―覚醒儀式―
政治・経済関連 | 情報・通信関連 | 医学・生物学関連 | |
2000年 | 2004年2月 ニューヨーク株式市場暴落、ダウ平均は1ヶ月で50%まで下落
2004年4月 国連にECG(広域経済委員会)発足 2007年11月 アメリカ合衆国大統領”ネオ・モンロー主義”宣言 2007年12月 アメリカ“選択的報復関税制度”発動 2008年1月 日本、全てのアメリカ国債を放出、12カ国が追随 2008年4月 17個所の金融市場が機能停止 2008年12月 国際通貨統合準備委員会(IMIPC)発足、IMF解散 2009年8月 4大経済ブロック圏確立 |
2005年1月 単一CPUの動作周波数5GHzを達成
2005年4月 インターネット接続端末数5億台到達 2007年8月 完全ネットワーク分散型OS”ディプロイ”開発 2007年12月 大学系ボランティア集団による1億台端末での協調分散処理実験”プロジェクト・コロニー”行われる |
2004年9月 ロシアの科学者グループ人間の体細胞クローニングを行う
2007年6月 国連で遺伝子関係研究開発の管理統合に関する議決を採択 2009年11月 WHO内部組織GENWG(遺伝子問題分科会)発足 |
2010年 | 2010年4月 総GDP対2000年比が80%を割る
2011年7月 アメリカ、保有軍隊の3分の2を国連に移管 2013年8月 フランス・ブルゴーニュ原子力発電所事故 2015年10月 国連に世界資源調整機構”WRCO”発足 2015年12月 WRCO、世界各国の環境研究機関に”ゼロサム・モデル”作成を呼びかける 2017年12月 WRCO主導で太陽発電衛星プロジェクト”フレイヤ”発足 2017年3月 西アジア経済ブロック内の4カ国が国連脱退 2018年12月 WRCO縮小均衡経済モデル”モデル・1960”を発表 2019年3月 国連総会、WRCOへの全資源管理権委譲決議 |
2010年3月 CPU動作速度10GHzを超える
2011年10月 インターネット接続端末数10億台を突破 2012年7月 インターネット管理を国際管理機関G−NETに移行 2012年11月 ”ジャガーノート”ウィルス、一昼夜で3億台の端末に被害を与える 2015年5月 世界初の自己変革型OS”オルター”開発される 2015年7月 ”オルター”の全権利をG−NETが取得 2016年4月 G−NET、国連下部組織に移行 2019年2月 G−NETに犯罪捜査権付与 |
2012年5月 WGAIO(世界遺伝子管理統合機構)発足
2015年1月 中国で老化遺伝子転写抑制剤”始皇”発表 2017年12月 ユーロ科学者チーム完全化学合成DNAを発表 2018年3月 完全化学合成DNAによる大腸菌の繁殖分裂を確認 |
2020年 | 2020年1月 西アジア連合WRCO勧告を拒否
2022年4月 総GDP対2000年比が70%割る 2025年5月 ”フレイヤ”1号機稼動 (出力10GW静止軌道型) 2025年10月 国際統一言語推進”ザメンホフ・プロジェクト”発足 2027年1月 縮小均衡経済モデル”モデル・2000”を発表 2029年6月 中国・カザフスタン国境で紛争が勃発 2029年7月 東西アジア大戦勃発 2029年9月 タクラマカン砂漠にて史上3番目の核兵器使用される 2029年10月 国連安保理事会、東西アジアブロックに対し停戦勧告、国連軍軍事介入 2029年10月 キルギス国境地域で史上4番目の核兵器使用される 2029年11月 東西アジア大戦終結 |
2022年8月
G−NET、新ネットワークOSシステム”ユグドラシル”稼動
2025年11月 G−NETの接続ノード数100億突破 2027年4月 群体統一コンピュータ理論”スウォーム”発表 2028年6月 G−NET,”スウォーム”の情報封鎖 2029年9月 OSバグに端を発する”バグダット・アバランシェ”により世界中のネットワークが1週間停止する |
2020年3月 ”始皇”による酵素欠損障害発生、死者2万人を超え、WHO発売禁止を勧告
2024年4月 化学合成DNAのタイムロック(時間錠)問題による急性免疫賦活症候群が発生 2027年8月 WHO,化学合成DNAの使用禁止 2029年4月 WGAIO,生物倫理規定制定 2029年7月 日本で化学合成DNAによる霊長類クローン発表、生物倫理規定違反第一号となる |
2030年 | 2030年2月 オーストラリアによる世界連邦設立提案
2032年10月 国際統一言語”バベル”発表 2032年10月 ユーロ、西アジア連合”バベル”に対し拒否権発動 2033年9月 ”フレイヤ”ゾディアック・シリーズ稼動開始(出力20GW太陽同期軌道型)、発電需要の20%確保 2034年3月 世界連邦設立準備委員会設置 2036年4月 WRCO、縮小均衡経済モデル”モデル・2020”発表 |
2034年10月 G−NET上で”ゴースト”事件発生
2035年1月 G−NET、”ゴースト”事件の全情報封鎖 2039年6月 G−NET機械倫理規定制定(非公開) |
2031年12月 WGAIO以外での遺伝情報研究の全面禁止
2032年1月 2010年以降の遺伝子研究関連情報封鎖 2032年4月 WGAIO内でプロジェクト”西行”発足 (非公開) 2037年8月 局所的異性体構造共鳴論議起きる |
2040年 | 2040年1月 WRCOへのエネルギー依存率70%を超える
2045年9月 UNFPA(国連人口基金)発表、世界人口100億人突破 2047年6月 WRCO、35機のゾディアック型フレイヤの廃棄を決定 |
2040年8月 G−NET、プロジェクト“アダマイト”開始(非公開)
2047年5月 “フレイヤ”7号機事故によりG−NETオーストラリア本部消滅 2047年6月 G−NET接続ノードの98%を廃棄 |
2042年9月 論文”Paradigm
of 10th power of 10"流布、作者不明
2047年5月 ゾディアック型フレイヤ10号機(カプリコン3)の制御ユニット落下事故、WGAIO南極研究所消滅 |
2050年 | 2050年4月 総GDP対2000年比が50%を割る
2051年1月 WRCO、縮小均衡経済モデル“モデル・1900”発表 2051年3月 WHO(世界保健機構)発表 餓死者1億人を突破 |
2051年2月 ミルトランジュ法案(包括的遺伝子改変禁止法)成立
2051年3月 WGAIO解散 |
主都の空港から山岳地帯の曲がりくねった道を車で飛ばし、5時間掛けてようやく目的地の人里はなれた山間部にたどり着いた。青年は古びた洋館の前で車からおりると、慣れない山道の運転で軋んだ体をおもいきり伸ばした。
「さあ、着いたよ」
青年は後部座席にうずくまる少女に声をかけた。金色の長い髪にクラシックな白いドレスを着た少女は呼び掛けに答えず、眠っているようだった。
青年は後部座席のドアを開け、眠ったままの少女を抱きかかえた。細く見える体に似合わず力があるのか、青年は片腕で7、8才と思える少女を軽々と胸に抱えたまま、のこる片手で少女の乱れた髪を解きほぐしながら玄関に向かった。
古めかしいノッカーを鳴らすと、年老いた家政婦が出迎え2人を居間へと案内した。
アール・デコ様式で統一された居間のソファーに少女を下ろし、青年は窓から見える庭を眺めながら主人を待った。あまり手入れをされている風ではないが、ひときわ大きなユキヤナギの花が覆いかぶさるように庭を占拠し、その向こうに薄桃色の杏の花がみえた。 青年の店のある国の都会の猥雑な雰囲気とはまるで正反対の、のどかな風景が見渡せた。
「またせたかの」
振り返ると、白いあごヒゲに顔に深いしわを刻んだ老人が入ってきた。足の具合が悪いのか1年前には見なかった杖を片手にしていた。
「名人(マスター)、ご無沙汰しております」青年は慇懃に頭をさげた。
