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エア

よもつ へぐい
―黄泉戸喫―

藤下真潮 著
ヒロヤス 絵
 

   


 


伊邪那岐命語りて曰く。「愛しい我妻よ。私と貴女の
国作りはまだ終わっていません。帰りましょう」
伊邪那美命答えて曰く。「残念です。もっと速く来て
頂けたら良かったのですが。私は黄泉戸喫してしまいました。
しかし愛しい我が夫に来て頂いた事は怖れ多いことです。
帰りたいと思います。黄泉神と相談しますので、
しばらくの間私を視ないでください」
『古事記』
 
 

□□□□□

 

 

プロローグ  









 木枯らしが吹き始めた街路の石畳を歩くと体の芯から寒さが染み込む。鈍色の空は雪を降らせそうで降らせない。私はこの季節が嫌いだ。12月初旬という中途半端なこの季節になると、戦場で受けた脇腹の古傷が痛み出す。私は早く用事を済ませ暖かいカフェにでも入ろうと、郵便局への道を急いだ。

 2102年11月28日、晩秋のドイツ・ミュンヘンで一人の遺伝子工学者が死去した。 ”カール・ミッドマイヤー”それが彼の名前だった。

 私は生前、彼の管財人をしていた会計士である。今は彼の顧問弁護士と共に財団の設立と死後の遺産処理に明け暮れている。財団は彼の莫大な資産の半分を運用して、年に一度遺伝子工学関係に多大な貢献をした学者に賞を授与するためのものだった。すでに理事の選任を終え、後は資産運用等の経理面を信託銀行に引き継げば、私の仕事は終わる。

 残り半分の遺産処理も手続き上の問題としては、ほとんど難しい問題はなかった。残りの半分の遺産を総て現金化し、スイスのとある銀行口座に振り込む、その後に口座を閉鎖する。その口座は、彼の生前にも時折、かなりの金額の振り込みを行っていた。顧問会計士の責任として、その資金の振り込み先を彼に問いただしたこともあるが、確たる回答も得られなかった。自分でも調査してみたが、幾つかの中間経由口座を介しているため最終的な資金の振り込み先はついに分からなかった。

 厄介だったのは贈与税の問題だった。遺産を得体の知れない口座に放り込んだりすれば脱税の疑いを掛けられのが関の山だ。振込先を明確にしたところで莫大な贈与税を取られてしまう。私は弁護士と相談して利害関係がややこしく入り組み休眠状態になった建前だけの公益法人団体の名義を買い取り、そこをトンネルとして遺言で指定された口座に振り込み、なんとか寄付として処理する事に成功させた。ほとんど法律すれすれの荒業だった。

 振り込み先が犯罪がらみでなければ構わないと自分自身に言い聞かせてはいたが、市井に降りた学者としては、あまりに大きすぎる資金の出入りに常に不信感は持っていた。

 彼の研究内容など、専門外の会計士にはおよそ理解できるものではなかったが、製薬会社との付き合いや特許収入もない遺伝子工学者にそれほどの収入が期待できるとも思えなかった。

 郵便局の重いドアを開けると、暖かい空気が私の身を包んだ。カウンター上で郵便物の束を広げ、宛先の国別に分類する。色々な国向けの郵便物のなかにひときわ分厚い、受取到着確認を指定する物があった。アドレスにはJapanと記載されていた。アジアの事などほとんど知らない私には、宛名の”NONOMIYA RURI"が女性名であるのか男性名であるのかもよく分からなかった。ただ厳重な梱包のためずいぶんな料金を請求された。

 宛先のJapanの国名を見て、私は今朝会ったサイエンス・ライターのことを思い出した。遺伝子工学者の訃報を聞いて訪ねてきたフリーのサイエンス・ライターは、私に研究内容や交際の有った学者の名前を聞きたがった。その会話の中に日本人の情報工学者の名前が有ったような気がした。しかし普段耳慣れないその日本人の名前は失念していた。

 もとより専門外の私に、サイエンス・ライターが期待するような内容を話すことなどできるはずもなく、逆に私はライターから彼がフレイヤ・フォールの時代を生き残った高名な遺伝子工学者であったことを教えられる始末だった。結局、わたしに出来たことといえば一般公開用に指定されていた遺言書の写しをライターへ渡すことくらいであった。

 『若干の後悔が残るとは言え、私は私のすべき事はやり終えた。あとは未来が選択するべきであろう』この意味不明の言葉が、その遺言書の内容の総てであった。


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第1章『共感能(エンパシー)』










 調子の悪いLIPS(3次元レーザー干渉型投影装置)に悪態を吐くと、彼は大きな欠伸をした。朝から繰り返し続けたシミュレーションも何も新しい事項が発見できなかった。だがまだサンプルはうんざりするほど残っていた。

 「次」彼は遺伝子シミュレーターに命令した。ピッという電子音が鳴り、彼の命令に対する了解が示された。空間上にサンプルナンバーが浮かぶ。一番右端のキャラクターは色が滲み、エッジにもボケが出ていた。

 「7・・・q32」縞模様に色分けされた棒状の物体が空間上に投影表示される。そして下側の端がズームアップされる。

 「Rネガティブ・・・ボトムから1,2移動・・・ズーム・イン」染色体の縞模様の一部にマーカーが表示される。全体が左にシフトした後、マーク部のズーム・イン画像が右側に表示される。

 「アルー・マーク・オン・・・5ダウン・・・1アップ・・・ズーム・イン」アルー制限酵素による分断位置にマークが表示される。

 「ラベル・オン・・・2kベース(塩基対)ダウン・・・ズーム・イン」機能単位の遺伝子領域にラベルが表示される。そして、DNAの螺旋構造が確認できるまでズームが進む。

 「コドン表示・・・ダウン・サーチ停止コドン・・・」分子構造図から塩基名記号と対応するアミノ酸記号に表示が切り替わる。

 「サンプル44B比較」もう一つ別な構造図が表示され、最初の構造図と重なる。右下に合致度が表示される。99.99%。構造図が急スピードでスクロールし赤いマークの位置で止まる。停止コドンの位置が2塩基ほど微妙にずれている。

 「ズーム・アウト・レベル5・・・プロテイン・ラベリング・オン」画像が縮小され、単一タンパク遺伝子、調節遺伝子、機能性タンパク合成遺伝子、未機能遺伝子、それぞれが細かく色分けされ始める。

 「シミュレート・スタート」

 パーテーションの扉をノックする音がした。

 「どうぞ・・・」

 「よお、アルフ。ずいぶんにぎやかだと思ったら、音声オペレートか?」同僚のカルロスが扉の隙間から頭を出した。

 「ああ、カルロス。うるさかったかい?」アルフはシミュレータの音声入力のスイッチを切りながら答えた。「すまんな、モーション・コントローラーの調子がよくないんだ」

 「いや、それは別に構わんのだが。修理に出したらどうだ?」人なつっこそうな笑顔でそう言った。アルフはこのラテン系で米国出身ドイツ籍というややこしい出自のカルロスの陽気で開けっぴろげな性格を妙に気に入っていた。

 「その間休暇でもくれるなら、そうするさ・・・立ってないで座れよ」アルフはコンパートメント内に余分に置いてある椅子をカルロスに勧めた。

 「どうだい、何か成果は出たかい」カルロスは椅子の背もたれを前面にして抱えるような格好で座った。

 「成果!? そんなもんは見たことも触ったことも食ったこともないぞ。毎日毎日同じ事の繰り返しだ。俺はもう、うんざりしたよ」ひたすら同じ結果を見続ける事への正直な感想だった。

 「そう言うな、アルフ。俺達の仕事は価値が有ることだぞ」

 「わかっている・・・」

 進行性分化不全症候群(progressive differentiation malfunction syndrome)、略称としてPDMS。それが、アルフの追っている病気の名前だった。20年前初めてこの症例が報告されたとき、この病気は熱帯性の出血熱の様な、ある種のウィルスに依るものと思われた。味覚異常から始まり、全身の倦怠感、そして吐血、内臓出血、全身出血というプロセスを経てやがて死に至る。発症後の致死確率は100%という驚異的な高さながら、感染力が低いと見られたため当初はあまり話題になることもなかった。だがいくら患者の血液を調べてもウィルス、細菌、スピロヘータ、寄生虫はおろか毒素反応も検出できない。やがてこの病気は医学界のミステリーとして取り扱われるようになった。

 最初の症例発見から5年後、ある学者が死亡した患者のぼろぼろになった血管の組織培養中に、血管細胞に混ざってかなりの比率で皮膚細胞が混入しているのを発見した。患者の全身部位の組織がチェックされた。その結果幾つかの事項が判明した。全身の組織中で異常な部位の細胞の存在が認められた。ただし異常なのは存在部位であって細胞自体のガン化は認められない。代謝の早い細胞部位ほど異常部位細胞の比率が高かった。末期には消化器系の上皮細胞、血管壁の平滑筋細胞、骨髄、そういった部位は目視でも確認できる程病変が進むケースもあったが、全般的には異常細胞がコロニーを形成しないため目視での診断は難しく、患者が異常を訴える頃にはかなり病気が進行しているケースが多かった。

 だが、結果の詳細が判明しただけで原因も治療法も分からない。細胞分化の異常があることから遺伝子解析がすぐさま行われた。だがいくら正常な遺伝子と比較しても明示可能な差異は見いだせなかった。電気泳動法だけでなくシーケンサーを使いコドン単位での比較解析も進められた。それでも納得できる発症プロセスどころか異常遺伝子の特定すら出来なかった。

 血縁関係や経歴などのデータから、統計学的手法も使われたが有効なデータは見いだせなかった。

 そして、医学界が手をこまねいている内に、発症件数はじわじわ上がって行った。倍増とはいかないが年率3割弱程度ずつ患者数が増え続けていた。このままのペースで行けば100年後には人口ゼロになるだろう。

 2160年現在、累積患者数は1万人の大台を越えた。

 「カルロス。”始皇”ってやつの話は知っているか?」シミュレータの結果を整理しながら、アルフは尋ねた。

 「サイエンス・ライターが喜びそうなヨタ話のひとつだろ」

 「どう思う?」

 「100年も昔に流行った薬だ、今更遺伝発症するメカニズムは考え難いな。組成のひとつも分かっていれば判断できるが、その情報もフレイヤ・フォールで吹っ飛んでいるんでは話にならん」

 「すべては”ジェネティック・ブレークダウン”の向こう側か・・・フレイヤ・フォール以前の遺伝子工学は今よりかなり進んでいたという話は本当かな?」

 「多分な。俺はそう思っている。当時WGAIOって所には最先端の遺伝子工学者と封鎖した全資料が集まっていたそうだ。それが衛星落下で吹っ飛んだんだ、しかもその後40年も遺伝子関係の研究が禁止されれば技術も後退するというもんだ」

 「それにしたって、もう少し資料が残っていそうなものだが・・・」

 「当時の時点で資料関係の電子化というのはかなり進んでいたらしい。しかもネットワーク中に流通していた遺伝子関係資料をG−NETの連中がトラップを仕込んで全封鎖したらしい。当時はそういう強権も発動できたらしいな」カルロスは椅子の背もたれをその巨体でギシギシいわせながら体を揺らした。「なんだって今頃”始皇”なんて話をするんだ?」

 「いや、さっき読んだ記事の中に”YOMOTSU HEGUI"という言葉が出てくるんだ」

 「なんだいそりゃ?」

 「”YOMOTSU”というのはウンターベルト(冥界)のことらしい。”HEGUI”というのは、その国で調理された食べ物を食べることを言うらしい」

 「で? 食べるとどうなるんだ?」

 「死の国の住人になるらしい」

 「なるほど。人類はいつの間にか”YOMOTSU HEGUI”してしまったという訳か?」

 「そういうことだ」

 「そいつはいい。それで、その食い物が”始皇”って訳か・・・その記事を書いたサイエンス・ライターはオカルト・ライターに転向した方がいいな」愉快そうにカルロスが笑った。

 「俺は妙に納得してしまったんだ・・・」アルフはカルロスの笑いにつられた様に苦笑いを浮かべた。

 「そんな辛気くさい話は忘れちまえ。PDMSの謎は俺達が解明するさ」カルロスは一層豪快に笑った。「そんな事よりも、良いものを手に入れたぞ」カルロスがポケットから透明なプラスチックのプレートを取り出してアルフの目の前に突き出した。コンサートのチケットに使用される、ホログラフ画像が入ったデータプレートだった。

 「マリアか!?」

 「そのとおり!」

 「よく手に入ったな・・・」

 「あらゆるコネを使った。お前の分もある。感謝しろよ」カルロスは椅子から立ち上がり、シミュレーターのユニットへ手を伸ばした。「ちょっとディスプレイを借りるぞ」

 「ああ、かまわんよ」

 シミュレーターといっても遺伝子解析専用装置というわけではない、コンピューターとしてもホログラフの投影装置としても使用できる。

 カルロスはプレートの一枚をデータプレートのリーダーに差し込んだ。右手を装置の前面のカメラの前で振った。ピッという電子音が応えた。さらに幾つかの指を折り畳み、手話の様に複雑な振りを加えた。空間上にデータプレートの読み込みを開始するメッセージが表示された。

 「なんだ、モーション・コントローラー動くじゃないか」

 「どうも、俺が使うと調子が悪いらしいな」

 「嫌われてんじゃないのか?」カルロスが笑った。

 「どうもそうらしい」

 マリアというのは、カルロスがお気に入りの歌手だった。古典的な歌唱法で豊かな声量と素晴らしく透き通った声、それですこぶる美形と来ている。しかも、デビューして1年も経過すると一切の放送メディアを拒否し、コンサート中心に切り替えた。今では記録メディアかコンサートに行かなければお目にかかれない。そのコンサートも散発的に、しかもマイクなどの拡声装置を使用しない為に音響効果の良い、中規模なホールでしか行われなかった。年齢、国籍不詳、そしてリサイタルごとに髪の色から目の色まで変える徹底ぶり。伝説の歌手の伝説たる所以だ。もっとも年齢はどう見ても二十歳は超えていない。

 マリアの歌のテーマは”癒し”といわれていた。ことさら詩やメロディがその手の系統であるわけではない。どちらかといえば古い民謡やクラシカルなごく平凡な選曲が多かった。しかし歌を聞く人間の多く、特に熱狂的なファンは彼女の中に”癒し”を見いだすようで、曰く”心の癒し”、”魂の救済”、必ずその手の形容詞が付きまとった。カルロスもまた、その手の熱狂的なファンの一人であった。

 黒い壁を背景に、小さな少女の3次元映像が浮かび上がった。流れるような金髪に、半袖の白いドレス。腕を差し伸べるように広げ、やがて歌が流れ出した。メンデルスゾーン「歌の翼に」だった。その歌を聴いた瞬間アルフは胸を締め付けられるような気分に襲われた。感動という言葉と別次元な、ただ奇妙な落ち着かない感覚だった。

 「どうだ、アルフ・・・良いだろう」映像を見つめながらカルロスが問いかけてきた。

 「ああ・・・」アルフは気の乗らない風に生返事した。

 「どうした、顔色が悪いぞ」

 「いや、ちょっと風邪気味らしい」そう言ってごまかした。

 「早く帰ったほうが良いぞ。たちの悪い風邪が流行っているらしい・・・熱いラムにバターでも浮かして飲んで、早いとこ寝ちまえ」

 「遺伝子工学者が二人雁首そろえて、風邪にはホットラムか? 医学の進歩ってやつもたいしたもんだな」風邪の予防薬や治療薬が無いわけではない。ただし、予防薬はウィルスタイプ毎に何十種類とある抗体活性剤のどれを接種すれば良いか問題だし、治療薬と成りそうな抗体選択性免疫活性剤は、下手に使えば死亡率10%の代物だった。

 「今夜は雪になりそうだ。俺も早く帰って寝るか・・・」カルロスはそう言いながら、リーダーから引き抜いたデータプレートを投げてよこした。「いい夢でも見るんだな」

 研究所は旧ドイツ陸軍駐屯地跡に作られた大学校内のかつてシェルターとして使用されていた地下50mの施設内にあった。一応レベル4の生物実験可能な認定を受けていたが、レベル4実験の実績はほとんど無かった。

 形ばかりの減圧装置が付いたごつくて遅いエレベーターを降りると、外はみぞれ混じりの雨が降っていた。アルフはコートのフードで雨を避け、薄暗い街灯を頼りにキャンパスを横切った。

 カルロスの仕入れてきたチケットは、プラチナチケットとはいえ、相場からすればそう高いものではなかった。しかし、大学の研究助手などという薄給の見本みたいな給料から考えればかなりの出費といえた。

 それでもマリアのコンサートの誘いを受けたのは、先ほどの奇妙な感覚のせいだ。程度の差こそあるが、マリアの歌を聞くたびに奇妙な感覚は感じていた。初めて彼女の歌を聞いた時は、気分が悪くなり嘔吐したほどだった。最初は単に体調の問題だろうと考えていた。不快・嫌悪・絶望、そのどれとも違う奇妙な違和感。その後、気分が悪くなることはなくなったが違和感はますます強くなっていった。苦痛・悲哀・愛惜、自分の感覚をうまく言い表せないもどかしさ。なぜ自分だけが彼女の歌にそんな違和感を覚えるのか、アルフはそれを知りたいと思った。

 雨が街路の石畳を叩く。雨脚が強くなると共に帰途の足取りは速くなった。

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 500人を収容するホールは完全に満席になっていた。石造りの古いコンサートホールは、収容人数は少ないが、音響効果はかなり考えられた設計だった。リサイタルはピアノとバイオリンとセロという簡単な伴奏で電気的な拡声器を用いずに行われた。マリアは黒い髪に黒い瞳、そして燃えるような赤いドレス。オリジナルの曲と古典的な声楽曲をミックスし、豊かな声量、歌唱力、そして表現力。技術的には文句の付けようのない素晴らしいリサイタルだった。

 だが今度は明らかに気のせいなどでなく、気分が悪くなってきた。一曲目からはっきりと頭痛が始まり、冷や汗が流れ出した。癒しどころではない、会場全体に渦巻く情念のようなものに締め上げられるような気分だった。幕間の休憩の際、このまま帰ってしまおうかとも考えたが、ロビーの冷えた空気にさらされるうちに気分は若干良くなった。このまま最後まで聞こうと腹を括った。

 だがそれが失敗だった。

 後半部になると気分の悪さはますますひどくなり、頭は割れるように痛み出した。耐え切れなくなって席を立とうとしたが、前後間隔が狭い座席列の中央部から抜け出すのはためらわれた。結局席を立つこともできずに最後の曲まで耐え抜くはめになった。

 最後の曲が終わり幕が降りた。マリアはアンコールには応えないはずだ。明るくなった観客席で大きく深呼吸をした。アルフは金輪際マリアの曲は聞くまいと拍手をしながら決心した。

 アンコールを求める拍手はなかなか鳴り止まなかった。2分間ほど続いただろうか、観客席の照明がフッと暗くなった。そして客席のどよめきと共に幕が上がりはじめた。観客自身もマリアがアンコールに応えた事にびっくりしているようだった。いつのまにかマリアは漆黒のベルベットのドレスに着替えていた。舞台のスポットライトが消える。ブラックライトでも点いているのだろうか、闇の中にマリアの顔と腕だけが青白く浮かび上がった。

 アルフはマリアの視線を感じた。気のせいなどではなかった。遠く離れた距離にも関わらず明らかにマリアが自分を見つめていることを感じた。一瞬アルフの背筋に恐怖の様なものが走った。周りの事など気にせず客席から逃げ出したい欲求に駆られた。

 ゆっくりと大きくマリアの腕が広げられ、そして伴奏も無しにいきなり歌が始まった。

♪Amazing grace, How sweet sound・・・
(アメージング・グレース なんて素晴らしい響き)

 頭を殴られたようなショックを感じた。血液が急速に上半身から引いていき、目がかすみ出した。非常灯のわずかな明かりが視界の中で回り出す。それにもかかわらずマリアの青白い顔だけが、奇妙にくっきりと闇の中に浮かんでいた。息が詰まりそうになり、助けを求めようとして隣に座っている筈のカルロスに手を伸ばした。だが伸ばした筈の手はむなしく宙をつかんだ。

♪I once was lost but thank God I'm found.
(わたしは一度見失われたが、神により見出された)

 視界が完全に暗転し、意識が横滑りした。四肢の感覚が無くなり、わずかにマリアの歌だけが聞こえた。

 歌声に混じってかすかに子供の泣く声が聞こえた。小さな子供が迷子になり、母親を必死に探しているような切ない泣き声だった。泣き声は段々と大きくなり、やがて歌声が聞こえなくなる。

──助けを求めている?

