。」

「ええ、そんなことだろうと思っていましたわ。ですが、私には先生がお調べになっている対象がどのような性質のものかすら判ってないのです。調査と素晴らしい谷の間にどのような関係があるのか、とても考えつきません。」

教授は変わった微笑を浮かべて私を見ました。「私が謎のために謎を作っていると思ってもらっては困る。それについて話さなかったのは、これまでの所話すべき内容がなかったからだ。確固としたもの、白黒をはっきり付けられるもの、政府の白書のように退屈で叩く余地のないもの、そういったものがこれまではなかった。理由はもう一つある。数年前、たまたま私はある新聞記事を目にした。その瞬間、それまでとりとめもない思いつきや、暇な時間にめぐらせたぼんやりした夢のようだったものが、一気に収斂して一つの仮説としての姿を現したんだ。自分が薄氷の上を渡っているのがすぐに判った。私の説は極めて野蛮で幻想的だったからだ。出版物の中では一切その説を匂わさないようにした。それでも、私と同じような科学者ならば発見というものがどうなされるか判っていて、飲み屋で光り輝くガスだって昔は野蛮な仮説だったことを知っているはずだから、そういった仲間うちならば、自分の夢想を — アトランティスや賢者の石、なんでも好きなように例えてくれ — 思い切って話してみても馬鹿にされずにすむのではないかと思ったんだ。私は大いに間違っていたよ。我が友人どもは私をぽかんと見て、哀れみと高慢な侮辱のまなざして互いに目配せしたのさ。そのうち一人は翌日訪ねて来て、君は働き過ぎで頭が不調になっているんだと忠告してくれた。「平明な言葉で言えば、私は気が狂いつつあるというのだな。だがそんなことはない。」と私はいささか熱を込めて言ったものだ。その日以来、自分の説がどういうものか、一切誰にも漏らすまいと心に決めたんだ。あの引き出しの中身を見せたのも、貴女だけだ。結局私は虹を追っているだけなのかも知れない。単なる偶然の働きに惑わされただけなのかもしれない。だが今、森と荒々しい丘に囲まれたこの神秘的な静寂の中にいると、自分の嗅覚が正しかったことをかつてない程実感できる。来たまえ、もっと続けなければならん。」

私にとってはこれら全てが驚異的で興奮させるものでした。私はグレッグ教授の普段の仕事ぶりを知っていました。一寸一寸を確認しながら一歩一歩進み、確固とした証明なしでは何一つとして仮定を置くことがなかったのです。教授の言葉からというよりも、視線や声に込められた熱さから推し量ったものですが、教授の全ての思考の中には、ある恐るべき一貫性を持ったヴィジョンが横たわっていたのです。私はというと、少なからず懐疑的な想像力を所有していたものですから、夢のような仄めかしに反発して、もしかすると彼には偏執狂の気がでてきていて、これまでの人生と異なり、この件では科学的な方法論を逸脱しつつあるのではないかと自問しないではいられませんでした。

それでもなお、この謎めいた幻想は私の思考を捉えて離しませんでした。田舎の魅力を前にして完全にノックアウトされていたのです。丘の麓の廃屋を過ぎれば、大きな森が始まっていました — 長く暗い線が向かいの丘々から伸びて見え、川の流れの上方に沿って何キロも北から南へと広がっており、北側には更に広大な地域が、不毛で未開な丘々が、荒れた入会地があったのです。イングランド人にとってはアフリカの内奥以上に知られざる、千古不斧の地でした。家の周りにある勾配のきついちょっとした野原を抜けるともう森で、子供たちは喜んで私のあとをついて小道を歩きました。長い下生えを通り、きらきらしたブナの木の織り成す壁の間を通り、森の最高所まで。そこからは川を見下ろせ、その向こうには起伏する土地が続き、その先には西の連山が大きな壁をなしていました。反対側を見ると、森の無数の木々が突出したり陥没したりするのが見え、平らに広がる牧草地のかなたには輝く黄色の海と、うっすら見える対岸がありました。その場所ではローマ街道の跡が芝生の道になっていて、私はいつもその上で暖かい陽射しを浴びながら座ったものでした。その傍らで二人の子供たちは走り回り、堤のそこここに生えている葡萄の実を集めたのです。紺碧の空と、まるで帆一杯に風をはらんだ古代のガレオン船のように海から丘々へとわき上がる雲の下、大いなる古き森が囁きかける魔法の言葉に聞き入る時、私は喜びでいっぱいになりました。ただ、私たちが家に着いたような時、グレッグ教授が書斎の中に作った小さな部屋に籠っていたり、忍耐強くかつ熱烈な、決心を秘めた探求者の顔でテラスを行き来していたりしたことが、どうしても解せなかったのを覚えています。

到着して八日目か九日目の朝、窓の外を見ると、目の前に広がる景色は変容しつくしていました。雲が低く垂れ込め、西の山を隠していました。南風が雨を運び、それは移動する柱となって谷に降り、家の下を流れるせせらぎもいまや赤い激流になって荒れ狂っていました。私たちは否応なく家の中でゴロゴロしているしかありませんでした。子供らの相手をし終えた後、居間に座っていたのですが、そこは元図書室だったところで、古くさくて邪魔な書棚が残っていたのです。その書棚はこれまでにも一、二度調べてみたことがあったのですが、興味を惹くようなものはありませんでした。18世紀の説教集が何冊も、獣医術に関する古い本が一冊、「名士」の詩集。プリドー Prideaux の Connection、法王の古い書物のような領域の蔵書しかなかったのです。面白い本や価値のある本はまず間違いなく別の所に移されてしまったのでしょう。ですがこの時、私は自棄になって黴臭い羊革や牛革の書物をもう一度改めなおしました。実に嬉しいことに、Stephani が出版した古い四つ折り本が見つかりました。そこにはポンポニウス・メラ(Pomponius Mela)の世界誌 (De Situ Orbis) 三巻本など、古代の地理学者の著作があったのです。普通のラテン語なら問題なく自力で読めましたので、私はすぐに昔の事実と空想の混淆物に夢中になってしまいました — 光明に照らされたわずかな場所と、その背後にある霧と影と恐怖の形態ども。はっきりと印刷された活字を眺めたとき、ソリーヌス Solinus のある章の冒頭部に注意を奪われました。そこには

Mira De Intimis Gentibus Libyae, De Lapide Hexecontalitho,
— — 「リビア奥地に居住せる原住民の不思議と、六十石と呼ばれる石について。」とありました。

変わった題名に惹き付けられて、私は続きを読んだのです。

Gens ista avia et secreta habitat, in montibus horrendis foeda mysteria celebrat. De hominubus nihil aliud illi praeferunt quam figuram, ab humano ritu prorsus exulant, oderunt deum lucis. Stridunt potius quam loquuntur; vox absona nec sine horrore auditur. Lapide quodam gloriantur, quem Hexecontalithon vocant; dicunt enim hunc lapidem sexaginta notas ostendere. Cujus lapidis nomen secretum ineffabile colunt: quad Ixaxur.

「この者たちは」と自分で訳しました「人里離れた秘密の場所に住み、荒れたる丘の上にて忌むべき秘事を執り行なう。顔のあることを除き、通常の人類と同じくするものとてなく、人間的な習慣は彼らにとりては全く見知らぬものにして、また彼らは陽光を憎みたり。彼らは話すというよりも、むしろしゅぅしゅぅ声をあげるといった方がよかろう。その声は荒く掠れ、恐怖なくしては聞くことができぬ。彼らはある石を珍重し、その上に六十個の文字がありたれば、そをば六十石と呼ぶ。この石には口に出せぬ秘密の名前ありて、Ixaxarと呼ばる。」

私は妙な一貫性のなさに笑いました。「シンドバッドの冒険」や他の何か夜伽もの向きだなと思ったのです。その日の後刻グレッグ教授に会った時、書棚で見つけたそれのこと、空想的ながらくたを読んだことを話しました。驚いたことに、教授は大層興味深そうに私を見上げたのです。

「実に面白いな」と彼は言いました。「昔の地理学者の記述を調べる価値があるとは想いよらなかった。そうだ、私は随分大きな忘れ物をしていたことになる。ああ、この部分だね? お恥ずかしながら、貴女の娯楽を奪わなければならないな。思うにその本を持って行って調べる必要がある。」

翌日、教授は私を書斎に呼びました。教授は窓一杯の光を浴びたテーブルの前に座り、拡大鏡を使って何かを精査することに大変熱中していました。

教授は切り出しました「ああ、ラリーさん。貴女の目を貸してほしい。この拡大鏡はそこそこ優秀だが、街に置いて来たもの程じゃない。貴女自身の目で確かめて、この上に文字が幾つ彫ってあるか教えてもらえないものだろうか。」

