北八ケ岳・麦草峠スキー行

(2004/3/13、長野県茅野市)


何処かへいきたくて仕方がなかった。毎日からの逃避がしたかった。朝から夜遅くまで追い立てられるように過ぎていく。朝から腐った魚のような目をして電車に揺られ、くたくたで帰宅すれば妻ばかりは眠い目をこすって起きてくれてはいるが、もちろん子供たちは寝入っている。味気ない夕食をとれば日付はもはや翌日のものに。明日もいつ終わるともしれない課題ばかりだ・・。大海に溺れそうな自分の目の前に小さなロープが揺れてきて、それにすがるとあぁ明日はやっと週末だ、やっと金曜日が終わる、と心の底から安堵する。がそれとて所詮48時間きりの短い猶予期間、平日満足にとれない睡眠の補充で終わってしまう。電車の中で見る山の本、2.5万分の1図だけがこの身を人いきれで身動きできない車内からすぅっと浮遊させ遠くへ運んでくれる。30分間の短い夢の旅。

風もなく晴天に恵まれ大展望を思いのままにした霧ケ峰へのテレマークスキー山行が夢のような快感を伴って頭の中に残っていた。山スキーの達人でもあるJI1TLL須崎さんにご一緒していただいたこともあり成功をおさめたそのツアーからほぼ一年経っていた。あぁスキーで雪の山を歩きたい。30分の、短い現実からの浮遊では満足できない。疲れて起き上がることの出来ない自分に対し3つの目覚まし時計をセットした。

* * * *

(2時間半かけて登ってきた。スキーで登る山の
気分は別格だった。冷たく吹く風すらも苦痛では
なかった。青いというより黒い空の下、雪原に
シュプールを伸ばす。さぁ、下山だ・・。 )

今年も晴れてくれた。ハンドル越しに眺める蓼科山が目の前に大きくなった。縞枯と茶臼山に手が届きそうになった。赤岳・横岳も近づいてきた。来た、いよいよ来た。

冬季閉鎖の国道299号線をスキーで辿って麦草峠に行くのはちょっとしたバックカントリースキーツアー気分を味わえるだろう、そう考え諏訪へハンドルを向けたのだった。北八ケ岳の坪庭から麦草峠にかけてバックカントリースキーのコースがある。ロープウェーで坪庭にあがり麦草峠をまわり雨池経由で坪庭に戻るというのはそんな中でもメジャーなルートだが、一日で回るのはややきつそうに思えた。国道を使い麦草峠まで辿るコースはコースを失う心配もなく、初心者の自分には問題ないだろう。

メルヘン広場と名のついた箇所で除雪は終わり、そこにゲートがかかっていた。すでに何台も駐車しておりテレマーカーやクロスカントリースキーヤーがウォームアップしていた。ここから積雪の国道を登るのだ。9:45、出発だ。

雪の状態はぱりぱりで実に歩きづらい。麦草ヒュッテのスノーモービルがつけたキャタピラ跡が形となって凍っている。板は従来のフィッシャーの細身のウロコ板、それに今回はプラのテレマーク靴。ビンディングは昨年のケーブル式からより軽量な3ピン式に変更した。革靴に比べ歩行はどんなもんだろう・・。踏み出した一歩、果たしてステップカットが全く雪を噛まずずるずると後退する始末だった。さすがにガリガリ雪相手には苦労する。がそれもキャタピラ跡のない路肩のほうに行くとやや改善された。

ゆっくり上り始める。幸いに素晴らしい晴天で日に焼けそうだ。プラ靴も今のところまったく支障ない。すでにメルヘン広場が標高1800mあるので周りは針葉樹でいかにも北八ツらしい。規則正しく手足を動かすだけだ。時折ステップカットが噛まずにずるりと後退するがなんとか登れていく。汗が鼻の頭からぽたりと大きな雫になって落ちた。暑くてジャケットを脱いでシャツ一枚になった。あぁ、こんなに体を動かしている。なんという久々の思いだろう。平日よりも昨晩の睡眠時間は短いはずなのに、不思議なことに疲労感とも倦怠感とも肩凝りとも無縁だった。ツーッと額に汗が流れて睫に溜まった。目がしょっぱい。こうして歩みを止めると全くの静寂で何の音もしない、その深遠さに自分自身がスーッと吸い込まれていきそうな気がしたが、ゆるゆると吹く風の冷たさが現実に戻してくれた。

麦草ヒュッテのスノーモービルが2台上から走ってきた。その音が残雪の針葉樹林の中に吸い込まれていくと再び真っ青な空と白い太陽と自分だけの世界となった。周りの風景がゆっくりと、本当にゆっくりと後退していく。標高1950mあたりを越えると展望が眼下に広がった。諏訪盆地はやや霞んでみえる。

一体どの位時間がたっているのだろう、オーバー手袋をずり下げ時計を見るのも面倒で、たんたんと登っていく。コースに不安がないのでこんな気楽さも許されよう。それに特段休憩が必要なほどの疲れも感じない。足の行くまま、ただスキーをずらすだけだ。真っ白な雪面にカヌーで漕ぎ出すように。

先ほどのスノーモービルが下から上がってきた。荷揚げではなく3人の客を乗せている。左手に林間スキーコースの入り口を示す赤い旗が見えた。ロープウェーの坪庭へのコースの分岐だ。標高2050m。

路肩の雪は表面のみが固まったモナカ雪でスキーで踏むと割れ目が入って表面が崩れてしまう。歩きづらい雪だ。傾斜が緩み麦草峠へのほぼ直線路になった。ここは風の通り道のようでにわかに強まった風にスキーが思うように進まなくなった。しかもその強風のせいか雪面は全くのスケートリンクと化しておりスキーのコントロールが出来ない。後ろから細板+革靴の二人組みとツボ足の一人という三人組がやってきて悪戦苦闘する自分を抜いていった。ツボ足はともかくとしこんな雪面でどうしてあんなにスキーで進めるのだろう。がっかりしてしまう。

