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カイロプラクティック・アーカイブ:表紙へ 大東亜戦争:国民はどのように受けとめたか 2025年11月1日 始めに このサイト管理人の父親は大正5年(1916年)生まれである。 当時の常として兵役に取られ、日中戦争時には満州にいたという。 大酒飲みで酒で失敗し、重営倉に2~3度放り込まれたことがある、 とは本人からではなく、その連れ合い(管理人の母)から聞いたことがある。 終戦時は宮崎県で塹壕を掘っていたそうな。除隊時の階級は伍長だか兵長だか と聞いている。 今年(2025年)は戦争関連のページを3件開設したが、一般国民はこの戦争を どのように受けとめ、どのように過ごしていたのか、気になりだしたので、 とぼしい読書体験から、それと思しき書物を引張りだし、まとめたのが このページである。 ★戦前派 ・永井荷風(1879-1959;終戦時66才) 荷風は、昭和20年3月9日夜から翌10日にかけての東京大空襲によって、 麻布区市兵衛町(現港区六本木)にあった自宅・偏奇館が焼け落ちたあと、 伝手をたよって明石、岡山、熱海に転々と疎開している。 このことは「断腸亭日常」に詳しい。そのごく一部を示しておく。 昭和19年4月11日:白米一升十円、醤油一升十円、バタ一斤二十円、 玉子一個七十銭 昭和19年9月27日:白米一升十五円、玉子九十五銭、甘藷一貫目九円 とあってややあがっている。 ・ 山本夏彦(1919-2002;終戦時30才) 「戦前」という時代 コラムニストの山本夏彦が戦前戦中のことを 上記の作品で語っている(後出)。 ★戦中派:実際に従軍した人たちの記録 日野葦平 「麦と兵隊」1938 満州従軍記 大岡昇平 「俘虜記」1949、「野火」1951、「レイテ戦記」1971 野間宏 「真空地帯」1952 島尾敏雄 「出発は遂に訪れず」1964 特攻隊 竹山道雄 「ビルマの竪琴」1947 東大新書 「きけ わだつみのこえ」1949 吉田満 「戦艦大和ノ最期」1952 ★戦中派(終戦時20才歳前後):徴兵検査を受けたが従軍しなかった人たち ・山田風太郎(1922-2007;終戦時23才) 「戦中派不戦日記」 昭和17年に徴兵検査を受けたが、肋膜炎の既往があったため丙種合格となり、 兵役は免れた。 ・吉行淳之介(1924-1994;終戦時21歳) 戦前戦中のことはめったに語っていないが、 めずらしい記事があったので、戦中派の代表としてここに抜粋しておく(後出)。 *「戦中少数派の発言」:「軽薄派の発想」芳賀書店 1966年 所収 *「甲種合格」と「即日帰郷」:「石膏色と赤」講談社 1876年 所収 *「東京大空襲の話」:「軽薄のすすめ」角川文庫 1973年 所収 *「戦没者遺稿集について」:「なんのせいか 吉行淳之介随想集」 面白半分社 1976年 所収 *「廃墟の中の青春」:「戀愛作法」文藝春秋新社 1958年 所収 ・吉村昭(1927-2006;終戦時18才) 東京・荒河に育ち、18才のとき徴兵年齢が満20才から満18才に繰り下げられたので、 1945年8月10日ころに徴兵検査を受けた。結果は第一乙種合格。 しかしその数日後の8月15日に終戦を迎える。 中学(旧制)時代に肋膜炎で休学したことや、進路変更したことなどが重なり、 紆余曲折を経て旧制高校(学習院)に入学したのが20才(1947年)だった。 その翌年に喀血し、胸郭形成術(左肋骨5本を切除)を受ける。2年半療養して 大学(学習院)に入学したのが23才(昭和25年)。東大分院での手術は 局所麻酔だけだったという。10年ほどのちに執刀医と面談した際、 「20例手術した中で、いま現在生きているのは君だけだ」と告げられる。 この人の作品は好きで、ずいぶん読んでいたが、今回エッセイを読み直してみると、 次のような記述をみつけて、びっくりし、また唖然とした(下出)。 戦争に対する思いは人さまざまだから、「間違っている」とも「正しい」とも いえることではないが、ここの管理人にはとうてい賛同できない。 ------------------------- 吉村昭 「私の中の戦中・戦後」抜粋 「月夜の記憶」講談社文庫 1990年 所収 戦争発生を阻止するためには、自衛に充分な軍備をもつべきだ という意見と、むしろ軍備は日本を戦争の渦中に巻き込むおそれがある という意見とが対立している。そのいずれが正しいか、私にはわからない。 ただ一つ私に言えることは、自分の信ずることを固守したいという 思いだけである。戦争は、醜く、むごたらしく悲惨なものである。 おびただしい死骸が散乱し、それは悪臭を放って腐爛してゆく。 残されるものはなにもない。戦争だけは、どのようなことがあつても 避けるべきである。 異国の軍隊が、国際ルールに反して侵入してくる。戦争だけは 避けるべきだという私の信念からすれば、断じて軍事力での抵抗は すべきでない。 異国の軍隊に占領される屈辱感は堪えがたい。 しかし、昭和二十年八月十五日以後の日本では、兵器による 大量殺銭はなかった。病人は、治療を受けることができた。 子供も、生れた。暗い時代ではあったが、ともかく戦時中よりは 人は死ななかった。私の考え方は、女々しい。しかし、戦争に関する かぎり、女々しくあることが私の勇気だと思っている。 (サンケイ新聞 昭和44年8月) ------------------------- 野坂昭如と同じように、すさまじい空襲による悲惨な状況や戦中・戦後に かけての食糧難や社会の混乱が骨の髄まで身に沁み、 「二度とこのような状態を作ってはいけない」と思うあまりの言説だろうと、 私は受けとめている。 