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管理人:前田滋のプロフィール

略歴 2008.7.17
余は如何にして、
かいろぷらくたあ、となりしか
2004.07.21

・・・ 略 歴 ・・・

1950年:鳥取県に生まれる。5才の時大阪に移り住む
1964年:腰痛発症(中学二年生)
1967年:腰痛悪化
1968年:腰痛のため受験勉強に集中できず、イライラ、悶々とする
1969年:京都工芸繊維大学繊維化学科に何とかもぐり込む
1975年:京都工芸繊維大学繊維化学科修士課程修了
    横浜の化学会社に入社
    在職中にカイロプラクティックに巡り会う
1977年:カイロプラクティックの技術習得への思い絶ちがたく
    長生学園(按摩・マッサージ・指圧師の養成校)に入学     
1979年:長生学園を卒業し、按摩・マッサージ・指圧師免許取得
    同時に化学会社を退職
1980年:シオカワ・スクール・オブ・カイロプラクティック卒
1986年:PAAC関西支部長就任
1987年:SORSIのSOTベイシック認定試験合格(於米国オマハ)
1988年:SORSIのSOTアドバンス認定試験合格(於米国オマハ)
1989年:SOT認定試験委員長就任
1990年:SORSIの頭蓋骨調整法認定試験合格(於米国オマハ)
1992年:PAAC教育委員長就任
1996年:インターネットにカイロプラクティックを紹介するサイト
 <Chiropractic in Japan(カイロプラクティック・アーカイブス)>を開設
PAAC関西支部長、PAAC教育委員長、SOT認定試験委員長などを歴任。
大阪・梅田で開業

 主な翻訳書:
「SOT 1979(355p)」、「CRANIAL SUTURE (466p)」
「THE ART & PRACTICE OF CHIROPRACTIC (462p)」
「CRANIAL TECHNIQUE 1979-1980 (238p)」、
「CRANIAL STUDY GUIDE (209p)」 (以上スカイ・イースト刊)
「CLINICAL CHIROPRACTIC (520p)」(共訳:科学新聞社刊)
上記を含め11冊を翻訳。
全てA4版で合計2500ページあまり、要した年月はおよそ15年。


余は如何にして、かいろぷらくたあ、となりしか
(内村鑑三先生、乞ご容赦)

1950年
鳥取県生まれ(朝鮮戦争勃発の年)

1955年
祖母とその末娘(私にとっては叔母)の3人で鳥取市内の市営住宅で暮らしていたが、叔母の中学卒業を機に両親のいる大阪へ。

小学校卒業までは、大阪市北区の天神橋商店街の近所。それ以後、大学卒業までは守口市内に在住。

1964年
東京オリンピック開催
このころ初めて腰痛が出現(中学2年生)。

今から思えば体育の時間に3段跳びをやったのが 直接の引き金だったかもしれない。 その他にも、勉強時の姿勢も悪かったと思う。

評判を聞いて、中学校の近くの接骨院に通院する。 治療は赤外線照射(温熱)と低周波パルスのみ。 (こんな治療で治る訳がないわい)

いつまでたっても痛みが引かないので、そこの息子が 阪大医学部付属病院の勤務医ということで、 仕事を終えて帰宅した息子に診察してもらった。 接骨院に備え付けられていたレントゲン装置で 腰椎のレントゲン撮影を受けたが、息子の医師は クビをひねるばかり。

それにしても、接骨院にレントゲン装置を設置するのは 違法のはずだが、当時はそのあたり、非常にいい加減 だったようだ。また当時は整形外科はほとんど開業して いなかった。腰痛は外科で受診していたように思う。 暫く安静に努め、激しい運動をしないようにしていたら、 ひどい痛みは消えたので、接骨院への通院は中止した。

しかし、その後も腰痛はしばしば出現し、その都度、 評判を訊いてあちこちの鍼灸院や接骨院の門を叩いた。 病院は理屈ばかりで実際の治療はホットパックや赤外線などの 温熱と低周波パルスのみであることが判ったので、どこへ 行ってもムダということが、中学生ですでに判ってしまった。
 
