夢魔
















藤下真潮 著
















 見渡す限りの砂の原だった。ベージュ色のビロードのような砂の面にドレープのように風紋が続く。その少し先の小高くなった丘に、まるで黒い陥穽のように藍の空を切り抜き佇むモノがあった。それは、頭から全身を覆う漆黒の外衣を身にまとう女だった。女はじっとわたしを睨めつけている。眼の周りのベールの隙間から覗く、更に深い闇のような眼がわたしを捉えていた。わたしは身動きも出来ずに、頭上の太陽に炙られ続けた。
















 ……あ…な…た……………あ…な…た………あなた……あなた…

 妻に揺り起こされ、わたしは灼熱の光の原から闇の中へ引き戻された。

 「どうしたのあなた、大丈夫? ひどい汗」

 隣で寝ていた妻が心配そうに声をかけた。真昼間の屋外からいきなり暗闇に放り込まれたように視界が利かなかった。眼の奥に赤い残像が焼け付いたように残っていた。

 「だ……だいじょうぶ…」

 冷たい汗が全身を濡らしていた。厚手のパジャマがずっしりと濡れて重くなりシーツまでもが冷たく湿っていた。

  「悪い夢でも見たの? はやく着替えないと風邪をひくわ」妻はそう言うとベッドから起きあがり、クローゼットから替えのパジャマと下着を出してきた。

 悪い夢? どんな夢を見たのか思い出せなかった。体は汗で冷え切っていたが、頭の中は最前の光に焼け付いたように熱い。

 光の光景の中をじっと凝らすように集中すると、微かに何かを思い出しかけた。「・・・砂・・・眼・・・」。

 「あなた、パジャマを替えるから起きてちょうだい」

 妻に促され、のろのろと起きあがると軽い眩暈に襲われた。ふらつきながらも立ちあがると妻が心配そうに顔をのぞかせた。「替えてあげるから、じっとしていて」

 わたしはベッドの脇に立ち尽くし、妻のされるがままに任した。かつて看護婦をしていた妻は、手馴れた調子でてきぱきとパジャマの上を脱がせ、わたしに新しいパジャマを羽織らせた。続いてパジャマのズボンをトランクスごと引きおろした。

 あっ、という戸惑いを含んだ妻の声に、わたしは初めて自分のいちもつが限界とばかりに怒張しているのに気がついた。脈打つそれは射精寸前のように天を仰ぎ、そそり立っていた。
















 「連絡帳とハンカチとちり紙は持った?」新聞の向こう側で妻の声がした。

 「ウン!」幼稚園年長組の娘は、これ以上に無い元気の良さで返事をすると、覚醒しきらない頭で新聞を読むわたしのもとへ、とことこと駆け寄ってきた。

 「おとーさん、行ってきまーす!」

 わたしは新聞から眼を放し屈み込むと娘の頬にキスをした。

 「先生のゆうことを良く聞くんだぞ」

 「おとーさんも、おしごとがんばってね!」

 娘は悪戯っぽい顔をして、わたしの頬にキスをすると飛ぶように玄関に向かって駆け出した。

 「待ちなさい! 表に飛び出しちゃ駄目よ」妻も後を追いかけ玄関に向かった。

 新聞を持ち直し、コーヒーを口に含んだ。

 その瞬間、眼の中で閃光が走った。マグカップが手から滑り落ちた。

 「来たれ!」頭の中で女の声が響いた。

 刺すような痛みが頭の奥底で起きた。身動きも叶わぬほど激烈な痛みだった。

 何かにしがみつこうと必死になって手を伸ばそうとした。熱いコーヒーが手の甲に掛かった。思わず声をあげようとしたとき、眼の中の光も頭の痛みも嘘のように消え去った。

 真白いテーブルクロスの上に、コーヒーの茶色い染みが禍事のように残った。
















 それから毎夜、繰り返し繰り返し同じ夢を見るようになった。

 夢はゆっくりと焦点が合うように周囲まで鮮明となっていった。ベール越しの女の眼は、黒目ばかりでまるで光を吸い込む穴のようだった。わたしは女の眼に捕らわれていた。

 女との距離が、日に日に近づく。近づくにつれ女の背後のテントも大きくなったから、近づいているのは女ではなくわたしの方だと知れる。


砂の匂いがする。女がゆっくりと手招きをした。















 「ねえ、弟の病院で一日ドックでも受けたら?」

 義弟は大学病院に勤めていた。妻は毎夜うなされるわたしを見かねて、そんな提案をしてきた。

 わたしは、生返事をした。夢が精彩さを帯びるにつれ、発作のような頭痛も頻繁に起こるようになっていた。それは昼間の仕事にも差し支えるようになっていた。理性は病院へ行けと囁く。しかし、何かがわたしをためらわせていた。

 その気分を言葉で説明するのはひどく難しい。たぶん後ろめたいという言葉が、かろうじてその気分に近いような気がする。なぜ、わたしは毎夜の夢の後に勃起するのだろうか。

 女の眼を思い出した。その瞬間また割れるように頭が痛んだ。















 テントの中は薄暗く、涼やかだった。一家族が住むのに十分であろうサイズがあったが、その割には生活感が感じられない。がらんとした室内の中央に緋色の絨毯が敷かれていた。

