熊井姓の由来
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陸上では「鎌倉街道」、海上では「瀬戸内海」、この二つの道が全国に分布する熊井姓の由来を解き明かす鍵となるのでは*
(其の分岐点ですが、鎌倉時代は京都と鎌倉が中心でした。しかし、室町時代になると武人たちの関心は、平安時代のように、商業の地である京都と西国に移り、鎌倉は次第に求心力を失っていったという時流にあるようです)
 
 太田亮著の『姓氏家系大辞典(第二巻)』の「熊井」の項には、(1)武蔵の熊井(2)信濃の熊井(3)豊前の熊井があげられています。熊井姓が一番多い県(熊井姓の分布図参考)は、熊井姓の集中地区が皆無である東京都の176戸をのぞけば、長野県の253戸、二番目が埼玉県の249戸で、三番目に福岡県の145戸ですから、ほぼ姓氏家系大辞典の記載されていることと符合しています。なるほど、とこれで納得してしまえば、三県の熊井姓がそれぞれ別個の場所で呱々の声をあげたことになってしまいます。
 
 埼玉県比企郡鳩山町に熊井の地があります。武士団の名は各地に地名として残り、鳩山町熊井にも熊井党の館跡が存在しています。この地は古代から信濃との関係が深く、鎌倉から武蔵丘陵の東端を通って上州を抜け信濃へと至る「鎌倉街道上道」の要所となってきました。御存知『御伽草子』の「唐糸そうし」にもこの鎌倉街道についての記述があります。
「万寿の姫(義仲に味方したとの理由で頼朝に捕らえられた諏訪神社下社祝金刺氏手塚太郎の娘である唐糸の前の娘)は、雨の宮(千曲川南岸の邑)を立ち出でて、……、浅間の岳に立つ煙、……、いま入山(碓氷峠)をうち過ぎて、上野国に隠れ亡き常磐の宿もうち越えて、一の御宮(富岡市貴前神社)を伏し拝み、二のたまはら(赤城神社)に出でしかば、親の名のみか秩父山、末まつ山(東松山)をうち過ぎて、霞の関(南多摩郡関戸)をも分け越して、入間の郡八瀬の里(入間郡豊岡辺)、いくらかの里をか越しつらん。曇らぬかげは星の谷(厚木市辺)の、砥上河原(藤沢鵠沼辺)をもうち過ぎて、鎌倉山に着き給ふ」(管理者注 この諏訪下社大祝金刺盛澄は鎌倉に捕らえられていたが、鶴岡八幡宮放生会で、盛澄の弓の妙技に感じた頼朝により赦免されています『吾妻鏡』)

