見沼の歴史その2
−見沼溜井の時代−

 代官頭伊奈備前守忠次の次男半十郎忠治は7000石を領して関東郡代になると、赤山に陣屋を築いて付近一帯の開発を進めています。

見沼溜井の造成
 寛永6年(1629)忠治は、荒川下流の新田開発のために、現在の元荒川筋を流れていた荒川本流を久下(くげ)(熊谷市)付近で締切り、和田吉野川筋から入間川筋に流下させています。これと同時に、見沼溜井の造成にも取りかかりました。見沼を囲む両岸の台地が、最も狭まる大間木(浦和市)の附島と木曽呂(川口市)の間に人工の堤を築くことにしました。その間の距離が8町(約870m)ほどあったので、八町堤と呼ばれ、今までも残っています。
 この堤の築造で、荒川下流域への灌漑用水池となって、新田開発が急速に進められていったのです。これが見沼溜井なのです。溜井には、上郷や溜井周辺の湧水や余排水が貯留されて、下郷の谷古田、平柳、舎人、渕江、浦和、戸田、笹目、安行の8ヶ領221か村の約5,000町歩(5,000ha)の水田に灌漑されたのです。

見沼の水没田
 見沼に溜井の水が貯留されていくにしたがい、見沼周辺の村々では、水没田がたくさんできてきました。これを、「水いかり」と呼んでいます。特に見沼中央部にあたる大宮市域では、被害が大きく、329石余も水いかりの影響をうけています。高鼻村や大和田村では、村高の3分の1が失われてしまったのです。
 水いかりは、八丁堤締切り当初から起こりはじめたようです。片柳(大宮市)の万年寺の記録によると、天正19年(1591)に朱印高20石を拝領しましたが、そのうち5石は慶長19年(1614)に染谷村に替地となり、ついで寛永6年(1629)には、水いかり分として、11石8斗2升が高畑村(浦和市)に代替されています。また、当時の「万年寺略詩吟」には、次第に溜井の水量が増してくると、万年寺付近の農家2,3軒とともに元禄の初めの頃に万年寺も村の北西の地に移転しなければならなくなったと詠み込んでいます。
 大宮の氷川大明神社領についても、承応3年(1654)の水いかり改めの覚えには、水没田74石分のうち、新開村(浦和市)ほか2村に51石余、別所村(浦和市)ほか1村に22石余の代替地を賜っています。

溜井周辺の景観
 溜井の面積は約9平方km、周囲の距離約40kmの規模を持って、常に沿岸諸村から湧水や排水が流れ込み、潤沢な水をたたえた沼水は、これを用水として利用している水下の8か領諸村の水田に潅水したのです。湖は、名称三沼のとおり、3水面に大別されるので、湾曲の出入りも多く、渺渺たる湖面の林藪に覆われた大宮台地との景観は変化に富み、四季の眺望はまさに山紫水明の佳境であったといわれています。
 浦和、大宮、上尾一帯は、紀伊徳川家の御鷹場で、大宮鷹場と呼ばれていました。初代頼宣公は、溜井沿岸の鷹場に出狩して、富士を眺めて、つぎのように詠んでいます。
   《 誰も見よ 箕沼(みぬま)の池に影うつる 富士の高嶺に雪の曙 》
 また、尾間木(浦和市)の清泰寺の御詠歌には、
   《 照る月に さざ波清く平らかに うろくずまでも 浮ぶ湖 》 とあります。
「うろくず」は魚類のことで、湖中には魚類が多く繁殖し、漁猟の利も多く、万治2年(1659)、奉行所は、漁猟者に1か年8両の運上金を課するとともに、毎年、三室氷川女体神社に鯉70本、鮒100枚を神饌するように申し渡しています(『見沼代用水沿革史』)。

