『アインシュタイン交点』の彼方に by 中野 淳



 SFを読むときに、プロ野球ファンであることを感謝したのは初めてだった。その感慨をもたらしたものこそ『アインシュタイン交点』である。結論を言おう。ここに描かれているのは、表層的な神話の話だけでもなければ音楽の話だけでもない。注意深く積み上げられた構築物の奥には、日本プロ野球の哀しみと未来が見えてくる。30年前にディレイニーは日本プロ野球の理解者であり予言者であったのだ。

 一読後、もちろん僕はこのことには気がつかなかった。ただ、何かが心にひっかかっていた。そして今日、何気なく本棚の一冊の本を手に取った。ぱらぱらとページをめくりはじめた30秒か40秒のうちに、僕はその本のページの向こう側に『アインシュタイン交点』の隠された深層構造を見ていた。その本とは西武ライオンズの森前監督の書いた『覇道〜心に刃をのせて〜』である。捕手を視点に日本プロ野球の頂点に達した森の手法は、同時に日本プロ野球の限界をも明らかにした。そして、ディレイニーはこのことを看破したのみでなく、その限界を越える可能性を予言している。

 読み解く鍵はジョイスの一文にもある。

 It darkles, (tinct,tint) all this our funanimal world.

「あたりが暗くなる」この表現は言うまでもなくナイトゲームが始まる直前のスタジアムのことである。tinct,tint これが指すのは戦う2チームのユニホームカラーである。もちろん明るい色を思わせるtint が後ろに置かれ、後攻めのホームチームの白色ユニフォームを示しているのは偶然ではない。そればかりか、先行のユニフォームカラーにはCが付加されている。これは、広島カープをビジターとして迎えたセントラルリーグの試合である。この引用の見事さには驚くばかりだが、ディレイニーならこれくらいのことはと思わせる凄さがある。ここまで見えた後には、funanimal がスタジアムのプロ野球ファンを指すことは容易に理解できる。すべてスタジアムこそはプロ野球選手とファンとの世界である。

 森の話に戻ろう。彼はプロ野球を捕手の原理で語る。捕手の原理こそは投手をコントロールし、試合を作り、ペナントレースを制すると言う。それは、一つの真実。だが、その結果として12球団を制した彼のやり方をすべての funanimal が肯定したわけではなかった。そしてプレイヤーたちも同じであった。「勝ちつづける」ことはプロ野球の至上命題ではなかったのか。それを達成してなお、満たされぬものを見つけたときこそは、僕たちが日本プロ野球の限界に気付いたときであった。捕手は自分の知力の範囲内のものは何でも変えられる。ストレートをカーブに、野手を前進守備に、先発からリリーフにというぐあいに。けれど無から有を生みだすことは、捕手にはできない。塁を埋め、得点をか重ねゲームに秩序を与えることはできない。捕手が得られないものこそ、創造力と構成力である。

 このことに気付いたときに僕は、『アインシュタイン交点』の隠された絵が浮かび上がってくるのを感じた。捕手がキッド・デスであり、打者が棒を振り回すロービーであることは明白であろう。そして創造力を司るグリーン=アイは、創造的なコーチ。もちろん、コーチが創造的であればあるほど立花龍司のように受難者となることは日本プロ野球の宿命である。また、グリーン=アイには捕手というポジションからは得られない人気を得る名門高校出身の甲子園アイドルの姿も重ねられている。

 ディレイニーは、成長のための通過儀礼としての牛=ミノタウロスとの勝負(もちろん近鉄バファローズの暗示)を経て、捕手原理を越えた創造的打者原理の誕生と外部への旅立ちを描いている。イチローと野茂の誕生を予言するディレイニーの才覚や恐るべしである。

 ただ、ここで止まってしまっては真の構造は見て取れない。『アインシュタイン交点』の本質は単なる成長物語ではない。人類とは何なのか、人類の殻に棲むものたちは誰なのか。この謎の答えを見つけねばならない。

 10歳のころ、阪神ファンの自分に問いかけたことがある。「阪神の全ての選手と巨人の全ての選手をトレードしたときにおまえはどちらのファンなのか」。答はすぐに見つかった。僕は、たとえ堀内が投げて高田が打とうが自分は阪神ファンなのだと思った。チームとは何だろう。20年たてば全ての中味が変わってしまう。それは単なる入れ物でしかない。けれど、その入れ物こそが揺るぎのないチームの本質である。ディレイニーは書く。アインシュタインは知覚の限界を定めたと。プロ野球ファンも最近やっとこのことに気付きだした。「プレーはそこにあるのではなく、そこにある観客の眼がプレーを生みだす。」そしてそれだけではない。「観察者の眼はときにマスコミを通じ、チームの崩壊をも引き起こす。」このことを知った僕たちはどうすれば良いのか。もはや、圏外の第三者としてのプロ野球ファンは成立しない。さらにディレイニーは書く。真なる定理は無限に存在すると。ゲーデル曲線がアインシュタイン曲線を越えたとき、既知のプロ野球は限界を越える。そして、僕たちがフェンスの向こうに見た田淵や江夏や長池たちは去り、プロ野球の身体と魂に僕たちが乗り移る。

 真なる定理は無限に存在する。コンピュータの中にも。

(完)



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