1969年
3月に大学受験。 
その前年頃より、受験勉強のために机に向かって 30分もすると腰がジワジワ痛み出すことに悩まされ、 勉強に集中できないことに苛立ちの日々を送る。 しかもこの年は大学紛争まっただ中で、 とうとう東大入試が実施されなかった。

2月には東大の安田講堂に立てこもった全共闘の 学生に向けて機動隊が放水するニュース映像を、 腰をさすりながら横目でながめていた。 腰が痛くて勉強ははかどらないし、こんな腰では 浪人しても学力アップはとても見込めないので、 何とか現役で大学に潜り込まねばならない、 と考えていた。

その上、私の父は大阪の商売人気質を濃厚に身に まとっている人間で、「学費の安い国公立の大学があるのに、 なんで学費の高い私立に行かんとあかんねん」という雰囲気を 身にまとわりつかせていた。これは決して私学の学費をまかなう 経済力がないためではなく、教育に金をかけることが もったいない、またはアホラシイという気持の現れ。 要するにケチなんですな。

息子の私としては意地でも国公立の学校に合格しないと、 あとあと、何かにつけ恩に着せられる気配を強く感じていた。 「私立も受験していいぞ」という言葉はついに父の口から 出なかった。

ピラミッドの頂点の大学入試が流れるということは 受験生の雪崩現象をきたすということで、 腰痛持ちで現役合格を目指す受験生にとっては 弱り目にたたり目もいいところ。八方ふさがり、 全くイイ所ナシ、の心境でありました。

取りあえず、学費が安くて現役で潜り込めそうなところを 見つくろって何とか合格。入学したのは、 「京都工芸繊維大学繊維学部繊維化学科」
(なんてえ長いんだい! 封筒に手書きする時には大変だった)。 当時、国立二期校と呼ばれていた大学です。 大阪大学も受験したが、当然ながら不合格。

ちなみに親しかった10人ほどの同期生はほとんどが浪人。 現役で片づいたのは筆者を含めて2人(もう一人は京都大学) だけのはず。浪人した連中は、一浪後ほとんどが旧帝大系の大学に 進学した。

つい最近ひょんなことから知ったが、かの竹中平○氏も 私と同学年ということだ。彼の場合は現役で一橋大学に 入学したそうな。それからもう一人、大阪府知事の太田○江氏 (2004年当時)も。彼女は京都大学をしくじって一浪後、 東大に入学したとの由。皆さんデキがいいんだねえ。

これも後から知ったことだが、当時の東大全共闘の委員長は 同大学理学部物理学科院生の山本某という人物で、この人、大阪の 某府立高校出身。私の卒業した高校とは姉妹校になる。 こんなことを書くと、大阪に詳しい人には私の出身高校が 分かってしまうので、あまり書きたくないのだけれど・・・・。

別に感謝している訳ではないけれど、世にも稀なる体験を させていただきましたな。おかげで、子供たちには 「父は東大に行くつもりだったのに、大学紛争のあおりを 食らって行けなかったんだ」と語り草にしております。 これくらい言わせてもらわにゃあ、コチトラの気が晴れませんや。 もちろん子供たちは、「またオヤジが与太言ってる」と、 迷惑顔で聞き流しております。

在学中は主に、ある有名鍼灸院に通院する。ツボに響く鍼の 気持ちよさを体感するも、腰痛は改善せず。痛みが強くなれば 治療に行くことを繰り返す。

1975年
大学を6年かけて卒業し、横浜の化学会社に就職
この年の秋に、卒業した高校の同期生と結婚

1976年
5月の連休に帰省したとき、腰痛持ちの母が見つけた カイロプラクティックの治療院へ。この時が、カイロとの 初めての出会いであった。今まで受けたどの治療よりも 効果が高いことが実感できた。治療後の身体の軽かったこと! 