私は手の中の物体を渡されました。それはロンドンで見せていただいたことのある黒い封印とわかり、私は何かを知ろうとしている、その考えに心臓は激しい鼓動を始めたのです。封印を受け取り、光にかざし、ダガー状のグロテスクな文字を一つ一つ数えました。

ついに私は言いました「六十二個あります。」

「六十二? そんな馬鹿な。ありえない。ああ、わかったぞ、貴女はこれとこれを数えたんだね」といい、文字だと思って他のものと一緒に私が数え上げた二つのマークを指差しました。

「そうかそうか、」グレッグ教授は続けました「だが、これらは明らかに傷だな。偶然についたものだ。一目で分かった。そう、これで完璧だ。大いに感謝するよ、ラリーさん。」

私は単に黒い封印の文字数を数えるために呼ばれただけかといささかがっかりして、立ち去ろうとしました。そこで突然朝読んだものを思い出したのです。

「しかし、グレッグ教授」私は息もつがずに叫びました「そ、そのふ、封印ですよ。なんてことでしょう、その封印はソニーヌスが書いた六十石じゃありませんか、つまり Ixaxar。」

「そう」教授は言いました「恐らくそうだろう。あるいは単なる偶然の一致か。この種の件ではいくら慎重になっても、なり過ぎるということはない。好奇心が猫を殺すように、偶然の一致は教授殺しだからね。」

私は今聞かされたことに当惑させられながらそこを去りました。これらの証拠が形作る風変わりな迷路から抜け出すために、どのような糸口を掴めばいいものか見当もつきませんでした。悪天候は三日間続きました。激しい雨が細かく濃い霧雨に変わり、白い雲に囲われて、周りの世界から切り離されたかのようでした。その間ずっとグレッグ教授は暗く、むっつりとして何も話をしたがりませんでした。部屋の中からは教授がせかせかと行ったり来たりする足音が聞こえました。まるで何か無為をかこつかのように。四日目は晴でした。朝食の時教授はきびきびとした口調で切り出しました。

「家の手伝いがもう少し必要だな。15歳から16歳の男の子が。女中の手を煩わすよりも男の子にさせた方がよい半端仕事が沢山あるから。」

「ですが、あの娘(こ)たちは全然文句を言ったりしていませんよ。」私は反論した。「実際の所、アンはロンドンよりここの方がずっと埃が少ないので仕事が楽だと言っていますけど。」

「うん、良い娘たちだ。だが、男の子がいた方がずっと良くなるはずだ。実はそのことでこの二日悩んでいたんだよ。」

「悩んでいらっしゃった、先生が?」驚いて言いました。教授はこれまで家事について全く頓着しなかったからです。

「ああ、」教授は言いました「知っての通り、ひどい天気だった。スコットランドのこんな霧の中ではとても出歩けなかった。私はこの土地をよく知らないから、必ずや道に迷っただろう。だが、今朝その男の子を連れてくるつもりだ。」

「そんな都合の良い男の子がいることがよくお判りになりましたね。」

「おお、その点については疑いはなかった。2キロか遠くても3キロも歩けば、必要な男の子を見つけられるはずだ。」

私は教授が冗談を言っているのだと考えました、しかし声は大変気軽だったにも関わらず、表情に何か不気味でこわばった感じがあって、当惑させられたのです。教授はステッキを取り、立ち止まると目の前の扉を瞑想に耽るかのように見ていました。ホールを抜けようとした私は呼び止められました。

「ところでラリーさん、貴女に言っておきたいことがある。もう聞き及んでいるかもしれないが、このあたりの坊主達には、さほど聡明でない者がいるんだ。荒っぽく言ってみれば「愚鈍な」ということになろうが、まあ「自然児」とか、その種の言葉で呼ばれている。私が面倒を見るつもりの少年があまり鋭敏な知性を持っていないことがわかっても、どうか気にしないでほしい。彼は完全に無害なはずだ。それに靴磨きには大して知的な努力は必要ないからね。」

この言葉を残して教授は出て行き、森へと登って行く道を踏み進みました。私は呆然自失したままでした。最初の驚愕の中に、突然恐怖の響きが混ざってきたのです。その恐怖が何に由来したのかも判りませんし、その理由も自分で判っていなかったのですが、ある瞬間に、何か冷たい死の戦慄と、死そのものより恐ろしい未知の何かに対する形のない恐怖を感じたのです。海から吹く甘いそよ風や雨の後の日光を浴びれば元気がでるだろうと思ったのですが、私のまわりを取り囲むものは謎めいた暗い森、葦の間をのたうつ川の風景、白銀色の古代の橋、といったもので、これらは私の心に漠然とした恐怖の象徴を作り出したのです。ちょうど無害で見慣れた物が子供の心に恐怖を作り出すように。

二時間後、グレッグ教授は戻ってきました。道を下ってくる所で顔を合わせたので、男の子を見つけられたか静かに問いかけてみました。

「おお、見つけたよ」彼は答えました。「とても簡単だった。ジャーヴェイス・クラドック(Jervase Cradock)という名前で、とても役立つことになると期待している。父親は何年も前に亡くなっていて、母親と会って来たんだが、毎週末数シリングもらえるというので大変喜んでいるようだった。私が期待したように、彼はあまり優秀ではないし、時々発作を起こす。そう母親が言っていた。だが、陶器を扱わせなければ大して問題にはならないだろうと思うがね。彼はいかなる意味でも危険ではない、ちょっと弱いだけだ。」

「いつ来るのですか。」

「明朝八時だ。アンにするべき仕事とそのやり方を教えさせよう。最初は夜自宅に帰すことになると思うが、結局住み込みの方が便利だと判るだろう。日曜日ごとに帰宅すればいい。」

私には言うべき言葉がありませんでした。グレッグ教授は状況に見合った静かな口調で実際的な問題として語り、それでもなお、私はこの件全体についての驚きをおさめることができなかったのです。実の所、家事にはこれ以上の人手は全く不要で、しかも教授が予告していた、今度雇う少年は若干「単純」であるかもしれないという話の通りにまさになるとは、あまりの奇怪さに私は衝撃を受けました。翌朝八時に、クラドック少年が来たという女中の声が聞こえました。女中はなんとか少年に仕事を覚えさせようとしているようでした。「あの子の頭はいかれてますよ。そうとしか思えませんわ、お嬢様。」というのが女中の言でした。その日の遅くになると、庭で仕事をしている男を助けているのが見えました。彼は14歳くらいの若さで、黒い髪と黒い目、オリーブ色の肌をしていました。彼の表情には妙に空虚なものがあり、知的障害があるのが一目で分かりました。私が通り過ぎた時、彼はぎこちなく額をまさぐり、奇妙なしゃがれ声で庭師に答えていました。その声に注意が惹き付けられました。まるで地底深くから聞こえてくるような印象がありました。また、風変わりな歯擦音があって、蓄音機の針がシリンダーをこすっているようなシュゥシュゥ音が聞こえたのです。その子は自分のできることでも自信がなさそうにしていて、素直で従順だということでした。彼の母親を知っている庭師のモーガン(Morgan)は、彼は完全に無害だよと請け合ってくれました。「あいつはいつもちょっとばかり変でね」といいました「無理もないんですよ、あいつが生まれる前に母親がどんな目にあったか思うとね。あっしはあいつの親父を知ってますが、トーマス・クラドック(Thomas Cradock)という奴で、大した働き者だったんです。湿った森で働いたからでしょうな、なんか肺をやられましてね、結局良くならないで、急に死んじまいました。ヒリヤーさん(Mr. Hillyer)と Ty Coch がグレイ・ヒルズであいつの母親が踞っているところを見つけたんですが、その時は、もう頭が完全にイっちまってたそうで、魂をどっかやっちまったみたいに泣きわめいていたそうです。ジャーヴェイスが生まれたのはそれから八ヶ月くらい後のことだったんですが、何遍も言うように、いつでもちっとばかりおかしいんです。歩けるか歩けないかの頃から引きつけを起こして、その時の音で他の子をずいぶん驚かしたそうですよ。」

その話の中のある言葉が引っかかり、ぼんやりした好奇心から、私は老人にグレイ・ヒルズというのはどこにあるかを問いました。

「そこを上がったとこです」以前も使ったことのある身振りをしながら彼は言いました。「『Fox and Hounds』を通り抜けて、古い廃墟のわきの森を通って。ここからは8キロはたっぷりありますよ。変なとこです。そこからモンマスまでは土地が痩せまくっていて、それでも羊に餌を食わすにはいいとこみたいで。まあ、可愛そうなクラドックの嫁は酷い目にあったもんですよ。」

