■□■□■『卑弥呼と日本書紀』第四版 第一章〜第三章(オロモルフ)■□■□■

◆◆◆ 保存頁掲載についての説明(平成21年11月22日)◆◆◆

 平成二十一年の五月の箸墓造営年の発表、同年十一月の初期宮殿跡の発掘と、纏向京関連の考古学的ニュースが話題です。
 これらは、私が『卑弥呼と日本書紀』において記した事の実証でもありました。
 この本は次のような経緯で刊行してきました。

平成12年02月:「《卑彌呼》の正体」を同人誌に発表。
平成13年02月〜11月:『卑彌呼と日本書紀』を四回に分けて同人誌に発表。
平成13年11月:『卑彌呼と日本書紀』第一版を出版。
平成13年12月:『卑彌呼と日本書紀』第二版を出版。
平成16年02月:『卑弥呼一問一答』第一刷を出版。
平成16年05月:『卑弥呼一問一答』第二刷を出版。
平成16年06月:『卑彌呼と日本書紀』第三版を出版。
平成17年12月〜平成19年07月:インターネットに全544回にわたって『卑弥呼と日本書紀』第四版を連載。

(第三版までは重刷となっていますが、内容はかなり是正されているので実質は改版でした。最後の第四版は、『卑弥呼一問一答』の内容の中で第三版までの『卑彌呼と日本書紀』には入っていなかった部分を加え、さらに気づいた点を改良したり付加したりしたものです。また題名の中の卑彌呼を卑弥呼に変更しました。インターネットでの検索問題が理由です。なお書籍版の『卑彌呼と日本書紀』は品切れですが、『卑弥呼一問一答』は多少はあるようです)

 このあと、第四版を書籍にする予定で、元伊勢籠神社の海部光彦宮司さんにも勧められたのですが、『発明特許の日本史』や『無線技術の日本史』の執筆で超多忙でして、書籍化は遅れております。
 ただ、今年に入ってから纏向京問題が大発展しまして、私の推論の正しさがニュースのたびに立証されてゆきましたので、書籍になっていない第四版を保存頁に保存し、興味を持つ方にはお読みいただけるようにいたしました。

 これは纏向遺蹟発掘の新発展の前の執筆であり、今書けば当然それら新事実を加えるべきですが、そうしますと相当な時間がかかってしまいますので、あくまでも平成19年前半までの時点での文章にいたしました。

 なお本稿には、上のように『卑弥呼と日本書紀』に『卑弥呼一問一答』を加えたものですが、さらに他の拙著『女性天皇の歴史』や『靖国神社に参拝しよう』や『皇統の危機に思う』の一部も入っております。

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『卑弥呼と日本書紀』1

■□■□■ まえがき ■□■□■

〈卑彌呼〉とは誰か、また《邪馬台国》はどこにあったのか・・・という問題は、史料に曖昧な部分が多いため、ミステリーの謎解きのようなおもしろさがあり、専門家だけではなく、無数の歴史の素人が様々な意見を発表しております。
 私も典型的な素人の好事家ですが、この問題に興味を持って調べ始めたのは、定年後数年をへてからのことです。
『記紀』につきましても、やさしい翻訳で読んだことはありましたが、丁寧に読むようになったのは、やはり定年後のことでした。
 ですから、そういう私が〈卑彌呼〉や《邪馬台国》について何かを述べるのはおこがましいのですが、平成に入ってから「年輪年代法」「纒向遺跡の発掘」「勘注系図の活字化」などがつぎつぎに現れまして、専門家の間でも議論が集束しはじめているという話を聞きまして、自分なりに纏めてみようと思い立ちました。
 そして『卑彌呼と日本書紀』や『卑弥呼一問一答』を書きましたが、まだまだ内容に不備が多くあり、改訂しなければならないと思ってきました。
 この連載は、前著に後著を混ぜながら改訂してゆこうという試みです。
(かなりの長期連載になります)

付記1
 現在の小中高校の歴史教育において、『古事記』『日本書紀』『万葉集』といった、古代日本人の「心」が刻み込まれた古典が不当に軽視されていることを知り、これら古典の重要性や面白さを戦後生まれの人たちに訴えたいと思いはじめたことも、こういう連載をしたいと思う理由の一つです。
(アメリカの教科書には日本神話が日本の教科書よりくわしく書かれているという話が、その教科書にある天孫降臨の図とともに記されているのを読み、愕然としました)

付記2
 人名や神名はなるべく正字やそれに近い文字を用いるという方針で、〈卑彌呼〉などと表記しておりますが、表題は検索の問題などもありますので、〈卑弥呼〉にしました。
 矛盾があるので気にはなるのですが・・・。

 この矛盾は、靖国、靖國、國(これが本当)の使い方にもあり、苦しみました。
 ためしにGoogleで検索してみます。

靖国:2880000件
靖國: 166000件
國:    387件

卑弥呼:631000件
卑彌呼:   375件

 おおもとの『魏志倭人伝』には〈卑弥呼〉ではなく〈卑彌呼〉と書かれているのですが、一般には〈卑弥呼〉と書いたり検索したりしております。
 ・・・こういう事がありますので、題名だけ卑弥呼にいたしました。


『卑弥呼と日本書紀』2

■□■□■ 目次 ■□■□■

第一章 奈良時代の学者も知っていた女王〈卑彌呼〉

 一・一『魏志倭人伝』の二つの謎
 一・二《邪馬台国》九州説と大和説
 一・三『記紀』と『魏志倭人伝』

第二章〈卑彌呼〉とは誰か?

 二・S 辞典類における〈卑彌呼〉の説明
 二・一〈天照大神〉説
 二・二〈神功皇后〉説
 二・三〈倭迹迹日百襲姫命〉説
 二・四『記紀』に記されていない〈卑彌呼〉存在説

第三章『魏志倭人伝』の概要

 三・一 議論の少ない対馬から奴国まで
 三・二 議論百出の奴国から先
 三・三 風俗・習慣・制度
 三・四〈卑彌呼〉の時代の東アジア
 三・五〈卑彌呼〉以後の東アジアと日本の安全保障
 三・六 謎の多い七つの対魏外交記録1――景初三年――
 三・七 謎の多い七つの対魏外交記録2――正始元年から泰始二年まで――
 三・八 果たして殺人事件か〈卑彌呼〉唐突の死
 三・九『魏志倭人伝』成立の経緯

第四章『魏志倭人伝』の信憑性

 四・一 又聞きの信憑性
 四・二 地理的な信憑性
 四・三 シナ正史自体の信憑性

第五章〈卑彌呼〉という名の探索
    ――併せて册封体制からの独立と国名および天皇号――

 五・一『記紀』のどこを切っても出てくる〈卑彌呼〉
 五・二《倭》と《大和》の語源 甲類乙類の違い
 五・三《大和》の地理の概略
 五・四《日本》と「天皇号」の由来
 五・五『魏志倭人伝』の信憑性についての結論


『卑弥呼と日本書紀』3

第六章〈天照大神〉説の検討

 六・一〈天照大神〉と「天の岩屋」
 六・二 出雲の国譲りと天孫降臨
 六・三 初代神武天皇の東征物語
 六・四〈饒速日命〉の帰順と狭井川の恋歌
 六・S 高地性集落と神武東征経路
 六・五 神武天皇の即位と崩御
 六・六「天の岩屋伝説」は果たして日蝕神話か
 六・七 古代の日蝕と『記紀』の実紀年
 六・八〈卑彌呼〉=〈天照大神〉説の確からしさ

第七章〈神功皇后〉説の検討

 七・一 第十四代仲哀天皇の悲劇
 七・二 朝鮮の史書『三国史記』と『好太王碑』にのこる〈神功皇后〉の事績
 七・三 男装の〈神功皇后〉疾風怒濤の海外遠征
 七・四『好太王碑』碑文による三韓征伐の確認
 七・五 謎の多い〈神功皇后〉東征伝説と『魏志倭人伝』からの引用
 七・六 任那日本府の設置と新羅との軋轢
 七・七 七枝刀の献上と〈臺與〉の時代の使者派遣
 七・八 八幡宮の祭神になった第十五代應神天皇
 七・九 論語の到来と船団の炎上 そして高句麗国書の破棄事件
 七・十 應神天皇の崩御と〈神功皇后〉の実在性
 七・十一《石上神宮》の七支刀――〈神功皇后〉実紀年の推理――
 七・十二『魏志倭人伝』との奇妙な一致
 七・十三〈卑彌呼〉=〈神功皇后〉説の確からしさ

第八章〈倭迹迹日百襲姫命〉が活躍する崇神天皇の時代

 八・一 大和朝廷の実質的な創始者? 第十代崇神天皇の即位
 八・二 崇神天皇の《三輪山》進出と苦難のはじまり
 八・三 崇神天皇を教え導いた〈倭迹迹日百襲姫命〉の神託
 八・四《三輪山》と《大神神社》1 ――その格式と山の辺の道――
 八・五《三輪山》と《大神神社》2 ――千古の謎を秘めた三ツ鳥居の奥――
 八・六《三輪山》と《大神神社》3 ――『記紀』にみる三輪一族の人々――
 八・七《三輪山》と《大神神社》4 ――磐座と祭神の謎――
 八・八〈倭迹迹日百襲姫命〉の未来予知と奇怪な急死 そして四道将軍の派遣
 八・九 稲荷山刀銘による四道将軍派遣の史実性の検討ならびに出雲・任那との関係
 八・十「非時の香菓」を求めた第十一代垂仁天皇の物語
 八・十一 悲劇の王日本武尊が活躍する第十二代景行天皇紀


『卑弥呼と日本書紀』4

第九章〈倭迹迹日百襲姫命〉と《籠神社》の秘密
    ――文献史料でみる《邪馬台国》大和説――

 九・一〈倭迹迹日百襲姫命〉の親族
 九・二〈卑彌呼〉=〈倭迹迹日百襲姫命〉説を初めてとなえた笠井新也
 九・三 笠井新也説を学問的に深めた肥後和男
 九・四〈倭迹迹日百襲姫命〉という奇妙な名の意味と別名
 九・五『倭姫命世記』に記された《伊勢神宮》への遷宮経路
 九・六《大和》を離れた最初の元伊勢《籠神社》の神宝
 九・七《籠神社》が千年以上秘匿した秘宝『勘注系図』の謎
 九・八『勘注系図』にある驚くべき〈倭迹迹日百襲姫命〉の尊称
 九・九『勘注系図』と〈卑彌呼〉についての二、三の推理
 九・十「三種の神器」の謎について

第十章〈倭迹迹日百襲姫命〉が眠る日本最古の「超巨大」前方後円墳《箸墓》の謎
    ――併せて《大和》に展開する雄大な《纒向京》――

 十・一《邪馬台国》の有力候補地《大和》の地理と地勢
 十・二「唐古・鍵遺跡」と《纒向京》の地勢と時代
 十・三《纒向京》周辺の主要地域
 十・四 遺跡の木材の伐採年を確定する「年輪年代法」
 十・五「年輪年代法」の衝撃と編年表の大修正
 十・六《纒向京》に集中する「祖型および前期」前方後円墳の概観
 十・七 国家の黎明を告げる古代の都《纒向京》1
     ――その自然と祭祀――
 十・八 国家の黎明を告げる古代の都《纒向京》2
     ――その都市構造――
 十・九《纒向京》にある「祖型」巨大前方後円墳の概要
 十・十《纒向京》のシンボル 日本最古の「超巨大」前方後円墳《箸墓》の謎1
     ――形状と造営の経緯――
 十・十一《纒向京》のシンボル 日本最古の「超巨大」前方後円墳《箸墓》の謎2
     ――造営法と出土品――
 十・十二〈卑彌呼〉=〈倭迹迹日百襲姫命〉説の確からしさ


◆◆◆ 文献 ◆◆◆

文献一覧は下記にあります。

http://www.asahi-net.or.jp/~xx8f-ishr/himiko_bunken.htm

(460編ほどあります)


『卑弥呼と日本書紀』5

■□■□■ 第一章 奈良時代の学者も知っていた女王〈卑彌呼〉 ■□■□■


やまとは 国のまほろば たたなづく 青垣 山ごもれる やまとし麗し
〔倭建命/日本武尊(古事記)〕
「大和はわが国のなかでもっとも優れた土地だ。青い垣根のように重なった山々に囲まれた大和はなんと麗しいことか。(出典は古事記だが、日本書紀では似た歌が日本武尊の父景行天皇の御製とされている。古くから謡われてきた大和賛歌なのだろう)」

八雲立つ 出雲八重垣 妻籠みに 八重垣つくる その八重垣を
〔須佐之男命/素戔鳴尊(古事記)〕
「八雲立つ出雲の地に雲のように幾重にも垣をめぐらし、妻のいるところとして幾重にも垣をつくっている。ああ、この幾重にもめぐらした垣よ。(高天原を追われた尊が出雲国に宮をつくったときの歌で、日本で最初の五七五七七形式の短歌ともいわれる)」


■■■■■ 一・一 『魏志倭人伝』の二つの謎 ■■■■■


 天才的軍師として有名な諸葛孔明が活躍した魏・蜀・呉の三国時代の歴史を記したシナの『三国志』のなかに、『魏志倭人伝』と通称されるみじかな文章がある。
 魏というのは、三国時代に覇をとなえた魏の国のことで、倭人というのは、昔のシナの役人が日本人を呼ぶときに使った言葉である。
 つまり『魏志倭人伝』とは、史書『三国志』のなかの魏の国の歴史を記した部分にある、日本人についての記事――ということになる。
 それによると、三世紀前半の日本に《邪馬台国》と呼ばれる国があり、そこに〈卑彌呼〉なる女王がいて、三国のうちで日本にいちばん近い魏の国と外交関係をむすんでいたのだという。

 諸葛孔明らの活躍を面白く描いた『三国志演義』は十四世紀に完成した大衆文学だが、『三国志』はずっと古く三世紀末に完成した正式の史書である。
 したがってそこにある『魏志倭人伝』は、日本について記述した公的で最古の外国文献であり、かつ日本国内には同時代に書かれた文献が発見されていないため、古くから歴史家たちに興味をもたれてきた。


『卑弥呼と日本書紀』6

◆◆◆ 二つの疑問と多様な意見 ◆◆◆

 ただ、『魏志倭人伝』は記述があまりにも断片的でそれだけでは詳細がわからないため、

「《邪馬台国》とはいったいどこにあったのか?」
「女王〈卑彌呼〉とはいったい何者なのか?」

 ――といった疑問が生じた。
 この疑問の起源はとても古く、現存するわが国最古の史書『古事記』『日本書紀』(あわせて『記紀』という)の時代からあったらしいのだが、江戸中期から学者の興味をひくようになり、江戸中期〜明治〜大正〜昭和(戦前)〜昭和(戦後)〜平成と、時代が下がるにしたがって議論は盛んになった。
 とくに戦後の昭和後半からは、専門の歴史家や考古学者だけでなく、アマチュアの歴史ファンたち――そのなかには在野の歴史家といわれる人もいれば単なる空想好きなマニアもいる――が議論に参入したため、おびただしい量の意見が発表されるようになった。
 さらには、〈卑彌呼〉を主人公にした小説も数多く出版されるようになった。
 とくに自費出版のなかにそれがひじょうに多く、じつに多様な見解が出されている。

《邪馬台国》や〈卑彌呼〉の読みにも、異説がたくさんある。
 本書ではとりあえず「ヤマタイコク」「ヒミコ」と読んでおくが、「ヤマトコク」「ヒメコ」という説もある。
 著者が昔読んでいた昭和二十年代の高校教科書では、〈卑彌呼〉の右と左に、「ヒミコ」と「ヒメコ」二種類のフリガナがうってあった。
 また《邪馬台国》を「ヤマトコク」と読む意見も、多くの著名な学者が主張している。
 古代の発音はこれら二つの見解の中間だったかもしれないし、どちらともいえないものだったかもしれない。
 だから本書のフリガナはあくまでも仮のものである。

《邪馬台国》の場所についても、意見は多様である。
 図1・1に、これまで多くの学者やアマチュアが主張してきた《邪馬台国》の位置を図示してみた。

↓↓↓↓↓↓↓↓
http://www.asahi-net.or.jp/~xx8f-ishr/H11-22.htm

 まことに百花繚乱である。
 なかには日本列島をはみ出してフィリピンやインドネシアや中東説をまじめに主張する人もいるし、さらには『魏志倭人伝』のなかにある他の国を南米に求める意見まである。


『卑弥呼と日本書紀』7

◆◆◆ 議論の収束と本書執筆の理由 ◆◆◆

 このように《邪馬台国》問題は収拾がつかないほど拡がりが大きく、呆然としてしまうほどなのだが、しかし平成にはいってから、山のようにあったこれらの議論がしだいに収束の傾向をみせはじめた。
 三世紀前後の時代の考古学的な研究がおどろくほどの進展をみせ、新発見があいつぎ、従来の定説がつぎつぎにくつがえされたからである。
 著者は古代史・考古学ともに素人であるが、その素人がこのような原稿を書こうと思いたったのは、考古学の進展によって議論が収束しつつあることを知り、さいきんの良心的な学者たちの研究成果を自分なりに勉強してまとめてみたいと考えたからである。

 さらにもうひとつ理由がある。
 それは、戦後の議論や教育のなかで、現存するわが国最古の史書である『古事記』や『日本書紀』が軽視されすぎていることへの不満である。
『古事記』『日本書紀』『風土記』『万葉集』といった古い書物は、とうじの日本人のあいだに伝えられていた記憶が結晶したものであり、編者による脚色があったとしても、そこには古代の貴重な情報が秘められているにちがいない。
 だからこれらを軽視するのは科学的態度とは思えないのだ。
 そこで本書では、『記紀』を最大限に活用することにし、同時に若い人たちのための『記紀』の解説にも意を用いることにした。


『卑弥呼と日本書紀』8

◆◆◆ 大和の定義 ◆◆◆

 さてつぎに、先の設問のうちの、

「《邪馬台国》とはいったいどこにあったのか?」

 ――について、どのような学者がどのような説を述べてきたかをまとめてみることにしよう。
〈卑彌呼〉のほうは、《邪馬台国》が決まればおのずと範囲がせばめられるから、あとまわしでよい。

 よく知られているように、《邪馬台国》の位置についての見解は、「九州説」と「畿内説」に大きく分けられる。
 このうち「九州説」は北九州から南九州までばらつきがあるが、「畿内説」のほとんどは奈良県内の「大和説」である。
 畿内とは古代に都がおかれた大和・河内・和泉・摂津・山城(現在の奈良県・大阪府および京都府の一部)であるが、大和地方以外に求める意見はすくないので、本書では以後「畿内説」とはいわず、「大和説」と記すことにする。
 ただし大和とは以下に記すように大から小までいくつかの定義があるので、本書での定義を明確にしておかねばならない。


 大和魂、大和撫子など日本全体を指す場合。


 八世紀ごろからの行政区分としての大和国、つまり現在のほぼ奈良県全体。


 古くからヤマトと呼ばれてきた地域で、奈良県の北西部にひろがる奈良盆地一帯。


 古代からヤマトと呼ばれてきたとされる地域で、北方の奈良市などを除いた奈良盆地の南東部(いまの桜井市とその周辺の天理市・田原本町・橿原市・明日香村など)。


 ヤマトという言葉の発祥の地ともされる限定された地域で、桜井市のなかで神の山とされる《三輪山》の北西山麓にある纏向遺跡とそのすぐ北(朝和・柳本地区)および南(磐余地区)からなる地域。

 多くの「大和説」の学者が推理している《邪馬台国》は、このなかの四または五に含まれる。
 したがって本書では、大和を主として四や五の意味でつかうことにする。
 ただし他の意味で使うこともあるので、紛らわしくなる場合には《 》で囲った《大和》という表記で四や五の大和をあらわすことにする。


『卑弥呼と日本書紀』9

■■■■■ 一・二 《邪馬台国》九州説と大和説 ■■■■■


◆◆◆ 「九州説」の学者、「大和説」の学者 ◆◆◆

《邪馬台国》の位置については、図1・1のように「九州説」と「大和説」のほかにも多くの説があり、とくにアマチュアの説に奇想天外なものがあって、日本列島以外に求める人もいるわけだが、学問的レベルの高い専門の歴史家や考古学者で九州と大和の二箇所以外を主張する人はすくない。
 そこでここでは、この二つの説を述べた著名な学者の名前を並べてみよう。
 名前の下の( )内に主な経歴を記した。
 数字は生年である。

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「《邪馬台国》九州説」

 新井白石 (一六五七/江戸前中期の儒学者・大和説から九州説に変化)
 本居宣長 (一七三〇/江戸中期の著名な国学者・古事記伝で有名)
 菅 政友 (一八二四/明治の史家・石上神宮大宮司)
 久米邦武 (一八三九/文博・岩倉使節団員として米欧回覧実記を執筆・史家・東大教授)
 星野 恒 (一八三九/文博・史学漢学・東大教授・史学会会長)
 那珂通世 (一八五一/文博・東洋史学・一高教授)
 白鳥庫吉 (一八六五/文博・東洋史学・東大教授・東洋文庫主宰・昭和天皇へご進講)
 津田左右吉(一八七三/文博・白鳥の弟子・古代史学・早大教授・文化勲章受章)
 橋本増吉 (一八八〇/文博・史学・慶應大教授・東洋大学長)
 太田 亮 (一八八四/法博・立命館大学教授・神道学者・神宮皇學館出身)
 坂本太郎 (一九〇一/文博・東大教授・歴史学・史料編纂所長・文化勲章受章)
 榎 一雄 (一九一三/文博・東大教授・史学・東洋文庫理事長)
 斉藤國治 (一九一三/理博・東京天文台教授・古代の日蝕研究など古天文学を開拓)
 井上光貞 (一九一六/文博・東大教授・歴史学・国立歴史民族博物館初代館長)
 谷川健一 (一九二一/日本地名研究所長・史家)
 田中 卓 (一九二三/文博・歴史学・皇學館大學学長)
 古田武彦 (一九二六/昭和薬科大学教授・邪馬台国研究家)
 森 浩一 (一九二八/考古学・同志社大学教授)
 安本美典 (一九三四/文博・日本語語源や邪馬台国研究・産能大学教授)
  ・・・・・・・・・・