大阪の先生から東京・蒲田の先生を紹介してもらい、 2週間に一度のペースで土曜日の休日に通院する。 長時間の座業にも耐えられるようになる。 テニスの後もあまり痛まないようになる。

カイロの治療を継続してゆくうちに、この技術を習得してみたい、 という気持が徐々に募ってくる。何しろ今までいろいろな治療を 受けてきたが、こんなに良く効いた治療は初めて。ちょっとした 「カルチャー・ショック」である。治療も気持ちよい。

鍼灸や指圧・マッサージはそれなりの専門学校があるから、 それを目指すならその方面の学校に行けばよいことは 常識程度に分かっていたが、カイロプラクティックは 全く聞き慣れない治療法だし、それを教える専門学校なんて 見たことも聞いたこともないので、どのようにして この技術を習得してこられたのかを、カイロの先生に尋ねてみた。

返ってきた答は、「まず鍼灸や指圧の免許を取得して、それから 講習会で勉強を始めるんだよ。そうでないと解剖学や生理学などの 基礎医学を勉強できる所がないからね」というものであった。

日本にはカイロプラクティックの免許制度がないとはいえ、 開業して治療院を構えるには、何らかの医療免許を取得して おかないと、法律上何かとまずいことになるのでは、という位の ことは素人が考えても判った(しかし最近では、このように 考える人が少なくなっているようで、極めて残念である)

しかしまだ入社して1年、しかも結婚したばかりである。 この1年の間に人生の重大イベント(就職、結婚)を2つもこなし、 後は定年まで無事に勤め上げるだけか、と考えていた矢先である。 その余韻もおさまらないうちから「転職」もやるのか?という言葉が 頭をよぎる。この言葉に我ながら怖じ気づく。

アクリロニトリル・モノマーを合成するための触媒開発という 部署に配属され、仕事にもやり甲斐を感じていたので、敢えて 会社の仕事に集中するよう、自分をし向ける。1年たってもカイロを 勉強したいという気持が強いままなら、その方向で活動を開始する ことを心に決める。この間、仕事にも熱中したが、いろいろな本を むさぼるように読む。

仕事が面白いのに、どうしてあさってのことに興味を覚えるのか、 自分でも不思議でしようがない。そんな自分を持てあましている、 もう一人の自分がいた(この理由は、後に母に聞かされたことに よって納得するところがあった)。

1977年
依然としてカイロの技術を習得したい、という気持が強いので、 カイロを修得するための方向に一歩を踏み出す決心をする。 先ず、家人を説得。これはあっさり認めてくれた。 彼女曰く、「いずれ何かをやらかすようには思っていたけれど、 こんなに早く言い出すとは思っていなかった」そうな。 実家の両親にはまだ内緒。

最初のステップとして何らかの国家資格を取得すべく、 仕事を終えた後に通学可能な専門学校を探したところ、 大森の東京衛生専門学園(鍼灸+按摩・マッサージ・指圧)と 京浜急行雑色駅の長生学園(按摩・マッサージ・指圧)の 二校あることが判った。

どちらも調べたが、長生学園は脊椎調整を中心とした独自の 治療法を伝授するということだったので、「カイロプラク ィックも脊椎調整だからちょうどいいや」とばかり、 この学校に決める。

その当時、鍼灸と按摩・マッサージ・指圧の免許を同時に 取得できる学校は年限が3年、鍼灸だけなら2年半、 按摩・マッサージ・指圧だけなら2年であった。勤務を終えて からの夜学である。期間も短い方がいいに決まっている。

1978年
4月に長生学園2年生に進級。覚悟はしていたものの、 仕事と夜学の両立はやはり辛い。夜学に入学したことは 職場の人たちには伏せたままであったので、それも精神的な ストレスになった。59Kgあった体重が52Kgにまで減った。 胃も重い。寝汗をかく。

数年後の胃カメラ検査で判ったことだが、この時、最初の 胃潰瘍を発症していたようだ。学校とストレスが原因だろうから、 精密検査は受けても無駄と考え、医者にも行かなかった。 (卒業すれば治るだろうと考えていたが、事実その通りになった)

基礎医学やその他の座学、按摩、マッサージ、指圧の 実技練習は何とかなるが、困ったのが脊椎矯正の実技練習。 矯正手技の基本動作を教わって家でもさんざん練習して いるのだが、いっかな成功する気配がない。 この時の焦燥感といったら!