 消えそうになる意識の片隅でアルフはそう感じた。そして意識はぐらぐらするような落下感を伴って深淵へと滑り落ちていった。


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第2章『傾触性(シグモナスティ)』










 見慣れない白い壁が目の前にあった。口の中が乾ききって妙な不快感が広がり、あごの辺りに何かが張り付いているような突っ張った感覚がした。手をあごにあて、張り付いていたものを引き剥がした。自分の吐瀉物のようだった。

 「気分は如何ですか?」看護婦が窓のカーテンを開けながら訊ねた。眩しいくらいの朝の光が差し込んだ。

 アルフはぼんやりと自分の記憶を探った。アンコールの曲以降の記憶は無かった。

 「水を貰えませんか」粘つく口を動かし、そう答えた。

 看護婦はサイドテーブルの水差しからコップに水を移した。コップを受け取ろうとして上半身を起こすと体が揺れるように眩暈がした。

 「血圧が下がっているから、急に動かないほうが良いですよ」看護婦はそう言いながら、ベッドのレバーを操作し上半身部の傾斜を持ち上げてくれた。

 口の中の粘りを洗うように水を飲み干すと、少し気分が戻ってきた。

 「今、何時ですか?」腕時計は外されていた。アルフは看護婦に訊ねた。

 「9時を過ぎたところですね」看護婦はポケットから懐中時計を取り出し、そう答えた。

 「大学に電話をいれないと・・・」

 ベッドから降りようとしたアルフを看護婦があわてて押し止めた。「安静にしていて下さい。大学の方は付き添っていたお友達の方が連絡するから大丈夫だって言っておりましたから・・・」

 それを聞いて、持ち上げかけた体をもう一度ベッドに沈め込んだ。

 「昨日の晩にCT(断層検査装置)で脳内出血が無いのは診ましたから。でも、細かい出血とか脳機能に異常があるかもしれませんので、10時になったらMRDI(核磁気共鳴動的影像法)で検査しますから」

 MRDIと聞いて、思わず声をあげそうになった。臨床医学は専門外とはいえ生物学をやっている身としては、それがどんな代物で、一度の診察でどのくらいの費用が掛かるかは良く知っていた。断層ではなく瞬間的に3次元スキャンが可能で、1立方メートル程度の構造物ならば分子レベルの分解能と1マイクロ秒の時間刻みで分子変化まで追える化け物のようなシステムだ。普通のMRIに比べサイズで10倍、消費電力で50倍、値段で100倍という代物だ。

 「いや・・・そんな金が・・・」医療保険が効いたとしてもかなりの金額が請求されるのは明らかだった。

 「大丈夫だと思いますよ。コンサートの主催者側が治療費を出すようですから。この個室料金も支払うようなことを言ってましたから」看護婦はにっこりと笑いながらそう言った。

 アルフは看護婦の顔を眺めながら、この笑顔も料金の内だろうかと妙な想像をした。それにしても、コンサートで気を失ったからといって主催者側が治療費を払うなんて事があるのだろうか。世俗に疎いアルフには良く分からなかった。

 それにしても検査はハードを極めた。検査用の服に着替えさせられた後、血流追跡用の造影剤を何種類も血管から投与され、MRDIのベッドに縛り付けられた。こんな装置で脳を検査されたら記憶の底まで洗いざらい調べられそうな気分に陥った。

 病院の昼食を食べ終え、することもなくぼんやりとしていると、部屋の扉をノックする音がした。

 「どうぞ・・・」何気なくそう返事をした。

 五十代くらいの中年の男に続き、サングラスを掛けた黒髪の女性が入ってきた。どちらも見覚えが無い人物だった。

 「アルフ・ヘイガーさん?」男はそう訊ねた。妙な、なまりのあるドイツ語だった。

 「そうですが、どちら様で?」

 「マーク・ネイザンといいます」男は答えながら、右手を差し出した。「マリアのマネージャーをしています」

 背後の女性に気を取られながら、アルフは差し出された右手をあいまいに握り返した。マリア!? 濃いサングラスで分からなかったが確かに昨日見た髪形そのままだった。カルロスがこの場に居れば狂喜乱舞したかもしれない。

 「医者に話を伺いましたが、今のところたいした異常は見つからないようで・・・こちらも安心しました。精密検査の結果は夕方には出て、それでOKでしたらそのまま退院できるそうです」プラチナに近い髪にグレーの目をした男は、口調の陽気さとは裏腹に妙に静かな表情をしていた。

 「この病院は、あなた方が手配してくれたのですか?」マネージャーという人種はこういったものなのかと考えながら疑問を口にした。

 「わたしの知り合いのつてで、こちらにしました。いや治療費の事でしたら、わたし共のほうで支払いますので、ご心配なく」

 アルフの質問を先取りするように答えが帰ってきた。

 「なぜ治療費まで? わたしが意識を失ったのはわたしの問題であなた方に落ち度が在った訳ではないでしょう」

 「われわれとしては、マリアに関して妙な噂がたつのは避けたいと・・・それだけです。ですから、今回の入院がマリアとは関係がないとあなた自身が思っているのでしたら何も問題は無いわけです」

 含みのある言い方が気になったが、アルフとしても今回の件をとやかく言うつもりもなかった。そもそも歌を聞いて気を失うことを公言すること自体みっともない気がした。

 「わたしは支払いの件で会計に行きますので、ちょっと失礼します」男はそう言うとマリアを残して部屋を出ていった。

 「あの・・・」おずおずと少しおびえたような表情でマリアは口を開いた。舞台から受ける印象とはまるで違う、ごく普通の年相応の少女でしかなかった。

 「・・・ごめんなさい」顔を伏せると、長い黒髪が揺れた。

 「いや、君の責任じゃないし、別に何ともなかったから・・・」

 「でも・・・わたしの歌を聞いて気分が悪くなったでしょ」ドイツ語の格変化に慣れていないようで、ゆっくりと言葉をつなぐような話し方だった。

 「風邪気味で体調も良くなかったからね。君の歌を聞いたせいじゃないよ」アルフはとりあえず彼女を安心させようと嘘をついた。

 それでもマリアは何か言いたげな表情をしていた。お互い次の言葉が見付からず沈黙が続いた。

 彼らがなぜ自分が気を失った事に対して責任を感じているのか理由が飲み込めなかった。アルフはそれを聞いてみたい欲求に駆られたが、マリアに直接聞くのも何故かためらわれた。

 「あの・・・」口を開いたのはマリアの方だった。「また歌を聴きに来て頂けますか」

 「ええ、もちろん」話の成り行き上、嫌だとは言えなくなった。なるべく無理の無い笑顔でそう答えた。

 マリアはその答えに安心したように、ようやく笑顔をうかべた。「次のコンサートのチケットを送りますから、住所を教えて下さい」

 アルフはサイドデスクの上にあったメモ用紙に自分の下宿のアドレスを書き、マリアに渡した。マリアはそのメモ用紙をさも大事そうに受け取り、胸に押し当てるしぐさをした。

 「必ず送りますから」マリアはそう言うと、ぺこりと頭を下げ、病室を出ていった。

 あの頭を下げるしぐさは、東洋の挨拶だったかなとアルフは思い出した。けれどマリア自身はあまりモンゴロイド系には見えなかった。コーカソイド? ツングース系? どちらかといえば北方系だが人種特定しにくい顔立ちであった。

 夕方になると、検査担当医が検査結果の説明をしてくれた。医者はアルフが遺伝子工学の研究者であることを知ると、専門用語を遠慮なしに交えながら脳機能の状況を懇切丁寧に解説してくれた。同じ医学関係の専門とはいえ元々アルフは工学系出身で純粋に医学を専攻したわけではない。専門過ぎて訳の分からない解説に適当な相槌で答えた。結論としては脳機能には異常無し、昏睡の原因は不明、それだけのことだった。

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 翌日からは、もう普通に大学の研究室に行き、相変わらずの遺伝子解析作業に没頭しはじめた。アルフの大学での仕事は二つ有った。ひとつ目は担当教授のテーマである『進行性分化不全症候群における再分化プロセスの解明』に必要な基礎データの作成である。

 進行性分化不全症候群(PDMS)という病気は今のところ分化プロセスの異常だと考えられていた。PDMS患者の病変組織をin vivo(生体中)で観察すると一定確率で組織細胞が脱分化を起こしているのが観察された。そして脱分化した細胞が次に再分化する際に元の細胞とかなり違う種類の細胞へと変異しているのが判明した。

 脱分化から再分化へのプロセス自体は珍しいことではないし、正常個体内でも傷口の再生現象でも普段見られる。ただし通常は再分化は、元々の細胞と同種細胞へしか行われない。PDMSが特殊なのは再分化の際に日和見的に別種細胞へと形質転換してしまう点であった。

 別種細胞への変異という点ではガン細胞に似ていた。しかしガン細胞とは違い接触阻止性の完全喪失が見られず、異常増殖しないという点と、変異した細胞が正常細胞と区別できない点でガンとは明らかに別な病気といえた。

 だが異常増殖しなくても、形質転換する細胞の数が増加すれば、組織が組織としての機能を維持することが難しくなる。症状は増殖性向の高い細胞組織から始まる。まず味蕾中の味細胞が変異を起こし味覚異常を引き起こす。それが自覚症状の始まりとなる。やがて骨髄の造血幹細胞が変異を起こし、T細胞、B細胞、赤芽球、骨髄芽球などの循環系へと波及をはじめ、倦怠感や、免疫機能の後退を引き起こす。そして末期には筋芽細胞へと変異は波及し、血管壁の平滑筋細胞中の筋原繊維がバラバラになり内臓出血や全身からの出血を引き起こし死亡する。

 もともとヒトの全ての体細胞はそれが筋肉細胞だろうが肝細胞だろうが同一のDNAから構成されている。それが何故、同一の設計図から機能の違う多種の細胞が出来上がるかといえば、メチル化とクロマチンの異常凝縮という2つの作用に依存している。

 メチル化はDNAを構成するAGCTの4塩基の内のCにメチル基が結合することにより行われる。メチル化された遺伝子はその部分の遺伝子発現が停止してしまう。またクロマチン(染色質)の異常凝縮とは、細胞核内のDNA鎖が正常展開されずに凝縮を起こし、その凝縮部分で遺伝子発現が行われなくなる現象である。どちらも遺伝子の発現を抑える仕組みであり、この2つの作用により細胞の機能分化は行われている。

 このメチル化とクロマチン構造の内容は、通常の細胞分裂であれば次の細胞へと引き継がれる。だから上皮細胞が分裂すれば出来上がる細胞もあくまで上皮細胞になる。PDMSはこの二つの仕組みを破壊しているといえた。

 だが原因は分かっていても対策が立てられるとは限らない。ヒトの体はたったひとつの受精細胞から約60兆個の細胞へと増殖する。その過程で体を構成する筋肉、上皮、神経、繊維芽、骨など各種の細胞へと機能分化していく。分子生物学が成立して約200年。ホメオティック遺伝子の解析により、組織、器官レベルの発生現象はかなり細かいレベルまで解析することができた。しかし個々の細かい機能分化の仕組みは説明できても、大枠として人間という一固体が成立する過程を全て説明できるロジックは結局解明できていない。その解明できないロジックの上にPDMSの原因が折り重なっていた。

 ヒトの成長という時間軸と遺伝子暗号の発現という絡み合いを解明するために、21世紀前半に人体プロセスの高位言語導入というものが発想された。遺伝子暗号という低レベル記述で人体の形成から進化までを捉えるのは、大規模ネットワークに接続されたコンピュータシステムの動作をCPUの機械語レベルから逆解析することに近かった。たとえ大規模といえど人間の作ったシステムであるからには理論的には解析は可能である。だがそれは理屈の上だけであって、結局は複雑さという量の壁に阻まれ、現実問題としては解析できない。人間の体という個体レベルの成り立ちを調べることも同じことが言えた。

 DNA上の遺伝子発現、タンパク合成、ホルモン代謝、外因刺激、加齢要素、ありとあらゆる要素をその高位言語に持ち込みシミュレーションが行われた。だが結果として人体形成のプロセスは解明できなかった。成人個体の代謝プロセスや病変プロセスなどの、ある意味で静的なプロセスはいくらでもシミュレートは可能になったが、個体成長や老化、種の進化という動的なプロセスはついにシミュレートできなかった。それは何かの高次要素の欠落が主因と考えられた。

 アルフの個人的な研究テーマは、この個体形成プロセスにおいて、さらに高位レベルとなる超高次言語(メタ言語)の導入を行うというものであった。

 担当教授の手伝いの合間を縫って自分の個人テーマの作業も進めてはいた。忙しいという理由もあったが、それにしてもあまり進展しているとは云い難かった。

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 入院のドタバタもやがて忙しい日常に紛れ、記憶の表層にも上がらなくなる。そんな一週間が過ぎ、何日かの研究室への泊り込みが続き、夜半遅く久しぶり帰宅したアルフは、下宿のドアの前の暗がりにうずくまる人影を見つけた。

 恐る恐る近寄り、かがみこんで顔を覗き込もうとしたが、暗がりでしかも顔を伏せているために顔を確認することは出来なかった。服装と髪型から女性だというのが判るだけで、少なくてもアルフの知っている人間ではなさそうだった。

 かすかな寝息が聞こえた。屋内とはいえ冷え込みの厳しい季節だ。氷点下は下回っており、このまま寝ていれば凍死は間違いない気温だった。

 アルフはその女性の肩をそっと揺らした。わずかに首を動かし反応が返って来た。さらに強く揺すってみたが起きる気配はなさそうだった。頬に触れてみた。自分の冷え切った手でも冷たさが感じられた。体温が低下しすぎてすでに意識を無くしているようだった。アルフは意を決して、その女性の腕を取り自分の肩に廻してから、背中とひざに自分の腕を廻して女性を持ち上げた。

 それほど重くはなかったが、抱きかかえた状態で部屋の鍵を開けるのにかなりてこずった。ようやく部屋の鍵を開け、暗がりのまま女性をベッドまで運んだ。――とにかく体を温めなければ。アルフは部屋の灯りをつけ、暖房機の電源をいれた。

 自分のコートを脱いで一息つき、アルフはその女性のコートも脱がせようとして、初めて灯りの下で女性の顔をみた。

 ――マリア?