敗戦までの昭和時代は、軍部による圧政状態、いわば「軍による占領時代」 ともいえる状態だったので、国民はある種の「息苦しさ」の中で 生活していたようである。したがって吉行淳之介が書いているように、 「敗戦を軍国主義と画一主義の崩壊とみなして、自分たちの敵が負けたという 錯覚をもった」人が多くいたようだ。そして米国による占領政策が表むきは 過酷な締めつけがなかったこともあり、息苦しさが払拭され、 晴れ晴れとした解放気分が国中に広まった。 かりに将来、外国勢力によって日本が侵略された時に「無抵抗」を貫くとして、 相手が80年前のアメリカのように寛大な施策を実行する可能性は きわめて低いだろう。このことはチベットやウイグル人に対する人権侵害を みても明らかである。南北朝鮮のように日本列島が南北に分断され、 下手をすると日本民族の滅亡ということになる可能性がある。 忌憚なく言えば、この人も何が何でも「戦争反対」で、 その先に関しては思考停止状態に陥っていると言わざるを得ない。 ★戦後派:戦争や戦後の混乱状態を描いた小説作品 管理人の目についた作品を挙げておく。 原民喜 「夏の花」1949 被爆体験記 野坂昭如 「アメリカひじき 火垂るの墓」1967 空襲体験記 井伏鱒二 「黒い雨」1966 被爆体験記 坂口安吾 「白痴」1946 敗戦間近の場末裏町の人間模様 藤原てい 「流れる星は生きている」1949 満州からの引き揚げ体験記 新田次郎 「望郷」1965 シベリア抑留記 遠藤周作 「海と毒薬」1967 米軍捕虜に対する生体解剖実験 森村誠一 「悪魔の飽食」1981 731部隊 吉村昭 「戦艦武蔵」1966 ★終戦時14才~15才(思春期という多感な時期)の人たち: 特に東京大阪などの大都会で終戦を迎えた人たち(註1)は、 食糧難と社会の混乱状態に強い衝撃を受けた結果、 「何が何でも戦争反対」と言い続けていた。 戦前の反動としての1960年の安保反対闘争(註2)を初めとして、 日本社会が「左傾化」するなかで、それに続く ベトナム戦争(1960~1975) に端を発した 米国の反戦運動(フォークソング・ブーム)とあわさり、日本社会は 「反戦色」に覆われていた(註3)。 その代表的な例としては 野坂昭如(1930-2015):焼跡闇市派 がいた。戦争反対を声高に叫ぶあまりに、「どのようにすれば戦争を抑止できるか」 というところに考えがおよばず、言わば思考停止状態になっていた感がある。 したがって、「戦争を抑止するためには軍備が必須」(註4)などと言おうものなら、 袋だたきにされそうな社会風潮だった。 この風潮が静まったのはようやく21世紀に入ったころである。 もうひとり、 井上ひさし(1934-2010;終戦時11才) がいた。5歳の時に父親が死去。母親が経営していた土建屋が倒産したため、 弟とともに仙台のラ・サール修道会の孤児院にあずけられ、 高校(仙台一高)卒業までそこから通学していた。 日本の政治体制に絶望して、長編小説「吉里吉里人」において日本国内に 「独立国」をつくることを書いているが、その萌芽となる作品を すでに高校の校内誌に発表していた、とどこかで読んだことがある。 父親の影響か、その政治信条は多分に共産主義的である。 註1: 三浦哲郎(1931-2010) は終戦前、青森県八戸市の自宅で米軍戦闘機の 銃撃を受けた際、いつも隠れて遊んでいる押し入れに機銃掃射を受けたことを どこかのエッセイに書いている。たまたまその時には押し入れにはおらず、 命びろいをしたという。 註2:この左傾運動に対抗するために、当時の首相岸信介は統一教会と手を組み、 「国際勝共連合」 を結成した。この協力関係は岸信介の孫にあたる安倍晋三の時代になっても 連綿として続いていた。そして自民党との関係が大きく取り上げられ、 社会に知れ渡ったのは言うまでもなく2022年に発生した銃撃暗殺事件である。 ついでに言うと、明治維新を遂行した薩長陣営による政権保持は 大正、昭和、戦後になっても続き、岸信介は長州(山口県)出身、 その孫の安倍晋三も当然ながら長州閥である。 反対に幕末に京都守護職を意に染まぬながら勤めた 松平容保の 領地である会津若松(福島県)は維新後もずっと冷遇されていた。 そしてどこも引き受けたがらない「原発」を「補助金」という 馬のニンジンをエサにしてこの地に誘導した。その結果が2011年の 東日本大震災である。 教育機関に関しても、維新後は次々と各県に一つずつ国立大学が 設置されたのにたいし、福島県に国立大学が設立されたのは 維新後80年も経ってからである(大東亜戦争後)。 福島大学:1948年設立 ほかに公立大学が二つあるが、両者ともに県立である。 福島県立医科大学:1950年設立 会津大学:1993年設立 いい大人がなん十年にもわたってこんな「イジメ」をするのである。 いわんや子供においておや。 註3:日本では 「戦争を知らない子供たち」 を代名詞とするフォークソング・ブームがあった。 また小田実たちの設立した 「ベ平連」 による反戦運動が盛んだった。 本サイトの管理人はこの世代にあたる。 共産国陣営にとっては、日本の左派勢力の台頭は望ましいことで、 かなりの資金が左派勢力に流れていたと言われている(敵国の後方撹乱)。 また大戦時のルーズベルトやトルーマンにとっては日本の勢力の分断は 思うつぼであったことだろう。「挙国一致」すると、日本人はとてつもない 力を発揮するのだから。