しかし、「基本練習を諦めずに続ける」ということが、後々の カイロプラクティックの矯正手技を修得するときにも大いに 役立った。いま思うに、練習不足の初心者がいかにも多い。

5月に長女誕生。

一つだけ助かったことがある。京浜急行の雑色駅にあった 木造2階建てのオンボロ校舎を建て替えることになり、臨時の 教室が生麦駅近くの本部ビル(整形外科医院とお寺が入っている) の本堂になったこと。生麦駅は会社へ行くのに毎朝下車して いるので、通学が大変便利になった。

職場の人たちに隠しておくことがあまりにもシンドイので、 学校が夏休みに入る前、ついに直属の上司である主任に打ち明ける。 これでクビになってもどこかアパートを借りてアルバイトしながらでも 何とか卒業するつもりでいたが、上司は「卒業するまで頑張りなさい」 と逆に励まして下さった。

それ以後、会社の人たちに知れてしまったので、昼休みに宿直室で 腰痛の人や肩こりのひどい人など触らせてもらうようになった。 (もちろん無料)

思えば、化学会社は辺鄙な海辺のコンビナートにあることが 多いので、横浜という大都会(京浜工業地帯)の会社に就職して いなかったら、他のことを勉強することなど全く不可能だ。 そういう意味では大変な幸運に恵まれたといえる。 職場の人たちも気の良い方ばかりで、あさってのことを 勉強しているからといって、意地の悪い態度を取る人は いなかった。この点では大変感謝しております。

長女が生まれて実家の母が手伝いに来てくれた時、 「そう言えば、お前の爺さんは鳥取の田舎でパン屋を していたけれど、若いときから柔道を習っていて(三段)、 今でいう接骨院のようなことを仕事の合間にしていたよ」と 教えてくれた。こんな話はそれまで一度も聞いたことがなかったので、 ちょっとビックリした。

その昔(昭和初期の頃だろう)鳥取の田舎には病院や開業医院など なかった時代であるから、柔道の活法(脊椎矯正のようなこと)が うまいので、捻挫やギックリ腰の人が評判を聞きつけて治療に 来ていたそうだ。本業ではないので、治療代はもらわなかったら、 患者さんは気の毒がって、お米や野菜を治療代の代わりに 持ってきていたらしい。

私がカイロプラクティックに出会って、この技術をものにしたい という欲求が強くなったのは、祖父の血が騒いだのかと、 先の懸念に一応合点する所があった。この爺さんは私が生まれる 前年に亡くなっているが、その生まれ変わりが私である というのは、いくら何でもコジツケが過ぎるだろう。

1979年
3月に長生学園卒業。同時に按摩・マッサージ・指圧師の 免許を取得。4月に退職し、親子3人して大阪の実家に舞い戻る。 会社に勤めながら「二足のわらじを履く」方法も可能かと 思われたが、私のことが社内に広まってしまっていたため、 他の社員に対する諸々の影響を考えると、在職を続けるのは 会社に迷惑をかけると思い、取りあえず退職した。 先の当てはない・・・・。

半年ほど塾の講師や出張治療を続けていたが、 塩川スクール(カイロプラクティックの養成校)に入学した 長生学園の同級生から、10月生(1年制)を募集していることを聞き、 妻子を実家に預け、再び上京することに。

