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歴史 第二巻 エウテルペ ヘロドトス著
The History BOOK II EUTERPE Herodotus


邦訳:前田滋(カイロプラクター、大阪・梅田)
(https://www.asahi-net.or.jp/~xf6s-med/jherodotus-2.html)

掲載日 2020.12.19


英文サイト管理者の序

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邦訳者(前田滋)の序

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底本(英訳文)

*The History Herodotus
 A.D.Godley
 Cambridge.Harvard University Press.1921
*The History Herodotus
 G.C.Macaulay
 Macmillan, London and NY 1890
*The History Herodotus
 George Rawlinson
 J.M.Dent,London 1858
*Inquiries Herodotus
 Shlomo Felberbaum
 work in progress 2003
*ギリシャ語の原文サイト
 Ιστορίαι (Ηροδότου)
 Istoríai (Irodótou)


~~~目 次~~~

01   カンビュセスによるエジプト遠征の発案
02-182 エジプト
02-34  エジプト地誌
04-18   下エジプト
19-34   ナイル河
35-98  エジプトの習俗
35-37   宗教
38-76   聖獣
77-98   生活様式
099-182 エジプト史
099-123  初代から五代目の王
124-136  ピラミッド時代の諸王
137-151  エチオピア人によるエジプト支配
        十二人の王ー迷宮
151-161  プサンメティコスの統治とその後継者
162-182  アマシス王

(*)は邦訳者(前田)による注



1.キュロス亡きあと、王位を継いだのはカンビュセスである。カンビュセスはキュロスの子で、母はパルナスペスの娘カッサンダネである。カッサンダネがキュロスを残して先立つと、キュロスは深く嘆き悲しみ、その支配下の全ての者たちにも喪に服するように布告した。

カンビュセスは、この婦人とキュロスとの息子だが、イオニア人とアイオリス人については、父から受け継いだ奴隷とみなしていたゆえ、エジプト遠征に際しては、支配下にあったほかの地域からの人員とともに、支配下のギリシャ人も随行させた。

2.さてエジプトでは、プサンメティコスが王になるまでは(1)、自分たちが、この地上で最古の民族だと信じていた。ところがプサンメティコスが即位し、どの民族が最古であるかを知りたく思ってからは、プリギア人が自分たちよりも古い民族であり、自分たちはそれ以外の民族よりは古いと信じるようになった。

(1)おそらくB.C.664

プサンメティコスは、人類最古の民族を探り出す方法がどうしてもわからず、ついに次のような方法を考え出した。すなわち庶民階級を親とする新生児を二人選び出し、これをひとりの羊飼いに預け、羊の群と一緒に育てさせた。そして、子供にはひと言も言葉を聞かせないように、また子供は人里離れた小屋に二人だけで寝かせておき、時々はヤギを連れていってその乳を飲ませ、そのほか然るべき世話もするように指示を与えた。

プサンメティコスがこんなことを行ない、かつまたこんな命令を下したのは、赤子が意味のない幼児語を発する時期を脱したとき、最初にどんな言葉を口にするかを知りたいと思ったからである。そしてかれの思いは遂げられたのだった。羊飼いが言いつけ通りにして二年たったある日のこと、小屋の扉を開けて中へ入ると、二人の子供は両手を差しのべながら男に駆けよって抱きつき、「ベコス」と叫んだのである(*)。
(*)Godrayその他の訳者は、原文 「τὰ παιδία ἀμφότερα προσπίπτοντα "βεκός" ἐφώνεον ὀρέγοντα τὰς χεῖρας.」を、
「both children ran to him stretching out their hands and calling “Bekos!”」のように、
「二人の子供は両手を差し伸べて彼のところへ駈けより、"ベコス"と叫んだ」となっているが、花房友一氏のご指摘により、表記の通りに変更した。多謝!

初めてこの言葉を聞いたとき、羊飼いはそのことを黙っていたが、たびたび小屋へゆき、気をつけていると、常に同じ言葉を聞くようになった。そこで羊飼いはこのことを王に報告し、命令によって赤子を王のもとへ連れていった。プサンメティコス自身がその言葉を聞くと、「ベコス」という言葉はどこの国の言葉かを調べさせた。そしてその言葉はプリギア人の言葉で、パンを意味する言葉だとわかったのである。

以上のことから、エジプト人は、プリギア人の方が自分たちよりも古い民族であることを認めるようになったのである。私は、この話をメンフィスのヘパイストス(2)の司祭たちから聞いた。ただギリシャ人は、バカバカしい話を多く伝えていて、例えばプサンメティコスは舌を切った女たちにその赤子を育てさせた、というような話もある。

(2)エジプトのプタ神(Ptah)

3.子供を養育させた話については、メンフィスでヘパイストス(3)の司祭たちと話し合ったとき、ほかの話もさまざま聞いている。そして私は、テーベやヘリオポリスの街の司祭たちが、メンフィスの司祭の話と同じこと話すのかどうかを知りたいと思い、まさにその目的のために、これらの街へも行ってみた。というのも、ヘリオポリスの住民は、エジプトの歴史については最も詳しいといわれているからだ。

(3)エジプトのプタ神(Ptah);注釈(2)と全く同じ

ただ、私は、聞き知った話の中で、その名をあげることを別として、神に関することは語らないでおく。神々に関することは、誰でも同じように知っていると思っているからである。それゆえ、私が神に関することを述べるのは、話の都合上、やむを得ない場合に限られる。

4.ところが人間界のことに関しては、司祭たちはみな一様に次のように云っている。すなわち一年というものを最初に考え出したのはエジプト人であり、その一年を、季節をとおして十二に分割したのもエジプト人であると。彼らの話では、これは星の観察によって発見したという。私の考えでは、暦の計算に関してはエジプト人の方がギリシャ人よりも正確である。なぜというに、ギリシャ人は季節に合わせて一年おきに閏月を一度加えるが、エジプトでは十二ヶ月をそれぞれ三十日とし、さらに毎年五日をそれに追加している。このようにして季節の循環が暦に一致するようにしているのだ。

また彼らの云うには、十二神の呼び名(4)を定めたのもエジプト人が最初で、ギリシャ人はあとからそれを踏襲したという。さらに祭壇、神像、神殿を神々にふりあてること、石に図案を刻むことも、自分たちが最初に始めたことだと云っている。これらのほとんどについて、司祭たちは私に実例を示してみせた。

(4)「十二神」に関しては極めて曖昧。エジプトの位階で上から八(または九)だけが明らかであるに過ぎない。また第二階級には十二神がある。本巻四十三節、ローリンソン訳、第二巻の付録・第三章の論評を参照されたし。

彼らの言い伝えによると、エジプト初代の人間王はミンといった。この王の時代には、テーベ州(5)を除き、エジプト全土が沼沢地だった。すなわち河口からナイルを遡航すること七日のところにあるモエリス湖(6)の北方にあたる全領土が、水面下にあったという。

(5)上エジプトの南部
(6)現在のファイユーム(Fayyum);ナイル河西方にある。