 鎌倉街道は信濃との関係がこれほど深かったものですから、鳩山町北隣の嵐山町大蔵にはご存じ木曽義仲の父源義賢の館があり、鳩山町熊井と同じく源頼朝幕下の熊井太郎忠基の館跡との言い伝えが残る横浜市緑区川和町妙蓮寺も、鎌倉街道瀬谷にほど近い位置にありました。義経の正妻・郷姫は川越上戸に館(現常楽寺)を構える豪族河越重頼の娘でしたが、この河越氏は、やはり鎌倉街道が通る入間郡葛貫(坂戸市)を開拓して馬牧を経営し、河越別当葛貫別当と称していました。……ちょっと脇道に逸れますが、この河越氏は鎌倉時代に地頭として豊後国香々地(大分県香々地町)に移住(『武蔵武士(下)』成迫政則 まつやま書房 河越氏参照)。ちょうど同じ頃に熊井党が坂戸市の北隣である鳩山町熊井の地から忽然と姿を消しています。この大分県香々地町が熊井姓集中地区のひとつでもあるのですから面白いですね。いずれにしても、源氏の頭領である頼朝が亡くなり執権北条氏の時代になると、頼朝恩顧の御家人たちの多くが歴史の表舞台から消えていきました。
 この鎌倉街道沿いの各地には「巨人伝説」が残されています。比企郡鳩山町熊井に近い今宿の石橋供養塔の付近には清水がわき出している「ダイロ(大太郎がなまって大郎。即ち、巨人)ボッチの足跡」と呼ばれている窪地があります。これは大昔ダイロボッチが岩殿山に向かったときの足跡だそうです。長野県塩尻市熊井は高ボッチ高原の西側山麓を西流する小河川の扇状地の上にあります。高ボッチ高原のボッチの由来は「法師」、例えば「一人法師」と書いて「ひとりぼっち」と読む具合に。この法師は巨人で、高ボッチ山はこの法師が腰掛けた跡で、諏訪湖はその法師の足跡だとのことです。塩尻熊井と埼玉熊井の不思議な符合です。さらには、鳩山町の嵐山町を挟んで隣の比企郡小川町には、巨人の手の跡が残る岩に、諏訪神社が祀られています。これらの巨人伝説は、歴史の舞台から消えていったスーパースター頼朝・義経・義仲そして彼等恩顧の武将たちの名残なのかもしれませんよ。(……「ボッチ」といえば、また寄り道をしますが、山伏も考えられますね。福井県の勝山市に古くから熊井姓のお宅があり、また白山市(旧鶴来町)にも古くから人形芝居「熊井太郎」が演じられています。雪深い北陸の町にどうしてだろうか、と前々から疑問に思っていたのですが、『週間義経伝説紀行』(第25号)「義経と歩く」を読み、そうかそうだったのか、と目を開かれる思いがしました。「比叡山を発った義経主従は、(中略)白山系山伏衆(当時比叡山との関わりが深く、反鎌倉の一大勢力でもあった)の協力がなければとても無事に奥州までたどりつけるものではなかった」。福井・石川・岐阜の県境にそびえる白山は古代から山岳信仰の山で、勝山からも鶴来からも、もそれぞれに信仰登山のための登山口があります。義経伝説をとおして、やはり勝山や鶴来にも、「熊井」との接点があったわけです。熊井姓の分布については、後に述べる諏訪神社とともに、白山神社の存在も無視することはできません)
 時代はだいぶ下がりますが、秀吉によって家康が江戸に移封されたときにも鎌倉街道にそって、信濃への押さえとして松尾の小笠原信嶺は本庄、諏訪因幡守頼水は小川町奈良梨、飯田の菅沼定利は(上野)吉井、小諸の依田(松平)康貞は(上野)藤岡に配されたのでした。 さらに興味深いことに、鎌倉から川崎・川口・岩槻・小山・を経て奥州へと結ぶもう一本の「鎌倉街道中道」添いの町々にも熊井姓の集中する鳩ヶ谷市・桶川・菖蒲町・川里町が、まるで数珠繋ぎのように連なっています。しかも鎌倉街道中道からは菖蒲町の辺りから鴻巣市・吉見町・東松山市を通って鎌倉街道上道の鳩山町熊井の地に至る街道が出ています。 菖蒲町の先の栗橋には奥州平泉に逃れた義経を追ってこのあたりまできた、義経の愛妾「静御前」の墓が残っています。熊井太郎や熊井喜三太は義経配下の武将の一人と言い伝えられています。静御前はその地その地の知人を頼りながら栗橋の地までようやく辿りついて、ついに尽きた。静御前が頼ったそれらの知人の中に熊井太郎や熊井喜三太の縁者がいた。そうと考えれば熊井姓がこれら町々に多いのは何の不思議もないように思えますが、さてどうでしょう。ちょっと飛躍がすぎるかな。もっとも熊井姓が40軒も集中する鳩ヶ谷市にはかって鳩井氏という地頭がいて、この鳩井氏はやはり8軒の熊井姓が集中している菖蒲町栢間に応永6年(1399)に領地替えしています(『鳩ヶ谷歴史往来』平野清著 文芸社刊 36頁〜37頁参照)。この鳩井という姓は電話帳には現在全国でたった1軒しか掲載されていません。あるいは、この「鎌倉街道中道」添いの熊井姓のお宅は、鳩井氏がいつの頃からか熊井に改姓したとも考えられなくもありません。ちなみに熊井を「クマガイ」と呼ぶことがあるように、この鳩井も「ハトガイ」と読み、後に「鳩ヶ谷」と呼ばれるようになりました。
 