塩川スクール副学長の経営している薬湯健康センター付属の 治療院で夕方5時までマッサージの仕事をし、1時間半かけて 埼玉から日本橋の教室まで行って夜9時まで講義を受ける、 という毎日。アパートに帰り着くのが夜の11時であった。

ここでも副学長とその姉上である女性社長には大変お世話になった。 その会社所有のアパートの一室に住まわせてもらっているのに、 部屋代は給料から差し引かれていなかった。また、薬湯の従業員の 方々にも大変可愛がっていただいた(埼玉方面には恐れ多くて 足を向けて眠ることなんかできない)。

埼玉での1年間の修行中にホトホト感心したことがある。 それは地元の人たちの、穏やかで人を疑うことを知らない気質である。 スクールで習ったことを少し昼間の治療中に使ってみると、 偶然にしろ良く効くことがあった。すると、ぺーぺーの治療師に 対して大先生扱いである。夕方早く仕事を終え、患者さん達に 「お先に失礼します」と出かけようとすると、「なんだ先生 (この上)まだ勉強するのかい?大したもんだねえ」とまるで 「これ以上勉強なんかしなくてもいいんじゃないの?」というような 口振りである。免許取り立ての治療師に対して、この台詞は、 涙が出るほど嬉しいものであった。

塩川スクール時代に、PAACの理事であった兼古、平塚、渡辺、 その他諸先生方の講義を受けたことが、現在の私の礎になっている。 この時期はよく勉強もし、練習もした。朝早く(といっても午前9時) 治療院に行って治療開始の10時までの間、30分ほどカイロ手技の 基礎練習に没頭した。

この時の基礎練習のおかげで、学校で習ったいろいろなテクニック、 ガンステッド・テクニックやディバーシファイド・テクニックなどを 一年後には、ほぼ成功するようになっていた。

1980年
10月に塩川スクールを卒業し、大阪の実家の隣りにある アパートの一室で開業。もちろん最初は閑古鳥が 啼きっぱなしである。

「ワガハイは、かいろぷらくたあ、である。患者はまだ無い」 という愚にもつかないパロディーが、しきりと頭の中をよぎる 毎日であった。

しかし英文のテキストを読んだりして勉強。 日曜日には東京で開かれるセミナーに出席するなどして 機会を見つけては技術力の向上に努める。

そして埼玉の治療院の患者さんが大阪の知り合いを紹介して 下さったりして、少しずつ患者さんが増えてくる。

1982年
長男誕生

1983年
経営がほぼ軌道に乗る。と言っても院長(筆者)一人だけの治療院である。

1984年
この年の終わりに振り返ってみると、自己教育費として 一年で100万円あまりを費やしていた。この頃を振り返って 家人は「あの頃のセミナー代があれば、家計がずいぶん 助かったのにね」などと言っているので、これは決して 余裕で捻出できた金額ではない。

しかし、自分の技術をさらに高めることを最優先し、 高めた技術を患者さんに還元する、という姿勢を貫くことで、 さらに難しい症例も扱えるようになった。ちなみに、 これ以後10年間は、毎年ほぼ同額を自己教育費として費消した。

この金額が多いか少ないかは読者の判断に任せるが、 シオカワ・スクール時代、講師のH先生が「カイロの勉強には 金がかかるので独立開業して勉強代を稼いだ」と語って おられたのが印象に残っていて、筆者の場合もその言葉通り になった。この業界は、雇われ状態では高給が期待できないので、 勤めていては勉強代を捻りだせないのが実状である。

開業してから今年(2004年10月)で満24年になる。 この24年の間にもいろいろなことがあったが、 取りあえず表題の目的は達せられたと思うので、 これにて一応筆を措くことにする。

(2004/06/06:記)

追記:
上記の文章は10年ほど削除していましたが、2018年9月に サイトの内容を全面的に見直し、気が変わったので、再掲載しました。 2004年の時点から2018年現在まで14年経過しましたが、 大過なく治療の仕事を続けています。

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著作権所有(C) 1996-:前田滋(カイロプラクター:大阪・梅田)