「武道的身体」 | ||
語り手:多田 宏(ただ・ひろし)昭和4年東京に生まれる。昭和27年早稲田大学法学部卒業。合気道九段、(財)合気会本部道場、月窓寺道場師範、イタリア政府公認財団法人日本伝統文化の会=イタリア合気会創立者。早稲田大学合気道会、東京大学合気道気錬会師範、合気道多田塾を主宰。 聞き手:内田樹(神戸女学院合気道会顧問・合気道五段) (1994年3月29日・合気道多田塾月窓寺道場にて) ―お忙しいところをありがとうございます。今日は先生の修行経験について詳しくお聞きしたいと思って伺いました。これまで折りに触れ断片的にはお聞きしていたのですが、この機会に先生のお話をまとまって伺っておけば、合気道関係者だけでなく、武道関係者にとっても貴重な資料になるだろうと思います。 今日、先生に伺っておきたいことは、いくつかあるのですが、一つは先生の武道の修行の歴史ということをお話し頂きたいことと、今一つは、先生の場合、植芝盛平(うえしば・もりへい)、中村天風(なかむら・てんぷう)という希代の超常的な身体・精神の能力を持った方たちに出会うという貴重な経験をされているわけで、その経験についてもぜひお話を伺いたいと思っています。 多田:植芝道場に入門した時のことを書いたはものは、読みましたか?(注:『合気道探求』に掲載、のち改訂して私家版として配布) ―ええ、読みました。 多田:他に、イタリア合気会では、色々な事を書いたものがあるのですが・・。それから大分前に後藤喜一君(元早稲田大学合気道会主将)が書いたのがありますが。(注:「師範の横顔」(38)『合気道新聞』第208号、昭和53年5月) ―ええ、読みました。今日は、そういう資料には書いていないことからお聞きしてゆきたいと思います。先生の武道修行はそもそもどういうところから始まったのかからお聞きしたいのですが。 多田:子供の頃は弓を行っていました。うちには家伝の日置流竹林派蕃派(へきりゅう、ちくりんは、ばんぱ)という弓の流儀があり、曾祖父(多田興善・おきよし)から父(多田登・みのる)に伝わっていました。それを自由が丘の家の庭で、巻き藁相手に習いました。 ―先生、お生まれは東京なんですか? 多田:そうです。私は本郷の東京帝大の病院で生まれました。三歳まで本郷西片町に住んでいました。父が学生時代に住み、好きな所だったのです。父は旧制の三高から東大の独法出身でした。 ―対馬におられたのはどの代までなのですか? 多田:祖父(多田常太郎・つねたろう)は対馬の厳原の屋敷で生まれました。その後、島を離れ、裁判官となりました。裁判官は3年毎に各地を異動しましたが、私の父は紀伊田辺で生まれたのです。植芝盛平先生がお生まれになった田辺です。その後祖父が京都に転勤になると、武徳会があるし、知り合いが大勢居るため、曾祖父は京都が大層気に入ったようです。その為、親孝行だった祖父は3年毎に昇進する移動を4回断って、曾祖父が亡くなるまで京都にいました。 ―曾祖父というのは弓の方なんですか?
多田:もともとは対馬藩の侍です。1245年に藩主宗氏の祖が対馬に討ち入った時、附き従って以来、厳原に住み、五五〇石を頂き家老でした。ところが幕末に、対馬藩で甲子の変という、勤王佐幕が絡んだお家騒動、という大変な事件があった。その事件では大勢亡くなったのですが、曾祖父の父多田外衛(とのえ)と十一歳の弟多田作次郎も死にました。曾祖父は、多田家の血が絶えるのを防ぐ為、気丈な姉マス(満壽)が伝馬船で連れて逃げたのです。真冬の玄界灘を、家の領地の腕利きの漁師に金子を与え、伝馬船で本土へ渡った。そして長州の野村望東尼のもとに身を寄せたのです。マス(満壽)は、そこで高杉晋作やその他の勤王の志士と、親交があったという事です。 ―何流をされてたんですか? 多田:松涛館です。 ―え、松涛館だったんですか。じゃあ、江上茂先生なんかは・・・ 多田:江上茂さんは早稲田の先輩です。松涛館といっても今の松涛館とは、少し違うのでは無いかと思います。松涛というのは、船越義珍先生の号で、先生はご自分の空手に何流とはつけられなかったが、弟子が松涛館流と呼んでいた。その後、傘下の大学の卒業生が中心となって、日本空手協会をつくりました。 ―じゃあ、船越義珍先生にも・・・
