仲間で歩いた秋の安倍奥 - 七面山から八紘嶺

(2002年10月12日、13日、山梨県南巨摩郡身延町、静岡県静岡市)


(七面山山頂にテントを張った。あとはここでオペレートするも良し、
食べるも良し、寝るも良し・・・。標高1990mの一夜の宿だ・・・)

数年前に静岡・安部川上流の山伏から八紘嶺を歩いた際に、八紘嶺からまだまだ北に延びる縦走路に大きな期待を抱いたものだった。その先には七面山という山がある事、そこまでの道は一部笹に覆われ余り人が歩いていない事といった事がわかっており、人寂しく物静かな山に惹かれはじめていた自分にとってその先に遥かに続く道・山々への憧憬は尽きなかった。又安倍奥の山自体が南アルプスの前衛らしく笹と重厚な森林に包まれており、歩きなれた丹沢や山梨県東部の山々とは一線を画するその様に満足を覚えたのであった。

一方、今まで気楽に独り歩きで出掛けていた山であったが、今年に入ってからは須埼さん(JI1TLL)や河野さん(JK1RGA)御両人との山行がふえ、独りとは違う楽しみを覚えてきたところであった。山の大先輩である彼らは経験豊富で万年素人の自分には多いに勉強になる。無線も然り。それになによりも趣味を同じくする仲間での山と無線行は楽しくないはずがなかった。そんな事で今年のハムフェアの席上にて須埼さんに七面山の計画を持ち寄ったところ快く快諾を得た。須埼さんが七面山に未だ登っていないと話されていたのを何処かで覚えていたのだがその通りだったのだ。あとは河野さんを誘うだけだった。根が好きな人々なので話しはいつも素早くまとまる。秋の好日を待っての決行だった。

* * * *

身延線のダイヤから逆算して朝6:13横浜駅発の静岡行き普通列車に乗ればよい。横浜駅の東海道線のホームで集合する。土曜日の早朝の列車は満席に近いが客層は夜勤明けの人、呑みすぎて終電車を乗り過ごしたと覚しき人、釣り人、旅行に行く人、など様々で、ようやく車内が空いてきたのは小田原を過ぎてからだった。車窓の相模湾が朝日にぴかぴか光り2日間の好天を期待させる。同好の志での楽しい山行の幕開けでもある。朝飯をつまみながら四方山話に盛りあがるといつしか丹那トンネルを越え三島となる。富士で身延線に乗りかえる。車中にはザック姿もちらほらする。内船駅あたりで下りて思親山などでも行くのか、それとも我々と同じ七面山か。身延駅はもう7,8年前に白根三山の縦走を終えてからバスで戻ってきた駅だが、その時よりも駅前が随分と立派になったような気がする。タクシーで七面山の登山口までは40分程度で、三人で乗れば運賃も気にならない。登山口の羽衣には大きな旅館が立っていた。

登山口は森閑としている。いかにも聖地への入り口といった感じがある。そう、私などの単なる山歩き愛好家から見ればただの山に過ぎない七面山も、実際は日蓮宗の聖地として知られている。山頂直下の敬慎院へは一年を通じて信者が絶えないと聞く。七面山の東隣にある日蓮宗の総本山である身延山久遠寺の奥に位置している事もあり、七面山敬慎院は久遠寺の奥社といった感じなのかもしれない。実際古来からある正式な参道は久遠寺から身延山を経て一旦羽衣に下りて来てそれから敬慎院へと登り返すというものらしい。交通の進化した今ではさすがにそのコースを辿る信者はいないが、いずれにせよ日蓮宗宗徒にとっては大切な場所である事には変わらない。事実登山口に集う白装束の老人達がそれを物語っていた。「私は80歳、XXさんは85歳だ」といった凄い会話が交わされている。ここから七面山・敬慎院までの標高差は1200mはある。なにかとんでもない場所にきたような気がする。

10:35、ザックを整えて歩き始める。今回は七面山山頂でのテント泊を予定しており、程よいサイズのテントをもつ河野さんがテント係、無線機関係は須埼さん、自分は炊事道具係と共同装備となった。幕営を前提とした我々のような大きなザックは他にいない。