「相変わらず”マスター”と呼ぶんだの、君は」
「未だにマスターを超える職人に会えませんので」
「わしももう、心臓と足にガタのきた、ただのオイボレじゃよ」
老人は少女の座るソファーの隣に腰掛けると、慈しむような手つきで、金色の流れる髪に触れた。
「この娘は?」
「目を覚まさないのです」
老人はゆっくりと少女の顔を覗き込み、しばらく考え込んだ。
「そんなに難しい好みにしたつもりは無かったんだがのう」
「そのような問題ではないようで・・・、いままで何人もの難しいプランツを扱ってきましたが、この娘は客の選り好みをしているのではないようで・・・」
家政婦がお茶を運んできて会話が途切れた。家政婦は紅茶とプランツの為のミルクをテーブルに置いた。ミルクの香りに引かれたのか、眠っていた少女がぼんやりと目を開いた。老人はミルクのカップを少女の手に添えてやった。青く深い海のような瞳は大きく開かれてはいたが、何も映していないようでもあった。老人と青年は少女がミルクを飲みおえるのを静かに待った。ミルクをのみ終えた少女は再びゆっくりと引き込まれるように目を閉じ、そして眠り始めた。
「なにか別のものを待っている・・ ように見えるのですが」青年は会話を再開した。
「何かを待っている・・ 君は調整ミスとは言わないのかね?」
「まさか、マスターに限って」
「わしも、そろそろ引退を考えているオイボレじゃ、調整ミスの一つや二つあってもおかしくは無いがの」
青年は苦笑いしながら答えた。「マスターに引退されては、私も店を閉めなければなりません」
「そんな事もないだろう。人形職人も今では何人かいるだろうし・・」
「しかしマスターほどの腕のたつ職人はおりませんので」
「では、君もそろそろ店を閉めることを考えたまえ・・・君はプランツを売ることにためらいを感じたことはないかね?」
「わたしは、プランツにもお客様にも満足した環境を与えることをモットーとしておりますので」
「君のことは信頼しているよ。君がプランツを大事に扱う客にしか売らないことは承知している」
「マスターは何か・・・」
「わしは、プランツが生物であると同時に機械であることも十分承知している。あれが本当の意味で人間と同じならば、君にも売ったりはしないよ・・・ただ、それでもわしは、たまにプランツを作ることにためらいを感じることがある」
青年も老人の経歴はよく分からなかった。ただ長い付き合いの間の会話から、情報工学系のエンジニアであったことは薄々と気がついていた。プランツが、遺伝子工学、電子工学、情報工学の粋を集めて作られていることは青年も知っていた。しかし、具体的にどこでどうやって作られているのかは、よく知らなかった。青年が知っているのは老人のような調整者(チューナー)であって、製作者(メーカー)に関しては、まるで謎に包まれていた。
「君は、遺伝子工学の断絶(genetic break down)という言葉は知っているか?」
「いえ、存じませんが」
「まあ、昔の話だし、公の資料も無くなってしまったからな・・・」
「マスターは、何故プランツを作り始めたのですか?」青年は長い間の疑問に触れる質問を初めて口にしてみた。
「あれは・・・”遺産”じゃよ」そう話す老人の顔に沈痛の表情が表れた。「いずれ訪れる時代に対するな・・・それとな・・」老人はゆっくりと言葉をつないだ。「・・・遠ざかるほどに、つのる想いというものもあるんじゃよ」
青年は、自分と接触のある調整者達にいつも共通の雰囲気を感じていた。それは彼らが金のためにプランツを作っているという意識を感じさせないことだった。最初の内はそれが職人としての職業意識のなせる業だと思っていた。だが、ある時から青年は、彼らが商売以外のある目的を持って、プランツを制作しているのでないかと感じるようになった。その目的はかいもく見当がつかなかったが、あまりの高額の値段設定と少量生産、プランツが倫理的な拒否感が起きやすいとはいえ売り方にまで注文をつける慎重さ、それらは逆に商売以外の目的を青年に感じさせた。
老人は再び少女の顔を覗き込んだ。
「余計なことを喋りすぎたようだ・・・で、どうしたいんじゃ」
「それは、マスターにお任せします」青年は深々と頭を下げた。「わたくしが至らないばかりにマスターにご迷惑をおかけします」
「きみの所為ではないだろう・・・・ やれやれ、君もなかなか商売人じゃの」
「あいにく、それしか才がないものですから」
老人は杖に身を預けるように立ち上がった。
「まあ、よい。代わりのプランツを連れていきなさい。 といっても、今は1体しかないがね・・・」
あくまでも慇懃な態度を崩さない青年が、別なプランツを連れ、屋敷を辞すころは既に夕闇が迫っていた。老人はソファーに眠る少女を見つめながら、青年が帰りぎわに残した言葉を思い出していた。
――この娘は、時々夢を観ているようでした
プランツの見る夢。それは、長い間プランツを作り続けた老人にも分らない問題だった。老人は少女を膝の上に抱きかかえ、小さな子供をあやすように、ゆっくりと背中を叩いた。
「さて、どうしたもんかの?」
調整は眠った状態でも可能だが、それは調整と呼ぶよりも初期化に近いやり方になる。原因を確かめるには”覚醒”させる必要がある。
老人は長い間悩んだ後、少女の耳元に口を寄せ、そしてゆっくりと”呪文”を囁いた。
―青い天幕 緑の絨毯
それが おまえを つくりしもの
それが おまえの 全て
それが おまえに 必要なもの
そして
それが おまえの 還るところ
長い眠りから目を覚ました少女は不思議そうに老人を見つめていた。老人もまた、少女の青い瞳を見つめていた。
「名前を付けてやらねばな・・・”瑠璃”はどうかな」
遥か遠い昔の記憶が蘇る。それはかつて、自分の娘の名付けを行った遠い遠い記憶だ。
その名前が気に入ったのか、少女は分ったと言うようにかすかにうなずいた。
「なんて、お呼びすればいいの?」
少女のふいの問い掛けに老人は狼狽した。心の中の狼狽を悟られないように、老人は努めて平静を保とうとした。
「わしのことは、好きに呼んでくれてかまわんよ」
少女は少し考える素振りをすると答えた。
「お父様・・・」
「お父様は無理があるな、おじいさんでかまわないよ」老人は笑って答えた。
「おじいちゃま・・・」
「ああ、それがいいな」
老人は心の動揺に気づかれないように、なるべくさりげなく少女に尋ねた。
「言葉は誰におそわったのかい」
少女は良く分からないというふうに首をかしげた。
目覚めたばかりのプランツは、通常ほとんど言葉を喋らない。それは、プランツが言葉を知らないからではない。基本的な会話に必要な言葉はすでに記憶されている。しかし、人と話をするためには”会話”というパターンを学習する必要があるのだ。それには通常2、3年の長い時間を必要とした。
「お店では、どうしていたのかね」
少女はためらいがちに答えた。
「・・・夢をみてたの」
「夢? どんな夢だい」
少女は表情を曇らせた。
「こわい夢、人がたくさん死んじゃうの」
「人がたくさん? どこでだい」
少女は首を振った。
「わかんない・・・でも、わたし空からそれを見ていたの」
何かにおびえる様に、老人の腕にすがりついた。
「だから、わたしこわくて目を覚ませなかったの」
「大丈夫だよ、恐いことはないよ」
老人は安心させるように少女の頭をなでた。
「おじいちゃま・・・わたし不良品なの?」
”不良品”という言葉がプランツの元記憶に存在する筈はなかった。
「瑠璃は、誰にそんな言葉をおそわったのかい?」
少女は再び分からないというように、首を振った。
今にも泣き出しそうな表情の少女を安心させようと、老人は少女を抱きかかえた。
「そんなことはないよ・・・ 大丈夫、大丈夫じゃよ」
あの青年がそんな不用意な言葉を口にするとは思えなかった。客の言葉を半分眠りながら聞いていたのだろうか。
たしかに、通常のプランツの反応とはずいぶん違う、どうしてこんなに精神成熟度が進んでいるのだろうか?