5.エジプトの国土に関する彼らの話は、嘘ではないと私は思う。というのは、たとえ以前に聞いたことがなくとも、常識を持ち合わせていれば、すぐにわかることであるゆえ。今日ギリシャ人が船で到着するエジプトは、土砂の堆積によって河からエジプトの民に贈られたものである(*)。それに加えて、モエリス湖の上流(南方)へ遡航すること三日におよぶ地域もまた、ほかの地域と同じ性質をもつ。ただ、司祭たちの話にはこの地域のことは出てこなかったが。

(*)いわゆる「エジプトはナイルの賜」

以上が、エジプトの国土の状態である。そして先ず第一に、船でエジプトに近づき、陸地に一日の航程の距離だけ離れた場所で測深線をおろしてみると、十一ファゾム(*二十米)の深さから泥土が上がってくるのがわかるだろう。これは、このあたりまで陸から土砂が流れ来ていることを示している。

(*)1ファゾム(fathom):主に海で用いる長さの単位でおよそ百八十三糎

6.そして第二に、エジプトの海岸線の長さは六十スコイノス(7)(六百六十粁)で、エジプトの海岸線がプリンテイネ湾からカシオス山麓のセルボニス湖のあいだと定義するなら、その間の距離が六十スコイノスということである。

(7)「綱」という意味。一スコイノスは六十スタディア(十一粁)

これは、国土が狭い場合には土地をファゾムで計測し、それより広い場合にはスタディアで、さらに広い国土の場合にはパラサングスで、極めて広大な領土である場合にはスコイノスで測ることになっている。

ここでいうパラサングスは三十スタディアに相当し、スコイノスはエジプトの尺度で、一スコイノスは六十スタディア(十一粁)である。従つてエジプトの海岸線の長さは、三千六百スタディア(六百六十粁)となる。

(*)一スタディア=百八十米

7.エジプトの海岸線から内睦に進みヘリオポリスまでの間は、広くて平坦で、水の多い湿地帯だ。海岸から河上に向かってヘリオポリスに至る行程は、アテネの十二神の祭壇からピサにあるオリンピア・ゼウス神殿までの行程とほぼ同じである。

計算すると、これら二つの距離の違いはわずかで、その差は十五スタディア(三粁)を越えないことがわかる。というのは、千五百スタディアというのは、ちょうど海岸からヘリオポリスまでの距離で、アテネからピサまでの旅程は、これより十五スタディア少ないからである。

8.ヘリオポリスを越えてさらに河上に進んだ地域では、エジプトの国土は狭くなる。一方では南北に走るアラビアの山脈に接していて、これは南に延びて、いわゆる「紅海」に達している。この山中には石切場があり、メンフィスのピラミッドを建造する石はここで切り出されていた。先に話したように山脈はここで行き止まりとなっている。私が調べたところ、山脈の東西の幅は、最大でニカ月の旅程であり、東端の地域では乳香が産するという。以上が山脈のようすである。

さてリビア側には岩石の多い別の山脈が聳えており、この山中には砂に覆われたピラミッドが幾つか残されている。これはアラビアの山脈と同じく南に向かって走っている。

そしてヘリオポリスより上手では、エジプトの国土はそれほど広くなく(8)、ナイルを遡ること四日の旅程の地域は、エジプトの国土は狭い。先にあげた二つの山脈にはさまれた地域は平坦だが、その最も狭い場所では、アラビアの山脈からいわゆるリビア山脈に至る距離は、二百スタディア(三十六粁)を越えないようだ。しかしそこを越えると、エジプトは再び広くなる。以上が、この国の地勢である。

(8)ナイル渓谷の多くはエジプトの領域外にある。この文は「エジプトにとってそれほど遠くない」、すなわち国土の広さに比べてそれほど離れていない、という意味に取れる。

9.ヘリオポリスからテーベまではナイルを遡航すること九日の旅程で、この距離は四千八百六十スタディア(八百七十五粁)となり、スコイノス単位になおせば八十一スコイノスである。

以上が、エジプトの外縁の全てだ。海岸線の長さが三千六百スタディア、海岸からテーベに至る内陸の距離は、六千百二十スタディア(一万一千粁)。そしてテーベから、いわゆるエレパンティネという街までの距離は千八百スタディア(三百二十四粁)である。

10.いま私があげた国土の大部分は、土砂の堆積によって後からエジプトにもたらされたものであると、司祭たちが語っているが、私自身もまたその通りだと考える。というのは、先に述べたメンフィスより上手の二つの山脈に挟まれた地域は、私の見るところ、かつては海の入江であったはずで、イリオンやテウトラニア、エフェソスなどの周辺地帯やマイアンドロス河流域の平野などに似ている。ただそれは、これら小さな地域を巨大な地域に当てはめて比較しての話ではあるが。

というのも、土砂によってこれらの地域を形成した河のどれひとつとして、ナイルにある五つの河口のうち、どれと比べてみても、それに匹敵する規模のものはないからである。

ナイルほど大きくはないが、それでも大規模な沖積作用を現している河はほかにもある。それらの河の名をいくつかあげることもできるが、中でも特に言挙げすべきはアケロオス河だ。この河はアカルナニア地方を流れて海に注いでいるが、すでにエキナデス群島の半ばを陸地とつなげてしまっている。

11.さてエジプトからそれほど遠くないアラビアには、いわゆる「紅海」(9)から陸地に延びている湾がある。その長さと幅は次のとおりである。

(9)「いわゆる紅海」はアラブ南東の海。くだんの湾は、この紅海から陸地に延びている。おそらくナイル・デルタもかつては湾だっただろう。そしてそこには、エジプトに向かって延びていて、互いの先端部がそれほど遠くない二つの湾があったはずだ。

その長さは、湾の最奥部から大海に出るまで、櫂船で四十日の航海を要し、その幅は、湾の最も広いところで半日の航程である。この湾内では毎日潮の満ち干がある。

今のエジプトも、かつてはこれに似た別の湾だったと、私は考えている。この湾は北の海からエチオピアの方へ延びていて、他方の、これから私が説明するつもりのアラビア湾の方は、南からシリアに向つて延びている。これら二つの湾は陸地に向かって延びて接近し、最後はわずかな陸地で隔てられていた。

ナイルの流れがアラビア湾に流れ込んでいたのであれば、二万年の間というもの、この河によってアラビア湾が土砂で堆積することがないと云えるだろうか?実のところ、土砂で埋まるのは一万年でも十分だと私は思っている。私の生れる以前の時代に、これよりもずっと大きい湾が、これほど巨大で活動的な河によって、その土砂で埋まることなどないと云えるだろうか?

12.エジプトに関して、このように話す人を私は信じているし、また私自身もまったくその通りだと思っている。というのも、エジプトが隣接地域よりも海へ突き出ていることや、山の中に貝類が露出していること、ピラミッドが腐食されるほどに、地表に塩の結晶がしみ出ていることなどを私自身が見ているからだ。

エジプトにおける唯一の砂山はメンフィス上流域(南)にしかない。さらにその土質は隣接のアラビア、リビア、またシリアとも違っている(シリア人はアラビアの沿海地域に住んでいる)。エジプトの土質は黒くて脆く、ナイルがエチオピアから運んできた沖積土から出来上がっているようだ。

ところがリビアの土質は赤くて幾分砂が含まれていて、アラビアとシリアのそれは粘土と石でできていることがわかっている。

13.エジプトに関して司祭たちが私に話してくれたつぎのことも、この国土に関する有力な証拠だ。それによればモエリス王の時代には、河の水かさが八キュービット(三百六十糎)まであがると、エジプトのメンフィスより下流域(10)は氾濫したという。私がこのことを司祭たちから聞いた時、モエリスが亡くなってからまだ九百年は経過していなかった。ところが現在では少なくとも十五ないし十六キュービット(七米)まで水かさが上がらないと、河は氾濫しない。

(10)この言説は正しいと思われるが、モエリスはヘロドトスよりも九百年以上前の王だったはず。ナイルの低地が八キュービット上昇するのに九百年は短か過ぎる。

私の考えでは、モエリス湖より下流域、特にいわゆるナイルのデルタ地帯に住むこジプト人は、その陸地がこのまま同じ割合で隆起し続け、同じように面積を増してゆくなら、ナイルはもはやこの土地で氾濫しなくなるので、かつて彼らがギリシャ人に向けて語ったのと同じ苦境を、彼ら自身がいずれは永久に経験することになるだろう。