スポーツの世界における団体競技を想起されたい。 註4:イランや北朝鮮が核兵器開発に力を入れているのは、 国際社会で自国の意見を通すためと、もちろん国防のためだろう。 英米仏露支は自分たちが世界における優位を保つために アラブやアジア諸国における核兵器開発を阻止することに躍起となっているが、 果たしてうまくゆくかどうか。 国連は国際原子力機関(IAEA)を設立して核兵器の拡散を阻止しようと しているが、どの口でこんなことを言うか、噴飯ものである。 アラブの核兵器開発や移民による欧米社会の混乱は、 そのむかし欧米列強が中東地域やアジアで好き勝手な行ない (アラビアのロレンス:英国の二枚舌、三枚舌)をしてきたツケが廻ってきた、 といえるだろう。その典型例がウサマ・ビン・ラディンによる アメリカ同時多発テロ(2001年)といえる。 日本も、国際社会で発言力を高めるために核兵器開発を 推進してもよいだろう。また強力な国防対策の一環として 原子力潜水艦を所有するべきだ(最低でも北と南に一隻ずつ)。 そのとき、米国がどのような態度をとるか、だれかシミュレーション してくれないか。 山本夏彦(1915-2002) 「『戦前』という時代」 文藝春秋 1987年より抜粋 私は昭和十二年満二十二のときから自活することになった。 わが家は明治四十二年(1909年)に死んだ祖父(高利貸し;編者註)の遺産で このときまで食べていた。それがようやく尽きたのである。 戦中戦後、私は秋田県横手町に疎開していたから、ついぞ食うに困らなかった。 農村のなかにある人口二、三万の都市ならどこも困らなかったとは承知していたが、 仙台でもそうだったとは初耳だと、ある日ある宴で言ったら、福島市で育ったという 同席の人物が、実は自分たちも困らなかったと白状した。仙台も福島も大きな 都会である。これによって食うに困ったのは東京とそれに準ずる大都会だけ だったと分った。ヤミと言い買いだしと言う。農家は白米を食べてなお売る米を 持っていたのである。日本中の農家と仙台福島ほどの都会で食うに 困らなかったとすれば、日本人の大半は困っていなかったのである。 農家ははじめは金で売ったが、しまいには衣類を持参させたから着るものにも 不自由しなかった。彼らの生涯の最良の日々だったのである。 「十五年戦争」と称して満洲事変以来戦争状態が続いて世間は闇だったと いうものがあるが、まっかなうそでぁる。 「戦前戦中まっ暗史観」は社会主義者が言いふらした。 社会主義者は戦争中は牢屋にいた、転向して牢屋にいない者も常に「特高」に 監視されていた。彼らにしてみれば、さぞまっ暗だっただろう。 けれども社会主義者はほんのひと握りである。 転向しなかった社会主義者は戦争が終った途端にアメリカ軍によって解放され、 凱旋将軍のように迎えられ。彼らは直ちに労働組合を組織してその指導者になった。 短期間ではあるが「読売新聞」を乗っとった。社会主義には何より「正義」が あったから一世を風靡した。「日教組」はその巨大な組合の一つである。 手短にいうとその教育で成功したものの随一は、「古いものは悪い、新しいものはいい」 だろう。彼らは日清日露の戦役まで侵略戦争だと教えた。戦艦陸奥、長門の名も 事典から抹殺した。僕はそれを「お尋ね者史観」と呼んでいる。 ― そんな言葉はじめて聞きます。 山本 言い得て妙でしよう。大衆はお尋ね者ではないから、その日その日を 泣いたり笑ったりすること今日の如く暮してました。向田邦子は「髪」という短編の なかで、私たち女学生はもんぺはいて明日の命も知れないというのに 箸がころんでも笑っていたと書いている。 来たるべき戦争というが、だれもアメリカと戦争するなんで思ってもいなかった。 ― どうしてです。 山本 国力が比較にならない、日米開戦の昭和十六年は満洲事変以来すでに 十年たっている、この上アメリカと戦争するなんて出来っこないと、 軍国少年はいざ知らず、大人は思っていた。大衆は戦さに倦んでいた。 日清日露、くだって満洲事変だって一年余りで終っている。 ―― 大衆は賢かったんですか。 山本 賢くなんかないこと今と同じです。ただこの上戦争する力が ないことだけはよく知っていた。軍人だって知っていた。 ―― 知っててどうして? 山本 「ハル・ノート」のせいです。日本軍は中国から全面撤退すべし、 蒋介石政権以外は認めないというハル・ノートは日本への最後通牒、 宣戦布告ですよ。政府はそれを国民にかくして発表しなかった。発表すれば、 世論は開戦はやむを得ないと承知したでしょう。 ―― なぜ発表しなかったんですか。 山本 そんなこと知りませんよ。外交べたのまじめ人間ばかりです。 僕なら「ハル・ノート」受諾します、そして催促されたら一個師団朝鮮に 撤退させます。当時の朝鮮はわが国だということは世界が認めています。 さらに催促されたらもう一個師団右から左に動かします。国際情勢は 猫の目みたいに変ります。わが国に有利に動いた好機を捕えます。 ――なるほど、「世はいかさま」ですね。 昭和十六年十二月八日、日米英開戦の朝、二階で寝ていた 山本七平(1921-1991) は、下からドンドン天井をつつかれて「オイはじまったぞ戦争が」と言われて 「えっ、どことどこが」と聞いたという。七平さんはインテリだ。 そのインテリだって「まさか」と思っていた。あとは推して知るべし。 人は来るべき戦争におびえて十五年も戦々競々としていたというのはウソである。 ―― それじゃ終戦は喜んだのですか。 山本 ほっとした。