■□■□■ 日本と済州島(オロモルフ)■□■□■


■■■ 1.まえがき ■■■

 現在では韓国の一部になっている済州島は、古代には独立国で、日本(倭国)と密接に関係していたようです。
『日本書紀』、名越二荒之助先生の『日韓2000年の真実』、戦前の百科事典類、および呉善花先生や渡部昇一先生のエッセイを参考にして、少し記してみます。


■■■ 2.済州島の伝説 ■■■

 名越先生の本に、済州島の伝説が解説されています。
 それによると、李朝初期に編纂された『東国奥地勝覧』や『高麗史』に、次のような神話が書かれているそうです。

 昔、島の中心のハルラ山の麓の地面が急に膨れあがって三つの穴があき、その穴から一柱ずつ神が現れた。
 神々は島に女性も家畜もいなかったため寂しい思いをしていたが、ある日、東の浜辺*に大きな木の箱が流れ着いた。
(*:済州島の真東わずか200キロが五島列島です)
 あけてみると中に石の箱があり、その中から老人と三人の女神と家畜や五穀の種が出てきた。
 老人は語った。
「自分は日本の神の使いであるが、さきにこの国を開くため、神の子三人をおつかわしになったところ、配偶者がいなくて困っているときこしめされ、更にこれら三人の女を送って大業をなさしめようという思し召しである」
 そして老人は雲の中に姿を消した。
 三人の男神は喜んでこれらの女神と結婚し、田畑をつくり子供を産み増やして、済州島を栄えさせた。
 この三つの穴の伝説の地は、観光名所になっているそうです。

 この伝説は、呉善花さんも初期のエッセイの中で語っています。呉さんは済州島の生まれで、若いころからこの伝説を聞いていたそうです。
(韓国のある新聞では、この伝説が気に入らないので、三人の女神は百済王の姫だという話にすり替えているそうです)




■■■ 3.『日本書紀』の伝承 ■■■

『日本書紀』を読みますと、大和朝廷と済州島は古代から密接な関係があった事が推理できます。
 つまり、上の伝説と矛盾しない記述があります。

 神功皇后の摂政四十九年、配下の将軍が新羅を破り、七つの国を平定します。この七カ国平定を喜んだ百済王が七支刀(石上神宮に現存)と七子鏡を朝廷に贈ってきたという話で知られる事件です。
 この平定の直後に日本軍は海を渡って「忱弥多礼」を支配下におき、これを百済に贈ったと書かれています。
 年代は推定四世紀半ばです。
「仍移兵、西廻至古奚津、屠南蛮忱弥多礼、以賜百済。」
(七カ国を平定したので、兵を移して西に回って古奚津*に至り、そこから遠征して南蛮の忱弥多礼**を破って、百済に割譲した。)
*:古奚津(コケノツ)とは、半島から済州島に行く時の古代の港。現全羅南道康津の古名。
**:忱弥多礼(トムタレ)とは済州島の『日本書紀』における古名。

 つぎに、應神天皇の八年(推定四世紀後半)に、『百済記』からの引用があります。
「八年春三月、百済人来朝。百済記云、阿花王立无礼於貴国。故奪我忱弥多礼及?南・支侵・谷那東韓之地。是以遣王子直支于天朝、以脩先王之好也。」
(八年三月に百済人(直支*のこと)が来朝した。百済記に次のようにある。阿花王が即位してから貴国日本に失礼なことがあった。そのため怒った日本に、忱弥多礼と?南・支侵・谷那の東韓之地を奪われた。このため直支を日本の朝廷に差し出して、先王の友好を復せしめた**。)
*:直支とは、百済の王子で、人質として大和に来た人物。
**:『三国史記』には、西暦397年ごろに皇太子の直支を人質として倭国に送ったという記事があり、両国の史書でほぼ一致している。

 繼體天皇の二年(推定六世紀初頭)に、済州島の王が百済に使者を送った記事があります。
「十二月、南海中耽羅人初通百済国。」
(二年十二月に、(百済から見て)南海の耽羅人*が、初めて使者を百済の国に送った**。)
*:耽羅(タムラ)とは済州島のこと。
**:『三国史記』の『百済本記』には、これより少し前の五世紀後半に耽羅からの使者が来たとする話がある。三国史記の表記も耽羅となっている。