 それは確かに病室で見たマリアだった。驚きで一瞬体が止まったが、今は何故と悩むよりするべきことをすべきだった。意識の無い女性の体からコートを脱がすのにかなり手間取った。ありったけの毛布を掛けてやり、ベッドの脇に暖房機を寄せた。

 彼女の手首を取り、脈を取ってみた。多少遅くはあるが鼓動ははっきりしているし安定もしていた。気まぐれで取った救急医療の講座が初めて役に立った。手鏡を口元に寄せ呼吸の頻度を確認し、ペンライトで瞳孔反射を見る。体さえ温めてあげれば問題はなさそうだった。

 コーヒーでも淹れようと金属製のポットを暖房機の上に置き、自分はソファの上に横になりコートを毛布代わりに掛けた。

 横になりながら妙に幼なさを感じさせる寝顔を見つめ、アルフは少女が自分を訪ねてきた理由を考えた。思い当たる理由は何も出てこなかった。泊り込みで疲労した脳味噌には満足な思考能力が残っていない様だった。不快な眠気が頭の中にこびり付き、まぶたを開けているのが難しくなった。取り留めのない思考はやがて強烈な眠気を誘い、いつのまにか自分も眠り始めた。

 故郷の夢を見ていた。けれどかすかな物音が夢の輪郭を壊した。

 マリアはベッドの上に起きあがり、ぼんやりと不思議そうな顔でアルフを見つめていた。

 「大丈夫かい?」なるべく穏やかな声音で問い掛けた。

 意識がはっきりしたのかマリアの表情が一瞬ビクッと強張った。

 「扉の前で眠っていたんで、ベッドに運んだんだよ」

 「・・・ano・・・watashi・・・pardon(ごめんなさい)・・・」ドイツ語に聞いたことの無い奇妙な言葉が混じった。何かを言いたげだったが緊張でうまく話し出すことが出来ないようだった。

 「ちょっと、待ってて」

 そう言うとアルフは、キッチンに立ち小さな鍋でミルクを温め、ひとつしかないまともなティーカップに注いで彼女に差し出した。

 「Vielen Danke(ありがとうございます)」妙に硬い言いまわしで礼を言うと、マリアは両手でカップを受け取りゆっくりとミルクを飲み始めた。

 マリアがミルクを飲み終わるのを辛抱強く待った。そして気持ちが落ち着いただろう頃合をみて問い掛けた。

 「で、僕に何か用事があったのかい?」

 カップを持ちながらこっくりとうなずいた。「逢いたかったの・・・」マリアはそれだけをぽつりとつぶやいた。

 「何故・・・?」

 マリアが顔を伏せた。それは返答に困っているというよりも、アルフのその質問を悲しんでいるかの様だった。

 長い沈黙の後、意を決したように喋りだした。「おねがい・・・、私をここに置いてください」

 「ここに居たいという意味かい?」アルフは、マリアが慣れないドイツ語の言葉を選び間違えたのではないかと思った。

 しかし、マリアはゆっくりとうなずいた。

 「誰かに追われているのかい?」

 今度は首を横に振った。「あなたに逢いたかったの・・・それだけなの・・・」ますます悲しそうな表情で答えた。

 「どうして?」再び同じ質問を繰り返さざるおえなかった。

 マリアの見開いた瞳から涙がこぼれた。

 「あなたに逢いたかったの・・・」同じ答えが繰り返された。

 理由はさっぱり分からなかったが、下心があるわけでもなさそうだった。アルフはマリアの涙を見て、これ以上の質問をあきらめた。質問をあきらめてしまうと、この異常な事態に麻痺していた睡魔が再び襲ってきた。

 「君の気が済むまでここに居てかまわないよ。そのベッドも君が使って良い。部屋にあるものは何でも好きに使って良いから。悪いけど疲れていて、すごく眠いんだ・・・。それ以外のことは明日考えよう・・・」

 それだけを言ってしまうと、アルフはソファーに横になり毛布代わりのコートを体に掛けた。そしてほとんどまどろむ間も無く深い眠りに落ち込んでいった。

 マリアは彼の言葉に安心した様な表情で、ソファーに眠るアルフの寝顔を見つめた。マリアはずいぶん長いこと、その寝顔を見つめていた。そしてアルフの睡眠の深いのを確認すると、マリアはベッドからそっと降り立った。

 暖房機の向きを変え、自分に掛けてあった毛布の一枚をアルフの上に掛け、自分はもう一枚の毛布にくるまって、アルフの枕もとに寄り添うようにソファの脇の床に体を丸めてうずくまった。そしてマリアはひどく幸福そうな表情で目を閉じた。

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 家に帰り着くと灯りがともっていて、待っていてくれる人が居る。ただそれだけのことにアルフは満足感を感じていた。

 狭くて古い部屋を特に気にするようでもなく、マリアは食事を作り毎晩アルフの帰りをおとなしく待っていた。

 寝る場所も最初のうちはお互いがベッドを譲り合っていた。けれどアルフがソファで寝ていると、朝には必ず寄り添うようにマリアが床に寝ている。それが幾晩か続いた後は、結局狭いベッドで二人で寝るようになった。

 マリアはあまり自分のことを語りたがらなかった。寝物語でぽつりぽつりと故郷の話をするくらいだった。

 「家族は心配しない?」

 「おばあちゃんには話したの。おばあちゃんは、お前の好きにして良いよって・・・」

 祖母の話はずいぶんと聞かされていた。東洋の島国の山奥に住んで小さな医院を開業している。彼女は忙しい両親に代わり祖母と祖父に育てられたそうだ。彼女の一族は女系というか、非常に女性の比率が高いらしく、祖母を中心に100人近い血族系は9割がたは女性だという。年に一度一族が集合するときは、そのわびしい田舎の家がすさまじくにぎやかになるそうだ。

 マリアは、自分の事よりも、そうした田舎での暮らし振りや家族や親戚の話をしたがった。

 「歌手の仕事はやらなくていいのかい?」

 「いいの。歌は好きだったけど、人の前で歌うのはあまり好きじゃなかったの」

 マリアはときどき子守唄のように歌をうたってくれた。不思議なことに、そうして聞かせてくれる歌は以前のように頭痛がしたり、気分が悪くなるということが無かった。そのことをマリアに尋ねたことがある。

 「今はあなたの為だけに歌うから・・・そして私が今とても幸せだから・・・」

 それ以上そのことを追求することは結局しなかった。

 アルフはマリアが歌ってくれる「Sometimes I feel like a matherless child」という歌が特に好きだった。古い黒人霊歌の甘く切ない余韻がアルフの眠っていた郷愁を呼び起こした。

 昼間は研究室に行き、夜に部屋に帰ると暖かい家庭が迎えてくれる。以前とはずいぶん違う生活の筈なのにアルフは新しい生活を奇妙なくらい違和感を感じずにいた。まるで最初からそう在るべきように、まるでずいぶん昔からそうやって二人で暮らしていたような、そんな錯覚さえ覚えた。

 ある日マリアが真剣な顔をして、欲しい物があるのと言った。今までマリアは何かものをねだったという事が無く、日常の買い物以外は外出さえあまりしようとしなかった。珍しいことだった。

 何が欲しいのかい? そう訊ねると、マリアは一枚の紙を差し出した。そして理由は聞かないで欲しいと言った。

 紙には分子構造図が描かれていた。理由を聞いてはいけないのかい? そう問い直した。マリアは黙って顔を伏せた。

 有機化学は一応専門分野の範疇ではあったし、それほど複雑な構造図ではなかったが、見覚えのある構造ではなかった。

 「分かった。大学の友達に頼んでみるよ」マリアの真剣な表情に押され、そう答えた。

 友人の有機物合成の専門家にその分子構造図を見てもらった。特殊な配糖体のようだがよく分からない、ライブラリーをあたってみると言われた。合成も必要なのか? と問われた。アルフが必要だと答えると友人は2,3日待って欲しいと言った。

 3日後に、その友人はアルフの研究室まで出来あがった薬品を届けに来てくれた。

 「結晶化できないタイプだったからな」友人は透明な液体の入った小さな壜を振った。

 「すまないな。それであの構造図は何だった?」

 「分からん。似たようなやつは幾つかデータベースから拾えたが完全にマッチングするやつは無かった。グルコース配糖体の一種だな。結合型ジベレリンの範疇だと思う」

 「ジベレリン? Pflanzenhormon(植物ホルモン)か?」

 「ああ、Wachstumsfaktor(植物発育因子)だな。園芸農家がParthenokarpie(単為結実)に使うやつによく似ているが、立体配位が違うから機能しないだろうけどね」

 「機能しない?」

 「あの構造では、たぶんジベレリン様活性は示さんだろう。ライブラリーにも無いし、少なくても自然界には存在しないな」

 「ヒトが摂取した場合どうなる?」

 「植物ホルモンだからな、たぶん毒にも薬にもならんだろう。経口摂取でも血管投与でも機能しない。安定度が悪いから二,三日しか持たないし、だいたいあの構造に適合する受容体がヒトには存在しないはずだ。もっとも細胞質内受容体は、お前の専門だろ? 何に使うんだ? フォーナ(動物)からフローラ(植物)に宗旨替えか」

 「いや、後発現遺伝子のトリガーに使おうと思ってね」そう言ってごまかした。

 友人はそれ以上追及しようとはしなかった。

 「料金は、昼飯一回分だ」

 「分かった。今度おごるよ」

 機能もしない、天然にも、ライブラリーにも存在しない特殊な薬品。マリアはこの薬品を何に使うのだろう。

 その薬を渡すときにマリアに問い質してみるべきだったのかも知れない。けれど思い詰めたような真剣な表情で薬を受け取るマリアに、アルフはうまく問いただすことが出来なかった。

 

 「子供は好き?」マリアが尋ねた。

 「好きだよ。年の離れた妹がいたからね。子守りは得意だったよ」

 「もし、私に子供が出来たら祝福してくれる?」

 「もちろん」

 「いつか、子供が産まれたら私の故郷に行きましょう・・・」

 けれど、そう語るマリアの瞳はなぜか悲しげだった。

 その瞳の色がアルフの心をざわざわと波立たせた。

 それはまるでマリアがときおりもらす異国の言葉のようにアルフの心を不安にさせた。

□□■■■

 マリアがこの部屋を訪れて5ヶ月が過ぎた。それはこの寒い地方に遅い春が訪れた頃だった。

 アルフが帰宅するとマリアは留守で、整理された部屋の真中には花瓶が置かれ、一輪のカーネーションが活けられていた。それはabnehmender mond(下弦の月)と呼ばれる遺伝子操作で作られた青い色素を持ったカーネーションだった。花瓶の下に小さなメモ用紙が挟まっていた。”Ich wille sein zuruck(必ず帰ります)”メモにはそう書かれていた。

 その日、マリアは帰って来なかった。

 二日経ち、三日経ち、一週間が過ぎた。

 青いカーネーションはやがて茶色く枯れた。

 そしてマリアはついに帰って来なかった。

 ♪Sometimes I feel like a matherless child.

  A long ways from my home.

 アルフは母親に見捨てられた子供のように孤独だった。


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第3章『三倍体(トリプロイド)』











 残されていたものは、部屋に備え付けのクローゼットに吊るされていたコートだけだった。そのコートだけが夢のように曖昧だった5ヶ月間が夢ではなかったことを教えてくれた。

 アルフはときおりコートを取り出して眺めてはマリアとの暮らしを思い出した。よく考えてみればマリアのプライベートの事はほとんど何も知らなかった。遠く日本に住むという故郷の家族のこと、歌のこと、好きな食べ物のこと、そんなことはよく聞かされていた。けれどアルフはマリアのファミリーネームを知らなかった。マリアという名前が本名であるかも知らなかった。

 探しに行こうか、という思いは何度も頭の中をよぎった。リサイタルを主催したプロダクションを辿っていけばコンタクトくらいは取れるはずだ。けれど結局探すことはしなかった。残された部屋の様子は明らかに無理やり連れて行かれたのではなく、自分の意思で出ていった事を示していた。

 何か理由があって戻れないのだろう。無理にでもそう思い込み自分を納得させるしかなかった。

 音楽界のニュースに注意深く耳を傾けるようになったが、マリアに関するニュースは不思議と流れてこなかった。

 ある日、アルフはマリアのコートの襟元に長い髪の毛を見付けた。漆黒のストレートの髪はマリアの髪の毛に間違いない様に思えた。アルフはそれを研究室で遺伝子解析することを思いついた。マリアのプライベートを知らないアルフはせめて生物学的な意味でもマリアの事を知りたくなった。

 大学には遺伝子解析に必要な機材はいくらでもあった。自分の使用できる範囲にも、高度に自動化されたDNAアナライザーがある。利用申請書を出した。大きな学会が終わった頃の閑な時期であったため簡単に申請は通った。

 アルフはマリアの髪の毛を極小さな断片に切断し、アナライザーに掛けた。前提条件を”ヒト、メス”と設定する。前提条件は必ずしも必要がなかったが、解析時間が短縮できた。1時間ほどで解析は終わり後はコンパートメントの自分の端末へデータを転送するだけだった。

 だが20分もしないうちにアナライザーからアラームが表示された。

 ”前提条件不正”

 エラーの項目を確認した。”SRY遺伝子”が検出されていた。

 コンタミ(異物混入)だろうと判断した。SRY遺伝子は普通にはY染色体上にしか存在しないはずだった。自分の髪のフケか皮膚の一部が試料に混入したのだろう。

 今度は慎重に試料の洗浄を行い、再びアナライザーに掛けた。だが結果は同じエラーだった。

 考えられる可能性は三つ在った。一つ目はアナライザーの故障。二つ目は髪の毛がマリアのもので無い可能性。三つ目はマリアの性染色体異常である。

 ためしにアルフは自分の髪の毛をアナライザーに掛けてみた。1時間ほどで結果は出た。正常に見なれた自分の遺伝子パターンが表示された。これで一つ目の可能性が消えた。

 二つ目の可能性の証明は難しい。そもそもマリアの遺伝子データは手元には無いから比較のしようがなかった。だがSRY遺伝子が検出されたとなれば、男のものか、性染色体異常しか可能性は無かった。

 前提条件の性別の項目を”unbekannt(不明)”で指定し、再度アナライザーを動かした。今度はエラーは発生しなかった。だが今度は1時間待っても2時間待っても解析が終了しなかった。

 途中の解析経過をモニターしてみた。23個の染色体までは同定出来ている様だった。

 ヒトの染色体は全部で46個から構成されている。そしてそれぞれが相同染色体と呼ぶペアを構成する。つまりヒトの染色体は23対から成る。その23対の染色体に1番から23番まで大きさ順に番号が振られている。

 アナライザーは46個在るはずの染色体のうち半分までしか確定できていなかった。確定できた遺伝子は1番から23番まで、ただしひとつずつ、つまり23対の内の片側の染色体しか確定できないでいるようだった。

 なぜアナライザーがうまく機能しないのか理解できなかった。だがそれでアナライザーの使用時間が切れてしまった。アルフはとりあえずデータを自分の端末へ転送した。

 共同の研究装置を管理する事務室に顔を出し、アナライザーの再延長を申請した。さいわい1週間後に空きがあった。

 ついでに、知り合いの居る生物学の研究室にも顔を出し、組織培養を頼み込んだ。

 「in vitro(生体外)でいいのか?」

 「ああ、単層でかまわないから」

 「わかった三日ほど待ってくれ」

 そして、自分の個室に戻り、とりあえず収集したデータを再検討した。

 まず、動原体の種類をチェックしてみた。すでに同定できているのは23個。同定できていない動原体部は残り23個。とりあえず動原体の総数は正常だった。

 シミュレータを使って、確定できなかった動原体を表示させてみた。動原体特有のDNA塩基の繰り返し配列が観察できた。DNAパターンを見慣れている筈のアルフでも、それが何の染色体の動原体に近いかは分からなかった。

 分類された遺伝子を整理してみた。ヒトの遺伝子は約10万種程度である。アナライザーで同定できた数は約5万種。半数の染色体しか確定できなかったから、全体としては同定率50%で、未確定遺伝子は5万種、総数は10万個となる。数値的には合っていた。

 アルフの使用したアナライザーは、DNAをそのままの生の形で塩基構造を調べるタイプではなかった。制限酵素というDNAを分解する薬品を使い、ある程度バラバラに分解し、断片の塩基構造を解析し、遺伝子タイプを確定させた後、遺伝子データベースとのマッチングにより染色体上の遺伝子位置を同定させる仕組みのものだった。このタイプのアナライザーは、サンプルとなる細胞片が複数の細胞を含んでいても処理できるという取り扱いの簡単さが長所だったが、そのかわり前提条件を間違たり、極端な遺伝子異常が存在するとデータベースとのマッチングが取れなくなり結果が出てこないという欠点があった。

 制限酵素で分断されたDNA断片の総数を確認してみた。DNA断片数は約60万あった。1断片あたり平均5つの遺伝子が乗っているので、検査した遺伝子の総数は約300万個になる。300万個を割ることの10万種で30。つまり30個の細胞が試料とした細胞片に存在した計算となる。

 アルフは位置確定できた遺伝子を含むDNA断片をマークして検査対象外にしてみた。残りの断片は半分であるから30万個の筈だった。だが表示された数はなぜか20万個だった。これでは残りの染色体23個に対応する遺伝子は確定した染色体の遺伝子の数と比べて2分の1しかないことになる。

 アルフは混乱した。なぜ数が合わないのだろう?

 染色体が欠失しているのだろうか? だがこれほど極端に染色体が欠失した例は見たことが無いし、アナライザーの結果では動原体は46個分検出していた筈だった。

 残る可能性は、確定できなかった23個の染色体が、通常より極端に遺伝子数が少ない特殊なものである可能性と、試料とした髪の毛のDNA損傷がひどくて正常に分析できなかった可能性の二つだった。

 一週間後、アルフは再度アナライザーによる解析に挑戦した。組織培養してもらった細胞から、顕微鏡下で慎重に一つの細胞を選び出し、アナライザーへと投入した。

 だが結果は一週間前と同じだった。

 これ以上のDNA解析自体は何度繰り返しても無駄なようだった。遺伝子同定だけを優先したほうがよさそうだった。アルフは同定できたDNA断片を検査対象外に指定し、前提条件を緩めて同定させようとした。

 ヒトは生物学的には、動物界、脊索動物門、脊椎動物亜門、有顎動物下門、四肢上綱、哺乳綱、獣亜綱、正獣下綱、サル目、サル亜目、サル下目に分類される。染色体や遺伝子の構成がこの分類に随っている訳ではないが、データベースの構造としては、この生物学的分類で作られていた。

 アルフはアナライザーの前提条件を脊髄動物亜門まで緩めた。これで使用できる時間を目一杯使ってしまう筈だった。後はひたすら待つしかない。

 アナライザーの解析経過の表示がホログラフ映像として浮かび上がる。暖色系の色を中心とし、渦巻くように変化する仲間内ではGen flamme(遺伝子の炎)と呼ばれていた解析経過パターンを、アルフは所在無げに、ぼんやりと見つめ続けた。

 丸一日掛けて位置解析できた遺伝子はわずか一割にも満たなかった。動原体を中心にわずかな部分の解析が出来ただけだった。

 これ以上の解析は諦めるしかなかった。世の中にはMRI(核磁気共鳴)を利用した、ダイレクト・スキャナーと呼ばれる染色体を丸ごと分析するタイプの装置や三次元データを丸ごと取りこんで時間変化を分子レベル単位でトレースする装置も在るには在る。しかしアルフの所属する大学にはそこまでの設備は無かった。どうしてもその装置が必要であれば、大学に隣接するミッドマイヤー財団付属の研究所の設備を借りることも出来た。しかし申請が厄介なのと、ダイレクトスキャナーは染色体は丸ごと解析できても、細胞を丸ごとは解析できない。つまり事前に染色体分離の作業を行う必要があった。この染色体分離作業はアルフのような工学系出身者にとっては結構厄介な作業といえた。

 解析がうまく出来ない理由が気にはなったが、もはや諦めざるをえない状態だった。

 アルフは培養容器にマリアのイニシャルの”M”と書いたラベルを貼り、そして容器を保管庫へしまい込んだ。

□■□□■

 燃えるような緑の季節が過ぎ、短い夏が終わると足早に冬がやってくる。アルフは通り過ぎる季節を感じる余裕もなく、研究室と下宿の往復を繰り返した。やがてマリアとの暮らしも記憶の底で擦り切れるように薄くなり、思い出すこともまれになった。

 ドイツの片田舎に住み、大学に閉じこもっていれば世俗には疎くなる一方ではあるが、それでも世の中の動きとは無縁ではいられない。

 相変わらず世界では小規模な紛争が繰り返されていた。原因の大半は食料とエネルギー供給の不安定さにあった。

 ――減らない出生率。

 21世紀中盤に100億に達した人口は、それ以後ほぼ均衡状態に達した。だがそれは出生率が低位で安定したためではなく、死亡率の急増による均衡だった。22世紀以降、WHO発表の死亡原因のトップは常に餓死であった。