 さて本題の戻ります。長野県塩尻市片丘に熊井という地名があります。『吾妻鏡』に記載のある平安末期の荘園、筑摩郡熊井郷がその地です。
 たまたま手元に「荘園」について書かれた本が二冊ありますので、紐解いてみました。
 大川周明氏の、なにしろこれは戦時体制版(昭和13年9月発刊)で、内容については問題の多い著書ですが、『日本二千六百年史』(第一書房)「第9章 貴族政治の堕落と武士勢力の台頭」から「荘園」に関して述べてある部分を、ちょっと長くなりますが、そのまま抜き書きしてみます。
 曰く、「大化改新による土地国有制は、開墾の奨励、功臣への恩賞、寺社への寄進によって、私有田が年々増加し来たるにおよんで、ついに跡形もなく廃れてしまった。平安朝の中葉にいたりては、貴族および勢力ある寺院が、競うて土地の占有につとめ、ついには直接国家に属して地方長官の治下にある公領が、大寺権門の私有地の百分の一に満たざるに至った。かくのごとき私有地を〔荘園〕と呼んだ。荘園増加の勢いにつれて、地方には新たに豪族が起こってきた。これらの豪族はいわゆる諸国の住人にして後に武士と呼ばれしものの先駆である。それらの住人のうちには、はじめ国司となりて京都よりくだり、任期終わりても帰らず土着して、私墾田の領主となれる者もある。あるいは皇室の荘園を監督して一定の年貢を献じ、己は地方にありて事実上のの領主たりしものもある。あるいは自己の私墾田を、名義だけは権門勢家に献じてその荘園となし、かくして国司の課税をまぬがれ、かつその所有権を確実ならしめ、一定の貢賦を領家に納めて、己は荘司の名の下に、領主の実権を握っていたものもある。彼らは自己の所有を保護するため、武術を練って有事の日に備えた。かくて自らは一団をなし、庶子分家をは「家子」と称し、家人を「郎党」と呼び、人数多きは一陣をなして党を称し、党ごとに「旗頭」をたて、いわゆる「住人」自らこれに任じていた。」

 また『日本経済史』(有斐閣新書)「荘園体制の展開」の章においても「鎌倉府を支えた東国御家人の本拠地は、十一世紀から十二世紀ごろその一族が開発したとされる地であり、名字の地として、その地名を名のっている」そうですし、また塩尻市南内田青柳源之丞氏資料にも「江戸時代の小野神社神官表に、大祝(長官)小野信濃大掾、佑祝(次官)熊井備中守の名あり。小野神社神官佑祝熊井氏は、建御名方命の子彦守別命の子武彦根の子孫にて、小野神社の神官をなせり。小野郷に住む。主計正照彦剛勇にて武を好む。奥羽の戦(後三年の役)に功あり、熊井荘及び片丘付近六ヶ荘を賜り、熊井の里に館を建つ。荘司たり、熊井姓を名のる」ともありますから、熊井姓は筑摩郡熊井郷の荘官が名のった、ともいえそうです。
 
