詰将棋の歴史

 


・詰将棋の起こり

現在の将棋のル−ルは、室町時代には、出来上がっていたようです。その後江戸時代に入って、 将棋とは独立した形で詰将棋のル−ルが完成しました。
記録上一番最古の詰将棋は、将棋初代名人大橋宗桂の作品集「将棋力草」の第1番です。その当時 は、現在とは違って、詰め上がりに駒が余ったりと、本手順より変化が長い作品があったりとル−ル の面では曖昧な部分も多く、単に将棋の終盤の読みの練習問題という意味合いが強かったようです。 また、この時代詰将棋を作った人は、将棋の家元の名人か名人候補となる人が主でした。当時は、 将棋の名人といっても幕府直下の将棋家元における世襲制度でした。とは言え名人になるためには 将棋が強いことは勿論、詰将棋作品集を幕府に献上することが条件でした。この「献上図式」という 慣習が詰将棋の発展に大きな役割を果たすのである。


・詰将棋の発展

3代名人伊藤宗看の頃は、詰め上がりの駒余りを廃止するなどル−ルが明確化され、作品の質もかな り向上してきました。
5代名人伊藤宗印の頃は、詰将棋は単に将棋の終盤という側面から、将棋から独立した別個のパズル との認識が芽生えました。


・詰将棋の黄金時代

そして、7代名人伊藤宗看の頃は詰将棋の最盛期を迎えます。彼の作品は非常に高度で難解で歴史に 残る作品集「将棋無双」を世に出しました。そして、弟の伊藤看寿は名人こそなれなかったものの 歴史に残る作品集「将棋図巧」を残しました。これは、当時の最長手数作品611手詰、煙詰などを 含み古今最傑作と言われています。

この伊藤宗看は、将棋も歴代名人の中でも最も強いと言われています。伊藤看寿も将棋が強く、 兄の宗看が名人位を譲ろうとしたそうだが、先にこの世を去ってしまった悲劇の天才である。 この頃は家元以外でも優れた作品を作る人も多く、数学者久留島喜内、10代将軍徳川家治なども 作品集を出版した。


・詰将棋の衰退期

ところが、9代名人大橋宗英の時代になると、状況が一変する。彼は歴代の名人の中でも将棋が非常 に強いと言われている人だが、詰将棋となると先代の名人を超えるものは作れないと自覚したらしく そのプライド故か自ら詰将棋作品集の献上という風習を廃止してしまったのです。

その後詰将棋は衰退期を迎え、明治、大正、昭和初期まで続きます。その間、民間人の一部がユニ −クな作品を作ってはいたが、先の伊藤宗看、看寿に匹敵する作品は作られなかった。


・詰将棋の第2の黄金期

詰将棋が本格的に息を吹き返したのは戦後になってからです。将棋のプロよりアマチュアを中心に、 将棋専門紙「近代将棋」の詰将棋欄、詰将棋専門紙「詰将棋パラダイス」などに数多くの作品が投稿 され、江戸時代の黄金期にも作られなかったような記録的作品が次々と作られ今日を迎えている。 煙詰は、戦後、伊藤看寿に続いて2号局が発表されるとその後立て続けに発表され、現在では、300 以上は作られている。

長手数の記録では、1525手詰というのが現在最長である。