多田:何度かお会いし、ご指導を賜っております。また先生が早稲田の稽古においでになると、そのお帰りには、誰かが、大隈講堂の裏の都電の駅まで、お送りするのですが、その役を私が致したこともあります。電車にお乗りになる前に、戦災後で、まだほったて小屋だった小さな太鼓焼き屋で、二つお召し上がりになり、それから電車に乗られると、直ぐに振り向かれて、「どうも有り難う、もういいですよ、お帰りなさい」と帽子を取られて、丁寧にお辞儀をされながら、言われるのでした。 ―どこに道場があるかということさえ分からなかったのですか? 多田:ええ、全く分からない。誰に聞いても分からなかった。東京中焼野原でしたしね。 ―植芝盛平先生は岩間にお住まいだったのですか? 多田:岩間にお住まいでしたが 、 東京に出てこられては関西へ、また東京に戻られては岩間、というふうに、活発に旅行されて居られました。 ―先生が入門されたのは。 多田:昭和25年の3月4日です。 ―その頃には植芝先生については、どのようなことを聞かれていたんですか? 多田:私が小学生の頃、父が第一生命の社長だった矢野一郎さんからお聞きした話のことは、合気道探求に書きました。それと満州に荒井静雄、山崎元幹という二人の伯父が居りまして、昭和17年の夏に新京(長春)の山崎の家に行っていたんです。その時はちょうど満州建国10周年で、大きな演武大会が新京の神武殿でありました。私は、わずかの時間の差で見損なってしまいましたが。 ―それは有名な天竜さんとやったときの演武大会ですね。錚々たるメンバーだったんですよね。中山博道とか・・
多田:そうそう。弓の関係では、本多流の宗家が来られてた。父がよく知っており、私も新京でその宗家と一緒に忠霊塔の前で、写真を撮ったりしました。その写真は今でも持って居ります。 ―その頃の稽古はどういうふうになさっていたんですか?たしか植芝吉祥丸道主はお勤めになっていたんですね。 多田:そう、当時は若先生と呼ばれてましたが朝、勤めに出られる前に稽古され、また夕方6時半から稽古される。私らは朝6時半から1時間の稽古をして、その後いつも10時過ぎまでやっていました。 ―どういう方がいらしてたんですか? 多田:全部で五、六人しか居ませんでしたが、だいたい、早稲田の学生か、西会の人たちでした。西医学の会員の人達です。 ―ええ、西勝造、西式健康法。 多田:その関係の人達です。西先生の紹介で入った人達です。紹介された者以外はいないんですから。植芝道場は宣伝というものは一切しないから。今でもしませんけれど。 そこに海軍兵学校で終戦を迎えて、一橋大学に行っていた横山有作と、啓三の兄弟が居られ、有作さんの紹介で天風会と一九会(いちくうかい)に行くようになりました。 ―中村天風先生は戦後はどういう活動をされていたんですか?天風会は大正のころから始まっているんですよね。
多田:大正八年です。今、『運命を拓く』(講談社、1994年)という本が出ていますが、その序に杉山(彦一)さんが書いて居られます。杉山さんというのは今の天風会の会長で、東大の精神科のお医者さんでした。 ―大先生も同じ頃に亡くなれていますね。 多田:天風先生が43年の12月1日。翌年の4月26日に大先生が亡くなられたんです。私はヨーロッパに居りました。 ―じゃあ、どちらも死に目に会えなかったのですね。 多田:ええ、私の祖父が93で亡くなり、それから天風先生が亡くなって、大先生が亡くなった。その翌年に私は帰ってきました。植芝先生の一周忌に間に合うようにです。 戻ってきたというか、それが縁で戻れるようになりました。もしこの時戻ってこなかったら、まだ行ったっきりだったかも知れません。 ―天風会に入られたのは昭和何年ですか? 多田:25年です。 ―同じ年ですか。合気会に入られてすぐに? 多田:合気会に入ってすぐに、有作さんが、「こういう立派な先生が居られるけど、是非来ないか」と言うんで、直ぐに行きました。 ―で、どんな方だったんですか?中村天風先生という方は。
多田:そりゃ、素晴らしい先生でした。天風先生の一族は華族さんです。先生の父親は、中村祐興(なかむら・すけおき)といわれ、柳川藩主立花家に生まれ、中村家に養子に行き、後に王子の大蔵省造幣局の工場長になられた方です。 ―修猶館ですね。 多田:大正八年突然感じるところがあり、一切の職を捨て、心身統一法の普及を始められたんです。会の名を統一哲医学会、通称天風会と言いましたがね。財団法人となったのは、昭和三〇年代の後半になってからです。 ―僕などは講演録を読むだけなのですけれど、実際はどのような行をされていたんですか? 多田:天風先生の心身統一法の中心になっているのは、カルマ・ヨーガとラージャ・ヨーガです。日常生活の中での心の持ち方を統御して、それから精神の集中、統一。 ―ヨーガですか・・・ 多田:天風先生はカリアッパ師に導かれて、ヨーガの修行をされたのですから。 ―読んでいると人生哲学みたいなことが書かれてあるわけですけれど、天風会では実際にはヨーガをされていたんですか。 多田:ヨーガ哲学はインド哲学の精華と言われ、今欧米の知識階級の間で、世界一の人生哲学であるといわれています。『運命を拓く』という本の内容は、真理瞑想といわれていたものです。夏の特別講習会で、午前中に安定打坐がある。その時に天風先生が説かれた講義録です。 ―じゃあ、その前には実際には身体的ないろいろな行をするわけですか。 多田:一般の体操、統一体操といわれる裏筋肉を刺激する体操、呼吸法の基礎をまとめた呼吸操練、それからたとえばテレパシーの基礎練習等があります。 ―ブザーを鳴らしてというのがありますけれど。 