というのは、ギリシャでは、その全国土が雨によって潤され、エジプトのように河の水によっていないことを知ったエジプト人が、ギリシャ人はいつか頼りにしていたものから肩すかしを食らい、悲惨な飢饉に見舞われるだろう、といったことがあるからだ。すなわち神がギリシャに雨を与えず、干魃という苦難を下されるなら、彼らにはゼウスから水を賜わる以外、それを手に入れる手段がないので、ギリシャ人は飢饉に打ち負かされるだろうという。

14.ギリシャ人に向けたエジプト人のこの予言は至極真っ当である。ではエジプト人の事情を述べてみよう。以前話したように、メンフィスの下流域が---隆起しつつあるのはこの地域であるから---これまでと同じ割合で隆起し続けるなら、ここに雨も降らず、農地への河の氾濫も起きないことになり、この地域に住むエジプト人が飢餓に苦しむことは必定だろう。

もちろん現在のところ、この地域以外のエジプト人や、その他の地域の全住民に比べ、この地城に住むエジプト人は、きわめて少ない労働で生活している。鋤(すき)や鍬(くわ)で田を起したり、他の地域の農民が収穫を得るためにこなしている農作業は全く必要ない。河が勝手に水かさを増して農地に水を供給し、また再び引いてゆくのである。そこで農民おのおのが種子をまき、畑にブタを入れて種子を踏みつけさせると、あとは収穫を待つだけとなる。そしてブタを使つて穀物を脱穀し、倉に収めるのだ。

15.さてイオニア人の考えに従えば、デルタ地帯のみがエジプトだという。すなわち海岸線は、いわゆるペルセウスの監視塔からペルシオンの塩田に至るまでで、この間の距離は四十スコイノス(四十四粁)である。そして海岸から奥地へは、ケルカソロス(11)までとしている。ここでナイルは分岐し、ペルシオンとカノボスに向って流れている。これ以外のエジプトの地は、リビア領かアラビア領の一部であると、彼らは云う。しかしこの考えに従うなら、かつてエジプト人は国土を持っていなかったことになる。

(11)デルタ地帯の南端で、ナイルが二つの大きな支流に別れる場所。カイロのそれほど下流ではない。

これまで見てきたとおり、エジプト人みずからも云い、私自身もそう考えているのだが、このデルタ地帯は沖積地で、いわば近年になって形成されたものである。エジプト人がかつては国土をもたなかったなら、自分たちが世界で最初の民族だと云うことなどは馬鹿げたことだし、幼児が最初にどんな言語をしゃべるのかを調べる必要もなかったはずだ。

私の考えでは、むしろエジプト人は、イオニア人が云うところのデルタ地帯と同時に発生したのではなく、人類が生まれた時からずっと存在していたはずだ。そして国土が増大するにつれて、多くの人々はそのまま後に残ったが、下流に移動していった者たちも多かった。なお古くはテーベがエジプトと呼ばれていて、その周囲は六千百二十スタディア(一万一千粁)だった。

16.さて右の事柄に関する我らの見解が正しいなら、イオニア人のエジプトに関する言説は誤りということになる。仮にイオニア人の説が正しいとするなら、イオニア人その他のギリシャ人たちは正しい計算ができないことが明らかである。というのは彼らは世界全体をヨーロッパ、アジア、リビアの三つに別けているが、エジプトのデルタがアジアにもリビアにも属さないとするなら、これを四番目に加えねばならないからだ。

彼らの説によれば、ナイルはアジアとリビアを隔てているのではなく、この河はデルタの先端部で別れているので、デルタはアジアとリビアの中間に存在していることになる。

17.ここで我らはイオニア人の説を捨てることにする。そしてこの件に関する我々の見解は次のとおりである。ちようどキリキアとアッシリアが、キリキア人とアッシリア人の住む国を指しているのと同じく、エジプトとはエジプト人の住む地城全体のことであり、当然のことだが、アジアとリビアの境界はエジプトの国境のほかには考えられない。

ギリシャ人一般の考えに従うなら、瀑布(カタラクト)とエレパンテイネの街(12)を起点とするエジプト全土は二つに分けられ、一方はリビア、他方はアジアに属していることになる。

(12)シュエネ(アスワン)対岸の島

すなわちナイルは瀑布を起点としてエジプトを二つに区切って海に注いでいる。そしてケルカソロスの街までは一本の流れで、この街を過ぎてから三つに分れる。

三本のうち一本はペルシオン河ロと呼ばれていて東へ流れている。二本目は西に向かってカノボス河ロと呼ばれている。ただ、ナイルには真っ直ぐに流れる支流があり、これは下流に向かってデルタの先端に達すると、デルタの真中を通って海に注いでいる。この流れは最大でまた最も有名なもので、セベンニュテス河ロと呼ばれている。

セベンニュテス河ロに向かう水路には、そこから分れて海に入る二つの河ロがあり、一つはサイス河ロ、もう一つはメンデシオン河ロという。またボルビティノン河口とブコリコン河口は自然にできたものではなく、掘削されたものである。

18.エジプトの広さが右に述べたとおりだとする私の見解が正しいことは、アンモンの神託も証明している。ただし私が調査してこの神託を知ったのは、エジプトに関する私の見解がすでに確定したあとだったが。

リビアに隣接するマレアとアピスの住民は、自分たちはエジプト人ではなくリビア人であると見なしていて、牝牛の肉を食べてはならぬという宗教上の戒律を不服に思い、アンモン神殿に使者を送り、自分たちとエジプト人との間には共通するところは全くないことを申告した。彼らの説では、自分たちはデルタの外に住み、生活様式もデルタの中の人々とは異なるゆえ、食物に禁忌をもうけないでほしいというのだ。

しかしアンモンの神はそれを許さず、こう返答なされた。ナイルによって水の恵みを受けている土地は全てエジプトであり、エレパンティネの街の下流域に住み、この河の水を飲むものはすべてエジプト人である、と。これが、彼らに下された神託だった。

19.ナイルが水嵩を増して溢れると、デルタ地帯だけでなく、いわゆるリビアやアラビアも水没する。そのとき、双方とも堤防から二日の旅程の距離にわたって水に浸かり、時にはそれ以上のこともあり、またそれ以下の範囲ですむこともある。この河の性質に関しては、司祭たちからも他の誰からも、どんな知見も得られなかった。

それでも私が彼らからぜひとも聞きたいと思っていたことは、ナイルが夏至から百日間にわたって水嵩を増して氾濫し、この日数を過ぎれば水位を下げ、再び夏至が来るまで冬のあいだずっと水位を下げたままでいる理由だった。

ナイルがあらゆる河と違って逆の性質を示すのは、この河のどんな力によるものか、私はエジプト人に訊ねまわってみたが、これに関しては誰ひとり情報を持っていなかった。このほかにも、ほかの河ならどこでも吹く河風(13)が、ナイルに吹かない理由も知りたく思って訊ねてみた。

(13)河それ自体からの風ではなく、おそらく低地を上昇する定常的な気流のことだろう。

20.しかし幾人かのギリシャ人は、知恵のあるところを見せたく思ってか、ナイルについて三つの説を示した。しかしそのうちの二つは、その内容を示すだけにしておき、論じるつもりはない。

その一つの説は、ナイルの氾濫する原因は季節風(14)で、これがナイルの海へ注ぎ込むのを妨げるのだという。しかし季節風が吹かないことがしばしばあるにもかかわらず、以前と同じようにナイルは溢れている。

(14)夏に地中海から吹く北西の風。

さらにまた、季節風が原因なら、この風に逆らって流れる河も、ナイルと同じ現象を起こさねばならない。その上、これらの河はナイルよりも小さく、流れも弱いので、より一層大きな現象を起こすはずだ。しかしシリアにもリビアにも多くの河があるが、ナイルのような現象を起こす河はない。

21.二番目の説は、いま話したものよりさら理屈の通らぬ説で、とても信じがたいものだ。これによれば、ナイルは陸地全体をめぐり流れている大洋から流れ来ているので、このような現象を起こすというのだ。

22.第三の説は一番もつともらしいが、実は最も誤りが多く、ほかの説以上に正しくないものである。それによればナイルは雪解け水が流れ出したものであるという。しかしナイルはリビアから流れ出てエチオピアの中央を通りぬけ、エジプトに流れ来ている河である。