玉音放送は録音が悪くて雑音だらけだったが、北方でも南方でも直ちに 武装解除したのは、終戦を待ち望んでいたからです。のどまで出かかっていたから、「耐ヘガ タキヲ耐へ、忍ビガタキヲ忍ビ」だけで分ったのです。分りたいことは分るのです。 昭和十四、五年ごろ私は独身でひまだけあって金がなかったから、日記に似たもの をつけていた。それによると物が欠乏しだしたのは昭和十五年からである。 それでもこの年は皇紀二千六百年に当るとかで、満洲国の皇帝を招いて 国民に最後の大盤振舞をした。十六年十二月八日、日米開戦の日に 私は新橋の「天春」で友と二人で天ぶらを食べ酒を飲んでいる。 本当に困りだしたのは十九年、空襲が本式になりだしてからである。 昭和十八年ごろ:食いものだんだん窮屈になる。新橋にふぐを食わせる店がある。 食用蛙を食わせる店がある。日本橋に猪を食わせる店がある。 ふぐはまだこわがる人があってここでは十八年まで食べられた。 一度しびれたことがあるが、惜しい命じゃなしと思い、 そのころ仲のよかった恋人と食べる。 女はまだもんぺを穿いてない。もんぺを穿きだすのは 17年以後だが全員が穿いたわけではない。それもはじめは着物をほどいた 派手なもの、紺がすりになるのは空襲がはじまってからである。 十七年四月十八日のドウリットルの空襲は麹町では知らなかった。 花火のような音がしただけで、坂入長太郎から電話で教えられて始めて知った。 あくる日の新聞にはこの程度の爆弾で東京を焼尽させるには十年かかる 二十年かかるなどとのん気な記事が出る。焼夷弾のことまだ誰も知らないのである。 隣組だんだんうるさくなる。ただし独身者には及ばず、配給はすべて下宿の婆さんにやる。 味噌醤油は不要だから譲ってビール酒タバコだけ貰う。婦人会に愛国婦人会と 国防婦人会あり、愛国のほうが古いが振わないようで、国防婦人会の たすきばかり見る。二、三年前パーマネントはやめましょう、長い袂はつめましょうと 道行く若い女に呼びかけたのはこの国防婦人会のおばさん連である。 おばさん連はもう若くない。若い女に自昼街頭で恥をかかせて 正義は自分のほうにあるのはさぞ嬉しかろう。この隣組というもの年中集って、 集りがいいのは男女交際の場だからである。男女が公然と膝つきあわせて 談合できるからである。 ひとり者の私は次第に食うに困って深川や新宿の馬肉屋へ行った。 どじょう屋へ行った。人のいやがるものをさがせば最後まで食べられた。 馬肉はさくら鍋といった。猪はぼたんといった。 私に召集令状が来たのは昭和十八年夏で初めて第二国民兵をとったのだから 何割余分にとっていいか分らないから多くとりすぎたのだろう。 即日帰郷といってその日に帰してくれた。横須賀の海兵団だった。 兄は新京にあり弟は二人とも兵隊にとられ上の弟は南方にありというも定かならず、 下の弟は肺を患っていま小倉の陸軍病院にあり、はるばる見舞いに行く。 軍医いわく気の毒だがあとひと月の命なるべしと。 それを聞いて母行く。死ぬまでつき添って骨になったのをかかえて帰る。 小倉の旅館何とか食わせてくれた由。これ十九年十二月のこと也。 一度召集されてその日のうちに帰された者の二度目の召集は、 一両年の間隔があるだろうと私は見込みをつけて、にわかに結婚する気になった。 軽率のようだが必ずしもそうではない。その機会は今をおいてはないといえばいえる。 昭和十八年現在二十代の男子で一両年の時間を持つものは希である。 婚礼の当日赤紙が来ることもあるのである。してみれば私は二年間の休暇を もらったようなもので、そのまに戦争は片づくかもしれない。 十九年二月二日私は結婚した。十九年二月ならまだ空襲のなかったころである。 柏市豊四季に貸家を見つけて入居する。家賃二十八円やがて三十五円。 初の空襲は同年十一月である。昭和十九年の柏は今の柏ではない。草深い田舎である。 駅前にそば屋があってそこで「かけ」を食べたからまだ食べられたのである。 私の給料は二百円にあがっていた。ほかに百円たらずの収入があったが、 十九年十月九日芋四貫目十三円、十一月十七日芋四貫目一円八十銭とあるから 前のは闇で、あとのは配給だと分る。 十一月二十五日芋四貫百五十六円、同三貫(田口さん)十円とあって 田口さんの名前方々にあるところをみると、この人に分けてもらっていることが分る。 二十年一月十七日、卵五個五円とあるから一個一円である。 吉行淳之介(1924-1994) ☆「戦中少数派の発言」 「軽薄派の発想」芳賀書店 1966年 所収 昭和十六年十二月八日、私は中学五年生であった。その日の休憩時間に 事務室のラウド・スピーカーが、真珠湾の大戦果を報告した。 生徒たちは一斉に歓声をあげて、教室から飛び出していった。 三階の教室の窓から見下ろしていると、スピーカーの前はみるみる 黒山の人だかりとなった。私はその光景を暗然としてながめていた。 あたりを見まわすと教室の中はガランとして、残っているのは私一人しかいない。 そのときの孤独の気持と、同時に孤塁を守るといった自負の気持を、 私はどうしても忘れることはできない。 戦後十年経っても、そのときの気持は私の心の底に堅いシンを残して、 消えないのである。 中学生の私を暗然とさせ、多くの中学生に歓声をあげさせたものは、 思想と名付け得るに足るものとはおもわれない。 それは、生理(遺伝と環境によって決定されているその時の心の肌の具合と いったものともいえよう)と、私はおもう。そして、中学生という立場は、 生活の糧をかせぐ必要もなく、特高警察に監視されることもないものなので、 自分の内部を歪めて外側の風潮に合わせる地点に追い込まれることは なかった。