さすがに表参道だ。道は凡そ登山道とはかけ離れた立派な物で適度な段差の階段と道幅で歩きやすい。それに電話線や電線の為の電信柱が道の脇に点々と立っている。登山口からは丁目標識が続き敬慎院が50丁目である。励みになる。表参道には神力坊、肝心坊、中適坊、晴雲坊の四つの宿坊が敬慎院まで点々と続いている。

(深遠な聖地への入り口) (白装束に南無妙法蓮華経)

肝心坊を過ぎてしばらくすると参道の上部から「南無妙法蓮華経」の唱和が流れてきた。信徒一団が下りてくるのだ。しばらくすると唱和が大きくなり上方から白装束に幟を持った一団が下りてきた。なかなかの迫力でとてもすれ違う気になれない。つづらおれの道の脇で待機する。スピーカーマイクを肩から下げたリーダーが「南無妙法蓮華経」と叫ぶとそのあとで一団が唱和する。彼等の唱和が終わるとすぐにリーダーが繰り返す。こうして「南無妙法蓮華経」のキャッチボールを延々と続けながら下りていく。一団はまさに老若男女であり幼子を背負った20歳代の若夫婦からそして杖にすがる老人まで幅広い。圧巻は長さ2m位の一本の竹竿を左右に立った信者が持ち、その間にその竿にすがりぶら下がる様にして歩く高齢の信者の存在だった。横渡しの竿をもつ二人にサンドイッチされその竿に全てを預けて歩いている。もはや正常な歩行すら困難だろうと思われるその高齢の信者にとってこの七面山敬慎院の存在はなんなのだろう。七面山に登り敬慎院でお勤めをする事が信者にとっての究極の行いであるならば、竿にぶら下がり苦悶の表情を浮かべる彼等の心に去来する物は満願成就の喜びそのものだ ろう。でなければ80歳,90歳をとうに過ぎた彼らがこの過酷な標高差に挑む理由は常人には思いつかない。古来より戦争の火種には宗教がある。戦いすら辞さないというその深いパワーは自分には想像する由もないが、彼らを包む素朴にして真摯な空気はやはり厳かなもので、それを前にして感じるのはただただ関心と敬意のみであった。

優に200人は超えた集団が通りすぎても、白装束の信者はその後も点々と続く。道は急登もなく一定の斜度でただただ続いている。晴天だが樹林が深いので日差しにあおられることもない。が汗は絶え間無く流れる。敬慎院までは1200mの標高も、自分たちの今日の目的地である七面山山頂までは標高差1500m。それを1日で登るのだから広河原から北岳に登るのと何ら変わらない。ため息交じりでひたすら登る。道が歩きやすいのが唯一の救いといえる。

23丁目の中適坊で昼食とする。敬慎院まであと27丁。ほぼ中間だ。大きな休憩所で冷蔵庫がありジュースなども販売されている。ビールやお酒などは倉庫の裏に置いてあるようだった。お茶を頂く。休憩所の内梁には信者のお札や寄進のお札などが所狭しと張られている。150回参拝祈念、といった札も目に付く。とこんどは下から太鼓の音が聞こえてきた。しばらくあって登ってきたのは4人連れで家族かもしれない。日蓮上人を祭った祭壇の前に整列し団扇太鼓を叩きながらお経を唱え始めた。無駄の無い精悍な壮年の男性である。

遠慮がちに彼らから離れ登り始める。しばらく登ると眺めが開き北に高峰群を望んだ。北岳から間ノ岳のジャイアンツであろう。更に登る。たんたんとひたすら登る。晴雲坊で短く休む。ここで海抜1400mで敬慎院までは300m、山頂まではまだ標高差は500m以上ある。再び歩き出すがこのあたりからかなり足に疲労が溜まってきたのを感じていた。それは河野さんも同様のようでしばらく登って突然足がつったと言って立ち止まってしまった。ここしばらくは忙しくて山に登っていないからなぁ、と言われる河野さんだが、少し苦しそうでもある。