そもそもナイルが酷熱の地から発して、大方はそれより涼しい地域に流入してることを考えると、どうすれば雪解け水から河が発し得よう?実際、このような現象を理性的に判断できる者にとっては、ナイルが雪から発していることがありそうもないことに対する第一の、また強力な証拠が、リビアとエチオピアから吹いてくる風が熱いということだ。

第二に、この国では雨も降らず霜も降りないが、雪が降れば五日以内に 雨が降るはずだから(15)、この国に雪が降るなら雨も降るはずだ。第三に、この国の人間は暑熱のために色黒ということである。

(15)この言説に対する確たる根拠はないようだ。

またトビやツバメは一年中この地に留まって去ってゆこうとしない。鶴は冬のスキタイ地方から毎年この地に飛来し、冬を過ごしている。従つてナイルが流れている地域やその水源地に少しでも雪が降るなら、その必然のことわりとして、このような現象を見ることはないはずである。

23.大洋に関する説は、奇説というべきものであるゆえ、反論する必要もない。私は大洋という河を知らないし、恐らくはホメロスやそれ以前の詩人が、このような言葉を考え出して自分の詩に詠み込んだものと考えている。

24.さて提示されたこれらの見解に異を唱えたからには、曖昧模糊としたこの問題について私自身の考えを示さねばならない。すなわちナイルが夏になると氾濫する原因について私はこう考える。

太陽は、冬のあいだは嵐のために通常の軌道から逸れ、リビアの内陸部の上を通過する。最も簡単に云うなら、これで全ては云い尽くされている。というのはこの神が最も近くに来て上から照りつける国が、水の涸れること激しく、またその地域の河が干上がるのが当然であるゆえ。

25.これをもう少し詳しく説明すると次のようになる。太陽が通過するリビア内陸部における太陽の作用はどうかというと、この地域の大気は常に澄み切っていて、気候は温暖で、冷たい風は吹かないので、太陽は夏に中天を通るときと同じ作用を及ぼす。

すなわち太陽は自分の方へ水分を引きよせ、そうしておいてから今度は内陸部に追いやるのだが、それを風がとらえて拡散し、溶解する。そして予想されるとおり、その地方から吹く南風と南西の風が、ほかのどの風よりも多くの雨を含んでいる。

しかし太陽は、毎年ナイルから吸い上げた水を、全て放出してしまうのではなく、自分の近くにもいくらかは残していると、私は考えている。そして冬の寒さがゆるむと、太陽はまた中天へ戻り、そのあとも同じようにあらゆる河から水を引き寄せるのだ。

そして、その国は雨を受けて河は急流となり、大量の雨水によって増水し、氾濫する。しかし夏の間は雨が降らないうえに太陽によって水が吸い上げられ、河の水位は下がる。

ところがナイルは雨水が流れ込まず、またナイルだけが冬のあいだ太陽に水分を吸い取られるので、本来の水位である夏に比べて、水位ははるかに低くなる。すなわち夏には他のすべての河と同じく、ナイルも水を吸い取られるが、冬にはナイルのみが水を奪われるのだ。それゆえ、この現象の原因は太陽にあると、私は考えている。

26.これは私の考えだが、これらの地域の空気が乾燥する原因も同じく太陽で、太陽がその通り道を焦がしてゆくからだ。そのためにリビア内陸部は常夏の状態である。

ただし、季節の配置が逆転し、南風と夏が北風と冬の配置に代わり、いま南風吹くところに北風が吹くとすると、太陽は冬と北風によって中天から追い出され、現在リビアの上を通過している場所からヨーロッパの内陸部を通過するようになるだろう。そうなると、私の考えるところでは、ヨーロッパ全土の上を通過する太陽の軌道において、現在ナイルに及ぼしている作用と同じものをイストロス河(ドナウ河)に及ぼすに違いない。

27.またなぜナイルに微風が吹かないのか。これに関する私の見解はこうだ。微風というものは酷熱の地から吹くものではなく、常に酷寒の地から吹くものであるから。

28.以上、ここまで話したことはその通りで、太古からのことである。ナイルの水源に関しては、エジプト人、リビア人、ギリシャ人を問わず、私と意見を交わした人々の中で、その水源を知っていると明言した人は誰もいなかった。ただエジプトのサイスの街のアテネ宝物殿の書記が唯一の例外で、この男も確たる情報を持っているとは云ったものの、私には冗談のように聞こえた。その話の内容はこうだ。

テーベにあるシェエネとエレパンティネのあいだには、鋭く尖った山頂を持つ二つの山があって、そのひとつをクロピィ、もうひとつをモピィという。ナイルは、この二つの山の間から湧き出す底なしの水源から発していて、その半分は北のエジプトへ、他の半分は南のエチオピアへ流れているという。

この書記が云うには、エジプト王プサンメティコスが、この水源が底なしかどうかを調べさせたという。この王は数干尋もある織り綱を水源におろしてみたが、底まで達しなかったそうだ。

私が考えるに、この書記が真実を話しているとするなら、それは、水流が山腹に突進して激しい渦と上昇流が発生し、降ろされた測深線が底まで届かないことを示しているのだろう。

29.これ以外は、誰からも何一つ聞き出せなかった。しかしできる限り調査を広げるとともに、エレパンティネの街まで足を運んでこの身をもって確認し、またこれより遠いところは伝聞によってわかったことは次のとおりである。

エレパンティネより先の奥地へ進むと大地は急峻となる。ここからは牛につけるように船の両側に綱をつけ、人力でこれを牽いてゆかねばならない。綱が切れると、船は流れにさらわれていってしまう。

この区間は船で四日の旅程だが、ナイルはマイアンドロス河のごとく曲がりくねる。右のようなやり方で船を進めねばならぬ流域の距離は十二スコイノス(百三十粁)である。そのあとは大地は平坦になり、河中にタコムプソという名の島がある。

エレパンティネより上流の地域にはエチオピア人が住んでいるが、この島の半分はエチオピア人、他の半分はエジプト人である。またこの島の近くには大きな湖があり、その周辺にはエチオピアの遊牧民が住んでいる。ここを過ぎると、この湖に注ぎ込んでいるナイルの流れに入る。

ここからは船を降り、河に沿って四十日間歩いて進まねばならない。なぜなら、このあたりは鋭く尖った岩が流れに突き出ていて、また多くの暗礁もあり、これらを避けて船を進めるのは無理なのだ。

いま云ったように四十日かけてこの地区を踏破すれば、再び船に乗って十二日間の船旅でメロエという大きな街にいたるが、これがエチオピアの首都である。

この街の住民はゼウスとデオニソス(16)のみを崇め、またこの二神を大いに崇拝しているので、ゼウスの神託所も造営されている。神が神託を下して戦いを命ずれば、彼らはいつでも、どこへでも軍を進めるのである。(17)

(16)アメンとオシリスを意味するギリシャ語。
(17)この節におけるヘロドトスの記述はほとんどが曖昧で信頼できない。アスワン・ダムとアスワンの間を旅してみればわかるが、エレパンティネから上流の記述は正しい。しかし、もちろん、ダムの建設によって状況は完全に変わっている。

30.エレパンティネからエチオピア人の首都までに要したのと同じ日数を、この街から船で進むと「脱走兵の国」へ着く。「脱走兵の国」というのはアスマクというのだが、これをギリシャ語でいえば「王の左手に立つ者」となる。

エジプトの武士階級だった二十四万の者たちが、かつて王に叛いてエチオピアに走ったことがある。その原因はこうだ。プサンメティコスの統治下、エチオピアに対してエレパンティネに守備隊がおかれ、アラビアとアッシリアに対してはペルシオンのダプナイに配置され、リビアに対してはマレアに守備隊が配置された。そして今でもプサンメティコスの時代と同じ場所に、ペルシャは守備隊を配置し、エレパンティネとダプナイでペルシャ兵が警備に当っている。

さてエジプトの守備兵たちは三年間警備していたが、一人としで交替の者がこなかった。そこで合議の末に全員が一致協力し、プサンメティコスに叛き、エチオピアに走ったのである。