老人は仕事に戻り、私は歳ふり節くれ立った垣根の道を散策しながら、今聞いたことを考えていました。なにか記憶の中に鍵がある、それを手探りで見つけようとしたのです。突然思い出しました。「グレイ・ヒルズ」という言葉を見たことがあったのです。キャビネットの引き出しから取り出してグレッグ教授が見せてくれた黄ばんだ切り抜きの中に。好奇心と恐怖が混ざり合い、私はまたも喘ぎました。思い出したのです。石灰岩の上から複写された風変わりな文字、そっくり同じものがいにしえの封印に刻まれている。ローマ時代の地理学者が書いた幻想的な寓話。これらのシーン、これらの怪奇な出来事、偶然の力が全てを配置したのでなければ、慌ただしい市井の俗事から疑いもなく遥かに隔たったものを私は目撃しようとしているのです。手がかりを熱狂的に追い求めるグレッグ教授が日増しに焦燥にかられ窶れていくことに私は気づいていました。それにまた、夕暮れ、山の稜線に陽がたゆたう頃、教授は地面を見つめたままテラスを行ったり来たりするのです。谷間に白い霧が湧き、夕暮れの静寂が訪れ遠くの声がよく通る頃、ここに来た最初の朝のように灰色の農家のダイヤモンド型の煙突から青い煙がまっすぐ上る頃。私には懐疑論者の傾向があることを既に話したかと思いますが、私はほとんど何も理解していないのにもかかわらず、恐ろしさを感じ始めました。全ての生命は物質的なものであり、超自然現象の足場であり得る最遠の星の彼方にさえも、事物の根本原理においては未開の地はないという科学上のドグマを何度心の中で繰り返しても無駄でした。物質そのものも精神と同じく、真に恐ろしく未知のものであり、科学はその敷居の所をわずかにかじっているに過ぎず、内的世界の神秘について一瞥以上のものをもたらしていない、という考えに打たれたのです。

とりわけ、邪悪なものの到来を告げる赤い狼煙となった、ある一日がやってきました。庭のベンチに座り、クラドック少年がすすり泣くのを見ていると、しゃがれ声と喉の詰まるような音が突然起り、私は驚きました。それは野獣の怒号のような音で、目の前にいた不幸な男の子の全身を見て、言葉にできない程のショックを受けたのです。痙攣と振戦が短い周期で全身を襲い、あたかも身体を通して電撃が行われているかのようでした。彼は歯を食いしばり、唇から泡を吹き、顔全体が黒く膨れ、人間存在を覆い尽くすおぞましい覆面となったのです。恐怖に私が縮み上がった所にグレッグ教授が駆け寄ってきました。私が指差した時、痙攣に震えるクラドック少年は湿った土の上に俯せに倒れ、のたうち回って苦悶していました。まるで傷ついた地虫のように。唇からは信じられないような音がぶくぶくと溢れ、ガラガラいう音や、シュゥシュゥいう音も聞かれました。彼はなにか破廉恥な隠語を、あるいは言葉のようなものを叫んでいるようで、既に死滅した秘められた昔の言語、ナイル川の泥の底深く埋もれているであろう言語、あるいはメキシコの森の深奥にでも行ってしまった言語に属するものであろうと思われました。このような考えは一瞬のうちに消えました。私の耳は尚もその地獄めいた叫びをうけつけまいとしていたからです。「これはまさに地獄の言葉そのものだわ」 私は繰り返して叫び、そこから逃げ出しました。私の魂の内奥は激しく身震いしていたのです。グレッグ教授は倒れた少年の上にかがみ込んでおき上がらせようとしていましたが、私はその時教授の顔の皺一本一本にまで歓喜が輝いているのを見て愕然としました。ブラインドを降ろし両手で目を覆いながら自分の部屋に座っていると、重々しい足音が下の方に聞こえました。後になって、グレッグ教授はクラドックを書斎に運び、鍵をかけたのだということを聞きました。はっきりしないうめき声が聞こえ、座っている場所からほんの一メートルの所で起きていることを考えると震え上がりました。森と日光の中に逃げ込みたかったのです。でもそれまでの道筋で恐ろしいものを直視することになったらどうしようとも思いました。到頭私は神経質にドアノブに手を掛けたのですが、その時グレッグ教授の朗らかに呼ぶ声がありました。「もう大丈夫だよ。ラリーさん。」と彼は言いました「哀れな子は回復したよ。明日からはここで眠ってもらうことにする。何かしてやれることがあるだろう。」

「ああ、」ややあって、やっと言いました「極めて痛ましい光景だった。貴女が驚いても無理はない。良い食事をとるようにすれば少しは元気になるだろう。だが本当の意味で治癒することはないと思う。」 そう言って、陰気な様子と、不治の病に冒された人の話題をするときに通常誰もが見せる雰囲気を漂わせました。しかし、その裏で嬉しくて飛び上がりそうな何かがあり、必死にそれを口にしまいと努力しているのに私は気づいていました。表面は静かで透明な海を一瞥するだけで、荒々しい深淵や逆巻く大嵐までわかってしまうようなものでした。この人が、気前よく私を死の淵から救ってくれ、生活の隅々まで慈悲と深慮とに満ちた人物が、これ程はっきりと悪魔の側に行ってしまうとは、子供の呻吟と病苦に奇怪な喜びを見せるとは。私にとっては拷問のようなものであり、また腹立たしいようなものだったのです。その点を離れても、茨のように困難な状況で苦しみ、何か解決はないものかとあれこれするのですが、糸口すらなく、謎と矛盾に取り囲まれていました。私に差し伸べられる救いの手はなく、結局私はあの郊外の白い霧から逃れてはいなかったのかもしれないと思うようになったのです。自分の想いを少しだけ教授に漏らしました。今どれだけ自分が混乱しているかが十分伝わる程度に。そんな話をしたことを後悔した直後、教授の顔が苦痛に歪むのを見たのです。

「親愛なるラリーさん、」と言いました「まさか本当にここを出て行くつもりではないだろうね。駄目だ駄目だ、それは駄目だ。私が貴女をどれ程頼りにしているか、貴女は判っていない。貴女がここで子供たちを見張ってくれている御陰で、私がどれ程安心して前進できているのかを。貴女はね、ラリーさん、私の後衛なんです。私が関わっている仕事は全く空虚なものでも危険なものでもない。ここに来た最初の朝私が話したことを忘れてはいないだろうね。不完全な仮説、怪しげな推測、こういったものを一掃し、確固とした事実、数学の証明のように絶対確実な事実に到達するまでは、一切口外しないと昔から固く心に決めているんだ。よく考えてほしい、ラリーさん。私は貴女の意に反してまでも引き止めようとしているだけでなく、率直に言って、貴女はここにいるべきだとしか思えないのだよ。貴女のするべきことはここ、この森のただ中にある。」

教授の声の雄弁さに触れ、なんと言ってもこの人こそが自分の命の恩人であると思いおこし、私は教授の手を握って何も問わずに期待に沿うことを約束しました。何日か後、私たちの教会の牧師がやってきました — その小さな教会は、灰色で質素で風変わりで、川面の流れや淀みを見下ろす崖の上に建っていました。グレッグ教授がちょっと勧めると、牧師は夕食をとっていくことになりました。メイリック氏(Mr.Meyrick)は地方の旧家の出で、ここから10kmほど離れた丘陵地帯の中に古式ゆかしい家を構えていました。土着の人であるだけに、牧師は失われ行く地方の習慣と伝承の生き字引といってよい程だったのです。温和な性格で、いかにも世間と付き合いのない人らしい変わり者で、グレッグ教授とすぐさま打ち解けました。妙なるブルゴーニュの呪文の下、チーズをつつきながら、二人はワインのように赤くなり、自治都市の自由市民が貴族階級に向けたような熱意で文献学について語りました。メイリック氏がウェールズ語のllの発音について、ネイティブ流のうがいのよう音を喉の小川からほとばしらせ詳しく解説していた時、グレッグ教授が急に話を始めました。

「ところで、」と言いました「先日大変奇妙な言葉を聞いたのです。うちにいるあわれな少年、ジャーヴェイス・クラドックをご存知かと思いますが、彼は独り言をいう悪癖を身につけていまして、おとといのこと、庭を散歩していたら、独り言が聞こえたのです。私がいることには全く気づいていなかったようですね。話の内容はほとんどわかりませんでしたが、ある一言が特に衝撃的でした。それは大変に変わった音でした。半ば歯擦音、半ば喉音で、先ほど貴男がやってみせてくれたダブルlの音のよう変わった音だったのです。貴男が何か思いつくかわかりませんが、'Ishakshar'(イシャクシャー)というのが私としては一番似ている感じがします。ただしkはギリシャ語のχかスペイン語のjですね。ウェールズ語ではどんな意味なんでしょうか?」

