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南部とは・・・新しく南部に住もうとする人たちのために

第七章  米国の中の異国  南部の経済の変貌 (中)

*261

* デイヴィド・R・ゴールドフィールド、トーマス・E・テリル *
David R.Goldfield & Thomas E.Terrill


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不況からの脱出と第二次大戦

 あの大恐慌が襲ってきたときも、南部の多くの地域ではそれに気付かなかった。 彼等はずっと永いこと不況を体験し続けており、 それ以上酷くなることなど有り得ないからだった。 大部分の南部人は1920年代の繁栄の分け前など貰っていなかった。  大恐慌は南部の歴史でたった二度しか無かった10年にわたる一人当たりの所得減少の期間の一部に過ぎない ( あとの一回は1860年代だった*280 )。  米国の多の地域では、所得が10年間も減り続けるなどということは一度もなかった。  だから、大恐慌は、多くの南部人の生活水準を更にちょっと落しただけだった。  あるミシシッピ州の小作農が1929年の経済危機について、当時耳にした頃を思い出して、 彼の家族にとって大恐慌が与えた影響と言えば、 「 もしかしたら食べ物が全く無くなるんじゃないかという心配が、ほんのチョッピリ増しただけさ 」 と言っている。

 ニューディール*131 でいくらかは助かったが、多数の農民、 小作農、分益小作人などにとっては政府の決めた農業調整法 ( AAA )*281 は酷い話だった。  AAAの背景となっている基本的考えは健全なものだった。 何百万エーカーもの綿花耕作を止める事で綿花の値段を上げ、 地主には休耕した面積に応じて補償をするというものだった。  この補償金の一部を地主は小作農、分益小作人たちに分配してやることが法律で決められていたが、 多くの地主は簡単にそれを無視してしまった。 政府の助成による低金利の貸付金と減反補償金のお陰で、 大農場主たちは機械化の進んだ、労働集約型でない農業に移行していった。  長期にわたる農業不況をなんとか耐え抜いた小規模の農場主たちは、 今度は機械化された耕作には太刀打ちできないと思い知らされたのだった。

 テネシー河谷開発公社 ( TVA )*232 と地方電化局 ( REA ) とは、田舎に住む南部人にとっては、だいぶ助けになった。  1930年代には、南部の農場の5%以下しか電気をもっていなかった ( 全国平均は14% )。  ニューヨークタイムズのラッセル・ベイカー ( Russel Baker ) は彼が生まれたヴァージニア州北部の田舎では、 1930年代になっても、婦人たちは南北戦争以前と同じようなやり方で家事労働をしていたと思い出話を語っている。  電気もなくガスもなく、電話、電気洗濯機、真空掃除機、冷蔵庫、ラジオ、水道、屋内便所なども無く、 彼女らは 「 農奴のように働いていた 」。 例えば、衣類を洗いアイロンをかけるのは、根気の要る、 殆ど二日をかけて毎週やらねばならぬ仕事だった。 洗濯をするにはまず薪を切り、水を汲んできて、 手で洗濯物をゴシゴシこすり、濯いで絞り、たらいの水を空けてまた水を入れ、と繰り返した後、洗濯物を干し、糊を付け、 それから台所のかまどの薪ストーブの上で熱した火のしでアイロンを掛けるのだった。  REAとTVAのお陰で1935年以降10年位の間に、南部の田舎に電気がやってきた。  電気の到来は家庭生活を一変させ、農業の機械化を容易にし、産業の発展を促した。

 これらの改善にも拘らず、1940年当時、大部分の米国人はジーター・レスター ( Jeeter Lester ) を典型的な南部人だと考えていた。  彼はアースキン・コールドウェル ( Erskine Caldwell )*282 の 小説タバコロード ( Tabacco Road ) の登場人物で、 ジョージャ州オーガスタの近くのひと間きりの堀っ建て小屋に住み、酷い貧困と無知の生活を送っていた。  レスター家は17人の子供を作り、そのうち生存していた12人の子供達のうち2人以外は、どこか家の外に出ていってしまった*283。  レスターは彼等や数人の孫たちがどこに住んでいるのかさえはっきり知らなかったのに、作物を作るとか、薪を売るとか、 彼のみつ口の娘に手術を受けさせるとか、何かチャンとしたことを始めるぞと、いつも口にしていた。  遂に彼は近所の野原に火を付け焼き払って耕作を始めようとした。 所が風が火を彼の家のほうに吹き付け、 眠っていた彼の家族は生きたまま焼かれてしまうのであった。 タバコロードの評判が高くなるにつれ、 「 南部とは米国の中の異国なのだ 」 と言う認識が広まり強調されていった。