これを知ったプサンメティコスは彼らを追いかけ、追いつくと、長々と説得の言葉をくりだし、妻子や父祖の神を捨てるようなことは考え直すように諫めた。すると話の途中で、そのうちのひとりが自分の陰部を指さし、これさえあれば何処であれ、女房子供はもてると云ったそうだ。

そこで彼らがエチオピアに到着すると、自分たちの身の上をエチオピア王に委ねた。王は彼らの帰属に報いるため、この者たちに命じて自分に反目しているエチオピア人を追放させ、その土地に住まわせた。そしてエチオピア人はエジプト人と交流することによってその風習を覚え、行儀作法が以前よりもよくなったという。

31.以上の通り、ナイルの流域はエジプト国内を含め、陸路、水路による四ヶ月の旅程の範囲まではわかっている。エレパンティネから「脱走兵の国」に至るまでに要する旅程を計算すると、かなりな月数にのぼる。この河は西方、太陽の没する方角から流れきているが、これより遠いところについては、誰ひとり確かなことは知らない。その向こうの地域は暑熱による荒廃地であるゆえ。

32.しかし、私はキュレネ人の幾人かから次のような話を聞いた。それによると、彼らがアンモンの神託所へ行ったとき、アンモン王エテアルコスと面談したことがあり、その時さまざまな話題から話はナイルにおよび、誰もその水源を知らないことを話した。するとエテアルコスが、かつて自分を訪ねてきたナサモン人のことを語ってくれたという。

このナサモン人というのはリビア人で、シュルティス(*)とその少し東にかけて住んでいる民族である。そこで到来したナサモン入たちにエテアルコスが訊ねるに、リビア砂漠について何か新しい話題があるかと訊くと、彼らは次のような話をした。

(*)リビア北部海岸にある大砂州地帯。

彼らの国の有力者たちの子弟の中に、気位高く乱暴な若者の一群がいて、この者たちが成人すると無謀な冒険をさまざま計画したのだが、その中で、仲間内からクジで五人を選び、リビアの砂漢地帯を探険し、これまで最も遠くを見てきた者たち以上に、さらに遠くを探れるかどうか、やってみることになった。

エジプトからリビアの末端であるソロエイス岬に至るまでの全域にわたるリビア北部の海岸一帯には、リビア人とリビア系の多数の部族が往んでいる。ただ、ギリシャ人とフェニキア人が住んでいる地域もある。しかし海と海岸地帯の部落を越えると、リビアは野獣の横行する地帯となる。そして野獣地帯を越えた先は、すべてが水のない荒涼たる砂漠だ。

さて仲開から送り出された若者たちは、水と食糧を十分に用意し、人の住む地域を通りすぎて野獣地帯に達し、これを越えて砂漠を西に向かって進んだ。

その後、何日もかけて広大な砂漠地帯を抜けると、彼らは平地に樹木が生えているのを目にした。近づいて木になっている果実をとろうとしたとき、並の背丈に満たない小人たちがやって来て彼らを捕らえ、連れ去った。ナサモン人は小人たちの言葉が判らないし、連行している者たちもナサモン人の言葉がわからないのだ。

小人たちは広大な沼沢地帯を通り抜けて、ある街までナサモン人を連行したが、この街の住民は、皆がナサモン人を連行した者たちと同じような背丈で色が黒かった。この街の近くには大きな河が西から東に流れていて、その河にはワニがいたという。

33.アンモン王エテアルコスの語った話はこれで充分だと思うが、ひとつだけ追加すると、キュレネ人が云うには、例のナサモン人たちは無事に帰国し、あの国の人々はみなが魔法使いだったと語ったそうだ。

例の街の近くを流れていた河がナイルであるとは、エテアルコスの推察だが、その考えを裏打ちする理由は充分にある。ナイルはリビアに発し、その中央を貫流しているからだ。私が眼に見えることから未知のことを推測してみると、ナイルはイストロス河(ドナウ河)と同じ位の距離に、その源があると思っている。(18)

(18)「ek ton ison metron」これは曖昧な表現である。ヘロドトスの云っていることは、ナイルはまず西から東へ流れ、その後北へ流れを変える。ドナウもまず西から東へ流れ、その後北から南へ流れる(とヘロドトスは云う)。それゆえ、片方はアフリカで、もう一方はヨーロッパで同じように大陸を横断している、ということだ

というのも、イストロス河は、ケルト人の国であるピレネの街から発し、ヨーロッパの真中を流れているからだ。ケルト人は「ヘラクレスの柱」(*1)を越えたところに住み、ヨーロツパの最西端に住むキネシオイ人(*2)と国境を接している民族である。イストロス河はヨーロッパ全土を貫流し、最後にイストリア(*3)で黒海に注いでいるが、そのイストりアはミレトスからの移民が住んでいる。

(*1)ジブラルタル海峡の入口にある岬につけられた古代の地名
(*2)イベリア半島南西部に居住
(*3)現在のブルガリア、ドブルジャ地方のイステレ

34.イストロス河は人の住んでいる地域を流れているので多くのことがわかっているが、ナイル河は無人の荒野であるリビアを流れているため、誰もその水源を知らない。この河の流域について私が調べ得たことはこれですべて話した。要するにナイルはエジプトに流れ込んでいるのであって、エジプトはキリキア山脈の一端あたりに相対している。

そしてここから黒海のシノペまでは、軽装の旅人なら真っ直ぐ進んで五日の行程である。そしてシノペはイストロスが海に注ぐ河口に相対している。かくて私が思うに、リビアを貫流しているナイルは、イストロス河の経路に等しいのである。ナイル河についてはこれにて充分話した。(*)

(*)ヘロドトスの時代にはエチオピアから南方の地理は知られていなかったようだ。さすがにアスワンあたりからビクトリア湖(白ナイル)、およびタナ湖(青ナイル)までは遠すぎるようだ。現代の知見から云うと、ヘロドトスのナイル水源に関する説明はピントはずれの感が強い

35.ただエジプトに関してはこれから詳しく話すつもりだが、それはこの国には、ほかのどんな国も及ばないほどの驚嘆すべき事物があり、また筆舌に尽くしがたい建造物が、ほかのどんな国よりも多くあちこちにあるからだ。だからエジプトについては、これまで以上に詳しく述べるつもりだ。

エジプトは特有の気候で、またほかのどんな河とも性質の異なる河があるゆえか、ほとんどの他の人類とは正反対の風俗や戒律がある。たとえば女が市場へ行って商いをし、男は家にいて機織りをする。その機織りも、ほかの国では横糸を下から上へ押し上げるのに対し、エジプト人は上から下へ押しつけるのだ。

ここでは男たちが頭に荷物をのせて運び、女は肩にのせて運んでいる。また女は立って放尿し、男はしゃがんで用を足す。排便は屋内ですませるが、食事は外の路上ですませる。必要であっても見苦しいことは人目につかないようするが、見られても構わないことは隠す必要はないと、彼らは云う。

男神、女神を問わず、女の聖職者は一人もいない。男女の神ともにその司祭には男がつくことになっている。両親の扶養に関しては、息子にその意志がなければ強制されないが、娘はその意志がなくても扶養せねばならないとされている。

36.ほかの国では、司祭は髪を伸ばしているものだが、エジプトの司祭は髪を剃り落す。また服喪の際には、他国では死者の近親者は頭を剃るが、エジプト人は普段は頭を剃っているのに、死者が出ると頭髪と顎髭を伸び放題にする。

またエジプト人は住処の中に家畜をいれて生活する唯一の民族である。そしてほかの全ての国では小麦と大麦とを食糧にしているのに対し、エジプトではこれらを食べるこは大変な恥辱とされている(*)。彼らは、マイズ(maize)とも呼ばれるスペルト小麦を食糧にしている。

(*)本巻七十八節を参照。古代エジプト人の食していた穀物については異論のあるところだろう。大麦はビールにして飲んでいたという説が専らである。これに関しては次のサイトが詳しい。エ ジ プ トに お け る農 耕 ・家 畜 の 起 源

エジプト人はパン生地を足でこね、泥や肥やしは手で扱う。また他国は知らず、エジプト人とその風習を学んだ者だけが、割礼を行なっている。そして男は着物を二枚重ねて着用し、女が着るのは一枚だけである。