「ウェールズ語で?」 相手は答えました「ウェールズ語にはそんな単語はありませんな。いささかでもそれに似た単語もありません。私はいわゆるウェールズ文語を知っていますし、誰にも負けないくらい口語や訛も知っています。ですが、Angelsea から Usk に至るまでそれに似た単語はありません。それにクラドック家の者はウェールズ語を一切しゃべれませんぞ、ウェールズ語はこのあたりではすっかり廃滅しておりますな。」

「そうですか。大変興味深い。メイリックさん、私がこの単語に衝撃を受けたのはウェールズ語の響きがあるからではありません。むしろ何かローカルな訛ではないかと思っているんです。」

「いや、私はその種の単語を聞いたことはありません。似たものもです。確かですよ。」彼は気まぐれに微笑みながら加えました「そういうのは妖精 — 私らの言うところのTylwydd Têgのものに違いありませんな。」

話は近所で発見されたローマ時代の村のことに移り、私はしばらくして部屋を出ました。一人離れて座り、なんと不思議な証拠が集まったのだろうと思いながら。奇妙な単語を発音した時、教授は私に一瞬いたずらっぽい視線を向けたのです。グロテスクで極端な発音でしたが、それがソリーヌス言及するところの六十の文字がある石の名前であるとわかりました。書斎の秘密の引き出しに隠された黒い封印、消えた種族の手でいつも捺された記号、その記号はいかなる人間も読むことができず、私の知る限り、おそらくは丘々が今の形になる以前に忘れられた遠い昔の戦慄すべき事ごとを覆い隠すものらしいのです。

翌朝階下に降りると、いつもの通りグレッグ教授がテラスを往復していました。それは永久に続きそうでした。

「あの橋を見なさい。」私を見ると言いました。「ゴチック風の変わった意匠を、アーチの間の角度を、よく観察するのです。畏怖するような朝日に銀に見える灰色の石を。告白するが、私にはあれが象徴的に見える。一つの世界からもう一つの世界への通路を秘めやかに寓意しているのに違いない。」

「先生、」私は静かにいいました「もう何か教えていただいてもいい頃ですわ。何が起き、これから何が起きようとしているのか。」

その時は教授は質問を黙殺しましたが、夕方再度同じ質問をしたところ、グレッグ教授は真っ赤になって叫んだのです。「これでもまだ判らないのかね? 貴女には多くを話してきた。そう、多くを見せてもきた。貴女が聞いてきた事は、私が聞いてきた事とほとんど変わらないし、貴女が見てきた事は私が見てきた事とほとんど変わりがないくらいだ。」語るにつれて落ち着いた声になってきて、「多くの事態を白日のもとに曝す程度には十分だよ。間違いなく召使いが貴女に話したのだろうな。可哀想なクラドック少年が昨夜もまた発作を起こしたと。貴女が庭で聞いたのと同じ叫びに私は目が覚めて、彼のところに行ったよ。そこで私が見たものを見なかったのは貴女にとっては神の恩寵だ。しかしこういった話も無駄だな。もうここには長くいられない。三週間後には街に帰っていないといけない。講義の準備をしなければならず、それには本を全部手近においておかないと。数日で決着をつける。そうすればもう仄めかしも、狂人だの山師だのという嘲笑を恐れる必要もなくなる。そんなやり方ではなく、平易な言葉で語ることができ、その言葉は人々の胸にこれまでの誰にもなし得なかったような感情を引き起こすことになる。」

ここで一息ついて、偉大で驚異的な発見の喜びに輝くように続けました。

「だがそれはまだ先のことだ。近い未来ではあるが、未来のことには違いない。」ややあって続けました「まだするべきことが残っている。私の研究は空虚なものでも危険なものでもないと話したのを覚えているかな。そう、かなり程度の危険に立ち向かう必要がある。また、かなりの程度私はまだ闇の中にいる。でもそれは変わった冒険になるぞ。最後の最後、証明の連鎖の中の最後の環だ。」

語りながら教授は部屋を行き来しました。その声には歓喜と悲観が鬩ぎあっているような気配がありました。それ以外の表現を探すなら、畏怖と言ってもよいでしょう。未知の大海に漕ぎだそうという男の畏怖。あの夜、書き上げた本を私の前に置きながら教授が語ったコロンブスの隠喩を思いました。今、書斎には夕べの冷気が忍び寄り、暖炉の薪の炎が部屋を照らしていました。緩やかに揺れる炎と壁の光を見ると、昔のことを思い出したのです。炉端のアームチェアに座り、黙ったままこれまで聞いてきたことを何度もよく考えてみましたが、無駄な憶測を重ねるだけで、これまで目撃してきた幻想の背後にある秘密の泉を探しているようなものでした。その時突如、部屋の様子になにか異変があるという感じに気づきました。何かしら見慣れないものがある。しばらくの間周りを見回し、どこに変化が起きたのか見つけようと甲斐のない試みを続けました。どこかに変化があるのは間違いないのです。窓際のテーブル、椅子、くすんだ長椅子、どれもあった通りの場所にありました。記憶が閃光のように甦るあの感じで、突然何がおかしくなっているのか判ったのです。私は教授の机に向かっており、その机は暖炉の反対側にあるのですが、その上に憂鬱な様子をしたピット(Pitt)の胸像があったのです。そんなものは以前には見たことがありませんでした。この芸術品のあった本来の場所は、部屋の一番遠い角、扉の脇から飛び出している戸棚の上だったことを思い出しました。そこは床から五メートルの高さがあり、ピットの像はそれこそ今世紀初頭からそこにあって、埃を被っていたに違いなかったのです。

私は大変戸惑いました。混乱した思考を抱えて静かに座っていました。この家には、私の知る限り、そんな梯子のようなものはなく、それだからこそ、私自身の部屋のカーテンをすこしいじってもらおうとした時、背の高い男の人が椅子の上に立つ必要があったのです。そうしても、彫像を降ろすことはできなかったでしょう。それは戸棚の端ではなく壁の方に押し込まれていたからです。また、グレッグ教授の身長は幾分平均より低いものでした。

「一体ピットの像をどうやって降ろさせたんですか」やっとのことで質問しました。

教授は少し変な顔で私を見ると、少しためらっているようでした。

「誰かが梯子を見つけてくれたんですね。さもなければ、多分庭師が持ち込んで来たのでしょう?」

「いや、どんな梯子もなかった。さあ、ラリーさん、」不器用に冗談めいた様子を装って続けました「貴女向けのちょっとしたパズルです。類い稀なるホームズ流の問題ですな。平明で明白な事実がある。全智を傾けて解いて下さい。御願いだから」大声で叫びました「これ以上は何も言わないでくれ! 言っておくが、私は全くそれに触っていない。」といって、部屋を出て行きました。顔には恐怖が浮かび、ノブをとる手がぶるぶると震えていたのです。

漠然と驚きながら私は部屋を見回しました。何が起きたのか全然理解できませんでした。説明の術を見当づけることすらできなかったのです。たった一つの大したことのない単語と、装飾品の取るに足らない変化、これらのために心の中で黒い水が掻き回されているかのようでした。「つまらないことじゃない、私をからかおうという誰かの出来心よ。」と私は思いました。「多分教授はささいなことにも頑迷で、私の質問で認めたくないような恐怖心に捕えられたのだわ。実用第一のスコットランド女性の目の前で蜘蛛を殺したり塩をこぼしたりしたようなものよ。」 こんな無益な憶測に没頭していたのです。実体のない恐怖などには免疫があるのだと少しだけ自慢しそうになりましたが、やはり真実は私の心に重くのしかかっており、何かおぞましい物事が行われたのだという冷たい恐怖を覚えたのです。胸像には単純に手が届かないのです。梯子がなければ、誰にもさわることができなかったはずなのです。

私は台所に行って、できるだけ静かに女中に話しました。

「アン、戸棚の上から胸像を動かしたのは誰かしら」わたしは彼女に言いました。「グレッグ教授は触っていないとおっしゃるし、外に古い梯子でもあったの? 」

娘は私をぽかんとした顔で見ました。

「あたしは触ってませんわ、」といいました「この前の朝部屋を掃除していたら、今ある所にあったんです。思い出しましたわ。水曜日の朝です。夜クラドックの具合が悪くなった次の朝なんで。あたしの部屋は隣だったんですよ、お嬢様」哀れがる感じになって「聞くだけで恐ろしくなる程あの子は泣き叫んで、あたしにはわかんない名前を大声で呼ぶんです。それを聞くととても怖くて。そこにご主人様がお見えになって、声をかけるとクラドックを下の書斎に連れて行き、何かを飲ませました。」