多田:音を聴いて、というより、音に同化して、音が無くなった時、音のしない音に同化する。「心耳を澄まし空の声を聴く」。安定打座です。勿論ブザーを鳴らして行うのは、初心者が、直接感じ取ることが出来るから行うので、よく会得したらブザーの音は必要では有りません。 ―こういう瞑想法もヨガなんですか? 多田:音を使った瞑想の法はヨーガにも多いですね。しかし天風先生がこの方法を始められた事について、お話しになった事があります。先生は何時も、どうしたら、長い修行を行わなければ、なることが出来ない心の状態を、弟子に、より正しく、より早く教えることが出来るか、常に工夫、模索されていた。ある時、どこかの工場に招かれた。なにかの拍子で電気が切れて、その工場内の音が瞬間に消えた。その時、先生は、ヒマラヤで座禅を長い間行っていた時と同じ状態に、すっと吸い込まれるようになられた。それで、「これだっ」、と思われて、この方法を始められたということです。 ―では、よい音よりも、低周波みたいな音の方がいいわけですね。 多田:低い、おなかに響くような音がいい。ずーっと低い音がしていて、それがすぅと消える。 ―ぼくは鐘のような音が余韻を残しながらだんだん消えてゆくのに集中するのかと思っていました。違うんですね。他にはどんなことを?テレパシーの練習というのは、僕は前に一度、千葉でやりましたけれど。
多田:テレパシーの練習は時間をかけて真剣に研究していかないと。イタリア合気会でもそうとうに行って居ります。その為毎年1週間、呼吸法と、安定打坐とテレパシーの基礎練習を組んだ講習会も行っております。イタリア合気会で、最初にこの種の稽古を行ったのは、私がイタリアへ行って4年目の、ヴェネツィアで行った夏の合気道講習会からです。その時に始めて、「考えるのではなくて、感じる」稽古をした。考えることと、感じとることの違いというのは、分かるようで、なかなか分からない。 ―日本で先生があまりやられないのは、実際にやってみても、あまり反応がよくないからですか?
多田:いや、そうじゃない。場所と時間の問題です。 ―教える側の問題ですね。
多田:これは本題に関係があることですが、日本が明治維新で「脱亜入欧」と顔を欧米へ向けたでしょう。ちょうどその同じ時期に、ヨーロッパやアメリカにインドの優れたヨーガ行者が渡りだした。それからです人間の潜在意識とかに、向こうの人が非常に興味を持つようになった。それから100年以上たっている。精神と身体の問題、深層心理の問題が真剣に研究されてきた。 ―そんなに伝統があるとは知りませんでした。なんとなく、僕らは1960年代にアメリカなんかでヒッピー・ムーヴメントの中で東洋的なものが非常に流行ったというのは覚えているんですが・・・ 多田:それよりずっと前ですよ。ヨーロッパでいろんな人間が、心の問題を深く取り上げているけれど、恐らくインド人の出版物が出ていたし、それを知っていたはずです。そういう流れが底の方に今でもずっと続いている。それが表へ出てきた、第二次大戦後に。戦争中にひどい精神障害の症状が戦場で起きたでしょう。それについての研究が進んだ。 本当は武道も、それが分からないと、日本武道の本質は分からないのです。 普通日本の武道というと柔道や剣道のことが頭に浮かぶ。ところが現代の武道は、近代教育の方法です。明治維新以後、体操化して教育の中に持ち込まれた。それで日本の伝統的な教え方とは非常に異なる所がある。 ―日本の伝統的な教育法といいますと?
多田:一番の基礎に、心の問題を据え、その心に応じた体を築き上げる。常に心と体を一体と捉える、実践東洋哲学の行法としての武道です。 ―師というものに対して、決然として全幅の信頼を寄せる、ということがないと・・・ 多田:そうすると、植芝盛平先生が言われたように、「合気道は宗教ではない、だが宗教でもある」。信じるというのは、言葉では分からないこと、説明できないことだからですね。天風先生についても同じでしょう。 ―僕は良く分かります。大変よいことが書いてありますから。まあ、その通りですよね、という感じで。でも「目から鱗が落ちる」というような感じはしないんです。実際に師の肉声として聴くと全く違うということでしょうか。 多田:まあ、それは人によもよるでしょう。植芝先生は大本教を信じられたというけれど、大本教というよりは、出口王仁三郎聖師への絶対的帰依でしょう。 ―以前、断片的に中村天風先生の逸事についてはちょっと伺ったことがあるんですけれど、刀で頬を切ったとか・・・ 多田:そういうことは先生じゃなくても、他にやる人はいるでしょう。刀の刃を上にしてその上に乗るとか、沢山の針の上に寝るとか。ものによっては、誰でもが出来るという事ではないけど。 ―天風先生にはやはり超能力的な力があったんですか? 多田:先生はその力はずいぶんお有りになる方でしたね。今で言う「テレパシー・ノックアウト」とか。 ―気のシンポジウムのときに・・・ 多田:ああ、筑波大学で行われた。