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南米ペルー共和国の首都リマでは毎年10月18日・19日(2日間通しで)と28日に、「セニョール・デ・ロス・ミラグロス(奇跡の主)」と呼ばれる聖画像を戴いた御輿が市内を巡行します。

この御輿の表側にはパチャカミリャ地区で描かれた磔刑のキリスト像「セニョール・デ・ロス・ミラグロス」、もう一方の側には1696年に北の隣国エクアドルに現れた聖母マリア「ビルヘン・デ・ラス・ヌべス」の絵が描かれています。御輿は大量の金銀で飾られ、高さ4.5m、長さ約5m、重さは当初1040kgだったものが信者の寄進が増えるにつれ重くなり、1800kgを越えていると言われます。2500人を超える信徒・修道士達によって短い距離ずつ、20組の「クアドリーリャ」と呼ばれるグループごとに交代で担がれ、通りを巡行する主キリストの姿を求めて集まった何万人ものリマ市民達の熱狂を呼び起こします。

聖行列に際し、信徒・修道士たちは主キリストの御受難にちなみ紫色の衣を身に着け、白い帯を腰に巻いて参加します。また各地の教会では、その地区ごとに人々が集まり、お祈りをしたり賛歌を歌ったりします。

「奇跡の主」はリマのみならずペルー全体の国民的行事となっており、ペルーに隣接する南米各国の他、現在では北米やヨーロッパその他の国々でもそこに住むペルー人達によって行われるようになってきました。

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その起源は350年以上前の出来事に由来します。

スペインによる植民地統治時代の1651年、ある敬虔な黒人奴隷がリマのパチャカミリャ地区の粗末なレンガの壁に主キリストの磔刑像を描きました。(パチャカミリャ地区の名は、征服者でありリマの町の創設者であるフランシスコ・ピサロ(1476−1541)が、かつてインディオ文化の中心地の一つであったパチャカマクという町に住んでいたインディオ達をそこに移住させたことに由来しますが、当時リマの中でもとくに貧しい人々の住む地域でした。)

数年後の1655年11月にリマの町は大地震におそわれ全市はほぼ瓦礫の山と化してしまいましたが、不思議なことにこの絵が描かれた壁は奇跡的に崩れませんでした。

その後1670年にアンドレス・レオンという人が全く見捨てられていたこの主キリストの描かれた壁の周りの埃を払い、花やろうそくで飾り付け、屋根をつけました。

彼は数年来悪性腫瘍を患っていましたが、毎日この絵の前にひざまずき、「どうか治りますように」と祈っていました。すると腫瘍は少しずつ消え始め、やがて完治してしまったのです。

それ以来多くの信者がお祈りに来るようになりました。お祈りはだいたい毎週金曜日に行われ、その際には黒人達が独自に作った賛歌が太鼓やハープの伴奏付きで歌われていました。

教会の権威はインディオと黒人を中心としたこのような動きに対して驚き、その動きを止めようとしました。そして当時の統治者である副王に訴えてその絵を消すように命令を出させましたが、絵を塗りつぶそうとするとその人に何かの目に見えない力が働き、消すことが出来ませんでした。その知らせを聞いた副王は驚き、命令を撤回するだけではなくそこに小聖堂を建て、手厚く保護することを命じたのです。(現在この地はラス・ナサレーナス教会となっています。)

その後1687年10月にも大地震が起きましたが、この壁は無傷のままでした。その頃からこの絵は奇跡のシンボルとされ、「セニョール・デ・ロス・ミラグロス(奇跡の主)」と呼ばれるようになり、奇跡を讚える聖行列が油絵で模写されたキリスト磔刑図を掲げて現在のようなスタイルで行われるようになっていったようです。

その後も1746年の大地震の際やその他の数々の奇跡の噂が広まり、「奇跡の主」の聖行列は年々数多くの信者を集め、その規模を大きくしてきました。

神戸市およびその周辺には現在多くのペルー人等南米の人達が住んでいます。

住吉教会では1990年代前半から当時増え始めたペルー人を中心にその他の外国人、日本人信徒達が力をあわせ、日本で初めて「セニョール・デ・ロス・ミラグロス」のミサと聖行列を行ないました。地域住民の方々の協力や他府県からの参加者も増えて回を重ね現在にまで至るとともに、国内各地でのその後の多文化共生活動の端緒の一つともなりました。

21年前奇しくもかつてのペルーと同じように大地震の災厄に見舞われ損傷した住吉教会の聖堂は2006年に建替え工事が終わり、新しい姿でよみがえりました。気持ちを新たに皆が力と希望を与えられ、心を一つに出来ること、そして今年震災の被害にあわれた方々の心の平安を祈っております。

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SENOR DE LOS MILAGROS DE KOBE