千曲川源流から甲武信岳へ、奥秩父主脈縦走の旅

(1994/10/8.9、長野県南佐久郡、山梨県東山梨郡)


1・千曲川から甲武信岳へ :  

歩き始めから深い林相に圧倒された。白樺が密生しており木漏れ日も届かない。ゴウーッという千曲川の流れの音以外は全く耳に入らない。踏み跡はしっかりとしており、指導標も随所にあり路を外す心配はない。紅葉は三分くらいか、深い林のその様は目眩を誘う。

去年の11月に雲取山から飛竜まで歩き、そこから初めて見た奥秩父の深い山々は素晴らしい眺めであった。山が、尾根が、谷がどこまでもうねるように連なっており、その果てがなかった。山の絨毯であった。あの奥まで行ってみたい、という強い気持ちが以来心の中に大きかった。

加えて山の古典書ともいうべき田部重治著の「日本アルプスと秩父巡礼(山と渓谷)」を読んでから奥秩父への憧憬は深まった。重厚な原生林の中をさ迷うように歩いた先達者。梓山、十文字峠、甲信国境・・、未知の地名がいつしか憧れとともに頭の中に残っていた。彼の歩いた大正の時代からもう70年以上、しかしどこかにまだ深い林が、森があるのではないか。
(迸る清流と深い森。
奥秩父は信濃川の源流でもあった)

広い奥秩父であるが甲州、武州、信州、三国の境をなす甲武信岳にとりわけ心魅かれた。奥秩父の最深部に位置しているし、何よりも、こぶし、という名前が素敵だ。奥秩父らしさが最も感じられるのではないか。

そこへのコースはいろいろ考えた末に信州側から千曲川の源流に沿って登り甲武信岳に至るコースを選んだ。日本一長い信濃川、その源流が甲武信岳北面なのだ。

横浜を始発電車で発ったが野辺山からタクシー相乗りで梓山の奥、毛木平まで入ったらもう正午が近かった。信濃の国は遠い。田部重治が南佐久の音楽、優越な自然の色彩と称えた梓山の集落も70年経った今は高原レタスの栽培にいそしむ平凡な山里に思え、時の流れは確実だった。 

さすがに日本一の川の最上流にふさわしく、千曲川の流れは早く、激しい。水量も多い。そして負けずと圧巻なのはそんな激しい瀬音をも飲み込んでしまう森林の深さだった。それは田部重治の時代から、それよりもはるか昔から続く太古の森だった。

一歩づつ確実に山の懐に入っていく。一歩づつ確実に人里から離れ、森の精が棲む世界へと進む。この感覚。一歩づつ確実に喜びが深まり、期待が高まっていく。山を歩き始めるまで、こんな高揚感はちょっと他で味わった事はなかった。高揚感に更に味わうために歩く。鳥肌がたってくる。

千曲側源流地点から稜線まではほんの一登りであった。甲武信岳山頂直下で森林が途切れガレ場の急登となった。広いとは言えない山頂にはケルンが高い。雲が流れ展望はあいにくだ。しかしどうだろう、この充実感は。深い林の果てに登りついたこの頂は三国の境を成している。まさに奥秩父のど真ん中だ。居合わせた他の登山者も皆満足気である。標高2460m、さすがに風は冷たい。
(雲の中の充実感。
甲武信の山頂)

山頂でアマチュァ無線の機材を取り出してみる。小出力でも栃木、群馬などの局と強力に交信が出来る。一局、聞き覚えのある局が私を呼んできた。同じ横浜市内のO氏だった。独りっきりの山頂での知り合い局との交信はなにやら励まされたような気がし、嬉しかった。

1時間近く無線を楽しんだあと、山頂下の甲武信小屋へ向かう。再び樹林は深い。人々のざわめきと夕食の支度のいい匂いが漂ってきたと思ったらほの暗い林間に甲武信小屋が現れた。ビールを買い、そそくさとテントを張る。暗くなるにもかかわらず食事の用意もせずに暫く横たわり奥秩父の空気を吸った。小屋からどこかのパーティの山の歌の合唱が聞こえてくる。楽しそうで、暖かい歌声。山にいる幸福が私のテントを包んだ。


2・奥秩父主脈縦走路 :

テントの薄い生地を打つ雨音で目が醒める。まだ朝1時だ。どうか本降りにならぬよう祈りながらシュラフの中で丸くなる。4時半、薄曇にホッとして暖かいレモンティーをいれまだ薄暗い林間を眺める。テント一式を撤収。歩き始めは体が山慣れせずに少し重い感じがする。

昨日同様に苔むした登山道に密度の高い樹林。重厚な山容だ。破風山の稜線にかけて、甲州側から雲がするすると流れてきて稜線を越えていく。蛸の足のようにしなやかに雲が尾根にまとわりつき流れていく。無理のない雲の動きに圧倒される。すごい滝雲、と横に居合わせた人がつぶやく。確かに滝のように流れていく。しとやかな、生き物のような雲。そして樹林は相変わらず深い。

