北に遥かな山 飯豊連峰 

 山形県西置賜郡小国町、福島県喜多方市 他 、2018年8月11日-13日


飯豊連峰の名前を始めて知ったのはいつだろう。学生の頃から乗っていた中型バイクだが、社会人になり200CCの軽量なオフロードバイクを手に入れ、これでの林道キャンプツーリングというのにはしばらくはまった時期があった。あるバイク雑誌に残雪の鳥海山をバックにバイクで走っていると言う写真があり、その秀麗な姿に憧れた。105mmあたりの中望遠レンズで荷物を満載した後姿の単車にフォーカスをあて背景の鳥海山を綺麗に浮かび上がらせたと言う良くある手法の写真とはいえ、その時の強い印象は今でも強く残っている。遠いけれど、行ってみたい。自分にとっての東北の山はそんな形での邂逅となった。今思えば若かったから長い行程にも苦が無かったのか、いや鳥海山への想いがそれほど強かったのか、くだんのバイク雑誌に掲載されていたルートをなぞるだけとはいえ、500,600キロかなたの北の地へのバイクの単独ツーリングは期待と不安に満ち溢れたアドベンチャーでもあった。雑誌のルートは猪苗代湖まで北上してそこから飯豊連峰の末端を山越えし、小国から三面、そして朝日連峰西部の朝日スーパー林道を経由して酒田にぬける、そんなコースだった。酒田に至り肝心の鳥海山山麓を走る日は雨でその姿すら見ることは出来なかったのだが、飯豊の山越え、そして果てしなく長かった朝日スーパー林道は強烈な記憶を残した。飯豊は、当時は多分読み方も知らなかったのだろう、「いいとよ」、と勝手に読んでいたと思う。九十九折れの細い林道に、深い谷にこだまする単気筒のリズミカルな音だけを聞きながら、峠はまだか、と、いまだ尽きぬ山肌に焦りを感じてアクセルを握っていた、それが飯豊の印象だった。

深田久弥の著作を通じて、不安な思いをさせてくれたあの深山が「いいで」と読む、と言うことは知ったが、登山の対象としての飯豊はそのアクセスの悪さとハードな行程からなかなかふんぎりがつかぬピークでもあった。また吾妻山や磐梯山から見た飯豊のその膨大な塊に、上越国境の山スキーの際に北方に屏風のように立つ白銀の壁に、畏れを感じているだけでなかなか行こうと言う気持ちは高まらなかった。古くは修験道の山、そして近世はその純白で崇高な山姿ゆえ山麓の会津では豊作豊穣を願う、神としての信仰の山。そんな飯豊は遠い山だったが、一方で深くて大きい山ゆえに、今のうちに登っておかないとそのうちに登る気力もなくなるのではないか、という焦りもあり、2017年の夏山縦走が終わってからすぐに来年は飯豊を目指すことを決めて、一年間気持ちを高めて登高に備えてきた。山行日が近づくにつれ、期待にもましてじりじりとした不安感が大きかった。北に在る、遥かな山を目指すのだ。そう、それは、30年前と全く同じ気持ちだった。

8月10日 
夜23時10分の東京駅発米沢・山形行きの夜行バスに乗る。鍛冶橋駐車場は安いツアーバス専門のターミナルで狭い敷地に様々な行き先のバスが待つ。お盆に入る前夜の今日はまるで中国のバスターミナルのような喧騒で、自分のバスを探すのが難しい。やっと乗り込んで汗だくだ。東北道が宇都宮付近で渋滞との事、運転手は常磐道に迂回していくという。

8月11日
朝5時、迂回も奏功したのか予定通り米沢駅に到着。子供の帰郷を待つのだろうか、初老の女性がバスに駆け寄った。下り立ったザック姿は自分以外に2名、十中八九かれらも飯豊だろう。米沢はJI1TLL局(Sさん)と過去2度、月山、西吾妻、東吾妻の山スキーの為に訪れ、市内もそこそこ観光している。駅前の風景も記憶に新しい。