あのとき青木(宏之)さんがやったので随分話題になりましたが。天風先生も、時々行って見せられた事があります。 ―先生もかけられたことがありますか? 多田:あります。 ―どんな感じなんですか、やはりお腹が熱くなるんですか? 多田:そう。説明するのは難しいですね・その他、天風先生のなさることの受け身をとることもしました。 ―受け身ですか?体術をやられるんですか? 多田:いや、体術というか、心の力の使い方の、色々な実験です。天風先生のお教えは非常に整っていますから。 ―個人的にも非常に魅力のある方だったようですね? 多田:こわがる人もいましたがね。 ―先生が入られた頃は会員は何人くらいいたんですか?何万人もいたんですか? 多田:創立以来の会員を入れれば、そうかも知れません。その頃毎月護国寺の月光殿であった講習会に集まる人は、4、50人でしたが、夏の特別講習会には、全国から400名程が参加しておりました。 ―それは合気道の稽古と並行してされていたんですね。二つの心身運用法の、先生個人の中でのかかわりというのは、どういうものでした? 多田:私は天風先生のお話や稽古で、合気道が分かるようになったのです。植芝先生のお話は、核心になると、神様のお話となるので。 ―そうですね、僕もヴィデオなんかで聴いている限りは、何を言っているのか全然分からない。 多田:そうでなく、とっても分かりやすいこともありますけどね。そういうのは記録されていない。稽古が終わったあとで、先生の肩を揉んだり、背中を押したりしながら、先生がいろんなお話をされるのを聞く。これがとっても良く、分かりやすかった。技も、一般の稽古時間の後で、稽古をしている時に、先生が出て来られて「ここは、こうだ」というふうに教えて下さる。それがとてもよかったんです。 ―でも、今残っている限り、お話分からないですよね。 多田:難しいお話ではあったけれども、一種独特の雰囲気でしたから、分かっても、分からなくても、とにかく、よかったんです。 ―同時にこういう圧倒的な個性の持ち主である二人の先生に就くということは、僕なんかの考えでは、なんとなく修行者としては混乱するんじゃないかな、という気がするんですが・・・
多田:あんまりそういう事は、考えませんでしたね、私は。ここがいいとか、ここが難しいとか、全然違うということがないように思えた。「説明される方法は違うように見えるけれど、多分同じことを言われているんだろう」と思ってた。それは後になって、わかって来たのですが、正しかったと思っています。 ―個人で、ですか? 多田:その弟子の弟子の弟子・・・という影響を含めて。 ―・・・・・・・? 多田:弘法大師ですよ 。 ―あ、言えばよかった。そうじゃないかと思っていたんですよ。(笑)
多田:最澄と弘法大師。比叡山と高野山。 ―空海という人は修験道の修行もした人でしたね。
多田:空海は西安に行って何を学んできたかというと、ヨーガの行を習ってきた。今日世界中で、精神集中の科学として尊ばれている、ラージャ・ヨーガの行法が、今から1000年も前に日本に入ってきている。そして武道にも、大きな影響を与えたのです。ですから、心身相関の東洋の理論と実技を近代的に説かれた、天風先生の心身統一法を研究しておけば、武道の伝書を読んでも、よく分かるのです。 ―ヴィデオで見ると、古武道の中でも、600年前の形をそのまま伝えているという香取神道流の動きが非常に早くて合理的に見えるんですけれど・・・ 多田:香取神道流については、大竹利典師範によるところが、おおいですね。家の山田博信君もやっていて、免許教士を頂いていますね。 ―古武道、いろいろな流派が伝えられていますけれど、実際にはやってらっしゃる方が次第に少なくなっていますね。 多田:年々少なくなっているようです。 ―合気道は古武道という分類には入らないですね?
多田:入らないと思います。大東流は古武道に入るかも知れませんが。合気道は植芝盛平先生によって、導き出された、近代武道です。だから、「合気道は古武道だからスポーツ化したら新しくなる」というのは、私からみると、全くあべこべですね。 ―でも、合気道の教育的効果というのは、とてもあると思います。中学や高校の体育の正課に、剣道、柔道とならんで合気道を取り入れてもいいように思うんですけれど。 多田:もう、今度出来るようになっています。状況さえ整えば、この4月から。 ―え、そうなんですか!知りませんでした。 多田:知らなかった? 文部省から通達が出ているんです。たしか、例えば参段以上程度のものがいることと、時間数とかプログラムとか。すぐ取り入れても構わない。正課にも、クラブにも。たしか去年から中学校、今年から高校。ただ、やる人が少なくていない。 ―そうですか、これからはやる人はふえてくるんじゃないですか。合気会の方で基本的なプログラムを作らないといけませんね。 多田:それについても、いろいろわけが分からずに、武道の精神というものに、反対する人もあってね。 ―反対する人がいるんですか?