 熊井の地名の由来について、手元にある『埼玉県地名誌』(韮崎一三郎著、北辰図書)259頁において、(1)クマには曲がった谷間と(2)山間の小平地という二つの意味があって、比企郡内熊井の地形をみると(1)の意味に解するのが妥当であろう。「井」には邑落の義があるから、「曲がった谷間に村落をなしたので、その名が生じたとみられる」との説明がなされています。しかし曲がった谷間にある村落を「熊井」と呼ぶなら、そんな場所はこの山国日本のいたるところにあるでしょう。それが全国でわずか信濃、武蔵、紀伊、土佐の四カ所というのは、いかにも少なすぎる気がしませんか。…日本文化の奥深くには朝鮮文化が息づいているともいわれています。蛇足ですが、金達寿氏の『日本の中の朝鮮文化』(講談社文庫)をによれば、朝鮮語で「熊」は「コム」といって、「神聖なるもの」、例えば人熊(インコム)と書いて「王様」、または奥まったところにある野原」の意味だそうです。世帯数の中で熊井姓の割合が最も突出している我が遠祖菩提の地大岡村が、「聖」高原の西北に位置しているというのも、興味ひかれるところです。
 熊井の地名の由来には、これまで見てきたように、様々な説があります。しかし、私はやはり「入植した開拓者によって名付けられた」との考えを選択したく思います。熊井郷は国衙領でした。国司の支配下にある国衙領を実質的に管理したのは、国衙で実務をとる在庁官人であり、在庁官人には開発領主があてられる場合が多くなった。彼らは国衙領を自分の勢力範囲を定めて分割し、あたかも自分の領地のように管理した。
 またこんなことも可能性の一つとして考えられます。
 国司の地位が公卿等の給与として支給され、その公卿の推薦により国司が任命されたことを示(和田英松著講談社学術文庫『官職要解』61頁)す「年給」という制度があります。これは公卿に与えられる給与ですから、一カ所だけではなく数カ所にまたがって支給されたこともあったでしょう。年給として支給された信濃、武蔵、紀伊、土佐それぞれの地に、公卿の推薦によって任命された国司たち(おそらくその公卿の実子もしくは縁につながる一族、あるいは目代と呼ばれる有力な家来)が赴任した。解任後土着して、共通の「熊井」を名のった。もちろんこのことを証拠づけるには、『国司補任』等の資料を詳しく調べ、これらの四つの国に共通の国司の名前を割り出さなければなりません。
 長野県立図書館所蔵の系図師小池満慶の手による『美名鏡』に大岡村川口にあるもう一軒の熊井家祖は、大和源氏源頼親の末孫、であるとの記載があります。源頼親は大和源氏の祖で『尊卑分脈』によると永承2年(1047)に前信濃守として名があり、大和・周防・淡路等の国司も歴任しています。この頼親は晩年に土佐に流されてその地で亡くなっています。土佐にも熊井の地がありますね。そして源頼親は源満仲次男ですが、なんと(四男)従五位下武蔵守源頼平がいました。ウィキペディアフリー百科事典によると、源頼親は、正四位下、検非違使、左兵衛尉、左衛門尉、大和守、周防守、淡路守、信濃守などの官職を歴任して、「武勇人」「つはもの」と民衆から畏れられ、藤原道長は「殺人の上手なり」と評した。