米沢盆地から唸りを上げて分水嶺を越えたディーゼル単行車は日本海に注ぐ荒川沿いを軽やかにに下って行く。米坂線に乗ったのは初めてだった。一時間以上揺られて小国駅(山形県西置賜郡小国町)へ。もう30年前のツーリングでは飯豊を下りてそのまま朝日に入る際に横断した唯一の集落だった。とはいえその駅には記憶は無かった。ここからマイクロバスで登山口である飯豊山荘まで。流石にアクセスが長い。同行は案の定夜行バスを共に下り立った2名のみ。1人は60歳近い。静岡から来たとのことで飯豊は5回目、今日はえぶり差岳を目指すと言う。もう1人は江戸川区から来たと言うまだ30歳前だろうか寡黙な青年だ。こちらはほぼ自分と同じ行程を行くと言う。?差岳を目指す男性が笑いながら「飯豊をわざわざこんな裏から、縦走で歩くなんてお互い中毒だね」と言う。東京から一晩かけ更にローカル線に揺られて四周を深い山に囲まれた地に降り立つ、全く、その通りだ。

小降りの雨の中、飯豊山荘に着く。9時10分。定刻だが、この時間から稜線を目指さなくてはいけないのはいささか辛いものがある。余裕を持って飯豊山荘に泊まり翌日の早朝から登る、というのが望ましいのかもしれない。ここから標高差1500mの、ただ登るだけの急登が待っているのだ。

飯豊山荘から飯豊の主稜線に登りつくには主に3ルート。最短の石転沢は雪渓でこの時期は落石多発、沢の上部は45度の急傾斜で夏でもアイゼンとピッケル必要という。これを避けるように北側に梶川尾根、そしてもう一本北側に丸森尾根と二本の尾根を選べる。これ以外には飯豊本山に直登するダイクラ尾根。これは峻険な岩場の続く長大な難路で当然山と高原地図上では破線路だ。いずれにせよ短い距離で標高差1500m近く登るので、どれも楽ではない。

30歳前の青年は今日は門内小屋という。自分と同じだ。彼は門内小屋近くまで効率よく登る梶川尾根を選ぶ。自分はその一本北側、丸森尾根を予定している。梶川尾根よりコースタイムが30分程度短いと言うそれだけの理由だが、余り大差はないのだろう。

雨は上がったが目指す稜線は雲に隠れたままだ。ゴールの見えないこれからの行程に思わずため息が出る。バスの三人は思い思いにそれぞれの尾根に向けて散って行く。えぶり差を目指す静岡の男性は当然ながら丸森尾根になる。入山届けをポストに入れ、彼に遅れること5分、靴紐を整えて、出発だ。

飯豊山荘は静かな登山ベースだった いきなりの急登に絞られる。丸森尾根は人が
あまり歩いていないルートのようだった。
森林限界を超えてもまだ先は見えなかった

自分の足の上下幅に合わない段差の急登が果てぬこと無く続く。あっという間に首にかけていたタオルが汗で重くなる。一気に標高を稼ぐので見る見る目の下の飯豊山荘の谷が小さくなる。いきなりこの登りは辛い。テント・シュラフ一式と3日分の食料、そして2リットルの水がずしりと肩に重い。1時間歩いて10分休憩、といういつものパターンでペースを落としながら登ることを心がける。

最初の一本は海抜765m点でたてる。1時間で標高差350mか、きついわけだ。次は水場のある1077m点を目指していくだけだ。余り人の入るコースではないのか、道の状態はやや荒れ気味で時折高度感のあるザレも出る。無理なステップ幅の登りが多いせいか早くも足に疲れを覚える。まだまだ序の口なのだが。1077m点で先行していた静岡の男性に追いつく。二人とも放電気味で言葉も少ない。ここまで2時間、エアリアのコースタイムどおりだ。夫婦清水の水場は尾根から1分ほど。チョロチョロとややぬるいがありがたく頂く。

再びトボトボ登って行く。1時間歩いて10分休む、というパターンも守るのが辛くなってきた。幸いに曇り気味で陽射しがないのでありがたい。これで陽射しがあったら、陽に焼かれてバテた前月の雨飾山よりも、さらにくたびれること確実だろう。立ち止まって塩分補給キャンディを口にする。体が言うことを聞かなくなり道のど真ん中にザックを振り落とす。背中からあがる湯気が露天風呂のごとし。行動食のお握りを口にするが噛んでも噛んでも喉を通らない。喉がカラカラなのだ。水で流し込む。