老人は奇妙な違和感を少女に対して感じた。
どんなに人間らしい振る舞いに見えても、プランツの反応というのは機械的なものにすぎない。反応の組み合わせの複雑さ、自己学習による反応の変化。そういったもので、あたかも人間のように感じられる。しかし、それでも設定された反応の域を逸脱することはありえない。
「今日は、おじいちゃんと一緒のベッドに寝よう」
少女は少し安心したのか、嬉しそうに老人にしがみついた。
寝室に連れていき、サイズの合いそうな白いナイトドレスを選んでやった。ドレスのリボンをほどこうと悪戦苦闘する少女の着替えを手伝ってやりながら、老人はこの娘の運動反射設定はどんなもんだったかを思い出そうとした。
まあよい、明日はこの娘のパラメータを確認してやらなければ・・・
表題:”ゴースト”事件における解析とその対応(要約)
機密レベル:AAA 作成日:2035年1月12日 作成:G−NET 開発局プロジェクト5課 野々宮 PL-D
1.経緯
同日17時、捜査局1課は、エリアM4担当支部にて調査を開始。以下の事象を確認。(詳細は文書:GPI1-2034-768-1)
翌6日10時、捜査局1課は、規定21条に基づき情報封鎖および当該ノードに対するアクセス禁止処置を行う。同時に環境保全、データ回収作業を開始。(文書:GPI1-2034-768-2) 6日15時、捜査局1課より開発局5課にデータ解析依頼(文書:GPI1-2034-769-1)
2.解析結果
1)変異軌跡
2)変異点(詳細は文書:GPP5-2035-257-36)
3)ウィルスもしくは第3者介入の可能性
4)ノード間異常モジュール拡散プロセス
5)ノード内モジュール変異プロセス
6)自己増殖性向(モジュール転写プロセス)
7)変異モジュールの動作整合性
8)”バグダット・アバランシェ”との関連性について
3.対応策に対する提言
1)”ゴースト”事件に関する全情報封鎖 2)レイヤー2、3に対する物理的プロテクション対策 3)ゴースト因子に対するトラップ巡回ボットの作成 4)事件解明の為の緊急プロジェクトの設立
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老人が目を覚ました時には、すでにベッドの隣はもぬけの空だった。老人はベッドの上に起き上がると少女の姿を探した。庭につながるガラス戸のカーテンが風に揺れていた。老人は杖をとり、窓に近づきそっとカーテンを開いた。
庭の芝生に少女が立ち、ぼんやりと空を見上げていた。やわらかな朝の光につつまれ、それは1枚の絵画のように美しい風景だった。老人は声を掛けるのをためらい、しばらく少女の姿を眺めていた。
やがて、少女のほうが老人に気がつくと、裸足のまま小走りに戸口に近づいてきた。「おじいちゃま、おはよう」
「ああ、おはよう。お空に何か居たのかい?」
少女は違うと言う様に軽く首をふった。
「どうしてお外にいたのかい?」
「だれかに呼ばれたの・・・ でも、だれもいないの・・・」さみしそうにつぶやくと、少女は老人の腰にしがみついた。
老人は少女の素足を手近にあったタオルで拭いてあげた。「さあ、朝ご飯を食べよう」
少女は暖めたミルクを、老人はコーヒーとトーストの軽い朝食を済ませた。
「ちょっと瑠璃の体の具合を調べたいんだ」老人は研究室へ少女をいざなった。少女は不安そうな表情を浮かべたが、おとなしく老人についていった。
研究室には病院の診察室で使いそうな白い簡易ベッドと、うずたかく積まれた器材が置かれていた。少女を簡易ベッドに寝かせると、首のあたりに沿うようにケーブルにつながれた枕をあてがった。延髄のあたりに高周波電磁誘導によるインターフェースが埋め込まれている。そのインターフェースを経由して身体の不随意反射、運動反射、等の運動係数から生理的代謝係数、精神的な情動係数をコントロールできる。老人は久しぶりに使う器材の電源を入れ、接続関係のチェックを行った。少女は不安そうな面持ちで老人の作業を見つめていた。
老人は少女の不安そうな表情をみると、ベッドの脇に腰掛け小さな手をとった。手のひらが汗ばみ、体中の筋肉が緊張しているのがわかった。おびえを押し殺して、おとなしくベッドに横たわる少女に、老人は愛おしさのような感情を抱いた。
「だいじょうぶだよ、ちょっとだけ瑠璃を調べるだけだから。痛い事もなんにもないし、すぐ終わるよ」
少女はこっくりとうなずいた。
「これが終わったら、ピクニックに行こう。お弁当をもってね。きれいなお花がいっぱい咲いてるよ」
少し安心したのか、わずかに微笑むと目を閉じた。老人は予定を変更して設定の変更は行なわず、読み出し可能なパラメータのダウンロードだけ行なう事にした。
ベッドから解放された少女はうれしそうに庭に出ていった。
老人はダウンロードしたパラメータをファイル化し、アナライザーを起動した。
パラメータといっても、具体的な数値を示すわけではなかった。各機能領域を決定する因子は数十万のモジュールから構成されている。そのモジュールはすべてが均一に機能しているのではなく、活性モジュールと不活性モジュールに分けられる。その2つのモジュールの組み合わせが性格や個性を決定づけることになる。
モジュールの不活性化を遺伝子工学の用語から借用して”メチレーション”と呼んでいた。パラメータとは、そのメチレーションされていない活性モジュールの分布パターンを意味していた。
パラメータを3次元座標の空間軸に対応させディスプレイに投影し、第1象限から第8象限にわたるパラメータのチェックを開始した。
不随意反射、運動反射、神経伝達係数、循環機能指数、生理代謝係数、論理思考性向度、情動性向度、感情移入性向度、フィルターを変更しながら各象限を以前の初期設定状態と比較した。ディスプレイに映し出される、2種類の色分けされた空間分布図の座標軸を回転させながら、老人は初期設定とのあまりの違いに唖然とした。
運動反射と情動性向度の低下が見られ、代わりに論理思考性向度と感情移入性向度が高い。とくに感情移入性向度に関しては桁違いに高く、それを代償するように運動反射と筋力低下がみられた。
目覚めてもいないのにこれほどパターンが変動する原因は老人にも分からなかった。メチレーションのパターンは学習や生活環境により変動することはある。しかし通常はかなりゆっくりとした変化であり、ここまで急激な変動はみられない。しかも、ここまで変動が激しいと設定を変更しただけで完全に元に戻すのは難しい。運動領域係数はともかく精神領域係数は記憶領域まで抵触しかねない、下手な設定変更は行なえなかった。初期化を行なうか、簡単な設定変更でごまかすかは判断の難しいところだ。
老人は庭に面した窓に目を移した。少女はユキヤナギの木の側で、近所のキャベツ畑から飛んできたのであろうモンシロチョウを追っていた。外見上は7歳前後だが、運動能力は5歳位の値になる。あの運動反射値では、チョウを捕まえるのは難しいだろう。
プランツで好まれる設定群を総じて”天使型(エンジェルタイプ)”と呼ぶが、これでは”運動オンチの聖女様”だ。老人は苦笑いをしながらアナライザーの電源を切り、もう少し様子を観る事に決めた。
家政婦にお昼ご飯をバスケットに詰めてもらい、老人は家から1kmほど離れた草原に向かった。車庫からほとんど使用したことのない車を出そうとしたが、老人は家政婦からなるべく運動するようにと注意を受けていたのを思い出した。
杖をつきながら、緩やかな傾斜の道をゆっくりと登りはじめた。少女は小走りに先を進んでは、老人のもとに引き返すことを繰り返し、ときおり早く行こうと言うように、老人のバスケットを持つ手を引っ張った。30分ほど歩くとシロツメ草の咲き群れる日当たりの良い丘の緩斜面についた。
老人は大きなエノキの樹の根本に腰をおろすと、病んだ右足を伸ばした。痛む膝の関節に手をやり、少し息をつくと、少女が心配そうな表情でそばによってきた。
「足、痛いの? 瑠璃がひっぱったから? ・・・ごめんなさい・・・」少女は小さな手のひらで、老人の膝をさすり始めた。
「そうじゃないよ。 心配しなくていいんだよ」少女の頭を撫でた。
少女はそれでもさする手を止めなかった。
「ありがとう。 瑠璃は優しいんだね。ほら、お昼にしよう」
エノキの木陰に敷き布を敷き、少女にはミルクとスミレの花の砂糖菓子、自分にはサンドイッチと赤ワインを取り出した。エノキの新芽から漏れる日差しと牧草を撫でるように吹く風が心地よかった。ミルクをカップに移し、小さなスミレ色の砂糖菓子を口にいれてあげる。自分は生ムとチーズのサンドイッチを食べはじめた。
少女が老人のもつワイングラスを不思議そうに見つめていた。「おじいちゃま、その赤い飲み物はなあに?」日差しに光る赤い色がきれいに見えたのだろう。
「ワインというぶどうから作ったお酒だよ」
「おいしい?」
「おいしいよ」少女が飲みたがっているのは明らかだった。「でも、大人に成らなければ飲めないんだよ」
「どのくらい、おとなになれば飲めるの?」
老人はなんて答えてやれば少女が納得するかちょっと悩んだ。「瑠璃がお嫁さんになる頃なら飲めるよ」あまり納得出来ないようだった。