 ――限界に達した食料生産効率と減り続ける耕作可能面積。

 遺伝子工学を駆使した新しい農業生産システムは、高い生産性をあげてはいた。けれどその高い生産性ゆえに、逆に土壌の疲弊化も加速した。そして遺伝子改良農作物への極端な依存は、生産効率を押し上げはしたが、栽培作物の品種数を激減させた。それは諸刃の剣でしかない。万が一遺伝子改良品種に問題が発生すれば、極端な世界レベルでの不作となり跳ね返る。爆弾の上に乗っているようなものだった。けれどそれが例え爆弾だと分かってはいても、一度それに乗って安定化してしまえば二度と降りることは出来なくなる。降りることは間違い無く餓死者の急増を意味した。

 国連は完全なリサイクルのシステムの模索を何度となく行った。だが膨れ上がった100億の人口をうまく支えるだけの仕組みの構築は何度となく挫折を繰り返した。

 ――持つ者と持たざる者の極端な乖離。

 遺伝子工学の進歩は、ガン、成人病、感染症などの病気をほぼ根絶させた。富める者はそういった高度な医療の恩恵にあずかれた。もっと富める者は自分の内臓器官のクローン培養保存を行い、具合が悪くなれば交換した。結果、富裕層の寿命は跳ね上がった。しかし、それで全体の平均寿命が上がったわけでもなかった。富裕層をはるかに上回る貧困層の餓死者がその数値を支配していた。

 ――そして共有できない痛み。

 誰もが地球自体が疲弊していることを理解していた。しかし誰も貧乏籤など引きたくはなかった。そして誰も自分の痛みの前で他人の痛みを共有することなど出来なかった。

 『平等』。この言葉は幻想と言うよりは妄想の産物であるのかもしれない。

 2162年ドイツ・ドレスデン地方に、いつもより厳しい冬が訪れた。

□■□■□

 いつもの様に大学の食堂で昼食を取っていたアルフの前の席に、顔見知りの生物学の研究員が座った。

 「悪いけど保管庫に在った試料を勝手に使わせてもらったぞ」座るなりそう話し掛けてきた。

 「ああ、構わんよ」とっさに彼の言った試料を思いつかなかったが、もともと培養試料などを使う研究をあまりしてはいなかった。

 「Frauenarzt(産婦人科)のバイトでもしているのか?」

 唐突な質問にアルフは食事の手を止めた。「いや、何故そんなことを聞くんだ?」

 「あの試料はTriploide(三倍体)だろ」

 「?・・・どの試料の話だ!」思わず声が高くなった。

 「容器に”M”とラベルが貼ってあったやつだが・・・学生の講座の画像資料に使おうと思ったんだが、まずかったか?」

 「いや、まずくはないが・・・染色体分離したのか?」不審に思われないように、さりげなく聞いた。

 「ヒトの三倍体は珍しいからな。分離して固定してあるが・・・」

 「分離した試料を廻してくれないか?」

 「画像に収めたから、もう必要無いんで構わないけど」

 「頼む。後で取りに行くから」

 アルフは画像の格納場所を彼から聞くと、食事もそこそこに席を立った。頭の中で”三倍体”という言葉が渦巻いた。

 以前、アナライザーに掛けたときに足りないと思っていた遺伝子は、実は足りないのではなく多すぎたのではないだろうか? しかしアナライザーは動原体を46個しか検出していなかった。訳の分からないことが多すぎた。

 だがあの髪の毛は本当にマリアのものだっただろうか? 彼が産婦人科と言い出したのには訳が在った。ヒトの成体で三倍体などありえないからだった。ごく初期の胎児ならありえた。卵子に二つの精子が受精して、まれに三倍体の受精卵が出来あがることがある。けれどその胎児は間違いなく流産してしまう。友人はアルフが産婦人科の流産胎児の染色体チェックのバイトをしているのだと思い込んだのだろう。

 歩きながら考えつづけた。こうなれば徹底的に分析して見たかった。ダイレクト・スキャナーに関しては申請さえ通れば費用面は何とでもなるだろう。ただダイレクト・スキャナーの使い方を熟知していて、しかも口の硬い協力者が必要だった。あの細胞の出処は誰にも知られたくはなかった。

 思いつく協力者はカルロスしか居なかった。アルフはカルロスの個室へと足を向けた。

 カルロスは自分の個室の中で椅子にふんぞり返りながらサンドイッチをほおばっていた。

 「どうした、おっかない顔して」カルロスはサンドイッチを差し出しながら、そう訊ねた。

 差し出されたサンドイッチを断り、用件を切り出した。「頼みがある。ダイレクト・スキャナーを使いたいんだ」

 「ミッドマイヤーのヤツをか?」

 アルフは首を縦に振った。

 「手伝うのは構わないが、何故俺なんだ?」

 「試料の出処を詮索されたくない」

 「訳有りと言うことか。俺にも話せんのか?」

 再び首を縦に振った。「すまない」

 「分かった、出処に関しては聞かない。それで、どんな試料なんだ?」

 「三倍体だ」

 「ヒトのか? Trisomie(三染色体性)ではなくてTriploide(三倍体)か?」

 「そうだ」

 「珍しいな。だがその程度ならアナライザーが使えるだろ?」

 「アナライザーで同定できなかった。動原体が46しか見つからなかった」

 「三倍体なら69の筈だろ。本当に三倍体か?」

 「培養細胞の染色体を分離固定した。生物学のやつが三倍体だと言っていた。共有ライブラリーに画像が在る筈だ」

 カルロスは端末に向き直ると、共有ライブラリーから画像データを引き出し、表示させた。

 「確かに三倍体だな。だけど第三ゲノムの形が奇妙だな。番号どころかABC群の染色体分類も難しそうだ。他に分かっている情報はないのか?」

 カルロスにそう質問され、アルフは一瞬言いよどんだ。「表現体は・・・XXだ」

 「Female(女性)か・・・ひょっとして成体か!?」

 アルフは肯いた。「だが、SRY遺伝子も検出した」

 「性染色体異常か? XXY、いやSRY含有Xか? しかも三倍体で成体か。そいつは無茶苦茶だな・・・」カルロスが珍しく難しい顔で腕組みした。「分かった協力しよう。俺も興味が湧いてきた」

 「すまん。それと推論にも付き合ってくれ」

 「当然だ。言われなくても付き合う。財団への申請は任せておけ。費用の面だけそっちで処理しておいてくれ」

 1週間後、ダイレクト・スキャナーの利用許可がミッドマイヤー財団から降りた。

□■□■■

 「利用出来るのは4日間だけだからな。手順を良くしないと時間切れになる。染色体一つの分析で大体1時間程度の時間がかかる。昼夜ぶっ通しでも69時間で3日間は必要だ。コイルの冷却やセットアップに4時間、試料用の容器の洗浄と準備で2時間。まあ、寝る閑は無いな、覚悟しといてくれ。それと障害がでてもやり直しは効かない。一発勝負だ」

 「分かった」ダイレクト・スキャナーのコンソールの前でアルフは肯いた。

 液体窒素で超伝導コイルの予備冷却を行う。これでマイナス190度近辺まで温度を下げる。そこから冷却装置を動かしてマイナス220度まで温度を下げる。それで超伝導状態が維持できる。医療用のMRIなどは常温超伝導材などを使い、たいした冷却の必要も無い。しかし遺伝子研究用のMRIは高いSN比と高解像度を得るために、とてつもなく強い磁場を必要とした。結局その臨界磁場を稼ぐためにマイナス200度以下の極低温を用いざるをえなかった。

 超伝導状態まで温度が下がるのを待つ間、アルフはスキャナーのターゲット試料の準備を始めた。

 試験管のガラス壁に試料が接触するのを防ぐために、粘性の多糖類を塗り付け、顕微鏡下で分離した細胞を入れる。細胞壁を破壊する薬品を入れ、ゴルジ体、ミトコンドリア、脂肪粒、分泌顆粒など次々と薬品処理で夾雑物を取り除いていった。そして最後に核膜を取り除き、充分攪拌したあと染色体位置が動かないように固定化するために、さらに増粘性の多糖類を加えた。

 「いくぞ」カルロスがコンソールに張り付いた。

 まず、かなり粗い精度の事前スキャニングを行い、各染色体の位置と向きを確定させた。

 「69。数は確認した。とりあえず上から順番にナンバーを振るぞ。1番から番号順に解析する。解析結果を逐次お前の端末に転送するから、オープンさせて措いてくれ」

 アルフは、コンソール脇に在るモニター用の端末から自分の端末を呼び出し、パスワードを打ち込んだ。「準備は良いぞ」

 ブーンという鈍いモータの響きと共にスキャニングが開始された。猛烈な勢いでコンソール画面上に情報が走り抜けていった。1秒間に4万個の塩基が解析されている。それでも一つあたり1億から2億の塩基からなる染色体を解析するのに1時間近くが必要だった。事前スキャニングのデータを基に試料を入れた容器がゆっくりと回転していく。後は異常が発生しない限り、やる仕事は待つことだけだった。

 「幼態成熟の件をどう思う?」黙って画面を眺めつづけるのに飽きたのか、カルロスが唐突に話し掛けてきた。

 「WHO(世界保健機構)が発表した、第二次性徴の低年齢化の事か?」

 「そうだ」

 22世紀初頭から現在までの約50年間で、統計的に第二次性徴の年齢が平均で二歳低下しているとの報告が出されていた。

 「あれを指して幼態成熟と言うには語弊が在るような気がするが。幼生生殖の方が近いんじゃないのか」

 「進化レベルで見れば、どっちでも大差が無いけどな」

 「体型小型化とリンクしているんじゃないのか」

 第二次性徴の低年齢化と別に21世紀中盤からの成熟体型の小型化の統計もWHOにより報告されていた。

 「そっちとの関連も指摘されてはいるが・・・。Makroevolution(大進化)の可能性を指摘する連中が増えているんだ」

 「お前の嫌いなサイエンス・ライターが書きそうな話だな」

 カルロスの専門はアルフと同じ遺伝子関係でも、どちらかと言うと進化論関係だった。

 「まったくだ」

 「ひょっとして”赤の女王仮説”なんかも出ているのか?」

 「それどころか”今西進化論”まで出だす始末だ」

 「懐かしいな。古典遺伝学の世界だ。で、論旨の展開はどうなんだ?」

 「食糧事情が悪く体型の小型化が進行しているのに、第二次性徴の低年齢化が起きているのは、世代交代のスピードを上げるためではないか、と言う事だ。21世紀後半からの環境激変が種の進化の引き金を引いたのではないかとまで言い出すやつもいる」

 「acceleration(促進)というわけか。なるほど一理ある。だがお前の嫌いそうな話ではあるな」

 アルフ自身はそうでもなかったが、カルロスは見かけの豪放さとは裏腹にロジカルでない話を極度に嫌っていた。

 「おかげでこの間の学会は進行が無茶苦茶だった。罵声は飛ぶわ、掴み合いする奴は出てくるわ・・・」

 「その掴み合いの先陣を切ったのがお前だと聞いたが?」アルフは笑いながら、カルロスをからかう様に聞いた。

 「・・・俺は進行役の責任として止めに入っただけだ」カルロスは苦虫を噛み潰したような顔でそう言った。

 軽い感じの電子音が鳴った。一つ目の染色体のスキャニングが完了したようだった。

 カルロスはコンソールに向き直ると二番目の染色体へのスキャニング指示を行った。

 「最初のやつのデータをお前の端末に転送するから、中身をチェックしてくれ」

 アルフはコンソール脇の端末から自分の端末へとリンクさせファイル化されたデータとアナライザーを起動させた。そして自分のインタフェースの学習パターンも引きずり出し、その端末のオペレーションユニットを初期化させた。

 そして右手のモーションで染色体の動原体位置を拡大させ、塩基の繰り返し配列と相対位置から染色体種類を同定させた。

 「C・・・12番だ」アルフはディスプレイを見つめながら答えた。

 「何か異常個所は?」

 「細かくは時間を掛けないと分からないが・・・特に見当たらないな」

 アルフは自分の端末から手持ちの染色体データを引きずり出し比較を行ってみた。特に異常は見つからなかった。手持ちのデータとの差異も遺伝子多形の範囲内、つまり個人差程度しか見つからなかった。

 「ノーマルだ。少し遺伝子の数が多いような気がするが・・・0.02%。だが正常の範囲内だ」

 「そうか、じゃあ化け物というわけではなさそうだな」そう言ってからカルロスはシマッタという顔つきをした。「すまん。余計な詮索はしない約束だったな」

 「気にするな。出処さえ聞かないでくれたらそれで良いから」

 やがて二番目の染色体のスキャニングが終わった。アルフは端末からデータを開き、染色体番号の同定を行おうとした。

 見たことが無い繰り返し配列だった。「分からん。カルロスちょっと見てくれ」

 「確かに動原体の構造はしているが、俺も見たことが無いぞ・・・他に番号を特定できる遺伝子は無いのか」

 「いまマッチングを取っている」

 アルフは分析された塩基列から遺伝子種類を確定させ手持ちのデータベースとの比較を行ってみた。だが比較どころか遺伝子の確定自体がほとんど進まなかった。

 「遺伝子がろくに確定できない。確定率二割だ・・・変だ・・・動物固有の遺伝子があまり見つからない・・・」

 「そんな馬鹿な!」カルロスは端末の画面をじっと覗き込み、やがて唸るような声をあげた。「訳が分からん・・・どうする?・・・コンタミ(異物混入)の可能性もあるぞ」

 アルフはじっと考え込んだ。確かにコンタミの可能性は十分あった。だが前回のアナライザーの結果をよく考えればこうなるのは必然だったかも知れない。「このまま行こう・・・」

 次々と解析は進んでいった。二人とも口数が段々少なくなっていた。24個目まで解析が終わった。染色体番号が確定できないものが8つ出てきた。ちょうど三分の一。形状異常の染色体群の数と一致していた。

 丸一日が経過した。

 「アルフ、この間のお前の論文を見たんだがな・・・」沈黙に疲れたのかカルロスが話しかけてきた。

 「先日の学会のやつか?」

 「そうだ。あれはまずくないか?」

 「気がついたのか」

 「ああ」

 それは自分のテーマであるヒトの体形成におけるメタルール適用の論文だった。それは微妙なニュアンスで還元主義に対する疑問を提示していた。カルロスの指摘はその部分を指していた。

 基本的に遺伝子工学を含む分子生物学は還元主義の立場を取っている。それは人間の発生や生物の進化が全てDNAのレベルに還元して説明可能だと言う立場である。アルフの担当教授もアルフの属する学派も基本的にはこの立場に位置している。担当教授などはコチコチの還元主義派といえた。
 
 だがアルフは、体形成を専門に扱う上で還元主義の立場に限界を感じ始めていた。あの論文はそうしたアルフのギリギリの抵抗だった。教授が仔細に論文を検討すれば問題にされるのは目に見えていた。

 「還元主義ではだめだということなのか?」カルロスが聞いた。

 「分からん」アルフは首を振った。「使い古された例えだが、手の発生の遺伝子は分かっても何故指が5本なのかを説明する遺伝子は見つからない・・・」

 「だから形態形成場理論だと言うのか! 追試や観測不能な概念を持ち込めば科学は成り得ないだろう。そうならない為の高次言語導入ではなかったのか?」

 「俺だってシェルドレイク仮説を頭から信じているわけではない。だがいくら高次にルールを組み上げたところで体形成の枠組みは見えてこない・・・幼体成熟だって形体場で考えたほうがスムーズなのはお前にだって理解できるはずだ!」

 「俺は獲得形質遺伝もシェルドレイク仮説も信じない! ラマルク進化論が実証によって否定されているのをお前だって知らないわけじゃないだろう」

 たしかにラマルク進化論も獲得形質遺伝も形態形成場理論も実証により否定されている。しかしそれでもなお亡霊のように議論が復活するのは、それが理論の枠組みとしては受け入れやすいからでもある。その意味で還元主義もまた勝利をおさめている訳ではなかった。

 「俺が言いたいのは、視点を変えなければ分子生物学も量子物理学と同じ袋小路に入り込むと言うことだ」アルフは何かに叩きつけるようにつぶやいた。

 「だがなアルフ!・・・」カルロスが急に疲れたように語気を緩めた。「・・・いや・・・止めよう。この手のナーバスな話をするには、俺たちは疲れすぎている・・・そうじゃないか?」

 「・・・そうだな。少し交代で仮眠を取ろう」アルフもそれに同調した。

 二人は持ち込んだ毛布にくるまり床の上で二時間ごとに仮眠を取り始めた。

□■■□□

 奇妙な夢を見た。

 それは昔死んだ妹の夢だった。

 「わたしの存在には意味が無いの?」妹はそう言って泣きじゃくっていた。

 アルフは妹の小さな体を抱きしめた。

 「わたし達は意味があるから存在するわけではない。存在することに意味があるんだよ」そう答えた。

 しっかりと抱きしめている筈なのになぜか頼りなげな感触だった。

 「それでは、わたし達は何処へ行けばいいの?」

 アルフはその問いに答えることが出来ずに一層強く妹を抱きしめた。

 それは冥く切ない夢だった。

□■■□■

 「・・・アルフ・・・起きろ・・・」

 肩を揺り動かされアルフは目を覚ました。

 「ちょっと見てくれ。よく分からんデータがある」カルロスは端末を指差した。

 不快な夢の残り滓が頭の中にこびりついているような気分だった。口の中が粘つき吐き気がした。

 「まてよ、コーヒーくらい飲ませろ」

 アルフは起きあがると、ポットのコーヒーをカップに注ぎながら端末の画面を覗き込んだ。

 「7番目の染色体と32番目の染色体だ。Bの5番だと思うが・・・同じに見えないか・・・?」

 「同じって、相同だから同じだろ」カルロスが何を言い出したのか良く分からなかった。

 「相同とか相似というレベルではないぞ、これでは同一だ」

 「なに!?」その言葉で一気に目が覚めた。

 カルロスの言いたい意味が分かった。対の相同染色体は同じ種類の染色体であっても同じ遺伝子を含むわけではない。血液型のABOの様に同じ遺伝子座に違う種類の遺伝子を含むことが普通である。相同染色体はそれぞれの親から一つずつ染色体をもらうから基本的な機能は同じでも中身がまったく同じ事などありえないはずだった。

 「対立遺伝子座にある遺伝子が全て同じだぞ」

 もちろん血液型ならば同じ遺伝子座に同じA型の遺伝子が乗っていることもある。しかし全ての対立遺伝子座に同じ種類の遺伝子が乗ることなど確率的に限りなく低かった。

 「本当に全部同じか?」

 「自分で見てみろ」カルロスが椅子ごと体をよけ、端末の前を空けた。

 B5番染色体の対立遺伝子座の一覧表を呼び出し二つの染色体の遺伝子型を当てはめてみた。結果は100%同じ遺伝子型が並んだ。今度は塩基配列ごと比較プログラムに掛けてみた。相似率は99.98%。テロメア配列の長さとメチル基の量が違うだけでまったく同一といっても良いくらいだった。