したがってその生理は原型のままに保存されていたわけだ。 そういう私の生理は、幼年時代から続いている戦争やそれに伴う さまざまの事柄を、はなはだしく嫌悪していたのだが、 そういうものから逆に鼓舞される生理が圧倒的多数存在していた のである(参考のために付け加えれば、私は徴兵検査は甲種合格で 運動神経もまんざらない方ではない)。 旧制高校に入学してあたりを見まわすと、私に似た生理に属する少年は、 中学のときに比べれば多くなっていた。あの時代ほど友人になれる 相手かどうかの判別が明瞭だったことはない。二言、三言話し合えば、 すぐに分類がついたのである。そして、青少年を軍国主義に 統一しようとした当時の権力のやり口が、どうしようもないほどの 愚劣さを含んでいたことが、私たちの生理を原型のままに維持させて行った (戦後発表されたナチのやり口は、最新の科学を剛に柔に応用して 生理に変化を与え、精神を変形させようとしたもので、 そういうやり口で攻められたらどうなっていたか、私には自信がない)。 その当時、私が書物を濫読したのは、自分と同じ生理に属する人間を、 東西の作家の中に見出そうとしたためと言ってもよいくらいである。 同年代に同じ環境に置かれたという点から世代というものが 設定されるのだが、同じ環境の中に置かれても、それが内部に達するまでの 屈折の具合が違うならば、同じ体験をしたとは言えない。 千年前の人間の精神構造の原型に自分の精神を見出すこともあり、 同年代の人間と全く相容れないこともあるのは、言うまでもない。 村上兵衛の「戦中派はこう考える」は、東京新聞で自井吉見氏が 言われたように、長い問あたためておいた考えが流露しているので 好論文になっている。村上は私の友人であるので、直接話し合った事柄から 察しても、軍隊の中では異端者であったに違いない。 しかし、彼の論文の中で最も私の気持にひっかかるのは、 その文中の「私の士官学校の同期生二千人のうち千人が戦争で死んだ。 彼らが天皇を信じていたかいなかったかを問わず、空しく斃れた友人の 誰彼の童顔を想い浮べると、私の心は穏やかではないのである。 天皇を信じていなかったとするなら、彼らは殺されたのであり、 天皇を信じていた男にとっては裏切られたのである」という部分である。 幼年学校を受験するのは中学二年、士官学校なら中学四年である。 その年齢になれば他からの強制によって軍人への道を選んだわけではない。 自分自身の意志で、いや敢えていえば自分自身の生理が選び取った道である。 軍人への道を選んだことの善悪は、私には、判断がつくことではない。 ただ、そのことにたいして、自分自身がまず責任を負わなくてはならぬと おもうのである。「いたずらに甲高く叫ぶような人種を自分たちは信じない。 学生運動が華やかだったころ革命前夜を呼号した学生指導者たちの目の中に、 かつて自分にビストルをつきつけた敗戦前後の蜂起将校と同じ目の色を見た」と、 村上兵衛は言う。同感である。旧制高校で同学年だったウルトラ軍国主義者が、 いつのまにか東大の学生運動の指導者になっていたのを、私は知っている。 しかし、戦争中もっとも甲高く叫んだ人種の中には、士官学校の生徒は 含まれていなかったか。私は彼らを信じない、というよりは自己形成の 最重要期である十八歳前後に、心の肌の具合がはっきり異なっていたことを 痛感する。今となっては、彼らを「ダマされた可哀そうな人たち」と 考える余裕はできている。 しかし、それと同時に、彼らを憎む気持も強く尾をひいて残っている。 当時、彼らはいわゆる大義名分によりかかって、あまりに私たちに向って 罵り叫びすぎたのである。 浅田光輝氏が、読書新聞に「戦中派の発言」と題して、村上兵衛の論に 切実に共感しながらも、それと食い違った点について書いている。 ここにその全体を要約するスペースがないが、私はその鋭く深い論旨に 敬意を表し、かつ同感する。村上は「戦中派の私たちに責任はなかった」 という立場から論旨を展開させているが、浅田氏は 「まったく責任がなかった」という立場には立てないと言う。 その理由について氏はこう言う。 「大学を出るとすぐ学徒出陣で中国の戦場にあった私は侵略戦争を批判し 否定することを心得ていた当時のわずかな一人であった。 そのため予備士官になれず兵隊に終始した。それなのに私は、 私の批判的信念を仲間の兵隊に伝えることもできず、残虐きわまる戦場から 脱走することもできなかった……。すべての結果は個人の抗しえなかった 権力者の強制による結果だったのである。しかし、そうした権力者の 強制のもとでどうにもできなかった自分のみじめさを深く自覚することが なければ、この権力者の強制のおそろしさも本当の意味で理解しえまいし、 それにたいするはげしい怒りも生れてくることはできないだろう」 浅田氏は私より六年年長である。思想というもので時代に反撥した氏は、 自分の惨めさの自覚を右のような点に発見した。生理をもって時代に 反撥した私は、異端の気持と疎外されている気持を持たないわけには いかなかった。そしてこの気持は、惨めさの自覚にもつながり、 と同時にその裏側に自負の気持ちもくっついているのである・ 生命を維持するためのわずかな金をかせぐためエラスムス流の生き方を 身につけようとしたのは戦後のことで、戦時中は私はまことに初心で 潔癖であった。そして、時代の風潮に反撥することに、いわば、 情熱を燃やしていた。 そして、その情熱は、酬われるところなく死へ至る道へ向けられた ものであった。