愛鷹山との出会い−越前岳 

 

(1999/10/2、静岡県富士市・裾野市)


愛鷹山(あしたか山)、この山の名を知ったのは多分小学生か中学生の頃だろうか・・。というのはその頃読んだ井上靖の小説「あすなろ物語」の中にあしたか山が出てくる箇所があるからだった。

小学校から中学・高校にかけて、運動の苦手だった私は体を動かすよりもむしろ本や地図、音楽などのほうが好きで、本もその内容を理解する、しないとは別に手にとること自体が楽しかったと思う。その中の一冊に井上靖の「あすなろ物語」があったのだ。

小説の中に一遍の詩があった。主人公の少年が幼心ながら惹かれた女の子。その子が住んでいる場所があしたか山で、少年は彼女への想いを「(憧れの君が)あしたか山の麓に住まう・・」といった詩に託した、そんな箇所があったのだ。

その山が沼津市の北、富士山の山麓にある愛鷹山であると知ったのは月日がながれ社会人になりその山のすぐ麓に通いだしてからだった。私の就職した会社は静岡県の三島市に工場があり週に何度かはそこに通う。工場の窓から北に大きく居並ぶ山こそがあしたか山(愛鷹山)だった。

遥か昔に井上靖の小説を読んで覚えた山が実際に目の前にある。山を見ながら私は「あすなろ物語」の内容を思い出せぬかおぼろげな記憶を何度も辿ろうとした。物語は全く思い出せない。ただ自分がその本を結構愛読していて、風邪などで学校を休み床に伏せた時など、やや回復すると本棚から取り出してきたいくつかの本の中にその小説があった事を思い出した。多感な少年期に胸をときめかしながら読んだ小説だったような記憶が浮かびあがってきた。

あすなろ山、もとい、あしたか山。是非一度登ってみよう・・。

* * * *

早朝の東名高速は快調で横浜からあっという間に御殿場ICに出た。コンビニで昼食を仕入れて須山方面へ。富士を左手に見ながら行けば前方に高まりを見せるのが愛鷹山塊であろう。思ったよりも大きく立派でしかもその頂稜部は雲の中だ。天気予報では今日はそこそこ良い天気のはずだ。林道に入り愛鷹神社前に車を止め身支度して歩き出す。午前7:55。入山届のポストがあり無記入で通り過ぎるのにも気がひけた。ポストの中に数十枚束ねてあった入山届カードは結構分厚い紙を使用しているにもかかわらず、山の湿気を十分含んでいるようで、ボールペンをあてるとペン先の跡ばかり出来るが肝心のインクは乗りにくいようだ。

(雪のない富士は画竜点睛に欠ける。
雲と目線が同じ高さだった。)

登り始めはゆるやかな斜面で大きく成長した杉の植林帯の中を進む。森閑としており思ったよりも重厚な感じがあたりに漂うのは予想外だった。しばらくいくと枯沢の上部となりすぐに左手にトラバースして登って行く。植林が雑木林に変わり始めると空いた樹間から青空が覗き始め稜線が近そうだ。見通しが利きはじめると前方に愛鷹山荘が見えた。水場を通りすぎ民家のような玄関フェンスをあけ山荘の敷地に入ってみる。玄関フェンスもさる事ながら中もまるで民家の居間のように暖かみが漂っている。薪も沢山あり小さいが清潔な小屋だ。冬の日だまり、このような部屋で炬燵に当たりながら蜜柑でも食べのんびりするとまるで農家の軒先に居るような気分がするのだろう・・。

小屋の裏手を一登りすると樹林が途切れて午前8:25、稜線に出た。愛鷹山塊の主峰・越前岳から東へ派生する尾根の末端部近くに出た訳だ。樹林越しに富士が立っている。冠雪していないその様は何となく富士らしさに欠けるような気もする。単眼鏡を取り出して覗いてみると剣ケ峰のレーダードームが大きく見えた。

ここからは緩い登りがだらだらと越前岳の頂上まで続いていく。ややえぐれた滑りやすそうな赤土は愛鷹山系が古い火山であるという証だろうか。高度を上げていくとカラマツとブナの尾根となりガレの縁なども進む。一定の斜度が続くがやや緩むと小さな台地となり「富士見台」とある。名の通り富士山を至近距離から思う存分眺められるポイントだ。