 「確かにほとんど同じだ。だけどメチル基の量が違う。メチル化の具合を調べてみるから、スキャナーの方は頼めるか?」

 「気にするな、こっちは任せておけ・・・」

 アルフは染色体中のCpGアイランドの場所をリストアップし一覧表を作成した。CpGアイランドは約1600箇所見つかった。通常より2割程度多かった。メチル化されたシトシンを検出し一覧表に当てはめる。そしてメチル化を受けた未機能遺伝子の種類を洗い出した。特殊な遺伝子があるわけではなかった。しかし単一機能遺伝子より、リプレッサーや転写活性化因子の構造決定を行う調節遺伝子や誘導性酵素に絡む遺伝子が妙に多かった。

 眠気はもう感じなかった。頭がますます冴えてきていた。

 他の染色体も同じようにメチル化された遺伝子のリストアップを行った。どの染色体もわずかずつ平均より多かった。

 残りの第三ゲノムの種類が判別不能だった染色体群も解析してみた。こちらはもっと異常だった。半分近くの遺伝子がメチル化され、残りも単一では機能しない遺伝子ばかりであった。

 アルフは端末から自分が普段使用している遺伝子の機能連鎖を解析するツールを呼び出した。こうなれば徹底的に追跡してみようと考えた。

 自分の研究テーマであるメタルールを解析する際にターゲットとして使用している第二次性徴のロジック部を追跡してみた。細胞外マトリックスの一種であるプロテオグリカンと呼ばれる特殊な加齢に絡むタンパク質の合成部と受容体生成部を探し出し、追跡を開始した。しかし追跡の連鎖はすぐに途切れた。通常存在するはずの連鎖をなす受容体生成部がリプレッサーにより不発現になっていた。そのリプレッサーを生成する元を順次辿ってみるとやがて奇妙な細胞膜受容体を見つけた。それはデータベースに合致しないタイプだった。つまりヒトの体内で合成されない酵素に合致するタイプの受容体ということだった。

 アルフは別なデータベースを呼び出し、検索させた。やがて合致するタイプが見つかった。古くから遺伝子治療用にと考えられていたエクジソンという酵素にたいする受容体遺伝子だった。遺伝的に発症する確率が高い後天性の病気、例えばガンに対し、あらかじめ特定のガン細胞を死滅させる因子を組み込んでおく。通常はその因子を不発現とさせ、ガン発病後にエクジソンを接種し、因子が発現するように遺伝子を組み込んでおく。そういった場合の遺伝子治療で検討されていたタイプのヒトの体内では合成されない酵素を受容する遺伝子だった。

 だがアルフの記憶ではこの遺伝子や酵素が実際に遺伝子治療に使用された例を知らなかった。あるとすればジェネティック・ブレークダウン以前に行われた遺伝子治療での子孫の可能性だった。

 今度はヒト由来以外の酵素に関する遺伝子を検索してみた。データベース上の一般酵素全部とのマッチングのため、かなりの時間を要した。

 528種類ものヒト由来以外の酵素受容体に関する遺伝子が見つかった。それは第三ゲノムの不明染色体に特に集中していた。どうやら第三ゲノムの染色体は外部酵素に応答して機能する遺伝子の塊のようだった。

 今度はその受容体反応をトリガーにした遺伝子の連鎖反応をシミュレータで追跡を始めた。明らかに人為的に組まれた一種の論理回路の様に多重の条件が必要な発現機構さえ備えていた。

 「アルフ。終わったぞ」黙ってスキャナの操作を続けていたカルロスが声を掛けた。「時間はまだ少し残っているが・・・どうする?」

 「引き上げよう。研究室の端末のほうが仕事が進む」アルフはそう答えた。

 全てのデータを研究室の端末に転送し、手元の端末の中のデータを削除した。ターゲット容器を洗浄し、冷却装置の電源を切り、そしてミッドマイヤーの研究所を引き上げた。

 

□■■■□

 

 「とりあえず現時点で分かっているデータを説明する。これに対してカルロスの方から疑問点を提示してくれ。それで議論を進めよう。まず染色体だ」

 アルフは三次元ディスプレイの投影像をカルロスにも見えやすいように目一杯拡大し、箇条書きで項目を表示させていった。

 (1)染色体数は69個
 (2)第一ゲノムと第二ゲノムはほぼ同一
 (3)ただし第一ゲノムと第二ゲノムの間でもメチル化の具合は違う
 (4)第三ゲノムはヒトの染色体と極端に相違している
 (5)第三ゲノムはほとんど未機能遺伝子の集まりである

 「質問してくれ」アルフはディスプレイに背を向けカルロスを見た。

 「まず染色体の69個だが、コンタミの可能性は無いのか?」

 「多分正しい結果だと思う。以前この細胞をアナライザーに掛けたとき、46個の動原体を検出して、23個の動原体を確定した。つまり第一ゲノムと第二ゲノムの動原体は群として同一とみなされたが種類は確定できたわけだ。残り23個の第三ゲノムの動原体が確定できなかった。このとき確定できた染色体由来のDNA断片を削除したら残りが三分の一しか残らなかった。この結果と生物学の連中が行った染色体固定の結果を合わせて考えればまず間違いは無いと思う」

 「では69つまり三倍体は正しいとして、この遺伝子の持ち主がヒトの成熟体として正常でいられる可能性は?」

 「可能性はある。第三ゲノムはほとんど未機能遺伝子の塊だ。遺伝子的障害を起こしていない可能性は十分ある」

 「第一ゲノムと第二ゲノムの染色体が相同ではなく同一だという問題があるぞ。これで遺伝子障害が起きる可能性もあるんじゃないのか? 大体どういう成立過程を踏めば同一染色体が同一細胞内に存在できるんだ?」

 「遺伝子障害に関しては、対立遺伝子座に同一遺伝子が乗っていることで過剰タンパク生成が考えられるが、ざっと見た限りでは片側にメチル化が掛かっていてバランスが取れているような気がする。三倍体の成立過程に関しては一般的には2精子受精だが・・・」

 「だが2精子受精ならば同一染色体になることは無いぞ。卵子融合でも交叉でばらつくから同一染色体になる可能性は無い」

 「では、減数分裂後の卵核が何らかのきっかけで倍化して元の2倍体になったところに受精した可能性は? もしくは減数分裂直前に倍化していた可能性もある」

 「しかしそれでは第一ゲノムと第二ゲノムでメチル化がばらついているのが説明できないだろう。倍化などの増殖では基本的にメチル化は継承されるだろう」

 「確かにそうだ。究極の可能性としては両親が一卵性の男女の双子だった場合かな。XOとXYのモザイクならば一卵性の双子で男女の可能性があるだろう。それで、たまたま精子と卵子で交叉の結果ほとんど同一になった。だが天文学的に可能性が低いな・・・三倍体の成立に関してはもう少し分析してみないとなんとも言えんな。他に疑問点はあるか?」

 「これが一番肝心の質問になるんだが・・・この染色体は自然に出来たものなのか?」

 「遺伝子工学の産物ではないかと言うことか・・・その回答は具体的に遺伝子の中身を説明しながらの方が良いな。まだ片鱗しか追いきれていないから、結論を出すには早すぎるが現時点で分かっていることを説明する」

 アルフは端末に向き直り、表示している項目を書き換えた。

 (6)ヒト由来以外の酵素受容体に関する遺伝子が第一ゲノム第二ゲノムで48箇所、第三ゲノムで528箇所検出された
 (7)第二次性徴の発現因子が加齢や体成長に依存していない可能性がある
 (8)細胞外発現因子のロジックが多重化している部位がある

 「項目6だが、どんな種類の酵素が多いんだ?」

 「判っているのでは昆虫の変態ホルモン系が多い。前胸腺刺激ホルモン(PTTH)やエクジソン(脱皮ホルモン)は見つけた。他はまだ同定できていない」

 「エクジソン? 21世紀の頭に遺伝子治療のトリガーに使ったやつか?」

 「そうだ。だが俺は実際に治療に使われたと云う話は聞いたことが無い」

 「俺も使用実績に関しては聞いたことが無いな。だが公表されずに使われている可能性はあるだろう」

 「まあな。だから遺伝子治療患者の子孫のかもしれないが、その手の酵素受容体の数が多すぎるのと、ロジックが複雑過ぎる。第二次性徴のトリガーも、さっきのエクジソン単独というわけではなくて複数の酵素が時間的要素も絡めてロジック化されている。パズル化された論理回路を見てるみたいだ。つまり・・・限りなく人工的だ」

 「sDNA(化学合成DNA)か?」

 「かもしれない。しかし俺もうわさ程度しか知らないが、あれはロジックから組み立てた訳ではなくて、代表的なヒトのDNAの人工コピーだと聞いている。Saigyo(西行)プロジェクトの時点でも遺伝子の全機能を理解して合成したというよりもヒトのDNAコピーを組み込んだと聞いたが・・・それにあのプロジェクトは失敗して中止したはずだろ」

 しばらくカルロスが考え込む素振りした後、おもむろに口を開いた。「プランツというヤツを知っているか?」

 「Pflanze(植物)?」アルフはアクセントが良く分からずに聞き返した。

 「いや植物の方ではなくて・・・俺も噂でしか聞いていないし・・・信じているわけでもないんだがな・・・なんというか・・・21世紀の後半に愛玩用の人形のような合成人間の少女を作ったという話を知らないか?」カルロスは言葉を選びながら話にくそうに問い返した。

 「知らない」アルフは首を横に振った。だが”プランツ”という単語自体になぜかひどく引っかかるものを感じた。

 「Saigyoプロジェクトの生き残り連中が・・・いや、正確に言うとSaigyoプロジェクトの次に”イブ”というプロジェクトがあったらしい。結局その”イブ”もフレイヤ・フォールで中止になるんだが・・・その生き残りの遺伝子工学者が”プランツ”という合成人間を作ったらしい。なんというか・・・そいつはひどく凝ったつくりをしていたらしい」

 「凝ったつくり?」

 「体成長の制御というか・・・成長の加速とか成長を停止させるとかが外部から制御できたらしい」

 「もしそれが本当なら凄いな。体成長を制御できると言うことはかなりの遺伝子ロジックを解明していたことになる」

 「本当にそんなことが出来たとは思えないが・・・今のおまえの話を聞いてちょっと思い出した」

 「とにかく遺伝子の発現制御に関してはヒストンのデータも一緒に入れなければ良く分からんから。シミュレーターを使って、もう少しロジックを追ってみる」

 四日間の作業の疲れがじんわりと押し寄せてきていた。これ以上は明日にしようとアルフは提案した。カルロスもさすがに疲れたのか簡単に同意した。アルフは作業を中断しようと端末に手を伸ばした。

 最後に一つだけ聞きたいとカルロスが話し掛けた。「この遺伝子は”種”として確立していると思うか?」

 「種としてか・・・」難しい質問だった。アルフは伸ばしかけた手を止め、考え込んだ。種として成立する前提条件としてはまず相互に交配可能であることが必要だった。「まずこの三倍体の形式で減数分裂が可能かどうかだが・・・」

 そのときアルフの背後の端末から耳障りな調子の警告音が鳴った。

 振り向いて映像を見ると、外部からその端末へのアクセス警告のメッセージが踊っていた。

 端末の音声入力回路を開き音声で命令した。「ログ・オン・チェック(アクセス者確認)」

 ”Person unbekannt(アクセス者不明)”のメッセージが返った。

 アルフとカルロスは顔を見合わせた。アクセス者が特定できないということはこのシステム上あり得ないはずだった。

 ファイル検索が起動された。アクセス者は何かのファイルを探し廻っている様だった。
 
 「アクセス・シャット・オフ!(通信路遮断)」アルフがさらに命令を追加した。

 ”Unausfuhrbar befehlen(命令実行不能)”それに続いてメッセージが流れた。”Transzendent privileg mode(超越特権モード)”

 「なに!?」アルフは”超越特権モード”などという状態がこのシステムで存在すること自体知らなかった。

 「ライン・オフ(回線断)!!」アルフがシミュレーターに向かって叫んだ。

 しかし再び同じ”命令実行不能”のメッセージが流れた。

 アクセス者は目的のファイルを探し当てたようだった。ミッドマイヤーで解析したファイルがアクセス者によりオープンされた。

 「システム・シャット・ダウン(緊急停止)!!」再び慌てて叫んだ。

 だが命令は受け付けられなかった。すべての命令がアクセス者により排除されていた。

 「ケーブルを引っこ抜け!!」カルロスがそう叫んだ。

 アルフは端末の背後に飛びつくと外部接続用のインターフェース・ケーブルをつかんだ。固定用のフックに引っかかりうまく抜けなかった。仕方なくケーブルを力任せに引き抜いた。フックの爪が割れ宙に飛んだ。端末からヒステリックな警告音が流れた。

 「何が起きたんだ・・・?」カルロスが呆然とつぶやいた。

 「ハッキング・・・?」アルフは端末を操作し、アクセス記録を調べた。「やられた・・・ミッドマイヤーの解析結果のファイルを削除された」

 「復元は?」

 アルフは首を横に振った。「削除領域にジャンク・データを突っ込まれた・・・復元は無理だ」

 「だが・・・細胞はまだ手元にある・・・」しかしアルフのその言葉に力は無かった。

 二人は得体の知れない虚脱感に包まれ呆然と顔を見合わせ続けた。



□■■■■
第4章『還元体(リダクション・ボディ)』










 昼過ぎまで眠りつづけ、アルフが大学に出てきたのはもう夕方近くだった。

 大学の門の脇に一人の男が立っていた。見覚えの無い男だったが、男のほうはアルフの顔を確認するとそのまま近寄ってきた。

 「アルフ・ヘイガーさん?」男がアルフの名を呼んだ。

 「そうですが・・・」妙ななまりと男の顔に、アルフは記憶に引っかかるものを感じた。

 「マーク・ネイザンです」

 アルフは思い出した。マリアのマネージャーと名乗った男だった。

 「お話があるのですが・・・」

 マリアのマネージャーならば、話はアルフの方にも幾らでも有った。だが会話を続けるにはあまりにも不似合いな場所だった。アルフは自分の研究室へと誘った。

 「いえ、私があなたと接触しているのを大学の方に見られると、あなたにご迷惑が掛かる可能性があります。私は財団とも絡みがありますので・・・」

 「ミッドマイヤーと?」

 男はそれには答えず、待ちつづけて体が冷え切ってしまったのでカフェにでも行きましょうと、歩き始めた。アルフは黙って男についていった。

 大学の近所のカフェに入り、コートを脱ぐと男はコーヒーを注文した。愛想の悪いウェイトレスがカップを二つ置き、そしてポットからカップへとコーヒーを注いだ。

 「単刀直入に話を進めたいと思います」会話の口火を男が切った。

 アルフは黙って肯いた。

 「ミッドマイヤーで遺伝子解析した細胞を返して頂きたい」

 「あんたが俺の端末に侵入してファイルを削除したのか!!」おもわずカップをひっくり返しそうになった。大きな声にウェイトレスが不審そうに顔を向けた。

 男はアルフの興奮が収まるのを待つようにしばらく黙った後に、その通りだと答えた。

 「あの細胞はマリアのものなのか?」だれが聞いていないとも限らなかった。アルフは声のトーンを落とした。

 「あの細胞の遺伝子を解析されることは、我々にとって非常に困ることなのです」アルフの質問には答えず、男は一方的な主張を繰り返した。

 「我々? それはシンジケートのようなものなのか?」

 「シンジケートですか・・・」男は自嘲じみた笑いを浮かべた。「そんな大層な代物ではないのですが・・・まあ、それでもいいでしょう。他にうまい用語も見つかりませんし」

 男はカップを手に取ると、ゆっくりと香りを楽しむようにコーヒーを口にした。それを眺めるアルフの頭の中で質問の渦が舞っていた。

 「マリアに逢いたくはないですか?」質問の機先を制するように男がアルフの一番聞きたかったことを聞いた。

 「あなた方に監禁されているのか?」素直に逢いたいと言うのはためらわれた。

 「監禁とは、穏やかではない・・・そんなことはしていません」男は再び自嘲じみた笑いを浮かべた。

 「では、なぜ帰ってこない」

 「帰れる状態では無いからです」男の目が一瞬鋭さを増した。

 「なぜ?」

 「それを説明するのは難しい・・・しかし他にも色々と質問があるでしょうね」男はアルフの顔をじっと見詰めた。

 「当然、山ほどある」アルフも男をにらみ返した。

 「そこで交換条件です。マリアにも逢わせましょう。あなたの質問にも全て答えましょう。但し・・・細胞を返して頂きたい。もっともあなたの質問は多分に専門的な話になるでしょうから、私には答えることが出来ません。別な人間に会って頂く必要があります」

 「別な人間?」

 「そう。なんと言えば良いかな・・・あなたの言い方を借りてシンジケートのボスとでもしておきましょう。その人間ならあなたの専門的な質問にも答えられるでしょうし、多分納得もして頂けるでしょう」

 「分かった。そのボスとやらに会って、納得できたら細胞は返す。それで良いか?」

 「それで結構です。それでは、ご足労ですが移動して頂きたい。足は用意してあります」男は性急に立ちあがった。

 「移動? どこへ?」

 「日本です」

■□□□□

 初めて乗るSTRATO―GP(成層圏滑空機)は、話に聞いていた程は不快感を感じなかった。リニアモーターと水素燃料によるタービンジェットを用い巨大な機体を離陸させた後、ラムジェット、そしてLOI(液体酸素供給)と次々に推進方式を切り替え成層圏を突き抜けた。高度6万メートルに達した機体は、LOIにより時速2万2千Kmまで加速し、その後薄い大気中で揚力を稼ぐために大きくその翼を広げ滑空を始めた。

 アルフはかなりの低重力を感じた。大気分圧1000分の1の超高空では、いくら翼面積を稼いでも滑空というよりは落下に近かった。だが数分もすると機体は衝撃音と共に濃い大気層に到達し、滑るように滑空をはじめ重力も通常に戻った。

 男は不機嫌そうに押し黙ったまま、じっと宙を睨んでいた。アルフの問いかけにも曖昧な返事を繰り返すばかりだった。

 「あなたはどこの出身なんだ?」長い沈黙に耐え切れずにアルフが話し掛けた。マリアもそうだったが、この男も人種特定しにくい容姿をしていた。

 「生まれた国を聞いているのか、それとも民族か、それとも人種の話か?」珍しく男が反応した。「生まれた国は日本だ。民族なんて言葉は国連のRACC(資源割当調整委員会)の席上で割増を懇願する時にしか意味をなさない死語だと思っている。それとも人種形質という血液型ほども当てにならない話をしたいのか?」男はなぜか怒ったように言い放つと、シートに体をうずめ押し黙った。