 しかし第二次大戦で南部のイメージと現実の両方が変わり始めた。 サンベルト*133 という言葉に何か特別に起源があるとしたら、 それは大戦である( 事実、1940年当時は空軍は北緯37度線以南を 「 サンシャインベルト ( "sunshine belt" ) 」 と呼んでいた )。  連邦政府はこの地域に軍事基地と工場をつくるために70億ドルを投下した。 民間投資家がその上にさらに10億ドルを投下した。  給与所得は戦争中に250%も増加し、その4分の1は連邦政府が払うものだった。  雑誌フォーチュンの記者が、 過去に分益小作人であったが今はフロリダ州パナマシティの工場の防衛産業労働者*284 になった男にインタヴューをした。  彼が新しく得ることになった豊かさが予期せざるジレンマを作り出していた。  「 どうやって稼ぎを全部使ったらよいのやらほんとに頭が痛いよ 」 と彼は言った。  潮のように押し寄せるお金が、永きにわたった不況から南部を救い上げたのである。

 南部諸都市における雇用機会増加も、農場を襲っていた圧力を和らげた。 南部の農場に働いていた人の数は戦争中に22%減り、 機械化と作物の多様化がさらに進んだ。 1940年から44年にかけて、南部の農場の所得は2倍以上に増えた。  戦争が終わる頃には、進歩と繁栄のために南部の田舎では異様な光景が出現していた。  1945年に作家のH・C・ニクソン ( H.C.Nixon ) は、 彼の故郷アラバマ州カルフーンでは、農夫たちが 「 3種の動力すなわちトラクター、らば*19 、去勢牡牛 」 を使っているのを観察した。  また、彼等は町に出るのに 「 荷馬車、バギー*285、自動車の3種 」 を使っていた。  冬、自宅を暖房するために、彼等は 「 松の木の節の部分、樫の木、石炭、灯油、天然ガス、および電気 」 の各種を使っていた。
          
サンベルト地帯になる準備 *133

 だが、戦時中の好景気を平和時にも続けられたのだろうか。 答えは大声で響く 「 イエス! 」 であった。  軍関係の諸施設は冷戦中も大きくなり本格化した。 テネシー州オークリッジのウラニゥム処理施設、 ニューポートニュース、ノーフォーク、チャールストン、タンパ、モービル、パスカグーラ、ニューオリンズ、 ヒューストン*286 などの海軍基地や造船所が拡張された。  ジョージャ州マリエッタ*287 にある航空機製造施設は、後になってあのロッキード社の巨大な工場に成長した。

 戦時の繁栄を持続させるにあたっては、政治が大きな役割を果たした。一党統治の半世紀の結果、 議会ではとくに上院において南部民主党*234 が多数を占めていた。  南部出身の議員歴の長い議員たちは主な委員会で重要なポストを握っていた。  第二次大戦直後の数年間、上院の歳出委員会の委員長を勤めたリチャード・B・ラッセル ( Richard B.Russel ) 上院議員などは、 恐らく議会で最も権力の有った人だろう。  ラッセルの仲間のジョージャ出身のカール・ヴィンソン ( Carl Vinson ) は下院の軍事委員長であった。  これら二人の議員が、ジョージャ州に合計4万人も雇用する15もの軍事施設を誘致すると共に、 マリエッタにあるロッキード社に金の儲かる防衛計画を集中的に導入し、 この会社を官公庁を除けば米国中で一番沢山人を雇っている組織にしてしまう主役を演じたのであった。  1960年までには、この工場はジョージャ州に毎年2億ドルも納めるほどまでに成長した。  また、チャールストン出身の連邦下院議員L・メンデル・リヴァース ( L.Mendel Rivers ) も、有権者のために同様に活動し、 あるジャーナリストに、 これらの軍事施設の重量がこの上品な軍港を沈めてしまわなかったのが不思議なくらいだと言わせた程、沢山の施設を作らせた。