 齊明天皇の七年(西暦六六一年ごろ)に、済州島の王子が大和朝廷に朝貢に来た話がある。
「丁巳、耽羅始遣王子阿波伎等貢献。」
(七年五月二十三日に、耽羅が初めて朝貢に来た。使者は王子の阿波伎(アワキ)であった。*)
*:このあとに、遣唐使の一員だった伊吉連博得の本からの引用がある。それによると、遣唐使の船が帰路に航路に迷って耽羅に着いてしまった。そこで耽羅の王子を船に乗せて大和に届けた――という事らしい。

 以上の『日本書紀』の記述を見ますと、済州島を独立国として扱い、半島政権の一部、あるいは百済の一部とは見ていなかった――と感じられます。
(繼體天皇二年の記述など、とくにそうですし、齊明天皇七年の記述もそうですね。独立国扱いです)


■■■ 4.渡部昇一先生のエッセイ等 ■■■

 渡部昇一先生は、歴史エッセイの中で、日本と半島南部の関係について、次のような意味の説を書いておられます。
「古代における日本と半島南部(朝鮮海峡の両側)は、文化的にも人種的にも同一の地域だったのではないか。おそらく宗教も同じであり言葉も通じたであろう」
「白村江の大会戦のあと、百済から多くの人々が帰化したとされるが、彼らは帰化人というよりも帰国人だったのではないか。終戦後に満洲や朝鮮から帰国した日本人と似た境遇の人たちだったのではないか。『日本書紀』からそう想像される」

 また韓国に留学して歴史を勉強した作家の荒山徹も、「百済の文化や人材は韓国よりもむしろ日本に包摂された。したがって百済とは日本史の一部として扱うのが妥当である」と記しています。
 同氏は、現在の韓国文化の祖は新羅一国に絞るべきだという、韓国人学者の説を引いています。

 たしかに、『日本書紀』を読んでいると、そう感じます。
 このことは先に連載した『『日本書紀』に見る対外問題』の時も感じました。とても具体的に、日本から渡って先方で生まれた人物の事とか、日本から渡ってあちらの王になった人の話などもありますし、宗教も言葉も共通していたと考えられる帰化人の話などもあります」
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http://www.asahi-net.or.jp/~xx8f-ishr/taigai_kankei.htm

 名越先生は、先の大著の中で、戦国時代には大勢の日本人漁夫が済州島に住んでおり、済州島では「日本語が通じていた」――と記しておられます。
 文献名は分かりませんが、そのような資料があるのでしょう。
 倭寇が盛んだった時代には日本人は相当遠方まで進出していたわけですから、五島列島のすぐそばの済州島に日本漁民が大勢移住していたのは不思議でも何でもありません。
 五島列島と済州島の距離はわずか200キロで、東京から静岡くらい、瀬戸内航路の半分以下です。真東が五島列島です。
 太陽の昇る方角を少し行くと五島列島に着いてしまうのです。
 気候は長崎地方によく似ており、半島の新羅系と違って戦前は女尊男卑の風潮があったそうです。海女が盛んだったためでしょうか。
 まさに五島列島/長崎あたりとは一衣帯水です。




 2.の済州島に残る伝説と、3.の『日本書紀』の伝承とは、矛盾しておりません。
 済州島は古代から長い間独立した国であり、半島本土と日本は、済州島にとっては政治的に等距離であったような感じがします。
 済州島が政治的に朝鮮半島の一部になったのは、おそらく、統一新羅以後(たぶん李朝時代)だと思いますが、新羅系からの差別もあり、その後もかなり長期にわたって日本と密接な人的関係を保っていたような気がします。
 これを別の側面から見ますと、古代から日本と抗争を続けていた新羅(および高句麗)の文化を引き継ぐ半島本土とは少し違った文化を済州島は持っており、半島内部の人々よりも心理的に日本に近かったのではないでしょうか。
 そうでないと、戦国時代に大勢の日本人が住んでいて日本語が通じていた――とはならないでしょう。
(江戸時代になってそれら日本人の全てが日本に引き揚げたとも考えられず、済州島に溶け込んでしまった日本人が多数いたのではないでしょうか)
 済州島は独特の方言があるそうですが、古代の済州島語は、渡部昇一先生が言われる日本語と百済語の関係に近かったのではないか――と憶測しています。

 以上、素人の感想にすぎません。
(ところで、DNAなどではどうなっているんでしょうか? 最近では半島本土と混ざってしまって判別など出来ない?)

[おわり]


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