サーカスと革命


双数姉妹『サーカスと革命』☆☆☆(10/29,THEATER/TOPS)

 開演、少し以上遅れて劇場に到着。完全に時間を見誤っていました。入れるかどうか心配だったけど、制作の人はとっても親切に席を教えてくれました。大隈裏で鍛えただけあって、双数の制作さんはいいですね。(^_^)
 
 革命直後のソ連。党員は極端な上下関係の中にあり、やがて来る共産主義の輝かしい未来を信じて、日夜官僚的に行動していた。調和管理局長官のポペドノーシコフ(今林久弥)も、自らの定型業務を定型的にこなし、書類や命令にそぐわない事については、尊大に対処するのを常としていた。その態度は、妻や秘書に対しても変わることなく、自らの権力が自らもたらされたものではないことに彼は気づいていなかった。
 現実の彼は跳躍師。演出家の云うとおりに、「長官」の役を演じる哀れな道化師。彼は役の上での権力が、脚本によってもたらされていることを百も承知していた。彼には権力は無いが、妻に対しては尊大に振る舞う。まるでそうするのが当然であるかのように。。。

 この芝居は、このような二重構造のもとに成り立っている。「長官」と「跳躍師」は、別の人格というよりは、同一人物といってよい。何かの拍子でそうなっていたであろう、「彼」の人生の両極端とみなすことができる。舞台が進む内に、それは役者「今林久弥」自身とも微妙に重なっていく。今まで、舞台上での演技中に素の状態で外野から茶々を入れるのは、今林久弥のおはこであったが、今回初めて、外野からの茶々という無防備な状態での芝居を強要される今林の平凡。役の上では長官だが、実生活では道化師というポペドノーシコフの平凡。なんとこれは双数姉妹始まって以来の「平凡な男の平凡な悲しみ」を描いた等身大の物語なのである(と私は思う)。その後、同様に今林が客席から、仮染めの長官として舞台上の演技に茶々を入れるシーンが逆に彼自身の惨めさを増幅する。

 カリカチュアライズされた明星真由美演じる妻の仕草が泣かせる。夫に疎んじられながらも、夫の機嫌を取ろうと、あれこれ努力する妻。そのことになおさら腹を立て、妻をないがしろにする夫。その妻が、未来から来た燐光輝く人とともに未来へと飛び立っていく。後に残された「長官」の惨めさ。。。
 共産主義を信じる当時のロシア人にとって、「共産主義が達成した輝かしい未来から来た人」は、まさに、キリスト者にとっての天使とでもいうべき存在であった。その天使から選ばれず、妻が行き、自分はいったい何をしていたのか、自分はいったい何者だったのかと自問する長官、実は道化師。そして、観客である私たちは、共産主義に未来などなかった事を知ってしまっているという現実。それらがないまぜになって、役者も観客も、皆が落ち込んだときに、ひょっこり現れる明星妻。亭主を笑わせる為のカリカチュア仕草。秘書もいる。尊大に振る舞いながらも嬉しい亭主。共産主義の未来が行っちゃって、虚飾が無くなったところから、平凡な男の明日が始まるのである。演技を終わって客席に向かい深々と礼をする道化師が、深々と下げた頭を上げたとき、そこには等身大の今林久弥がいた。。。

時かけ


観劇印象レビュー[ TOP | 95年 ] 時かけ