多田:いわゆる「武道の精神性」という言葉についてですね。日本の武道の心の道は二通りある。丁度、縄が二本の縄でよられているように、二つの道でなわれている。この道を学者は、心学の道、心法の道と言ってるようですが。 ―僕らは、師匠についていけばいい、と気楽に考えているんですが・・・
多田:そりゃ構わないさ。一つの会がそういうふうにやっているならば。「こう行くぞ」なんて言っても、出来ない。知らず知らずのうちにその道に進んで行くんです。そういうものです。 ―一九会というのはどういうものなのですか?山岡鉄舟の・・
多田:一九会というのは、大正の頃に、東京帝大のボート部の人達が、小倉鉄樹先生を奉じて始めた禅と禊による修行の会です。山岡鉄舟先生の命日である7月19日にちなみ、毎月19日に集まったので一九会と名付けられ、後に社団法人となりました。私が入ったときは、中野の野方町にあった古い、大正の震災よりずっと前に建った建物でした。 ―どういう修行法をなさるんですか?
多田:一番は呼吸法です。正座して鈴の音に合わせて、祝詞の一節を全身の声で発声する。そのうちに疲れて出なくなると、後ろからバーンと背中を叩く。するとまた声が出てくる。(笑)ま、それを毎日10時間、木曜に始まって日曜まで続けて、はじめて会員になることが出来ます。私はその当時、空手も合気道もやっていましたから体力はありました。いくら何をやっても、疲れはしないんです、でも、へその上辺りまで痺れて来ましたね。正座しているから。それでもね、終わったとき不思議だったのは、背中があざになるくらい叩かれれていても、身体全体がが生き生きとして、肌が光っているんです。一種の心身の清めの呼吸を、連続して行うのと同じですね。あの頃は全然分からなかったが、声と鈴の音とそれを振る動作が同化するんです。 ―僕はそんな恐ろしいところには・・・。(笑) 多田:ここ(月窓寺道場)の主立った人達は皆行ってますよ。自由が丘は小堀秋君と広瀬良三君くらいかな。外国人も行ってるし、青木増盛さんは65歳を過ぎてから行ってます。女の人も。大丈夫ですよ。中に飛び込めば、外で人が言うほどのことではありません。 ―僕の知り合いの若い男の子で、大学で合気道やってるのに一九会が好きなのがいて、一度行ったらやみつきになって、よく行ってるらしいです。「楽しいの?」って聞いたら、「楽しいですよお」って言うんですけど・・・(笑) 多田:気合いが入るようになる。若い頃は毎月行きました。昭和39年、私がヨーロッパに行く年に、野方町から東久留米市の前沢に移転しました。騒音妨害だと周りから苦情が出たためです。(笑) ―もうひとつお聞きしたかったことなんですが、僕なんかは外国人に教えていて、身体のつくりや運用の仕方が違うな、と思うことが多いんですが、先生がヨーロッパで合気道を教えてこられて、話しを伺っていると、あまり身体のことで違いを感じられていないようなんですけれど・・・ 多田:あんまり違わなかったですね。全然同じだと言っても良い。困ったことという事もありませんし。 ―僕が最近書いた論文で書いたことですけど、ヨーロッパ人は僕たちと身体感覚も違うし、身体の運用の仕方も違う。身体の各部の名称もずれていたりしますね。そうすると、例えば、アメリカ人に合気道を教えると、ある種の動きが非常に習得できにくいということがあるんです。先生はそのへんのところをどうやってこられたのかと・・・
多田:全然、違わなかったです。私は本部道場の外、防衛庁、慶応、早稲田、学習院の合気道会の学生と稽古していましたが、それと全く変わらなかったですね。 ―いえいえ。しかし、これは僕にとっては意外なお話でした。身体のとらえ方が先生の方が本質的なのでしょう。インターナショナルな、というかすべての人間に共通しているような身体操作の基本というのがあるのでしょうか?
多田:最初のうちは言葉がよく分からない。それで大学書林の小さな辞書を離さずに持ち歩きました。稽古はとにかく、その他のことも、私のする事を、皆が無条件に真似するので、日常生活も、まるで油断が出来ませんでしたよ。 ―また、そういうふうに続々とイタリア人が入ってくるというのも不思議な気がするんですけど、何を求めて彼らは来るんでしょうね? 多田:勿論、人によってそれぞれ違う目的で入門して来ます。初めの頃は、「自分は弱すぎて兎みたいだから、なんとか強い狼みたいになって、相手を叩きのめしたい。と思って入会した。ところが、合気は愛だとか、和合だとかいうのでがっかりした」なんていう女の人も居ましたね。(笑) ―で、やめちゃったんですか? 多田:いや、そのまま続けていました。(笑) ―僕もそうですけど。(笑)東洋的な精神文化に対して、ある程度、予備知識があって、それにあこがれて、というのもありますか?