他国では船の帆を操る綱とそれを通す環を、船の外側にくくりつけるが、エジプト人は内側にくくる。ギリシャ人は文宇を書いたり計算をするのに左から右へ書くが、エジプト人は反対方向に書く。それでもエジプト人は、自分たちは右に向かって書き、ギリシャ人は左に向かって書くのだと云う。エジプト人は二種類の文字を用いていて、一つは神聖文字、一つは民衆文字と呼ばれている。(19)

(19)実際には三種ある。ヒエログリフ(神聖文字)、ヒエラティック(ヒエログリフから派生)、そして民衆文字(ヒエラティックを簡略化したもの)である。ローリンソン訳、第二巻、付録第五章の論評を参照されたし

37.エジプト人は、ほかのどの民族よりも計り知れぬほどに信仰心の厚い民族で、次のような風習がある。彼らは青銅製のカップを飲用にしているが、これを毎日洗っている。これは一部の者だけがするのではなく、全ての人が行なっている。

そして常に洗ったばかりの麻の衣服を着るよう、特に気をつけている。彼らは陰部を清潔にするため、割礼を行なっているが、これは見栄えよりも清潔を優先するためである。司祭は一日おきに全身の毛を剃るが、これは神に仕える者としてシラミその他の不浄なものが体に着くのを防ぐためである。

司祭は、麻の衣服とパピルス製(20)のサンダルしか身につけない。ほかの種類の衣服や履き物は許されていないのだ。そして昼夜各二回ずつ冷水浴をする。これ以外にも彼らの宗教上の戒律は、云ってみれば数え切れないほどある。

(20)パピルスについては本巻九十二節を参照

他方で、司祭たちが受け取る恩恵も数多くある。彼らは自分自身の私有になるものを消費する必要が全くない。供え物の食物は調理されて与えられるし、牛やガチョウの肉も各自に毎日たっぷり運ばれる。その上、酒も配給される。ただ彼らは魚肉を食べることは許されていない。

エジプト人は豆類を栽培することはない。自然に成長したものでも、生でも料理しても食べることはない。司祭たちはそれを見ようともしない。豆類は不浄であると考えているからだ。それぞれの神に仕える司祭は一人ではなく大勢いて、その内の一人が司祭長を務めている。そして司祭が死亡すると、その息子が父の後を継ぐことになっている。

38.彼らは牡牛をエパポス(21)に従うものと信じていて、そのため、次のようにしてそれ吟味する。一本でも黒い毛が見つかると、その牛は不浄とみなされる。

(21)ギリシャのアピス神またはハピ神のこと。メンフィスの牡牛神。 MairのOppian (L.C.L.) Cyn. II. 86, の注を参照

この検査は、司祭の一人が任命されて執り行なう。牛を立たせたり臥せさせたりして調べ、また舌を引っ張り出したり、あとで話すような規定の特徴(22)がないことを確かめる。また、尻尾の毛も、自然に生えているかどうか調べる。

(22)第三巻二十八節

以上すべての点に問題がなければ、角にパピルスを巻きつけてその証とし、さらにそれに封印用の土を塗りつけ、それに円環で型をつけ、そのあとで牡牛を連れてゆく。司祭が認めていない牡牛を生贄にした者は死罪に処せられる。これが牡牛を認定するやり方である。つぎは生贄の儀式について話そう。

39.標識のつけられた牡牛は、生贄の祭壇に連れて行ってから火を焚き、牡牛に酒をふりかける。そして神の名を呼びながら牡牛の喉をかき切ってこれを屠り、その首を刎ねるのである。

生贄の牛はその皮を剥ぎ、切り落した頭部には呪いの言葉を充分にかけてから運び去る。ギリシャ人が商いをしている市場があるところでは、その頭を市場へ持っていって売り払うが、ギリシャ人のいないところでは河へうち捨てられる。

牛の頭にかける呪いというのは、生贄を捧げる者たち、またはエジプト全体に起きる凶事があるなら、この頭にふりかかるようにと祈るのである。

生賛に供される獣の頭部の扱い方や酒の注ぎ方は、すべてのエジプト人がどの生贄儀式においても同じように行なっている慣習である。そのため、エジプトでは牛に限らず動物の頭部を食べる者は一人もいない。

40.生贄のはらわたを取り出して焼くときのやり方は、それぞれの生贄儀式によつて異なる。ここで、彼らが最高の女神と崇めている神と、その神を讃えるエジプト最大の祭について話しておこう。

牡牛の皮をはぎ、呪いの言葉をかけあとは、はらわたの胃の部分を取り出し、小腸その他の内臓と脂身は体内に残し、四肢、尻尾、肩、首を切り離す。

そのあとは、残っている牛の胴体に清潔なパン、ハチミツ、乾しブドウ、イチジク、乳香、没薬(もつやく)その他の香料を詰め、大量のオリーブ油をかけて焼きあげる。

生贄儀式の前に、彼らは断食する。そして生贄を焼いているあいだに、自分の身体を打って哀悼の意をあらわす。哀悼式が終わると、残っている生贄で宴を開くのである。

41.エジプト人のすべてが生贄に供するのは汚れのない牡牛と子牛だが、牝牛はイシスの聖獣であるので、これを生贄にすることはしない。

イシスの神像は、牛の角を生やした女像で、これはギリシャの彫像イオと全く同じである。牝牛は、すべての動物の中でも飛びぬけて神聖なものとして、エジプト人のすべてが崇めている。

そのため、エジプト人は男女ともにギリシャ人には接吻しない。またギリシャ人の持っているナイフや焼串、釜は使おうとせず、ギリシャのナイフで切ったものなら、清浄な牛の肉でも口にしない。

死んだ家畜は次のようにして葬る。牝牛は河に投げ捨て、牡牛は街の郊外に埋めるが、片方または両方の角を見えるようにしておき、その印にする。死骸が腐って一定の時期が来ると、プロソピティスという島からそれぞれの街へ小舟がやって来る。

この島はナイル・デルタの中にあって周囲が九スコイノスである。この島には多くの街があるが、そのなかのアタルベキス(23)という街から牛骨を集める舟が出される。この街には飛びきり神聖なアフロディテ(*)の神殿がある。

(23)アトル神またはハトホル神に由来する名称。イシス神を崇めている。
(*)エジプトのハトホル神

この街からは大勢の人があちこちの街へ出かけて骨を掘り出し、それを運びだして一ヶ所に葬る。他の家畜が死んだときも、牛と同じようにして葬る。このようにすることは規律で定められていて、家畜を解体処理することは許されていない。

42.テーベのゼウス神殿を崇める人々、つまりテーベの街の人々は、生贄にはヤギを捧げ、ヒツジには手を触れない。

というのは、すべてのエジプト人が同じ神々を崇拝するというわけではないからである。ただ、イシスと、ディオニソスのことだと云われているオシリスは例外で、この神々だけはすべてのエジプト人が同じように崇拝している。メンデスで神殿を持っている人々すなわちメンデス(24)の街の住民たちは、オヒツジを生贄に捧げるが、ヤギには手を触れない。

(24)ビンデッドのギリシャ語表現。ナイル・デルタにある街。オヒツジの形象でオシリス神が崇拝されている。メンデスがオシリスのことであるのは明らか。

テーベの住民や、彼らにならってヒツジを用いない者たちは、その慣習の理由を次のように云っている。ヘラクレス(25)がゼウスの姿を見たいと強く望んでいたが、ゼウスは自分の姿を見られたくなかった。それでもヘラクレスがしつこく懇願するので、ゼウスはあることを思いついた。

(25)ギリシャ人はエジプトのシュー神(Shu)をヘラクレスとしている。 あるいはテーベのコンスー・ネフェルホテップ(Chonsu-Neferhotep)。

ゼウスはオヒツジの皮を剥いで、その皮を被り、頭を切り取ってそれをヘラクレスに見せ、自分の姿としたという。エジプト人がゼウスの神像をオヒツジの頭にするのは、これに由来する。この風習はエジプト人からアンモン人にも伝わっている。アンモン人はエジプトやエチオピアからの移民で、その言語も両国語による合成語である。

彼らがアンモン人と名乗るのは、このことに発していると私は思っている。エジプト人はゼウスのことをアモンと呼んでいるからだ。このように、テーベ人はオヒツジを神聖な獣とみなしているので、これを生贄には用いることはしない。

しかし、年に一日、ゼウスの祭礼では、一頭のオヒツジを屠つて皮を剥ぎ、かつてゼウスがしたようにゼウスの神像に皮を被せておき、ヘラクレスの神像をゼウスの神像の近くに持ってくる。そうしておいて、この神殿にいる者たち全員が、自分の身を打ってオヒツジの死を悼み、そのあとで死骸を神聖な墓地に葬るのである。