『卑弥呼と日本書紀』10

「《邪馬台国》大和説」

 舎人親王 (六七六/『日本書紀』編者)
 伴 信友 (一七七二/宣長の死後の弟子)
 三宅米吉 (一八六〇/文博・東京文理大学長・帝室博物館長・考古学会会長)
 内藤湖南 (一八六六/文博・萬朝報主筆・京大教授・歴史学)
 高橋健自 (一八七一/文博・考古学者・三宅の弟子)
 笠井新也 (一八八四/四国徳島の考古学者・史家・中学校教頭だが鳥居龍藏に師事)
 和辻哲郎 (一八八九/文博・京大東大教授・歴史学哲学・文化勲章受章・はじめは九州説)
 肥後和男 (一八九九/文博・史家・東京教育大教授)
 三品彰英 (一九〇二/文博・史家・大谷大・同志社大教授・大阪市立博物館長)
 志田不動麿(一九〇二/東洋史学者・國學院大教授)
 末松保和 (一九〇四/文博・朝鮮史・学習院大教授)
 室賀信夫 (一九〇七/文博・地図史・東海大教授)
 樋口清之 (一九〇九/文博・考古学・國學院短大学長・日本博物館学会会長・初め九州説)
 小林行雄 (一九一一/文博・考古学者・京大教授)
 和歌森太郎(一九一五/文博・東京文理大教授・歴史家・都留文科大学長)
 原田大六 (一九一七/旧制中卒・発掘に業績)
 直木孝次郎(一九一九/文博・日本古代史・岡山大学教授)
 樋口隆康 (一九一九/考古学・京都大学教授・橿原考古学研究所長・非断定)
 金関 恕 (一九二七/文博・考古学・天理大教授・大阪府立弥生文化博物館館長)
 田辺昭三 (一九三三/京都市埋蔵文化財研究所・考古学者・日本学士院賞)
 石野博信 (一九三三/考古学・徳島文理大教授・二上山博物館長・橿原考古学研究所副所長)
 山尾幸久 (一九三五/立命館大学教授・七支刀研究)
 白石太一郎(一九三八/考古学・国立歴史民族博物館教授)
 都出比呂志(一九四二/考古学・大阪大学教授)
  ・・・・・・・・・・

*****

 このなかで奈良時代の舎人親王は『日本書紀』の編者そのものなので奇異に思われるかもしれないが、じつは『日本書紀』には『魏志倭人伝』が引用されており、そのことから、編者たちが〈神功皇后〉を〈卑彌呼〉としていたらしいことが判明するのである。
 この引用はすこし後で加えられたとする見解が主流であるが、『記紀』には他にもシナや朝鮮の史書の引用がたくさんあり、記述法自体も影響を受けており、『記紀』編纂の担当者たちが多くの海外文献を読んでいたことはまちがいない。


『卑弥呼と日本書紀』11

◆◆◆ 文化勲章級学者でも意見が対立 ◆◆◆

 さて、ここにあげた学者は、そのほとんどが有名大学教授で文学博士といった人たちであり、文化勲章受章者が何人もいる。
 そういう日本を代表する知性の持ち主のあいだで意見が分かれるのだから、《邪馬台国》問題がいかに一筋縄でいかないものかがわかる。

 アマチュア学者や在野学者はあまりあげなかったが、あげだすときりがない。
 そしてそのほとんどは「九州説」である。
 著名人としては、婦人生活社を創立した原田常治、推理作家の松本清張、会社社長で盲目の作詩作曲家でもあった宮崎康平、歴史作家の邦光史郎、歌手の三波春夫、作家の井沢元彦・・・などが「九州説」で知られている。
 なかでも宮崎康平は、昭和四十二年に出版した『まぼろしの邪馬台国』で《邪馬台国》ブームを起こした。
 一方「大和説」では、俳優としてTVでよく見かける苅谷俊介、好著『卑弥呼の謎年輪の証言』を書いたジャーナリストの倉橋秀夫、異色の在野研究者で芥川賞作家の高城修三などがいるが、数では少数派である。
 とくに小説となると、黒岩重吾の『鬼道の女王卑弥呼』など、圧倒的に「九州説」が優位である。その方がロマンがあり物語性が豊かで小説にしやすいので、当然といえば当然である。

 この一覧でもうひとつ気づくのは、考古学者の多くが「大和説」をとっていることである。
 大正十一年の高橋健自の論文は、古墳の考古学的研究から「大和説」をとった最初のものといわれている。
 さいきんでは金関恕や白石太一郎が、慎重な表現ながら、かなり明確に「大和説」を述べている。
 ただし考古学者のばあい、議論そのものには参入しないのがふつうである。
 著者としては笠井新也、肥後和男といった学者の説に合理性を感じるが、それは第八章以降で詳述する。

*****

《邪馬台国》の位置が仮定できると、つぎは〈卑彌呼〉の正体を探る段階になるが、「九州説」のほとんどは日本側の記録にはない有力者としているし、「大和説」では『記紀』にある人名をとる説と記録にない女王だとする説とにわかれる。
 これらについては第二章で概略を述べる。


『卑弥呼と日本書紀』12

■■■■■ 一・三 『記紀』と『魏志倭人伝』 ■■■■■


『魏志倭人伝』の問題で根元的に重要なのは、文献の信憑性についての吟味である。
『記紀』についての吟味は、《邪馬台国》問題とは関係なしに昔からあり、とくに飛鳥時代以前の歴代天皇の紀年(西暦紀元から起算した年数)の実際との差異については多くの研究があって、文献学的アプローチに考古学の成果を加えて、第十代崇神天皇くらいまではおおまかな意見の一致がみられる。
 それより前は欠史八代といわれるくらいで、『記紀』の記述自体が乏しいので、紀年を探る作業はきわめて困難である。

 初代の神武天皇については詳細な記述があるが、その即位が西暦前六六〇年(これを紀元とするのが皇紀)というのは、干支からいって辛酉という革命がおこるとされるおめでたい年を即位の年にし、歴史の古さを誇りたいという『記紀』編纂者たちの興国の志によっているとされ、いわば儀式的なものであるから、その正否を論じることはあまり意味がない。


◆◆◆ 時代区分の確認と日本人の先祖 ◆◆◆

 ここで参考までに、縄文から平安にかけての時代区分の概要を図1・2に示しておく。

↓↓↓↓↓↓↓↓
http://www.asahi-net.or.jp/~xx8f-ishr/H11-22.htm

 日本どくとくの縄文時代がひじょうに古く長いことが印象的である。
 しかもさいきんの考古学的発見によって、その起源は一万七千年前あたりまで、おおはばに延長される可能性がでてきた。
 日本列島における人類の居住は、何十万年も前からだとの説もあるが、それは別問題として、いまのわれわれ日本人に直接つながる人たちの最古の姿は、特有の土器の模様から縄文時代と呼ばれる時代やその少し前の時代――すなわち旧石器時代(氷河期)を含んだほぼ二万年のあいだ――にできあがったのであろう。


『卑弥呼と日本書紀』13

 では、縄文時代を切り開いた人たちがどこから来たのかであるが、縄文より前は日本列島は独立しておらず、北と南で大陸とつながっていて、日本海は巨大な湖だったので、北から南から西から、さまざまな種族が日本を往来することが可能だった。
 また北方では、氷上を歩いて渡ることもできたらしい。
 最近いちじるしく発展したDNAによる研究にもとづいて、それら多くの種族のなかでも、寒冷化に適応できなかったバイカル湖周辺の人々が約二万年前の氷河期に暖を求めて南下し、いくつかのルートで日本列島にわたって縄文人の主体をなした可能性が高い――という説が唱えられている。
 しかしはっきりしたことは不明である。

 いずれにせよ、縄文時代がはじまる直前に氷河期が終わって海面が上昇し、日本列島が大陸から地理的に独立し、温暖化によって緑が豊かになり、独自の文化を醸成するうえで絶好の環境ができた。
 アジア諸地域からの海をこえての移動や混合はじわじわとなされたであろうが、幸いなことに、大陸における激しい民族の興亡の影響をじかには受けずにすんだのだ。

 豊富な水と森林に恵まれ、外敵の脅威も減った日本列島の住民たちは、どくとくの文化や習俗をつくって、のちに縄文時代と言われた。
 それら日本人の集団が、弥生時代を迎えて国内で交易や移動を活発化させ、大陸との物的あるいは人的な交流を深めながらさらにその文化を発展させ、ついに古墳時代を迎えるのだが、ちょうどその弥生時代と古墳時代の移行期――たぶん西暦一五〇年〜二五〇年ごろ――こそが、『魏志倭人伝』に記された《邪馬台国》の時代なのである。

 多くの研究によって紀年修正された『記紀』の天皇紀でいえば、それは第十代崇神天皇の御代およびその少し前にあたっている。
 したがって幸いなことに、『魏志倭人伝』と『記紀』との照合も可能だし、また近年の三世紀前後の考古学的研究の進展によって、遺跡からの考察もかなりの確度で可能になってきている。

(図1・2に関連するが、「古代」という用語がよくもちいられる。国史における「古代」は、古い辞書では神武天皇即位から飛鳥時代の直前まで――つまり聖徳太子や中大兄皇子によって法治国家が形をつくりはじめる前まで――をいうことが多く、さいきんの辞書では飛鳥・奈良・平安時代をいうことが多い。
 著者が勉強した史書類では古い用法がほとんどなので、本書では飛鳥時代の前までを「古代」と呼ぶことにする。こういう意味での「古代」の天皇家が狭い意味での大和朝廷である)


『卑弥呼と日本書紀』14

◆◆◆ 縄文・弥生交代説の退潮 ◆◆◆

 日本人はどこから来たのか、また日本語はどうやって出来たのか――といった日本民族起源論は昔からあり、延々として議論が続けられているが、さいきんの考古学的研究によれば、どうやら、縄文から弥生にかけて徐々に形成されていったもので、特定のある時期――たとえば弥生初期――に大陸から高い文化をもつ多くの移民がきて、それまで日本列島に住んでいた縄文人たちを駆逐して古墳文化を築いた――といった事態は、あまり考えられないらしい。
 かつてこのような説を唱えていた学者も、さいきんでは自説を撤回することが多いようである。

 じじつ、日本語はシナ大陸の諸言語とはかなり違っているし、朝鮮語とも同じではない。東南アジアにも同じ言語は見つからない。
 似た側面をもつ言語はあちこちにあるが、直接つながることが証明された言語はない。
 もし、圧倒的に高い文化の集団が到来して、それまでの住民を駆逐したとしたら、日本語がその集団の出発地の言語になっていた筈であり、出発地自体についての記憶が――神話や神社の伝承などに――鮮明に伝えられている筈であるが、そういうことはまったく見られないのだ。
 ときおり、特定の地域に日本語の起源をもとめる説が発表されることがあるが、学界の批判に耐えて長続きしたことはない。
 最近の研究では、日本語の起源はやはり縄文時代にまでさかのぼるらしい。

 古墳時代から飛鳥・奈良時代にかけての帰化人については、『記紀』などにも記されているのでかなり分かっていて、一時期の上層部――といっても身分の低い役人が主体――ではかなりの人数だったらしいが、当時の人口の大部分を占めていた農業・漁業・林業などに従事する一般の人々のなかにたくさんの帰化人がいたとは思われない。
(この帰化人の人数についての著者の論考は、『女性天皇の歴史』で述べてある)
 したがって文化的・技術的には刺激を受けたとしても、日本語や日本人の血統自体が激変したことはないであろう。

 帰化人たちの影響は、縄文から弥生の時代でも質的には同様だったと考えられる。量的にはたぶん、古墳時代より少なかったであろう。
 つまり、文化的にはつねに刺激をうけつつ、言語や遺伝子については、ゆっくりとした影響をうけながら自律的に進展し、縄文時代から奈良時代にいたったと想像できるのである。
 奈良時代を過ぎて平安時代にはいると帰化人も減り、九世紀末には遣唐使も廃止されて、閉ざされた世界で日本独特の文化が爛熟したことは、周知のとおりである。


『卑弥呼と日本書紀』15

*****

 なお帰化人の問題に関連して、かつて東大教授・江上波夫の騎馬民族征服説が流行したことがあった。
 東北アジアの騎馬民族が日本を征服して崇神朝など大和朝廷をきずいたという大胆な説だが、さまざまな矛盾があり、いまでは支持する学者はすくない。
 考古学的な証拠がほとんど見られないこととともに、『記紀』に英雄が騎乗して活躍する話が無いこと、大挙して海を渡った伝承が残されていないこと、故郷の地への憧憬が書かれていないことなども、反対意見の有力な論拠となっている。


◆◆◆ 戦前への誤解 ◆◆◆

 ここでわずかばかりの余談をお許しいただきたい。
 戦後(大東亜戦争後)の通説のひとつとして、戦前・戦中は『記紀』の紀年、すなわち初代の神武天皇の即位が西暦換算で紀元前六六〇年などという記述を、そのまま信ずることを強要された――という意見があるが、それには疑問を感じる。
 大正〜昭和初期の史学や考古学の論文を読むと、ほとんどの場合、『記紀』の紀年を大幅に修正するのはむしろ当然のこととして、その先の論述が展開されている。
 和辻哲郎、肥後和男といった碩学たちも、戦前・戦中に『記紀』の批判的研究を禁じられたことはないと、戦後になって語っている。

 もちろん反日的プロパガンダになれば話は別で排除されただろうし、公式行事としては皇紀二千六百年の祝典がにぎやかに行われた。
 しかしそれをいうなら、現在でも両陛下は、この皇紀と『記紀』の記述にもとづいて、仁徳天皇陵への御拝などをなさっておられる。
 それは、古い歴史をもつ国としては当然の行事である。遠い先祖を崇拝し、国の安寧を祈る儀式なのだ。
 著者が小学校のときに学んだ『小學國史』にも、神武天皇の即位は書かれていても、それが何千何百年前であったとは記されていなかった。
 付録をよく読むと何となくわかるというていどであった。
 修身の教科書も同様だった。
 国の教科書ですら、公式行事の基準としての『記紀』紀年と、学問上の修正とを、両立させていたのである。


『卑弥呼と日本書紀』16

◆◆◆ 『魏志倭人伝』への批判精神 ◆◆◆

 このように『記紀』についての吟味は古くからなされていたが、一方の『魏志倭人伝』の信憑性についての吟味は、わが国に古来からある大陸文明への憧憬によってからか、なされることが少なかったようである。
 江戸時代の本居宣長らの国学的な立場からの批判をべつにすれば、先の一覧のなかでこのことに明確な意見を述べているのは立命館教授の山尾幸久で、昭和四十年代に、

「古事記・日本書紀などの国内史料に比べれば、中国の文献に対する本文批判は、一般にたいへん甘い。特に魏志倭人伝は、弁析すべき他の史料がほとんどないため、史料の限界を無視した議論がはなはだ多い(佐伯有清の引用より)」

 ――と警告している。
 山尾自身の史観には疑問を感じる面もあるのだが、文献批判についてのこの意見は正しいと思う。

 このような『魏志倭人伝』を無条件に受け入れるシナ礼賛の雰囲気はずっとつづいていたのだが、戦前から疑問を抱く学者も存在していた。
 大和地方の遺跡発掘など考古学で多大な業績をあげた樋口清之は、

「『記紀』がA級史料とすれば『魏志倭人伝』はB級史料にすぎない」

 ――と断定しているし、文化勲章の和辻哲郎も、〈天照大神〉の神話を聞いて〈卑彌呼〉の話を創作した疑いがある、と述べている。
 さいきんでは、岡田英弘、渡部昇一、西尾幹二といった啓蒙家たちが、

「こまかな議論には値しない文献だ」

 ――と主張している。


『卑弥呼と日本書紀』17

■□■□■ 第二章 〈卑彌呼〉とは誰か? ■□■□■


あまてらす 神の御光 ありてこそ わが日のもとは くもらざりけれ
〔明治天皇御製〕

足姫(たらしひめ) 御船泊てけむ 松浦の海 妹が待つべき 月はへにつつ
〔万葉集3685〕
「神功皇后のお船が停泊したという松浦の海ではないが、妻が待っている月は過ぎてゆくばかりだ。(松と待つをかけている)」

三輪山を しかも隠すか 雲だにも こころあらなも 隠さふべしや
〔額田王/天智天皇(万葉集18)〕
「三輪山をどうしてそのように隠すのか、せめて雲だけでも思いやりがあってほしい。三輪山を隠してよいものだろうか。(大陸からの侵略に備えるために大和から近江へ突然遷都したときの望郷の歌として有名)」


■■■■■ 二・S 辞典類における〈卑彌呼〉の説明 ■■■■■


 さて、一般の人が使用する辞典類は、編集者が特定の意図を持っている場合を除けば、最大公約数的な記述をするのがふつうである。
 そこで、人名辞典や歴史事典の類が〈卑彌呼〉について、どのように記しているか、引用してみよう。


◆◆◆ 『コンサイス日本人名辞典(三省堂)』 ◆◆◆
 卑弥呼については、ヒメミコトの略とする説、ヒムカ(日向)という巫女王名とする説などがある。『日本書紀』は神功皇后にあてているが、倭迹迹日百襲姫命説や九州の女王説などがある。

◆◆◆ 『日本古代史事典(大和書房)』 ◆◆◆
 邪馬台国九州説では、九州の女酋とし、近畿説では、倭迹迹日百襲姫命、倭姫命、神功皇后などに比定する説がある。

[この項つづく]


『卑弥呼と日本書紀』18

◆◆◆ 『詳解日本史重要人物辞典(教育社)』 ◆◆◆
 神功皇后、倭迹迹日百襲姫命、倭姫命、熊襲の族長とする説などさまざまである。「ひめこ」とも読む。

◆◆◆ 『日本歴史人物事典(朝日新聞社)』 ◆◆◆
 日女子、日の御子、日女御子など太陽の霊威を身につけた女性の称号。天照大神、神功皇后、倭迹迹日百襲姫命などの説があるが、神話なので根拠はない。

◆◆◆ 『国史大辞典(吉川弘文館)』 ◆◆◆
 熊襲の女酋、天照大神、神功皇后、倭姫命、倭迹迹日百襲姫命などの説があるが定説はない。

◆◆◆ 『日本歴史大辞典(河出書房新社)』 ◆◆◆
 邪馬台国の所在を九州とするか、大和とするかで、卑弥呼をある九州の女酋とする考えと、神功皇后や倭姫命、ないし倭迹迹日百襲姫命にあてるなど諸説がある。

◆◆◆ 『日本史年表ハンドブック(PHP研究所)』 ◆◆◆
 九州の女王、神功皇后、天照大神、倭迹迹日百襲姫命その他の説がある。

◆◆◆ 『日本大百科全書(小学館)』 ◆◆◆
 天照大神、神功皇后、倭姫命、倭迹迹日百襲姫命が候補になっている。

◆◆◆ 『万有百科大事典(小学館)』 ◆◆◆
 天照大神、倭迹迹日百襲姫命、神功皇后などに比定する説がある。

 これ以外のものも大同小異である。
(ここにあるすべての辞典に〈倭迹迹日百襲姫命〉が挙げられていることに注意されたい。一般に〈卑彌呼〉の候補として〈天照大神〉を除く辞典はかなりあるが、〈倭迹迹日百襲姫命〉を無視する辞典はほとんどない)

 なお活躍した年代は、どの辞典でも三世紀前半としている。『魏志倭人伝』からそう考えられるからである。

 このようにいろいろあるが、文献史料からいうと、九州に特定の名前を探すのは困難である。
『日本書紀』には、景行天皇の九州遠征時に、神夏磯媛や八女津媛に遭遇した記述があり、明治期にはこれらと〈卑彌呼〉を結びつける説も出たが、『日本書紀』の紀年を修正する研究の結果、かなり無理のあることがわかっている。
 これらの媛の先代だろう――といった説もあるが、想像の域を出ない。
 九州説の場合には、辞典類のように、巫女的な能力をもった女の酋長だろうというのが、一般的で、良心的な学者は個人名を文献に探してはいない。

(補足・・・わたしの手元にある昭和40年代の平凡社百科には、該当人物の推理は無い。ただ面白いのは、読みは「ヒメコ」として〈ひめこ〉の項にあり、説明文に「ヒミコ」とも読む――と注記がある。最近の同社百科では〈ひみこ〉の項にあるが、同じく該当人物の推理はない)


『卑弥呼と日本書紀』19

■■■■■ 二・一 〈天照大神〉説 ■■■■■


 まず、『魏志倭人伝』中の女王〈卑彌呼〉の正体について、前記辞書類にあったような、従来から一般によくいわれてきた説を列挙してみよう。
 くわしいことはのちの各章で述べるので、ここでは概要のみを記しておく。


◆◆◆ 『日本書紀』重視の理由 ◆◆◆

 本題にはいる前に日本の古代史書と著者の考え方について触れておく。
 本書ではテーマの性質上『古事記』と『日本書紀』に何度も言及することになるし、またそれを重視するつもりであることは前章で述べたが、参考文献としてはそのうちの正史(六国史の最初)である『日本書紀』を中心にすえることにしたい。
『日本書紀』は『古事記』よりずっと詳しく、日本国にとって不名誉なことも正々堂々と書かれているし、また別説も多く記載されているからである。
 実質的には『日本書紀』の方が古いという説もかなりあるのだ。

『日本書紀』の信憑性については、江戸時代から多くの研究があり、とくに戦後の一時期には、単なる伝説や創作にすぎないという意見も出された。
 しかしさいきんの考古学の進展によって、そこに記されている事柄の多くが史実――または史実の反映――であることが判明しつつある。
『日本書紀』と似た文章の書かれた木簡が、飛鳥時代の遺跡から何千も出土している。
『記紀』の完成は奈良時代の八世紀の初めであるが、そのとき参考にしたいくつかの書――「帝紀」「旧辞」など――があり、さらにその元は百年はさかのぼるとされている。
 すなわち飛鳥の推古天皇の御代に聖徳太子らが主導して正史の編纂を開始し、整理された文献を蘇我氏の書庫にしまったといわれているのだ。

 この文献は大化改新における蘇我氏滅亡のおりに焼失してしまったらしいのだが、記憶していた役人(当時の歴史家)は多かっただろうし、整理される前の記録は各方面――たとえば豪族たちの本拠――に保存されていたであろうから、八世紀初頭の『記紀』が百年前に整理された元史料によっていることは確かだとおもわれる。
 で、この元史料が整理された七世紀初めというと、『魏志倭人伝』の〈卑彌呼〉の時代の三百年から四百年あとにすぎない。

 しかも近世以降の数百年の時代変化にくらべて、古代における変化はずっとゆるやかだったから、古代の三百年はいまの百年以下だったと考えることができるであろう。
 だから、聖徳太子の時代の歴史家が〈卑彌呼〉の時代をふりかえる作業は、現在の歴史家が、明治・大正または昭和の初期をふりかえる作業になぞらえることができる。
 書物がほとんど無かったとしても、抜群の記憶力がそれを補い、代々家伝を伝誦する時代だったので、〈卑彌呼〉の時代についてのかなり正確な記録が『日本書紀』のなかに存在していると考えても、おかしくない。
 著者が『日本書紀』を重視するゆえんである。


『卑弥呼と日本書紀』20

◆◆◆ 〈天照大神〉説について ◆◆◆

 さて、まず、

「〈卑彌呼〉=〈天照大神〉説」

 ――である。

〈天照大神〉は太陽を連想させるおなじみの女神で、高天原の主神であり、《伊勢神宮》に祀られている。他にもこの大神を祀った神社は数え切れないほどある。
 さいきんの義務教育では記紀神話はあまり教えないらしいが、素戔嗚尊の乱暴で天の岩屋に隠れて天地が暗くなった伝説(図2・1)くらいは誰でも知っているであろう。