多田:メルジェという先生が居られた。イタリア合気会のパンフレットに「イタリア合気会を創った人々」というのを私が書いてありますが。 多田:イタリア合気会は、正式にはAssociazione di Clutura Tradizionale Giapponese(日本伝統文化の会)といい、イタリア共和国大統領の許可番号1978年7月8日 N・526号の Ente Morale(公益法人)の資格を持っています。イタリア政府公認の会だから、本当は、なかなかのものなのですよ。日本人が日本の文化の会を作り、政府公認の法人格を取りたいと思って申請しても、なかなか許可はおりないですね。 ―しかし立派な本ですね。 多田:今、約5000人居る、正会員が払う年会費で作ったものです。外国では、この様な会には、よそからの補助金は全くありませんから、これを維持し、発展させていくのに必要な、相当な年会費を会員全員が支払い、自立して居ります。それだけに熱心で、会を思う気持ちが強いですね。 ―メルジェ先生関係者以外にはどういう人たちが入ってこられたのですか。 多田:それは、色々な人がいます。勿論、日本に興味をもっている人が多いです。医師、弁護士、学生、体育関係の人。踊りのバレーの人、演武会を見て、あるいは紹介されて来た人。 どちらかといえば、インテリ層が多い。これは、合気道に関するかぎり、どこの国でもそうですね。 ―どうしてなんでしょうね。 多田:植芝盛平先生の噂、書物等を一応読み、合気道とは何か、と言うことを知ったうえで来るからではないですか。それに合気道には一種独特のリズムがある。このリズムの基礎は、とらわれない心なんですが、これを良く感じ取っているようです。ある大学の教授が説明演武会を見た後で、「私にとって合気道は音楽と同じ様に思えました」と言ってました。 ―弟子たちに、先生の方から修行上の心の構えとして求めたいということは・・・
多田:弟子といいいましても、色んな層があります。一言では言えません。皆が専門家になるわけでわない。ある程度の健康法としてやっている人もいますし。 ―あんまり合気道の本というのはないような気がしますけど。 多田:書物は、習った人がなんとなく忘れないためにまとめるとか、一年に一度しか先生につけないとか、そういう人が参考にするもの。それを読んで、うまくなるということはまずない。 ―でも、いろんな修行をされた方の芸談というのですか、芸術論というのですか、そういうものはどうですか? 多田:それはそれでいいんです。けれど、読み方を間違えると「極意にかぶれる」ということになって、昔は嫌われたんです。 ―先生は前に『猫の妙術』を読まれましたね。僕はあれまで武道書読まなかったんですけれど、先生にあのお話聞いてから、「あ、こういうものを読んでもいいのか」と思って、いろいろ読んでしまったのですけれど、これはまずかったんですか。「極意にかぶれて」しまったのでしょうか。(笑)
多田:合気道も稽古する時に、気をつけないと「飛び越す」ことがある。初心者が、がっちりとした稽古を、行わなければならない時に、名人しか出来ないような、崩した稽古ををやってしまう。結局、基本がめちゃくちゃになる。 ―今は、『秘伝・古流武術』のような刊行物があって、いろんな技術論とか奥義論とかいうものが定期刊行物で読めるという、一種の「古武道ジャーナリズム」が出来ているですけれど、先生は、初心の者がこういうものを読むのはあんまり・・・・ 多田:見たい人は見ればいい。しかし本当に何か道を一筋に追求している人にとっては、寄り道になることが多い。 ―僕らみたいのはどうでしょう。 多田:あまり上達はしない。余計なものを沢山背負い込んで行くだけです。 ―なかなか面白いことをしているなあ、という気がするんですけど・・・先生よりも一つか二つ若い世代で、青木(宏之)さんとか、甲野善紀とか、黒田鉄山とか、あるは坪井(香譲)さんとか、いうなれば古武道の「ニュー・ウエーヴ」みたいな動きがあって、その人たちのおかげで若い人たちの関心が高まっているということはあるんですが、そういうものに対してはどうお考えですか? 多田:いいんじゃないですか。 ―別にいいんじゃない、といわれても・・・ 多田:私がさっき言ったのは、父の時の伝統的なやり方ではそうだ、ということです。それと、専門的に稽古をする、心がけです。なかには先生がいない人もいますからね。一番困るのは、やりたいけれど先生がいない。自分の師範が見つからないという人でしょう。 ―師匠がいれば、本も読まずにすむし、批判もせずにすむ、ということですか。 多田:まあね。ちょっと違うけれど。(笑)そんなに難しい事じゃない。ただですね、今は非常にむずかしい。昔の教育というのは、小さい子供の時から四書五経の暗唱とその精神の実行でしょう。そういう世界に育っている、けれど今は全然違う。近代ヨーロッパ的、アメリカ的というか、、物事を批判的に、分析してみることが科学的でよいという、世界に育っている。技術的にはある程度いくかもしれないけれど、本当にすぐれた武道家は出るかなあ。むずかしいと思いますね。 ―今後の合気道の道統というのは、どうなっていくのでしょう。 多田:合気道は財団法人合気会の植芝守央本部道場長を中心に、若い師範達によって守られて行くでしょう。しかし、これかれの若い師範は、心の研究、特に精神集中の方法と体の技術の関連を、徹底的に研究し稽古する必要があります。 ―今の体制のままでは、それほど優秀な武道家は出てこない? 多田:いや、そうは言わない、けれど。でも、一種独特な雰囲気というものがなくなると思う。だいたいね、何かが乗り移った、と思われるくらいでないと・・。簡単に言えばね、トランス(trance)に入れるかということだ。