ベンチで一休みする。カタカタという音がすぐ裏から聞こえて来たので偵察に行くと敬慎院への荷揚げ用の索道の音だった。このリフトに荷をかけて揚げているのだろう。見上げると空が広くもう敬慎院まではいくらも無いようだ。ゆっくりと登ると突然視界が開き立派な山門の前だった。敬慎院到着14:40。

海抜1700mのこんな山中に立派な寺である。ここで2000人以上もの信者が寝泊りできるというのだからその規模が知れる。境内にはナンバーの無い軽トラックが走っているが車道も無いここまでどうやって上げたのだろう。本堂に行き水を頂く。1泊2食付き 5500円で信者以外も泊めてくれるが朝のお勤めの参加は必要だろう。境内を出て上部にもう一つ別の山門があり、その先の展望所からは富士と正対して感無量となる。毛無山がとても立派でもある。ここで泊まり、朝日が富士山の奥から登るのを見れば信心のかけらも無い人でも厳かになろうと思われる。

ここから先、山頂までは標高差290m。道幅も狭くなり登山道となった。足をかばって歩く河野さんと同じくくたばりかけている自分。須崎さんは颯爽と先行していったのでゆっくりと登る。須埼さんには今まで自分のゆっくりペースに付き合ってもらったので内心心苦しかった。一箇所急登があるが後は傾斜が緩むと重厚な原生林の向こうから赤い西日が差してきた。16:10、山頂だ。海抜1989m。とにかく、登った。

(敬慎院の山門からは富士を正対する) (赤く焼けて、秋。) Ricoh GR1 ASA100 Fuji Sensia

この時間誰もこれから来る事もあるまい。須埼さんが手早く山梨百名山の標識に 50MHzのヘンテナをくくりつけた。同軸線の届く範囲にテントを設営するとあとは中に潜って運用なり食事なりを楽しめば良い。極楽空間が出現したのでオペレートを始めた須埼さんの隣で、テントの中に横になった。標高差1500mは結構こたえた。足にかなり疲労が溜まっているのが実感される。しかしこの山頂は静かで、仲間だけで独占している。何と素晴らしいことだろう・・。

毎度ながらJG1OPHが横浜から呼んできたので一斉に皆で歓声が上がる。いつもいつも目ざとく探してくれるし彼と交信しないと山頂移動運用した気にならない。3人で交替で彼との交信を済ます。が肝心の交信成果は今一つで、やはり週末とは言え夕闇迫る時間帯ではこんな物だろう。一旦QRTしてテントの中で夕飯の準備となる。いつもはテントといえば単独での世界なので自我流にもっぱら炊事もテントから首を出して外でやる物と思っていたが、三人で車座となりテントの中で炊事をする。大きなテントはこれが良い。ストーブの熱気でテント内が温まり、会話も弾む。ビールを開け、暖かいうどんを食べる。さもない四方山話や山の経験談などの話に花が咲く。これが楽しい。一人では決して味わえない世界でこれを味わいにここまで来たと行っても過言ではない。登りの苦労すらこの楽しい時間の前には快楽に変わってしまう。

25局運用を目論む河野さんが一生懸命オペレートするがなかなか「引き」が無いようで時間ばかりが過ぎていく。今日はJARLの全市全郡コンテストなのでそれが始まった21時以降に声をかけていく戦法とする。こちらはすっかり気持ち良くなりシュラフの中に潜り込み、河野さんのオペレートを須崎さんとともに冷やかしながら盛り上がる。一瞬足がつってしまうというアクシデントもあったが、そうこうしているうちに眠気に包まれた。極楽・極楽。標高1989mの浮世離れした素晴らしいホテルの一夜・・・。

* * * *

午前3時、誰からともなく目を覚ました。夜は思ったほど寒くなく3人でテントに居たことも大きいかもしれない・・。おかげでぐっすり寝られたように思える。鹿の泣き声に誘われて外に出ると素晴らしい星空である。無数に星があるその様は何か覗いてはいけないような深い渕のような気もする。すーっと流れ星が視界を横切る。こんな風景をカミサンと子供達に見せてやりたいとも思う。