 女は私に向かって座るように身振りで示した。靴をはいたままでも構わないかとも思ったが、結局わたしは靴を脱ぎ絨毯の中央で胡坐に座った。

 女が視界から外れた。所在なげに絨毯の模様をよく見ると、緋色の地に黒く細い模様が迷路のように刻まれていた。迷路の線をなんとなく目で辿りはじめる。目の前がチラチラしだし、急速に気分が悪くなってきた。口の中にざらざらとした砂と粘つく唾液が不快に感じられた。水でのどを潤したかった。

 女が大きな金属の盆を両手に掲げ持つように現われた。女はひざまずき私に向かって捧げる様に差し出した。盆の上には酒を満たした杯と細身の剣のような串に刺された肉塊が置かれていた。

 わたしは左手に杯を右手に串を取り上げた。焼けた羊肉の香ばしい匂いが鼻孔を満たした。喉が鳴る。不快だった喉を洗い流すように一気にぶどう酒を煽った。そしてまだ脂の焼ける音がたつ肉塊にかじり付いた。シャリっと砂を噛む感触がした。だが不快感は感じない。わたしは、砂を気にせずに肉塊を噛み締めた。血と肉汁の味が口中に広がる。妙に猛々しい気分が体中を満たし始めた。

 女はわたしの前に立膝をついた。ベール外した女の眼は、何かの期待に揺れ輝いていた。

 わたしは”竈食い”という言葉を思い出した。
















 その瞬間、わたしは機械仕掛けのようにベッドの上で跳ね起きた。そして、くぐもった獣の咆哮のような声とともに夥しい程の吐瀉物をベッドの上に撒き散らした。

 胃液に混じってぶどう酒の匂いがした。妻が必死に肩を揺り動かすのを、混濁した意識の向こうでかすかに感じた。







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 「目の中の閃光と強烈な頭痛ねぇ・・・。お義兄さん、痛みは長く続くの?」

 「いや、ほんの2、3秒・・・」

 目の前に白衣を着た義弟がいた。前回会ったのは義父の七回忌だったから、1年も前だ。そのときより印象が薄く感じるのは、あるいは白衣のせいかもしれない。

 「2、3秒。2、3秒ねぇ……。熱も特にない様だし……。お義兄さん、ヨードにアレルギーは?」

 「いや、よくわからないけど……」

 義弟は振り向くと看護婦に向かって指示をだした。「眼底検査とCTを……造影剤を静注で」

 看護婦の指示で検査室へと案内された。

 目薬をした後、奇妙な機械に頭を固定され、眼に眩しい光を当てられ写真を撮られた。しばらく眼がチカチカとした。

 また別な部屋では、腕に注射をされ、わけのわからないリング状の機械が付いた硬いベッドに30分あまりも寝かされた。

 午後になって再び診察室に呼ばれた。

 義弟は机の上のレントゲン写真等の透過フィルムを見る為のパネルへと一枚の写真を貼り付けた。

 「これは眼の奥の血管の写真なんです。メスなしで血管を直接観察できるのって眼の奥の血管しかないんですよ。しかも眼の血管は脳の血管を診るのと同じなんです……」

 義弟はひとしきり写真を眺め、そしてつぶやいた。「とくに異常は無いなあ」

 「CTの方はと……」袋からレントゲン写真を1枚ずつ取り出してはパネルへと貼り付けていく。2枚目の写真を貼り付けたとき、義弟の手が止まった。ぽかんとした表情で義弟の目はレントゲン写真に釘付けになっていた。

 わたしもつられたようにレントゲン写真を眺めた。

 白っぽい脳髄の断面を背景に5、6個ほどの黒い真円がぽっかりと写っていた。コンパスできっちりと描かれたようなその黒い円は素人目にも異常なものだと判断できた。

 「……いや……これは」義弟は、慌てたように3枚目4枚目のレントゲン写真を宙にかざした。そこにも黒い円は存在した。

 わたしは、怯えたように顔をこわばらせる義弟の表情とレントゲン写真の黒い円を交互に見比べた。そして、ああそうかと思った。何が理解できたわけでもないのに、ああなるほどそうだったかと納得した。

 義弟は相変わらず表情をこわばらせたまま、レントゲン写真を睨み続けていた。

 わたしは、黙って立ち上がるとそのまま診察室を出た。

 外は、皮膚を切り裂くような冷たい風が吹いていた。コートの前をあわせ、わたしは、逃げるように病院を後にした。








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 女の肌はひんやりとしていた。すべすべと肌理の細かい白い肌は、ただ抱いているだけで心地よかった。闇の中に女の肌が浮かぶ。甘いナツメヤシの匂いがする。

 たぎった欲情は一点に集約し痛いばかりに猛り立っている。女の体も、その一点だけがどろどろと溶けたように熱を持っていた。狂おしいばかりの情欲が快感となり身体中を満たした。

 わたしは、夥しい精を女の胎に放出した。







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 「早くなさい! バスが来ちゃうわよ」

 毎朝の儀式のように妻のいらだった声が聞こえた。

 娘が食卓に駆け寄る。

 「あのね。あのね、おとうさん」娘が舌足らずの声で話し掛ける。「ようちえんでおゆうぎするの。みにきてね」

 日曜日の父親参観のことをぼんやりと思い出した。「ああ、もちろん行くよ」娘の頬にキスをしながら、そう答えた。

 「おとーさん、おしごとがんばってね」

 毎朝繰り返される呪文のような言葉に頬が緩む。

 娘は、またばたばたと玄関へと駆けていった。

 娘と妻が居なくなると、食卓は空虚な洞穴のように静かだ。

 コーヒーを一口すすり、こんがりと焼けたトーストを噛る。

 それは……砂の味がした。