技術に真剣に打ち込み、トランスに入るようでなければならない。それにはね、技術に非常に熟練し、動かない信念を持っ必要がある。 ―面白いですね。信念を持っている方がトラスしやすいんですか。 多田:信念と言ったって、頭の中で考えているんじゃない。合気道と自分の生き方と同化していると感じているようでなければ・・・・外から見たら憑き物がついていると思うくらいでなきゃ。 ―話は変わりますが、先生、本をお出しになると言っておられながら、なかなかお出しにならないのですが、(笑)あれはどうなっているのですか? 多田:イタリア合気会では30周年を今年やるから、それから・・・。 ―先に日本語でお書きになるんですか? 多田:イタリア語にはダニエラが訳したいと言っていますし、その他英独仏と予約はいっぱい来てるんですが・・・。 ―その日本語の段階のものを、多田塾門下生に読ませて頂けるとありがたいのですが。 多田:そうですね。 ―なんとか出して頂かないと。なかなかじかに先生のお話を伺う機会のない門弟や孫弟子もおりますから・・・
多田:これで、まとめられる?(笑) ―前から先生はよく断食の経験について話されていましたけれど、それほど重要な柱になっている経験なんですか? 多田:断食をしなければ経験出来なかったことが、沢山有りましたから。 ―どんな経験ですか? 多田:さっき心が身体にすぐ影響を与えると言ったでしょう。断食も二週間を過ぎると胃が止まっている。ところが、ふっと食べ物のことを考えると、すぐ胃がどくんどくんと動き出すのが分かる。一つは唾液が入るからとも思うが。それだけじゃない。神経が敏感になっているので、心の状態をすぐに体が表現するのがわかるわけです。 ―断食を始められたそもそものものきっかけは、どういうことからですか? 多田:私が初段の頃、:入門してその年の7月に初段になったんですが。 ―3月に入って、7月に初段になったんですか?早いですね!(笑) 多田:朝からやってましたから。:当時植芝道場では毎月第一日曜日に、合気座談会というものがありました。道場の先輩には社会的に有名な方が多かったが、その他にも偉い人達が来られて体験談をされたり、実演や国宝級の刀剣の展示があったりしたんです。ある月のその会に、桜沢如一先生、:知ってますか? ―知ってます。 多田::が来られ、無双原理について話されたんです。その後、桜沢先生の会で合気道を稽古する話が出て、先生の合宿所が、東横線の日吉にあった、家の自由が丘から近いので、私に稽古に行ってくれと言われて、何回か行きました。その時中村エイヴさんという人がいた。桜沢先生のところは、なんかみんなヨーロッパの名前を付けるんです。 ―ええ、ジョルジュ・オーサワとか、そうでしたね。
多田:その中村さんは立山で、30日間の断食をやったことがある。立山に仙人の様な人が居て、その方についてです。断食20何日か過ぎると、朝、その日に何があるか、分かる様になった。人の考えていることまでが、全部分かったと言うんです。 ―死にませんかね。即身仏になりませんか。 多田:山根 寿々恵という、東京女高師今のお茶の水女子大を出ている学校の先生だったが、何か悩みがあってか25歳の時、成田山の断食堂に入籠し、毎日水行して、お百度回りをしたという。お百度というのは、本堂の周りをぐるぐる走るように回る。約10キロ位になるという。時にはお百度を5回、500回ったと言うんです。50キロ。断食中に。この様な長期の断食の場合は途中で少し食事を取るのかもしれないが、それにしても、110日行ってそれほど疲労したようには見えなかったというのです。 ―その人は、そのあとどうなったんですか?解脱しちゃったとか。 多田:その修行で霊感を得て、女仙人として有名で、当時の新聞には、よく報道されていたということです。 ―先生はどれくらいされたんですか? 多田:最初は家の離れで一週間やり、その1ヶ月後に小仏峠にある臨済宗の宝珠寺で、三週間行いました。その後は家で二回行いました。 ―その間も普通に日常生活を送っているのですか? 多田:一週間程度の断食ですと、日常生活は、普通にしていても、大丈夫です。三週間になると、それでは一寸きつい。 ―一週間の断食のときはどうでした?
多田:始めての時は、ほぼ失敗でした。父親が「断食をしてるんだって、大変な事だ。休んでなさい」と言うので、半分寝るみたいにしていました。寝るとね、動けなくなってしまうんです。よくハンガー・ストライキで半分寝てるでしょ。ああすると動けなくなる。いやいや、やったら尚更で、ものすごく危険です。いやいや、やっては、いけない。楽しんでやらなきゃ。私の父は中学生の時、博物学者になりたいと思っていただけ有って、何でも知っている人だったが、さすがに断食のことだけは、知らなかったらしい。 ―西瓜で死んじゃうんですか。 多田:体の細胞が新生する力を欲しがっている、が胃腸は未だ本格的には働けない。そこに大量のものを入れると・・・。だから難民の人たちも、いきなり大量に食べさせては危ないんだ。 ―じゃあ、胃が止まっている間は飢餓感ないわけですか? 多田:3週間程度なら無いです。非常に長い断食で死に近づくと、危険信号のように出てくると言うが・・・。 でも、断食始めた動機の一つには、戦争中のように又食物が無くなっても、平気でありたい、そう驚かないようにしようと思ってね。(笑)。 ―どうなるんですか。体感の変化というのは? 多田:その頃、私の体重は平均して70キロ程でした。家でやったそのなごりで、63キロくらいでしたが、それからまた10キロ程痩せました。 ―先生の場合は、かなり絞り込まれた身体ですから、それからさらに落ちるというと、もう筋肉が落ちるわけですか? 多田:体全体が細くなりました。だけど峠に登った時も平気だった。 ―どんな感じの変化があるのですか?