丸森峰で森林限界を抜けた。13時45分。地味に4時間以上経っている。腕時計の高度表示は1560m。稜線まで残すところまだ標高差300mか。・・・絞られる。

展望は広がったが相変わらず辛い登りが続く。随所に雪渓を残す対面の梶川尾根が巨大で早くも雄大な飯豊の稜線の一角が現れた。しかしその上部は深いガスに隠れておりいまだ果て無しという感がある。目の前を先行する静岡の男性まで、なかなか距離を詰めることが出来ない。

ガレ場の登りが続き、足が滑ってとめることが出来ずそのままゴロリと倒れてしまう。ザックが重くて手足を動かしても体勢が戻らない。ひっくり返った蛙のようにじたばたする。

たまらないな。いつまで登るのだろう。ガスが濃く上が見えないので一歩一歩行くしかない。汗が滴り落ちて白い岩が滲む。上から「稜線ですよ」と声がかかった。静岡の男性が待っていた。海抜1800m、地神北峰とある。稜線だ。やっと来た。ザックを落としてへたりこむ。14時45分か。夫婦清水から3時間5分かかったことになる。エアリアのコースタイムは2時間半だからここで大きくビハインドとなった。しかし、飯豊の主稜線までこうして何とか登ることができたのだ。何も言うことはない。

えぶり差を目指す静岡の男性はここから北上し今晩は頼母木小屋という。自分はここから南下して門内小屋だ。「山中毒」とは彼が言った言葉だが、確かにこんなルートを辿るとはお互い全くその通り。光岳から十枚山、高ドッキョなど、お互い、登った南ア南部や安倍奥の山の話があう男性であった。北に向かう彼と軽く会釈と握手をかわし、稜線を南へ向かう。

飯豊の主稜線になりさすがに強引な登りはなくなったが、細かいアップダウンが効いて来る。こんな調子で門内小屋まで着くのだろうか、ヘツデン行動は避けたいと言う思いがある。地神山1850mはそのまま通過。ヤマランポイントになる2.5万分の1地形図記載ピークなのでハンディ機で一声出せればよいのだがとてもそんな気力も湧かない。地形図を見る。ここから50m下って今度は100m登る、すると梶川尾根が合流するピークだ。ため息が出る。稜線も楽ではない。

梶川尾根をあわせ小ピークを二つ超えると足元に「水場へ」の看板を見た。門内小屋の水場標識だろう。ふと頭を上げると掘っ立て小屋のような板張り小屋が稜線際に立っている。16:20分、小屋に着いたのだ。小屋まで上ってから水場へ行くのも嫌なのでザックを放り捨て水場へ向かった。ちょろちょろと流れる冷たい水。ペットボトルに汲んでは果てしなく呑む。水がこんなに美味かったのか。

テント場は立派な避難小屋の下の草地にあった。先行のテントは4張り。谷の向こうに北股岳を望む絶好のロケーションだった。板張りの掘っ立て小屋と思ったのは管理人小屋で、これも近づけば頑丈な小屋だった。豪雪の山・飯豊の小屋が粗末なわけがない。小屋のビールは350が700円、500が1000円と、破格の値段だがこの苦しいボッカ代込みと思えば仕方ない。ありがたく500を頂く。門内小屋を覗いてみる。2階建ての立派な避難小屋で、夕餉の支度の湯気が溢れてるその中を今朝の青年を探してみるが居なかった。

「ブロッケンだ!」稜線で数人の登山者が騒がしいので慌てて尾根に上がる。北股岳の深い谷を前にした稜線を蜘蛛が這うように超えてきた滝雲に虹色の後光が差し、その中に自分の影が浮かんでいた。手を上げると上げると相手も手を上げる。長くて辛い初日の行程を無事の終えたご褒美だろうか、夢を見ている気分だった。

まだ続く登り。来し方を振り返ると辿ってきた
道が長かった
ようやく門内小屋が見えてきた。
ここまで、遠かった
テントを張り長い一日を終えた

8月12日

4時過ぎに東の空が赤く燃えた。フライを明けると夜露がジッパーから手に落ちた。冷たい。明け行く夜空には満天の星も明かりの中に飲み込んで行くが雲ひとつ無く好天の朝だ。ヘツデンを灯け手際よくラーメンを作る。

今日のルートはまさに飯豊の中心部を行く訳で、主稜線を南下し御西岳から飯豊の最高峰・大日岳・2128mをピストン、そして縦走路に戻り念願の主峰、飯豊本山・2105mを踏み、飯豊山神社直下の頂上小屋でテント。長い行程に期待と不安が大きい。