「次の日にはあの胸像は動いていたというわけね?」

「はいお嬢様。書斎に下りて窓を開けた時、変な臭いがしたんです。嫌な臭いでした。あれって一体なんだったんでしょう。ねえお嬢様、あたしにはトマス・バーカー(Thomas Barker)という従兄弟がいるんですが、随分昔、スタンホープゲートのプリンス様の所におりました頃、ある午後休みをいただきまして、その従兄弟とロンドン動物園へ行ったことがあるんです。蛇を見ようと蛇小屋に行きましたが、ちょうど同じような臭いでした。そうですわ、とても気持ちが悪くなってバーカーに連れ出してもらったんです。書斎で臭っていたのとちょうど同じ種類の臭いだったんですよ。一体どこから臭っているのかしらと声に出しながら思案していると、ご主人様の机の上にピットの像が現れているのを見たんです。『まあ、誰がしたのかしら、それにしてもどうやって?』と内心思ったんです。掃除に来ました時胸像を見たら、埃が拭われた痕がありました。何年も何年もハタキが当たったはずがないのに。それに指の跡にも見えなかったんです。大きくて平べったい斑点みたいでした。何も考えずそれに手を出してみると、その斑点の所はぬるぬるべちゃべちゃしていて、でんでんむしが這って行った後のようでした。とても変ですわよねえお嬢様。そんなことができたのは誰なんでしょう。どうやればあんな嫌なことができるんでしょうか。」

気のいい女中がぺらぺらとまくしたてる話を聞いて、途端に衝撃を受けました。恐怖と困惑にかられましたが、それを声に出さないようベッドに横になって唇を噛み締めました。恐れのあまり気も狂わんばかりだったのです。これが陽のある内のことでしたら、勇気も、グレッグ教授への恩も借りも義務も全て放り投げ、大急ぎで逃げ出したことでしょう。一日ごとにじわじわと迫ってくる先の見えない、叫びだしたいような恐怖の網から逃れ続け、緩慢な餓死に至るであろう運命も忘れ果てて。それが何か判りさえすれば、と私は思ったのです、何が恐怖の対象なのかが判りさえすれば、それから身を守ることもできるでしょうに。しかしここ、この孤独な家、古い森と高い丘々に四方を囲まれた家では、あらゆる物陰から見境なく恐怖が襲いかかってくるようでした。私の肉体は恐るべきものどもに対する半信半疑のつぶやきに愕然としていました。懐疑主義を引っ張りだして助けを求めようとしても、冷静な常識を持ち出して自然界の秩序に関する信条の支えとしようとしても、まるで無駄だったのです。窓から吹き込む風には神秘の息吹があり、闇の中には死者のためのミサのような沈痛な静けさがあり、さざ波が寄せる川辺には、葦の中に速やかに集まる奇怪な形態を思ってしまったからです。

朝食をとるために部屋に足を踏み入れた瞬間から、なにか未知の筋書があり、それに沿って破局が近づいている感じがしたのです。教授の顔は堅く強張っており、私達が話す声も耳に入らないようでした。

「少しばかり遠くまで散歩してこようと思う」食事が終わった時教授は言いました「夕食に間に合わなくても待っていてくれなくていいし、何か起きたのだろうかなどと思わなくていいよ。なんか最近ぼけてきたからね 、極小規模の徒歩旅行はきっといいぞ。清潔で居心地のよさそうな宿があれば、そこに一泊するかも知れん。」

私はグレッグ教授のやり方というのを経験的に知っていましたので、これを聞いた時教授を駆り立てているのが普通の仕事でも娯楽でもないことがわかりました。どこに行こうとしているのか判りませんでしたし、漠然とでも思いつきませんでした。また、どんな用向きなのか、その仄めかしさえ受けていなかったのです。しかし、昨夜の恐怖がまた甦りました。彼は立ち上がり、微笑んで、テラスの上で、出かける準備を整えました。そこでわたしは哀願したのです、どうかここに留まって、未知の大陸を見つける夢など全て捨てて下さいと。

「いや、いや、ラリーさん」彼は答えました、なおも微笑みを浮かべて。「もう遅いのだよ。貴女も知っての通り『探求者は後を見ぬ』(Vestigia nulla retrorsum)のだ。真の探求者ならみなそうするのさ。もっとも私の場合が文字通りそうなってしまって欲しくはないがね。しかし、そんなに貴女自身が恐れてはいけないよ。私にとってはこの遠足は単にありきたりなものに過ぎない。地質学のハンマーを振るっていた頃以上にエキサイティングなものはない。もちろん危険はある。だがそれはごく普通の遠足にだってあるのだ。何、のんきなものだよ。これが危険というなら、アリーは銀行の休業日が続くごとに百回も危険をおかしているよ。さあ、貴女はもっと嬉しそうな顔をしていなきゃ。遅くとも明日の内には帰るから、それまでさようなら。」

彼はずんずん道を行き、森への入り口の扉を開くと、陰鬱な木々の間に姿を消しました。

奇妙な暗さと重苦しさを空気の中に秘め、その日は過ぎて行きました。再び私は自分が囚われの身であるように感じていました。太古の森のただ中、神秘と恐怖の古い土地に閉ざされ、全てが過去に属し、外の生き生きとした世界から忘れ去られたように。私は願いまた恐れました。夕食の時間が来ても私は待ちました。教授の足音が玄関に響き、私の知らない何らかの勝利に歓喜する声が聞こえることを。笑顔で彼を迎えようと、表情を作ってみました。しかし、夜は闇を深め、彼は帰ってこなかったのです。

朝になり、女中が私の部屋の扉をノックしました。私は女中を呼んで、ご主人はお帰りかと聞きました。寝室の扉が開いていて中は空だったという女中の話を聞いて、氷のような絶望を感じたのです。それでも彼は愉快な仲間といて、お昼どきには、いや多分午後には帰ってくるだろうと淡い期待を持っていました。子供らを林に連れていき、できる限り楽しく遊びました。そうして謎や帳に隠された恐怖を忘れようとしたのです。一時間一時間と時間が経つにつれ、私の思考は暗くなり、再び夜がやって来て、私はまだ待ちつづけていました。そしてついに、私が喉を通らぬ夕食をなんとか終えた時、外に足音と男の声がしました。

女中がやってきて、変な顔で私に言いました。「お嬢様、よろしければ庭師のモーガンさんがお話があるとのことです。」

「通して下さい」と答え、唇をぎゅっと締めました。

老人はゆっくりと部屋に入り、召使が扉を閉めました。

「お座りなさい、モーガンさん。私に話というのは何ですか。」

「はいお嬢様、昨日の朝、出掛ける直ぐ前にグレッグ様は儂にお嬢様へのものを託された。今日の夜、正確に八時になるまでは渡さないようにと念をおおしになって。それまでに帰ったら、お嬢様には渡さず自分の手に戻して欲しいと。まだグレッグ様はお帰りではないので、この包みをお嬢様に直接渡した方がいいだろうと。」

庭師はポケットから何かを取り出すと、半ば掲げるように渡してくれました。私は黙ってそれをうけとり、どうしたものか判らないでいるモーガンを見てありがとう、おやすみなさいといって別れを告げました。部屋の中、ひとりぼっちで、手には包みが — 紙の包みで、奇麗に封がしてあり、私の宛名がありました。モーガンが言っていた指示もそこにあり、全て教授の大きな丸い文字で書いてありました。息を詰まらせながら封を破ると、中にはもう一つの封筒がありました。私の名がありましたが、封はしてありませんでした。その中には手紙がありました。「我が親愛なるラリーさん」とそれは始まっていました —

「我が親愛なるラリーさん。古い論理学の教科書風に書けば、貴女がこのメモを読む場合は、私がなんらかのへまをした場合であり、もしかするとそのへまは告別へと導くものになるやもしれません。貴女も、他の誰もが、もはや再び私の姿を見ることがないのは確実です。この不測の事態にはかねてより覚悟ができており、貴女が私からのささやかな形見と、貴女の未来を私のそれに重ね合わせてくれたことに対する心からの感謝で満足してもらえることを願っています。私の上に降り来たった運命は絶望的で恐るべきものであり、いかなる人間の夢想をも超えています。ですが、貴女にはそれを知る権利がある — 貴女が望むなら。私のドレッシングテーブルの左の引き出しを見ると、エスクリトワール(引き出し付きライティングデスク)の鍵があります。それと判るラベルをつけてあります。エスクリトワールのウェルに、封印し貴女の名が記してある大きな封筒があります。さっさと火中に投ずることを勧めます。そうした方が夜安らかに眠れるでしょう。ですが、もし事件の来歴を知りたいなら、それをお読み下さい。私は全てを書き記しました、貴女が読むようにと。」