43.ヘラクレスに関しては、かれが十二神のひとりであるという話を聞いている。しかしギリシャ人の知っているもうひとりのヘラクレスについては、エジプトのどこへ行っても何も聞くことができなかった。

実のところ、ヘラクレスの名はギリシャからエジプトに来たものではなく、エジプトからギリシャへもたらされ、そしてギリシャ人はアムピトリオンの子にヘラクレスの名をつけたのだという多くの証拠を、私は握っている。ヘラクレスの両親であるアムピトリオンとアルクメネが、ともにエジプト人の血筋をひいていることや(26)、エジプト人はポセイドンとディオスクロイの名を知らず、従ってこれらの神がエジプトの神々のなかに入っていないことが、その証拠になるだろう。

(26)ペルセウスの孫を例として、エジプト人の起源については本巻九十二節を参照

それにしても、彼らが、どんな神であれその名をギリシャ人から受け継いだものなら、少なくともこの神々の名だけは記憶に留めているはずなのだ。それから、その当時すでにエジプト人が航海に携わっていて、しかもギリシャ人もその一部が海に出ていたというのが私の予想であり考えなのだが、そうであるならエジプト人は、ヘラクレスよりもまずこれらの神々の名を十分知っているはずなのである。

しかしヘラクレスはエジプトでは非常に古い神だ。エジプト人自身が云うには、ヘラクレスを含む十二神が八神から変わったのは、アマシス王が統治する一万七千年前なのだ。

44.なおまた、私はこの件に関して正確な情報を知りたく思い、フェニキアのテユロスまで海を渡ったことがある。ここにヘラクレス(27)の神殿があると聞いたからである。

(27)テュロスのメルカート神

そこには、数多くの高価な奉納品が納められている神殿があるのを私は見たが、それらの奉納品に加えて二本の柱があり、ひとつは精錬された黄金製で、もうひとつは夜でも輝くほどの巨大なエメラルド製だった。司祭たちとの面談の中で、私は神殿が建立されてからどれほどになるかを訊ねた。

そして、彼らのいうことはギリシャ人の言い伝えと符合しないことがわかった。司祭たちの話では、この神殿はテュロスの街が最初にできたときに建立され、それは二千三百年前になる、というのだ。

私はテュロスでもう一つの、いわゆるタソスのヘラクレス神殿も見てみた。私はタソスへ行ったが、そこにはフェニキア人が建立したヘラクレスの神殿があった。このフェニキア人はヨーロッパを探索するために航海を続け、この地に植民したのだ。それはギリシャでアムピトリオンの子ヘラクレスが生れる五世代も前のことだった。

こうして私が調べた結果、ヘラクレスが古代の神であることがはっきりした。そしてギリシャ人が二種のヘラクレス神殿を建立し、一方は不死の神としてオリンポスと称して生贄を捧げ、他方は死の世界の神人(28)として奉納品を捧げるという習わしをつくりあげたことはほとんど正しいことだと、私は思う。

(28)ホメロスのオデッセイア、第十一章六百一節に、二身のヘラクレスが記されている。幻身(εἴδωλον=eídolon)は死の世界にいる。ただし「かれ自身」は天空の神々とともに不死身である。

45.ギリシャ人はほかに多くの浅はかな話を伝えているが、ヘラクレスに関する次の話もバカバカしいものだ。それは、ヘラクレスがエジプトヘ行ったとき、エジプト人がかれをゼウスの生贄にしようとして、頭に冠をかぶらせ、行列を組んで連れて行ったという。ヘラクレスはしばらくはおとなしく従っていたが、祭壇上で生贄の儀式が始まるや、力づくであらがい、エジプト人をすべて殺してしまったという。

このような物語を伝えているところから、ギリシャ人はエシプト人の性格にも慣習にも全く無智であると私は思っている。汚れのないブタや牡牛、子牛を別として、それにガチョウ以外に、家畜でさえ生贄にすることを禁じられているエジプト人が、どうして人間を生贄にすることができるだろう?

さらには、ギリシャ人の云うごとく、人間としてのヘラクレスただひとりで、どうすれば無数の人間を殺すことができようか?そして、このようにさまざま語りつつあるわが身には、神々からも神人からも恩寵のあらんことを!

46.先に話したが、エジプト人が雌雄を問わずヤギを生贄に用いない理由はこうだ。メンデスの住民はパン神を八神の中に数えているが、彼らは、この八神は十二神よりも古い神だと云っている。

さて彼らがパン神の像を描いたり彫像にしたりするときには、ギリシャ人と同じようにヤギの頭とその四肢を持つ姿にする。ただしかし、彼らは、それがこの神の現実の姿であると考えているわけではなく、他の神々と同じような姿であると考えている。ではなぜパン神をこのような姿に描くのか、ということについては私は話したくない。

いずれにせよメンデスの住民は、ヤギはすべて神聖なものと見なし、それも雄ヤギの方をメスよりも崇めている。そしてヤギ飼いは特別に尊敬されている。中でも一頭の雄ヤギが特に神聖なものとされ、これが死ぬとメンデス地区すべてこぞって盛大な弔いを出すのである。

なおエジプト語では雄ヤギとパンのことをメンデスという。私の時代になってからのことだが、この地区で奇怪なできごとがあった。雄ヤギがある女と、公然と交わったのである。このことは広く世間に知れ渡った。

47.エジプトではブタは汚れた獣とされている。まず、エジプト人は路上でブタに触れると、真っ先に河へゆき、服を着たままですっかり身体を水に漬ける。二番目には、生まれながらのエジプト人であってもブタの飼育人だけが、エジプトのどの神殿にも詣でることが許されていない。またブタ飼い人には誰も娘を嫁にやろうとせず、そこから嫁をもらおうとしない。それゆえブタ飼い人たちは同業者の間で結婚することになる。

エジプトではブタを神への生贄として捧げてはならないとされているが、例外は月の神とディオニソスで、この二神には同じ時、すなわち同じ満月の日にブタを生贄に捧げ、その肉を食べる。ほかの祭礼ではブタを忌み嫌うのに、この祭礼だけなぜブタを生贄にするのか、その理由に関する伝承がエジプト人にはあって、私はそれを知っているけれども、ここで話すのはふさわしくないだろう。

月の神にブタを捧げる儀式は次のように行なわれる。ブタを屠ったあと、その尻尾の端と脾臓と大網膜(内臓を包む膜)を並べ、腹部のまわりにある脂肪をすべて使ってそれらを包み、火で炙る。残りの肉は生贄行なわれる満月の日に食べるのだが、そのあと、ほかの日には食べない。貧しくて家計が苦しい者は、粉をこねてブタの形にしてこれを焼き、生贄にしている。

48.ディオニソスの場合には、その祭の前夜に、各自の家の前で子ブタを屠って捧げ、その子ブタは、それを売ったブタ飼い人に渡して持ち帰らせる。

これを除けば、エジプトのディオニソス祭はギリシャのそれとほとんど同じである。ただしギリシャのような歌舞音曲はない。そして男根像の代わりに、エジプト人は糸で操る長さ一キュービットほど(四十五糎)の人形を用いている。その男根は身体のほかの部分と同じくらいの大きさで上下に動くようになっていて、この人形を女たちが持ち、笛を先頭にして、その後に女たちがディオニソスの讃歌を歌いながら続くのである。こうして村々をまわってゆくのだ。

男根がそれほどの大きさで、また身体のその部分だけが動く理由については、ひとつの聖説が伝えられている。

49.さてアミテオンの子メランプス(*)は右の生贄儀式のことを知らなかったのではなく、むしろこれを熟知していたと私は思っている。それというのも、メランプスこそディオニソスの名や、その生贄儀式、男根像の行列のやり方を初めてギリシャ人に伝えた人物だからだ。ただ、メランプスは、正確に云えば、これらを全て理解した上で教えたのではなく、かれの後に連なる賢者たちがさらに詳しく教えたのである。しかしディオニソスを讃えるため、男根像を捧げて行列することをギリシャ人に教えたのはメランプスであり、現在行なわれているギリシャ人の行事も、かれの教えに基づくものである。

(*)ギリシャ神話最古の予言者