多田:家に戻り、一週間ほどしてから、何時も行っていた朝のマラソンを、始めました。 6時に自由が丘の家から、目黒通りへ出て、上野毛から、多摩川に行く。ずっと下って、昔の温室村の辺りから田園調布を抜けて、家に戻ると丁度15キロ程になります。 ―学校休んで断食なんかしてて、いいんですか?(笑)そのときの冴えてる感じというのは、稽古をしているときなんかはどういうふうになるんですか? 多田:植芝先生のご指導を受けていて、先生に触れると瞬間に頭が空になるというのが、感じられるんです。つまり植芝先生と同じ状態になるらしい、とわかりました。 ―あ、同調するわけですか?先生の自我がなくなっちゃう。 多田:先生が無心だからでしょうね。 ―それは、すごいですね。 多田:前からそうかもしれない、と思ってはいました。然し、その時は、”確かにそうだ”と感じ取ったんです。先生と私とは別の体、という感じがない。 この事を友人に話しても、当時はなかなか信じないというか、分からなかったのですが、最近は素直に信じるようになってきました。 ―青木さんがやったときは、たしか脳波をとって、遠当てのときに同調していたそうですね。 多田:気功師が治療している時、患者の脳波が治療師の脳波と同調していると報じられた事があるでしょう。だから最近の人は信じるけど、ついこの間まで、そんな話しをしても、なかなか信じなかったんですよ。 ―その瞬間、記憶がない? 多田:いや記憶がないんじゃない。普通より、むしろ透明な、よりはっきりした状態です。そうでなければ、大先生と同じ様な状態になった、ということを感じ取れて、いないでしょう。以心伝心とは、本来この様な事からではないかと思いますね。 ―あ、そうか。自分の身体に伝わってくるんですね。
多田:何も分からなかったら稽古になりません。先生に投げられる瞬間には、独特な雰囲気の呼吸がある。それを直に得ることが出来るから、先生に手を取って教えて頂くのが、本当に大切なのです・・。 ―今の弟子たちの中で断食したものはおりますか? 多田:今ドイツに行っている林賢二君が月窓寺で稽古して居る時、一週間のを何回かやっています。合気道の稽古も普通に行っていました。入江嘉信君も時々やってる。だけど、皆に無理には薦められません。私は身体にいいと思いますが。よほど気をつけないと、危険な面もありますから。それと、良い指導者が居られる、静かな道場で行う必要があります。海よりも山の方が良いと思う。家でやると、家族が食事するから。こちらは目の前で人が食事をしても平気なのですが、でも食べてる家族の方が気兼ねして・・。最も大切なことは、断食をする日数を決めたら、決して途中で止めないことです。止めると非常に大きな挫折感を、心に持ち込むことになり良くありません。 ―最初は桜沢如一さんのところで会った中村エイブさんという人がきっかけだったんでしたね。立山に30日間こもって、仙人に会って、仙人に自分もなってしまったという。その日一日のことが分かってしまったり、人の考えてることが分かったり・・・、 多田:そうそう、それは本当。「僕もそうなってみたいな」と思って。(笑) ―先生って、わりとそういうの好きなんですね。(笑) 多田:なにしろ親父が言ってましたけど、「宏は人の言うことを、なんでもすぐに信じる」(爆笑) ―横山兄弟に「面白いことがあるよ」と言われると、わりとすぐに・・・ 多田:「あそこにこういう先生がおられるから」と言われると、すぐに行く。一九会道場も直ぐに行きました。 ―迷わずに。ある意味でそれ、先生はすごく勘がいいんじゃないですか?選ぶ時に。その当時に、植芝盛平先生、中村天風先生のところに迷わず行くわけですね。まっすぐに。その前は、船越義珍先生。とにかく無駄なこと、迂回をしないで・・・それって、先生、すごく勘がよろしいんじゃないですか。
多田:そういう点は有り難かったですね。 ―多田先生は今でも肉食はされないんですよね。 多田:肉は食べません。骨ごと食べられる魚か、鶏を少し食べますが、ご飯は玄米です。 ―でも、先生は弟子に向かってはあまりおっしゃりませんね。食養というか、食餌制限みたいなことは。
多田:野菜を多く食べるといい・・・。90歳位になったら、少し健康法も説けるかな。それまで生きてられないと、健康法は教えられない。(笑) ―そういえば、先生も「合気道は健康にいい」とおっしゃいませんものね。じゃあ、90を過ぎたら健康法ですか。(笑)だいぶまだ先ですけど、楽しみにしております。 もう2時間になってしまいましたので、このへんでインタビューを終わらせて頂きます。先生、今日は長い時間おつきあい下さいまして、本当にありがとうございました。
[インタビュウーを終えて] 「このインタビューは『東洋の身体・西洋の身体』(1994年度神戸女学院大学総合 研究助成共同報告書・村上直之・渡部充・内田樹共編、1995年4月刊)に収録され たものである。」 |