少女の興味をワインから逸らそうと、老人はシロツメ草の白い花を摘むと花冠を編みはじめた。少女はさっそく興味を示し、自分も編みはじめた。昔、妻が娘に編んでやっていた事を思い出しながら、老人はおぼつかない手つきで茎を結んでいった。不揃いながらも20cm位のリングが出来上がると、少女の頭に被せてあげた。
「おじいちゃま、ありがとう」うれしそうにちょっとポーズをつけた。
たんぽぽや野いちごの花を摘み、チョウやトンボを追いかけて、少女は一日を過ごした。そして、日が傾きかけた頃、ようやく帰り支度を始めた。泥だらけになってしまった白いドレスを見ながら、老人はまた家政婦に小言を貰うはめになったなと、ため息をついた。
おだやかな時間が通りすぎていった。
最初に感じた違和感は、ほとんど気にならなくなっていた。夢におびえて一人で寝る事ができずに、少女は老人と一緒のベッドに寝たがった。それはたいした事ではなかった。
運動量が多く、食事の量とのバランスが気にはなった。しかし、すでに老人は少女を店に戻そうという考えも無くしていた。代謝のバランスだけ考えて、あとは少女の好むものを食事に出しはじめた。それもたいした事ではなかった。
老人は本気で引退を考えていた。
少女と共に眠り、目覚め、食事をする。そうした、おだやかな時間だけが通りすぎていった。
少女がこの家に戻ってきてから1ヶ月ほどのある日、夕食を食べていた老人の耳に気になるニュースが入ってきた。
国立天文台からの情報です。明日午前2時より、フレイヤ・フォールが観測できます。 この天体ショーは、50年前に国連の下部機関であったWRCOが廃棄した、ゾディアック・フレイヤと呼ばれた衛星が落下する際に見られる大流星雨です。天文台によりますと、午前2時から未明にかけて北東の空に約2万もの流星が見られるとのことです。前回のフレイヤ・フォールは7年前に南半球側で観測されました。これは、最後の35台目の衛星にあたりますので、今回の流星雨が最後のフレイヤ・フォールとなります。各地方の天文台などでも観測会を開く予定です。今晩は全国的にほぼ快晴の予報で、各地で壮大な天体ショーが楽しめそうです。 |
あの惨劇の日から50年が経過した。最後のゾディアック・フレイヤが落下する。
老人は食事の手を止め、目を閉じ、遠く過ぎ去ったはずの記憶を探った。その記憶は、50年たった今でも強烈な痛みを伴っていた。
「おじいちゃま、どうしたの?」少女が心配そうにたずねた。
「なんでもないよ、だいじょうぶだよ」だが既に食事を続ける気力は失っていた。
居間のソファーに腰をおろし、老人は再び目を閉じた。
失ったものの大きさを考える事ほど無益なこともない。しかし、老人はそれでも50年前に失ったものの巨大さを想わずにはいられなかった。まして、その責が自分に有るのならば。
400平方kmの巨大な太陽電池パネルが、大気圏に突入し数万の破片に分解する、それが壮大な流星雨となる。今夜は眠れない夜になる、睡眠薬が必要となりそうだった。
少女のすすり泣く声で、老人は目を覚ました。睡眠薬でかすむ頭で老人は闇に目を凝らした。かすかな月明かりに、ベッドの脇に立ちすくみ、しゃくりあげる少女のシルエットがぼんやりと浮かんだ。起き上がろうと体を動かした拍子に、左手に冷たく濡れたシーツの感触を感じた。少女の泣いている理由が分かった。
「・・ご・ごめんなさい・・ごめんなさい・・・」しゃくりあげながら少女が謝る。
老人は起き上がり、少女の側によるためにベッドの縁に座り直した。「いいんだよ、だれもおこったりしないよ」少女の顔を覗き込みながらやさしく髪をなでた。
「ごめんなさい・・・ごめんなさい・・・こわい夢をみたの・・・いなくなっちゃたの・・・それで・・・それで・・・もうしませんから・・・・・ごめんなさい・・・」少女は、なかなか泣き止みそうもなかった。
老人は少女を少しだけつよく抱きしめた。「それで、びっくりしちゃったのかい。ほら、もう泣かなくてもいいよ」
新しいナイトドレスとドロワースを探し、タオルで少女の体を拭いてから、着替えをさせてあげた。シーツの替えは見当たらなかった。濡れたシーツをとりはらい、代わりに大きめのタオルを敷いた。そして、少女を抱き上げ、濡れたところに少女の体が触れない様に、ベッドにそっと横たえた。
少女は小さな子供のように体をちぢこませ、泣きつづけていた。老人は少女を包み込むように背中に腕をまわし、やさしく背中をなぜながら、小さな声でうろ覚えの子守り歌を唄いはじめた。
♪Butterfly,
butterfly,
Whence
do you come?
I know
not, I ask not,
Nor ever
had a home.
Butterfly,
butterfly,
Where do
you go?
Where the
sun shines,
And where
the buds grow.
泣き疲れた少女は、やがて小さな寝息をたてはじめた。柔らかな少女の金色の髪は、陽だまりのにおいがした。そのにおいに包まれて老人もやがて眠りにおちた。
次の日の朝食時、少女はずいぶん元気が無い様子だった。ほとんど会話もせず、ミルクも大分残してしまっていた。意気消沈した少女をみるのは辛かった。運動反射関係の設定だけでも、多少変更してあげれば、随分違うかもしれない。老人はそう考えた。
「また、瑠璃の体の具合を調べたいのだけど。いいかい?」
少女は黙ったまま、うなずいた。そしてすがるような瞳で、老人の服の袖をつかんだ。
ベッドに身を横たえ、少女は目を閉じた。老人はインターフェース装置とアナライザーに電源を入れ、パラメータのダウンロードを開始した。パラメータをファイル化しアナライザー経由でモニターに投影させた。投影されたパターンを眺めた瞬間、老人は自分の作業手順を疑った。モニターに投影されたパターンは別なものではないか、そう思えるほど1ヶ月前と大きく変動していた。
ダウンロードしたパラメータのサイズ、投影する座標軸の対応、各パラメータに対する倍率値まで、しらみつぶしに確認した。だがミスは見つからなかった。
前回のデータと比較するまでもなく、大きく変動しているパターンを前に老人は悩んだ。しかし、この場でいくら悩んでも仕方が無かった。とりあえず所期の目的を達成するべきだ。老人は、運動反射係数と代謝係数の幾つかの設定をわずかに動かした。アナライザー上のパターンを座標回転させながら変化の具合を慎重に観察し、さらに他の象限への干渉度を確認した。アナライザー上で変更値の安全性を十分確認した上で、老人は変更値をインターフェース装置へと転送した。
アラームはその瞬間発生した。モニター上でメッセージが赤く点滅を繰り返していた。初めて見るアラームのメッセージを理解したとき、老人は呆然とした。”認証不正警告”。それは起きるはずのないアラームだった。
老人は転送命令を繰り返した。何度繰り返しても同じアラームが発生した。回避策を検討しようとしたが、そんなものがあるはずも無かった。プランツ側のインターフェースの初段で命令コードの認証が拒否されている。老人はインターフェース初段にあたる、セル・モジュールの履歴をチェックした。モジュールが変更されていた。信じられない事だった。強固なプロテクトを解除しないかぎり変更は出来ない。第三者が外部から書き換えることは、不可能なはずだった。
老人はベッドの上の少女を見た。いつのまにか少女もこちらの様子をうかがっていた。少女はおびえた表情を浮かべていた。
「もう終わったよ。お庭で遊んでおいで」そう答えるのが精いっぱいだった。
少女は、逃げるように部屋を出ていった。自分は今どんな恐ろしい顔をしているのだろうか。だがそれを確認する心の余裕さえなかった。
1ヶ月前のデータを呼び出し、重ねあわせる。場所によってはスケールレベルでの変動が見られる。各設定毎の変化率に分解する。肉体的な設定係数にはそれほど大きな変化は見られない。問題は精神的な領域だった。あまりに極端な変化といえた。これだけの変動を短期間に起こす理由は老人にも分からない。ましてや、これだけの変動を起こして、なぜ少女の性格や行動に破綻を生じないのか、それも分からなかった。
老人は初期設定データ、1ヶ月前のデータ、そして今回のデータ、3つのデータをアナライザーに投入し変異率を算出した。最大70%、変異速度は時間当たり3ppmを超えていた。
しかし3点間のデータだけでは、変異率は計算できても変異動向は計算できないし、原因を追求するにも経時的なデータが必要だった。
老人は寝室の少女の枕にセットした独立型のロガー(自動記録装置)を思い出した。夢にうなされる少女のためにセットして置いたものだった。結局解析に使うこともせずそのまま忘れていた。たいした項目数が記録される訳ではないが、経時的な変化を追うのには十分なはずだった。
枕の中のロガーから、小さなメモリーモジュールを引き抜いた。アナライザーに別なインターフェースを接続し、メモリーモジュールをセットする。ロガーの電池切れのためここ1週間のデータは無かったが、それでも最初の日から20日分のデータが残っていた。
不足分のパラメータを関連情報から補完させ、アナライザーで20日分のパターンを連続表示させた。モニター上で3次元のパターンがうねるように脈動した。
体中の血が引き、目の前が暗くなった。
――イブ因子だ!!