 人種形質(racial characteristics)という専門用語が男の口から出たことに、アルフは少し驚いた。なぜ男が不機嫌なのかはよく分からなかった。おそらくアルフを連れてくることは、男にとっては本意で無かったということなのだろう。

 やがて機体は減速体制に入り始めた。機首を上げ投影面積を稼ぎ、空気抵抗による減速を開始した。信じられないほど機体が揺れた。アルフはシートにしがみつく様に体を緊張させた。話に聞いていた不快感はこいつかと頭の中で舌打ちした。

 機体は濃い大気の層にぶつけるように周期的にジャンプを繰り返しながらやがて音速以下の速度に落とした。そして機体は機首を下げると日本で唯一の10km滑走路を持つTokachi空港へと滑るように舞い降りた。

 「ここで乗り換える」男は足早にゲートを通りすぎた。

 その男の言葉でこの北海道が特別自治区だったのを思い出した。

 「あの振動が平気なのか?」緊張しすぎて萎えた足を引きずりながら男に聞いてみた。

 「人間は何にだって慣れることはできるさ」男は答えた。「ところであの細胞サンプルを出してくれ」

 アルフは一瞬身構えた。

 「別に取り上げようという訳ではない。それをやるくらいならとっくにやっている。一応検疫を通さなければならんからな。書類は作ってあるから手間は掛からん」

 男の言う理屈には納得できた。アルフはおとなしく保冷パックに入れた容器を男に手渡した。

 確かに検疫の手間は掛からなかった。検疫官は書類に目を通すと容器にはほとんど興味を示さず通過させた。よほど書類に信頼を置いたということだった。

 検疫カウンターを通り過ぎ保冷パックを無造作にアルフに手渡すと、男は再び足早に歩き始めた。なぜか男は細胞サンプルにほとんど興味を示していないように見えた。

 「よく分からないのだが・・・」アルフは男に質問した。「あんたは細胞を分析されるのは非常に困ると言っていた。細胞を返せとも言った。だが実際、あんたは細胞にはほとんど興味が無さそうに見える。何故なんだ?」

 男は立ち止まり、そして振りかえった。「俺のマ・・・いや・・・ボスの意見と俺の意見は違うという事だ」言葉を途切らせ一瞬物憂げな表情を浮かべた。「俺はあの遺伝子に振り回されるのはもうウンザリなんだ・・・」

 「どういうことなんだ?」アルフは再び問い返した。

 だが男はそれには返事をせず黙って歩き出した。

■□□□■

 地方都市の小さな空港に降りると車に乗り換えた。雪の降る土地柄のようで、空気は冷え切っていたが風は無く、日差しは穏やかだった。ターンパイクは空いていて路面はきれいに除雪されていた。標識のアルファベットを眺めながらアルフは車が首都に戻る方向に進んでいることを知った。

 やがて車はターンパイクを降り、山岳地帯の狭い山道を抜け、やがて古い洋館の前で止まった。

 男は車を降り、アルフもそれに随った。建物は20世紀初め頃の曲線から直線へと表現様式が移り変わった頃のデザインだった。みすぼらしいという感じはしなかったが、ずいぶんと古びていた。素人による改築が何度も入っているようで、それが様式との不釣合いな印象を与えていた。

 男は慣れた様子で玄関まで行き黙って扉を開けた。何かの店なのか扉に看板が掛かっていたが、アルフには看板の文字を読むことは出来なかった。男の後について扉の中に入るとかすかに消毒薬の匂いがした。

 廊下には待合室のように長椅子が一つ置かれていた。男は長椅子の向かい側の扉を開けると身振りで先に入るように促し、部屋の中で待っていてくれと言った。

 部屋の中は机と肘掛のついた椅子と丸椅子が一つずつ、部屋の隅には医療用のベッドが置かれていた。個人医院の診療室といった趣だった。内科系が主体なのか、それとも治療室は別にあるのか、診療器具としてはごく簡素な物しか置かれていなかった。その中で三次元投影ディスプレイだけが不釣合いな程新しかった。アルフが研究室で使用しているものより最新型が置かれていた。

 丸椅子に座ろうかとも考えたが、なんとなく落ち着かずに周りを眺め続けた。ふと机の上の書籍が目に入った。背表紙の英語から遺伝子関係の専門書だと知れた。書籍の形での専門書など大学の図書館の倉庫か博物館でしか今ではお目に掛かれなかった。アルフは興味に駆られて人の物だというのも忘れその書籍を手に取った。

 『The futuer of gene』表紙の革に金の箔押しでそう書かれていた。作者名の表記が表紙に無かった。アルフはページを繰って奥付を探した。奥付には『2060,3,4 Karl MIDMAYER』と書かれていた。ミッドマイヤー財団の創設者の名前だった。アルフの知らない文献だった。さらにページを繰ってみた。遺伝子工学の専門書というよりも遺伝や進化論関係の文献のようだった。見なれない統計学の数式やグラフがやたらと多かった。書籍の後半の章タイトルが目に入った。『Paradigm of 10th power of 10』10の10乗? 奇妙なタイトルにアルフは一瞬訝しんだ。

 廊下を歩く足音がした。アルフは慌てて本を机の上に戻した。

 扉を開け現われたのは淡いブロンドの髪を引っ詰めに結い、白衣を着た上品そうな老婦人だった。

 「お待たせしてごめんなさい。ヘイガーさん」

 60から70位の年齢だろうか、背筋がピシッと伸び、声も凛として張りがあった。

 アルフはどう挨拶すれば良いか一瞬戸惑い、曖昧に手を差し出した。「ええと・・・」

 老婦人の背後から男が声を掛けた。「ヘイガーさん。こちらがシンジケートのボスです」

 「いやね。なんの冗談?」老婦人は、おやおやという顔をして男を振り返った。

 「まあ、一応そういうことになっているので」男は肩をすくめ、少しおどけた仕草をした。

 「親をからかって遊ぶ癖は相変わらずだね、お前は」

 「別にそういう訳じゃない。彼に説明するのに楽だっただけだよ」

 「ごめんなさい、ヘイガーさん。この子、失礼なことしなかった?」老婦人はアルフに向き直ると手を差し出した。

 「いえ・・・」アルフは曖昧に返事を返し、握手をした。まさか会わされるのが男の母親だとは思わなかった。

 「野々宮瑠璃です。遠い所までいらして下さって、ありがとうございます。本当は私の方で出向かなければいけなかったのですが、ちょっとここを離れられない事情があったもので・・・」老婦人はそう言うと、懐かしい人を迎えるように握手した手にもう片方の手のひらを重ねた。「こんな診療室で申し訳ありませんが、お座りになってください」

 アルフは所在なげに勧められた椅子に腰をおろした。聞きたいことは山ほどあったはずだが、何を聞けばいいのか分からなくなっていた。アルフは保冷パックに入れた容器をポケットから取り出した。

 「この細胞はマリアのものなのですか?」その質問を口にした瞬間、答えを聞くのが怖いという思いがアルフの頭をよぎった。

 「そうよ」瑠璃は淡々と答えを口にした。

 一瞬頭の中を痺れるような感触が通り過ぎていった。

 「この細胞はトリプロイド(三倍体)だと思うのですが、それも間違っていませんか?」アルフは畳み掛けるように質問した。

 「間違っていないわ。その通りよ」瑠璃はゆっくりとうなずいた。「ヘイガーさんはどこまで解析したのかしら?」

 「あまりたいした事は分かっていません。シーケンスは解析しましたが、ロジックまでは追いきれていませんでしたし・・・」

 「ごめんなさいね。あのファイルを削除したのは私なの。中途半端な形であの遺伝子を解析されたくなかったの」

 「どうやって私の端末に侵入したのですか?」

 「私は財団にコネのようなものがあるの。財団に関連する研究所や大学のネットワークには、ある種のトラップが存在するの。それを使わせて貰ったのよ」あまり悪びれたふうもなく瑠璃は答えた。「それにあなたが遺伝子工学者だというのは聞いていたから。用心していたという事もあるわね」

 「あなたとマリアはどういう関係なのですか?」

 「マリアは私の孫娘よ」

 「血の繋がった?」

 老婦人は肯いた。

 「あの遺伝子は・・・自然なものなのですか?」

 「あの娘が造られた物という意味かしら?」

 アルフは肯いた。「少なくても、自然に種として存在する事は難しいと私は判断しましたが・・・」

 「難しい質問ね。でも少なくてもあの娘は私の娘から自然出産したのよ。そういう意味では自然なものではあるけど・・・。でも・・・」

 「でも・・・?」

 「私は自然なものではないわね・・・」瑠璃は少し寂しそうに顔をゆがめた。「私も三倍体なのよ」

 「しかし、三倍体でどうして子供が作れるのですか?」老婦人の表情にアルフは聞いてはいけない事を聞いているのではという思いを感じた。けれど、どうしても聞かずには居られなかった。

 「ヘイガーさんも専門家だから回りくどい説明はしないほうが良いわね。当然の事ながら減数分裂はうまく行かないわ・・・。三倍体の生物の一般的な生殖方式は知っているでしょ?」

 それは生物学の基礎的なことだった。

 「・・・単為生殖?」アルフは恐る恐る口にした。だが哺乳動物でそんなことが可能だとは思い付きもしなかった。

 「そう、無性生殖アポミクシス(apomixis)よ」

 「ではあなたの遺伝子もマリアの遺伝子も同一なのですか?」

 「まったく同じよ・・・」

 「失礼ですが、同一遺伝子の割にはマリアは似ているように見えませんが。それに、彼は?」アルフは老婦人の脇に立っていた男に視線を移した。アポミクシスで男が生まれる筈は無かった。

 「この子も私の子供よ。でもまったく同じ遺伝子なの・・・」老婦人は悲しげな表情を浮かべ男を見上げた。

 話を引き継ぐように男が喋った。「遺伝子の発現機構が特殊なんだ。同じ遺伝子でも同じ表現形態を取らない。だからマリアも似ていないだろ? 俺の場合はXYの発現形態だったという訳さ。もっとも俺には子供を作る能力は無いがね・・・」男は老婦人の肩にそっと手を置いた。「もう気にするなよ、母さん」

 アルフはマリアの細胞からSRY遺伝子を検出したことを思い出した。

 「遺伝子解析したのなら遺伝子量が少し多いことには気が付いたでしょ? 私達のDNAには代表的な表現形質が揃っているの。そういうふうに私達は・・・いえ、私は作られたのよ」

 「なぜ? 何の為に?」

 「長い話になるわ・・・」老婦人は遠い記憶を呼び起こすように視線を宙に彷徨わせた。「プランツという物をご存知かしら?」

 「最近友人から聞いた。細かいことは知らないけれど、21世紀後半に作られた合成人間という様に聞いている」

 「そう、それでは話が早いわ。私がそのプランツなの」

 「あなたが!?」

 「どこから話を始めれば良いかしら・・・。そう、2020年代の後半くらいかしら。WGAIOはご存知よね?」

 アルフは肯いた。

 「その当時WGAIOの中で、ある秘密の研究プロジェクトが行われていたの。正式名称はよく分からないのだけど、通称は”オメガ”と呼ばれていたらしいの。内容は”進化加速実験”。その研究の目的は人類の進化を確認するものだったのよ」

 「人類の進化を・・・? そこまでシミュレーションが出来るとは・・・当時の技術はそこまで進んでいたのですか」

 瑠璃は力なく首を横に振った。「そうではないの・・・。当時の技術力も今も、そんなに違いがあるわけではないの」沈痛そうな面持ちを浮かべた。「ヘイガーさん。あなたがその方法を思い付かないのは健全な証拠ね・・・それはシミュレーションではなかったのよ」

 「シミュレーションではないって・・・まさか! 人体実験? 当時でもそれは1級の犯罪の筈では・・・」

 老婦人は顔を伏せた。「そうなの。もともと遺伝子関係の研究の暴走を防ぐ意味で設立されたWGAIOだったけど、設備と人材を集中させることによって逆にもっと酷い暴走を招いてしまったの・・・」

 「それでどういう結果が?」

 「当初の目的からすれば失敗だったわ」

 「何も変化しなかった?」

 「そうでは無かったの。臓器クローニングした子宮と人為的なホルモン操作で成長を加速させて何度も交配を続けて行って、やがて・・・やがて10世代近くになると無秩序な形質異常が発生したわ」

 10世代と云うと自然の状態では200年から250年くらいの期間だった。

 「形質異常?」

 「そう、ありとあらゆる形質の変化が予測不可能に無秩序に起きたの。形態性突然変異体(morphological mutant)、代謝性突然変異体(metabolic mutant)、行動性突然変異体(behavioral mutant)、とにかく色々なパターンが出現したわ。実験は結局何度繰り返しても同じ結果だったのよ。もちろん装置や成長加速剤の影響も検討されたわ。他の種を使った実験も行われたけど、実験の仕組みに問題は無いし、形質異常を引き起こすのは常に人類だけだったの・・・意見が二つに分かれたわ。一つはこの実験はin vitro(生体外)の問題であって実際の進化とは無関係とする派。もう一つは大進化(macroevolution)の可能性を指摘する派。詳細な追試や議論が行われて、やがて大勢は大進化の派に傾いていったわ」

 「断続平衡説(punctuated equilibrium theory)?」

 「そうね、大進化というよりも爆発進化(explosive evolution)に近いかも知れないわね。結局進化の方向性の確認という元々の目的はとりあえず達成しなかったわ。でも・・・」

 「でも・・・?」

 「議論の矛先はやがて何が爆発進化の引き金を引いたかが問題になったの。環境圧力、科学物質汚染、紫外線強度、いろんな要素が検討されて、結局最後に残ったのが選択的遺伝子発現抑制剤(selective gene expression suppressant)の可能性よ」

 「しかしあの薬は遺伝子の発現機構に作用するだけだから、薬の影響が遺伝する可能性は無いはずですけど・・・もし遺伝するとしたら獲得形質遺伝を立証する事になる」

 「確かに獲得形質遺伝も問題になったわ。でもそれはもう少し後の話、さすがに最初から獲得形質遺伝を持ち出す研究者は少なかったようよ。最初の内は減数分裂時の脱メチル化不全の方が問題になったの。薬の影響によって生殖細胞の遺伝子のメチル化が完全に外れない可能性が指摘されたの。それ以外にもテロメアーゼ発現活性剤、8−ヒドロキシングアニン生成阻害剤、主に不老薬として使われた薬剤が遺伝的影響を与えたのではないかという説が有力になったわ」

 「21世紀初頭頃から流行り始めた不老薬ですか。でもあれは効果が疑わしくて発売停止になった筈では? もっとも”始皇”のように社会問題化したやつもありましたが」

 「表向きはね。政治的な配慮もあったはずだけど、基本的には副作用としても問題があったみたい」

 「話の流れがよく分からないのですが。なぜ不老薬や爆発進化の話がプランツに結びつくのですか?」

 「ごめんなさい。もう少しこの話が必要なの。爆発進化の議論は、やがてまた二つの意見に分かれたの。爆発進化を型循環説の立場で型発生(typogenesis)のフェーズと見る意見と型崩壊(typolysis)のフェーズと見る意見よ」

 「型崩壊というと絶滅・・・? しかし絶滅相ではあまり突然変異は見られないのでは?」

 「突然変異体の無秩序ぶりが、そういう想像を掻き立てるのに十分だったみたい」

 「それで結論は結局どちらに落ち着いたのですか?」

 「結論は出なかったわ。その代わり・・・あるときその無秩序だった変異に方向性が出来たわ。哺乳類にはあり得ないタンパク質の合成遺伝子が全ての試験体に突然出現したの。そのとき別な実験室でその遺伝子をヒトのDNAに組み込む実験をしているグループがあったの。それが影響したと考えられたわ」

 「・・・? まさか、形態共鳴!?」

 「そう、ほとんど異端視していたはずのシェルドレイク仮説をまざまざと見せつけられる格好となったのよ。でも何度か実験が繰り返されて再現性の確認までは行えたけど、制御すると云うところまでは行かなかった。共鳴を起こす要因が確定できなかったの。そしてまた意見が二つに分かれたわ。形態共鳴を認める派と認めない派。ただこの先は面白いことに二つの派の利害というか実行しようとしたことが同じになったの。”西行”はご存知?」

 「知ってます。合成人間を造ったというヤツですね」

 「形態共鳴を認める派は、進化の先をコントロールする目的で。無秩序な突然変異の方向性を形態共鳴でコントロールしようとしたの。形態共鳴を認めない派は、ヒトのDNAを保存するという目的で。目的は違うけど利害は一致したの。そして”西行”がスタートしたわ。でも失敗した。一つは形態共鳴がうまく働かなくなった」

 「何故です?」

 「理由はよく分からなかったみたい。形態共鳴自体が同じ条件で追試ができる理論では無いから、前提条件の割り出しが困難だったのと、ミクロなレベルでは現象が起き難かったようね。もともと還元主義に真っ向から対立する理論ではあったし、それが可能ならもっと以前に証明可能な理論と言えるわ。”西行”の失敗のもう一つの原因は、脳機能の障害からか被検体が覚醒しなかったという事」

 「でもDNAを保存することが目的ならば、別に合成人間まで作る必要は無いはずでしょう。ライブラリーにデータ化すればいいし、染色体を丸ごと凍結保存してもいい」

 「そのとおりね。建前を言えば進化の引き金を引いた遺伝子を確定する必要があったし、そのためには合成したDNAでの体成長を確認する必要があるわ。でも、本音を言えば生物学者はだれでもフランケンシュタイン博士に成りたかったのかもしれないわね」

 「で、その後は結局どうなったのですか?」

 「未機能の脳を補完する為に、G−NETの”イブ”を使おうとしたの。人工自我を形成できる超小型のコンピューターユニットよ。でもその頃になると”西行”自体当初の目的を見失っていたみたい。進化やDNA保存の為ではなくて、合成人間を造りたいというふうにね。当初の進化加速実験は、堂々巡りで進展が見られなかったせいもあるけど。その後はあなたも知っているようにフレイヤが南極研究所に落下して、全ての研究が停止。”西行”の実験が表沙汰になって、以後40年遺伝子関係の研究は1級犯罪に指定された」

 「・・・・・・」

 「わたしね、”イブ”の記憶を持っているの。ぼんやりとした記憶しかないのだけれど。わたしが造られたのは21世紀の末だから直接あの災害を知っているわけではないし、”イブ”と直接接触があったわけではないけど。わたしがまだ覚醒したばかりの頃、フレイヤの最後の1台がまだ燃え尽きずに残っていたわ。わたしは半分眠りながら”イブ”の夢を共有していたような気がするの。真綿にくるまってまどろんで・・・そんな感じの暖かくて懐かしい記憶。でも同時に悲しい夢も観たわ。人が沢山死ぬ夢。ダーク・クオーターの時代を”イブ”と一緒に眺めてたような・・・ごめんなさい。話が横道に入ってしまったわね」