↓↓↓↓↓↓↓↓
http://www.asahi-net.or.jp/~xx8f-ishr/H11-22.htm


『古事記』では天照大御神と書き、『日本書紀』では生誕時の名は大日靈女貴(靈女は合わせて一つの文字)で、このほうがむしろ本名である。
 また両書ともに尊称として日神とも記している。

 この〈天照大神〉こそ〈卑彌呼〉の正体だという説は素人学者の好みにいちばん合っており、小説にもなりやすく、驚くほど多くのアマチュアがこの説を主張し、自費出版は

「〈卑彌呼〉=〈天照大神〉説」

 ――の物語で花盛りである。
 三波春夫に影響をあたえた原田常治などはその典型だし、さいきんでは井沢元彦もこれに近い説を述べている。
 もちろん『記紀』の年代を信じれば、時代的にはまった合わないし、修正された紀年でも合わない。
 古代の天皇一代の期間を十年として〈天照大神〉を〈卑彌呼〉の時代に合わせようとする議論もあるが、必然性に乏しい。
 しかし伝説上の女王であることは間違いないし、とくに神武天皇の東征伝説とからめて、

「《邪馬台国》九州説」

 ――と矛盾しない説明ができる点が強みである。
 年代については、〈卑彌呼〉の活躍への記憶が、〈天照大神〉の神話として残ったのだ――とすれば、矛盾は解消し、ロマンチックな空想や推理がいくらでもできる。小説に数多く書かれるゆえんである。


『卑弥呼と日本書紀』21

 この〈天照大神〉説を補強する自然現象に「日蝕」がある。
〈卑彌呼〉の死の年と古代の皆既日蝕の年とが一致するため、もし天の岩屋伝説が日蝕をあらわしているとすれば、〈卑彌呼〉とは〈天照大神〉のことだ――という説が導かれるのだ。
 古天文学の提唱者として知られ、古代の日蝕を研究した斉藤國治も、この〈天照大神〉説を有力視している。
 井沢元彦もこの日蝕と天の岩屋伝説を結びつける斉藤の研究を取り上げて自説を補強している。

「〈卑彌呼〉=〈天照大神〉説」

 はロマンにあふれており、われわれの本能をくすぐるようなところがある。
 かりに直接的な結びつきは無く、〈卑彌呼〉は別人であることが証明されたとしても、その別人が〈天照大神〉の伝承に影響した可能性はのこされるかもしれない。

「九州説」の白鳥庫吉は、昭和天皇に国史のご進講をした碩学だが、明治時代に、九州にいた〈卑彌呼〉が〈天照大神〉の伝承の原形となった――との推理を発表している。
 また逆に、前章で記した和辻哲郎の説のように、〈天照大神〉の伝説を聞いた魏の使者がそれをもとに〈卑彌呼〉の話を書いた――ということも、考えられないではない。

 なおもちろんのことであるが、

「〈卑彌呼〉=〈天照大神〉説」

 は、

「《邪馬台国》九州説」

 ――にむすびつく。
〈天照大神〉は神武天皇が日向から大和へ遠征するはるか前の祖神だからである。


『卑弥呼と日本書紀』22

◆◆◆ 日本の「神」について ◆◆◆

 この節のさいごに念のために記しておきたい。
『記紀』における日本の神々の「神」とは、語源的には川上の上や頭と同じとされ、すぐれた人や先祖や自然などへの尊称である。
 のちの役職名のXX守やYY帥も語源はおなじだとされている。
 卑近なところでは政府や行政を「お上」というのも、料亭の女主人を「女将」というのも、家庭の主婦を「おカミさん」というのも同源である。
 頭髪を「髪」というのも身体の頂上にある「上の毛」だからで、やはり同源だという説が有力である。
 この問題については異説もあり、上と神では古代の発音がちがう(甲類乙類の違い――後出)ので別源だとの説もあるのだが、肥後和男、渡部昇一らの碩学が同起源説を述べている。

 他の資料(靖国神社一問一答)でも述べたことだが、ほぼ定説と言われている最近の研究結果を、茂木貞純氏(神社本庁)の『日本語と神道』(講談社)から引用しておく。

*****

「神代」と表記してクマシロともカミシロとも訓んだことが日本最古の辞書である『倭名類聚鈔』にみえる。クマは隈や熊などの字が当てられ、熊野等の地名が示すように奥まった隠れたところを意味する。このクマはクムという動詞から派生したという。姿を示さず隠れるというのが原義である。クムからクマの語が派生し、一方でカムという語も成立した。ウとアと母音の交代した結果だという。そのような語例がいくつもあるという。このクマと同義のカムから神と上の二つの語が成立してきたというのである。ゆえに、神と上とは同源同根の語であるという(阪倉篤義)。
 ・・・・・
 この語源説は日本の神の実態ともぴったり合う。「神は高く深い山や森・遠い川上海上に隠れて目に見ることのできない存在である」「日本人はカミ(上)なる場所にカミ(神)の存在を見るとともに、そこに永遠の命の根源・霊界を考へた」・・・(若井勲夫)。
 ・・・・・

*****


『卑弥呼と日本書紀』23

 とすれば『記紀』の神々とは、きわだって優れた祖先または多大な恩恵をあたえてくれる自然や人工物を尊敬して神社に祀ろうという気持ちそのものであり、いまの我々を超えてはいるが、西欧のゴッドとはまったく異なる人間的な存在である。
 明治神宮・靖国神社・東郷神社などへの崇拝を想起すれば、それは理解できるであろう。

 神道系の宗教として知られる黒住教、御嶽教、金光教、天理教・・・などは、教派神道と呼ばれた狭い意味での神道宗派であり、むしろ神々に基礎をおいた新宗教として位置づけられるものであって、一般的な神社や神道とは異なる。

 一方日本の伝統的な神々とは、古い神社や昔からの氏神様を中心とする広い意味での神道――神社神道/古神道と呼ぶ学者もいる――に含まれ、先祖や自然や人工物への崇敬の念であり、日本民族の古くからの文化的伝統であって、神道以外の諸宗教と背反するものではない。
 そもそも古神道には教祖がいないし経典もない。
 縄文から弥生にかけて、緑豊かな日本列島で日本人の先祖が生活している間に自然にできた、どくとくの文化だからである。
 そういう点で神道は、教祖のいる仏教・儒教・キリスト教などとは「次元」がちがっている。
 神道という用語もあとでできたものである。
 そして神道には「教」の字がついていないのだ。

 神々の例をあげてみよう。
 風は志那都比古神であり、野原は鹿屋野比賣神であり、火は火之夜藝速男神であり、排泄物までが神とされて、大便は波邇夜須毘古神、小便は彌都波能賣神と名づけられている。
 さらには、外国から来た宗教思想である仏教の守護神や仏そのものまで、神社に神として祀るようになった。
 近代においては、『記紀』にでてくる神々だけではなく、明治天皇・東郷元帥・乃木大将など過去百年の偉人も神社に祀られたし、戦死した軍人は全員が神になった。
 また人間以外では、多くの動植物や鉱物や空気までが祭神となっている。

 神社に祀られる神々がキリスト教などの神とまったくことなる人間的存在であることがわかるであろう。


『卑弥呼と日本書紀』24

 飛鳥時代以降に仏教が輸入されたが、仏教が普及すればするほど、儀式にも建造物にも古神道の伝統が取り入れられた。
 原理主義を捨て、古神道の伝統を取り入れて融和し、神仏習合・本地垂迹・神宮寺・社殿形式や儀式の類似化などがなされた。
 そのため、仏教は理屈を抜きにして庶民に受け入れられたのである。
(さらに平安後期から鎌倉時代にかけて、純日本的な仏教が誕生する)

 これと反対にキリスト教は神道的な神々を軽視したため、ザビエル訪日からすでに五百年になろうというのに、信者は一パーセント以下にとどまっている。
 神道が日本人の血肉となっているなによりの証拠である。

(たとえば下記参照)
↓↓↓↓↓
http://www.asahi-net.or.jp/~xx8f-ishr/shintou_haseki.htm


◆◆◆ 神社について ◆◆◆

 以上のようなわけで、現存する神社の数も驚くほど多い。
 神社本庁では伊勢神宮を本宗として、新宗教的な神社以外の神社を統括しているが、その数は、約八万である。
 しかしこれは、宗教法人数であって、お社の数ではない。一般に法人としての神社には、境外摂末社・境内摂末社と呼ばれる、系列の神社が多数付属している。
 たとえば、《伊勢神宮》は合計して百二十五のお社からなっているし、そこから分かれた熱田神宮は四十以上のお社からなっていて、合わせると二百にちかく、そのなかには巨大な神社がいくつもあるが、宗教法人としてはたったの二社である。

 先の神社本庁の八万という神社数には、こういう摂末社は含まれていないので、じっさいにお社のある――つまりそこが神社であることがはっきりと分かる――神社の総数は八万より遥かに多く、たぶん、数十万またはそれ以上の数になるであろう。
 さらに屋敷内社といわれる、民家の敷地内に奉安された神社まで加えると、おそらくは百万をはるかにこえるであろう。
 またさらに、家屋内にある神棚まで入れたら、およそ数え切れないだろうが、それを除いても、おびただしい数の神社があるのだ。


『卑弥呼と日本書紀』25

 著者はある地方の市に住んでいるが、家から徒歩二十分ほどの範囲内に、三十以上もの屋敷内社をみつけている。その多くは稲荷神社だが、散歩のたびに新発見がある。
 日本の神社で数の多いのは稲荷神社や八幡神社だが、たとえば熊野神社も名が知られている。
 神社本庁の資料による東京都内の熊野神社の数は四十社ほどだが、都内を歩いて調べた人の話では、摂末社を入れないでもその三倍はあり、さらに詳しく調べればもっと増えるだろうと述べている。
 神社本庁の話では、日本の全神社数は、多すぎて誰も数えた人がいない――ということである。
 神社を大切にする人の数も膨大である。神社のなかの神社である《伊勢神宮》――厳密には皇大神宮――の神札・神宮大麻をいただく家庭の数は、一千万にちかい。
 また、明治神宮はじめ著名神社に初詣する善男善女の数は何千万にもたっする。
 さらにお祭りの御輿や山車を楽しむ庶民の数はかぞえきれない。

*****

 以上のように、神々の意味からいっても、神社の数からいっても、国民的行事のありようからいっても、あきらかに、日本は「神々の国」であり、それはわが国の誇るべき文化的伝統である。
 一例をあげると、いまのわれわれが新年に明治神宮に詣でて明治天皇に感謝したり、「みたま祭」の靖国神社に詣でて英霊に感謝したりする行為は、すなわち、古代から連綿としてつたわる「神々」を崇敬する文化的伝統なのだ。

*****

 神道の話が出たので付記しておく。
 日本人は古くから緑豊かな山々を神として崇めてきた――多くの山に鳥居がある!――が、その結果として、日本の森林面積率は世界一を達成するに至った。
 さほど広くはない国土の七割近くが森林であり、しかもその森林のほぼ七割が、古くから日本人が大切に植樹し育ててきた人工林である。
 これらは、環境問題で話題となる二酸化炭素の吸収にも貢献している。
 こんな先進国は他には存在しておらず、欧米の学者も高く評価している。
 神道という文化的伝統のおかげである。
(『靖国神社一問一答』参照)

*****

 神と神社の話が長くなったが、こういうことに思いをめぐらしてから〈卑彌呼〉の話にもどると、「神」である〈天照大神〉と〈卑彌呼〉の尊敬すべき身分である「女王」とは矛盾しておらず、

「〈卑彌呼〉=〈天照大神〉説」

 ――にはそれなりの根拠がある、と考えることができる。


『卑弥呼と日本書紀』26

■■■■■ 二・二 〈神功皇后〉説 ■■■■■


◆◆◆ 〈神功皇后〉説について ◆◆◆

 つぎが、

「〈卑彌呼〉=〈神功皇后〉説」

 ――である。

〈神功皇后〉はのちにつけられた謚号(御追号)で、実名は氣長足姫尊である。近江の地名と関係があり、長命という意味をもっているらしい。
 また氣長は『古事記』では息長であり、息が長いために水中に長くもぐっていられるというところから海に関係のふかい一族の出身だろうとも推理されている。
 系図的には第九代開化天皇の血筋である。
 第十四代仲哀天皇の皇后だが、天皇の崩御後に大活躍をし、次の第十五代應神天皇――つまり〈神功皇后〉の御子――が即位されるまでの七十年間の天皇空白期に、天皇の代わり(神功摂政と呼ばれる立場)として国家運営にあたり、男装して朝鮮への出陣(図2・2)もなしたという、興味ぶかい存在である。

↓↓↓↓↓↓↓↓
http://www.asahi-net.or.jp/~xx8f-ishr/H11-22.htm

 だから、『記紀』と同時期にできた『風土記』などでは、皇后ではなく天皇(女王)として記されている。天皇と認識していたと読めるシナ史書もある。
(本書では、便宜上第十四・五代としている。歴代天皇についてのさまざまなデータは付録を参照されたい)

 天皇という称号は、六世紀末から七世紀初めにかけての第三十三代推古天皇の御代に、日本の独立宣言的な意味で定着したという学説が有力であり、その前は漢字で書けば王とか大王とか称していたらしい。また訓読みとしては、オオキミ、スメラミコトのほかいろいろな尊称があったらしいが、本書では天皇で統一する。


『卑弥呼と日本書紀』27

 この興味ぶかい存在である〈神功皇后〉の事績として特に有名なのは、新羅を征伐して凱旋したという話である。
 新羅・百済・任那はもと三韓と呼ばれた地域なので、これは三韓征伐ともいわれている。

 この事績について、一部の戦後の学者が架空譚ではないか――と述べている。
 架空譚説では、『記紀』の〈神功皇后〉の事績は推古天皇や齊明天皇――あるいはその前に実質的な女性天皇だった清寧天皇紀の飯豐青皇女――はじめその後の多くの女性天皇の事績を総合して創作した話だとすることが多いようである。

 しかし、〈神功皇后〉の修正紀年である四世紀から五世紀にかけて日本が朝鮮半島に進出した事実は、朝鮮の正史である『三国史記』にもあるし、鴨緑江の北岸に発見された好太王碑などにも記されており、これらをもとにして〈神功皇后〉の実在性や三韓征伐伝説の史実性を主張する学者も多くいる。


◆◆◆ 〈神功皇后〉の実在性 ◆◆◆

 著者も、神話的色彩のつよい〈神功皇后〉伝説のなかに、史実の反映が多く見られるように感じている。
『古事記』『日本書紀』『風土記』だけではなく、『万葉集』にもこの皇后についての多くの歌がある。
 もちろん巨大な前方後円墳もあるし神社もあるし、長く秘匿された神社に伝わる古文書もある。
 各地方には伝承ものこされている。
 非実在の皇后についてこれほど多くの史料が残っているのは不思議であり、架空譚説にくみすることはできない。

 もし完全に架空だったとしたら、大和朝廷が日本中に、史書だけでなく歌集や神社の秘史にまでも「架空の神功皇后」のことを詳しく書け――と命令し、日本中がいっせいにそれにしたがったことになる。
 しかし、『記紀』が書かれたころは、まだ朝廷に敵対する勢力すらあちこちにあった時代であり、敵対ほどではなくとも、対抗意識をもつ氏族や神社がたくさん有った時代である。
 そういう人たちが『記紀』に不満をもって、独自の史書である『古語拾遺』や『先代旧事本紀』などまで書いている。


『卑弥呼と日本書紀』28

 また、朝廷への異論が記されているために神社に秘匿されて門外不出とされ、戦後になってやっと公開された、『勘注系図』のような古文書もある。
 そのような秘史の類にも、ちゃんと〈神功皇后〉が書かれているのだ。もし架空の女帝だったら、これはあり得ないことであろう。

 軍事にかんしてどのていど指導的立場だったかはわからないが、モデルとなる強力な女帝がいたのは確かだと感じるし、また日本勢力の朝鮮進出は、複数の外国文献に書かれているので、完全な史実である。

 こういう女帝〈神功皇后〉の出兵によって、とうじの日本は、朝鮮半島南部の任那という軍事的・貿易的な拠点を大きく拡大確保した。
 そして百済とは友邦関係、新羅とは半対立半友好関係となり、元三韓の北の高句麗とは抗争をつづけた。
 任那の日本府は六世紀に消滅したが、その後も日本は朝鮮半島での権益維持に腐心し、半島での日本の勢力が最終的に失われたのは、七世紀後半の中大兄皇子の時代だった。
 白村江の戦いで唐・新羅連合軍に破れたためである。そして日本は大陸からの侵攻にそなえる防御に力を入れるようになり、そのための大津遷都などを強行した。
 トビラの歌にもある史上有名な話である。


◆◆◆ 日本最古の〈神功皇后〉説 ◆◆◆

 さて、この〈神功皇后〉が〈卑彌呼〉ではないかという説の根拠は、『日本書紀』における三世紀前半という紀年が〈卑彌呼〉の時代と一致していることや強力な女帝であることのほかに、新羅征伐以外の一般的事績についての記述が、妙に『魏志倭人伝』の話と一致している点にもある。
 また〈天照大神〉を想像させる点にもある。
 したがって、「〈卑彌呼〉=〈神功皇后〉説」は、もちろん大昔からあるのだが、その説を唱えたもっとも古い人物は、『日本書紀』の編者(舎人親王)そのものだ――ともされている。


『卑弥呼と日本書紀』29

 なぜかというと、『日本書紀』の〈神功皇后〉紀のなかに、何カ所かにわたって『魏志倭人伝』の記事が引用されているからだ。
 この引用については、すこし後の書写した人物が注として付加したのではないか――という説もあるが、そうだとしても、奈良時代か平安時代であり、ひじょうに古い注記であることは間違いない。
 だから、飛鳥時代、奈良時代、平安時代といった千何百年も前の時代に、

「〈卑彌呼〉=〈神功皇后〉説」

 ――が存在したことは確かである。

 もちろん、『日本書紀』の紀年は修正されており、〈神功皇后〉の時代は書かれている三世紀前半ではなく四世紀半ばと推測されているので、科学的には合わない。
 しかし〈天照大神〉のところでも述べたように、〈卑彌呼〉についての記憶が、形を変えて〈神功皇后〉伝説に生きていると考えれば、「〈卑彌呼〉=〈神功皇后〉説」もまた――ある意味では――ありうることである。

 とくに、この皇后が大和〜敦賀〜九州〜朝鮮〜九州〜大和と移動しており、かつその皇子の應神天皇が偉大な伝承をもっていることは、暗示的である。
 だから、確からしいといえばとても確からしい説なのだ。

(注:日蝕を連想させる伝承もある!)

 なおこの説は『日本書紀』の選者の舎人親王を別にしてもとても古くからあり、江戸時代の学者、新井白石や伴信友もそうだったらしい。ただし白石はのちに九州説に変わったとされている。


『卑弥呼と日本書紀』30

■■■■■ 二・三 〈倭迹迹日百襲姫命〉説 ■■■■■


◆◆◆ 〈倭迹迹日百襲姫命〉と崇神天皇 ◆◆◆

 つぎが、さいきんになって知名度が急上昇している、

「〈卑彌呼〉=〈倭迹迹日百襲姫命〉説」

 ――である。

 前出した辞書類における〈卑彌呼〉の記述を見ても、ほとんどすべてにおいて、その候補に〈倭迹迹日百襲姫命(ヤマトトトヒモモソヒメノミコト)〉を挙げている。
〈天照大神〉を挙げていない辞書はあるが、〈倭迹迹日百襲姫命〉を挙げていない辞書はほとんど見られない。
 したがって、とうてい看過できない、きわめて重要な候補だということができる。
 辞書とは、学界の最大公約数を記すものだからである。

 さて、〈倭迹迹日百襲姫命〉とは、第七代孝靈天皇のお妃の娘で、第十代崇神天皇の時代に、天皇の大叔母(または叔母)という存在感のもとに、預言者として、また神託を伝える霊能力者として活躍した、神秘的な女性である。
 読みのトトヒはトトビかもしれないし、モモソヒメはモモソビメと称したのかもしれない。

 崇神天皇は第十代の天皇だが、実質的には大和地方を中心として日本の主要地帯を統一した最初の天皇だろういわれている。
 また聖山として知られる大和の《三輪山》の神である〈大物主神〉の祭祀を天皇家として初めておこない、さらに日本各地に神社の創建をすすめた天皇としても有名である。
 そしてこの〈大物主神〉の神託を天皇に伝えたとされるのが、〈倭迹迹日百襲姫命〉なのである。
『記紀』はこの崇神天皇を讃えて「御肇國天皇」(ハツクニシラススメラミコト)――つまり国をはじめて創った天皇――と呼んでいるが、この尊称は崇神天皇と初代の神武天皇にのみつけられているもので、飛鳥から奈良にかけての歴史家にとってとくべつ重要な天皇だったことがわかる。
 巨大な御陵ものこっているし、この時代の都である三輪山麓の纏向遺跡――本書では《纒向京》と仮称する――も発掘されつつあり、実在したことは確実である。


『卑弥呼と日本書紀』31

◆◆◆ 古代天皇の実在性 ◆◆◆

 だから崇神天皇が《大和》を中心とした統一国家をつくった最初の天皇であることは確からしいのだが、この天皇以前の九人の天皇が架空の存在だという戦後の一部の史家の主張にも疑問を感じる。
 崇神天皇以前の天皇は、紀年を合わせる意図だけで創作したのだという主張なのだが、もしそうだとしたら、天皇一人の寿命をもっと現実的な長さにし、かわりに天皇の数を二十〜三十人くらいに増やす筈であろう。
 その方が天皇家の代数が増えて、歴史を古く見せたい施政者にとっては都合がよい。

 しかしそうはしていないことからみて、神武天皇以下数代の天皇は、たぶん、大和朝廷が複数の豪族のひとつであった時代の歴代首長を伝承しているのではないかと思う。
 大和朝廷とは、大化改新で律令国家に向かうころまでの、《大和》を本拠地として日本の中心だった政権で、もちろん現天皇家の遠い先祖だが、崇神天皇またはその直前の天皇までは、周囲の豪族を完全に従えるところまではいっていなかったと考えられるからだ。

(崇神天皇より前の九代の天皇を史実の反映と認める見解は、決して戦前の歴史家や現在の一部民族派の意見だけではない。たとえば、文部省検定済みの最近の明成社の高校教科書にも、そのように記されている)

 ただし、崇神以前の天皇の実在を認める史家であっても、全員を認めるのではなく、たとえば第八代の孝元天皇だけは架空だろうと考える学者もいる。
 多くの豪族の伝承を集めるとどうしても相互に矛盾がでてくるので、それを解消させるために『記紀』の編者が天皇を一代ふやしてしまった――というわけである。樋口清之がそのような見解らしい。


