県庁前はかつて、イエズス会本部、西奉行所、海軍伝習所があったところ
県庁前に「岬の教会」が建っていたと陶絵で紹介している
教会の建設

  開港してしばらくたった1579年(天正7年)、大村純忠とイエズス会巡察師ヴァリニャーノとの間で茂木を委託地としています。その契約内容は領土権も司法権もイエズス会にあったのではなく、大村家がこれを握るというものです。
 さらに、純忠の父で島原の領主有馬晴信は、沖田畷の戦いで宿敵の竜造寺隆信を破ったことを記念して彼の領地である浦上をイエズス会に贈っています。
 「沖田畷の合戦」(有馬晴信が薩摩・島津氏と協力して竜造寺隆信に勝利した合戦については、いつの日かまとめたいと思っています。)

 教会が林立
 イエズス会は、自分らの知行地となった長崎に日本布教の管区本部をおき、岬の先端に壮麗な教会を建設しました。教会は「岬の教会」とよばれていました。
 それと前後して、コレジヨ(大神学校)、セミナリヨ(小学校)もできました。
 切支丹が増加するにつれ、美しい教会が次々と建設され、今の県立図書館の高台には白亜のサンタ・マリア教会が、西上町にはサン・ジョアンパプチスタ教会が建設され、慶長8年から慶長17年の間に約10の教会が古川町、東大工町、今町、外浦町などにつくられたといわれています。そして切支丹の数は
長崎で5万といいますから当時の全人口の90パーセントが信徒であったと
記録されています。



 教育と文化の礎
 現在の県庁付近に建てられたコレジヨは、イエズス会員が高度の教育を日本人に与えた教育機関です。このコレジヨには日本最初の付属印刷所がおかれ、有名な天正の少年使節がヨーロッパから持ってかえった印刷機械によって聖人伝や漢和字書、日本大文典のようた本が印刷されたのでした。セミナリヨでは16歳前後の少年たちに日本語の読み書きのほか、ラテン語、声楽、器楽、水彩画、油画、銅版画、オルガン、天文儀器などを教えていたと言われています。
 長崎は、日本が西欧と始めて接触した唯一の街であり、その文明と宗教とがはるか海の彼方からもたらされた活気と活動にみちみちた都市でした。

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