 「それは構いませんが、フレイヤ・フォールで全ての実験が中止になったのなら誰がプラン・・・いや、あなたを造ったのですか?」

 「頭脳というかユニットのほうは、G−NETで”イブ”のリーダーをしていた野々宮という研究者。戸籍上はわたしの祖父になるけど。体の方はミッドマイヤーよ。ミッドマイヤー自身は、形態共鳴に懐疑的だったけど遺伝子を残す事には積極的で、生き残りの科学者たちと連絡を取りアンダーグラウンドで研究を進めたの。資金は合成人間を好事家に莫大な金額で売りつけることによって得ていたようね。但し、最初に造られたものは自立行動と系統維持が出来なかった。永遠に遺伝子研究が禁止されるかも知れない状態では最終目標としては自立行動と系統維持できる機能は必要だったのよ」

 「しかし遺伝子研究の禁止条項は21世紀末には解除されている。いまさら秘密にしなければならない理由は無いでしょう」

 男が厳しい顔つきで老婦人を見詰めた。「いいのよ。彼には全て話したほうが。マリアが選んだ人なのだから。信頼しましょう」瑠璃は男に向かってそう話し掛けた。

 「ヘイガーさん。これから先の話は出来ることなら、あなた一人の胸の中で収めて欲しいの。あなたは研究者だから好奇心や名誉心もあることは、わたしにもよく分かるわ。だから約束してとは言えないけれど、でもお願い・・・」

 「よく分からない。この話がそんなに重要だというのならば、なぜ私に話すのですか? 細胞を取り返したかったら腕ずくという手段もある。ミッドマイヤーにコネがあるのならば、それを使って圧力を掛けるという手段もあったはずです」

 「あなたはマリアが愛した人だから。だからマリアを理解してあげて欲しいの。なぜあなたのもとを離れなければ成らなかったのか理解してあげて欲しいの」

 「分からない。マリアはどうしているのですか?」

 「・・・隣の部屋に居るわ・・・」瑠璃は顔を伏せた。

 「入っても構いませんか?」

 瑠璃は顔を伏せたまま返事をしなかった。アルフはそれを肯定の意味に捉えた。椅子から立ちあがり、隣の部屋に続く扉のノブに手を掛けた。病でベッドに臥せっているマリアの姿がアルフの頭の中を一瞬よぎった。

■□□■■

 部屋の中には生物学の実験室のように雑多な実験器具が所狭しと並んでいた。

 試験管やシャーレといった基本的な器具から、超遠心分離機電気泳動装置、微細切断用レーザーカッター、クリーン・ベンチ、最新型のDNAアナライザーまでもが部屋の中に押し込まれていた。

 部屋の中には誰も居なかった。

 アルフは部屋の中央に足を進めた。DNAアナライザーに隠れて円柱形の培養槽が置かれているのが目に入った。器官培養を行うための比較的大き目の容器だった。温度維持と培養液の循環を行うポンプのかすかな音がした。

 ビタミンと人造血漿とFTPA(酸素輸液剤)を混ぜた淡黄色の培養液の中には、白っぽいぶよぶよとした器官特徴を喪失したかなり大きめの組織塊が浮かんでいた。

 何の組織だろう? 溶液中に浮遊して培養しているということは、インテグリン(細胞接着受容体)に反応するタンパク質を培養液中に混入しているか、もしくは組織自体がもともと足場非依存性増殖が可能だということを意味していた。白い組織は悪性の未分化癌(undifferentiated carcinoma)のようにも見えた。

 じっと見詰めていると、頭の奥の方で痺れるような感じがした。いやな想像が頭をよぎった。マリアは既に死んでいて、病変組織だけが残されたのではないだろうか。

 背後でかすかな足音がした。振り向くと老婦人が立っていた。

 「これは・・・?」

 「マリアよ・・・」

 衝撃のようなものは感じなかった。しかし、頭の中の痺れたような感覚が一層強くなった。自分の心臓の音が聞こえた。なぜこんなにもハッキリと聞こえるのだろうか。アルフはその自分の心臓の音にうろたえた。

 「癌ですか?」だがいまどき癌で死ぬ人間など稀なはずだった。

 老婦人は首を横に振った。「癌細胞ではないの。それは還元体(reduction body)よ」

 「還元体?」

 「発生逆行(retrogressive development)なの・・・半年でそこまで逆成長してしまったの」

 「そんなバカな・・・ヒトの体が逆成長するなんてことが・・・」

 「プランツは不完全体なの・・・ミッドマイヤーがヒトの遺伝子を模倣して新しい遺伝子を組み立てても体成長だけはうまく制御できなかったの。個々の器官生育や性徴発現はバラバラなものとしては制御可能だったけど、自立状態で全体制御はうまく出来なかったのよ。だから・・・」

 「だから?」

 「だから三番目のゲノムを導入したの。自然の遺伝子での体成長ロジックに代わり自分達が理解できるロジックを組み込んだのよ。それが三番目のゲノムよ。そしてそれを導入することによって、体成長や成長発現を完全に外部から制御できるようになったの。そしてそのことが同時に問題にもなったの。結局そのことでプランツも進化問題も公に出来なくなってしまった・・・」

 「何故公表できないのですか? 幾らでも応用可能な素晴らしい技術ではないですか」

 「そうね、応用範囲は広いわね。そしてこの技術はヒトにも応用が可能なの。体成長が制御できると云うことは、加齢も制御できるということよ。つまり・・・不死が可能なの」

 「不死が!?」

 確かに人為的に加齢要素を制御できるならば不死化も可能なはずだった。もともと細胞は際限の無い新陳代謝が可能であり、老化はロジック的に組み込まれた要素である。つまり本来生物のロジックとしては不死化より老化の方が複雑なロジックが必要なのだ。

 「もちろん完全な不死と云う訳ではないわ。異常塩基の蓄積や、修正しきれないDNA複製ミスも起きるから。それでも理論的には多分300歳くらいの長寿は可能よ」

 「それこそ素晴らしい技術ではないですか」

 「本当にそう思う? これが人類に必要な技術だと。不死になることが人類に必要なことだと」

 「しかし・・・」反論しようとしたアルフの頭の中に一つのイメージが浮かんだ。それは幼くして死んだ妹の記憶だった。

 「今の人類にはその選択は荷が重過ぎるわ。この技術を知れば、誰もがきっと使いたがるわ。誰もが自分の子供に長生きして欲しいと思うわ。そんな親の気持ちを誰も止めることは出来ないわ。でもそれは目先の事だけ。この技術が遠い未来にどういう結果をもたらすかは予測が出来ないわ。個体が死ななくなれば逆に種が衰退する可能性が高いわ。今の人類に本当に遠い未来を思い遣る気持ちの余裕があるかしら?」

 確かにその通りかもしれない。飽和した食料生産、下がらない出生率。この状態で不死化した人間が増えれば、餓死者を増やすだけだろう。持つ者と持たざる者の格差はますます広がるだろう。不死化という技術は人類と云う社会システムと生物学的種にさらなる混乱と壊滅的に修復不可能な軋轢をもたらすだろう。

 アルフは培養槽の中に浮かぶ、何一つマリアの面影を残すものが無い組織塊を見詰めた。

 「では、何故・・・何故マリアは死んだ・・・いや、逆成長を起こしたのですか。あなた方は不死では無いのですか」

 「不死の要素は持っているけど、私達自身は不死ではないわ。一応死ぬようには造られているの。・・・そしてマリアが発生逆行を引き起こしたのは、あなたの子供を欲しがったからなの・・・」

 「私の子供を?」

 「私達は、単為生殖しか出来ないの。それは遺伝子を変異や拡散から守るためにそうしたの。それを制御しているのが第三ゲノムよ。だから私達の卵子は第一減数分裂までしかしないの。でもマリアはあなたとの子供を望んだの。第二減数分裂までさせるには第三ゲノムの抑制を外す必要があるの。マリアはあなたにある薬品を頼まなかった?」

 「Pflanzenhormon(植物ホルモン)・・・結合型ジベレリン」

 「それが第二減数分裂を促進させるトリガーなの。MIS(卵成熟誘起物質)の代わりね。それを使えば正常な減数分裂が起きて半数体の正常な卵子が出来あがるわ。ただしそれと引き換えに、第三ゲノムの崩壊が始まるの。第三ゲノムは生命維持に直接的には関係無いの、だから第三ゲノムが崩壊してもすぐに死ぬようなことは無いわ。でも・・・体成長の維持が出来なくなって発生逆行を引き起こすの・・・」

 あの薬品にそんな意味が在ったとは・・・マリアはどんな気持ちであの薬を使ったのだろうか。

 アルフは部屋に残されていた一輪の青いカーネーションを思い出した。あの品種は一代雑種で不稔性だった。アルフは壁にもたれかかり手のひらで顔を覆った。目頭が熱くなり涙が出そうになった。

 「なぜ、そんなにまでして子供が欲しかったのだろう・・・」

 「男の人には分かりにくい気持ちかも知れないわね。私達は自分のコピーしか子供を産めないの。どんなに愛していても相手の子供を産めないの。それは女にとって悲劇でしかないわ」

 この老婦人もかつてこの事実を知り暗澹たる想いで生きていた時代が在ったのだろうか。アルフはそんなことをふと考えた

 「しかし第三ゲノムを解析すれば、逆行成長を起こさずに有性生殖を可能にすることも出来るはずでは・・・」

 「可能性はあるわ。もともと単為生殖のロジックと第三ゲノム崩壊のロジックの密接度は低いのよ。でもね・・・私達は人の手によって造られたものだけど、そのように造られたことには何かきっと人の手を越えた意味があると思うの。だから私達は、自分の体の仕組みは調べても、それを修正しようとは思わないわ。あなたはどうかしら?」

 「分からない。分からない・・・だけど・・・私は遺伝子工学者だ」

 死んでいった妹の顔を思い出した。もし自分が何か出来る立場に居ればきっとそれをやるだろう。長く生きることが人の価値で無いと知りながら、それでも延命させるための手段を講じるだろう。だがそれは一人の人間としてだろうか、それとも遺伝子工学者の性としてだろうか。

 「私の妹はPDMS(進行性分化不全症候群)で死にました。体中から出血して死んでいった妹の姿を私は忘れていない。例えば、その第三ゲノムを解析することでPDMSが治療可能ならば、必ずそれをするでしょう。私の腕は”死にたく無い”と泣いてすがりついた妹の指の感触を忘れていない。だから・・・だから・・・」妹の話を他人にするのは初めてだった。興奮して喋りながらも、こんな話は口にするべきでは無いような気がした。「私は工学系の人間であっても医学関係者です。死にかけた人間が目の前に居て、そしてもし治療できる技術があるならば治療を行うでしょう。例えそれが将来に禍根を残すと判っていても目の前の人間を助けようとするでしょう。それが医学に携わる人間の勤めではないでしょうか・・・」

 「ごめんなさい。つらいことを思い出させてしまったようね。PDMSも爆発進化へのsymptom(病兆)かもしれないわね。私達の第三ゲノムを導入すればひょっとしたら解決するかもしれないわ。でも私達はそれをやりたくないの。爆発進化が人災だとしても、自然の成り行きだとしても、人類が爆発進化を迎えるのならば、それには何かの意味が有ると思うの」

 「それが、あなた達の基本的な姿勢ですか?」

 「私達はミッドマイヤーの意思を継ぐ者よ。この遺伝子は最後の手段であって、簡単に使うべきではないわ」

 「それでは何故私をこんなところに連れてきた! こんな所でこんな話をすることに何の意味が有る!」思わず声を荒げた。冷静さを失いかけていることは分かっていたが、気持ちを押さえることがうまく出来なくなっていた。

 「ごめんなさい」老婦人は驚いたように身を縮こませ謝った。その姿は口癖のように”ごめんなさい”を口にするマリアによく似ていた。

 「失礼。興奮しすぎました・・・」

 「こちらこそ、ごめんなさい。お茶をいかが? 気分が落ち着くわ」

 お茶を飲みたいと思う気分ではなかった。返事をせずに黙っていると、老婦人も、それ以上お茶を勧めようとはしなかった。

 「少しお待ちになって・・・」

 アルフは押し黙ったまま窓辺を見遣った。今まで何が起きたのか考えをまとめようとした。けれど頭の中をくるくると様々な想いが駆け巡るだけで、それは到底まとまり様がなかった。窓辺の木漏れ日はそんな彼の想いとは無関係にきらきらと揺れていた。

 老婦人は、何か布に包まれた物を腕に抱え戻って来た。

 「お願い。抱いてあげて。あなたの子供よ」

 ピンク色の産着に包まれた生後半年位の赤ん坊だった。アルフは老婦人から赤ん坊を渡されると不器用に抱きかかえた。赤ん坊の黒曜石のように黒く光る瞳にマリアの面影を見ることが出来た。

 「・・・無事に産まれたのですか」

 「7ヶ月の超未熟児だったけど、なんとかね。マリアの体は5ヶ月目位から逆成長を始めたけれど、不思議なことに子宮だけは機能を続けたのよ」

 「名前は?」

 「毬絵よ。マリアが名付けたのよ。遺伝子チェックで事前に性別は分かっていたから・・・」

  赤ん坊はアルフの腕の中で黒い瞳をきらきらと輝かせ、アルフの顔を不思議そうに見詰めた。自分の子供だと云う実感も感動も湧いてはこなかったが、赤ん坊を見ているとマリアが永遠に失われてしまったのだと云う実感は湧いてきた。涙があふれ頬を濡らした。赤ん坊の小さな手は、何かを掴もうと伸ばされた。その小さな手のひらがアルフの濡れた頬に触れた。

 「何故・・・マリアは何故私のところに来たのだろう・・・」アルフは独り言のようにつぶやいた。

 「それは、あなただけが本当の意味でマリアを理解してあげられたからよ」

 「理解? だけど私は何一つマリアのことを知らなかった」

 「そうではないの。マリアには特殊な能力が在ったの」

 「特殊な能力?」

 「あの娘は歌に関して特殊な能力が在ったのよ。具体的な言葉は見つからないけど、エンパシー(共感)能力と云うのが一番近いかもしれない。あなたはマリアの歌を聞いて何か感じなかった?」

 「最初のうちはひどく気分が悪くなった。頭痛がしたり、ひどいときには吐き気がした。でも一緒に住むようになってからは、心地良さしか感じなくなりましたが」

 「私には残念ながらそれを感じる能力は無かったけれど・・・あなたの感じた気分はそのまま、あの娘の心の中よ」

 「マリアの心の中?」

 赤ん坊がアルフの腕の中でむずかりだした。子供が好きだといっても、さすがに乳幼児の扱いには慣れていなかった。アルフは瑠璃の腕に赤ん坊を渡した。

 赤ん坊を手渡す瞬間、手の甲にチクンとした痛みを感じた。たいした痛みではなかったが、手の甲を見るとぽつんと針で刺したように赤い血が点の様に浮き出ていた。

 「あの娘は歌を通して人の心に共感することが出来たの。共感と言うよりも共振に近いのかもしれないわね。ただし、それは一方通行だったの。人は、あの娘の歌を聞いて心地よさを感じるけれど、あの娘は逆に苦痛を感じていたの。人の心の痛みを癒すというよりも心の痛みを肩代わりするようなものだったの。歌を歌うのが身内の前だけの頃はまだよかったの。人の前で歌うようになって、あの娘はそれを苦痛に感じるようになったの。でもあの娘は歌を止めなかった。自分の能力に何か意味があると信じていたから・・・それといつか一方方向ではなく自分の気持ちを受け止めてくれる人が現われると信じていたから・・・それがあなたなのよ」

 総ての糸が折り重なり一つの形が作られていくのを感じた。しかしその形が何を明示し何を暗示するのかはよく分からなかった。マリアを愛していた。けれどその気持ちと今の話は途方も無く遠いものにしか感じられなかった。

 「しかし・・なぜ・・・」その先の言葉は続かなかった。

 「何故あの娘にそんな能力が発現したのか、何の意味が有るのかは、良く分からないわ。それが遺伝子に由来するものか、それともあの娘だけの突発的な能力なのかも良く分からない。一代限りのものか、それとも私達が引き継ぐ遺産なのか、それも良くわからないわ。でも、総ての人に共感能力が備わって、総ての人が互いに理解し合える。そんな時代が来れば・・・」

 アルフは急に体の重さを感じた。壁にもたれ掛けていた体を起こそうとして足がもつれ、体はそのまま床に崩れていった。

 「ごめんなさい・・・」

 アルフはその言葉の意味を回転する視界の中で理解した。――筋弛緩タイプの麻酔薬を打たれた?