下の方にはしっかりした署名がありました。私は最初の頁から一語一語読み直しました。愕然とし、白くなる程唇を締め、両手は氷のようになり、胸が詰まりました。部屋はしんと静まり返り、四方から暗い森と丘の想いが迫り、私を押しつぶそうとしてきました。ですが、隠れる場所も相談できる相手もないのです。到頭私は決意しました。生涯にわたってうなされることになろうとも、私は奇怪な恐怖の意味を知らなければならない。これ程長く私を苦しめた恐怖、灰色に立ちふさがり、暗くぼんやりして、畏怖すべき、薄暮の森の中で見る影のような恐怖の意味を。グレッグ教授の指示に注意深く従い、ためらわず封を破り、手稿を広げました。

その手稿は片時も離さず持っています。おっしゃらなくても判りますわ、これから内容をお聞かせいたしましょう。これが、机に上、ランプセードの火影で当夜読んだものです。

ミス・ラリーと名乗る若い女性は読み進めた。

ウィリアム・グレッグ、英国学士会員他の言明

この学説の曙光が私の中に浮かんだのは随分昔のことであるが、今やこの説は完全にとは言わないまでも、ほとんど事実と言ってよい状態にある。不要に思われるような雑多で曖昧な読書が道を開くために大いに役立った。後に、私がひとかどの専門家となり、文化人類学と呼ばれる領域の研究に没頭するようになった時、瞠目したことがある。事実というものはオーソドックスな科学的信条のような四角四面なものではなく、何らかの発見によって、未だいかなる研究の俎上にも上がっていない秘密を解明する手がかりが得られるのではないかと。もう少し具体的に書こう。ほとんどの民話は実際に起きた出来事の誇張した説明であると私は確信した。特に私が重視したのはフェアリー(妖精)、ケルト民族の中で良き人々とされているものの説話である。誇張や粉飾の部分を区別することはできるであろうと考えた。小人が緑や金に着飾り、花々の中で楽しく遊ぶといったファンタスティックな仮面である。また、その(想像上のものと考えられた)種族に付けられた名前と、姿や振る舞いの間に著しい類似が見られることにも気づいた。我々の遠い祖先が恐るべきものを、まさに恐るべきものであるが故に「フェアー」で「善良」なものと呼び、魅力的な姿に仕立て上げ、だが真実は実にその逆であることを知っていたように。文学もまた当初から変容に大きな力を貸した。シェイクスピアの悪戯好きなエルフに至れば、既に元来の姿から遠く離れ、恐怖の現実は、いたずらっ子の偽装の陰に隠されてしまっている。しかし、焚火の周りに円陣を囲んで座しあい語られ続けた、より古い説話の中では、異なった様相を追うことができる。奇妙にも地上から消失した子供や男女の記録が確実にあり、その中に私は大きく対立する精神をみた。彼らは緑色で円形をなす丘に向かい歩く姿を農夫に見られ、そのまま二度と地上に現れなかった。母親にまつわる話もある。静かに眠っている子供を一人残し、おおどかなやりかたで小屋の扉に木の閂を掛けて出掛けた。母親が帰って来た所、丸々と肥え、バラ色の肌をした小さなサクソン人の姿はなく、やせ細った皺だらけの生き物だけが残っていた。その肌の色は黄ばみ、刺すような目をしており、別の種族の子供だった。さらに暗黒な神話も残っている。魔女と魔法使いの恐怖、身の毛のよだつようなサバト、人間の娘と交わる悪魔への示唆である。さて、我々は恐るべき「フェアーな人々」を良性の隣人、そうでなくても精々変わり者のエルフ程度に変化させた。同じように魔女とその仲間どもというかぐろい汚物を、よく知られた魔法使い、空飛ぶ箒に乗って、後ろに尻尾のある滑稽な猫を乗せた老婆の陰に隠蔽したのだ。ギリシア人もまた、忌まわしい狂態を慈しみ深い女性と呼び、北方の国々もそれに倣った。私は更に急を要する他の仕事に追われながらも半端な空き時間を盗んではこの面の研究を続けた。私が問題にしたのは次の点であった。もし伝説が正しいとするなら、サバトに参加したと報告されている悪魔とは一体何者であるか。いうまでもなく、中世の超自然的仮説とでもいうべきものは脇にどけた。すると、フェアリーと悪魔は同一のもの、起源を同じくする種であるとの結論に達する。疑いもなく、創作や過日のゴチック的幻想が誇張と歪曲をもたらしたが、その種の想像物の背景には、暗黒の真実が隠されていることを堅く信じていたのだ。いかなるものであれ、今日びの心霊主義各派の主張の中に一粒の真理でもあるなどと認めるのは極めて気の進まないことではあるが、それでも尚、時として、一千万に一回位は、人間の肉体がある帳を挙げることを完全に否定し去るだけの用意がない。その帳の陰には我々には魔術的と見える力がある。その力は人間を更に高みに引き上げ前進させていくようなものでは全くなく、だが存在の深淵から現れ、今でも実際には生き延びているものである。アメーバや蝸牛には我々にない能力がある。思うに、逆進化ないし退行の理論を用いれば、一見説明不可能に見える多くの事物を説明できるであろう。これが私の立脚点であった。多くの伝説、所謂フェアリーに関わる最初期のまだ腐敗していない伝説の大部分が堅固な事実を表しているという考えには、信ずべき根拠が多分にあると思われ、それら伝説に現れる純粋に超自然的な要素も、かの種族が進化の大行進から脱落した落ちこぼれであり、生き残るために我々の目には全き神秘に映る何らかの能力を維持しているのだという仮説をもってすれば説明可能であろう。私は内心この立論に確信をいだいており、この観点から研究を進め、様々な方面からの確認作業をおこなおうとした。塚や古墳の纂奪品、英国各地の考古家の集会を報じた地方記事、あらゆる種類の一般書籍。中でもとりわけ、ホメーロスの「言語明晰な人間」というフレーズに衝撃を受けたのを覚えている。あたかもホメーロスは発音とも言えないほど粗野な言語を話す者のことを知っていたか聞いたことがあるかのようではないか。我が脱落種族仮説によれば、その者達は野獣が吠えるのとおっつかっつの不明瞭な言語もどきを話すであろうと確信できたのである。

このように、自らの推測がそう見当はずれのものではないと満足していた時に、偶然ある小村の記事の一節に目を留めたのだ。それは小さな村で起きた、一見浅ましい悲劇にしか見えないものであった — 若い娘が訳もなく失踪したのである。その娘の品行を悪し様に言う流言が飛び交った。しかし、私は行間を読み、それら醜聞は仮説に過ぎず、他に説明のしようがないので言われているに過ぎないことを見て取った。ロンドンやリヴァプールに逐電した、森の深い水の中に首に重りを結わえ付けたまま沈んでいる、恐らくは殺されたのだろう — 不幸な娘の近所ではこのような説が行われていた。だが、その一節をだらだらと眺めている時、電撃のような荒々しさで、全身を一つの考えがよぎった。影につつまれた恐るべき丘の種族が生き残っているとしたら、荒れ野や荒涼とした山に祟りをもたらしているとしたら、ゴチック時代の伝説にあるような悪事を繰り返しているとしたら、Turanian Shelta やスペインのバスクのように変わらず、変わることもできずにいるとしたら? この思考は暴力的だった。わたしはあっと息をのみ、椅子の肘掛けを両手で強く握り、恐怖と高揚感の混ざった妙に混乱した気分になった。まるで物理学を研究している同僚が静かな英国の森を散策している時に、突然ぬるぬるして忌まわしい魚竜の姿 — それは勇敢な騎士に倒された恐るべき虫の原型である — あるいは空を覆い陽を隠す翼竜の大群 — それは伝説の竜の原型だ — に出会って愕然とするようなものだった。だが、知の探求者たるべく決意を固めていた私は、却ってこのような発見を思うと心が躍った。新聞から記事を切り抜き、古い書き物机の引き出しにしまい、このピースを第一歩として証拠を収集し、最も奇妙で、かつ重要なものを明らかにするのだと心に決めたのである。その夜、私は長いことこれからこういう結論を確立してやろうと夢見ていた。それがまず私の信用を粉砕するだろうと考える程冷静になれなかった。だが、公平な目で見始めると、自分の論は砂上の楼閣かもしれないことに想い至った。事実は村人の言う通りかもしれない。私はこの件をある程度保留しておくことにした。それでも探索は続ける肚でおり、この件について目覚めているのは自分だけ、注目しているのも自分だけ、最高に特権的な事実を他の数多の思想家も探求者もぼんやりと見過ごしているのだという考えに固執していたのである。