『卑弥呼と日本書紀』32

◆◆◆ 〈倭迹迹日百襲姫命〉の血族 ◆◆◆

 さて本題にはいって、この第十代崇神天皇の大叔母――本居宣長によれば叔母でもある――にあたる〈倭迹迹日百襲姫命〉なる不思議な長い名前の女性が〈卑彌呼〉の正体だ――という説は、昔からある。
 笠井新也、肥後和男、和歌森太郎、樋口清之といった大正〜昭和初期にかけての碩学たちが主張しているし、さいきんでは考古学者を中心として、慎重に言葉を選びながらも、この説に賛同する学者が増加している。

〈倭迹迹日百襲姫命〉という奇妙な名の由来については、倭が大和であること以外はいくつかの推理があるだけでよくわかっていないらしいが、特別な女性につけられた名前であることは確かである。

 頭につけられている「倭」というのは大和朝廷の本拠地の《大和》であり、かつ日本そのものだから、それが女性の名の頭につくという事は、重大な意味をもっている。
『日本書紀』全体を見ても、名の頭に「倭」のつく女性は十名しか数えることができない。しかもそれぞれが極めて重要な地位にいる。
 挙げてみよう。

*****

〈倭迹迹日百襲姫命〉・・・本人。
〈倭迹速神淺茅原目妙姫〉・・・本人の別名。
〈倭迹迹姫命〉・・・崇神天皇紀七年にある本人の略名。
〈倭國香媛〉・・・本人の母で第七代孝靈天皇の妃。『古事記』では〈意富夜麻登玖邇阿禮比賣命〉。
〈倭迹迹稚屋姫命〉・・・本人の妹。
〈倭迹迹姫命〉・・・第八代孝元天皇の娘で本人の姪。または本人の別名。
〈倭國豐秋狹太媛〉・・・本人の曾祖父にあたる第五代孝昭天皇の皇后の母、つまり高祖母。
〈倭姫命〉・・・第十一代垂仁天皇の娘で《伊勢神宮》の初代斎王(御杖代)。本人の甥の曾孫にあたる。

***これ以下はずっと後の時代***

〈倭媛〉・・・第二十六代繼體天皇の妃。
〈倭姫王〉・・・第三十八代天智天皇の皇后。

***別枠***

〈大倭根子天之廣野日女尊〉・・・持統天皇(続日本紀)。


『卑弥呼と日本書紀』33

*****

 最後の三人はずっと後の世なので別にしても、どの姫命も、古代の大和朝廷にとってきわめて重要な地位におり、また「倭」の次にくる名称も、暗示的な女性ばかりである。
 また、後の世の最後の三名にしても、天皇家の歴史の節目にあたる重要な天皇の配偶者または女帝である。
 この十人(持統天皇を含めて十一人)の名を見ると、特別重要な女性にしか頭に倭という文字が使われておらず、かつ古代のそれは、

<全員が〈倭迹迹日百襲姫命〉のきわめて近い血縁>

 ――であることがわかる。

 しかしそれにしては、〈倭迹迹日百襲姫命〉は『古事記』には名前が出るのみであり、『日本書紀』でも――かなりの存在感はあるものの――崇神天皇のブレインまたは補助者として記述されているだけである。
 だから〈倭迹迹日百襲姫命〉の存在は、なにか不思議なものがあり、『記紀』の背後に、

「古代大和朝廷の建国の歴史とこの「姫命」の関係について何かが隠されている可能性」

 ――が感じられるのである。


◆◆◆ 奇妙な名前の意味 ◆◆◆

 つぎに、「倭」の下のいくつかの奇妙な文字の意味についてだが、一説によれば、迹迹日は十×十で百になる霊的な意味を持つ百襲の枕詞で、百襲は数多くの神のお告げがその人を襲うという意味だとする。
 このほか迹迹日は神鶏の鳴き声からきたという説や飛速が訛ったもので天に飛ぶの意味だとする説もある。
 名称の由来は第九章で再度記すが、いずれにせよ不思議な語感をもつ意味深長な名であり、とくに〈倭迹迹・・・〉なる名は、無数にある『記紀』のなかの女性を探しても、本人と妹と姪の三人しか見つからない。


『卑弥呼と日本書紀』34

 すなわち、『日本書紀』によれば〈倭迹迹日百襲姫命〉には弟が一人と妹が一人いるが、妹の名は倭迹迹稚屋姫命で、やはり倭迹迹がついている。
 姪とは、孝靈天皇の次の孝元天皇の姫の倭迹迹姫命である。この姪も謎の女性であり、後述するように〈倭迹迹日百襲姫命〉と同一人物だともいわれている。
〈倭迹迹日百襲姫命〉は『古事記』においては、〈夜麻登々母々曽毘賣命〉
 ――と書かれており、文字は違うが読みはほとんど同じである。

〈倭迹迹日百襲姫命〉の母親は倭國香媛で、大和の国の香という、なにやらとても高貴な名前である。
 この母親は『古事記』では〈意富夜麻登玖邇阿禮比賣命(オホヤマトクニアレヒメノミコト)〉と書かれており、『日本書紀』よりもさらに丁寧な名となっている。頭に〈大倭〉がついているのだ。
 名の後半のクニアレというのは、国が有る――つまり国を存在させた――という意味とされ、建国を意味するきわだって高貴な名である。
『日本書紀』のような書き方をすれば、〈大倭國在姫命〉とでもなるであろう。
 神武天皇や崇神天皇の生母につけられるべきような名前が、一皇女の母親につけられているのだ。

 この

「〈卑彌呼〉=〈倭迹迹日百襲姫命〉説」

 ――を学術雑誌に最初に明確に述べたのは、笠井新也だとされている。大正十三年のことである。
 そのご、梅干博士として有名な考古学者の樋口清之が大和桜井市周辺の発掘調査などを元にそう推理したし、肥後和男、和歌森太郎などの著名な歴史学者も笠井説を発展させて〈倭迹迹日百襲姫命〉説を唱えた。
 しかし昔は多くの説の一つにすぎず、考古学的立場の暦年計算からも文献学的立場からも否定する人が多かった。

 だが、この数年、考古学の進展にともなって支持者が急増してきた。
 国立歴史民族博物館副館長の白石太一郎はさいきんの考古学的研究によって確信に近いものを持ちはじめたようだし、またジャーナリストの倉橋秀夫は、ハイテクに詳しい考古学者へのインタビューを整理して、著書『卑弥呼の謎年輪の証言』のなかでほとんど結論にちかい書き方をしている。
 もちろん決定打はない。
 状況証拠がかたまりつつあるにすぎず、今後の研究によってどのような反証がでてくるかはわからない。


『卑弥呼と日本書紀』35

◆◆◆ 紀年の修正 ◆◆◆

 崇神天皇の御在位は、『日本書紀』で計算すると、西暦前九七年から前三〇年までの六十七年間で、御降誕は西暦前一四八年とされている。だから〈卑彌呼〉の時代とはまったく違う。
 また崩御は退位と同じだから、百十八歳という、信じられないほどの長寿ということになる。
 しかしよく知られているように、『記紀』の古い年代は、神武天皇の即位を、

「古代シナの学説(讖緯説)で革命が起こるとされたおめでたい辛酉の年(西暦紀元前六六〇年)」
(日本文化研究会『神武天皇紀元論――紀元節の正しい見方――』立花書房など参照)

 ――にするために大きく引き延ばされており、『記紀』の数字と実際の年代がほぼ一致するようになるのは倭の五王とされる第十七代履中天皇から第二十一代雄略天皇の時代(五世紀)以降のことであるし、きわめてはっきりしてくるのは初の女帝として有名な第三十三代推古天皇のころ(またはその少し前)――六〜七世紀――からである。

 したがって崇神天皇御在位のじっさいの年代は、西暦紀元以後で『魏志倭人伝』の時代に重なる可能性が高いし、寿命もじっさいはずっと短かったであろうとされている。

(なお〈倭迹迹日百襲姫命〉という名前は、漢字で書いてもカナで書いてもわずらわしいので、失礼とは思うが、〈百襲姫命〉と略称させてもらうこともある)


『卑弥呼と日本書紀』36

◆◆◆ 同時代の別の候補 ◆◆◆

〈百襲姫命〉のほかにも、『日本書紀』のなかの似た時代の女性を探す試みもある。
 たとえば、本格的な「《邪馬台国》=大和説」を最初に唱えたとされる内藤湖南は、崇神天皇の孫(垂仁天皇の皇女)にあたり《伊勢神宮》の初代斎王となった〈倭姫命〉を、〈卑彌呼〉になぞらえている。この説も過去にはかなり多くの学者が唱えてきた。

 もうひとり、注目すべきは、孝靈天皇のつぎの第八代孝元天皇の皇后で〈饒速日命〉の子孫とされる鬱色謎命が生んだ、前記の〈倭迹迹姫命〉である。
 名前がよく似ているので、本居宣長は〈倭迹迹日百襲姫命〉と同一人物だろうとしている。事実、前記一覧にあるように、〈百襲姫命〉をこの略名で記した箇所もある。
 本居説が正しいとすると、両親に二説あったことになる。
 こちらだと、神武天皇より先に《大和》に入っていて、豪族物部氏の先祖神となった〈饒速日命〉の子孫でもある――ということなので、天皇家と最大豪族の双方の血をひいた別格の身分ということになる。

 この意見も、同意する学者が多いらしい。
 互いに覇権を争っていたと考えられる物部一族と大和朝廷の関係を暗示するからである。
 専門の歴史家の中にも、〈卑彌呼〉は物部系の指導者だったのだろう――と推理する人がいるが、そういう説は、〈倭迹迹日百襲姫命〉は物部系の血をひいていたという仮説ともつながることになる。

 なにしろ飛鳥・奈良時代の歴史家が、天皇家の伝承のほかに各豪族に伝わる伝承を参考にしながら何百年か前の家系を記すのだから、父母に二説あることくらいはやむを得ないが、どちらにせよ別格の父母から生まれている神秘的な名と伝承を持つ女性なのだ。

*****

 本章でおおまかに述べている〈卑彌呼〉の候補については、第六章以降であらためて詳しく記すが、とくに〈倭迹迹日百襲姫命〉については、第八章から第十章までの三つの章で、詳細に説明するつもりである。

*****

 図2・3と2・4に、〈卑彌呼〉やその宮殿の想像モデルを示した。大阪府弥生文化博物館でつくって展示しているものである。

↓↓↓↓↓↓↓↓

http://www.asahi-net.or.jp/~xx8f-ishr/H23-34.htm


『卑弥呼と日本書紀』37

■■■■■ 二・四 『記紀』に記されていない〈卑彌呼〉存在説 ■■■■■


 ここまでの〈卑彌呼〉の候補者は、みな『日本書紀』に記された貴人だったが、『記紀』とはまったく無関係に〈卑彌呼〉がいた――という説も、もちろんある。
 というよりも、論争史においてはこの説が多数派である。
『日本書紀』にある貴人説の場合は、その性質上ほとんどが畿内――とくに大和――に本拠地をおく人物になるが、『記紀』にない女王を候補とする説では、その多くは畿内以外である。

 とくに九州にあった大豪族の女王に見立てる人が多いようだ。
 たとえば明治の東洋史学者の那珂通世は、

「〈卑彌呼〉は九州南部の熊襲の女酋長である」

 ――と述べている。
 九州のどこだったかについては人によって主張が違うが、〈卑彌呼〉とはある豪族の女性の首長だったのだろう、という点では、多くの九州説学者の意見は一致している。
 また女性の首長を持つ九州の豪族が、自分たちこそ大和朝廷だと偽って魏と交流したのだろう、という説も多いが、これは『日本書紀』にそれに近い記述があるからである。
(いまちょっと思い出せませんが、たしかあったと思います)

 アマチュア史家の場合には四国とか三重県とか東海地方とか新潟とか、あるいはインドネシアのような外国とか、百花斉放で、それぞれの土地に〈卑彌呼〉がいたことにされている。
 なかにはたんなる語呂合わせのような説もあり、著者は首をひねるが、じつにさまざまな意見が自費出版本などに飛び交っているし、日本古代史以外の分野では一流の業績を残している学者のなかにも、こういう説を唱える人がたくさんいる。
 これらを頭から無視することは出来ないが、そうかといって信じるわけにもいかない。学問的検討に値する史料が乏しすぎるのだ。


『卑弥呼と日本書紀』38

 例外的に、九州説でも『日本書紀』に記された個人名を出している論者もある。
 伊藤博文や大久保利通らに同行して『米欧回覧実記』を編纂した久米邦武は、第十二代景行天皇が九州遠征のときに通過した八女国の山中に住む女神〈八女津媛〉がそうだろうと、明治四十年に述べている。
 八女国は現在の福岡県の筑後市から佐賀県の吉野ヶ里遺跡のあたりだったらしい。
 景行天皇がこの女神に逢った形跡はないが、それだけに神秘的な色彩があり、〈卑彌呼〉になぞらえた気持ちもわかる。

 また明治の史学・漢学者の星野恒は、〈神功皇后〉によって征服されたと『日本書紀』にある九州山門県(やまとのあがた/いまの福岡県山門郡)の〈田油津媛〉に着目し、この女酋長の先代が〈卑彌呼〉だったのではないか、との説を明治二十五年に出している。
 山門は《邪馬台国》に発音が似ているし、ひとつの見解ではある。
 しかし久米説も星野説も、たんにそういう女性名が『記紀』にあったというだけであり、傍証すらほとんど無く、いまでは支持する人はすくない。

 このように、《大和》以外を舞台として、無名の〈卑彌呼〉候補をあげる人は多いのだが、そもそも『記紀』にも無いかあるいはほとんどなく、考古学的証拠もなく、あるのは『魏志倭人伝』の解釈だけ――という説では、その信憑性について評価のしようがない。

 せめて考古学的な発掘調査で巨大な墳墓や金印や墓碑銘などそれらしい遺物でも見つかればいいのだが、いままでのところ、何も見つかっていない。
 見つかるのは『記紀』より信憑性の薄いものばかりである。

*****

 ・・・というような事なので、『日本書紀』にも『古事記』にもないか、あったとしても断片的な〈卑彌呼〉説については、頭から否定するものではないが、文献史料はまったくないし、考古学的史料も少なすぎるので、以下の章では検討を加えないことにする。

 あげつらったり深入りしたりするよりは、信憑性の高い史料が出現するまでは検討を差し控えるほうが、学問的な態度であろう。


『卑弥呼と日本書紀』39

■□■□■ 第三章 『魏志倭人伝』の概要 ■□■□■


百船の 泊つる対馬の 浅茅山 時雨の雨に もみたひにけり
〔万葉集3697〕
「たくさんの船が停泊する津(港)ではないが、対馬の浅茅山はしぐれの雨に色づいている」

新羅へか 家にか帰る 壱岐の島 行かむたどきも 思いかねつも
〔六鯖(万葉集3696)〕
「新羅へ行くか家に帰るか、壱岐ではないが行くべき手段も思いつかない。(壱岐は行きにかけられた枕詞)」

大船に 真楫しじぬき この吾子を 唐国へやる 斎へ神たち
〔光明皇后(万葉集4240)〕
「大きな船に櫓をたくさんつけてこの子を唐の国へ派遣します。神々よどうかお守りください。(光明皇后が遣唐大使として出発する甥の藤原朝臣清河に賜った歌)」


■■■■■ 三・一 議論の少ない対馬から奴国まで ■■■■■


『魏志倭人伝』は戦後の日本ではとても有名になっていて教科書にもでてくるので、名前と大まかな内容については、ほとんどの読者がごぞんじと思う。
 三世紀の前半――現在の日本の歴史用語でいえば弥生時代のおわり――における日本のありさまや魏の国との交流の様子を記した史料である。
 ただ、その文章を最後まできちんと読んだ人はすくないかもしれないので、その内容について、簡単におさらいしておく。
 くわしいことは、数多くある翻訳書でお調べいただきたい。
 文庫判で翻訳文が十頁ほど、原文だとその半分にもならない量のものである。

 断片的な知識を無理につないだような短い文章で、論理的にきちんと筋が通る話ではなく、何種類にも解釈できるはしょった文章――何種類にも意味がとれるのが漢文の大きな欠点とされる――なのだが、とりあえず、概要を述べておこう。


『卑弥呼と日本書紀』40

◆◆◆ 金印発見で裏づけられた前文 ◆◆◆

 話の出発点は、いまの韓国のソウル付近一帯の帯方郡で、ここは当時は魏の国の植民地になっていて、シナが朝鮮半島近辺を統率する拠点だった。
 まず、

「倭人(日本人)はこの帯方郡の東南の大海に住んでいて、そこには国々があり、もと百余国だった。漢のとき(西暦一世紀半ば)に使者が来た。いま使者や通訳が来る国は三十ほどある」

 ――という前文があり、ついで帯方から九州本島の北端部までの行程――と思われる――記録とその土地と住民の様子や役人の名前などが記されている。
 漢のときの使者というのは、教科書にかならずといっていいほど出ている「金印」の発見によって裏づけられている。
 すなわち、江戸時代に博多湾の志賀島から「漢委奴國王」と刻まれた金印(委は倭ともいわれる)が発見されたが、これは、シナの正史・後漢書倭伝にある、

「西暦五七年に後漢光武帝が都の洛陽にきた日本の使者に金印を授けた」

 ――という記事に対応したものだろう、といわれているのだ。
 金印にある「奴國」とは、いまの博多湾岸であることは――地名の研究から――多くの学者がみとめている。

 これが別のときの「金印」だったとしても、ひじょうに古い西暦紀元前の弥生時代半ばにすでに、日本の豪族たちがシナや朝鮮の役人や商人たちと、海を渡って活発に交流していたことは、確からしい。
 ということは、九州〜大和の交流はもっと盛んだったということを意味しているのだが、この「金印」のほかにも、西暦紀元前にシナ大陸で作られた鏡などが各地の遺跡や神社に残されているし、弥生青銅器の材料も多くは大陸産である。

『魏志倭人伝』にもどって、九州北端部についたあと、日本本土内に入ってからの個々の国についても、同様に行程や国の有様が記されている。
 行程とは、次ぎの国に行くのに、どちらの方角に何里とか何日とかいうもので、また有様は土地柄とか家の数とか風俗とか役人の名前とかである。
 ただし記述はごく短く単純であり、理解に苦しむことが多い。
 以下おおまかに説明する。


『卑弥呼と日本書紀』41

◆◆◆ 朝鮮半島〜対馬〜壱岐 ◆◆◆

 帯方郡から海岸に沿って朝鮮半島を南下したり東に向かったりして七千里ほどゆくと、狗邪韓国につく。
 これはすでに倭国の一部であると読みとれる記述がなされている。
 それから千里ほど海を渡ると対馬国に達し、さらに海を千里渡ると一大国に達する。
 そこからさらに千里の海を渡ると、九州本島北端部に到達する。

 狗邪韓国というのは朝鮮半島南端部にあった弁韓に含まれる加羅と考えられている。
 ここは日本が六世紀まで権利を持ち日本人がたくさん住んでいた任那とほぼ同じ地域で、現在の韓国の地理でいうと慶尚南道金海地方(鎮海湾北方)である。
 ひじょうに古い時代――三世紀前半――にすでに朝鮮南部が日本の勢力下にあって任那の原型ができていたらしいことがわかる記述である(注1)。

 つぎの対馬国(対海国とした書もある)は日本の対馬であることが確実で、一大は一支の誤写ともいわれ壱岐であることが確実とされている。

 七千里とか千里とかいう距離の単位の「里」については、魏の時代の一里が四三五メートルなので、これで数えたという説が有力だが、他にもさまざまな議論があり確定していない。
 いずれにせよ現在の日本の「里」よりずっと短いが、こういう短い「里」で考えても、七千里とか千里といった数値は過大である。
 しかし三世紀に厳密な測定ができたとは考えられないし、過剰表現はシナ文書の通例でもある。

 対馬や壱岐の官(役人)は卑狗(ひく)、副官は卑奴母離(ひなもり)といい、人家は千余と三千ほどであり、人々は海産物を採り、米は船で買い入れて生活している――とある。
 とうじの人たちが九州から朝鮮南端まで、対馬と壱岐を経由して往来していたことについては、多くの史家が確かだとしており、これについて異論を述べる人はほとんどいない。

 官の名については、推定しかありえないが、卑狗は「・・・彦(ひこ)」を官吏名と解して記したものであり、卑奴母離は「夷守(ひなもり)」だろうという説がむかしからある(注2、3)。
「彦」は貴人の末尾につく尊称だが、本来的に首長という意味を含んでいるので、敬称としてそれのみで呼んでいたのかもしれない。
 夷守とは、辺境(鄙/ひな)を守護する役人のことで、『記紀』に出ている役職名である。
 この卑奴母離はあと二回でてくる。

(注1:ちなみに、『魏志倭人伝』のすぐ前は三韓の解説である『魏志韓伝』だが、そこにも「半島南端部は日本領」だと明記されている。反日韓国人のなかには、対馬は昔は韓国領だったという人がいるらしいが、『三国志』の『魏書』には、対馬どころか半島の南端までが日本領だと書いてあるのだ。半島の中央部に植民して居座っていた魏国の役人が言うのだから、間違いないだろう。こういう史料は、韓国の歴史家は無視するらしい)

(注2:彦(ひこ)は日子→貴い男性。日は太陽で、貴人の尊称の一種。これに対して姫(ひめ)は日女→貴い女性または太陽の妻。やはり太陽を意味する尊称といわれている。彦も姫も今の感覚とはまったく違う高貴な尊称であった)

(注3:卑奴母離=夷守(ひなもり)の「ひな」は都から遠い土地の意味で、今でも「ひなびていて素朴」とか「ひなには稀な美人」といった使い方がある)


『卑弥呼と日本書紀』42

◆◆◆ 末廬国〜伊都国〜奴国 ◆◆◆

 さて九州本島北端部に着いてみると、そこには末廬国(まつろ)があり、人家は四千余である。人々は魚や鮑をとるのが得意である。
 ここから陸を東南に五百里すすむと、伊都国(いと)につく。
 官を爾支(にき)、副官を泄謨觚(しまこ)および柄渠觚(ひここ)という。
 この官名の爾支は『記紀』にでてくる「根子」だろうといわれている。
 根子とはその土地の基礎をつくった――といった意味の尊称で、第七〜九代の天皇の御名に入っているし、後の天皇の名にも使われている。また各地の要人の名にもつけられている。
 人家は千余で、帯方郡から使者がきたときは、みなこの伊都国に駐留する――と記されている。
 重要な国だったことがわかる。

(以下官名の日本語との対応については諸説ありすぎるので説明は簡単にしておく)

 この伊都国のところに、国には国王がいてみな女王国に属している――という興味ぶかい文章があるが、属しているのが伊都国の歴代国王なのか、他の多くの国々もそうなのかが読みとれず、いろいろな意見がある。
 国王と官(役人)の関係もいまひとつはっきりしないが、王と行政官の長ということであろうか。また地方豪族の長と中央から派遣された監督官ということかもしれない。

 伊都国からさらに東南に百里すすむと、奴国(な)に達する。官の名は▲馬觚(しまこ)で、二万余の人家がある。
(▲は上が凹で下が元の下と同じ)
 副官を卑奴母離(ひなもり)という。