 「私は余計なことをしてしまったみたい・・・」

 意識はまだ保つことができたが、随意筋に力が入らなかった。

 「あなたに理解を求めたのは、私のわがままでした。やはり忘れてしまって下さい」

 dTc(d−ツボクラリン)? それにしては作用が急速過ぎた。ロクロニウムでも接種されたのかもしれない。

 「STMI(短期記憶形成阻害剤)を使うから、あまり副作用は残らないと思うけど」

 目の焦点を合わせるのが難しかった。体を起こそうと思ったが、もはや腕を動かすことも叶わなかった。

 「あなたは遺伝子工学者で、あなたの考えは間違ってはいないし、人の命を救うことはとても尊くて大切なことだけど・・・でもね・・・人は必ず死ぬのよ。そうでなければいけないの。永遠に生きることが人の目的ではないはずよ。たしかに遺伝子には生命の神秘は刻まれているかもしれないけど・・・でも、人の生きる意味は書かれていないはずよ・・・」

 反論しようとして口を動かしたが、すでに言葉にはならなかった。横隔膜が動かなくなり呼吸が出来なくなっていた。やがて息苦しさで目がかすみ始めた。

 「目が覚めたときには何も覚えていないでしょうけど、これだけは伝えさせて・・・マリアを愛してくれてありがとう・・・」

 最後の言葉は遠くかすれて聞き取れなかった。それはなぜかマリアの声に良く似ていた。

■□■□□

 「ベッドに運んでレスピレータ(人工呼吸器)をセットして・・・。面倒ばかり掛けて悪いわね」

 男はアルフを担ぎ上げた。

 「まあ、構わんけど。吸入より、庭の桜の根元にでも穴を掘ろうか? そのほうが手間が掛からないだろう」

 「物騒な冗談は言わないで。お前には悪いけど、記憶を消してあげたら、彼を連れて帰って欲しいの」

 「分かってるよ。母さん」

 アルフを隣室のベッドに運ぶと、男は慣れた手つきでレスピレータをセットした。

 「お前が言った通りだったわね。理解してもらうのは難しいわね」

 「親父みたいなのは特殊な部類なのさ。彼は常識人の範疇だよ。まだ理性的な方さ」

 瑠璃は毬絵をあやしながらベッドに眠るアルフをじっと見詰めた。

 男はそうして立ちすくんでいる母親の中に一人の当たり前の女の姿を見つけた。おそらく母親がアルフに逢いたがったのは、愛する男の子供を産むことが出来たマリアに対して嫉妬のような感情を抱いたからかもしれない。男はそんな母親の人間臭い面を初めて見たような気がした。

 「私は隠居するから。一族の統率は、もうお前に一任するわ」

 「やれやれ」男は癖のように首をすくめた。「理性的な連中ばかりだからましだけれど、女ばかりを100人も束ねると云うのは、あまりぞっとしない役目だね」

 「そう言わずに、引き受けて頂戴」

 「俺は母さんとは考え方が違うよ」

 「あまり過激に走らなければ構わないわ。それにお前のほうが私の気持ちを理解しているでしょうし・・・」

 男は軽くため息をつくと、ドロッパー(点滴器)の準備を始めた。

 「母さん・・・」

 そして生理食塩水と低濃度の睡眠導入剤をドロッパーにセットした。

 「俺達は、何処に行けばいいんだろうね?」

 それは母親に尋ねるというよりも、男の独り言のようだった。

 「私達は、ワイスマン障壁を越えられるわ」

 瑠璃はゆっくりと子守りの手を揺らしながら、遠い思い出を探るかのように、木漏れ日がさざめく窓辺をいつまでも眺め続けた。



■□■□■
エピローグ









 榎の木は、昔と変わらないたたずまいで降り注ぐ陽光をさえぎっていた。

 五歳になった毬絵は遠い昔に瑠璃が遊んだように、牧草の生い茂る緩斜面を駆け回っては花を摘み集めていた。

 瑠璃は榎の根元に腰を降ろした。その脇には人の頭ほどの大ぶりの石が置かれていた。石の下には、40年間連れ添い、そして10年前に亡くなった夫の骨の欠片が埋めてあった。

 「もう少し待っていてね」瑠璃は石の表面を撫でながらつぶやいた。

 赤十字の医師を辞め、子供を育て始めた頃に出会った夫は、民族問題に絶望しながらも難民救助のボランティア活動をしていた。

 瑠璃は夫の宗教家のような深く慈愛に満ちた目差しが好きだった。タイ人でも無いのに”マイペンライ(問題無い)”という言葉が口癖だった夫は、瑠璃の出生の秘密を聞いたときにも”マイペンライ”と一言いったきり、自分からは二度とそのことを口にしようとはしなかった。

 日本に一緒に引き上げた夫は、医師や研究者として飛び回る瑠璃に代わり子供たちを育て上げた。家の裏手に畑を作り、自分に少しも似ることの無い沢山の子供達に囲まれながら、畑を耕し、寡黙ながらも満足そうに一生を過ごした。

 かつて瑠璃は世捨て人のように世間を断って過ごす夫に、自分の抱える問題に関してひとつだけ質問したことがあった。

 『もしこの世の中に不老不死の薬があったら、あなたは欲しい?』

 その質問に、夫は修行僧の様に真剣な表情で長いこと悩んだ末、こう答えた。

 『私は必要無いが、お前が必要ならば探してきてあげるよ』

 そう答えた夫を瑠璃は深く愛していた。

 毬絵がシロツメクサの花を片手に駆け寄ってきた。

 「どうしたの? おばあちゃま、どこか痛いの?」

 沈んだ表情の瑠璃を心配して、毬絵が不安そうに声を掛けた。

 「そうじゃないのよ。ちょっと昔のことを思い出しただけ・・・」

 「おばあちゃまが元気になるように、毬絵が歌を歌ってあげる」

 シロツメクサの花を瑠璃に手渡すと少女は、年に似合わない真面目な表情をして息を整えた。

 ♪Amazing grace How sweet the sound……
 (アメージング・グレース なんて素晴らしい響き)

 声量はないが親譲りの伸びやかで透明感のある流麗な歌声があたりに響いた。

 毬絵にマリアと同じような能力があるのかは瑠璃には分からなかった。しかし楽しげに歌う毬絵を見ていると、それはたいした問題ではないように思えた。

 ♪Through many dangers toils and snares. I have already come.
  (あまたの困難や誘惑が私におとずれようとも)

 瑠璃は毬絵の歌の後に着いてそっと声を合わせた。

 ♪This grace that brought me safe thus far. And grace shall lead me home.
  (この愛はいつも私を導き救い、そして私を家に帰りつかせてくれる)

 アメージング・グレースの妙なる調べが、穏やかな春の丘に流れた。

 

 
 
 
 
 


注釈










古事記:伊邪那岐命語詔之。愛我那迩妹命。吾與汝所作之國未作竟。故可還。爾伊邪那美命答白。悔哉。不速來。吾者爲黄泉戸喫。然愛我那勢命。入來坐之事恐故。欲還。旦具與黄泉神相論。莫視我。(本居宣長版より抜粋)

 

ジェネティック・ブレークダウン:(genetic break down)遺伝子工学の断絶。2047年5月フレイヤ落下事故によりWGAIO南極研究所が消滅し、遺伝子工学関係の研究資料消滅から端を発し、その後の40年間に渡る遺伝子関係の研究禁止による遺伝子工学関係の研究後退を指す。

 

Amazing Grace:起源はアメリカ・バージニア州で歌われていた歌で、1779年ジョン・ニュートンの作詞で広く知られるようになった。

 

Sometimes I feel like a motherless child:作詞者不詳。アメリカ南北戦争の頃から歌われていた。

 

傾触性:(thigmonasty)接触傾性とも。接触刺激で起る傾性運動。接触刺激によって発生した活動電位が引き金となり、運動組織内の細胞が急激に膨圧を失うことにより引き起される運動。オジギ草やハエトリ草の葉が閉じる運動などがそれにあたる。

 

分化:細胞の分裂によって細胞集団の中から形態的、機能的に質的な差をもった細胞が生じてくる現象。

 
 
脱分化:すでに分化した細胞がその特徴を失って一見単純な外見を呈する現象をいう。傷口の近くの再生細胞等にみられる現象。
 

 
再分化:脱分化した細胞が再度分化する現象。一般に動物細胞では,元来の細胞に分化するのが普通であるが例外的に別の特徴の細胞へと再分化する例もある。その場合を決定転換と呼ぶ。

 

接触阻止:細胞の増殖や運動が、他の細胞に接触することにより停止する現象。この場合には増殖の接触阻止をさす。一般的に正常な細胞は接触阻止性を示すが、ガン細胞や細胞形質転換した細胞は接触阻止性を喪失する。

 

AGCT:A(アデニン)、G(グアニン)、C(シトシン)、T(チミン)。DNAを構成する塩基。mRNAの場合はチミンに代わりU(ウラシル)で構成される。mRNAのAGCU4塩基中の3塩基の組み合わせで遺伝暗号は組まれ、20種のアミノ酸と停止制御コドンが指定される。

 

ホメオティック遺伝子:ホメオーシス(相同異質形成)を引き起こす遺伝子。ホメオーシスとは主として節足動物の付属肢に認められる異常形成である。エビの眼柄の切断後に触覚が再生されたり、カマキリの触角切断後に歩脚が生じたりする。これらの現象は器官原基の特性の決定に密接に関連する。

 

グルコース配糖体:グルコース(ブドウ糖)の水酸基が炭化水素やアルコールなどの非糖質化合物と結合してできる化合物。

 

結合型ジベレリン:植物ホルモンの一つであるジベレリンが他の分子と結合した物質。

 

単為結実:種子植物において,受精しないでも子房などが発達し果実を形成する現象。

 

SRY遺伝子:(Sex‐determining Region Y)性決定遺伝子。Y染色体の短腕上に位置する。精巣発現を誘導し、この遺伝子によりオス化が決定される。

 

三倍体:(Triploid)基本数の3倍の染色体数をもつ倍数体。植物ではよく見られ、巨大型になることが多い。園芸、栽培品種では人為的に利用されている。動物の三倍体は昆虫、魚類、両生類ではまれに存在する。ただし、植物、動物ともに有性生殖では系統維持できない。

 

コンタミ:コンタミネーション(contamination)の略。狭義には純粋培養における雑菌混入を意味する。広義には夾雑物全般や,汚染物質などの混入についても用いる。

 

in vivo:インヴィヴォ。生体(vivum)の中でという意味のラテン語から。培養の場合は生体内培養を意味する。

 

in vitro:インヴィトロ。ガラス容器(vitrum)の中でという意味のラテン語から。培養の場合は生体外での培養を意味する。

 

単層培養:細胞培養において細胞が培養基質に接着した状態で増殖し、単層のシートが形成されるような培養。これに対し三次元構造を保持した状態で行われる場合を器官培養と呼ぶ。

 

動原体:細胞分裂期の染色体において、一次狭窄を形成する領域。X字形のくびれ部分。染色体の種類により固有の塩基繰り返し配列を持ち、染色体の種類識別に用いられる。

 

三染色体性:トリソミー。二倍体の体細胞の染色体数が(2n+1)となる現象。ヒトでは21番染色体がトリソミーとなるダウン症候群、18番染色体がトリソミーとなるエドワーズ症候群、13番染色体がトリソミーとなるパトー症候群などがある。

 

ゲノム: 半数体での染色体一組もしくはその遺伝子全体を示す呼称。ヒトでは23個の染色体一組を指す。

 

染色体分類:ヒトの正常染色体の構成は22対の常染色体と1対の性染色体からなる。常染色体は大きさと動原体の位置によってA(1〜3)、B(4,5)、C(6〜12)、D(13〜15)、E(16〜18)、F(19,20)、G(21,22)の7群に分類される。

 

幼態成熟:ネオテニー(neoteny)。動物において体成長が遅れ生殖機能のみ成熟し繁殖する現象。両生類のアホトール(幼生形)が有名。

 

幼生生殖:pedogenesis。成長を完了していない幼生の段階で,生殖巣が成熟し生殖を行う現象.

 

赤の女王仮説:Red Queen hypothesis。童話「鏡の国のアリス」中の、赤の女王の”同じ場所に留まる為には力の限り走らねばならぬ”という言葉に由来する。生物的環境は絶えず変化しつづけるから、種としても継続的に進化しつづけなければ絶滅するという仮説。

 

今西進化論:今西錦司(1902〜1992生態学者)の提唱した進化論。種社会論という独特の論説を展開し、その立場から突然変異と自然淘汰によらない進化論を提唱した。種社会が変わるときには種個体は一斉に変化し、一斉に変化するために種の全個体は原帰属性(プロトアイデンティティー[protoidentity])をもつはずであるとされた。

 

促進:一つの生物系統の中で、子孫種の個体発生速度が早められることによって、形質発現の時期が祖先種よりも早くなる現象。

 

還元主義:一般的には、直接観察できない理論的対象は観察可能なものに還元されないかぎり、導入すべきでないとする考え方。生物学においては高次のレベルの行動や性質は、より下位のレベルの性質、行動、配置などにより説明できるとする考え方。群レベルは個体レベルへ、個体レベルは遺伝子レベルで説明可能とする。

 

シェルドレイク仮説:形成的因果作用仮説。イギリスの生化学者ルパード・シェルドレイクが1981年に発表した学説。自然に存在する生物の形態、行動や、物理的、化学的なプロセスは、過去の存在形態の影響を受けて過去と同じ形態を継承するという理論。過去の存在が形態形成場をつくり形態共鳴という現象により現在の形態が作られると主張。

 

ラマルク進化論:ラマルキズム。フランスの博物学者J.B.ラマルクが唱えた進化論。進化の要因として器官の用不用説(獲得形質遺伝)を主張。後に定向進化(生物の進化において、形質の変化が一定の方向をとる現象)説もラマルキズムの範疇に加えられる。

 

獲得形質遺伝:後天的な形質も遺伝するとする考え方。狭義には体細胞の変化が遺伝する場合を指し、広義には学習、習慣、などの外部要因からの変化を受けた形質が遺伝することを指す。

 

相同・相似:生物学的には、起源が同じで機能の違うものを相同(homology)、起源は異なるが機能が同じものを相似(analogy)という。

 

テロメア配列:染色体の両腕の末端部にある繰り返し配列。哺乳類では数100回のTTAGGGの繰り返し配列がみられる。DNAの安定性に必要なヘアピン構造をなし、テロメアが失われると細胞分裂周期の進行が停止する。

 

メチル基:最も簡単なアルキル基。CH3‐ の構造をもつ。

 

メチル化:メチレーション(methylation)とも。CpG配列中のC(シトシン)が5‐メチルシトシンへと変化する。メチル化のパターンはDNA複製の際も継承され、またメチル化した遺伝子は不発現となるため、細胞の記憶を形成する機構のひとつであると考えられる。

 

CpGアイランド:CG島。CpG配列が繰り返されている領域。数100塩基対の長さを持つ。CpG配列部位はメチレーションを受けやすい。

 

リプレッサー:遺伝子の形質発現を抑制する機能をもつ制御タンパク質の一種。特定のオペレーターを認識し、結合することによって、そのオペレーターに連なる遺伝子群(オペロン)のmRNA合成を抑制する。

 

細胞外マトリックス:脊椎動物の身体の構造要素の主体で結合組織の主成分。繊維性蛋白質や細胞接着性蛋白質を指す。皮膚や骨に多く含まれている。組織の充填材として物理的構造を保つ機能を持っているが、細胞の増殖、移動、代謝、分化などの細胞活性を細胞の外側から制御する因子群でもある。

 

交叉:減数分裂時に起きる相同染色体間に生ずる遺伝子組替え現象。通常は生殖細胞の減数分裂(染色体が半分になる分裂の仕方)時にしか起きないが、まれに体細胞分裂時にもみられる。

 

XO:ヒトの性染色体はXXで女性形。XYで男性形を発現する。XOはY染色体を欠質した型。ターナー症候群と呼ばれる染色体異常を起こす。表現形は女性を取る。

 

モザイク:この場合は雌雄モザイク現象(gynandromorphism)を指している。この例ではXYの受精卵の初期の卵割時にYの欠質が発生しXOとXYの細胞が交じり合った個体が出来る。この場合、精腺発現部位でXY細胞が多ければ精巣を発現し男性となり、XO細胞が多ければ精巣が未発現で女性となる。

 

ヒストン:核内DNAと結合している塩基性蛋白質。5種類のヒストンがあり、種類によりDNAとの結合強度が違う。結合強度により結合部位の遺伝子発現度が変わるため遺伝子の発現ロジックと関連している。

 

減数分裂:染色体数が半減する様式の細胞分裂。動物の生殖細胞(卵子、精子)形成の際、行われる分裂様式。

 

単為生殖:(parthenogenesis)。処女生殖ともいう。雌が雄と無関係に単独で新個体を生ずる生殖法。

 

無性生殖:(asexual reproduction)発生学的には配偶子(精子や卵子)が関係しない生殖様式の総称。この場合は無配偶子生殖などの細胞単位の生殖を含める。進化生物学的には遺伝子セットが他個体のものと組み換えられる可能性がなく、つくられる子が親と遺伝的に必ず同一であるような生殖様式。

 

アポミクシス:(apomixis)。無性生殖のうち減数分裂を伴わない生殖様式の総称。それ以外に減数分裂直前に染色体が倍加するエンドミトシス(endomitosis)と呼ぶ生殖様式もある。

 

断続平衡説:1972年にN.エルドレジとS.J.グールドが主張。種の進化は、変化のない長期の安定期と、安定期間に比べ相対的に著しく急速な短期間の種分化と形態変化によって特徴づけられるとする仮説。化石記録中に認められる断続的な形態進化を論拠としており、ダーウィン以来の化石記録から進化を考える上でとられてきた漸進進化(gradualism)を批判した。

 

爆発進化:短期間に生物のある類から一時に多数の類が生じる現象を云う。O.H.シンデヴォルフの提唱。爆発進化は適応放散(環境に適応させた種が拡散的に発生する)というよりも、無方向性であると考えられている。カンブリア紀におけるオウムガイや三畳紀初期やジュラ紀初期におけるアンモナイトの爆発進化などのケースがある。

 

テロメアーゼ:テロメア配列(染色体の末端にあるTTAGGGの繰り返し塩基構造)を合成する酵素。

 

8−ヒドロキシングアニン:DNA複製時のGC対合を阻害する酵素。老化に伴って体内で増加する。

 

型循環説:(typostrophism)。O.H.シンデヴォルフが提唱した説。種も個体のような三つのフェーズ(相)を経過するとした。第1のフェーズの種が爆発的に分岐し種の数が増大する短い時期を”型発生”。第2のフェーズの系統変化が少なく長く安定した時期を”型安定”。第3のフェーズの過分化、退化、非適応を生じて絶滅する時期を”型崩壊”とする。

 

超遠心分離機:数万rpm以上の高速回転で重力の数十万倍に達する遠心力を与え、溶液中の高分子物質を沈降させる遠心分離機。光学系を備えて高分子物質の分子量の測定が行える分析用超遠心機もある。タンパク質・核酸などの生化学的な研究に必須。

 

電気泳動装置:染色体を酵素により分断後、電界を掛け質量による移動度を測定し、分断染色体の長さ(分断位置)を確定することにより染色体構造を解析するための装置。

 

足場非依存性増殖:細胞増殖に際し足場(基質)を必要としない増殖性向。正常細胞の多くは足場を必要とし、培養液中に浮遊させたやり方では増殖できない。癌細胞などの形質転換した細胞や血液細胞などは足場が無くても増殖可能である。

 

未分化癌:異型性が強く発生組織との類似性が認められないタイプの癌種。悪性であることが多い。

 

MIS:(maturation inducing steroid)卵成熟ステロイド。動物の未成熟卵に作用し卵成熟を誘起するホルモンの総称。哺乳類では黄体形成ホルモン(luteinizing hormone)がこれにあたる。第一成熟分裂前期の状態で成熟分裂を一旦休止している卵細胞はMISの作用により第二成熟分裂中期に移行する。

 

発生逆行:成体の組織が逆分化を起こし胚的な状態に逆行する現象。通常、個体の大きさが減少する逆成長を伴う。腔腸生物などにはよく見られる。極端に逆成長・脱分化が進むと個体は無分化の還元体(reduction body)となる。

 

d−ツボクラリン:(d-tubocurarine)アルカロイドの一種。脊椎動物の神経筋接合部をブロックして骨格筋を弛緩させる作用がある。

 

ロクロニウム:非脱分極神経筋遮断薬(筋弛緩薬)。ステロイド核を持つ4級アミンで、作用開始が1,2分と極めて速い。