掛け声と共に重いザックを背負うとやる気が出てきた。5:20だ。笹原の心地よい縦走路をゆっくりと登って行く。今日はまずは目前の北股岳・2025mをこなさなくてはいけない。ぐっと前方に突き上げるような盛り上がりだ。朝の心地よい風が体を包む。右手に新発田市・新潟市方面の展望が広がるが、自分の立っているこの稜線がまっすぐの屏風のような影を作り、その先にぽっかりと朝日を浴びた陸地とその奥に日本海が浮かび上がっている。
水平線と雲の合間、その分明は定かでなかった。ヒュルヒュルと風が吹く稜線。ひと気も無く寂しいがこの気ままな気分が単独行の良さともいえる。足の進むまま一旦鞍部まで降りるがさて250m近い登りが待っている。早くも先が思いやられる気がする。一歩一歩確実に登るしかない。

北股岳(海抜2025m)、6:45。ここへ来て初めて遥か前方に広がる雄大な飯豊の全容に触れることが出来た。最高峰・大日岳はどっしりとした重量感をみせて堂々と立っている。此れを右目の端に捕らえると飯豊本山は左目の端に映ることになるが山がでかすぎて首を動かさなくてはならない。かたや主峰の飯豊本山は綺麗な緩い直線の稜線の高まりの最高点で、すっきりとした優美な姿だ。北岳の山頂から目の前の右と左に甲斐駒と仙丈を捉えている、といったら分かりやすい、対照の妙がそこにあった。そして何よりも、遥かに、遠かった。予定では大日をピストンしてから飯豊本山に向かう予定だが。さて、長い。

北股岳の向こうに朝日が昇ってきた 雄大な越後平野を右手に臨む縦走路だった 北股岳がまだまだ遠い

アマチュア無線を開局。145メガFM。CQ一発で山形のお膝元は村上市から声がかかる。飯豊の山小屋と付き合いのある局のようで、飯豊ではどの小屋番も2mメインをいつも聞いている事になっているから何かあったらすぐにメインで波を出せば良いですよ、と有難い情報を頂いた。

梅花皮小屋への下りは標高差250m、ガレていて目のすぐ下にある小屋になかなか着かない。ステップを小刻みにして下る。ここで今日はじめて対向してきた登山者に会った。飯豊のメインルートとはいえここまで足を伸ばす人は少ないのかもしれない。窓を開け放し空気を入れ替えている小屋の横を通り過ぎる。小屋番が箒で小屋を掃いている。難所の石転沢ルートが左手から登ってきた。雪の備えをしてここを登ってくればルート的には短くて効率の良いコースなのだがここの為だけにヘルメットやアイゼンなどを持ってくる気にはなれなかった。

梅花皮小屋の水場は冷たく豊富で美味しい。ゴクゴク頂く。ためらわずに飽きるまで飲む。稜線にこんな美味しい水が出ているとは全く有難い。もうこれ以上飲めないというまで飲んでからペットボトルの水を入れ替えた。さてここから烏帽子岳まだまた250m登るのだ。大きなため息と共に登りに転ずる。一気に、突き上げるように高度を稼いで行く。背後の梅花皮小屋がみるみる小さくなっていく。大きく息をついて烏帽子岳山頂2018m。ここも地形図に示されるピークでヤマランポイントだがこの先の行程を考えると無線をする気にはなれない。相変わらず行きかう登山者は数えるほどで、まだ10人にも満たないだろう。ニッコウキスゲの咲く斜面は緑の笹に黄色いコントラストが目に鮮やかだ。小さな雪渓を左手に見ながらその上をトラバース気味に北に延びる尾根を乗っ越すと可愛い沼が見えた。足元に小さな蛙がぴピョンピョン跳ねている。稜線上に蛙が居るとはいかにも水の豊かな飯豊らしい。ここから雪渓を下に見ながら笹原を緩やかに下って行くがそれもそこまでで再び緩く上って行くのが見て取れる。稜線漫歩とは聞こえはよいが、実は地味に辛い。山の大きさをひしひしと感じる。最低鞍部1800メートルまで下がると再び御西小屋まで200mの登りが待っている。ゆるやかながら重量感のある登りが続く。登りに転じてスピードが落ちた。苦しい。なぜこんな辛い思いをしてのぼっているのか、よくわからない。歩いても風景が変わらない。此れが、飯豊だ。