 九州本島についてからのこの三つの国がどこだったかについては、古い地名の発音との照合や『記紀』や『万葉集』や考古学的知見によって、かなり明確になっている。


『卑弥呼と日本書紀』43

 すなわち末廬国(まつろ)は『古事記』でいう末羅(まつら)、『日本書紀』にある松浦県(まつらのあがた)で、現在の東松浦半島やその付け根の唐津のあたりである。
『日本書紀』には〈神功皇后〉が神意をたずねた場所として出てくる。
 松浦の読みは一般にはマツウラであるが、現在でもマツラと読む人名や地名がたくさんある。
 隣接する唐津港は、加羅津でもあり、朝鮮半島の加羅の国と連絡する港という意味をもつとされているから、もともと朝鮮半島と関係の深い土地柄である。

 伊都国(いと)は今の糸島半島のあたりとされ、『日本書紀』にも〈神功皇后〉が臨月を石で抑えた事績のところで伊都県(いとのあがた)として出てくる。
 伊都(いと)と名づけたのは仲哀天皇ということになっている。

 そして奴国(な)は那珂川(なかがわ)のある博多湾の周辺のようで、『日本書紀』の宣化天皇紀では博多湾のことを「那津(なのつ)」としているし、仲哀天皇紀ではこのあたり一帯を「儺県(なのあがた)」と記している。また那珂川を「儺河(なのかわ)」とも記している。
 さらに名島という島もある。
 奴国の読みは、ナコクではなくヌコクかもしれないし、その中間かもしれない。
 千八百年も前のシナや日本の発音が正確に分かる筈はなく、本書にしめすもろもろの読みは、比較的賛同者の多い推定にすぎない。
 この奴国は、西暦五七年に金印を贈られた倭奴国の後継なのであろう。金印の発見位置も、この奴国の内部である。

 つまり、酷似した地名(および職名)が『記紀』にあるし、現存もしている。


『卑弥呼と日本書紀』44

◎北九州地図での確認

 この三国のおおまかな位置を、図3・1に示しておいた。

↓↓↓↓↓↓↓↓

http://www.asahi-net.or.jp/~xx8f-ishr/H23-34.htm

 奴国の中心は楕円の中心ではなく楕円の上部(北)の方だったかもしれない。
 参考までに、金印出土地と吉野ヶ里遺跡の場所も図示しておいた。
 このあたりにはさまざまな遺跡や古い地名があり、弥生時代から重要な地域だったことが推理できる。
 三国のうち、奴国の中心位置については、多少の異論もあるようだが、末廬国や伊都国のありかについては、異論はほとんど無いようである。
 このあたりは日本から見て半島や大陸に渡る拠点であり、同時に防衛の拠点でもあり、とくに伊都国は重要な場所だったらしい。

*****

 さてここまでは、『魏志倭人伝』の記録と日本側の『記紀』や古い地名などさまざまな史料とがほぼ一致するのだが、ここから先の多くの国の所在が急に分からなくなり、

「《邪馬台国》九州説」
 と
「「《邪馬台国》大和説」

 との間で論戦がなされることになるのである。


『卑弥呼と日本書紀』45

■■■■■ 三・二 議論百出の奴国から先 ■■■■■


◆◆◆ 不弥国〜投馬国〜《邪馬台国》 ◆◆◆

 議論百出の奴国から先について、とりあえず、順に記してみる。
 奴国から東へ百里行くと不弥国(ふみ/ふび)があり、人家は千余で官は多模(たも)、副官は卑奴母離(ひなもり)である。
 不弥国の位置は、九州内部か関門を渡ったところか決定打はないようだが、小規模な国だし百里というのはたかだか数十キロだから、この距離を信じれば、いずれにせよ奴国のすぐ近くが想定される。

 一説によると、発音から宇美町あたりではないか――とされる。宇美は図3・1の奴国の楕円の右端あたりである。そのほか南東の太宰府、北東の津屋崎などいろいろな説がある。
 津屋崎は玄界灘に面した小さな岬で、図3・1の地図の楕円の北端小円部だが、そのすぐそばに福間(ふくま)という土地があることが根拠のひとつである。
 津屋はいまではあまり有名ではないが、かつては北前船で賑わった土地である。

 帯方郡からこの不弥国までは、どれだけ離れているかはすべて「里」を単位にした距離で記されている。
 つまり――正確かどうかは別にして――まともな書き方がなされている。
 ところが不弥国から先は、距離ではなく、「日数」によってその離れ方が表現されるようになる。
 そのため、『魏志倭人伝』の編者に資料を提供した人物は、北九州までは来たが、その先には行っておらず、日本人から聞いた知識によって推理したのだろう――という説が多くある。
 ともかく続けてみよう。

 不弥国から南へ水上を二十日行くと投馬国(とうま/つま/ずま)がある。官を彌彌(みみ/びび)、副官を彌彌那利(みみなり)といい、五万もの人家がある。
 この数がほんとうだとすると、弥生時代としてはずいぶん大きな国である。

 さらにそこから南にすすむと、問題の《邪馬台国》*に達する。
 この国は女王が都をつくっているところで、水上十日陸上一月がかかる――と記されている。
 官は伊支馬(いきま)が長で、その下に彌馬升(みましょう)、彌馬獲支(みまかくき)、奴佳▲(なかてい)などがおり、人家は七万である。
(▲は革+是)

(*《邪馬台国》は最重要なので、《 》でくくります)


『卑弥呼と日本書紀』46

◆◆◆ 《邪馬台国》の謎に直面 ◆◆◆

 こうして遂に、女王のいる《邪馬台国》が出てきたことになるのだが、その方位と距離が問題なのだ。
 不弥国の位置もはっきりせず、投馬国の場所もまた謎であるが、もし『魏志倭人伝』の方位と距離をそのまま信じれば、投馬国も《邪馬台国》も九州の南の海中になってしまう。
 そこで、じつにさまざまな解釈が出され、議論が百出し、決着がつかないのである。

 記述をそのままいまの地図にあてはめると、《邪馬台国》は外国になってしまいかねず、ある学者のようにインドネシアにある――という説まで飛び出してしまう。
 そこで、「九州説」では、距離の解釈を工夫して九州内にあるとするし、「大和説」では方位を変更(*)しさらに距離も一部変更するのである。

 この問題については、あとで詳述するので、ここでは二、三の修正意見のみ記しておく。
 そのひとつは、投馬国から《邪馬台国》まで行くのに水上十日に加えて陸上を一月かかるというのは、たとえ「大和説」であってもあまりにも長すぎるので、一月は一日の書き間違え(写し間違え)だろうという意見である。

 投馬国は読みの推測(トウマまたはツマまたはズマ)から、「大和説」では出雲か但馬ではないか――と考えられている。
 地理や大きさから出雲のほうが有力だが、出雲説における読みの類似については、

   出雲=イズモ→ズモ→ズマ(ツマ)=投馬
(出雲=IZUMO(**)→ZUMO→ZUMA(TUMA)=投馬)

 ――であろうと推理されている。
 投にはツやズという音があるのだ。
 さいきん出雲や但馬のあたりに巨大な集落遺跡が見つかっているので、この説は考古学的調査と矛盾しないのだが、もしそうだとすると、そこから《邪馬台国》までが地理にあわない。
 出雲から海を十日行き、さらに同じ方角に地面の上を一月も歩いたら、山形方面まで行ってしまうだろう。

(* 『記紀』と名称が合致する末廬→伊都→奴の経路は、『魏志倭人伝』では南東と書かれているが実際は北東である。つまりほぼ90度違って記述されている。だから、『魏志倭人伝』の方位は、全体として90度違うのではないか――との指摘がある。→この問題は後に詳しく述べる) 

(** 出雲を古代でもIZUMOと発音していたかどうかは疑問だが、そう仮定しての話)

(注2:『魏志倭人伝』の経路は、大部分が船便を連想する。道路が整備されておらず乗り物も無かった古代においては、陸地の旅は能率が悪く危険もあった。その点船便は圧倒的に効率的だったろうし、海岸沿いなら海難も少ない。したがって陸行は船ではどうしても行けない経路のみだったろう――と推理できる。こういう事からも「不弥国=津屋崎説」は有力視される)


『卑弥呼と日本書紀』47

 瀬戸内海を船ですすんだとすると、大阪湾についてそこから《大和》まではマラソンコース以下であり、健脚なら半日、ゆっくり歩いても数日でつく。
 またさらに、現在よりもずっと川幅の広い河川が大阪湾から奈良盆地まで達していたので、ほとんど歩かなくても《大和》へ行けたはずである(*)。

 昔の文書は多くの人が何代にもわたって書き写して保存されるものなので、一日を一月と写し間違えたのだろうという説が出るのはもっともである。

 ただし、一月でよい――という説もある。
 出雲を経由して日本海がわを通って若狭湾に上陸して大和へ向かう経路――この経路も有望である――を、休み休み歩いたとして、それを大げさに書いたのだろう――という推理である。

 この件についてのもうひとつの意見は、水上十日と陸上一月とは伊都国からの日数ではないか、そして水上を行けば十日で陸上を行けば一月かかるという意味ではないか――というもので、原文があいまいなため、いろいろな仮説が出されている。

 参考までに、「《邪馬台国》大和説」で考えられている二つの代表的な経路を、図S2に示しておいた。

↓↓↓↓↓↓↓↓

http://www.asahi-net.or.jp/~xx8f-ishr/HS2-4.htm

 瀬戸内を通る実線は、多くの大和説の論者が考えている経路であり、日本海側を通る破線は、笠井新也が大正時代に唱えた経路である。
 最近では、考古学の進展を踏まえて、破線を見直す人が多いらしい。

(* 古代においては、今は陸地になっている大阪湾の奥が巨大な汽水湖で、そこから大河が奈良盆地に連絡していたことは、神武東征の物語からも地質研究からも指摘されている。海外からの使者も、大和に到着してから船を降りたとされている)


『卑弥呼と日本書紀』48

◆◆◆ 《邪馬臺國》か《邪馬壹國》か ◆◆◆

 つぎが、《邪馬台国》の台の文字についてである。
 原文の《邪馬台国》は《邪馬壹國》と書かれており、壹は壱の正字でイチ、イツ、イなどなので、これをそのまま読めばたぶん「ヤマイコク」である。
 古田武彦のようにそのままの読みで考えるべきだとの意見もあるが、それは少数派で、一般には、この邪馬壹國の壹は似た文字なので誤写したのであって、逸文から考えても、原典は「臺(台の正字)」であった――とするのが定説となっている。
 つまり《邪馬臺國》だろうというわけである。
 著者も、この問題全体を見渡したとき、この誤写説が順当だろうと考えている。

 ところで、一般になされている「ヤマタイコク」という読みは現代の日本語風のもので、臺は「ト」とも読むので、「ヤマト」と読まれていたとも考えられる。
 つまり《大和》とほとんど同じ発音であるとの説が昔から多く出されている。
《邪馬臺國》と畿内の《大和》や九州の《山門(やまと)》の発音上の照合は、三世紀のシナでの発音と、三世紀の日本での発音の両方を知らなければできないわけで、それが極度に困難な現状では、おおまかに似ていればよし、としなければならない。
 碩学として聞こえる田中卓のように、「ヤマトコク」と読むべきだとの意見も多い。
 ここでは《大和》や《山門》を連想させる発音だっただろう――とだけ推定しておく。
 くわしいことは第五章に記す。

《邪馬臺國》の本字の臺を現在の簡略文字で台と書き、國も国と略して、一般には《邪馬台国》というわけで、本書でも通例にしたがって《邪馬台国》と記しているが、今にのこる写本では《邪馬壹國》であり、逸文や修正意見が《邪馬臺國》であり、その略字が《邪馬台国》であることを、念頭においていただきたい。

 なお本書では人名は極力原文どおりの正字で書くことにしているが、『魏志倭人伝』の最後に出てくる〈卑彌呼〉の娘の壹與(いよ)も正しくは〈臺與〉(とよ)だといわれている。
 もちろんあくまでも現在の写本どおりに壹としてイヨと呼ぶべきだ――と強く主張する人もいるが、著者は〈臺與〉の可能性の方がたかいと感じており、以下では〈臺與〉としている。


『卑弥呼と日本書紀』49

◆◆◆ 国々の一覧 ◆◆◆

 さて、《邪馬台国》までの以上の国々については、だいたいの距離や戸数がわかるが、その他については、詳細は不明だとして、《邪馬台国》に達するまでにある、女王国に従属している二十一の国名が並べられている。
 そのままを信じれば投馬国と《邪馬台国》の間に二十一の国があることになるが、その一部は《邪馬台国》の周辺に点在する国なのかもしれない。

 またその先――《邪馬台国》の南――には、女王に反抗している狗奴国(くな/くぬ)があり、男王卑彌弓呼(ひみここ)がいて、官の名は狗古智卑狗(くこちひく)だとしている。
 男王の名は、語順が違っていて、ほんとうは卑弓彌呼(ひこみこ)つまり「・・・彦命」または「・・・彦御子」ではないか――というのが多くの意見である。
 それから、帯方郡から《邪馬台国》までは、一万二千里ほどだとしている。

 ここまで見慣れない名前の国々を記してきたので、整理しておく意味で、一覧表の形に並べておこう。

*****


『卑弥呼と日本書紀』50

帯方郡(魏の植民地)
 ↓南と東に七千余里
狗邪韓国(弁韓のあたり)
 ↓海を千余里
対馬国(千余戸/官・卑狗、副官・卑奴母離)
 ↓海を千余里
一支国(三千戸/官・卑狗、副官・卑奴母離)
 ↓海を千余里
末廬国(四千余戸)
 ↓陸を東南に五百里
伊都国(千余戸/官・爾支、副官・泄謨觚と柄渠觚/国王あり女王国に属す)
 ↓陸を東南に百里
奴国 (二万余戸/官・▲馬觚、副官・卑奴母離)
 ↓陸を東に百里
不弥国(千余戸/官・多模、副官・卑奴母離)
 ↓南へ水上を二十日
投馬国(五万余戸/官・彌彌、副官・彌彌那利)
 ↓南へ水上を十日、陸上を一月(または一日/または伊都国からこの日数)
邪馬台国(七万余戸/官・伊支馬、その下に彌馬升と彌馬獲支と奴佳▲/女王が都す)
 ↓ (帯方郡からここまでが一万二千余里)
 ↓              ↓
 ↓さらに南へ         ↓
 ↓              ↓
狗奴国(官・狗古智卑狗     ↓
    男王・卑彌弓呼が    ↓
    いて女王に服さず)   ↓
                ↓海上を東に千余里
                ↓
               倭種の国
                ↓女王国から南に四千余里
               侏儒国
                ↓東南に船で一年
               裸国
               黒歯国

(以下投馬国と邪馬台国の間および邪馬台国周辺の国々)
   斯馬国    華奴蘇奴国
   己百支国   鬼国
   伊邪国    為吾国
   郡支国    鬼奴国
   弥奴国    邪馬国
   好古都国   躬臣国
   不呼国    巴利国
   姐奴国    支惟国
   対蘇国    烏奴国
   蘇奴国    奴国
   呼邑国   (前の奴国と同じ文字)

〔倭国は遠方の島々からなり、めぐると五千余里になる〕


『卑弥呼と日本書紀』51

◆◆◆ 狗奴国の謎と重要性 ◆◆◆

 この一覧のうしろの方の侏儒国などは末尾近くに書かれていることで、かなり空想的であり、まともな論評はできない。
 現実的な検討のできる国々のなかで、《邪馬台国》に服していないとされる狗奴国については、「九州説」では読み方から、『日本書紀』にある、天皇を悩ませた九州の熊襲だろうという人が多い。
 クマソとは球磨(くま)と阿蘇(あそ)が繋がってできた言葉だという説があるが、クマをクヌと聞いたとすれば確かに狗奴国になる。
 これは「九州説」にとって有利であるが、著者には何ともいえない。

 一方「大和説」にとっての有力な説は、上毛野・下毛野地方――のちの上野・下野地方/現在の群馬県・栃木県に相当――の豪族だろうというものである。
 ケノとクヌが類似していること(KENO→KUNU)と、この地方の平定に中央政権が苦労した話が、『記紀』に多く記されていることからの、推理である。
 さらには熊野説もあるし、さいきんの発掘状況からは東海地方または愛知〜岐阜〜近江地方も有力視されている。

 大和朝廷より先に《大和》に達して君臨していたとされる〈饒速日命(にぎはやひ)〉一族の後裔を自認する尾張一族などが勢力をもっていたこれらの地方(愛知岐阜など)は、最近の考古学的調査によって、〈卑彌呼〉の時代に《大和》と複雑な関係があったらしいと推理されるようになってきたのだ。

《邪馬台国》の周辺から投馬国あたりまでと考えられる二十一の国については、斯馬国は志摩であろうとか己百支国は伊勢石城であろうとか、苦心の探索が報告されているが、決定打はない。
 そもそも原文の国名をどう読むかが明確でなく、かつ日本の古代の地名がどう発音されていたかが曖昧なのだから、科学的な探索はきわめて困難なのだ。


『卑弥呼と日本書紀』52

■■■■■ 三・三 風俗・習慣・制度 ■■■■■


『魏志倭人伝』における日本の国々の話は以上でおわり、その次に――脈絡無しにとつぜん――倭人(日本人)の風俗・習慣・制度などの記述がでてくる。
 その内容は断片的で順不同であり、もっともな面と奇妙な面とが混在している。
 はしょって箇条書にしてみよう。

*****

01 古くから倭の使者はシナの都に来ると「大夫」と自称する。
 (これはシナ風の官名で、日本の使者がシナの制度に通じていたことを意味するとされる)
02 みな入れ墨をしている。
03 帯方郡からの経路で推し量ってみると、倭国(日本)は会稽東冶の東方海上にあることになる。

(「会稽東冶の東方海上」とは、奄美大島から沖縄南端部の尖閣諸島あたりまでを含む南北に長い海域らしい。会稽とは現在の浙江省から江蘇省にかけての郡名、東冶とは現在の福建省福州のあたりの県名とされる。これは、本書で問題にしている、当時のシナ知識人が考えていた日本列島の位置と方位を知る上で重要な一行。つまり、ほぼ南北に長い南方の島々だと考えていたらしいことが、『魏志倭人伝』だけからでも推理できるのだ)

04 風俗は乱れておらず、衣服は貫頭衣のようなもの。
05 稲や絹や綿をつくり、牛や馬はいない。
06 武器には矛、盾、木弓を使用する。
07 温暖で生野菜を食べ、はだしである。
08 家を建て、父母兄弟は寝所を別にしている。
09 埋葬時には遺体を棺に納めるが、棺を囲う槨はなく直接土を盛り上げる。
10 海を渡ってシナに来るときは、死者の喪に服しているような持衰という人物をのせ、航海がうまくゆくと褒美をあたえ、そうでないと殺そうとする。
(これは今でも日本にある物忌みのことらしい)
11 真珠や青玉がとれ、山からは丹がとれる。
12 骨を焼いてその裂け目で吉凶を占う。
(これは『記紀』にある亀卜を連想させる)
13 集会での座席には父子・男女の区別はない。
(これも注目すべき風習。父親が特別威張っているわけではなく、しかも男女の区別が無い事が印象に残ったのだろう)
14 酒好きである。
15 身分の高い人への礼儀は手を打つだけである。
(これは神社の参拝作法である柏手の原型とされている)


『卑弥呼と日本書紀』53

16 寿命は八十、九十、百年という長寿である。
17 庶民でも数人の妻を持つことがある。
18 婦人は淫らでなく嫉妬心もない。
19 泥棒はおらず訴訟も少ない。法を犯すと軽い場合は妻子を国が取り上げる。重いと殺される。
20 身分の上下の秩序がきちんとしている。
21《邪馬台国》は人々に税を納めさせ、これを収納する倉庫がある。
22 国々には市場があって、物々交換をするが、《邪馬台国》では大倭(役職名?)に命じてそれを監督させている。
23《邪馬台国》では、自分の国より北にある国々(投馬国までの国々)に一大率という偉い役人を送って国の様子を検分し、国々はこの役人を怖れている。
24 伊都国には常に一大率がいて権勢をふるっている。
25 女王が使者をシナの都や帯方郡や朝鮮の国々に派遣するときや、帯方郡の使者が倭国に来たときは、伊都国の海岸で文書や贈り物の点検をうけて間違いの起こらないようにしている。
26 身分の上の人の前で説明する場合には、うずくまったりひざまづいたりして両手を地面につける。
27 受け答えのときの承諾の言葉は「噫(あい)」である。
(これは現在の日本語の「ハイ」につながるが、噫はオク、エイ、エ、イなどとも読むので、はっきりしたことはわからない)

*****

 さて次が、有名な《邪馬台国》を中心とした倭国の歴史と女王〈卑彌呼〉の話になる。
 ここは重要なのではしょらず、三品彰英の訳文をほぼそのまま掲載しよう。

「邪馬台国は、もと男子が王であった。ところが男王の治下、七、八十年以前のこと、倭国は大変に乱れて、国々は互いに攻撃しあって年が過ぎた。そこで、国々が協同して一人の女子を立てて王としたのである。彼女は名を卑彌呼といい、鬼道(神霊)に仕え、その霊力でうまく人心を眩惑している。すでにかなりの年齢であるが夫を持たず、男弟がいて彼女の政治を補佐している。彼女が王となってから後は、彼女を見た者は少なく、婢女千人を侍らせている。ただ一人の男子だけが飲食を給仕するとともに、神託をうけるために彼女のもとに出入りして外に伝える。彼女の居所の宮室は楼観(見張りやぐら)や城柵を厳しく設け、また常に武器を持った人々がいて守衛している。」


『卑弥呼と日本書紀』54

 じつに興味ぶかい一文である。
 この冒頭に、七、八十年前に倭国が乱れた――という重要な記述がある。
 これがどの時代なのかが問題になるが、後漢書や隋書には、桓・靈帝の時代(西暦一四七年〜一八八年)に大いに乱れた――倭国大乱――と記されている。
 しかし『魏志倭人伝』を見てそう推理した可能性があるので、あまり詮索することはできない。
 ただ、古代の強国ができる過程で混乱がおこるのは歴史の必然なので、この倭国の乱自体はふしぎなことではない(*)。

 この「乱」以外には、補足説明はあまり必要がない。
 そして、これ以上の説明がないので、検討や考察はきわめて難しい。
 女王を共立した国とはどことどこか、鬼道とは具体的に何か、はもちろん、男弟とただ一人の男子が同一人物なのか違うのかすらも、決定困難である(**)。

 そこで、とくに〈卑彌呼〉とは誰か、《邪馬台国》とはどういう国なのか、この両者の読みは「ヒミコ」「ヤマタイコク」でいいのか、などについて、じつにさまざまな見解が飛び交うことになったのだ。
 またなぜか、女王や補佐の男弟の服装や人物像などについては、まったく書かれていない。九州の国々の一般庶民の習俗はいろいろと書かれているのに――である。
 このことから、魏の使者は《邪馬台国》までは来ておらず、〈卑彌呼〉には会っていない――という説が有力視されている。