そんなはずはない。そんなはずはなかった。老人は崩れるように椅子にもたれた。あの因子は消滅したはずだ。だが目の前で脈動するパターンは、見間違えようがなかった。
老人は、部屋の片隅の小さな金庫の鍵を開けた。40年前、老人がここに移り住むようになって1度も開けたことのない金庫だった。中には20cm程のガラス板の様な物が入っていた。結晶格子の欠陥によりデータを蓄積する方式のメモリーモジュールだった。
ここに”イブ”が記録されている。そして、もうこの中にしか”イブ”は残されていないはずだった。
ガラス板はすでに透明だった。データを記録すると薄いブルーに変化する。50年の時間の経過が、データを読み出し不能なまでに結晶構造を変質させてしまっていた。
老人は昨夜のニュースを思い出した。最後のゾディアック・フレイヤ型衛星。あの制御コンピュータに”イブ因子”が残っていたかもしれない。だがどうやってそれが少女に転移したのか。そもそもアーキテクチャの異なるユニットに転移できるものなのか。それとも自然発生したのか。すべては謎だった。
何とかしなければならない。老人は考え込んだ。食事の支度を知らせる家政婦を追い払い、老人は考え続けた。だが考えは堂々巡りを続けた。
少女のユニットを書き換える為の認証コードはすでに変異していた。自分の作ったプロテクトに阻まれてしまっていた。
老人は、変異した認証コードを調べはじめた。プランツに組み込んだプロテクト・システムは、もともと老人がオリジナルに作成したものだった。発行する命令に対し、プランツ側から、認証コードが発行される、その認証コードを特定のアルゴリズムの基に計算を行い結果を返却する。その基になる認証コードが変異していた。コードの長さ自体が変異している。これでは、認証コード部分とそれに付随する構造を規定するパラメータ部分を特定させることもできない。
回避手段は見つからなかった。プロテクトを破るのが不可能である事は、そのプロテクトを作った老人自身が一番よく分かっていた。
しかし”イブ因子”をこのまま残すわけにはいかなかった。
飢餓と紛争により累積で10億人の死者を出すことになった、後にダーク・クォーターと呼ばれたあの時代。その時代を迎えるきっかけとなった、”発狂因子・イブ”。
自らの保身の為でなく、あの惨事を二度と繰り返させない為の、情報封鎖とG−NETの再構築に明け暮れたあの10年間の日々。
なぜ今、その”イブ因子”が再び自分の前に出現したのだろう。悪夢をみる思いだった。
すでに、時間は深夜になっていた。少女もすでに眠りに就いているはずだ。
老人は、金庫から40年間使うことのなかった、もう一つの品物を取り出した。大型のレーザーガンだ。マガジンを抜き、中のプラズマ・セルを確認する。安定度の高いプラズマ反応剤は40年経過しても使用可能なはずだった。スライドを引きセルをチャンバーに送り込む。手がかすかに震えていた。
足音を立てないように静かに寝室に入った。ベッド脇のスタンドの小さな明かりをつけた。少女は静かな寝息を立てていた。
どこを撃てばいいか老人は考えた。できれば少女がなにも気がつかないように済ましてしまいたかった。首筋に狙いをつけた。中枢の神経部が一番確実なはずだった。
銃を持つ手が震える。止めようとすればするほど震えは大きくなった。
「ごめんなさい・・・わたしやっぱり不良品だったのね・・」いつの間にか目を覚ましていた少女がぽつりとつぶやいた。
その言葉に老人は凍り付いた。
50年前の惨事、為すすべもなく崩壊したシステム、骨すら見つけてやることのできなかった妻と娘、”イブ”の開発に込めた想い、狂ったように続く笑い声、失くした想い、残された想い、重責に苦悩する日々、老人の脳裏を50年の歳月が通り過ぎていった。
撃たなければ。体中の力を手に集中する。しかし手は凍り付いたように動かない。
銃を下ろすこともできずに、老人はいつまでもいつまでもそこに立ち尽くした。
三章「解-放二蒼穹一」
2047年5月24日、その日私はカナダ南西部エドモント近郊のWRCO(世界資源調整機構)本部に隣接した、フレイヤ・コントロール・センターにいた。”イブ”の診断解析を行うのに必要な独立型のコンピュータシステムを借用するためであった。G−NETにある分散型のシステムはこのような解析用途にはシステムの組み替えに負担が掛かり過ぎる。独立型で最大規模のシステムを持つWRCOのフレイヤ・コントロールセンターにある2台のバックアップシステムの内の1台をG−NETの所長経由で借りる話を付けてもらっていた。
”イブ・ユニット”の最終調整も始まり、比較的時間に余裕ができた私は、イブ・プロジェクト関係者の間、特にG−NETサイドの技術者の間で蔓延していたある問題を解決するために、ごく内輪のプロジェクトを立ち上げていた。それが”イブ因子(ファクター)”のシミュレーション解析であった。
2032年から始められたWGAIO(世界遺伝子管理統合機構)の”西行”プロジェクトは、開始から4年後に大きな問題に直面した。完全な化学合成DNAによる人間の創造を目的としたそのプロジェクトは99%を完成することができた。しかし残り1%の致命的な問題が解決不能のまま残された。”西行”プロジェクトにおいて合成された数十体の合成人間は、生理的代謝機能、免疫機能、間脳を含めた反射機能等、人体の諸器官はすべて正常な機能を示した、しかし脳からは昏睡を示すデルタ波しか検出されなかった。
―なぜ目を覚まさないのか?― WGAIO内部で、生気論、機械論という古典的命題を含めた壮絶な議論が巻き起こった。それは極秘プロジェクトであるにも関わらず、数々の噂や ”スリーピング・ビューティ”という嘲笑を込めたニックネームさえもG−NET側に漏れ伝わってきた。
2040年に、私が主導で開始した”アダマイト”プロジェクトは、1年後にほぼプロジェクトの方向性を固める段階に入った。そしてちょうどその頃、目を覚まさない”スリーピング・ビューティ”に業を煮やしたWGAIO側から接触が図られた。知性を入れる器を欲していた我々と、器に入れる知性を欲していた彼等と、奇妙な利害が一致した。
WGAIOとの共同プロジェクト”イブ”はそうした経緯の基にスタートした。大脳、主に前頭葉と新皮質を置き換える”イブ・ユニット”をG−NETが担当し、”イブ”の肉体(ボディ)をWGAIOが担当、小脳、及び間脳をつなぐ為の電気―化学反応変換インターフェースを共同開発することになった。
そして5年後、5千台のコンピュータとフットボールスタジアムの部屋面積から開始された“アダマイト”は“プロトタイプ・イブ”に移行して50万プロセッサとテニスコートの面積に、最終目標の“イブ・ユニット”は500万プロセッサに8千万の物理回線、そして多重化による1兆の論理チャネルをわずか300ccの容積に収めていた。
”ゴースト”事件の解析を切っ掛けに急速に進んだモジュールの自己変異と、それを抑制するメタルール、プロセッサ間のチャネルの結合強度を軸にした分散記憶の理論、そして事前のスケジューリングを必要としないデータ駆動型の”分散”ではなく”群体”動作と呼ばれた処理プロセス理論は、人工知能の分野に新境地を築いた。
使い古されたAI(人工知能)という用語をさけAE(人工自我)と呼ばれ、それは実際そう呼ぶに値するだけの機能を発揮していた。
”プロトタイプ・イブ”は、すでに12才程度の知能を獲得し本番の”イブ・ユニット”では人間を超える知能獲得が予想されていた。
WGAIOの研究者は手放しでその成功を褒め称えた。しかし当事者であるG−NET側の研究者は、表面上の成功をよそに深い困惑を抱えていた。
自分達の作り出したものが理解出来ない。困惑はその一言に集約できた。もともと私を含めたG−NETの研究者は、”自我”らしき振る舞いをするものを目指していたのであって、”自我”そのものを作れるとは考えていなかったのだ。
自分達が作り出したものが”擬似自我”ではなく、”自我”そのものに近いものではないかと気づいた時、エンジニアとしての葛藤が始まった。自我とは何かという哲学的命題、解決不能な生気論、”神のみぞ知る(ノーバディ・ノーズ)”という宗教的逃避、そういったものがくり返しくり返し研究者のあいだでささやかれた。
私は、”イブ・ユニット”のリーダーとして、この問題に対する解決の糸口を見つけるため”イブ因子”のシミュレーションを開始した。このWRCOの本部のシステムを借用したのは必ずしもシミュレーションが巨大なシステムを必要としたのではなく、G−NETの研究者の目を避けるためでもあった。私の上司であるG−NETの所長と懇意であるフレイヤ・コントロール・センターの所長は、私に対しかなりの便宜を図ってくれた。
作業から1週間が経過し、シミュレーションの前準備は完了した。私は、イブ・プロトタイプから複写したイブ因子(それは、自我の生成前に発生するプロセッサ空間内での脈動する反応パターンを指した)の発展過程を精密にシミュレーションすることにより、何かの発見が出来るのではという漠然とした期待を抱いていた。
午後6時を過ぎ、今日の作業を終了しようとしていた私に一本の電話が入ってきた。オーストラリア北東部にあるG−NET本部の部下からであった。その電話はG−NET回線上のビデオチャンネルを使用せずに、通信衛星回線直通で着信してきた。