見沼の龍神祭
 このように、不断の溜井は、穏やかで平安でしたが、ひとたび台風や豪雨が激しく襲えば、沼は忽ち(たちまち)氾濫して、周辺の民家や田野に大きな被害をもたらしたのです。万年寺では、元禄の水災難破船が出たので、龍神燈をかざして船の安全を図ったといいます。
 また、『岩槻巷談』には、正徳4年(1714)7月10日、岩槻慈恩寺に観音様のお開帳がありました。これに参詣しようと、木崎村(浦和市)より船に乗り、湖を渡っていた折に、にわかに突風が吹き荒れて、船を漕ぐ棹艫(さおろ)にも力が入らず、大浪に打呑まれて、船は忽ち転覆し、乗船者30余名はことごとく見沼の藻屑(もくず)となってしまったのです。それから近隣諸村の村人は、毎年、6月15日に木崎村から1里ほど隔たった沼中で最も深く、湖面が藍色に見える底なしの場所で龍神祭を行ったといいます。
 蒸した赤飯を飯台に入れて、沼に沈めて犠牲者の霊を慰めると、水が渦巻いて飯台を巻き込み、しばらくすると、金鱗の鯉が光を放って浮かび上がり箸を返すといわれています。
 真偽の程はいずれにせよ、見沼干拓されるまでの間は龍神祭は続けられたと伝えています。

坂東家の入江新田開発
 見沼溜井造成によって、見沼の3個の大鹿の角(つの)のうち、特に水底の浅い東角の部分は、大宮市の堀崎、大谷地区までが水面となっていたのです。これを干拓して新田を造成しようとしたのが、坂東助右衛門尚重であります。
 坂東助右衛門は、紀州名草郡加田の出身で、正保元年(1644)に江戸北新堀に住み、屋号を加田屋と称して町人となったのです。延宝3年(1675)幕府の許可を得て、見沼の東角(つの)の根元の片柳(大宮市)から野田(浦和市)に通ずる締切堤を築いて、沼水を堰き止め、膝子(大宮市)から沼水を落として干拓し、これを「入江新田」と称し、52町6反歩の新田が造成されました。
 この田地は、元禄8年(1695)上州厩橋城主酒井河内守の検地を受けています。 
坂東家は沼の隣地に居を構えていましたが、その跡地は、大宮市立の「くらしっく館」となり、当時の面影をとどめています。
 入江新田の干拓によって溜井の水量は減少し、用水源としての機能が低下したのです。このため、享保元年(1716)水下の八か領諸村から新田取潰しの訴訟が起され、同3年には沼に復元されたのです。その後、同13年、坂東家は再び新田開発を出願し、新めて、同家の屋号を冠した加田屋新田が再開発されたのです。

元禄14年新川用水開削計画案
 見沼溜井を利用する八か領の用水不足は、村下諸村の新田開発の進行に従い深刻になったのです。見沼溜井は縁辺の湧水や台地の排水を水源としているので、集水面積が狭く、貯水量には限界がありました。そこで、他の河川に水源を求める案が水下の農民からも出ています。元禄14年(1701)水下八か領の農民は、関東郡代伊奈半左衛門に水不足解消案として、元荒川を五丁台村(桶川市)で堰き止めて貯留し、それを見沼溜井に導くというものでした。
 一方、岩槻等の引水は、星川を利用し、騎西領堰を取払い、星川一筋にして、利根川から水を引き入れるという案でした。これは、後の見沼代用水路と同じ利根川からの導水でしたが、既に延宝元年(1673)忍領、岩槻領で検討し、絵図面まで作成し、忍、岩槻両藩役人も協議しています。また、名主の案内で、水盛りまで行っています。しかし、伊奈半左衛門は、今羽村(大宮市)、菅谷村(上尾市)等、五丁台溜井から見沼溜井までの諸村では水害の危険があることや、五丁台溜井に十分な貯水量が確保できるかと疑問があって反対したので、廃案としています。このようにして、利根川からの取水は延期されたのです。

著者プロフィール  秋葉 一男(あきば・かずお)
1927年埼玉県白岡町に生まれる。國學院大學文学部史学科卒業。埼玉県立博物館学芸部長、同民俗文化センター所長を経て同文書館長で退職。現在、幸手市史編集委員長、埼玉県警察学校講師、著書「埼玉ふるさと散歩・大宮市」(さきたま出版会)、「埼玉県の地名」(編著、平凡社)、「吉宗の時代と埼玉」(さきたま出版社) 他。


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