前方にますます大日岳が大きくなってきた。存在感はかなりのものだが同時にそこへ至るルートの長大さが目に余った。本当にいけるのだろうか。目を転ずると今日のゴール、飯豊本山が近づいている。遠くから見れば単なる端正な尾根の高まりかと思ったピークは、こうして近づいて良く見ればそれは幾つもの谷から伸びてくる尾根、それらがまるで切磋琢磨して上に競りあがりやがて一つに収斂した、まさにその頂点がこの飯豊本山の山頂だと言うことが良く分かる。それは優美とも颯爽とも言える、実に気品のある山姿だった。

雪渓を左手眼下に見ながらの尾西小屋への登りは堪えた。ザックの重さが身にしみて足が言うことをきかない。ようやく登り付いた御西小屋。10:40だ。ペットボトルのドリンク500円の看板を見て思わず手が出た。

梅花皮小屋からは再び登りが待っている 縦走路が長い 稜線に池があるのも飯豊らしい ついに飯豊本山の全容を見た。
端正な高まりに憧れと意欲が湧いた

小屋の日陰に座り込んでペットボトルを開ける。炭酸が心地よく目がくらむ思いだ。小屋の周りには10人程度だろうか、三々五々休んでいる。小屋の裏手に座り汗をぬぐっていると向こうから昨日朝まで一緒だった青年がやってきた。思わずお互い大きく挨拶を交わす。「あぁ、お互いに無事歩いていますね。」聞けば彼は思ったより足が伸びて昨夜は門内小屋を通り過ぎて梅花皮小屋まで歩いたそうで、今まさに大日岳をピストンして戻ってきたと言う。さすがに若い。こちらは正直疲れて、正面の気高い姿を見せる大日岳を前にここから更に往復3時間40分の気力はもうなかった。

折角ここまで来たのに大日岳はいいのか、ともう一度自問自答してから、諦めることに後悔はなかった。間近でこの素晴らしい姿を見ることが出来て満足だった。休んでいると門内小屋のテント場で同じだった二人連れパーティも登りついてきた。彼らも放電してようで、さすがに大日への気力はなくなったと言う。ここから飯豊山頂までは緩いが登り一方で、下って上り返す必要がないと思うとほっとする。11:20再びザックを背負って登り出す。

トンボの飛び交う伸びやかな稜線を辿って行く。左手眼下にダイクラ尾根が峻険に北に伸びているのが見える。山頂手前に小ピークがありそれを登りきると超えると目の前に目指す飯豊本山があと一登りだった。

12:40、飯豊本山。海抜2105m。とうとう来た。念願の飯豊の山頂、振り返る飯豊北部の縦走路が長い。門内岳・北股岳から御西岳までの稜線が縦方向に重なり合い巨大な塊になっている。これを歩ききったのかと思うと感無量だった。61山目の百名山だ。ハンディ機を取り出して少し長めにアマチュア無線運用をする。深い山なのでQRPのVX-3では役不足かと思い5W 出せるアルインコDJ-S57を持ってきた。数々の山を共にしてきた頼れる相棒だ。いつものRH770をつないで2mFMでCQを出すと間髪置かずに呼ばれる。新潟・山形・福島の各局とのんびりと交信を楽しむ。やはり飯豊山はこれら山麓の方々にはやはり格別な山とのことで、特に福島では男子は飯豊に登ってこそ元服、という慣わしがあったと言う。

飯豊山神社と山頂小屋はほぼ水平移動に吊尾根上の気持ちよい稜線を進む。ここから急に登山者が増えた。今までの静けさが嘘のようだ。皆、福島県側からの川入や弥平四郎口からの最短ルートでここまで往復してくる、これが飯豊登山のメインルートなのだ。それでも大変ではあるが、お手軽に飯豊をピークハントするにはこのルートしかない。飯豊山頂小屋に隣接する飯豊山神社はコンクリートの耐雪構造だった。福島にとって飯豊信仰の総本山だ。このために新潟県・山形県を押しのけてこの稜線部分のみが福島県・喜多方市に属している。明治時代に遡る話という。