なぜならば、戦は敵が本土に上陸してメチャメチャになって、 はじめて終るだろう、もしそれまで生きのびているにしても、 そうなったら思い切りよく死んでやろう、と私は考えていたからだ。 昭和二十年の八月十五日を境に、それまで死ぬことばかり考えていた私は、 生きることを考えなくてはならなくなった。そのとき私を襲ったものは 解放感と、同時に思い詰めた気持の行き場所を失ったような虚脱感であった。 結局、戦争が終って私に残された二つの大きなものは、この虚脱感と 人間にたいする不信の気持であったといえる。そしてこの二つは、 今でもたえず隙間風のように私の心の中に吹き込んでくる。 私は、私のような少年が戦争中に少数だが存在していたということを、 一つの材料として提出したい。どういうものか、このことはだれも ほとんど言い出そうとしていない。おそらく、声を大にして公表することを ためらう生理に属しているからであろう。 それともう一つ。村上兵衛の論文はかなり大きな公約数をつかむことだろう。 しかし、当時愚劣なことを叫び散らしていた人種が、彼の好論文に負ぶさって、 自分たちのかつての立場を正当化しようとする危険性もあることを 指摘して置きたいのである。 ☆「甲種合格」と「即日帰郷」 吉行淳之介(1924-1994)「石膏色と赤」講談社 1876年 所収 「神と天皇とどちらがエライのですか」日本にあるミッション・スクールの 先生が、生徒にそう質問されて苦しむ場面を、中学生(旧制)のとき 石坂洋次郎氏の「若い人」の中で読んで、大へん興味深く感じた。 昭和14年には、この作品が不敬罪で告訴されている。 「現人神」という言葉があって、天皇は人間の姿をした神である、 ということになっていた(私は小学生の頃からそうは考えていなかったが)。 戦争末期には、身長と体重のバランスが取れており (私の場合は、百七十センチ、六十キロ)、目と肺が悪くなければ、たちまち甲種合格にされた。 私は満二十歳の徴兵検査で甲種合格となった。 そのころ、文科系の学生の徴兵猶予が廃止になり、昭和十九年の夏に赤紙の 召集令状が届き、九月に岡山の連隊に陸軍二等兵として入れられた。 二日日に、上官が名前を呼び上げ、「ほかに体の調子が悪いとおもう者は申し出よ」 と付け加える。しかし、うっかり申し出ると「おまえは天皇陛下の軍隊にいることが 不服なのか」とか言われて半死半生になるまで殴られることがある、 という知識を私は持っていた。しかし、どうも風邪気味で居心地悪く、 せめて演習を数日休ませてもらおうと、申し出てみた。 はたしてフンイキは険悪になったが、殴られはしなかった。このとき、 軍医に私自身も知らなかった「気管支喘息」を発見されて、 四日目に兵営の門を出ることができた。当時は、ゼンソクは老人病くらいに 考えられていて、アレルギーなどという言葉も、一般には知られていなかった。 これで軍隊と縁が切れたとおもっていると、翌年二月にまた徴兵検査に呼び出され、 係官に前年の経緯について述べたが、また甲種合格にされた。 いつ赤紙が届くかとおもっているうちに、八月十五日の敗戦の日がきた。 二度甲種合格になった、ということが珍しがられるが、これは個人の問題に とどまる些事である。私は昭和二十年四月に東京の大学に入っていて、 連日のように空襲を受けていたから、軍隊の内務班(説明省略)の厄介さを除けば、 兵営にいるのと似たような日常で、五月二十五日夜の大空襲で家を焼かれた。 昭和二十年には、大学にも夏休みはなく、私は大学図書館に勤労動員されていた。 大学は、学生たちの持ち寄る情報の交換所でもあって、アメリカ軍が上陸して 本土が戦場になるというのが私の見通しであった。八月に入って、 軍は敗戦を覚悟しその処理についての会議が開かれている、という情報が 伝わってきた。八月六日、広島に原爆。それが原子爆弾と分ったのは八日で、 それまでは新型爆弾と発表されていた。マッチ箱一つくらいの大きさで 富士山が飛んでしまうほどの爆弾が研究されている、という噂は伝わってきていた。 九日、長崎に原爆。 天皇がポツダム宣日受諾の放送をするという情報を聞いたとき、 狂信的軍国主義者が戦争をつづけるために本土各地で蜂起することは 起らないで済んだ、と私はひそかにおもった。天皇の言葉は「唯一絶対」 というキマリが、ここでようやく役に立つことになった。 占領時代がはじまったが、それは予想よりはるかに苛酷ではなかった。 たしかに、軍国主義の時代はおわったが、いわゆる民主主義の時代が はじまったと考えたことは、私には一度もない。現在でも、無条件降伏と いう形の敗け方の返済が終っているのか、三十年くらいでああいう敗け方の カタが付くものかどうか、私にはまったく分ってこない。 ☆「東京大空襲の話」 吉行淳之介(1924-1994):「軽薄のすすめ」角川文庫 1973年 所収 昭和二十年の五月二十五日の夜、最後の東京大空襲がアメリカ軍によって おこなわれた。そのときまで、市ケ谷の自宅は焼け残っており、 そこから私は本郷の大学に通っていた。 夜空に浮ぶアメリカ大型爆撃機の大群は、機能的な感じでキラキラ銀色に 光って美しいのだが、そこから私たちの頭の上に焼夷弾が束になって降ってくる。 モロトフの花籠といったか、たくさんの焼夷弾を束ねる役目の 大きな曲りくねった鉄の棒が、防空豪にも入らずに縁側に坐っていた 私の三メートルほど近くに落下し、玄関のあたりには焼夷弾が落ち、 家が燃えはじめた。 もちろん電灯線は切れているから、燃える光で本棚の中から文庫本を 数冊選んで、レインコートのポケットに入れた。