数カ国の守を歴任したが、大和国は三度も守と成り、その勢力を扶植した、とあります。『美名鏡』にはこの頼親の末孫熊井筑後守実親が「大和国熊井城主(現在調査中)」であったとあります。もしこの記述が本当なら頼親一族は「熊井」との関連が非常に強いとことになります。熊井の地名が残る信濃、武蔵、紀伊、土佐の四国に共通する国司の名はありませんが、頼親一族をひとつに考えれば、これらの地が、遙任国司頼親(一族)によって送り込こまれた頼親と縁のある者たちが土着して、介や掾という国衙の官人となり、古来から在地に基盤を持つ土豪たちとも手を結んで、都からくる受領国司(守)のもとで実権を握って開拓した可能性は高くなります。 そう言えば、塩尻市(長野県)の熊井様と、羽生市(埼玉県)の熊井様のお二人から、「熊井の先祖は熊井大和守」との情報をいただいております。『美名鏡』掲載の「熊井家祖は大和源氏源頼親の末孫」と正に符合し、信濃・武蔵・紀伊・土佐四カ国に共通する国司の発見か!と巧い具合にいくのですが、なにしろ小池満慶は「名うて」の系図師、さてさてどうしたものでしょう。 いずれにしても、「国府周辺の所領を中心に勢力を伸ばし、在庁官人でかつ信濃有力御家人として活躍しはじめた」(『長野県の歴史』山川出版 3章「源平争乱から中先代の乱へ 1 義仲・頼朝と信濃武士」参照)わけです。
 うひとつの可能性として、ちょっと時代はくだるのですが、鎌倉時代の仏教説話『沙石集』(説話捨遺卷六「説経師の施主分聞き悪き事」)に載る「熊井の地頭(諏訪神社下社大祝金刺氏…おそらく荘園主熊井氏はやがて金刺氏の家人となっていったのでしょう。室町時代になって金刺氏は滅びますが、諏訪神社上社と守護大名小笠原氏との戦いの中で、諏訪神社下社の大祝であった金刺氏は小笠原方に見方していました。従って熊井氏が小笠原氏の武将のひとりとして熊井の地を治めたというのも言われなきことではありません)」が、平家滅亡後、平家領であった西国の地に、「地頭」として赴任した。その赴任地も一カ所ではなく数カ国に分かれていた。
 さらには、後の足利尊氏が挙兵し六波羅探題の北条氏を滅ぼしたときにも、味方した武士たちには地頭職(新補地頭)を給付しています。この武士たちの中にも熊井一族が居たとも考えられます。
 繰り返しになりますが(これはあくまでも仮説で、確証を与える必要があります)、埼玉県比企郡鳩山町和歌山県有田郡吉備町そして高知県幡多郡佐賀町などに残る地名熊井は、熊井姓の分布図から考えて、おそらく塩尻を本願とする熊井氏の一族(実子・庶子・別家・縁者)が赴任して土着し、本貫地が塩尻熊井だから「熊井」と名付けたのではないでしょうか。あるいはまた『美名鏡』に記述ある「大和熊井城」が熊井姓の本願の地源頼親の大和の支配地の一つに、ちょっとHな久米仙人を祀った久米寺の地があります。久米は「くまい」とも読めます。「大和熊井」とは「大和久米」のことでしょうか)で、やはり信濃、武蔵、紀伊、土佐に赴任もしくは流された源頼親(その一族)に有縁のものが開拓したその地を「久米」に因んで「熊井」と名づけ、自らも熊井姓を名のったとも考えらなくもありません。
 
