煙詰とは、言うまでもなく初形の盤面に全ての駒を配置して、詰め上がりには3枚になって 詰め上がるという詰将棋のことである。駒捌きの極致的表現として非常に美しい詰将棋である。 一昔前までは非常に困難な条件作であったが、そうした魅力故に現在では何百局も創られて いる。
ところで、初形の盤面に全ての駒を配置するという条件を満たすために、只相手の玉に 取らせるだけで意味のない駒を置いた作品が見受けられる。 その何が悪いのか、と言われればそれまでである。煙詰作家でも「取られる場所にうまく置く のもテクニックだ」と開き直る方もいる。
まず、意味のある駒とはどういうものなのか?初形から盤上のある駒を省いたとき、 本手順が変わってしまう場合、と私は定義している。 詰将棋とは、まず、一意な詰手順が存在して、それを実現する上での必要最小限の駒で 表現したものである。不要な駒は全て玉方の持駒として扱う。というのが基本的な考え ではないのか?となると、煙詰に関してのみその原則的な考えを当てはめないという理屈は おかしなものである。
以上のことから、私は、基本的には、煙詰に不要な駒を置いた作品は評価は出来ないのだ。 その他にも、煙詰の減点事項として、自陣成駒や銀桂香の成駒、変化同手数で詰め上がりが 4枚以上になる作品などもあるが、いずれよりも不要駒は減点が大きいと私は見る。 次に減点が大きいのは、変化同手数で詰め上がり4枚以上のものだが、玉方は攻め方の駒が 少なくなるように受けるのが自然なので、不要駒よりは減点が少ないと見る。
過去の作品を全て調べ上げるのは難しい。この駒は要らないのでは、と思うものがあっても
実際は変化に役に立っていたりするので断定することが大変だ。
1図 将棋図巧99番途中図
2図 7色煙 帰去来の途中図
上記のようなケースは、例外としても、やはり全ての駒がきちっと意味を持ってこそ詰将棋の 美が引き立つのではないかと思う。あまりに安易な置駒は避けたいものだ。