 あのどこにでもある南部タイプ、つまり、あの 「 それ行け、やれ行け 」 型の態度は、大恐慌の時代には一時静まっていたが、 第二次大戦後には活況を取り戻して噴出した。 片手で組合を払い除けながら、もう一方の手を北部の投資家に差し出した。  今回の活況が昔のそれと違う点は、今回の大戦後の努力は通常組織的であり、かつ、連邦政府、州政府に支援されていたという点である。  ジョージャ州における投資誘致活動がその一つの例である。1950年代のはじめ、ジョージャ電力会社、 ジョージャミュニシパルアソシエーション*288、 およびジョージャ工科大学実験施設の三者が共同して、認定都市運動*289 のスポンサーになった。  このプログラムは、地方自治体のリーダーたちがその町並みから教育施設やレクリエーション施設に至るまで改善を図り、 外からやってくる産業に対し、その町や市の魅力を増すのを促す働きをした。  南部の持つ大きなセールスポイントは、他地域には昔はあったかも知れないが今やとっくに失われてしまった環境の良さとか、 居住の快適さとかいうものを、進出した企業が味わえるという点にある。  そして決して偶然ではないのだが、そういった長所を、あの昔から有名な南部の低い税金と安い賃金という状況の下で味わえるのである。

 南部の州知事たちは、彼等の州こそ事業に最適であると宣伝攻勢に出た。  1960年までに、ノースカロライナ州知事ルーサー・ホッジス ( Luther Hodges ) は、投資家を求めて6万7千マイルも旅をした。  その中にはあのリサーチトライアングルパーク ( Research Triangle Park ) という新しい考えに賛同して立地してくれる企業も含まれていた。  これは、ラリー、ダラム、チャペルヒルの三つの都市に囲まれた研究都市地域である。

 この地域にある幾つもの有名大学と医療機関とに魅せられて集まってきた高度な教育を受けた人々が、 研究開発企業を引き付ける役を果たすだろうと、ホッジスは考えたのだった。  ある期間の後、彼の予感は正しかったことが証明された。  この研究都市はついにホッジスの期待に応えて全米の同様なハイテク企業集合体の原形となった。  1970年代までに南部の知事たちはまるでピッツバーグやクリーヴランドに行く位の気軽さで、 欧州や極東の国の首府を訪問するようになった*290。

 戦後の南部の経済発展には、宣伝や議会での院外活動やが余り要らない種類のものも他にあった。  フロリダ州は今世紀の初め以来、その爽やかな気候の恵みを受けていたが、道路が改善され、またフロリダでの定年後の生活が戦後、 より多くの人達にとって、より経済的に実現可能なものになるにつれ、この太陽の恵み溢れる州は、前例のないほどのブームを味わった。  同様に1950年代半ばまでに、テキサスからルイジアナにかけての一帯は、米国の原油生産の半分を賄い、 まだ手のついてない最大の埋蔵量も保有するまでになっていた。  豊富な石油、天然ガス、硫黄、新鮮な水などは石油化学産業の発展にとって理想的であった。

 1960年代までには、南部は、その戦後の成長と発展という土台の上に、構築されるばかりになっていた。  そしてあの波乱の1960年代の10年間に、南部地域の、また全国的な、もろもろの出来事*291 が寄り集まって、 ついに南部を経済発展の学級の首席に戻したのであった *291A。 しかし今回の新しい経済が前世紀の経済的繁栄期と違う点は、 一種か二種の農産物だけに頼るのではなく、多様であった点と、南部の大都市に起こっているという点である。  言うなれば綿花王が退位し、もっと民主的な経済様が即位したのである。
              