「野々宮です」ハンドセットの通話をオンにし、そう答えた。
「クレイマーです。主任、本部がハッキングを受けてます!」いきなり緊迫した声が飛び込んできた。
「ハッキング!? どこからだ?」
「まだ分かりません、本部と外部をつなぐほとんどの回線からハッキングをくらっています。99.9%のトラフィックがハッキングでふさがっちまって回線から電話も掛けられません。この電話も庭から携帯電話で直接通信衛星につないでます。なにせほとんど使っていなかった旧式だからバッテリーも充電してなくて、2、3分しか会話できません」
「管理局と捜査局は?」
「すでに動いていますが、とにかくトラフィックがすごくて身動き出来ないようです」
「部長はどうした?」
「部長は、アメリカに出張してます。移動中なんですが、この有り様じゃ連絡もつけられません」
「分かった。状況によってはここを引き上げるから、ハッキング元が判明したらもう一度連絡をくれ」
「分かりました。今度はバッテリーをちゃんと充電してスタンバってますから。それと主任1時間くらい前から送電が止まってますんで、そっちで状況わかりましたら調べておいてください。今日1日くらいのバックアップはありますけど本部がダウンしたら洒落になりませんから」
「分かった。30分後にそちらから連絡をくれ。最悪”イブ”関係の回線は切断してもかまわんから。それと送電の件は調べておく」
そこまでしゃべったところでバッテリーがちょうど切れたのか、返事の代わりに回線断のトーンが聞こえた。
今迄にも、G−NETに対するハッキング事件は何度かあった。だが、3重のファイヤーウォールに守られ、被害らしい被害を受けた事はなかった。私は、ハッキングよりも給電停止の件が気になった。
現在世界の電力供給の5割はWRCOが管理する太陽発電衛星に依存していた。FF型(静止軌道型フレイヤ)と呼ばれる10GW出力の太陽発電衛星が20機、ZF型(ゾディアック型フレイヤ)と呼ばれる20GW出力の太陽同期軌道衛星が軌道要素毎に12機、3シリーズで36機、計56機が運用されていた。
G−NET本部はFF型衛星からのマイクロ波を、パプアニューギニアの沖合15kmにある直径5kmのレクテナ(受電アンテナ)で受け、直流送電によって電力供給を受けていた。
私は、送電の件を確認するため、内線で秘書を呼びだし所長の所在を確認した。”フレイヤ”のオペレーションルームにいるらしい。今いる部屋のすぐそばであった。
オペレーションルームに入ると、そこはすでに騒然とした雰囲気に包まれていた。オペレータが何かの数値を読み上げる声、ひっきりなしに着信する電話への対応の声、端末があげるアラーム音。
作業するオペレータの背後で苦虫をかみつぶしたような顔で腕組みをしている所長をみつけた。
「G−NET本部への送電が停止している様なんですが」単刀直入に用件を切り出した。
「わかってる! 給電ベースはパプアだろ」憤然とした調子で答えがかえってきた。
「なにが起きたんですか?」
「1時間程前から、FF(静止型フレイヤ)の7号機が停止している。送電も停止して制御もきかん」
「G−NET回線に障害でも?」先ほどのハッキングの件が脳裏をかすめた。
「いや、あれは通信衛星経由の直接回線だからG−NETには関係ないだろう」
目の前のオペレータがうめくようにつぶやいた。「だめです。状態チェック用のコマンドは受け付けますが、制御用のコマンドは全部エラーではじかれます」
「スーパーバイザー・モードは?」
「そいつも駄目です」
その時、内ポケットにいれた携帯電話が鳴り出した。私は邪魔にならないように部屋の隅に移動し、通話をオンにした。今度はG−NET回線経由のようだった。
「野々宮だ」
「クレイマーです。主任、ハッキングはひとまず収まりました」
「被害は?」
「破壊工作(クラッキング)はありませんでした。ただデータは大分持ってかれました。狙いは”プロトタイプ・イブ”です。あいつは通常のファイヤーウォールですから、ハッキングにはかなり弱くて。3番目のファイヤーウォールを突破されてわずか30秒であらかたデータを持ってかれました」
「だが、イブへのアクセス手順はオリジナルだぞ」
「ですから内部に手引き者がいる可能性が強いですね。かなり構造に熟知していなければ30秒は不可能でしょう」
「ハッキング経路は判明したのか?」
「世界中の2万個所から一斉に侵入してきましたから。捜査局がやっきになってますが、洗い出しには大分掛かると思います。データもかなり分解されて持ってかれてますね」
「とにかく、ハッキング元を急いで確定させてくれ」
「分かりました。しかしかなり組織立ったやつですね。プロテクト解除のスピードは、ちょっと信じられないくらいの速さでした」
その時、部屋の中央でオペレータの叫び声があがった。「バーサーカー・モードだ!!」
一瞬部屋の喧騒が止んだ。そのあと揺り返すようにざわめきが広がった。
「送電停止の件はちょっと待ってくれ、回線が復旧しているなら後でこちらから連絡する」返事を待たずに電話を切り、私は所長のもとに詰め寄った。バーサーカー(狂戦士)という用語のまがまがしさが気になった。
「バーサーカー・モードとは何だ?」思わず詰問するような問いかけになった。
「軍用モードだ・・・」所長は呆然としたまま答えた。「20年前の予算の分捕り合戦の結果、国連軍のクリムゾンのバカに無理矢理押し付けられた機能だ・・・」
クリムゾンとは20年前の極右のタカ派で知られた国連軍の将軍だった人間だ。
「送電アンテナの角度が移動しています!レクテナ(受電アンテナ)のガイドビームから外れました」
「方向は!?」所長が怒鳴った。
「南緯度方向に毎分2度、東経方向に毎分マイナス0.8度」
「軸線上の主要施設をピックアップ! 軍用回線を再チェック! 宇宙軍に連絡! 俺の名前で解答要求をだせ!」
「軍用回線にアクセス痕跡はありません」
重い沈黙の時間が経過した。
私は所長に訊ねた。「軍用モードとは言っても、フレイヤの出力は1平方メートルあたり800W位でしょう。武器にはならないんでは?」
「その1万倍だ」所長はぼそっと呟いた。「ビームの直径を10分の1に絞って、夜間送電用のバッテリーを7分で使い切る・・・」
1平方メートル当たり800万W。頭の中で、熱量換算の公式が駆け巡った。6億8千万カロリー、実に1平方メートル当たりの照射量で8.5トンの水が沸騰する。2.4GHz帯域のマイクロ波なら建物のコンクリート材の結晶水が瞬間的に吹っ飛ぶだろう。
「送電アンテナ停止! カウントダウン300からスタート!!」オペレータが再び叫んだ。
「目標座標は!?」
「南緯11度23分43秒、東経142度35分11秒、ヨーク岬トレス海峡付近」
「マップを出せ!!」
全面の大スクリーンに見覚えのあるオーストラリア北東部の地図がでた。赤い輝点を中心にしだいにズームアップされていった。私は胸騒ぎをおぼえた。
「G−NET本部です!!」
オペレータの叫び声に、心臓をわしづかみにされた。
「自爆(セルフクラッシュ)コードは?」
「駄目です、エラーで受け付けません!」
カウントダウンの読み上げが200を切った。
「宇宙軍はどうした!」
その回答の代わりに別な叫び声がオペレータからあがった。「ZFカプリコン3が独立モードに遷移。軌道変更しています!!」
「クソッたれ、次から次へと!! そっちは軌道要素を洗っておけ! 今はFF7を優先だ」
そうだ、本部の人間を避難させなければ。私は携帯電話を取り出すとクレイマーを呼び出した。間に合うだろうか?すでに時間は3分を切っている。呼び出し音を聞きながら、私はエネルギー量と本部ビルの地下4階までのコンクリートの厚さを考えていた。5回ほどの呼び出し音の後に回線がつながった。その瞬間受話器から若い女のけたたましい笑い声が流れた。私は一瞬電話機を見詰め直した。
「クレイマーどうした!返事をしろ」
かん高い笑い声に紛れてとぎれとぎれの声がようやく伝わってきた。
「・・・主任、イブが・・・発狂した・・・」
”発狂”というその言葉を聞いた瞬間、私は”フレイヤ”を暴走させた犯人を理解した。
「クレイマー、警報ランク4を出せ!! 地下に避難しろ。聞こえるか! フレイヤが暴走した。地下に避難するんだ!!」終わらない悲鳴のような笑い声を発する電話に向かって叫んだ。カウントダウンは既に100を切った。
「・・・警報を・・」
電話器からかすかに避難を促す警報の音が流れた。だが絶望的に時間が不足していた。
「急げ!! あと60秒しかない! 平方メートル当たり800万Wのマイクロ波だ。とにかく一番下まで潜れ!!」私の声が届いているか自信はなかった。
階段を駆け降りる音が受話器を通して聞こえる。笑い声は相変わらず聞こえた。館内の放送設備から流れているようだった。
「11・・・10・・・9・・・8・・・」カウントダウンを読み上げる機械音声と、受話器から漏れる狂ったような笑い声だけがオペレーションルームに響いた。だれももう喋ろうとはしなかった。
私は祈るように電話を握り締めた。
「3・・・2・・・1・・・」