 鬼道とは当時のシナでの表現で、これだけだと道教的な幻術を想像するが、その実態は、神に仕えて神託を告げる巫女的な存在――シャーマンとしての存在――だったろうと、『記紀』などの研究からいわれている。
 つまり古代の神道における神子(巫女)である。
 ただし巫女といっても、いまの巫女とはちがって、高度な政治性と指導性をもって霊感(判断力)を働かせ、神託(政策)を告げる、カリスマ的な女性のことである。
 政治の政をマツリゴトと読むように、古代においては神々を祀ることと政治とは一体のものであった。
 すなわち完全な祭政一致だった。
 これは『日本書紀』を読めばよくわかる。

(* 『魏志倭人伝』にある倭国の乱と『日本書紀』との対応については、後述する)

(** 東洋史学者として著名な岡田英弘は、こういう文章の混乱について、別々の時期に派遣された二人の使者の報告を混ぜて一つの文章にしてしまったためだろうと推理している。使者の問題については後述するが、あり得ることである)


『卑弥呼と日本書紀』55

〈卑彌呼〉の話はこれでとつぜん終わって、つぎに《邪馬台国》の東に海を千里も行くと倭種の国があり、その南に侏儒国があり、その東南に裸国や黒歯国があって、そこは船で一年がかりの距離である――という凄い話が記されている。
 この裸国・黒歯国は南米にあると真剣に考えている人も多いようだが、科学的な検討は加えようがない。

 で、結局倭の地(日本)は一周して五千余里だそうなのだが、といっても一里がどれくらいか分からないし、実測の方法もない時代なのだから、この長さは「かなり長い」としかいいようがない。
 一里を四三五メートルとするとほぼ二二〇〇キロになって、合うといえば合うが、地理的な測定法の無かった時代のことなので、「かなり長い」としておくのが科学的な態度であろう。

*****

 さて、もう終わりに近いのだが、この次にとくべつ有名な事項が書かれている。
 魏の国と倭の女王――すなわち《邪馬台国》の〈卑彌呼〉――との間の外交交渉の記録である。
 これは《邪馬台国》までの経路などとはちがって、魏の都で魏の役人が使いの日本人と面会して記録した史料によるものなので、『魏志倭人伝』のなかではもっとも信憑性がたかく、重要である。

 ただし、この外交記録を理解するためには、この時代の東アジアの勢力分布を知っておく必要があるので、次の二つの節でその概要を述べておくことにしよう。


『卑弥呼と日本書紀』56

■■■■■ 三・四 〈卑彌呼〉の時代の東アジア ■■■■■


◆◆◆ 前漢から公孫氏の時代まで ◆◆◆

 まず図3・2をごらんいただきたい。

↓↓↓↓↓↓↓↓
http://www.asahi-net.or.jp/~xx8f-ishr/H23-34.htm

 これは、『魏志倭人伝』の時代、すなわち〈卑彌呼〉が活躍したとされる三世紀のアジアの、勢力分布の概要を示した地図である。
 この時代は、〈卑彌呼〉の話を除いても、日本人にとてもなじみぶかい。
 なぜなら、それは魏・蜀・呉の三国が覇権を争った三国時代であり、その覇権争いは後に『三国志演義』という大衆物語にまとめられたが、これを吉川英治が天才軍師・諸葛孔明を主人公にした大長編『三国志』として翻案し、たいへんなベストセラーになったからである。
 テレビや映画やアニメに何度もなっているし、劇画・コミックにも繰り返し登場している。

 だから三国時代の覇権争いについては多くの日本人が知っているのだが、そのころの遼東半島や朝鮮半島の情勢についてはピンと来ないことが多い(わたし自身も)ので、簡単におさらいしておこう。

 シナ大陸の王朝の交替劇はとても古く、紀元前二千年くらいから話があり、伝説の時代・殷・西周・東周の春秋時代・戦国時代をへて、西暦前二二一年に始皇帝が天下を統一して秦をつくり、万里の長城を築いたりするが、三世になって漢の高祖に滅ぼされ、前二〇二年に前漢が興る。
 この前漢の第七代の武帝は有名な名君だが、この武帝が朝鮮半島の経略にのりだし、西暦前一〇八年に半島に楽浪(らくろう)・臨屯(りんとん)・眞番(しんばん)・玄菟(げんと)の四郡をおき、役人を派遣して、日本を含め半島周辺を支配する拠点とした。

 図3・2でいうと、楽浪郡は楽浪のあたり、臨屯郡は東海岸側、眞番郡は帯方のあたり、玄菟郡は北方の高句麗のあたりである。

*******

 朝鮮半島の歴史については、下も参考にしてください。
↓↓↓↓↓
http://www.asahi-net.or.jp/~xx8f-ishr/hanto_toitu.htm

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『卑弥呼と日本書紀』57

 一方南部の比較的狭い地帯には、馬韓・弁韓・辰韓のいわゆる三韓があり、そのなかがさらにいくつもに分かれていた。
 このうち弁韓の一部が加羅(または加耶)であり、『記紀』にある任那である。

 シナの都に近い半島北西部はもともとが漢民族の係属国ではあったが、前漢武帝の時代にそれも滅びて、シナの皇帝が直接支配する領土が黄海沿岸に大きく拡がった。
 楽浪郡はその南部に位置づけられており、現在の平壌やソウルはこの広大な楽浪郡のなかに含まれていたらしい。
 しかし楽浪郡はかならずしも安定ではなく、東の高句麗やその南方の▼(わい/シ+歳)に侵されつづけながら、後漢の末期にいたった。

 一世紀の西暦五七年に日本の奴国に金印を贈ったのは後漢であるが、そのときの日本の使者(倭奴国の使者)は、この楽浪郡を経由したと考えられる。
 同じような使者は、西暦一〇七年にも来て、生口百六十人を献上したと後漢書倭伝に記されている。
 この使者を送った国王は帥升(すいしょう)とされているが、日本側の『記紀』では照合できない。
 たぶん、奴国と同様な北九州の豪族――伊都国など――だと思われるが、大和朝廷だったとの説もある。

 後漢末期の西暦二〇〇年近くになると、大陸が乱れ、やがて三国時代に入るのだが、その乱れに乗じて、遼東半島付近の後漢の高級官僚で「遼東太守」だった公孫度(こうそんたく)が独立して、国をつくった。
 独立を決意して遼東侯を名乗って勢力を広めはじめたのが西暦一九〇年だった。
 公孫度が二〇四年に死ぬと、子の公孫康(こう)があとを継いでさらに勢力範囲を拡げ、高句麗を抑えて楽浪郡を手に入れ、その南側を新たに帯方郡と名づけた。

 この公孫一族の領土が、地図で公孫氏と書かれている箇所とその左右および帯方郡までであるが、その力は四代にわたってつづいた。
 すなわち公孫康の二二一年の死後、弟の公孫恭(きょう)が西暦二二八年まで、康の子の公孫淵(えん)が西暦二三八年まで、権力をもった。
 公孫氏が勢力を保っていた間は、日本にとってはシナの都との間に公孫の領土があるわけだから、外交の相手は主に公孫氏だったらしい。
 問題の〈卑彌呼〉も、西暦二三八年までは公孫氏に使いを送って友誼を確認し、一種の外交をおこなっていたとされる。


『卑弥呼と日本書紀』58

◆◆◆ 公孫氏の滅亡と魏の半島支配 ◆◆◆

 その傍証として、奈良県天理市の東大寺山古墳――天理市から北にかけての大豪族だった和珥(わに)一族の墓とされる――から出土した中平(ちゅうへい)という年号の刻まれた鉄刀がある。
 中平とは後漢の年号で、西暦一八四年から一八八年にかけて使われた。ちょうど公孫度が国を作ろうしたころである。
 しかもこの刀は、中国でも二振りしか発見されておらず、高官以外は持たないような貴重品なのだ。

 これがもしシナの皇帝からの下賜品であるとすると、シナ正史に記録が残っているはずだが、そういう記録は見られない。しかし公孫氏の場合には、すぐに滅亡した辺境の豪族なので、記録は残っていない方が自然なのだ。
 だから、この宝刀は、後漢からの直接の下賜品ではなく、その間にあって後漢への道を遮っていた公孫氏が、後漢に対抗して日本を味方につけるための外交の道具として贈った可能性が高いのである(*)。

 さて、西暦二二〇年に魏が建国し(都は後漢とおなじ洛陽)、二二一年に蜀が建国、そして二二二年に呉が建国して、三国時代にはいるのだが、しばらくは公孫氏の力はつづき、呉と軍事同盟を結んだりしていた。

 しかし西暦二三四年に有名な五丈原で諸葛孔明が病死すると、蜀に攻められる心配が減った魏の力が強まり、魏は朝鮮半島への勢力拡張にのりだす。
 三国のうち朝鮮半島に接しているのは魏であり、蜀は遠くはなれているし、呉も東シナ海を介しているので、半島から東への直接的な攻勢は魏のみのものであった。

 西暦二三七年に公孫氏攻略の軍を起こして撃退されるが、翌二三八年に、司馬仲達が魏の大軍をひきいて攻め入り、ついに公孫氏を滅ぼした。
『三国志演義』に「死せる孔明生ける仲達を走らす」とある、あの軍師・仲達である。

(* 時代が少し後なら後漢のあとの魏を意識していたことになる。
 この刀は、わずかに内側に反った形――通常の日本刀とは逆の向きに反っている――の片刃で全長一メートル程度の長刀だが、金象嵌で次の銘文が刻まれていることで有名である。
「中平□□□五月丙午造作(支)(刀)百練清(剛)上應星宿(下)(辟)(不)(詳)」
 これは、我が国で発見された紀年の刻まれた最古の考古学的史料であり、超重要品である。
 百練というのは、特別丁寧に鍛えた鉄を意味するらしいが、有名な石上神宮の「七支刀」の銘文と同じ表現である。
 いずれにせよ、卑弥呼の時代の直前にシナで作られた刀が大和朝廷の皇宮のそばに埋められていたことは興味深い。

図2・3は、公孫氏から贈られた剣を受け取る卑弥呼を想定した模型と思われる。
↓↓↓↓↓↓↓↓
http://www.asahi-net.or.jp/~xx8f-ishr/H23-34.htm  )


『卑弥呼と日本書紀』59

 こうして楽浪郡・帯方郡ともに魏の植民地になり、魏の皇帝はそこに役人を派遣して支配した。
 この、公孫氏が滅んだ直後の西暦二三八年または二三九年に、〈卑彌呼〉が使者を、帯方郡を介して魏の都の洛陽に送ったことが、『魏志倭人伝』に出ているのである。

 もちろんこれは、朝鮮半島や朝鮮海峡における日本の立場を強化するためで、〈卑彌呼〉の実権がどうだったかにかかわらず、日本側の見事な外交感覚である。
 日本全体としてみれば、これは、公孫氏によってさえぎられていたシナとの国交の回復でもあった。
 日本の正史『日本書紀』では、ほぼこの時代と推定される崇神天皇紀に、任那の地(弁韓のなかの加羅)から蘇那曷叱知(そなかしち)なる人物が大和朝廷に朝貢してきたとされている。
 また他の文献によれば同じ崇神天皇の時代に、孝昭天皇の子孫である塩垂(乗)津彦命が半島に派遣されて、新羅(の前身?)に攻められて混乱していた任那の地を治めたという話も伝えられている。

 どの国の正史でも、古代のものは、自分の国がへりくだった時のことは記されていない。
 とくに『記紀』は、日本は大陸から独立するぞ――という気概のみなぎった時代に編纂されているので、朝貢に来た話は記されても、その逆は記録が残らなかったか、あるいは無視したか、したであろう。
 しかしすくなくともこの時代に半島との交流があったことはたしかで、日本の正史にちゃんと記載されているのだ。


◆◆◆ 高句麗の南下と任那の拡大 ◆◆◆

 その後の朝鮮半島は、高句麗の力が強まり、四世紀前半には楽浪郡は高句麗の領土となって、シナの植民都市は数百年の歴史を終えた。
 高句麗はもともと鴨緑江の北側に本拠地をもち、現在の中国領にまでまたがる地域を支配した国で、その住民は北方の騎馬民族の血をひいていたと考えられている。
 それが豊富な騎馬軍団によって朝鮮半島を南下して領土を拡大したのだ。

 それと同時に図3・2で馬韓とされている付近が、日本と友好を結んだ百済となり、辰韓とされている部分がのちに敵対する新羅となり、そして弁韓の部分が、日本の領土としての任那となった。
 百済と新羅の建国は四世紀半ばごろとされている。


『卑弥呼と日本書紀』60

 百済は馬韓の一国だった伯済(はくさい)が、新羅は辰韓の一国だった斯廬(しろ)が、それぞれ周囲の小国群を併合してつくった国だったが、日本領の任那(みまな)は、つぎのような経過で確立したらしい。

 前述のように、三世紀前半に朝鮮半島南端の弁韓の一部に加羅(から)(または加耶(かや))という国があった。
 それは『魏志倭人伝』で倭国の一部とされている狗邪韓国(くやかんこく)とたぶん同じとされ、そこに多くの日本人がいた。
 もちろん国といっても今の国とは違い、一種の集落である。
 日本ではそれを任那と呼んでいたわけだが、四世紀になってこの国――集落――がしだいに勢力を拡大して周囲の小国を従え、もとの弁韓全体を支配するようになったのだ。

 この時代前後には優れた人材が任那地区はじめ半島諸国から渡来して日本文化に貢献したことが『記紀』や『万葉集』にも記されているが、もともと任那の指導層には日系が多かったと考えられている(*)。
(『女性天皇の歴史』や渡部昇一氏の諸著書参照)

 その後の日本は、シナ大陸の三国時代につづく王朝である晋・隋・唐と外交しつつ、高句麗や新羅と厳しい軋轢をくりかえし、西暦四〇〇年前後には高句麗の好太王軍と半島深部で大激戦を演じて、任那を中心とした半島での日本勢力を拡大した。『好太王碑』にも日本の拠点として任那という名が登場している。
 これは〈神功皇后〉からつぎの應神天皇の御代にかけてのことだったらしいが、こうして日本の勢力圏である任那は弁韓にとどまらず、馬韓(百済)や辰韓(新羅)を圧して三韓のなかで最大の面積になった。

 しかし国力は長くは続かず、繼體天皇の御代に半島での日本勢力は縮小・弱体化し、西暦五六二年には任那を新羅に奪われ、六六三年の白村江の戦いで破れてついに友邦国の百済も滅び、〈卑彌呼〉の時代以来四百年以上つづいた朝鮮半島の足場を失って、日本は次第に内にこもるようになるのである。

 西暦四〇〇年前後の應神天皇らの朝鮮経略ののちしばらくは、日本は三韓の盟主としてその地を安定させる責任をもっており、任那の地に日本府という役所を設置して行政をつかさどり、三韓に混乱が生じるたびに大和朝廷の軍がかけつけて問題を処理していた。
 高句麗に攻められた百済や新羅を救うために大伴・物部といった豪族が活躍したのだ。
 たとえば西暦四〇〇年代後半には、百済が高句麗に攻められて滅亡しそうになったとき、日本が軍事支援して王城を南に移して百済を再興させている。

(* 親日だった任那・百済・済州島+に多くの日本人がいたこと――ある意味では北九州と一体の地域だったこと――は、渡部昇一氏なども強調しておられ、著者も『女性天皇の歴史』に記したが、敵対していた新羅も山陰地方との交流があり、新羅の第四代の王は丹後地方出身の日本人だと受け取れる伝説がある。
 ↓↓↓↓↓

http://www.asahi-net.or.jp/~xx8f-ishr/tabana=tango.htm

 ――を参照されたい)

(+ 済州島は、日本の正史では神功皇后が百済に割譲したとされているが、現在の済州島にも、島で産まれた三人の男神と日本から来た三人の姫とが結婚して子孫が増えた、という伝説がある)


『卑弥呼と日本書紀』61

◆◆◆ 任那の滅亡と日本の危機 ◆◆◆

 しかし、西暦五一〇〜五三〇年ごろと推定される繼體天皇の御代に、神武以来の重臣である大伴一族の判断で半島南西端にあった任那四県を、要望に応じて百済に割譲してしまったことから、危機が拡大した。
 この割譲は〈神功皇后〉の時代に済州島を百済に与えたという伝承以来の事件であった。
 繼體天皇は世継ぎ不足という混乱の時代に地方から迎えられた天皇であり、国内の乱れが任那の経営に影響したことがうかがえる。
 この四県割譲が原因で任那に混乱が生じ、やがて新羅による任那侵略がはじまった。

 そしてこれを阻止すべく大軍を派遣しかけたとき、九州の筑紫の国造(くにのみやつこ)だった豪族の磐井(いわい)が、新羅にそそのかされて叛乱をおこした。
 有名な「磐井の乱」である。
(これは半島勢の工作によって国内が分裂してしまった貴重な歴史的教訓である)
 この乱によって新羅を抑えることができなくなり、外交方策に転じたがうまくいかず、新羅の策略にしてやられるようになる。

 しばらくして第四章のトビラの歌にある大伴狭手彦らが奮戦して成果をあげたが、それも一時的なものであった。
 そして結局、大和朝廷では、新興の蘇我一派が巧みな策略を弄して大伴一族を抑え、蘇我と物部の抗争をへて大化改新にいたって蘇我も亡び、豪族単位の政治をやめて法治国家をめざすようになるのである。

 西暦五六二年に新羅に攻められて任那を失ったのは、第二十九代欽明天皇の時代であり、『日本書紀』に詳しくその経緯が書かれている。
 西暦六六三年の白村江の戦いは、日本と百済の連合軍と、唐と新羅の連合軍の間でなされ、日本側が大敗して百済は新羅にのみこまれたのだが、それは大化改新で知られる中大兄皇子(天智天皇)と藤原鎌足の時代であった。
 この敗戦によって日本の防衛が危うくなり、急遽《大和》の飛鳥から守りに強い大津に都を移し、沿岸にたくさんの城を築いたり、沿岸から都に危機を知らせる狼煙制度を作ったりした。

 飛鳥の都の北西は山を越えて広い河内や和泉だが――神武東征の話でわかるように――その地形は今と違って入江が生駒山系にまで深く入り込んでおり、海と飛鳥はすぐ近くだったので、海への交通にはよいが国防の観点からはとても危険だったのだ。

 このときの飛鳥から大津への移転劇に涙してできたのが、第二章のトビラ裏にある、天武天皇の寵をうけたのち天智天皇の愛人になったとして有名な額田王の歌である。


『卑弥呼と日本書紀』62

■■■■■ 三・五 〈卑彌呼〉以後の東アジアと日本の安全保障 ■■■■■


◆◆◆ 新羅の制覇から現在まで ◆◆◆

 さて、唐と結んで半島で勝利した新羅は、やがて高句麗も滅ぼし、西暦六六八年(天智天皇の時代)に朝鮮半島の南半分を統一する。
 そのあと掌を返した唐に攻められ、日本もハラハラするが、なんとか七年間の戦争に耐えて、シナの係属になりながらも、新羅の半島南部の支配は九三五年(平安時代中期)まで続いた。
 なお現北朝鮮に相当する半島北部は、大陸側のいくつかの国の一部になっていた。
 この統一新羅の時代(奈良・平安時代)には、内にこもってしまった日本の国防力は弱まり、しばしば対馬や九州沿岸を新羅人らに荒らされるようになった。

 統一新羅は西暦九三五年に滅亡し、そのあとは十四世紀までが高麗の時代で、やはりその領土は南半分で、のちに北方まで勢力を伸ばしたが、同時に元王朝の支配下に入ってしまった。
 蒙古のフビライ(ジンギスカンの孫)が唐の後継の宋を滅ぼして建国した元王朝が隆盛をきわめ、高麗はその力に服したのである。
 西暦一三二〇年代、北条時宗の時代に、元寇という空前の危機が日本を襲うが、その主導は元王朝だったとはいえ、軍勢の多くはシナと朝鮮の兵士であり、とくに高麗の朝鮮兵によってたくさんの日本人が殺された。対馬などはほとんど皆殺しだったが、日本軍は頑強に抵抗し、ついに元は諦めた(*)。

 大陸では西暦一三六八年に元が滅びて明王朝ができるが、それからまもない一三九二年に高麗は李氏に滅ぼされ、半島は李氏朝鮮の時代となった。
 李氏朝鮮も高麗につづいてシナに服従して属国的な立場にあった。
 そもそも「朝鮮」という国号も、シナの明国に定めてもらったものであった。
 そして日本に対しては常に居丈高だった。
 高麗滅亡の理由のひとつとして、倭寇との戦いによる疲弊があったとされているが、とうじの倭寇は日本人が主体とはかぎらず、いまの福建省など大陸沿岸部や朝鮮半島沿岸部の海賊が多かったらしい。

(* 元からの国書(脅迫文)については、下記を参照されたい。
↓↓↓↓↓
http://www.asahi-net.or.jp/~xx8f-ishr/mouko_kokusyo.htm




『卑弥呼と日本書紀』63

 高麗を滅ぼした李氏朝鮮は、十六世紀末の豐臣秀吉による朝鮮征伐で日本と苛烈な戦いをしたが、明国の参戦によって日本軍が苦戦し撤退したことでことなきをえた。
 この時の講和会談は、日本と明国との間でなされ、朝鮮は道案内にすぎなかったらしい。
(当時の日本も明国も朝鮮を独立国とは考えておらず、講和会談は日本と明国の間でなされたが、明国の尊大な態度に秀吉は激怒したとされる)

 この朝鮮征伐のとき、李氏朝鮮の圧政に苦しんだ人たちが日本に逃れてきて帰ろうとせず、かなりの人数が帰化したとされている。
(これは戦後の朝鮮戦争時の現象と似ている)

 李氏朝鮮は、日露戦争において遼東半島の付け根で日本がロシアと戦った末、明治四十三年に日本が併合するまで存続した。
 秀吉の朝鮮出兵は世界史にも大きな刺激を与えた。
 清国の建国にもナポレオンの野心にも影響したとされている。

 そして、昭和二十年に日本が撤退してから、共産勢力の南下による米ソの対立構造がはじまり、ソ連・中国・アメリカを巻き込んだ昭和二十五年から二十八年にかけての朝鮮戦争の結果、北に朝鮮民主主義人民共和国、南に大韓民国が成立し、西暦二〇〇六年の現在まで、不安定な国際情勢の源となっている。
 そして日本との間にも、竹島問題をはじめとして、領土・経済・政治・拉致・教育干渉・環境汚染など困難な問題が山積している。

 とくに昭和二十年から三十年代にかけての李承晩時代の韓国は、日本固有の領土である竹島を武力で奪い、数千人の日本漁民を不法に拉致するなど、やりたい放題であった。

 その後も、半島による日本の苦難が続いている事はご案内のとおりである。

 つまり、大陸と朝鮮半島と日本列島の複雑な国際政治情勢は、「弥生時代」「古墳時代」から現在まで、じつに二千年以上ものあいだ、<ほとんど同じ力学>のもとに、日本の安全保障に関係してきたのである。