サンベルト *133

 多数の白人たちは当時まだ疑っていたけれど、1964年公民権法や1965年投票権法は、 この地域にとって綿繰機の発明以来の最大の賜物だった。  1960年代初頭は、この国中の南部に対する嵐のような愛憎関係が悪化していった時代であった。  1961年のフリーダム・ライド ( Freedom Rides )*292 や、1963年のバーミングハムでの人種差別反対デモのような、 白人優先権主義への挑戦は、国中を動揺させる血なまぐさい反応を引き起こした。  警察犬と放水ホースの日々は、全国民の意識に深く刻み込まれた。 しかし、1960年代中頃の決定的な立法成立は、 かつて嵐の中にあったこの地方にかかった虹のように拡がり、米国人の心の中にあった南部についての暗いイメージをかなり改善した。  ジョンソン大統領が投票権法に署名した当時起こった、ロスアンゼルスのワッツ地区で爆発した悪質な人種暴動も支障とはならなかった。  4年に及ぶ人種抗争の狂乱はうまく凌ぎ切ったし、最終的には比較感において南部の矛盾が色褪せて見える結果となった。  敵対的な人種問題の報道は、今やセルマからではなくデトロイトから、 バーミングハムからではなくニューアークからやって来るようになった*293。

 南部の再生にとって同じくらい重要であった物として、もう一つ、ライフスタイルの変化が挙げられる。  全国的なインターステート高速道路網の建設が行われ、可処分所得が増え、休暇日数が増し、引退の平均年齢が下がるにつれ、 人々の移動が活発化した。  南部の提供する伝統とか歴史とかの感覚は、60年代に国中どこにでも存在した不確かさの感覚*294とは、際立って対照的なものであった。  米国人が南部に求めたのは旧い建築物に止まらず、今や失われてしまったライフスタイルであった。  この都会的国家*295 では都市はみすぼらしく危険なものになってしまい、 そこでは人々はいつも気短かになり、予算はいつも不足であった。 交通は混雑し、歩調はますます気違いじみ、要点はボケて来るし、 税金はますます重くなって来ていた。  一方南部では、都市域においてすら歩調はローズマリー・ダニエル ( Rosemary Daniell )*294 が記しているように、 「 グァテマラとニューヨークの中間程度 」 であったし、 南部についての記述は 「 木陰たっぷりの生き生きした樫の木や、広大なつつじの植え込み 」 と言ったものをしきりと強調していた。

 1960年代の米国人の意識に対して、もっと静かに働き掛けていた南部的要素が他にもあった。  例えば、当時米国人が読んだ本には、南部人の書いたものが多かった。 トーマス・ウォルフェ(Thomas Wolfe)、 ウィリアム・フォークナー ( William Faulkner )、ロバート・ペン・ワレン ( Robert Penn Warren )、 ユードラ・ウェルティ ( Eudra Welty )*295 などの書いた本が愛読されていた。  もちろんこれらの作家の書いたテーマは、それぞれ異なっていたが、共通の話の筋は、島国根性的社会への近代的世界の進出、 また、それが醸し出す矛盾で得をする個人や被害を受ける個人などが直面する、道徳的ジレンマなどだった。  南部以外の米国人の大部分は、20世紀後半の生活を特徴づける門は、何であろうと既にくぐって来ていた。  だから、例え小説の中であろうと、選択を避けられないわけでもないし変更出来ないわけでもないというような文明、 どっちつかずの状態を苦痛に感じる事なく、夫々の足を片方づつ違う時代に突っ込んでいる事がまだ出来るというような文明、 などというものを見つけられるのは、精神的に大変ためになることであった。

 南部の作家たちの良質の物語はどんどんテレビで放映され映画化された。  もちろんあの 「 ルーツ 」 は、今までのテレビ番組の中では最高視聴率の物の一つとなった。  南部にテーマを採った映画は、1960年代にはもう新しいとは言いにくかった。 風と共に去りぬとかジェザベル*182 とかは、 一世代前には全国的に観衆の心を捕らえた。 前者は後になって再映画化され、これまた大好評だった。  1970年代までには 「 南部劇 」 は西部劇と同じくらいの大きな映画のジャンルに成長した。  「 イン・ザ・ヒート・オブ・ナイト 」 ( 1967年制作 ) ではシドニー・ポワチエ ( Sidney Poitier ) がフィラデルフィアの警部に、 ロッド・シュタイガー ( Rod Steiger ) が典型的なミシシッピの保安官になり、 シュタイガーが映画の結末までに彼の黒人の同僚に次第に親愛感を抱いて行く様子を描き*296、 近代的南部を描くハリウッドの新南部路線のはしりとなった。