私は軍部を憎んでおり、 戦争が負け、死んでしまう(この点だけは計算ちがいがあつたが)と おもっていたので、実用的なものは一切持ち出さないことにした。 家財の疎開も、まったくしていなかった。 私は、ドビュッシーのピアノ曲集のレコード・アルバムと、 ショパンのワルツ全曲のレコードを小脇にかかえた。いまだったら、 LP盤で四枚くらいに入れる分量で、片手の指先でつまめる。 しかし、当時のエボナイトのレコードは重たかった。十数枚の そのレコードが、腕からずり落ちそうに重たい。町内の人たちは、 主として靖国神社へ逃げた。私はそれにさからって、母親と女中を連れて、 逆の方向の小公園に逃げこみ、火が水壕を渡ってこっちのほうへ来るのを 眺めながら、まもなく眠ってしまった。あとで知ったことだが、 私たちの逃げこんだ小地域だけ、奇蹟的に焼け残った。 朝になって、焼け跡へ戻って行くと、靖国神社へ逃げた人たちが、 ぞろぞろ戻ってくる。反対の方角から戻ってくるのは、私たちだけで、 しかも私がかかえているレコード・アルバムは鮮やかな橙色で、 まるで異端の旗じるしのようにみえた。 戦争が終わり、死なずに済んで、冬になったとき、私は毛布の一枚でも 持ち出さなかったことを悔んだ。 持ち出したレコードは、蓄音器がないので聴くことができず、 いつの間にかどこかへ四散してしまつた。 しかも、私が持ち出したのは、あとで聴くためのレコードではない。 品物ではなくて、もっと抽象的な、なにものか、であった。 平和がきて、いまでも、ドビユッシーは時折聴くことがある。 ☆「戦没者遺稿集について」 「なんのせいか 吉行淳之介随想集」面白半分社 1976年 所収 私は旧制静岡高校の第二十一回卒業であるが、本来ならば第二十回文丙の 卒業生である。したがって、『地のさざめごと』という本 (旧制静高戦没者慰霊事業実行委員会発行のもの)に収められてある 第十八回以降の人々の名前をみると、おおかたその顔や姿を 思い浮べることができる。二十回文丙の岐部謙治とは仲が良かったし、 とくに佐賀章生、久保道也の二人とはきわめて親しい関係にあった。 私は二年に進級して一月ほど経ったとき、 一大決心をして休学した。 そして、東京の家に帰って、書物の乱読をした。心臓脚気というニセの 診断書を、学校に提出したのである。そのため、東京・静岡間の 手紙のやりとりがおこなわれるようになり、久保道也の手紙をいまでも 数十通保存してある。この本に収めてもらいたい手紙だったが、 どういうわけか、私はこの本が出来上るまで、なにも知らなかつた。 おそらく、私の住所があいまいな時期だったので、 連絡が取れなかったのであろう。 久保道也が戦時中に書いて学校に提出したレポートに、 「アメリカのピューリタニズムとパイオニア精神について」というのがあつた。 こういうことが、どれほどの意味をもっているかが、現在ではすこぶる 伝えにくくなってきた。丸谷才一は「笹まくら」で、戦後間もなく 徴兵忌避をしたことが一種の勲章になっていたのに、年月が経つにしたがって 逆にそのことがマイナスに作用し始めた主人公を描いているが、 どうもそういう傾向が強くなりつつあるので、当時の学園の雰囲気を 伝えるのには手数がかかる。 学徒の徴兵延期が取り消されてからは、当時の学生はいくつかの タイプに別れた。いや、静高というかなリリベラルな雰囲気の 残っている学校に限ってみよう。 第一は、戦争を聖戦と信じてお国のために忠義をつくすというタイプで、 これはごく少数であった(これが、戦後おれたちはダマされていた、 ということにつながるわけだが、このタイプは旧制高校には ほとんどいなかった、といってよい)。 第二は、どうせ死ぬのだから、なんとか自分の死に意義を見つけたい、 といろいろ本を読み、ようやくこの戦争に意義を見つけた、と信じたタイプ。 これはかなりの人数があった。 第三は、いくら見つけようとしても意義が見つからず、デカダンになリ ニヒルになるタイプ。 第四は、あたまから戦争ぎらいで、文学書を乱読するタイプ (私及び私の友人たちは、この第三、第四の混り合ったタイプが多かったが、 このタイプは全体からみれば少数派であった)。 第五のタイプは(信じがたいとおもわれるかもしれないが)、 ひそかに共産主義を信奉している、きわめて少数の人たち。 この五つのタイプを並べてみると、軍人はきらいだが、愛国心には燃え 戦争が勝つようにと努力するというタイプが欠落しているのが 特徴としてみられる。であるから、第三、第四のタイプは、 敗戦を軍国主義と画一主義の崩壊とみなして、自分たちの敵が負けたという 錯覚をもった人が多かった。私もその一人である。 ☆「廃墟の中の青春」 吉行淳之介(1924-1994):「戀愛作法」文藝春秋新社 1958年 所収 僕が大学に入ったのは、昭和二十年つまり敗戦の年の春である。物資がさっぱり無い 時代で、帽子屋には一つも帽子がなく、徽章さえ売っていなかった。 大学生になった以上一度は帽子をかぶってみたいとおもい、 ようやく先輩のを手に入れたが、 一カ月ほどかぶると倦きてしまった。 帽子をかぶることに倦きたと同時に、大学というものに倦きてしまつたらしい。 以来、僕は今まで制帽にかぎらず帽子をかぶったことがない。 欠乏の時代に育ったので、僕の思い出はしばしばその不如意さということに 結びつく。たとえば、食物の記憶といえば、うまいものを食べたことよりも、 あやしげなもの珍妙なものを食わなくてはならなかったことに 一層強くつながってゆく。大学の赤門のちかくにある白十字という喫茶店は、 当時も外見は今とほぼ同じでショウシャな店構えであったが、 そこでイルカの味噌煮だけ売っていたことがある。