破風山への登りは露岩帯の中一直線でなかなか辛い。その急斜面はなんとなく南アルプスの農鳥小屋から西農鳥岳への登りに近い雰囲気だ。しかし展望もぐんぐん広がる。晴天とはいえないが良い天気だ。振り返ると木賊山の後ろに甲武信岳が立っている。国師岳が大きい。王者の貫禄で座っている。五丈岩を探したが金峰山は国師の背後なのか解らなかった。八ヶ岳も見える。富士も勿論良く見える。冠雪はまだのようだ。七月に登った北岳から白根三山はぼんやりとそれと判る。武州側は谷一杯を雲が埋め尽くしている。

展望にすっかり満足し、いいなぁ、いいなぁと何度も独り口にする。雁坂嶺で大休止、再びアマチュア無線を楽しむ。愛知県の局がいきなり呼んできてびっくりする。周囲を見回せば展望が開け山々は半分狐色。この感動をなんとか交信相手にも伝えたいと思いついつい長話になる。 

雁坂峠はなんとなく大菩薩峠を思わせるような明るく小広いカヤトの原だ。縦走路はこのまままっすぐと飛竜から雲取山まで続いている。そのコースは次回にしようと思う。そこを飛竜までたどれば奥多摩駅から雲取山を経て甲武信岳まで歩いた事になるのだ。そこまであと一回か二回、長い国境尾根だが次回山行が楽しみだ。 

春のように暖かい陽気の中、シャツ一枚で新地平への下山コースに入る。しばらくはカヤトの中のつづらおれの急坂だが沢の源頭あたりから歩きやすい林間の道となった。静かで誰にも会わない。気持ちよく歩いていたが、突然大規模な工事現場に出くわし、楽しかった山行気分はその時点で急に萎え、現実の世界に戻されてしまった。
(新地平で
バスを待つ)

こんな山奥になぜ工事が必要なのか解らないが国道の雁坂峠トンネル工事に関係しているのだろうか?開発、という名の自然破壊? こんな山奥まで車が将来入ってくるのだろうか? そこまでして一体何を得るのか? 太古の昔から育ってきたであろうあの深い奥秩父の原生林はいつまでも手つかずのままでいて欲しい、と強く思った。渓谷、深い樹林、そして展望。ぞくぞくとした二日間の最後にしては寂しい幕切れだった。靴底の舗装道路の感触が妙に現実感を伴った。 

バス迄にはまだ一時間近くあると、新地平のバス停前の食料品屋で菓子パンなどを買い求めているといきなりバスが通り過ぎた。店の主と二人して「アーッ」と大声を出し慌てて店を飛び出したが後の祭。臨時バスが出たのだ。残念だったがこんな所で都会生活のペースを出すのは馬鹿らしいと思い直し、ベンチの上に独り座った。バイクや車がよく通り過ぎるが、去ってしまうと静かな山の集落だった。

(終り)



(コースと標高 : 1994/10/8 毛木平 11:30 千曲川源流 13:50/14:10 甲武信岳 15:30/16:15 甲武信小屋 16:30、 94/10/9 甲武信小屋 6:30 笹平避難小屋 7:15/7:25 西破風山 8:30 雁坂嶺 9:20/ 11:00 雁坂峠 11:20 新地平 13:55、甲武信岳 2475m、雁坂嶺2289.2m) 


アマチュア無線運用の記録

甲武信岳

長野県南佐久郡川上村、2475m
1994/10/8 移動者:7M3LKF
PICO6(1W)
ダイポール
11局交信(50MHzSSB)
最長距離交信:栃木県鹿沼市、JR1MCW/1
やや細長くさして広くない山頂にはケルンが立ち樹木は余り無い。奥秩父主脈縦走路の最奥部にあり名前通り甲州・武州・信州の三国の境をなす。が、標高はすぐ北に位置する三宝山の方が高く、最奥部とはいえ決して突出したピークではない。

憧れて登った山なので山頂では充実感を十分に味わった。

(短いガレ場の急登で登りついた紅葉の山頂。最奥部に位置するこのピークは奥秩父のヘソだ。)

雁坂嶺

山梨県東山梨郡、2289.2m
1994/10/9 移動者:7M3LKF
PICO6(1W)
ダイポール
18局交信(50MHzSSB)
最長距離交信:愛知県安城市、JA2JKE

甲武信岳から雁坂峠へ続く奥秩父主脈縦走路の途中のピーク。甲武信から来れば似たようなピークのアップダウンを何度かこなした後のピークなので特に目立った山頂という印象も無い。無線のロケは甲武信岳程引っ込んでいないので甲武信よりは多少良いかもしれない。


Copyright : 7M3LKF,1997/12/23