(補遺1:應神天皇紀――
 推定四世紀後半の應神天皇紀には高句麗との激しい闘いが記されているが、さらに、瀬戸内海に繋留していた朝廷の新造船が新羅の工作員によって放火された話、高句麗の王からの国書があまりにも無礼だったため応対した皇子の菟道稚郎子が怒って破り捨てた話などが記されている)

(補遺2:刀伊の入寇――
 寛仁三年(一〇一九年)の三月から四月にかけて、朝鮮北方の女真族らしい賊軍が五十隻からなる軍船を連ねて対馬や壱岐を侵略し、さらに九州に上陸して残虐のかぎりをつくした。老若男女を惨殺し、若い成人男性を拉致して奴隷にした。日本側は必死で闘って、退散させたが、惨殺された日本人はほぼ400人、拉致され奴隷にされた日本人は1300人に達したとされる。この事変は、平安中期の日本の国土防衛の弛緩を物語っている)

(補遺3:応永の外寇――
 応永二十六年(一四一九年)の六月、李氏朝鮮が、軍船200隻以上、兵士二万人近くという大軍を編成して対馬を攻撃し、多くの惨殺や放火をおこなった。朝鮮軍は永住しようとしたが、日本側も必死で闘って、結局は撤退した。そのあと、対馬を朝鮮慶尚道の属州とするという約束がなされたとされるが、これは当時の島主である宗貞盛も知らない謀略であった。室町中期の事変である)


『卑弥呼と日本書紀』64

◆◆◆ 朝鮮半島との関係は弥生時代から ◆◆◆

 ざっと朝鮮半島近辺の歴史をたどってみたが、朝鮮の史書の『三国史記』をみると、こまかな信憑性や年代は別にして、ひじょうに古くから――年代どおりとすれば紀元前から――日本人が朝鮮半島の北方まで進出し、交易や抗争を展開していたことが記されている。

 この半島との古くからの関係は、日本に紀元前のシナの鏡や剣や各種青銅器類が残されていることや、考古学的遺跡の比較からも、検証される。
 日本の遺跡から見つかるもっとも古い鏡は紀元前三世紀とされ、紀元前一世紀になるとかなり多くの銅鏡が発見されているし、弥生時代の青銅器に使用された金属がほとんどシナ大陸産であることも、鉛同位体比法という方法によって確認されている。

 おそらく、有名な秦の始皇帝の時代――日本では弥生時代の前期――には、農業・織物・金属などの大陸の文物が日本に流入し、交易がなされていたのであろう。
 始皇帝の意をうけて、不老不死の仙藥を求めて海を渡り、熊野に漂着してそのまま日本に留まったという徐福伝説の真偽は不明だが、〈卑彌呼〉の時代よりはるか昔の紀元前三世紀にすでに――たぶん縄文時代からすでに――大陸との人的交流が、組織的ではなかったとしても、なされていたことは確かである。

 そしてその交流に朝鮮半島が重要な役割を果たしたのは当然であり、とくに紀元前一世紀以後になると、その輸入品の多くは、間違いなく半島の植民地楽浪郡・帯方郡などを経由して渡来したのだ。
 奴国の金印もその一環であろう。
 さいきんの発掘調査によって、日本海沿岸と《大和》をむすぶ狼煙通信の施設がすでに弥生時代からあったらしいことも、わかりつつある。

『三国志』の『東夷伝・韓の条』に、

「弁韓や辰韓は鉄を産し、倭人はここから鉄を入手しており、交易には銭のかわりにその鉄を用いている」

 ――と記されている。

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(補足)

「渡来人」という術語について

 この不思議な言葉は、現在では教科書にも出ているので、わたしもつい使ってしまうことがありますが(今の連載では使っていないつもり)、戦後の左翼史家が創作した術語だろうと思います。

 理屈はいろいろと付けられていますが、とにかく戦前は聞いたことのない術語です。

 たとえば、戦後の広辞苑を見ましても、初版から第四版までは見られません。ようやく平成十年に出た第五版になって掲載されるようになりました。
 左翼史家が必死で宣伝した結果なのでしょう。

 一方教科書では、中学高校の多くの歴史教科書において「渡来人」として出てきます。なかには「渡来人(帰化人)」と書く教科書もあり、これなどはまだ良心的な方です。
 中学では扶桑社の教科書が「帰化人(渡来人)」と記してプロパガンダに抵抗していますし、高校では小堀桂一郎先生方の明成社の教科書が扶桑社と同じ書き方をして頑張っています。

 教科書の左傾化はずいぶん前から話題ですが、国語辞書や用語事典の左傾化も着々として進行中であり、憂慮しております。
 広辞苑への批判はときどき耳にしますが、「現代用語の基礎知識」などの用語事典の左傾化も酷いものがあります。

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『卑弥呼と日本書紀』65

 弥生時代末期の日本人にとって鉄がきわめて重要な資源であり、鉄を求めて朝鮮半島で活躍していたことがよくわかる記述である。
 この記述は、帯方郡のすぐそば(歩いて数日の距離)の地域での見聞記なので、『三国志』のなかでもとくに信憑性はたかい。

 だから、三世紀の〈卑彌呼〉の時代に、朝鮮半島との交易や競争があったり、日本と公孫氏・楽浪郡・帯方郡との外交があったりしたのはむしろ当然であって、そのときすでに数百年の交流経験があったのだ。
 さらに第七章に示す『三国史記』新羅本紀には、〈卑彌呼〉が若いころの二世紀後半に〈卑彌呼〉の使者が新羅に来たことや、三世紀初頭に、辰韓の地で日本軍とそこの王とが戦ったとなどが記されている。
 だから、つぎの四世紀とされる〈神功皇后〉の三韓征伐の伝承も、史実を反映しているのは確実である。

 日本と朝鮮半島の国々との困難で重要な関係は、明治時代の日清・日露戦争に始まったのではなく、遠く紀元前の弥生時代からあったのである。


◆◆◆ 任那は古代日本の領土である ◆◆◆

 朝鮮半島の南端部における日本の勢力が、いつごろからあったのかについては、いろいろな見解があるようなので、著者の率直な意見を記しておきたい。
 任那という地名で代表されるこの領土については、過激な異論もある。
 それは、韓国の学者だけでなく戦後の日本の論者にもあるのだが、

A「まったくの嘘であり日本人が朝鮮半島に進出などしていなかった」
B「日本が朝鮮という国を侵略して任那という植民地をつくったのはけしからん」

 ――の二種類である。

 このうちAはおよそナンセンスな説である。
 朝鮮半島南部における日本の勢力については、日本の古文書だけではなく、シナ正史にも朝鮮正史にも、さらには高句麗王の碑文にさえも記されており、否定のしようがない。


『卑弥呼と日本書紀』66

 Bについては多少の説明がいるかもしれない。
 任那についてのもっとも古い記録は『魏志倭人伝』にある倭領(日本領)とされている狗邪韓国(加羅とほぼ同地域すなわち任那)だが、そのほか同じ『三国志』の韓の條にも、韓の人たちの住む地域の地理について、

「東西は海だが南は倭との境だ」

 ――とあるので、シナの役人たちが半島南端にある狗邪韓国を日本の一部と認識していたことは明白である。
『三国志』には信用しにくい記事も多いのだが、狗邪韓国は魏の植民都市の帯方郡のすぐそばで、歩いて数日のところだから、その記述は信用できる。
 したがって、『好太王碑』を待つまでもなく、二世紀ごろから多くの日本人が任那の地にいたのは確実なのだ。

 この任那がいつごろできたのかは不明だが、縄文時代の前には陸続きだったのだし、紀元前から交易がなされていたことは遺跡からの鏡などの出土品ではっきりしているので、かなり古く、すくなくとも弥生中期からあったと考えられる。
 紀元前後の三韓は原始状態の山野に弥生的な集落が点在していたていどの地であり、ひとつのまとまった国ではなかったから、そこに日本人の大きめの集落「任那の原型」があったとしても、それは自然にできたものであって、植民したとか侵略したとかいった話にはならないであろう。

 現在のロシアや中国は広大な領土を有しているが、それはたかだかこの数百年のあいだに現地人を駆逐して拡げたためである。
 しかしその多くは現在、国際的に正当な領土として認められている。

 したがって二千年も前に自然のうちにできた任那が日本の領土だったのは当たり前の話であり、もし侵略という言葉をどうしても使いたいのであれば、前述のように六世紀から七世紀にかけて「新羅に侵略された」というほうが当たっているであろう。
 もっとも厳密には、五世紀以後は、三韓全体の盟主が日本で、任那の日本府はその事務所的な役割であり、日系の人物が百済などの要人としてたくさんいたと考えられる。

(だから渡部昇一氏は、もともと北九州と半島南部は一体の地域で、白村江の大会戦ののちに多くの百済人が帰化してきた話は、大東亜戦争後に大陸や朝鮮から多くの日本人が引き揚げてきた話に相当している――と述べている。つまり故郷への「引揚者」である。どうやら言葉や祭祀も通じるものがあったらしい。韓国に留学して韓国史を学んだ時代作家の荒山徹は「百済は日本の一構成要素として日本史で扱うのが妥当」と断言している)

 なお任那というどくとくの地名は、在位が三世紀と考えられる崇神天皇の諱または国風謚号の「ミマキイリヒコ」からつけられたと、『日本書紀』には記されている。

(崇神天皇の時代に使者の往来があったことは、前に記した)


『卑弥呼と日本書紀』67

■■■■■ 三・六 謎の多い七つの対魏外交記録1――景初三年―― ■■■■■


〈卑彌呼〉の時代の東アジア情勢を概観したところで、『魏志倭人伝』の原文にもどろう。
 裸国、黒歯国・・・といった空想的な記述がおわると、またとつぜん現実にもどり、外交記録がはじまる。
 これは断片的ではあるが、魏の都での記録を元にしているため、信憑性はかなり高いと考えられている。
 記録は七項目に分けることができる。
 以下、本節と次節で順次説明してゆく。


◆◆◆ 〈一〉景初三年(明帝(めいてい)・叡(えい)の年号/西暦二三九年)六月 ◆◆◆

 記された外交記録の最初は、景初三年、西暦換算で二三九年である。
 すなわちこの年、倭の女王〈卑彌呼〉の使者である大夫(たいふ)の難升米(なしめ)らが帯方郡にきて、魏の皇帝に拝謁したいと申し出た。
 そこで、魏の役人でもある帯方郡の太守(たいしゅ)の劉夏(りゅうか)は、部下に難升米らを引率させて、魏の都の洛陽に送った。
 そして難升米らは魏の皇帝に種々の宝物や男女を献上した――と述べられている。
 この景初三年という年は、現在の写本では二年となっているが、それは写し間違いで、ほんとうは三年だろうと、他の文献や魏国と周辺国の事情などから推定されている。
『日本書紀』にも三年と記されているので、ここでは三年としておく。

 難升米の読みは、ナンショウメという説もあり、いろいろである。もともと発音不明の文章を史家が推定しているものなので、他の多くの人名地名の読みについても、意見がいろいろある。
 難升米に直接対応できる人名は日本側の史書にはない(間接的にはある)が、あとでも魏の皇帝から旗などを下賜されているので、いまでいえば、外務大臣とか有力大使とかいった身分の人間だったのであろう。


『卑弥呼と日本書紀』68

 内藤湖南による有力な説は、難升米は古代に外交を担ったと『日本書紀』にある田道間守(たじまもり/但馬守)の一族だというものである。
 漢字でみるとまったく違う人物に思えるが、シナの発音は濁音がしばしば清音になるので、「タジマ」を「タシマ」と発音すれば、「TASHIMA」となり、「NASHIME」とよく似ているのである。
 また、兵庫県日本海側の但馬地方には、海で活躍した一族がいた痕跡が濃厚だと、遺跡などからわかるので、内藤湖南の説も一理あると思われる(*)。

 魏の元をつくったのは吉川英治の『三国志』で有名な曹操だが、初代の皇帝になったのはその子の曹丕(そうひ)で文帝といわれた。
 景初というのは、文帝の息子で魏の二代目の皇帝になった叡(えい)すなわち明帝(めいてい)の年号で、元年が西暦二三七年にあたる。
 だから景初三年は西暦二三九年になるのだが、この年の正月には明帝は没し、まだ少年の曹芳(そうほう)が即位していた。
 またこの年は公孫氏一族が魏の司馬仲達らによって滅ぼされた翌年にあたっていた。

 何らかの方法でその事件を知った〈卑彌呼〉たち日本の指導層が、ただちに公孫氏への挨拶を魏の新帝への挨拶に切り換えて贈り物を届けたわけで、三世紀の日本の政権が、大陸や半島の国際情勢に敏感に反応して、巧みに外交上の手を打ったことがわかる。

 また、半島や大陸の情勢が即時に把握できていたことは、すくなくとも半島との間では、交易などの人的交流がさかんになされていたことを意味している。
 帯方郡の太守の「太守」とは、郡の長官のことで、植民地の最高責任者の役職名である。

(* 『日本書紀』にも『魏志倭人伝』にも出てくる「鄙守/卑奴母離(ひなもり)」が、大和朝廷から遠く離れた地方――鄙/ヒナ=地方――の統治者一族に与えられた役職名であることは前に記した。この鄙に具体的な地名である「但馬」を入れると「但馬守」=「田道間守(たじまもり)」となる。すなわち『日本書紀』にある外交職の「田道間守」は但馬地方の統治責任者の一族と推理できる。ではなぜ但馬地方の主が外交を担ったのかであるが、但馬やそのすぐ隣の丹後地方(海部氏が支配)の人たちは船で日本海を航行することに慣れており、半島との交流も盛んだったからであろう。この事は遺跡からも例証されている。さらに、大和朝廷が但馬や丹後地方を重視していたことは、「八咫鏡」を大和地方の外に奉斎した最初の場所が丹後(元伊勢籠神社)であったことからも推理される。また「八咫鏡」が伊勢神宮に落ち着いてからも、外宮に丹後の神だった〈豊受大神〉を祀ったことでも推理できる。大和朝廷として、どうしても親密な関係を保つ必要のあった地方であり豪族だったのである)


『卑弥呼と日本書紀』69

◆◆◆ 〈二〉景初三年(西暦二三九年)十二月(1)――重要な詔書の内容―― ◆◆◆

 倭国のこの朝献に対して、その年の十二月、魏の皇帝は、〈卑彌呼〉にたいして詔書を出した。
 この詔書の内容は重要なので、三品彰英による訳文を、一部省略して掲載する。

「汝を親魏倭王卑彌呼に任命する。帯方郡太守劉夏が使者をつかわし、汝の大夫難升米と次使都市牛利(読み方は諸説あるがはっきりしない)を送り、汝の献じた男の生口四人、女の生口六人と班布二匹二丈(縞模様の布十四メートルほど)を奉じて、わがもとに到着した。汝の国は、はるか遠くにあるにもかかわらず、こうして使者を遣わし貢献してきたのは、汝の忠孝のあらわれであろう。そこで私は汝を大変慈しみ、いま汝を親魏倭王とし金印紫綬(金の印と紫の紐)を与えようと思う。装封して帯方郡太守に托し汝に授ける。汝は倭人を綏撫(安んじいたわること)し、つとめて我に孝順をつくすようにせよ。汝の遣わした使者難升米・牛利等は遠路を苦労してここまでやってきた。その功を認め、いま難升米を率善中郎将(護衛武官の長)、牛利を率善校尉(護衛武官)とし、銀印青綬を与え、彼らを引見し、汝の賜遣をねぎらって送りかえすであろう。また絳地交龍錦五匹(赤地に蛟龍模様のある錦)、絳地シュウシュクケイ(細い毛羽のついた薄い赤地の織物)十張、セン絳五十匹、紺青五十匹を与える。これらは汝が献上した贈り物の価値に相当するものである。また特に汝には紺地句文錦三匹(紺色地に曲線模様のある錦)、細班華ケイ五張(細いまだら模様の毛織物)、白絹五十匹、金八両(黍二万粒の重さ)、五尺刀二口、銅鏡百枚、真珠鉛丹各五十斤(鉛丹は顔料の一種、五十斤は黍二百万粒の重さ)を与えよう。これらの品物はすべて装封して難升米と牛利に託したから、彼らが国に帰ったならば、記録して受け取るように。なおこれらのすべてを汝の国の人々に示し、魏の国が汝を慈しんでいることを知らさなければならない。だからこそ鄭重に汝に良い品物を与えるのである」


『卑弥呼と日本書紀』70

 シナの都から見ればはるか辺境の途上国の女王への返礼にしては、かなり長く、丁寧な文章である。またそこに書かれている品物も、〈卑彌呼〉が献上した品よりも――人間を除けば――はるかに豪華である。
 金印の称号も一世紀の奴国より一段上だし、銅鏡百枚というのもシナとしては異例の豪華さである。
 これは、朝鮮半島の経営に苦しんでいるので、その向こうの日本を味方につけようとする司馬氏ら魏首脳の遠交近攻策によるものだろうとされている。

〈卑彌呼〉が贈ったもののうち、生口(訓ではイクチ)と書かれている男女計十人が問題であるが、この実態については、たんなる奴隷という説、技能者という説、留学生という説まで、議論が分かれている。
 ただ一種の奴隷だったとしても、いまの言葉でいえば召使いであり、アフリカからアメリカ大陸に連れてこられたような種類の奴隷ではないであろう。
 なんらかの技術を持った人間が、忠誠を表すために贈られたのだろうし、のちに日本にもどっただろうという説もある。


◆◆◆ 〈二〉景初三年(西暦二三九年)十二月(2)――証拠は見つかるのか―― ◆◆◆

 つぎに問題なのが、金印と銀印と五尺刀と銅鏡である。
 他の品物は大切にされたとしても、現在まで残る可能性はすくない。
 しかし金印・銀印・刀・銅鏡は、保存状態が良ければ、残存していて遺跡から出土する可能性がある。神社に伝世されていることすら考えられる。

 金印はもっとも劣化しにくい金属でできているし、博多湾から一世紀らしい金印が綺麗なままで発見された例もあるので、今後どこかから見つかる可能性は大であるが、なにしろ一個だけなので、僥倖を期待するほかはない。
 銀印は使者に与えられたものなので、その使者の居住地付近(*)を探さなければならないが、それがまったく不明なので、これもまた偶然をまつほかはない。

(* 第68回の推理が正しいとすれば、但馬地方で見つかる可能性もある)


『卑弥呼と日本書紀』71

 五尺刀の定義はわからないが、遺跡からシナ製らしい大刀が出土する例はあるので、どこかに眠っている可能性はあるが、刀は錆びやすいし、二口だけなので、発見は困難であろう。
 ひょっとするとすでに発見されているのかもしれないが、同定は困難である(*)。

 その点、三番目の銅鏡は、『魏志倭人伝』の記述が正しいとすれば百枚もあるし、錆びにくいし、副葬品にする習慣もあったから、古墳や宮殿跡から発見される可能性は、かなり高い。
 銅鏡は、銅・錫・鉛・銀などの合金(青銅)で出来ているが、この合金は純金ほどではないにしても丈夫で腐食しにくく、かつ加工も容易で、現在でも似た成分のものが工業製品に使用されているくらいである。
 というわけで、銅鏡こそ、『魏志倭人伝』の記述を裏づける証拠品として有望なのだが、すでにそれらしい鏡はかなり多く見つかっている。

 図3・3はその代表例で、大阪府泉の黄金塚古墳から出土し、景初三年の銘が刻まれていて評判になったものである。

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http://www.asahi-net.or.jp/~xx8f-ishr/H23-34.htm

 これは古鏡の分類では「景初三年画紋帯同向式神獣鏡」と呼ばれているが、とにかく、〈卑彌呼〉が使者を送ったとされる景初三年という文字が刻まれているのだ。
 また平成六年になって丹後の山上の古墳から青龍三年の銘のある「方格規矩四神鏡」が発見された。
 この青龍三年というのは西暦二三五年で、〈卑彌呼〉が百面の鏡を貰った四年前の製作であり、これも百面のうちかもしれない――といわれている。

 似た鏡は他にも見つかっており、景初四年とか正初元年(いずれも西暦二四〇年で難升米らが日本に帰った年)といった銘のあるものも発掘されている。
 とくにさいきんは「三角縁神獣鏡」はじめ数多くの発掘が続いている。
〈卑彌呼〉に贈る――といった文字はどこにも無いので、どれが前記の銅鏡百枚のうちなのかの判定はつきにくいが、考古学者の地道な研究によって、かなり絞られつつあるようである。
 そしてそれらの発見が畿内に多いことが認められ、上記の詔書の真実性を裏づけるとともに、「《邪馬台国》大和説」に有利な展開になりつつあるらしい。

(* 詳しい理由は著者には分からないが、先に記した東大寺山古墳出土の長刀をこの候補にする見解は少ないらしい)


『卑弥呼と日本書紀』72

■■■■■ 三・七 謎の多い七つの対魏外交記録2―正始元年から泰始二年まで― ■■■■■


◆◆◆ 〈三〉正始元年(廃帝・芳の年号/西暦二四〇年) ◆◆◆

 前節で引用した詔書のなかに、

「一般的な宝物は難升米に直接渡したが印綬は大切なものなので使いの難升米には渡さず、魏の植民地の役人である帯方郡の太守に預けて運ばせた」

 ――と受け取れる記述があるが、その約束どおり、翌年の正始元年(景初四年相当)に帯方郡の太守が使者を〈卑彌呼〉に送った記録がある。
 すなわち、魏の皇帝の前記命令を聞いた帯方郡の新任太守の弓遵(きゅうじゅん)が、部下の梯儁(ていしゅん)たちを倭国におくって、詔書や印綬や宝物を倭王にもたらしたことや、倭王がそれに答礼して上奏文を出したことが記されている。

 正始とは三代目の曹芳(そうほう)の年号で、この皇帝はのちに司馬一族の圧力によって退位させられたので廃帝と呼ぶ。
 二代目の明帝には実子がなかったので、斉王・曹芳という親戚を養子にして三代目の皇帝に指名したのだが、幼年だったため、事実上は重臣の司馬仲達らが政治を取り仕切っていた。
 魏の軍師だった野心的な司馬氏は次第に権力を得て、魏の三代目や四代目を退位させて、三国時代の次である晋を建国するが、この晋の時代に『魏志倭人伝』が書かれることになる。

 さて、この皇帝・曹芳に対する答礼の文を、日本側が魏の使者――帯方郡の使者――に渡したということは、当時の日本の指導階級が漢字の読み書きができたことを意味しているようにも思えるが、帯方郡の役人が依頼されて作文したとも考えられるので、断言はできない。
 しかし〈卑彌呼〉や使者・難升米たち指導者層に識字者がまったくいなかったら、魏との外交それ自体を考えなかったであろう。