 実際、70年代初頭までには、昔は忌み嫌われていた*297 でっぷりと腹の出た南部の保安官というキャラクターは、 宣伝の上では殆どいたずら小僧程度の表現でしかなくなり、 クライスラー社などはダッジ型自動車を売るために泥臭い保安官タイプを使ったりしたのである。  彼のせりふの最後は、南部訛で 「 あんたがた*265、気を付けてよ、分ったか! 」 と言うものだった。  1970年代初めには、またアール・ハムナー・ジュニア ( Earl Hamner,Jr. ) の1961年の小説 「 スペンサーの山 」を基にして、 CBS系テレビの 「 ウォルトン一家 」 が放映された*297A 。  南部黒人たちが被害者或いはサンボ*298 というタイプから英雄に変わって行くという筋書きの 「 サウンダー (1972) 」 とか、 それをテレビ化した 「 ジェイン・ピットマン嬢の自伝 (1974) 」 などは、あわやお定まりの型になるほでだった。  ついには南部は、竹を割ったような気質の英雄を渇望していたこの国において、 筋骨隆々とし法と秩序を守る頼もしいタイプの男の宝庫という事になってしまった。  テネシーの保安官ビュフォード・パッサーを描いた1972年の 「 ウォーキング・トール ( Walking Tall )*299 」 や、 バート・レイノルズのために企画された1973年の 「 白い稲妻 ( White Lightning ) 」 などが、 国中の人たちにアクションとハッピーエンドを提供した。

 米国文学や米国映画において、南部が心の琴線に触れる地域として好まれたとすれば、 同じ理由で南部音楽も熱心なファンを作り出した。  カントリーミュージックは民衆の音楽であり、その歌詞は土地への深い愛着を反映していた*300。  とりわけ、南部人で、強制移住させられた線路工事従事者や、鎖に繋がれ屋外労働をさせられていた囚人たちや、 北部で働いていた人たちなどにとってはそうだった。 その旋律は南部の日常生活に染みわたっている放浪性と土着性、 得た愛と失った愛、信頼と勇気で堅く結ばれたり、不誠実、死、離別ゆえに引き裂かれたりする家族、などを奏でた。  その歌詞が物語を語るのは、南部の庶民の間ではそれが伝統的に意思伝達と娯楽との重要な手段だったからである。  困惑の60年代、70年代*291 に、カントリーミュージックが流行ったのは、 電子文明の米国からこう言った口伝えの伝統が無くなってしまっていた事と、 この曖昧で不確かな時代にはその歌詞とメロディの単純さ率直さが受けた為だと思われる。  1971年にはニューヨーク市がこの全国的風潮に遂に降参して、ラジオ放送局WHNがカントリーソング重視型に変わった*301ので、 ローン・スター・カフェ ( Lone Star Cafe )*302 は、ボタンダウンスタイルの連中*303 が集まる場所になってしまった。