(雪に埋まった国道標識に雪の多さ
を感じた。
(麦草ヒュッテは北八ケ岳バック
カントリースキーのオアシスだ。)
(なつかしの茶臼山を至近に望んだ)

自分の肩までしかない雪に埋まった国道標識に改めて積雪量を感じた。麦草峠の看板があり、右手に折れて麦草ヒュッテに到着した。ヒュッテの中は薪ストーブがたかれ別天地だ。山小屋の雰囲気がたっぷり漂い嬉しい。曇ったサングラスを外す。4,5人が上気した顔で缶ビールを美味しそうに飲んでいる。自分もぐっと缶ビールをぐっと一飲みした。あぁ、美味い。腕時計を見ると12:25で、なんと2時間40分もかかったのか。注文したカレーうどんに体の中も暖まった。とにかくここまで登ってこれたことが嬉しい。

時間次第でこの裏の丸山のピークでも踏もうと思っていたが思ったより時間がかかってしまった。小屋番に聞くと丸山へはツボ足が一番良いとのこと。プラのテレマークブーツで登る気もしない。またの機会にしよう。

13:00、小屋を後にした。ここからは大石峠、おとぎり平、出会いの辻へと樹林帯のコースを滑ろう。大石峠へは思いっきり登山道を歩くコースだった。細くえぐれた狭いコースに板のステップカットもまったく利かない。立ち止まろうとしたらずるりと後退してそのまま転倒してしまった。これは板など無用の長物だ。板を外しツボ足で歩く。幸いに傾斜はすぐに緩み大石峠に出た。

ここで再びスキーを履いた。3ピン式のビンディングは装着しづらいイメージがあったが思ったよりも簡単だ。ケーブル式よりも半分以下の重さなのでバックカントリースキーにには向いている締め具だろう。

おとぎり平は開放感漂う雪原だった。針葉樹が点在している原の中を快適にスキーを走らせる。モナカ雪なので直滑降で進むだけだ。右手には一昨年の初冬に歩いた茶臼山が素晴らしい姿を見せている。やぁ、またきましたよ。来られてよかった。今、スキーで、来ていますよ・・。

樹林帯となった。再び先ほどのような針葉樹の中を辿る細いコースとなった。ここをどうやってスキーで下りていくのだろう、見当もつかない。ボーゲンが利くコースの幅でもない。横滑りと階段下降を織り交ぜながらずるずると下りていく。下から二人のテレマーカーが登ってきた。かれらもこの雪面とコースに苦労しているようだった。その横を二人のスノーシューを履いたパーティが追い抜いていったのはなかなか象徴的な眺めでもある。再び下りていく。狭い、樋のようになったコース。スキーが弓のようにたわんで転倒。起き上がるのにも苦労する。こんなコースには短く取り回しの楽な板が有効だろう。

苦労しながら下りると坪庭から降りてきたコースに合流した。出会いの辻だ。ここで国道に向けて急な坂を下りていく。スピードを殺せる気がしなく、階段下降が中心となる。ゲレンデで何度か練習したテレマークターンなどとても通用しない。もっとも実際のツアースキーでは、横滑り・階段下降・キックターン・シュテム・ボーゲンなどあらゆる方法を使って、とにかく下りればよいのだろう。

(今回のルート。ハンディGPSデータをカシミール3Dに転送。
同ソフト付属地図に展開)


国道に出た。開放感にほっとする。目の前をクロスカントリースキーヤーがゆっくりと下りていった。少し先から再び林間を縫ってメルヘン広場に下りるコースが始まっていたが、またシラビソやコメツガの中あの雨樋を下りていくのか、と思うと先へ行く気がしなかった。のんびりとぱりぱりの凍った国道を直滑降とボーゲンで下りていく。

今日のコースは、憧れのぶなの林を縫って粉雪を上げて滑る、という本で得たバックカントリースキーのイメージとはかけ離れてはいたが、それでも針葉樹を縫ってのちょっとした山スキー気分を味わうことは出来た。滑りながら早くも次にどこへ行こうか、という思いがわいてくる。

制動の連続で足の痛みを感じるころ、林の向こうに駐車した車が見えた。

* * * *

別に明日から何が変わるわけでもない。また、いつもと変わらぬ一週間がはじまるだけなのだ。でも、このからだを包む心地よい疲労は何だろう。またいつもとかわらぬ心の底から放電してしまうような、あの砂漠のような日々が始まるだけとわかっていながら、少なくとも今の気分だけは、それもあまり苦に思えぬように感じる。貯まったダムの、不平や苦痛、といった物を、思いっきり放流した。あとに残るのはぽっかりとした小さな水がめで、それがまた埋まっていくのだろう。水がめは定期的に放水しないと溢れてしまう。疲労には心の疲労と体の疲労があると思うが、心の疲労だけはせめてなくすようにしたいと思う。あすからの日々、少なくとも今日の満足した余韻と新たに広げる山の本で、しばらくは頑張れるだろう。

家族に下山の旨電話をかけて、中央高速を快適に走行して横浜を目指した。

(終わり)

コース:メルヘン広場9:45−麦草ヒュッテ12:25/13:00−大石峠13:35- 出会いの辻14:11--国道合流14:20-メルヘン広場15:15

スキー装備: Fischer Outboundcrown 178cm + ロッテフェラ- Super Telemark(20mmカーブ)、SCARPA T3


(戻る) (ホーム)