樹林が徐々に矮小になってきて頂上近しの感がある。傾斜がなくなり平坦な潅木の中を進むとぽっかり抜け出し午前10:05、愛鷹山系の最高峰・越前岳1501mの山頂だ。

山頂に立つと途端に西側から湿ったガスがビュンビュンと吹き付けてきた。期待していた富士の大展望は全く得られない。天気が心配で早く無線をしなくては。機材をセットする。これは雲が移動しているのかもしれない。そういえば会社の窓から愛鷹山を眺めていると裾野部分は晴れているのに山頂部分だけ雲に隠れている事がよくある。今、まさにそんな感じなのだろうか・・。山頂でアマチュア無線(50MHZ)の運用を始める。廻るように吹いてくる風に辟易してか山頂に登りついても長居する人はいないようだ。無線のアンテナが吹き流しのようにぐるぐる廻ってしまう程の風でそのせいか電波が強く入感したり急に弱くなったりする。しばらくすると十里木方面から一人登山者が上がってきた。手に釣竿ケースを手にしている。勿論中は釣竿ではなくアマチュア無線のアンテナに違いない。JG2CDW/松原さんだな、とピンと来る。松原さんは地元富士市の住人で年に何十回もこの山に登ってアマチュア無線をオンエアしていることで東京・神奈川近郊の50メガマンの間ではあまねく知れわたっている。勿論私も何度も交信をした事がある。彼は私のアンテナを一瞥して少し離れたところに陣取っ ては無線の用意を始める。アンテナから見るといつもの50メガではなく144メガを運用するようだ。

(潅木がガスに揺れる。視界ゼロ)

雨とも霧ともつかぬ無数の細かい水滴が風の中に混じりはじめアンテナから滴が垂れた。それをきっかけに無線機の電源を落し松原さんに挨拶がてら陣中見舞いに行く。初めて会う御本人は果たして無線機を通して聞き馴れたのと同じ声だった。今年は色々な山に浮気をして越前岳には余り来ていないという。といっても勿論すでに2ケタは登っているのだからまるでアクティビティが違う。色々と話し込む。気さくな話し方のおくに山も無線も20年というキャリアが感じられる。勿論私など赤子同然である。しばし楽しい会話をした後、挨拶をして山頂を辞す事にする。「この山にはしょっちゅう来ているから又遊びにおいでよ・・」

AM11:50,気さくなOMに別れを告げここから呼子岳・位牌岳へと続く尾根コースに足を向ける。愛鷹山縦走のメインコースだ。道はかなり高度を落していく。部分的に段差のある岩などもあり吹き付ける水滴によって滑りやすいので注意を要する。丁度南北に伸びる稜線を南に向かって歩くのだが、右手の、西から相変わらず猛烈に吹いてくる。視界も効かず自分がどんなところに居るのか全く分らないが何となく廻りは山深そうな気がする。帽子を飛ばされぬよう押さえて歩けば緩い上下なども交えながら、じきに呼子岳(1315m)の山頂だった。PM12:40。潅木に囲まれた小さな山頂ではこの風と霧の中にもかかわらず30歳前後だろうか女性1人と男性2人の3人連れのパーティがストーブでパスタなどを茹でている。確かに少し屈むと風は多少は潅木に遮られ落ち着いた気分となる。水も使うし茹でるのにも時間がかかるパスタは山で作った事はないけど茹で上がった麺にホワイトソースはなかなか美味そうではある・・。女性は調理を男性軍に任せているのか一人ビニールシートの上に座り気楽そうだ。座ったシートの裾が風でパタパタめくれている。こちらは1200MHZで一局交信を果たしコンビニで買ったお握 りをほおばる。PM13:15、瓶のワインまで登場して楽しそうなパーティに挨拶をして割石峠に続く稜線に戻った。

滑りやすい赤土の道が続き注意をするがズルリと見事に滑ってしまう。靴のフリクションが全く効かずに滑ったという感じだ。もう7年近く使っているこのナイロンの軽登山靴もだいぶへたってきたのだろう・・。10分ほどで着いた割石峠には読んで字のごとく大きな岩が真っ二つに裂けたような割れ目があり、僅かな隙間のそこからは晴れた日には駿河湾が遠望出来るという。今日はその展望の代わりに、細くなったその割れ目を上昇気流さながら巻き上げるように下からガスが吹き上げている。

ここから先縦走路は鋸岳の難所を経て位牌岳へと続いているが数年前の台風により縦走路は通行困難につき縦走お断りとの立て札がある。しかし位牌岳は愛鷹山系のもう一つの雄という感じで是非一度は行ってみたいピークだ。コースがいづれ整備されるのだろうか。