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訳者注

*280 南北戦争があったのは1960年から65年。 その後もしばらくは南部経済は極度に衰退した
*281 Agricultural Adjustment Act (AAA)とは、ニューディールの政策の一つ。綿花以外にも小麦、トウモロコシ、 米などについても行われた結果、農家の所得は1932年から36年までの間に18億ドルから50億ドルに高まった
*282 牧師を父にジョージャ州で1903年に生まれる。  タバコロードは1932年に発表された出世作で脚色上演されロングランの記録を作った。  無知で不道徳で利己心と色欲ばかり強い南部の貧しい白人の生活を描いた作品
*283 家を出て街路や列車の中に寝、盗みなどしながら生きて行く浮浪児が当時少なくなかった
*284 軍事産業と言わずに防衛 ( defence ) 産業と言うのは、侵略的、攻撃的な感じがしないので好まれる。  日本でもそれを真似しているのはご承知の通り *285 一頭立て4輪の軽装馬車。19世紀末に流行した。  直ぐ前に出て来る荷馬車 ( wagon ) が穀物など本来は荷物用で貧乏人の乗り物なのに対し、これは本来、人の乗り物 *286 オークリッジは同州東部にあり、第二次大戦中に最初のウラン分離工場が作られ、 広島に投下された原爆のウラン235はここから供給された。 現在は国立研究所、原子核研究所などがある。  ニューポートニューズ、ノーフォークは共にヴァージニア州東部大西洋岸の、チャールストン、タンパ、モービル、パスカグーラ、 ニューオリンズ、ヒューストンはそれぞれ、サウスカロライナ、フロリダ、アラバマ、ミシシッピ、ルイジアナ、 テキサスの各州の港湾都市である
*287 マリエッタはアトランタ市の北西部郊外にある小都市で空軍基地、ロッキード社の主力工場などが集っている
*288 Georgia Municipal Association は同州における、日本の市町村長会に相当する機関。現在は相互の親睦や情報交換が主という
*289 あるレベル以上の公共施設を持つ都市であると公に認定するプログラム。 これを受ければ企業誘致が容易になる
*290 海外企業の誘致を目的に州知事が外国にまで気軽に飛んで行くように成った
*291 1960年代は公民権運動のデモ、学園紛争、ヴェトナム戦争などで米国中が揺れとくに青年にとって悩み深い時代であった
*291A 南北戦争前のプランテーション経済と綿花栽培の時代に南部が全米一の繁栄を謳歌した時に次いで、今回が二回目だということ
*292 人種差別のある施設から差別を取り除こうとする人達が南部の各地にバスで乗り込んだ 「 自由のための乗車運動 」。  各州で知事以下の白人の多くが頑強に抵抗し幾多の流血の惨事を見た
*293 セルマとバーミングハムは共に深南部アラバマ州の中央部にある中都市でかつて公民権闘争の激しかった所。  デトロイトとニューアークはそれぞれ北部のミシガン州、ニュージャージー州の、黒人が多く住む大都市
*294 ダニエルについては第5章の終りの方に出てきた
*295 ウォルフェについては第四章の 「 偽りの利益 」 の節の中ほど、フォークナー (1897-1962) は第一章の3節の終りの方にも出ている。  後者は1949年ノーベル文学賞受賞。 ワレンについては*172 および*221 を参照。 ウェルティは1909年生まれの作家
*296 ポワチエは黒人男優である。 根っから黒人など大嫌いなミシシッピの白人保安官シュタイガーが、 殺人事件解決のためにいやいや黒人刑事の助力を借りて行く内に良い仲間になって行くと言うこの映画は、 南部を好意的に扱った最初の映画として意義がある
*297 南部の保安官は黒人に対し公正でないので忌み嫌われていた
297A ワイオミング州に住む地主が息子を大学に入れるために自分の退職後のための家の建築を延期すると言う1963年の作品
*298 黒人はそれまでは、可哀相な被害者か、さもなければ、 白人の言うことを何でもハイハイと聞くサンボ型(アンクル・トム型とも言う)かのどちらかであった
*299 パッサーは実在の人物で、当時としては珍しい黒人に対して良いシェリフであったが、その事がもとで他の白人たちに殺された。  1973年の作品
*300 カントリーミュージックについては第3章の第13、14図とその説明を参照
*301 米国の放送局は多くが単一のタイプの音楽 ( たとえばロック ) を四六時中使い、他の種類の音楽は掛けない
*302 ローン・スターとは星が一つのテキサス州の州旗のこと。 ニューヨークあたりにあるテキサス風のレストランと思われる
*303 ボタンダウン襟のYシャツは、米国ではインテリ、ヤッピー*146、ビジネスマンの好む風俗である。  こういう、カンツリーソングなどには無縁そうな連中が、夢中になったのだった


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