 別にこうも考えられます。鎌倉時代は京都と鎌倉が中心でした。しかし、室町時代になると武人たちの関心、平安時代のように、(誤解を招く言葉をあえて使えば、土地を耕すよりははるかに手っ取り早く金の儲かる…何だか今の日本経済に似ていませんか)商業の地である京都と西国に移り、鎌倉は次第に求心力を失っていきました。それにつれて、おそらく熊井一族の関心も鎌倉から西国へと移っていった
 
和歌山県、高知県などに残る「熊井の地名」、そして熊井大和権守信直、熊井越中守久重、熊井勘解由など武人達たちが活躍していた場所がすべて、交易の道、瀬戸内海に接していることから、「海上豪族」あるいは「水軍」を視野に入れていいのかも知れません。この海上豪族を補助線として使うと、ちょっと横道に逸れてしまいますが、雪氷学者熊井基氏からの情報「東南アジアのボルネオ島南部の港にKmaiの地名があります。徳川時代にご朱印船が通っていた港です。関ヶ原の後に海外で活躍した武士達の名残ではないかと想像しています」も解きほぐすことが可能となります(このkumaiの地名の由来についてもインドネシア大使館で確認してみるつもりです)。久留米藩御用達の廻船問屋武駒屋(熊井姓)が豊臣時代には大阪の朱印船問屋だったとの情報も得ています。そして瀬戸内海から遙か遠い奥州石巻市にも、古くから熊井姓のお宅があります。石巻は北上川船運の入り口、海運の良港でした。この奥州の地には『清悦物語』でお分かりのように義経伝説が色濃く残っています。義経は何故奥州藤原氏を頼ったのでしょうか。平安時代末期、奥州安部氏と出羽清原氏との間で、奥羽地方をめぐる覇権争いが起こっています。前九年の役(1051〜1062)で清原氏を助け安部氏を滅ぼしたのが義経の高祖父源頼義であり、後三年の役(1083〜1087)即ち清原氏の内乱において後の藤原清衛を助けたのが祖父義家だった。(清原氏が藤原を名乗ったのは、安部氏の娘が滅亡した安部氏についた藤原経清(藤原秀郷の裔と伝えられる)の妻で、残された妻は二人の間の子清衛を連れ敵側大将子息清原武貞に嫁ぎ、後にその清衛が清原家の家督を継いだことによります)。ここからは海路の話に戻りますが、岩波講座『日本通史第七巻中世一』130頁に「奥州藤原氏の自立を支える交通路として、ここでとくに注目したいのは太平洋の海運である。(中略)柳之御所(管理者注 平泉藤原氏館跡)から大量の渥美・常滑焼の陶器ならびに中国産の陶器が出土した。これらの陶器は、その性質上、海運・水運を利用して平泉に運ばれたものであることは疑いない。渥美焼についていえば、北上川の河口の石巻市水沼に、中略、窯が発見されている」との見逃せない記述があります。そして平泉へ運ばれた渥美焼・常滑焼が焼かれた、伊勢湾を挟んで渥美半島・常滑(知多半島)の眼前に、志摩半島が突き出し、その地に伊勢神宮で知られる伊勢市があります。飯田辰彦氏の著作『河口の町へ』第八話三重県伊勢市宮川・磯町は「江戸初期、対岸の伊勢大湊を本拠に南蛮貿易で活躍した」角屋という廻船問屋が出ており、また「静女(管理者注 静御前)はここに神宮の大宮司、磯の前司の娘として生まれ、都に上って白拍子となり、義経と出会うことになる」・「兄頼朝に追われた義経が陸羽(奥州平泉)に落ち延びる際、静御前の生地である磯にしばらく潜伏し」ていた湊町であったわけです。熊井姓のお宅が古くから石巻市に残るのは、この海の道も考慮に入れていいのではないでしょうか。
 太平洋に面している千葉県夷隅郡御宿・安房郡千倉町南朝夷・北朝夷も熊井姓集中地区のひとつです。この地域は「西から人・もの・文化を黒潮の流れが運んでくる」、海上交通にとって重要な土地でした。千葉県の醤油醸造「ヤマサ醤油」・「野田醤油」ももともとは紀州の出でした。その紀州、那賀郡にも熊井姓集中地区があります。これは御存じ『木枯らし紋次郎』の「海鳴りに運命を聞いた」の没頭の記述です。「九十九里浜の鰯漁は、畿内や東海地方からの出漁民によって開拓された。地元の住民はもっぱら農業に精を出し、九十九里浜を塩浜に利用していたのに過ぎなかった。中略。鰯の殆どは干鰯、〆粕などの加工品となって、出荷された。干鰯、〆粕は良質な農耕肥料として、需要が増大する一方だったのだ。それは江戸と浦賀の問屋に集荷されたのち、東海道、畿内、紀州、阿波、中国地方の需要地域へ送られて行った」。 私がもうひとつ注目したいのは、夷隅郡・朝夷の「夷」という地名です。大分県西国東郡香々地町「夷」がこれまた熊井姓集中地区のひとつなのです。「夷」には「大漁」をあらわすほかにもいくつかの意味があります。そのなかに「えびすさま」の意味もあります。「えびすさま」は大国主命の息子です。諏訪大社の祭神である建御名方命の兄事代主命をいい、熊井神社(塩尻市片丘熊井)そして熊井氏が佑祝を任じていたという信濃二宮小野神社(塩尻市北小野)の主祭神でもあります。いささか飛躍がすぎるかも知れませんが、偶然にしてはちょっとできすぎていませんか。
 長野県塩尻市片丘御出身の熊井英水様からいただいた、「文献など全くなく、確かな事は言えませんが、私(熊井英水教授)が子供の頃から父(故人)から聞いていた話で、木曽義仲の家来で熊井太郎という武将がおり、木曽義仲と一緒に上洛してのち、源義経の軍勢に加わり、一の谷や屋島の合戦に戦功があった。従って瀬戸内海方面にもその子孫(熊井姓)が居る筈だ?というのです」、という新たな情報もここに付記しておきます。
 山深い信濃の熊井氏から、幾たびかの戦乱を経て、西国の海上豪族として呱々の声をあげた一族がいた。 陸上では「鎌倉街道」、海上では「瀬戸内海(そしておそらくは伊勢から石巻に至る太平岸の海路も含めて)」、この二つの道が熊井姓の由来を解き明かす鍵となる。 空想がどんどん広がっていって、なんだかとても楽しくなってまいりませんか