『卑弥呼と日本書紀』73

 いろいろな研究から、日本列島に漢字が入ってきたのは紀元前三世紀にまで遡り――古墳から出土する鏡に記された漢字からもそれは感じられるが――〈卑彌呼〉の時代の百年前にはかなり入っていたらしい。
 だから〈卑彌呼〉たち指導層は、おおまかには漢字で記された文書を理解できた筈だし、自分で漢字文を記すことも、多少はできたであろう。
 もちろん、漢字を活用して日本語を巧みに表記する『万葉集』のような方法は開拓途上だったろうし(*)、漢文による表現も、そう普及していたとは考えられない。
 日本人のなかでもとくに学者肌の人たちが、漢字を前にして、これをどう扱うか、試行錯誤していた時代だったのであろう。

 それから、この文章をそのまま信じると、帯方郡の高官がじっさいに《邪馬台国》に来て〈卑彌呼〉に面会して金印などを手渡したことになるが、それはきわめて疑問で、前述のように九州北端の伊都国までしか来ず、そこに留まって、伊都国から《邪馬台国》までは日本の役人が往復して運搬・伝言していた――とする意見が多数派である。
 このことは、『魏志倭人伝』全体からも読みとれることであり、著者もそのように感じている。


◆◆◆ 〈四〉正始四年(西暦二四三年) ◆◆◆

 この年、ふたたび倭王が使者の伊聲耆(いさんが)や掖邪狗(いさか)ら八人を送り、各種の織物や弓矢と生口を献上し、使者八人は褒美として率善中郎将の位と印綬を授けられたことが記されている。
 倭王への返書については記されていないが、もっともらしい文書を出したと考えられる。
 なお伊聲耆と掖邪狗の読みには諸説あり、同一人物のくりかえしだとの意見もある。
 二人の役人の記録をあとで合わせたので、同一人物が二種類の表記になり、史書の作者が別人だと錯覚して書いたのだろうという説もある。

(* 最近、『記紀万葉』が成立する前の木簡が大量に出土しつつあり、その研究によって、当時の日本語の実情がかなりの程度まで分かってきているらしい)


『卑弥呼と日本書紀』74

◆◆◆ 〈五〉正始六年(西暦二四五年) ◆◆◆

 魏の皇帝はこの年、倭の難升米(なしめ)に黄幢(こうとう)(黄色い旗)を贈ることにし、帯方郡に託した――と記されている。
 黄幢の下賜というのは、難升米を魏の皇帝の子分として正式に認め、官位を与えたという意味のようである。
 幢は旗の意味だが、主に軍隊の指揮に用いる旗(*)をいい、幢主というと一軍の大将という意味になる。
 この記述を読むと、難升米がその後も大きな役割を果たしていたことがうかがえる。
 おそらく北九州または山陰地方と帯方郡とを行き来しながら《邪馬台国》の窓口となっており、そのことが魏の皇帝に聞こえたのであろう。

(* 今の我々が考える旗とは形状がかなり違い、ずっと大げさなものだったらしい)

◆◆◆ 〈六〉正始八年(西暦二四七年) ◆◆◆

 この年、弓遵戦死のため帯方郡の太守が交替して王■(斤+頁/おうき)なる人物が任命されると、ただちに〈卑彌呼〉はこの新太守に截斯烏越(さいしうえつ)たちを使者として文書を送って、

「狗奴国(くな)の男王卑彌弓呼(ひみここ)と攻撃しあっている」

 ――と知らせた。
 そこで帯方郡の新太守は、詔書と黄幢を、使者の張政たちに持たせて、難升米に仮に授け、さらに檄文を作って〈卑彌呼〉に告諭した――とある。

 これは日本国内の戦争を意味するきわめて重要な情報なのだが、原文があまりに簡単で、はっきりしたことはわからない。
 正始六年に魏の皇帝が帯方郡の太守に託した黄幢や文書は、この年になって〈卑彌呼〉からの使いが来るまでは、手元に置いておいたのかもしれないし、まったく別に、帯方郡の役人が――魏の皇帝の意を汲んで――新たに〈卑彌呼〉への黄幢と詔書や檄文を、難升米を介して与えたのかもしれない。
 いずれにせよ難升米は、伊都国あたりで張政に会い、褒美を貰ったり、《邪馬台国》の意図を伝えたりしていたのであろう。
 原文のなかの檄文とは布告/説諭のようなものであり、告諭とは告げさとすといった意味である。


『卑弥呼と日本書紀』75

 解釈すれば、狗奴国がなかなか《邪馬台国》のいうことをきかず、しかも強くて攻めきれないので、女王は困り、魏の皇帝のお墨付きを得て自分の権威を高め、その権威で平定しようとしたのであろう。
『日本書紀』には九州の熊襲や関東の毛野が朝廷に背いて困ったという話がたくさん出てくるから、前述のように、狗奴は熊襲または毛野だという説があるわけである。
 つぎに男王卑彌弓呼についてだが、これは前記したように書写時の間違いで、卑弓彌呼(ひこみこ)ではないか――という説が有力である。
 じじつ、同じ狗奴国の官の名を狗古智卑狗(くこちひこ)としており、末尾に「ヒコ」がつけられている(*)。

(* 彦(ひこ)の語源は前記のように太陽の男で、古代においては役職名の一種であり、かつ太陽の女を意味する姫(ひめ)と並ぶ貴人の尊称――尊敬すべき人物につけられる称号――だったらしい)


◆◆◆ 〈七〉泰始二年十月(晋の武帝の年号/西暦二六六年) ◆◆◆
〔〈臺與〉の代になってからのことで紀年は推定〕

〈卑彌呼〉を――なんらかの意味で――継いだとされる若い〈臺與(とよ)〉も、国を治めるのに苦労したらしく、それを知った張政らが、同様な檄文をもって〈臺與〉を告諭した。
 これに対して〈臺與〉は、先の掖邪狗(いさか)ら二十人を御礼の使いにして、張政らの帰国を送らせた。

 その使者一行は、張政らを送りとどけたあと、帯方郡から魏の都まで行って朝献し、男女の生口三十人と、白珠五千孔(なんらかの美石?)、青き大句珠二枚(勾玉?)、異文の雑錦二十匹(特異な模様であまり高度ではない錦?)を献上した。
 ――とある。
 これが外交記録の最後で、かつ、『魏志倭人伝』そのものの最後でもある。


『卑弥呼と日本書紀』76

 この〈臺與〉の朝献については、暦年は記されていないが、〈六〉の二四七年よりかなり後のことは確かである。
 晋の史書には、泰始初年(西暦二六五年〜)に倭から使者がきた――との注目すべき記述があるので、これが該当しているのかもしれない。
 すくなくとも『日本書紀』の編纂関係者は、のちの〈神功皇后〉の箇所で述べるように、そう考えていたらしい。

 これらのことから、張政一行はずいぶん長いこと――十年以上も――日本に滞在していたことになるのかもしれないし、また何度も往復していたのかもしれない。
 北九州の伊都国と帯方郡の間を、難升米らとともに行ったり来たりしていたことも十分に考えられる。
 日本と朝鮮半島との間の往来は、紀元前からなされていたことが確かなので、三世紀ともなれば、かなりの頻度で往復していてもおかしくはない。

 ただ、張政らが伊都国から《邪馬台国》まで出向いてきていたかどうかは、前述のように疑問である。
 もし《邪馬台国》が《大和》だとすると、伊都国と《邪馬台国》との往来よりも、伊都国と帯方郡との往来のほうが短時間ですんだかもしれないほど、北九州と朝鮮南端とは近いのである。
 幸いにして海が穏やかであったら、伊都国から帯方郡までは、船だけの旅ですみ、順調にいけば数日で到着するであろう。

*****


『卑弥呼と日本書紀』77

■■■■■ 三・八 果たして殺人事件か〈卑彌呼〉唐突の死 ■■■■■


◆◆◆ 興味ぶかい『起居注』の記述 ◆◆◆

 前二節の外交記録のうち〈一〉〈三〉〈四〉は『日本書紀』にも『魏志倭人伝』より――と明記して記載されている(*)。
 ただし難升米は難斗米と書かれており、外交の最初は景初三年とされている。
 また『日本書紀』は同様な個所で晋の皇帝の言行録である『起居注』を引用して、

「晋の武帝の泰初二年(西暦二六六年)十月に倭の女王が朝献した」

 ――と記している。

 武帝とは魏の軍師として蜀の諸葛孔明や公孫氏と戦った有名な司馬仲達の孫の司馬炎のことで、魏の皇帝を退位させて西暦二六五年に晋の国を創建し、三国で残っていた呉も二八〇年に滅ぼして天下をとった。
 蜀はすでに二六三年に滅びていたから、結局『三国志』の三国は晋の国に統一されたことになる。

 シナの王朝はこのあと南北朝を経て隋になりついで唐になって、日本は遣隋使や遣唐使を派遣するようになることはよく知られている。
 晋の都は魏と同じ洛陽だったが、日本側は、魏が滅びて晋ができた翌年にすでに、その洛陽に使者を送っていたわけで、〈卑彌呼〉の代が終わってからも絶妙な外交感覚をみせている。

 同じ天皇紀におけるこの『起居注』の引用は、『日本書紀』の編者――またはそのすこし後の人――がこの記録を『魏志倭人伝』中の上記〈七〉の〈臺與〉による朝献と同定していること、および、〈臺與〉を〈卑彌呼〉と同一視していること、を意味している。
 これは、あとで『日本書紀』と『魏志倭人伝』を比較するとき、大きな意味を持ってくる。

 いずれにせよこのような引用は、『日本書紀』の編者たちやその少し後の人たちがシナの史書をよく読んでいた証拠であり、また『魏志倭人伝』の類が『記紀』編纂の八世紀初頭またはその少し後の日本の知識人によく知られていた証拠でもある。

(* 『日本書紀』は『魏志倭人伝』に言及している最古の史料である。この事だけでも、日本初の正史である『日本書紀』の凄さがわかる。『日本書紀』には、この他にも、今は消滅しているいくつかの近隣国の史書からの引用があり、それが貴重な研究材料となっている)


『卑弥呼と日本書紀』78

『記紀』には遣唐使・遣隋使以前の古い時代のシナとの交流はあまり書かれていないが、西暦紀元ごろはまだ大和朝廷が支配的にはなっていなかったために記憶に残っておらず、したがって書かれなかったのであろう。

 紀元前後の日本側の交流の主体は九州北部(および山陰、とくに出雲・丹後・但馬地方)の豪族だった可能性が高く、そのため「漢委奴國王」の金印も博多湾の近くの奴国と目される土地で発見されたのだと考えられる。
 二世紀から三世紀にいたる『魏志倭人伝』の時代やそののちの二世紀くらいのあいだには、大和朝廷の力はかなり強くなったと考えられるが、その時代の『記紀』の記録にもシナの都への使者派遣の話はない。

『記紀』の元をなす諸史料は、そもそも日本人がシナの册封体制――シナ皇帝が朝貢してくる周辺国にお墨付き(封爵)を出し係属国としてのその国の存在を認める体制――からの独立を意識しはじめた時代に書かれたり集められたりしているから、朝鮮半島諸国が大和朝廷に朝貢に来た話や、半島に出兵した話は数多く書かれていても、古い時代に日本からシナに朝献してお墨付きを貰ったような話はあまり書かれていないのであろう。

 これは朝鮮半島諸国が近世にいたるまで册封体制に組み込まれていたのと対照的であり、日本の『記紀』の著者たちが健全な独立精神を持っていた証拠でもある。


◆◆◆ 〈卑彌呼〉とつぜんの死と巨大な墳墓 ◆◆◆

 魏との交流の話が長くなったが、本文に戻ると、〈六〉のあといきなり、〈卑彌呼〉が死んだ――と記されている。〈七〉の〈臺與〉の使者の話の前である。
 何年とは書いていないのだが、なぜ「いきなり」なのかについては、諸説紛々である。
 唐の時代に書かれた北朝の歴史を記した北史のなかの倭人伝には、

「正始中卑彌呼死す」

 ――とあり、正始は西暦二四九年までということから、それを受けて二四九年以前に死んだのだろうとする説がある。


『卑弥呼と日本書紀』79

 しかしこの記述は前からあった『魏志倭人伝』を解釈してそう書いたとも受け取れて、信憑性は低いようである。
 ただ、さまざまな分野の研究からの総合的な判断で、二四七年からあまり経たずに死んだのは確かだろうとされており、これへの異論はすくない。
 げんざい多くの歴史家が推理している〈卑彌呼〉の没年は、西暦二四七年か二四八年であり、とくに前後の事情から二四八年の可能性が高いといわれている。

 さて、前記の「いきなり」というのは本当にいきなりで、〈六〉の外交記録の最後の、檄文によって〈卑彌呼〉を励ました――と受け取れる――文章のすぐあとに、死の記述が出てくるのである。
 議論百出の重要部分なので、石原道博による書き下し文(岩波文庫)を、掲載しておく。

「・・・・・張政等を遣わし・・・檄を爲りてこれを告諭す。卑彌呼以て死す。大いに冢を作る。径百余歩、徇葬する者、奴婢百余人。更に男王を立てしも、国中服せず。更々相誅殺し、当時千余人を殺す。またまた卑 彌呼の宗女壹與年十三なるを立てて王となし国中遂に定まる。政等、檄を以て壹與を告諭す・・・・・。」

 最初の・・・以下は〈六〉のおわりであり、最後の政等・・・は〈七〉のはじめの部分である。
 これ以下は前節〈七〉のみであり、

「・・・・・雑錦二十匹を貢献した」

 ――で『魏志倭人伝』そのものが終わっている。

 この〈六〉と〈卑彌呼〉の死と〈七〉の部分の写本の写真を、図3・4に示した。説明すると長いが、原文はじつにあっけないものであることが分かる。

↓↓↓↓↓↓↓↓

http://www.asahi-net.or.jp/~xx8f-ishr/H23-34.htm


『卑弥呼と日本書紀』80

 冢(ちょう)とは塚とか墓とかいった意味で、訓読みではツカである。径百余歩という歩は、魏の時代の単位としての歩だとすると、一・四メートルほどである。したがって百余歩は百五十メートルほどになるが、単にとても大きい――といった意味だったかもしれない。
 徇葬(じゅんそう)は殉葬で、奴婢は男女の召使いである。主人が死んだときに、その部下たちが殉死する習慣は、古代には世界各地に見られ、シナ大陸でも古くから大量の殉死があったらしい。
 ただし日本で百人もの殉死がなされたかどうかは大いに疑問で、各種の遺跡発掘の模様から、ほとんど無かっただろう――といわれている。

 更々相誅殺とは、お互いに相手が悪いとして殺し合うことであるが、その死者の数千余人については、たんに沢山といった意味だったのかもしれない。


◆◆◆ 後継者〈臺與〉と〈卑彌呼〉の死の謎 ◆◆◆

 そして最後が、〈卑彌呼〉の死後の、男王では世が治まらず、十三歳の宗女・壹與を男王のかわりに次ぎの女王としてやっと世が静まったという、〈卑彌呼〉の後継者についての重要な記述である。
 宗女の宗とは世継ぎとか跡取りとかいった意味で、鬼道をよくする〈卑彌呼〉の正統的な後継女性を意味している。ただし実子であった可能性はうすい。
 この跡継ぎ問題についても、議論が多く出されていて、結論が出ていない。そもそも壹與か臺與かもわからないのである。
『日本書紀』のなかにその候補を探す試みは古くからあるが、それについては第八章以降で詳述する。

 もう一つ重要なのが、はじめにもどって、

「張政等を遣わし・・・・・檄を為りてこれを告諭す。卑彌呼以て死す」

 ――という場面である。


『卑弥呼と日本書紀』81

 これはどういう意味なのであろうか?
 書き下ろし文で読んでも〈卑彌呼〉の死は唐突の感があるが、図3・4で分かるように漢文の原文ではなおさら唐突である。そもそも原文には句読点もなく、改行もないのだ。
 そして、どの単語がどこにかかるかも分からないことが多い。
 したがってこれは、どうとでも解釈できてしまう。
 狗奴国問題での〈卑彌呼〉の訴えを聞いた魏の使者が告諭したために〈卑彌呼〉が死んでしまった――または殺された――とも受け取れるし、檄文告諭の件と〈卑彌呼〉の死とは無関係で、まったく別の文章だとも受け取れるのだ。

 漢文の常であるが、読む人の感覚によってどうとでも受け取れる、論理的に不十分な文章によってきわめて重要なことが書かれているので、議論百出になってしまうのだ。
 そして、狗奴国問題の不手際で〈卑彌呼〉が殺されたのではないか、これは殺人事件なのではないか――との説も出されるようになったのである。

 ともあれ、狗奴国との抗争や告諭と〈卑彌呼〉の死との関係は不明だが、告諭からいくばくもなく〈卑彌呼〉が死んで、大きな墓をつくったと書かれていることは確かである。

 また次に、〈卑彌呼〉の後継者として男王を立てたが国中が服さないので、〈卑彌呼〉の後継者である〈臺與〉を女王にしたところ、やっと国中が平和になった――と書かれていることもまた確かで、読み違うおそれはない。

*****

 これで『魏志倭人伝』の概要説明はおわりである。
 つぎに、この『魏志倭人伝』の成立の経緯について、記してみよう。


『卑弥呼と日本書紀』82

■■■■■ 三・九 『魏志倭人伝』成立の経緯 ■■■■■


◆◆◆ 『三国志』の中の『魏志倭人伝』の位置づけ ◆◆◆

 これまでに断片的に記してきたが、『魏志倭人伝』とは通称で、正確には、魏・蜀・呉の三国の歴史を記した『三国志』全六十五巻のなかの、魏王朝に関係のあった周辺諸種族の話の中のひとつである巻三十『東夷伝(東の野蛮人の話)』の中のさらにひとつにすぎない倭人條――すなわち『倭人について書かれた部分』を意味している。
 もちろんこの史書『三国志』とは、天才軍師・諸葛孔明で有名な大衆小説としての『三国志演義』ではなく、シナ正史としての『三国志』である。

 この正史としての『三国志』は、
   魏書(三十巻)
   蜀書(十五巻)
   呉書(二十巻)
 ――の三部に分かれ、合計して六十五巻である。
 このなかの魏書三十巻は、皇帝について記した、
   武帝紀 (第一巻)
   文帝紀 (第二巻)
   明帝紀 (第三巻)
   三少帝紀(第四巻)
 ――という「紀」と呼ばれる四巻と、后妃や重要人物の伝記を記した、
   后妃伝  (第五巻)
   董二袁劉伝(第六巻)
   ・・・・・
   ・・・・・
   ・・・・・
   烏丸鮮卑東夷伝(第三十巻)
 ――という「伝」と呼ばれる二十六巻からなっている。
 四巻と二十六巻をあわせて全三十巻である。


『卑弥呼と日本書紀』83

 ただしこの「伝」の最後の巻(第三十巻)は、伝記というよりは辺境の国々の解説であり、「烏丸鮮卑東夷伝」――という巻題がしめすように、烏丸(うがん)と鮮卑(せんぴ)と東夷(とうい)と呼ばれる国々の説明である。
 このうち烏丸と鮮卑は、昔から蒙古高原を中心にしてシナ王朝領土の北方で覇を競っていた遊牧系の諸部族のなかの二つである。

 東夷とは東の野蛮国という意味で、満洲、朝鮮半島、そして日本列島などが入っている。
 東夷について書かれた部分は、さらにいくつかに分かれている(図3・2)。
 すなわち、

   夫余 (満洲北部。高句麗の北、鮮卑の東)
   高句麗(満洲南部から朝鮮半島北部)
   東沃沮(とうよくそ/高句麗の東南部。今の北朝鮮東部)
   ■婁 (手偏+邑/ゆうろう/ウラジオストクやその北方)
   ■  (シ+歳/わい/高句麗や東沃沮の南、朝鮮半島の東側)
   韓  (帯方郡の南、倭の北)
   倭  (帯方郡の東南の大海の中にあると書き出されている。日本列島)

 ――といった部分よりなっている。
 第三十巻のなかの烏丸・鮮卑・東夷の説明も羅列的であるが、東夷のなかはさらに羅列的で、明確な節に分かれているわけではない。
 倭人についての記述も、辰韓の説明のあと、いきなり倭人・・・とはじまっている。そのため、この日本について記された部分を倭人の條――すなわち『倭人條』――ともいうのである。

 そしてこの倭人の條に、既述したような三世紀の日本の様子や外交記録が記されているのだが、それが通称『魏志倭人伝』なのである。

 つまり、日本について書かれているのは『三国志』のなかのほんとうに端の端であって、当時のシナの都の著者や読者にとってはもっとも重要性の低い、いわば付録の末端のような部分なのだ。


『卑弥呼と日本書紀』84

◆◆◆ 『魏志倭人伝』の執筆者 ◆◆◆

『三国志』が完成したのは西暦二八五年――とされているが、これは魏のあとの晋の時代がはじまって二十年たった年である。
『魏志倭人伝』の中身でいうと、〈卑彌呼〉がはじめて魏に使節を派遣した年のほぼ四十五年後、おわりに付け足されている〈臺與〉が使いを晋に送った話からほぼ二十年ののちである。

『三国志』を著述(編纂)したのは陳壽(ちんじゅ)という学者だとされている。
 陳壽は三国の一つで孔明が活躍した蜀の国に西暦二三三年に生まれ、蜀が滅びたあとは、魏の後継国として成立した西晋に仕えた人で、没年は西暦二九七年とされている。
 では、この『三国志』のなかの倭人の條を、編者の陳壽は何によって書いたのだろうか?
 これについては、主に先行する史書『魏略』によったらしいといわれている。

『魏略』は魚豢(ぎょかん)という人物が書いたとされているが、完本は現存せず、一部分が残されているだけなので「らしい」ということしか分からない。
 なにしろちゃんと残っている当時の文献は『魏志倭人伝』の写本のみなのだ。
 魚豢は陳壽とほぼ同時代の人なので、さらに魚豢自身が参考にした史料があった筈だし、両者が共通して参考にした史料もあったであろうが、それらについては、なおさら推測の域を出ない。

 倭国について記されていて今に伝わっている似た史書として、『後漢書倭伝』『宋書倭国伝』『隋書倭国伝』などが知られているが、対象とした年代は古くても書かれたのはいずれも『魏志倭人伝』より新しく、〈卑彌呼〉らの話は『魏志倭人伝』を参考にしているらしいので、歴史資料としての価値は『魏志倭人伝』に及ばない。

 もう少し後世の記録になると、倭の五王の記録(宋書)とか、聖徳太子の時代に小野妹子が使者となって対等な挨拶文を渡してシナ皇帝を不快にさせた話(隋書)など、価値の高い資料が見られるようになってくる。

 というわけで、陳壽が参考にしたと思われる既知の書物は、一部しか現存しない『魏略』のみであるが、そのほかに伝聞とか報告書とか、もっと古い史書とかの類は、いくつか推理できる。

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 つぎの章で、『魏志倭人伝』のよってきたる所をくわしく推測し、その信憑性について検討してみよう。
『魏志倭人伝』の信憑性について多くの学者が疑問を投げかけていることは前述したが、本書では西尾幹二が『国民の歴史』で述べた意見を、著者の流儀で敷衍してみることにする。


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