テント場は小屋から5分程度下がった小広い肩の様な原だった。すでに20張りは張られている。この数の多さは門内小屋とは大違いだ。ハイマツの影にテントを張る。水場はテン場の東側に5分ほど下っており、ちょろちょろだが冷たくて美味しい水が流れていた。

小屋で買ったビールを飲みながら陶然とする。深い谷のかなたに幾つもの雪田のその上に大日岳が伸びやかに大きく聳えいてる。これはまるで赤石岳のような風格ではないか。登れなかったはやはり悔しいが、悔いはない。何よりも北股岳のその向こうから、長い飯豊の主稜線を歩ききったという想いは確かなものであった。

テントの中から暮れ行く下界を眺めのんびりとするのは贅沢な時間だ。対面には磐梯山、そしてその奥に吾妻連峰がそれと分かる。どちらの山頂からも、この飯豊を遠い存在として眺めたものだった。

夜半に何度か目が覚める。ジッパーを上げて夜露に濡れたフライをめくると喜多方と会津若松の市街地の明かりがちらちらと揺れていた。ああ、そう、飯豊に居るんだよな・・。すこし寒さを感じてシュラフにもぐりこんだ。

雪渓にぽつんと御西小屋 御西岳からはゆったりとした縦走路となった 目指す飯豊本山が近づいてきた 飯豊本山山頂。以外に質素な山名標識
高いけどビールが小屋で手に入るのは
ありがたい。質素な缶詰も山では美味
残照に照る本山小屋のテント場。
飯豊も此処迄来れば流石に人が多い
影飯豊。飯豊本山の影が向かいの
磐梯山に綺麗に映しだされた
登れなかった大日岳。悔しさはあるが
悔いは無かった


8月13日

今日は下りるのみだ。川入から磐越西線の山都駅行きのバスは10:30と14;45の一日二本しかない。コースタイムからして狙うのは14:45のバスだろう。パッキングを完了して5:30、下山の途につく。ここから南下する縦走路は切合小屋まで標高差350mを一気に下りて行く。壁のような急な下りの先に短い鎖場があり注意して下る。切合小屋に泊まって飯豊主峰を目指してくるピストン行程の登山者と多くすれ違うようになった。ややあって振り返ると壁を攀じて行く蟻のようにも見える。冷涼な幕営地だったが陽が高くなってきたのと標高が下がってきた事もあり気温が高くなってきたのを実感する。今、心の中ではとにかく無事に、早く下山して、湯につかること、そしてキンキンに冷えたビール、それしか頭にはない。

切合小屋で小国駅から前後していた30歳代の青年単独行に追いついた。彼は三国山からは弥平四郎口に下りて予約制のバスを使い磐越西線・徳沢駅に出ると言う。自分の分も予約を薦められたが、山都ルートよりやや距離が長いことと時間的なアドバンテージはなさそうだったので遠慮する。口数は少ないがなかなか礼儀正しい青年だった。切合小屋の水も豊富に流れている。今回飯豊を歩くにあたり2度飯豊を縦走しているJI1TLL局(Sさん)から事前の情報を色々頂いていたが、稜線でも水が豊富で美味しい、という情報はまさにそのとおりだった。目下の所、梅花皮小屋の水が断トツに冷たく美味しかったが水の豊かな縦走路は本当に助かる。

小屋のすぐ先で大日杉ルートが分かれる。これも登山口の大日杉小屋までは長いルートだが、少し先を歩いていた単独行はそちらのほうに進んで行く。ぽつんと山肌の中を独り笹を分けながら進んで行くその姿には寂寥感と共に確実な歩みが感じられた。皆思い思いのルートに散って行く。一人ひとりのアドベンチャーがそこにあるのだろう。

ここからは種蒔山まで地味ながらきつい登りに転じた。そこから三国山にかけては短いながらも鎖場を含む小さなアップダウンが続き絞られる。三国山は狭い山頂を三国小屋が占拠しているかたちでのんびり出来る場所も少ない。小屋の裏手に進みザックを下して一本たてる。弥平四郎口へ下りる例の青年単独行が丁度立ち上がり歩き始めるところだった。「ここでお別れですね、お互い気をつけて。」挨拶を交わす。さわやかな気持ちだった。