朝食を作りテントを撤収するとあたりは明るくなりようやく行動出来るようになった。丁度始まったと思われる敬慎院の勤行の太鼓が下手から僅かに流れてくるのを背にうけて、6:15、日の差さない森林の中に踏みこんだ。なにか動物が潜んでいるような気もする深い樹林帯だ。湿地の跡とも思われる窪地の横を辿って急登をしばらく頑張ると喜望峰と呼ばれる1980mピークである。コース中もっとも素晴らしい展望が得られるとのガイド通りだ・・・。凄い、南アルプス全山がパースペクティブに我が手にある・・。まずは2ヶ月前に登った笊ケ岳に目がいった。双耳峰のあの天辺に立ったのだなと喜びは今もっても新鮮だ。その奥に見え隠れする北岳、間ノ岳、塩見、悪沢、赤石、聖といったスーパースターにはいつ見ても心を揺るがされる。いずれの山頂の記憶も明確だが、またいつか改めて踏んでみたい・・・自分の中ではいつまでも憧憬が尽きぬ、そして遠い峰でもある。須埼さんは更に南方に目をやっている。彼にとっては旧友でもある光、池口、大無間といった深南部の雄を懐かしさをもって見ているのだろう。自分もいつか踏んでみたい憧れの山々である。

ここから先も深い針葉樹林は続き、苔むした林床に二重山稜と南アルプス南部を思わせるような眺めが目の前に展開される。ここまで徹底して誰にも会わない。あくまでも静かで、実に素晴らしい。第 2三角点と呼ばれる1964mピークに登りつく。ザックを下ろし休憩をする。軽く行動食を口にする。ここで丁度七面山と八紘嶺の間の中間地点だ。この先僅かに進むと行く手の八紘嶺から山伏への眺めが一望できる。八紘嶺はどれだろう・・。地形図を広げそれらしいピークを同定する。まだまだ先だ。ここから先は植生がやや変わり、深くて暗い針葉樹林から笹に覆われた明るい林が主体となって来た。その様に改めて自分が安倍奥の山を歩いていることを思い出す。次の1864m峰はあまり顕著でなくそのままやや下がり少し登り1796m峰へと導かれる。ここから大きく下がらなくてはいけない。そしてその後に待つのは、登りである・・・。

「縦走って、何が楽しいんだろうねぇ?」
「辛いだけだよね・・でもいいね」
「違う地点から違う地点まで、やはり旅している、っていう感覚でしょうかね」
「そうですね」

誰もがわかりきった道理。やはり尾根歩きは楽しい。高度を下げきると平坦となり「南無阿弥陀仏」と書かれた赤い幟が立っている。ここが「インクライン跡」である。そのまま通解して小ピークをひとつ越えるといよいよ八紘嶺への120mの標高差を残すのみとなる。紅葉の始まった山肌を三人とも無言で頑張る。

頭上の空が近づいてきた。きたきた、着いた。最後の一踏ん張りで9:55、八紘嶺1918mのピークに飛び出た。あぁ、これでもう登りはない。長かった七面山からの縦走路もこれで終わりだ。行く手には潅木越しに3年前に歩いた山伏から八紘嶺までの山並みが懐かしい。

(希望峰から白根南嶺とその奥に南アルプス南部主稜線を望む。
笊ケ岳の二ツ耳が懐かしい。その奥には南ア最南のジャイアンツ聖岳・・)
(第2三角点を過ぎると笹と雑木の明るい尾根となった。
秋の青空が木々を透過して降ってきた・・・)

前回来た時は人が多い山頂だったが今日は若い単独行が独りのみで、その彼も七面山へむけて去ってしまうと誰も居ない。記念撮影を終えると河野さんがにこにこしながら「お神酒だよ」といって缶チューハイを勧めて来た。いやいや、これは大好物だ・・・。まだ一本隠し持っていたとは!喜びを隠し切れずにありがたくレモン味のお神酒のご相伴にあずかる。山ではあまり酒を飲まれない須崎さんも「お神酒」とあらばなす術もないだろう、ぐっと飲み干されてしまった・・・。

50MHzを開局するが殆ど呼ばれない。以前ここで運用した時は結構呼ばれた記憶があったが・・。昼飯を作りポカポカ陽気で昼寝がしたいくらいだ。梅ケ島温泉に下山したらあとは山の湯が待っているだけだ。もっとも15時半過ぎのバスに乗る予定なので、昼寝を諦め下山にかかろう・・。