”0”の声に少し遅れて電話機から回線断のトーンが流れ出した。
死者124名、行方不明者412名、それが現時点の数値だ。
あの事件から一ヶ月後、私はようやく、かつてG−NET本部のあった場所に帰ることができた。本部ビルはほとんど痕跡を残さず、そこには荒野と呼んでいい風景がひろがっていた。累積で12GWhのエネルギーは、コンクリートの結晶水を吹き飛ばし、鉄骨をも気化させた。そこに、乾季には珍しい雨上りの大地が被害に拍車をかけた。爆発といっていいほどの急激な水蒸気の圧力上昇がもろくなった建物を吹き飛ばし、さらに一旦真空化した中心部への大気の逆流が被害に追い討ちをかけた。水蒸気温度は3千度を超え、最大風速は70mを超えた。本部を中心とした半径2kmは壊滅的な被害をうけた。それは、本部に隣接した宿舎に居た妻と娘をも巻き込んだ。そして、二人の遺体はいまだ発見されていない。
私は当てもなく、本部ビルや宿舎跡の廃虚の周りを歩きまわった。
G−NETに壊滅的な被害を与えたフレイヤ7号機は、その後平常状態を取り戻した。しかし、ZFカプリコン3は、太陽同期軌道である傾斜角67度から毎周回+0.1度の割合でゆっくりと軌道をずらしていった。自律動作モードを持つZF型は、通信回線はオープンしていたが一切の外部制御が不可能な状態だった。動作状況は不明であった。しかし、G−NETへの攻撃の目的が”イブ”の自殺であるならば、ZFカプリコン3の目的地は明白であった。WGAIOの南極研究所、そこでイブのボディとインターフェースが開発されていた。送電アンテナの角度変更の能力から照射可能時間は5日後と計算された。
国連宇宙軍は軌道要素の折り合う17機の迎撃衛星を投入し、自由電子レーザー砲とレールガンによる攻撃を行った。ピンポイント攻撃用の武器による巨大衛星の迎撃は困難を極めた。核ミサイルによる破壊も検討されたが、低軌道で長辺が20kmもある巨大な衛星を核ミサイルで破壊すれば放射能に汚染された大量の破片を大気圏中にばらまく可能性が高かった。総計100回を超えるピンポイント攻撃の末、ようやく送電アンテナの破壊と制御コンピュータの沈黙が確認された。
それで攻撃は回避されたはずだった。
だが、軌道要素が南極研究所と交差する4時間前になると、いきなり制御コンピュータが再動作を開始した。ZFカプリコン3は太陽電池パネルと送電アンテナを本体から切り離した。姿勢制御ブースターと制御中枢だけとなった身軽な本体は、落下軌道へと修正を始めた。
どこからの迎撃ももう間に合わなかった。もともと南極地域は迎撃システムが存在していなかった。オーストラリアとチリの空軍基地から戦闘機がスクランブルした、しかしそれは何の有効手段にもならなかった。
ZFカプリコン3の制御コンピュータは120トンの重量を持つ姿勢制御ブースターを、その複雑な形状に関わらず、みごとな精度でWGAIO研究所に叩き込んだ。爆発エネルギーは半径1km程のクレーターを氷の大地に形成し、本部に隣接した原子力発電所も巻き込んだ。炉心隔壁を破壊された原子炉は緊急停止を行う余裕もなく炉心溶融を引き起こした。そして露出した炉心から大量の汚染水蒸気を吹き上げ、いまだに人の立ち入りを阻んでいた。
G−NET本部の壊滅後、私は出張中で難をのがれた部長と連絡をとり、北アメリカ支部に本部機能を移した。そして本部へのハッキング経路と”フレイヤ”への侵入経路をG−NETの全機能をかけて洗い出しを行った。イブがいつのころから自殺を考え出したのか、どのようにして発狂に至ったのかは、すべてのデータが消失したいまとなっては知りようがなかったが、”自殺”に至る手段の解析は可能だった。
結果はほどなく出た。私がその引き金を引いていたのだ。シミュレーションを行うために持ち出した”イブ因子”がすべての発端だった。
WRCOのシステムから漏れ出した”イブ因子”はネットワークを介して、世界中に自己複写を繰り返した。G−NET本部にハッキングを掛け、本部機能を撹乱するのに十分な2万個の複製ができあがるのに4日間が費やされた。そして”イブ”は、フレイヤ7号機の制御システムを押さえ、ZF型の内部にまで侵入しタイミングを図っていた。
G−NET本部の時間で午前11時、フレイヤ7号機の送電を中止させ、バッテリーのチャージを行い、同時にG−NETに対しハッキングを開始した。直通回線間のわずかな隙間とファイヤーウォールの間をつなぎ、あたかも内部のリクエストによるデータ流入に見せかけた侵入をピンポンのように繰り返させ、わずか1時間で独自のチャンネルを構築し、3重のファイヤーウォールを突破すると、”プロトタイプ・イブ”の全情報を引きずり出した。
G−NETの膨大な空間にばらばらに解放されたイブは、一旦北米エリアのネットワークに集結した。そしてフレイヤ7号機のバーサーカー・モードを起動し、G−NET本部を壊滅させ、ZFカプリコン3を支配下に収めると、再び拡散と自己複写を繰り返した。
我々はイブ因子のパターンを解析しネットワーク上の増殖を押さえ込むためにトラップを掛け続けた。だがすさまじいスピードで自己増殖と自己変異を続けるイブ因子は、仕掛けたトラップをかいくぐり、我々を翻弄した。
自己変異を繰り返しながらも、G−NETの通常機能を損なわずに増殖し続けるイブ因子は、5日後には全ノードの97%にまで侵入していた。家庭の冷蔵庫から36機のZF型衛星にいたるG−NETに接続されたありとあらゆる150億台の端末が感染した。
そしてイブは、ZFカプリコン3によるWGAIO南極研究所の破壊を確認した瞬間、いきなり通常のOS部を巻き込むかたちで150億の端末から自己消去を行った。イブ因子の侵入を受けていた全てのノードと端末が機能停止した。イブ因子の検出と消去手段の解析に全勢力を傾けていた我々は呆然とするほかなかった。
確認不可能な35機のZF型衛星の制御コンピュータを除く総てのG−NET接続端末からイブ因子は消滅した。
イブ因子の自己消滅によるノードOSの消失により、ほとんど全ての通信と情報流通手段を喪った世界の混乱は大きかった。金融、商業、工業生産、情報、流通、ほとんどの産業が壊滅的な被害をうけた。
システムをインストールし直すことは原理的には難しいことではない。しかしネットワークコアまでも失った端末に再インストールを行うためには、人手による作業を行うしか手段がなかった。我々は一週間を費やし、北アメリカ支部を中心とした150個所の支部間の第1階層ネットワークを復旧させた。だがその後2週間で復旧できた第2階層は10%にも満たなかった。第5階層に至る150億の端末に対する復旧の目処は何年掛かりになるか予想もつかなかった。
ZFカプリコン3の落下事故の後、WRCOではイブ因子の侵入を受けた他のZF型35機の処分の検討作業を行っていた。正常運行を続けてはいたが、通信回線は途絶し、イブ因子の存在確認もできなかった。
35機のZF型衛星の処分を巡って、国連軍とWRCOとの間で揉め始めた。送電アンテナを焼損させて使用不可能となったFF型7号機、落下したZFカプリコン3、2機の発電衛星を失っていたWRCOは、この上に35機の発電衛星の損失は避けたかった。しかし国連軍はシステムの確認も不可能で、いつ頭上に落ちるかもしれない巨大衛星をこのまま放置することに対し強硬に反対した。確かに正常運行しているとはいえ、すでに制御も通信も途絶した発電衛星の安全性を保証することなど不可能だった。結局、国連軍の意見に押されるように、ZF型35機の破壊が決定された。
その決定が正式に発表されると時を同じくして、35機のZF型衛星はいきなり送電を停止し、姿勢制御ブースターと送電アンテナを本体から切り離した。ZFカプリコン3の時と違い、制御コンピュータは太陽電池パネルと共に残された。切り離された姿勢制御ブースターと送電アンテナは、特に落下軌道を取るでもなく、ほぼ法線上を漂い出していた。
自らの手足をもいだ理由は良く分からなかったが、取りあえずの危険は去った。
だが世界は電力供給源の4割を喪失した。
私は、足元のコンクリート片を拾い上げた。結晶水を失ったコンクリートは手の中でもろく崩れ、風に飛ばされていった。
死者124名、行方不明者412名、10GWの太陽発電衛星35機、G−NETの接続ノード150億、そして最愛の妻と娘。失ったものは現時点でそれが総てだ。
WRCOは、電力供給の4割減とG−NET回線の不通の影響により、5年後の総GDP対2000年比は60%なるだろうとの予測を発表した。
失われたものを取り戻す日は、いつか訪れるかもしれない。けれど、私は荒野を渡る風の中で立ちすくみ、失ったものの大きさをいつまでもいつまでも考え続けていた。
空はもう夏の色をしていた。
青年は短い雨季の明けた、抜けるような青空を見つめていた。
かたわらの黒いドレスを着た少女が、すがるような瞳で青年にしがみついていた。
青年が”マスター”と呼んでいた老人が亡くなった。当初、心臓発作による病死と診断されたが、その後故意に飲むのを止めていたと思われる心臓の薬と、青年と弁護士に宛てた遺言書の文面から自殺と判断された。