三国小屋からは剣が峰と呼ばれる岩稜地帯が数百メートルにわたって続く。両側が深く切れ落ちて高度感がある。飯豊に入ってからこの手の高度感のある岩場はここが初めてだった。2箇所ほど鎖を手に背中を向けて三点支持で下りて行く。焦らずに深呼吸をして下りるとしっかりとした地面に降り立って一安心。

ここからは難所も無く、樹林帯の中を淡々と下りるだけのルートとなった。峰清水の水場も豊富で冷たい。ここが最後とゴクゴク飲む。長坂尾根とよばれるだけあって淡々と続きながら標高差1000mを下るこの尾根はなかなか辛かった。ビールの妄想が最大化して、ああビールの風呂に入れたらどんなに気持ちよいだろう、と下らないことを考える。歩きながらいろいろなことが頭をよぎる。今回の山への不安、会社での出来事、家族のこと、考えるというよりもいろいろなシーンの断片が浮かんで消えて行く。ひとりならではの贅沢な時間とも言えなくも無い。今頃あの礼儀正しい青年はもう下りたのだろうか、とも考える。礼儀のある若い健康的な青年だったが、ふと娘のことを考える。娘もいつの間にか20台も後半に差し掛かっている。あんなにしっかりとした青年と結婚してくれたらどんなに嬉しいだろうか、という想いが浮かんだのは意外だった。ついこの間生まれたと思った娘には、決して変な男など近づけない、そんな事を真面目に思っていた時期もあったが、そうか、もうお互いそんな歳なんだ、気付いたら年月が過ぎてきた、ということか。まだよちよちの娘を肩車して浅間隠山に登ったのはとうに昔のことなのだが未だに自分は何の進歩も無く昔と変わらずに山を歩いているが家族はみな大きくなり皆それぞれの道を歩いている。自分はまだこれからも山を歩くのだろうか。とはいえあの青年のように快速に山を歩くことがいつしか出来なくなっている自分にも自覚し始めている。そんな状況にしっかり向き合い付き合って行くことが必要なのだろう。

単独行は独り言を口にして考え事をし始めたら思考がぐるぐると回ってしまう。足任せに歩ける安全なルートだと、そんな事に陥ることは多い。近づいてきた沢音に現実に戻された。上十五里、中十五里、下十五里という広場が次々に現れる。昔の信仰登山の名残だろう。11:30、ようやく眼下に登山口にたつ大杉と看板、それに林道を見て、長かった山が終わったと言う想いが湧いた。

林道を少し進むとキャンプ場を併設した大きな駐車場があった。炊事小屋で水を出し頭を荒い上半身裸になり汗を拭いた。冷たい水が心地よくいつまでも浴びていたいほどだ。バスの来る川入りの部落まではまだ1時間近く歩かなくてはいけないが、バスまでは3時間近く、余るほど時間がある。

川入の部落は飯豊登山の為の数件の民宿以外はひと気も無く眠ったような部落だった。野良仕事をしていたお婆さんに聞いたバス停は集落はずれの木造の学校校舎を思わせる古い大きな建物にあった。中は飯豊の山岳信仰の白装束や農作業などの展示品を並べた展示館にもなっておりそこの板の間に一人横になった。冷やりとした板の感触が心地よく、いつしか眠りに落ちていた。

長かった飯豊の縦走。山形の小国に始まり福島の川入で終わった。置賜から会津への山旅。その昔、読み方すら分からなかった深い山を、幾つもの山々から遥かに眺めた大きな山を、無事に歩くことが出来た。計画通りに、山を歩き終えたからといい自分の中に何かが変わったわけでもない。それでも北に在る、遥かな山を、その山を踏んで初めて元服することが出来ると言う大きな山を、確かに踏んだのだと言う心地よい満足感が自分の心の中の一ページを飾ることだけは良く分かっていた。

さて会津若松の駅横にある健康ランドで汗を流してから待望のビールを飲もう。無事に歩けること、それは健康で生きていること、そう、生きていて良かった、という当たり前のことをひどく痛感に感じるのであった。

磐越西線を走る3両編成の気動車はマスコンを閉じて会津若松の盆地へ向けて長い下りを下り始めていた。背後には大きな飯豊の山々が、右に左に動いているのだった。

暫く下ると切合小屋が見えた 剣が峰の難所は長い鎖が2箇所 下山した川入の集落は静かだった 山都駅にて。会津若松行きが来た

(山岳移動通信「山と無線56号」2019年8月 より転載)


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