数年後、引き出しに第二の中身が加わった。新しい内容は実のところ重要なものではなかった。第一のものの反復に過ぎなかったからだ。ただし、場所は遠く離れていた。だが、私は得るものが有った。この事件も最初と同じく人里離れた場所での悲劇であり、その限りにおいて私の説を正当化すると思われたのである。ところが第三のピースは遥かに決定的だった。再び、人家から離れた丘陵地帯、主要道路からも遠く離れた場所で、老いた男が一人殺害されているのが発見され、犯行に用いられた兇器がその脇に置き去りになっていた。またしても流言と憶測があったが、それは兇器が原始的な石斧であったからだ。石はガットで木製の柄に結びつけられており、これほど法外で不可解なものは想像もできなかったからだ。とんでもない憶測が流れているのを内心喜びながら、苦労して死体審問に出頭させられた地元の医師と連絡を取ることに成功した。その医師はなかなか鋭い人物だったが、途方に暮れていた。「この近辺では口にできないことですが」と手紙に書いてよこした「率直に言って、隠秘な謎がこの事件にはあります。斧を入手することができたので、その威力を試してみようと思ったのです。家の者が、召使を含め皆出払った日曜日の午後、わが家の裏庭に持ち出しました。そこはポプラの木陰になって、周りから見られない場所です。私にはその斧はどうにも扱えないことに気づきました。妙なバランスの取り方があるのか、重りを巧く付けるといいのか、よほどの修練を必要とするのか、あるいはまともに打撃するには何か特殊な筋肉の使い方を要求しているのか。私にはっきり言えるのは、家の中に戻る時、私の運動能力に対する自信がぼろぼろになったことだけです。まるで金槌の扱いに不慣れな人がそれを『押して使おう』とするようなものでした。反動をもろに受けて、私は酷い勢いでひっくり返ってしまったのです。一方、斧は何事もなく地面の上に転がっていました。別の機会に、今度は頭の良い土地の樵を呼んで来て実験を試みました。ところが、この樵は四十年間も斧を振るってきたにも関わらず、この石製品には手も足もでなかったのです。どの一撃も明後日の方向を向いていました。短く言えば、あまりにも馬鹿げた風に聞こえないと良いのですが、この四千年間というもの、地上のいかなる生物も、この道具を使って有効な打撃を与えられたはずがないのです。実際には老人の殺害に使われたのがはっきりしているのに、ですよ。」 お分かりの通り、このニュースはまたとないものだった。後日事件の全貌を聞くことができ、不幸な男性は特定の荒れた丘の麓でどんなものが見えるかなどという話をぼそぼそしており、聞いたこともないような不思議があるのだとちらつかせていた。それがある朝、まさにその丘の麓で冷たくなって見つかった。私は大層喜んだ。村の憶測を遥かに抜き去っていたからである。だが、次の一歩はさらに重要なものだった。私は何年も前から変わった石の封印をもっていた--鈍く黒い石の塊で、柄から印字面まで約5cmであった。印字面は大凡六角形であり、差渡し約3cmであった。大まかに言って、古い型のタバコ止めを大きくしたようなものだった。東方にいるエージェントが、古代バビロンのそばで見つけたものだとして送ってきたのだ。だが、その上に彫ってある文字は、耐えられない程の難題であった。楔形文字に似ている部分もあるが、それでもなお一目で分かる程の大きな相違が見られた。矢尻文字の解読法が有効だろうという仮説はもろくも崩れた。このような難問は私の自尊心をいたく傷つけ、半端な時間を見つけてはキャビネットから黒い封印を取り出し詳しく調べた。あまりにも根気よく粘ったため、全ての文字を目に焼き付けてしまい、全くのそらで間違いなく描ける程になった。そんな時、イングランドの西部の文通者から一通の手紙とある包みが送られてきた。それを見たときの驚きを判ってもらえるだろうか。まさに雷に撃たれたようなものだったのだ。大判の紙の上にいささかの相違もなく、封印と同じ文字が書かれているのを注意深く目でたどった。その碑文の上には友人の言葉があった。「モンマスシャー、グレイ・ヒルの石灰岩の上に見られた碑文。何らかの赤土で書かれた、ごく最近のもの。」 手紙を開くと、友人は次のように書いていた。「憚りながら、同封の碑文を送らせてもらう。一週間前にその石の脇を通った羊飼いは何も書いてなかったと断言している。そこに書いた通り、文字は石の上に何か赤土で描いたもので、平均して高さが2.5cmである。ある種の楔形文字に似ているとみたが、相当異なっている。だが、そんなことは、もちろん、あり得ないことだ。冗談かもしれないし、ジプシーの走り書きかもしれない。彼らはこの荒れ地には沢山いて、君も知っての通り、相互に連絡をとるのにヒエログリフのような文字を使う。いささか悲痛な事件があったのだが、それとの関連で二日前にその石の所に行ってみたんだ。」

当然そうだと思われるように、私はすぐさま友人に手紙を書いた。碑文の複写に感謝し、気軽そうにその事件というのがどんなものだったのかと質問したのである。聞いた所を簡単にいえば、前日に夫を亡くしたクラドックという名の女性が、8km程離れた所に住んでいる従兄弟に悲報を伝えようと出掛けた。近道をしようと、グレイ・ヒルの脇を通る道を選んだ。その時クラドック未亡人は大変若い女性だったのだが、親戚の家にたどり着くことはできなかった。夜遅く、何頭かの羊を見失い、群れからはぐれてしまったのだろうと探していたある農夫がランタンを持ち犬を連れてグレイ・ヒルを上った。農夫は変な音がするのに気づいた。聞くも哀れな泣き声をあげて嘆いている者がいる。音のする方に行ってみると、不幸なるクラドック未亡人が石灰岩の脇の地面に踞って、身を前後に振っては胸が張り裂けんばかりに泣き叫んでいるのだ。あまりに悲痛な声に、まず農夫は耳を押さえたという。そうしなければ逃げ出してしまっただろうと。女性は家に連れ戻され、近在の人々の世話を受けた。一晩中女性は泣き通した。泣き声の端々に、何か野蛮な卑語が混じった。往診に来た医師は、彼女は正気を失っていると診断した。村人が言うには、一週間経った今でも女性はベッドの上で永遠に呪われたかのように泣いているか、そうでない時は昏睡に落ち込んでいる。夫を失った悲嘆のあまりおかしくなってしまったのだろう、医師も命を救えるとは思っていない、というのである。言うまでもなく、私はこの事件に深く関心を持ち、友人に定期的な続報を入れてもらうことにした。六週間の経過で、女性は次第に正気を取り戻し、数ヶ月後には息子を産み、ジャーヴェイスという洗礼名をつけたが、不幸にも知能が低いことがわかってしまった。こういったことが村で知られた事実である。だが、私にとっては、事件が示唆する隠された邪悪な存在、疑いもなくこの件に関与した存在を思うと顔面が蒼白になるほどだったのだ。信じるに不足はない。私は不注意にも、何人かの科学上の友人に真実と思われるものをちょっと漏らした。言葉を発した瞬間、私は生涯の秘密を明かしたことをいたく後悔した。ところが、頭に来たことには、同時にかなり安堵もしたのだが、そのような恐れはまるで見当違いだったのだ。友人は私に冷笑を浴びせ、狂人扱いしたのである。怒りという自然な感情の裏で、私はほくそ笑んでもいた。こういった石頭どもの間ではうっかりアイディアを漏らしてしまっても安全だ、暖簾に腕押し、沙漠の砂に話したようなものだったからである。