ここから先の道は一度歩いているのだが記憶があまり残っていない。やや歩くと展望が開け、目指す梅ヶ島温泉が遥か眼下に望める。ここから標高差にして1100m以上、一気に下りるのは結構辛そうだ。目を移すと安倍奥主稜線の十枚山が思いのほか立派に見える。あそこにもいつか登ってみたい。

一旦1881mピークに登り返してからもなかなか高度は下がらないがやがてザレ気味の淵に出てそこからは急激に高度を下げ始めた。ロープのかかった岩場もあるが以前はこんなに荒れていただろうか・・。富士見台まできてすぐ下の安倍峠への分岐地点で須崎さんが後ろからやってきた。足が遅いのを危惧して八紘嶺から15分以上も須崎さんより早く出発したがやはり足の差は歴然としている。

林道上部に出る。ここまで車で上がれるので車道にがっかりするがまだ500m以上標高差を下りなくてはいけない。桧の植林体に入ってからはて再びぐんぐんと下がり始めた。嫌になるようなジグザグ道で昔ジョギングでいためた左膝が痛くなってきた。ストックを突きながらだましだまし下りて行く。辛い下りに三人とも再び無言になる。

沢音が大きくなり木々の中から温泉街が見え隠れしてきた。ようやく車道に出た。13:45。終わった、縦走終了。河野さん須崎さんと握手をする。ありがとうございました・・。

右へ10分ほどで梅ヶ島温泉バス停に着く。さぁ、あとは温泉だ・・。温泉街の川沿いにある土産物屋へ向かった。予め須崎さんが公営温泉をネットで探されていたのだ。「湯元屋」という名の土産物屋の2階に小さな温泉浴場があった。小さいが内湯と露天湯もある。下山してすぐに山の汗を流せるとはなんと素晴らしいことか。静岡らしい「お茶シャンプー」がいい匂いだ。3人で風呂を独占するとそのまま土産物屋のベンチでビールで乾杯とする。湯上りの火照った体に安倍川の谷から緩く吹いてくる10月の風が心地よい。せせらぎの音に包まれて、楽しかった2日間の山を反芻する。実は内心不安でもあった初日の登りも無事にこなせた。テントの中での食事や無線運用は和気あいあいとして楽しいものだった。南アルプスらしい重厚な森林の尾根から笹に包まれて明るい安倍奥らしい稜線への風景の展開・・。そんな山に付き合っていただいた二人のベテランには感謝の思いが尽きなかった。

静岡駅まで2時間以上のバスの旅は三人とも殆ど眠ってしまう。気づいたら夕闇にすっかり包まれた雑踏の静岡の町・・。浮き世離れの楽園界から現実の世界へ。そしてあとは新幹線1時間でわれらが街横浜に戻るのみだった。

(終わり)
(八紘嶺は一部紅葉が
はじまっていた)
(八紘嶺山頂にて。左からJK1RGA河野氏、JI1TLL須崎氏と)
Photo by JI1TLL
(梅ヶ島温泉にて。温泉にビール。そして山の風に
体を冷やせばもう何も言うことがなかった。)

コースタイム

2002年10月12日、羽衣10:33−中適坊11:55/12:30-晴雲坊13:20/13:25-敬慎院山門14:15-敬慎院14:30/15:10-七面山・アマチュア無線運用・幕営16:10
2002年10月13日、七面山6:15-希望峰6:40/6:55-第2三角点7:50/8:05-インクライン跡8:52/9:00-八紘嶺・アマチュア無線運用9:55/11:55-富士見台12:40-林道出合13:02/13:15-林道13:45-梅ケ島温泉14:00


アマチュア無線運用の記録


七面山 山梨県南巨摩郡身延町 1989m :50MHzSSB・CW運用 FT690mkII(2.5W)+ヘンテナ、10局交信
八紘嶺 山梨県南巨摩郡早川町 1918m :50MHzSSB運用 FT690mkII(2.5W)+ヘンテナ、2局交信


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