 『信濃史誌』によると塩尻市片丘の熊井城跡は、守護大名小笠原深志家の全面の固めでしたが天文十四年(1545)六月十四日に武田軍によって落とされ、その後信玄が再建したものです。
 長野各地の熊井姓の家々には、熊井城落城とともに逃れでて帰農したのだ、という伝承が残っています。
 塩尻市内を北上する河川に奈良井川と田川があります。この二つの河川は、松本市街を過ぎたあたりで薄川・女鳥羽川と合流して犀川となります。この犀川に上高地を源流とする梓川と、明科町で北から流れ下ってきた高瀬川が流れ込みます。犀川は長野市落合で千曲川と合流し、やがて信濃川と名をかえますが、不思議なことに長野県内の熊井姓のお宅の分布は、ほとんどがこの犀川水系と千曲川水系の中に集中しています(253世帯のうち220世帯)。
○高瀬川水系…松川村(10)・穂高町(14)・明科町(14)
○奈良井川・田川水系…塩尻市(27)・岡谷市(8)
○犀川水系…松本市(20)・豊科町(19)・大岡村(12)・長野市(50)
○千曲川水系…上田市(11)・更埴市(7)・須坂市(11)・山ノ内町(7)・牟礼村(10)
 犀川の支流のひとつ田川が、塩尻市片丘熊井を北上していることから、塩尻熊井を本願とする熊井一族に何らかの大事件が起こった結果、ばらばらになって川沿いに逃れ、それぞれの地に落ち延びていった。その大事件とは、天文14年(1545)6月14日の熊井城落城ではなかったのではないでしょうか。

 九州の熊井姓が信濃から出たのではという推論は、諏訪市に本社がある諏訪神社の末社が、その地に多いことからも伺い知ることができます。長野県から遠く離れた福岡県に、何故諏訪神社が多いのでしょうか。
 歴史というのは一筋縄ではいきませんが、あえてその理由を挙げてみました。
(1) 壇ノ浦の合戦で滅びた平家の没官領に地頭として送り込まれた関東武士が土着して、勧請した。文頭でも述べましたが、河越氏は鎌倉時代に武蔵国川越から地頭として豊後国香々地(大分県香々地町)に移住。ちょうど同じ頃に熊井党が鳩山町熊井の地から姿を消しています。この大分県香々地町は、熊井姓集中地区のひとつです。
(2) 元寇のとき異国警備番役として九州に下向した東国御家人が土着して勧請した。
(3) 南北朝争乱とそれに引き続く戦国時代に移り住んだ武人達が勧請した。当家の長野総本家に残る家系図にも、第十九代の添え書きに、「大阪一乱に後藤又兵衛に属して入城。薩州に行く」とあります。長野市長野市浅川押田の熊井氏も九州に行きまた戻ってきた、と言い伝えが残っています。したがって、この時期の移動がなかったわけでもありません。
(4) 江戸時代になって九州移封となった小笠原家の臣たちが勧請した。
 諏訪社の存在は、氏家系大辞典にのる宇都宮氏配下の将熊井大和権守(六郎左衛門尉)信直も秋月種長の岩石城城代熊井越中守久重も、そして熊井勘解由も(1)(2)(3)のいずれかの時代に、東国から九州の地に移り住んだ地頭あるいは関東武士たちの末裔であることを暗示しているのではないでしょうか。
 四国(伊予松山)の熊井姓は、天正15年(1586)5月に秀吉の九州平定が完了し、秀吉に謁見の礼をとらなかった宇都宮鎮房は伊予国に移封されたことによるものと考えられます。
 また頼朝の庶子といわれる豊後守護大名大友能直の裔である大友吉統は、戦下手により秀吉の逆鱗に触れて封を解かれ、文禄三年(1594)九月に水戸(後の秋田二十万石太守)佐竹義宣にあずけられました。そのときに水戸までついていった旧臣がいたそうです。秋田市仁井田にお住まいの熊井家には「秋田の殿様(佐竹義宣)について水戸からやってきた」との言い伝えがあるそうです。この熊井家は、あるいは、大友吉統について九州からやってきた旧臣の末裔かも知れませんね。
 もちろん歴史とは一筋縄ではいかないものです。例えば、浅野幸長の娘高原院(春姫)が十三歳で尾張初代藩主義直正室に輿入れしたとき、熊井重次は高原院付きとして尾張藩士になったように、輿入れに伴って他国に移住した熊井姓のお宅もあったことでしょう。

 (管理者注)
 
諏訪神社が全国に多い理由として、私にはちょっと不都合な説を見つけましたが、上記の(1)を補強する説とも考え、載せておきます。
 出典:『長野県の歴史』(山川出版)92頁「諏訪信仰の流布と北条氏」
「幕府は建暦2(1212)年以来、殺生禁断のため全国の守護・地頭に鷹狩りを禁止しましたが、諏訪大社の御贄狩だけは例外とした。(中略)このため全国の御家人らは諏訪社を勧請してその御贄狩と称して鷹狩りを続けた」。
 

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