老人の遺言書には、資産の9割を少女に相続させる事、少女が成人するまでの後見人として青年を指定する事、その代償として資産の1割を与える事が記載されていた。資産の1割でもかなり膨大な金額であったが、店の経営も順調な青年にとって老人の資産自体はあまり興味がなかった。青年が少女の後見人を引き受けた理由は、おそらく偽造であろう少女の出生証明書とともに添付されていた老人からの長い手紙の内容に動かされた為だった。
それは真の遺言書とも、老人の告悔ともとれる手紙だった。惨劇の時から50年、その始まりから、プランツ制作に至る過程、瑠璃と名づけられたこの少女にはプランツとしての特性設定が解除されていること、そしてこの少女を人間として育ててやって欲しい。手紙にはそのような事が淡々と書かれていた。
青年にとって、あのフレイヤ・フォールから始まるダーク・クォーターと呼ばれた時代は、過去のものでしかなかった。
老人の手紙を世の中に公表するつもりはなかった。ただこの少女にはいつか伝えなければならない日が訪れるだろう。その日のために、青年は少女の後見人を引き受けたのだ。
この国の宗教の習慣にしたがい、青年は細い香を手向け、墓碑の前で手を合わせた。
「おじいちゃまは、どうしちゃったの?」少女が泣きそうな表情で青年にたずねた。
人の死というものはまだ良く分からないかも知れない。青年は少女を抱き上げた。
「おじいさんはね、解放されたんだよ・・・きっと」そう答えたものの、青年は少女にその意味をどう答えてやれば良いのか分からなかった。
「・・・どこへ?」少女が訊ねた。
その答えを青年もまだ知らない。
「あの、お空かも知れないね・・・」
少女は、青年の腕の中で青く広がる空を見上げた。けれども少女の探すものは、そこに見えなかった。
洋館へと続くなだらかな山道を、大きなトランクを携え少女が歩いていた。少し大きなトランクを持てあましぎみに、休み休みゆっくりと山道を登っていた。
すでに子供の体ではないが、かといって大人に成りきったわけでもなかった。
青年のもとで店を手伝いながら、少女は普通の人間として誰に気づかれることなく生活していた。
けれど成長するに従い、あの洋館での出来事が少女の心の中でゆっくりと澱のように沈澱していった。自分がプランツである事に何も疑問を持たずに過ごした老人との日々。人間として生きるようになってからの日々。やがて、その二つの日々が、少女の中で深い亀裂を形作っていった。
少女は老人があの長い年月に、何を想い、何を願い、過ごし生きてきたのかを知りたかった。あの遠い日に惨劇を引き起こした研究を、なぜ続けていたのか知りたかった。そして自分がプランツとして生まれ死んでゆくことの意味を知りたいと思った。そのために老人が創り、残したもの、果たせなかったもの、全ての”遺産”を引き継ごうと考えた。
青年の店を出て、今日からあの洋館で暮らすのだ。
楡の並木を通り、秋萩の咲き群れる道を抜け、やがて丘の頂にでる。むかし遊んだエノキの大木が見えた。すこし下った辺りには遠く洋館も見えた。
眼前に弓のように弧を描いた青空が広がる。立ち止まり青空を眺めていた少女の頭の中に一つの言葉が浮かんだ。
―青い天幕 緑の絨毯・・・・
それは、遠い昔にどこかで聞いたはずの、解放の呪文だった。
ECG:Economic
Commission for Globalの略
為替相場の安定を目的に設立。投機的市場介入の制限策を行うが機能的には不十分となった。
ネオ・モンロー主義:アメリカに直接利害が無い国際紛争、経済政策に対し不干渉の立場を主張。これ以降、アメリカの閉鎖主義的傾向が頻発する
選択的報復関税制度:経済制裁として大統領権限で輸入国特定で最大1000%の関税設定を行う政策。
IMIPC:International Money Integrated Preparation Commissionの略 投機的市場介入を防止するため、世界的通貨統合と国際間流通に関する保証制度の確立を目的として発足する。
4大経済ブロック:欧州連合(EU)、全アメリカ連合(AAU)、西アジア連合(WAEU)、東アジア経済連合(EAEU)
総GDP対2000年比:AGR2000とも呼ばれる。西暦2000年の総GDP額に対する比率をパーセンテージで示す。
WRCO:World
Resource Coordinating Organizationの略
世界の環境、資源の管理を目的とした組織。後にエネルギー供給管理の機能を併せ持つようになる。世界食料計画(WFP)、世界銀行(IBRD)、国連環境計画(UNEP)が母体となる。
ゼロサム・モデル:埋蔵資源、農業生産、エネルギー生産と人口、エネルギー消費の総和ゼロを目標とした経済・環境モデル
フレイヤ:太陽発電衛星による電力供給を行うプロジェクト。当初はプロジェクト名を指したが後には発電衛星を総称してフレイヤと呼ばれるようになる。”フレイヤ”の名称は北欧神話の女神の名前から取られた
ザメンホフ・プロジェクト:イスラエルの提唱により国連内部で組織された国際統一言語作成機関。
東西アジア大戦:中国、カザフスタン、キルギス3カ国をまたがる大油田の採掘権から勃発した。西アジア連合、東アジア経済連合を巻き込む大戦へと移行。直接参戦12カ国、経済制裁参加40カ国に及んだ。
史上3番目の核兵器:広島、長崎についで史上3番目となった核兵器は中国・カザフスタン国境線上で、中国軍側により使用された。政府の承認なしで前線部隊の独自判断による使用とされるが、詳細は不明。
史上4番目の核兵器:大規模な混乱状態の最中、中国・キルギス国境付近で使用された。西アジア連合軍による報復的使用とされるが、軍事介入した国連軍によって使用されたとする説もある。
太陽同期軌道:人工衛星の軌道要素。黄道面に垂直な軌道面(傾斜角67度)を持ち、常に太陽面を前面とする周期要素も持つ。
ディプロイOS:ネットワーク間でのオブジェクトライブラリー共有が可能な初の市販OS
プロジェクト・コロニー:インターネットを利用した環境シミュレーション協調実験。1億台のコンピュータを接続し、100年後までの均衡環境モデルのシミュレーションを行った。
G−NET:グローバル・ネットワークの略。元々インターネットの組織移管後の仮称が、ネットワークそのものと組織名両方を示すようになった。
ジャガーノート・ウィルス:OSの修正差分モジュールに組み込まれたウィルス。潜伏期間の6カ月経過後3億台に被害を与えた。
オルターOS:ネットワーク負荷、ディスク負荷、メモリ負荷のバランスを自動調整する機能を持つ。後に基本機能がユグドラシルに組み込まれる。
ユグドラシルOS:2055年までG−NET上で使用された、端末、ノード統合型OS
スウォーム:群体処理とも言う。事前の並列化スケジューリングを不要とした分散処理理論。問題分解、解法手順、組織化をネットワーク中の別コンピュータに依存させる方式。
バグダット・アバランシェ:バグダットにある1台の端末の障害からドミノ倒し的に全ネットワーク上に被害が波及した事件。当初コンピュータウィルスが原因とされたが後にOS上のバグと判明。
ゴースト事件:G−NET上に突然出現した、腫瘍性異常増殖モジュール。通信手順を自己変異させ独自の手順でモジュール間制御を行い、半年間極東エリアを機能停止させた。
機械倫理規定:動作の予測が計算不可能な形式での自己変更アルゴリズムの組み込み禁止が基本事項
アダマイト:G−NET開発局で行われた、人工自我プロジェクト。”アダマイト”はアダムの末裔の意味。
GENWG:GENetic
problem study Working Groupの略
各国で行われていた遺伝子関係の研究を管理統括する組織設立の為の準備委員会。後のWGAIOの母体となる。
WGAIO:World
Gene Administration Integrated Organizationの略
各国で行われていた遺伝子関係の研究を管理統括する目的で設立された。
始皇:秦の始皇帝の名から付けられた不老薬。20%の老化進行を遅らせるとのふれこみで中国生命化学公司から発売された。その後3割の確率で後天的γ鎖グロビン発現性貧血症が発生し、使用禁止となる。
完全化学合成DNA:DNA塩基ライブラリーとビルダーから合成されたDNA。sDNAと表記する。
生物倫理規定:23番染色体に関する分析と改変、生殖細胞操作、化学合成DNAの使用に関する規定からなる。
西行プロジェクト:合成人間の製造を目的にWGAIOが行ったプロジェクト。2040年に中断される。詳細は不明。
論文”Paradigm of 10th power of 10":固体数が100億に到達した群は、集団としての独自の機能と意識を持つ事を主張した論文。ネットワーク上に流布し、作者不明、かつ原文データも消失している。
プランツ:プランツドールの略。一部好事家の間で知られる生きた人形。ミルクと砂糖菓子と愛情を栄養に成長する。詳しい生態は不明。
ダーク・クォーター:2047年のフレイヤ・フォールから始まる騒乱の時代を指す。一般的には2047年〜2075年迄。
生気論:生命現象は非生命現象とは別な独自の法則を持っているとする立場
機械論:生命現象も機械と同じような物理化学法則に還元できるとする立場