割石峠で稜線を離れ沢の源頭部を下るコースとなる。稜線を離れるととたんに風がおさまる。動の尾根道から一転、静の沢道となる。ほっと一息ついて淡々と下りはじめる。大きな石がゴロゴロしておりどこでもコースどりが出来そうだが一番歩きやすそうな箇所に白いペイントが点々と施してある。赤や黄色は見慣れたペイント印だが白とは珍しい。が、このような曇った天候でも思ったよりも認識できやすい色であるのは意外だ。そういえば入山時からコース上のペイントマークは頻繁に見かけている。一貫して白のペイント。地元の山岳会などによる手入れがしっかりしているのかもしれない。

短いものと思っていたが思ったよりも長い沢道が続く。しばらく歩くと薄日が漏れてきてガスとも雲とも判然としなかった山からようやく下りてきたという感じになる。靴は相変わらずよく滑るしコースには大きな石が堆積してなかなか歩きづらい。枯れた沢で水は全く見かけない。大きな一本杉を過ぎるとようやく荒れた林道の上部となりあとは道なりに歩き広くなった河原を横切ればすぐに車を止めた愛鷹神社に戻ってきた。PM14:55。


富士山の前衛にポツンと単独であるだけなので小さな山だろうと想像していた愛鷹山だが、今日の行程とて全体の約1/3を歩いたに過ぎない。確かに最高峰はカバーしたのだが、鋸岳・位牌岳から愛鷹山(という1188mピークが別途存在する)へ続く南半分と、大岳・須津方面の西側が残っている。思ったよりもスケールが大きいのだ。歩き残したこれらの部分にも又いつか行ってみよう。

* * * *


山から戻ってきてどうしてももう一度「あすなろ物語」を読んでみたくなった。文庫本を買ってくる。パラパラと頁をめくりくだんの詩を探してみる。

寒月ガカカレバ
君ヲシヌブカナ
アシタカヤマノ
フモトニ住マウ

愛鷹山の名を私に覚えさせてくれていたのは作中に出てくるこの恋歌であった。物語は主人公・鮎太の生い立ちに沿った幾つかの小さな話からなり、毎回彼の心の成長に大きな影響を与える女性や仲間が出てくる。鮎太は彼らとのかかわりを通じて自我に目覚めていく。その目覚め方の鮮烈さ、こまやかさに自分のそのころの姿と重ね合わそうとしてみた。自分はどうだったのだろう・・。彼のようにこんな歌に託せるような清潔で透明な感受性が自分にあったかのだろうか・・。小学生のころはもちろん自我について考えることなどなかったであろう。中学生の頃は・・、17,8歳の頃は・・。。そうだ、あった。確かにあった。ささやかなことに胸を傷め、そして喜ぶ。自分とは何だろうと考え、悩む。昇る朝日に胸を躍らし、沈み行く夕日に心を揺るがす。そんな微妙な心の動き。それはもうこの歳の私には望むべくもない繊細さ。そして自分の中でとても大切だった、今でも大切な時期。人間は年齢を重ねるに連れて確実に心のアンテナが錆び感性が鈍っていくものなのかもしれない。年齢を経て面の皮が厚くなっていくのだろう。それを成長と呼ぶか退化と呼ぶか、よくわからないけど。ただこの一 冊の本を手にとって懐かしい少年時代の息遣いが明確に感じられて、懐かしく、嬉しかった。

少年時代の愛鷹山との出会いが、期せずして今こうしてそのころの自分との再開を果たしてくれた。

(終わり)
(コース:愛鷹神社7:55−愛鷹山荘8:25−越前岳・アマチュア無線10:05/11:50−呼子岳・アマチュア無線12:40/13:15−割石峠13:15/13:25−大杉14:15−愛鷹神社14:55)

アマチュア無線運用の記録

越前岳 1501m
静岡県富士市
50MHzSSB、18局交信、最長距離交信:神戸市灘区
設備:自作SSB/CWトランシーバ(4W)+デルタループ
愛鷹山塊の最高峰。山頂からの展望は晴れていれば素晴らしいはずだ。50メガではCQを出していると関西からも声がかかった。(神戸市、大阪府豊能郡) 関東・関西ともにカバーできるようだが北関東方面は富士山が影になり上手くないかもしれない。
呼子岳 1315m
静岡県裾野市
1200MHzFM、1局交信・千葉県習志野市
ハンディ機(0.2W)+付属ホイップ
越前岳の南に位置するピーク。私は裾野市のポイントで運用した。細長い山頂は潅木に囲まれ狭苦しい。貧弱な設備でCQを出していると習志野市から強力に呼ばれた(59-59)。 でもその一局だけだった。1200MHzは皆ビックガンなのだろうが局数は少ないのだろうか。運用経験がほとんどなく特色・クセがつかめない。
Copyright:7M3LKF,Y.Zushi 1999/11/20