しかし今やかなりのことを知ったことで、私は全てを知らねばならぬと決意した。黒い封印の碑文を解読するべく、努力を集中させたのである。何年も、余暇の時間を全てこの謎に捧げた。もちろん果たすべき責任は多く、そちらにかける時間の方が長かった。一週間も謎に集中できることはたまにしかなかったのだ。この奇妙な解読作業の経緯を完全に記録するとなると、おそるべく惨めなものができあがるだろう。簡単に言って、長く退屈な失敗の記録である。しかし、私には古代の文字についての知識という武器がある、そう自分に言い聞かせた。私にはまた欧州のみならず全世界の科学者との文通もある。いかに古く、いかに当惑させられるようなものであっても、いつの日にか私の探照灯の光にあぶり出されないような文字はあり得ないと確信していた。それでも成功までにはまるまる十四年を要したのだ。年を追うごとに専門的な職務が増え、余暇は減って行った。疑いもなく、こういったことにより大いに作業は遅れた。だが、あの頃のことを振り返れば、黒い封印の研究に当たって私が拡げた探査網の広さに今でも驚くばかりである。書き物机を中心に据え、全世界の、あらゆる時代の古代文字の謄本を収集したのである。いかなるものも、そう私は決意した、いかなるものも見過ごすわけにはいかない。どんなにかすかなヒントであれ、歓迎し追求しよう。しかし隠れ家を一個一個つぶして行くようなもので、どれもこれも空っぽであることだけが証明された。何年かする内に、私は絶望的になり、もしかすると黒い封印は天地の大異変によって消え失せた、今では深海の底か丘の内部にでも埋もれてしまった種族が残した唯一の遺品で、他には何らの足取りも残していないのではないか — アトランティスの滅亡がそうだったと言われているのと同様に — とすら思うようになった。このような考えに、私の熱はいささか冷めさせられた。相変わらず精励してはいるのだが、以前のようには信じ切れなくなった。そこに偶然の救いが現れたのだ。私はイングランド北方のちょっとした街に住んでいたのだが、その地でかなりの歴史を持つ、信頼できる博物館を調べる機会を得た。その博物館の学芸員とは文通仲間だったのだ。二人で鉱物の標本ケースを見ていた時、ある標本に目が釘付けになった。10cm四方程の黒い石片で、外見が黒い封印との類似性を感じさせた。何気なく取り上げて手のひらで裏返してみると、驚くなかれ、底面に碑文があったのだ。私は極めて穏やかに、友人である学芸員に言った。この標本には興味を惹かれた。もしこれをホテルに数日間持ち出させてもらえるなら、この上なくありがたいことだ、と。学芸員はおちろん反対せず、私はホテルの部屋に駆け込んで、最初の印象が間違いではなかったことを確認した。そこには二種類の碑文があった。一つは通常の楔形文字、もう一つが黒い封印の文字である。私の仕事は達成されたのだ。二つの碑文の精密な複製を作ると、ロンドンの研究室に戻り封印を取り出した。大問題と四つに組むことができたのだ。博物館の標本にあった碑文を解釈すること自体は十分面白かったが、探求そのものには関係がなかった。だが、翻字の過程で私は黒い封印の謎に精通するようになった。無論、黒い封印の解読作業に憶測が紛れ込むことは避けがたかった。ある一つの表意文字の意味が判らず、そこここに不確実な部分が残り、繰り返し現われるある一つの記号が幾晩も続けて私を途方に暮れさせた。だが、ついに謎は解け、平易な英文として私の前に現れたのだ。私が読んだものは、丘陵地帯での恐るべき変形の鍵であった。最後の単語を書いた時はどの指も震えがとまらず、漸く書いたメモを私は細かく細かくちぎり、炎に投じて黒く焼けていくのを見とどけた。残った灰色の焼け跡もまた粉々にした。それ以降私はそれらの言葉を書いたことがないし、これからも書くことはない。そこにはどうすれば人が、そもそもそこから来った粘液質に戻り、爬虫類や蛇の肉体に化するかが説明されていたのだ。すべきことは一つしか残っていなかった。どうなるかは判っていても、それを見たいという願望があった。しばらくしてグレイ・ヒルの近所に家を借りることができ、クラッドック未亡人と息子のジャーヴェイスが住んでいる家からもほど遠くなかった。ここ、この文書を記している場所で起った不思議について、完全かつ詳細な記述をすることは不要だと考える。ジャーヴェイスにはどれ程か「小人族」の血が混じっていることは判っており、一再ならずその血縁の者どもとその人里離れた地で会っていることを後に知った。ある日庭に呼び出された際、発作の最中にあったその口から、黒い封印にある恐るべき卑語が語られるのを聞いた。あるいはシュゥシュゥ歯擦音を立てるのを、と表現すべきか。自分でも恐ろしいことに、私の中では悲哀の情より歓喜が勝っていたのだ。私は彼の口から地下世界の秘密が噴き出すのを聞いた。恐るべきイシャクシャーという単語も。その重要性を説明することはどうか容赦して欲しい。

だが、ある一件については書かないでおくことはできない。ある虚ろな夜、私はよく知った音節を叫ぶ歯擦音に目を覚ました。哀れな少年の部屋に行きながら、少年が痙攣を起こし、口から泡を噴いているのが見えた。掴み掛かってくる悪魔どもから逃れようとでもするかのように寝台の上でのたうち回っていた。私は彼を自分の部屋に運び、ランプを点した。彼は身をくねらせ、自らの肉体の内に潜むかの力に出て行ってくれと頼んでいた。私の目の前でその顔は黒く腫脹し、袋のように膨れ上がった。この危急の際に、私は封印の指示に従い、必要なことを実行したのである。良心のとがめを全て打ち捨て、私は科学者に、現象の観察者に、なりきった。私が見たことを証言せねばならぬ光景は恐るべきものだった。ほとんど人間の観念を超え、最悪の幻想をも超えていた。床に倒れた身体から何かが突出し、くねくねする粘液状の触手となって伸びていき、部屋を横切ると棚の上の胸像を掴んで私の机の上に降ろしたのである。

事が終わっても、私は一睡もできず歩き回った。真っ青になり震えながら。私の肉体からは汗が止めどなく流れた。私は必死に合理的な説明をしようとした。今見たものは実際には超自然的なものでは全くない、今見たものと同様のものは規模は小さいものの蝸牛が角を伸縮する際にみられる。このように説明してもやはり恐怖は拭えなかった。その夜は全く仕事に手がつかなかった。

話すべきことはもうほとんど残っていない。私はこれから最後の試行に赴く。欠けた部分を一切残したくないからだ。私は「小人族」と直接会わねばならぬ。その際黒い封印を持参し、その秘密に関する知識と共に我が助けとしよう。もし不幸にも私が不帰の者となっても、我が身にふりかかった恐るべき運命は推測するに及ばない。

グレッグ教授の言明を読み終えたラリー嬢は少し間を置き、次のように続けた。

教授が遺していかれたのは、このような殆ど信じがたいお話でした。読み終えたのは夜も更けた頃でした。朝になって、行方不明の教授の跡が何か残っていないかと、モーガンを連れてグレイ・ヒルへ行きました。鄙びた道の荒れ果てた様子をお話しして貴方を退屈させることはやめておきますわ。この上なく寂しい道でした。ありのままの緑の丘々の全面に点々と灰色の石灰岩が顔を出していました。それらの石灰岩は長年の風雨に蹂躙され、幻想的な、まるで人や獣のような姿になっていました。何時間も骨を折り、やっとのことで先ほど話したものを発見したのです — 鎖のついた時計、財布、輪のことです。粗い羊皮紙に包んでありました。一緒にまとめて結えていたガットをモーガンが切ると、中から出てきたのは教授の持ち物でした。涙がとめどなく溢れました。ですが、その羊皮紙の上に、黒い封印の恐ろしい文字が現れているのをみて、静かな恐怖に私は凍り付きました。その時初めて、故人となった雇い主の身に降り掛かった恐ろしいう運命について判った気がしたのです。

一つ付け加えるべきなのは、グレッグ教授の弁護士が事件についての私の説明をおとぎ話扱いにして、目の前に文書を見せつけても一顧だにしなかったことです。公に報道された、グレッグ教授は溺死して、遺体は今では広い海の中に違いない、といった結論はこの人のせいですわ。

ラリー嬢は話を止め、何か物を問う風にフィリップス氏を見た。フィリップス氏はフィリップス氏で、空想の世界に深く沈みこんで、目を上げた時には広場は夕暮れの喧噪に包まれていた。ディナーに集いする男女が急ぎ、ミュージックホールには群衆が包囲網を敷いていた。現実生活の騒音も圧迫感も全てが非現実的で幻のように見えた。一度目覚めた後再び見る朝の夢のように。

[訳注]
フィリップスは感銘を受け、知り合いの学者に紹介しようといいだしますが、ラリーと名乗る女性は適当な口実を言ってその場から消えます。彼女が探しているという兄は、作品中何度も言及される「眼鏡の若い男」であり、この女性は次に「白い粉薬の話」Novel of the White Powderに現れます。
[訳注終わり]