学生たちは列をなして 順番を待ち、かすかに悪臭のただよつている味噌煮の皿を手に入れたものだ。 終戦になってすぐ考えたのは、同人雑誌を出すことだった。 全国で一番はやく出た同人雑誌になりたい、とおもった。 どうせ出すならガリ版刷りでなく活字の雑誌にしようとおもったが、 金もなく印刷所も心当りなく難航をきわめた。世の中全体が不如意な 時代だったが、とくに僕は不如意だった。僕は品物を疎開させても 仕方がないとおもっていたため、戦災で全く無一物になった。 近親は田舎で居候をしており、僕は一人で下宿外食の生活をしていた。 栄養失調のため顔に白い粉が吹き出しはじめ、駅の階段の上り降りにも 息が切れたが、若かったために意気だけはさかんだったようだ (余談だが、貧乏というのは一向にタメになるものではないようだ。 気持をもちこたえるだけで精一杯で、そのエネルギーを他にまわした方が よっぽどタメになる、と僕はおもう)。 印刷所はどうやら見つかったが、金の方はさっぱりである。丁度そのころ、 旧円と新円との切り替えの時期がきた。余分の旧円をもっていても 紙片同様になってしまうわけだ。印刷所の方は切り替えの時期前に 旧円で支払えば、雑誌を作ってやる、と言ってくれた。 なにかカラクリがあって、そうすれば旧円が生きることになるらしい。 そこで、僕は旧円を借りてまわった。どうせ置いておけば紙屑になる金だから、 集めやすかった。もっとも、こうして集めた金を僕は寄附金だと おもっていたところ、後日大口の貸主から返済を催促されて閉口した。 四苦八苦して返したが、僕に貸した方では紙片が金となって生き返ったわけだ。 そんな金を催促するとは、金を持っている人間の気持は不可解だ、 と僕はそのとき考えたものである。 このようにして、二十一年の三月にどうやら第一号を出した。 同人六名、三十二頁の小冊子である。僕は作文が甚だ不得手で、 小学、中学、高校と校友会雑誌の類に文章が載ったことは一度もない。 自分の文章を活字で見るのは生れてはじめてのことで、すこぶる興奮した。 すべて生れてはじめてのことは、強い刺戟を与えるものである。 この第一号は二千部印刷した。同人たちは、トンデモナイせいぜい 百部くらいでいいよ、と反対したが、反対を押し切って刷ってしまった。 これが、全部売れてしまった。戦争直後の人々は、活字に飢え切って いたのである。私鉄の某駅の傍の書店へ五十冊委託してみたところ、 たちまち四十九冊売れてしまい、手垢で汚れた一冊だけが売れ残っていた。 この雑誌にはとり立てて言うほどの反響はなかった。 同人雑誌の方は夏に二号が出て、僕はその方の仕事にかかり切っていたが、 生活してゆくために方々に借金ができていよいよ首が まわらなくなってしまった。 丁度その頃、中学時代から仲良くしていたK君が南方から帰ってきた。 彼は中学を出ると軍属になって南へ行ってしまい、その土地の女性と 結婚していたが一人で戻ってきた。彼は父親と仇敵のように いがみ合っていたので、帰ってきても居場所がない。そこで僕のいる部屋に やってきた。丁度、南方から移入されたブンガワンソロの歌が 流行しはじめた頃で、ラジオがその歌を放送していると、 K君が寝呆けて跳ね起きたのを覚えている。K君の南方の女性は ダニエル・ダリュウに似た華比混血児で、しばしばその歌を 口遊さんでいたというので、錯覚を起したのである。 そのK君が、エンゲージリングのダイヤモンドをひそかに持ち帰っていて、 それを売り払った。その金の一部で、僕の借金を全部払ってくれた。 そこで僕は心機一転して、アルバイトの口を見附けることにした。 大学へは時折出掛けて行っていた。銀杏並木の突き当りの芝生に 寝そべることと、中野好夫先生のメルヴィルの「モビイ・ディック」 (去年白鯨という名で映画になった)とメレデイスの「喜劇論」の 講義が気に入っていたのである。そのころはまだ卒業するつもりがあって、 卒業論文はスターンときめており、「トリストラム・シャンデイ」など ぽつぽつ読んで(これはすこぶる難解であった)いた。 僕は結局大学は卒業しなかったが、中途退学を申し出た記憶もない。 授業料を一度も払え(あるいは払わ)なかったから、おそらく除籍処分に されたのであろう。 やがて、僕は家庭教師の口と女学校の講師の口を見附けた。 三年生の英語を受持ったが、教壇でテキストを開いてはじめて 中に何が書いてあるかを知るのである。これも、若気の至りの気取りと いうものであろう。もっとも、一度だけ発音不明の単語が出てきて閉日した。 鶏の鳴声でコックアドゥードルドゥ、というやつで、こういう単語は 僕のそれまで読んだ本には出てこなかった。僕は生徒たちがあまりに 不出来なのに腹を立てて、通信簿には一斉に悪い成績を附けておいた。 これは今思い出すと、悔まれて仕方がない。もっと、うんと甘い点数を 附けておけばよかつた、とおもうのである。大人気なかったという気が するのである。 この学校を僕は二十二年秋にやめた。某娯楽雑誌社にアルバイトの口が 見附かったからである。当時は新しい雑誌を出すためには、出版協会に 登録してある雑誌の権利を買い取らなくては発行できなかった。 そこで、僕たちの同人誌の権利を某社に売ったのである。 この売り込み振りが見事である、と僕は信用を得て、 ついでにアルバイトの口もその社が与えてくれた。当時の金で二万円が 手に入り、そのころの二万円はなかなか使い出があった。印刷所その他の 借金を全部返し、残りは同人一同で大宴会をやって雲散霧消した。 "カイロプラクティック・アーカイブス"へ |