私の考えでは、メランプスは有能な人物で、予言術を会得し、またエジプトで習得した数多くのことに加えて、ディオニソスの行事もほとんど変えることなくギリシャに紹介している。私は、エジプトで行なわれる神の行事とギリシャで行なわれる行事が、偶然の一致であるなどと云うつもりはない。もし偶然の一致であるなら、これらの行事はギリシャ風の特徴をもっているはずだし、近年になってから始まったわけがないのである。

とはいえ私は、エジプト人がこの行事を含め、その他の風習をギリシャ人から学んだと云うつもりもない。メランプスはディオニソスの行事を、主にテュロス人のカドモスや、彼に従ってフェニキアから今日ボイオティアと呼ばれる地方にやって来た者たちから学んだものと、私は考えている。

50.実のところ、ほとんどすべての神の名はエジプトからギリシャヘ来ている。ギリシャの神々が異国の地からやって来ているということは、私が調べて確かめた。それも主にエジプトからの伝来であると私は確信している。

ポセイドンとディオスクロイだけは例外であることは、すでに話したが、ほかにもヘラ、ヘスティア、テミス、カリテス、ネレイデスなどを除き、これ以外の神の名は昔からエジプトにあった。私はエジプト人自身が云っていることを、ここで話しているに過ぎないのだが。エジプト人がその名を知らないと云う神々は、ポセイドンを除き、ペラスゴイ人(*)の命名によるものだろう。そしてポセイドンという神は、彼らがリビア人から教わったのである。

(*)ペラスゴイ人については第一巻五十六節以下を参照

というのも、最初からポセイドンという名の神をもっていて崇めている民族は、リビア人のほかにはないからだ。なお、エジプト人には神人を祀る慣習はない。

51.右の風習に加えて、ほかの風習についてもこれから話すつもりだが、それらもエジプトからギリシャに伝来している。しかし勃起した男根をもつヘルメス像はこの限りではなく、これはギリシャではアテネ人が最初にペラスゴイ人から学び、アテネから他の地域に広まったものである。

というのは、アテネ人はすでにギリシャ人として数えられてが、そこへペラスゴイ人がアテネの地にやって来てともに居住するようになった。そのため、ペラスゴイ人もギリシャ人と認められるようになったのだ。サモトラケ人がペラスゴイ人から教わったカベイロイの密議(*)に入信している者ならばだれでも、私の話している意味がわかるだろう。

(*)ギリシア神話に登場する鍛冶と農耕・豊穣の神々

アテネにやって来てともに居住するようになったペラスゴイ人は、その前にサモトラケに住んでいたので、サモトラケ人は彼らからその儀式を伝授されたのだ。

こうしてギリシャではアテネ人がはじめて男根の勃起したヘルメス像をペラスゴイ人から学んで作ったのだ。これについてはペラスゴイ人にある聖説が伝えられているが、それはサモトラケの秘儀の中で説かれている。

52.その昔、ペラスゴイ人は生贄儀式全般において、神々に名前や称号をつけずに祈願していた。それは、彼らが神の名など耳にしたことがなかったためだ。これは私がドドネで聞き知ったことだ。そして彼らがそれらを神と呼ぶようになったのは、神(29)が万物を秩序立て、またすべてを配分していることによっている。

(29)「t θεός(god)」は「配分者」を語源とし、θεσμός(rule),τίθημι(law),etc.につながる。

その後、長い年月をかけて彼らはエジプトから伝来した神々の名を学んだ。ただディオニイソスだけは、ずっと後になってからその名を知ることになる。やがてペラスゴイ人は神の名についてドドネの神託を求めることにした。この神託所はギリシャで最古のもので、しかも当時はそこにしかなかったからである。

そしてペラスゴイ人が異国の神の名を用いるべきかどうかの神託を、ドドネ(*)において求めたところ、使用せよという託宜が下った。それ以後彼らは生贄儀式において神の名を用いるようになった。その後、ギリシャ人がペラスゴイ人から神々の名をうけついだのである。

(*)ギリシャ西北端のエペイロス地方にある

53.ところが、それぞれの神がどこから来たのか、またすべての神がずっと以前から存在していたのか、さらにはどういう姿をしているのかなど、云うならば、彼らは昨日、一昨日までご存じなかったのである。

ヘシオドスやホメロスが活躍していたのは、私より四百年以上前には遡らないと私は思っているが、神々の系譜をギリシャ人に教え、その称号を定め、また階層と権能を定め、姿形を描いたのが、この二人なのである。

この人たちよりも前の時代といわれている詩人たちも、私の考えでは、この二人より後の時代の人々である。なおここで話したことの前半は、ドドネの巫女たちの語ったことで、後半のヘシオドスとホメロスに関することは、私自身の説である。

54.ところで、ギリシャとリビアの神託所について、エジプト人が次の話を伝えている。テーベにあるゼウス神殿の司祭たちが私に話してくれたことによると、二人の巫女がフェニキア人によってテーベから連れ去られ、一人はリビアヘ、もう一人はギリシャヘ売られたことを聞き知ったと、彼らは云っている。そしてこの女たちが、この二つの国で最初に神託所を設営したと、彼らは伝えている。

どうしてそのように詳しいことがわかったのかと私が訊ねると、司祭たちは答えていわく、テーベの人々はこの女たちを徹底的に探しまわったがとうとう発見できなかった。しかし後になってから、いましがた話した事情を知ったということだ。

55.以上、テーベの司祭たちから私が聞いた話である。次にドドネの巫女たちが話したことを続けよう。二羽の黒鳩がエジプトのテーベから飛んで来て、一羽はリビアヘ、もう一羽はドドネに来たのだそうだ。

ドドネの鳩は樫の木にとまると、ヒトの言葉を話し、この地にゼウスの神託所を開くべし、というお告げを下した。ドドネの人々は、このお告げは神の下されたものであると解釈し、お告げのとおりに神託所を設けたという。なおリビアヘ行った鳩は、アンモンの神託所を開くようリビア人に告げたと、巫女たちは云っている。これもまたゼウスの神託所である。

以上が、ドドネの巫女たちの話である。その巫女たちの最年長者はプロメネイアといい、その次がティマレテ、最年少者はニカンドラという名だった。そしてドドネの神殿に仕えているほかの人たちも、巫女たちと同じことを話していた。

56.しかしこれに関する私の考えはこうである。もし本当にフェニキア人が巫女を連れ去り、一人をリビアヘ、もう一人をギリシャヘ売り払ったのであるなら、ギリシャヘ売られた女は、いまはギリシャといわれているが、以前はペラスギアと呼ばれていた地で、テスプロトイ人(*)の住む地に売られたのだと、私は考えている。

(*)ドドネの近くに住んでいた最古の民族

そしてその女はその地で奴隷の身分のまま、その地に生えていた樫の木の下にゼウスの神殿を建てたのだろう。かつてテーベのゼウス神殿に仕えていたゆえに、やって来た地でその神殿を思い起こすのは、もっともなことである。

その後、ギリシャ語を覚えてから女は神託をはじめたのだろう。またその女の姉妹もリビアに売られ、売ったのはその女を売ったのと同じフェニキア人だと語ったものかと思われる。

57.またこれは私の憶測だが、この女たちのことをドドネ人が「鳩」と云ったのは、彼女たちが聞き覚えのない変な言葉をしゃべったことから、ドドネ人には鳥のさえずりのように聞こえたためではないか。

その後、女の云うことが理解できるようになったので、鳩が人間の言葉を話したと彼らは云ったのだろう。女が異国語を話している限り、それは鳥のさえずりのようにしか、彼らには聞こえなかったのだ。さもなくば、どうして鳩が人語を発し得よう?またその鳩が黒色だったというのは、女がエジプト人だという意味である(30)。

(30)この解説は正鵠を射ていると思われる。しかし「鳩」というのは単なるシンボルで、デメテルやアルテミスの巫女たちは「ミツバチ」と表現することもある

エジプトのテーベでの神託様式とドドネの様式は、似たようなものである。さらに、生贄を用いて占うやり方もエジプトからの伝来である。

58.また例大祭(*)や行列様式、典礼様式などもエジプト人が最初にやりだしたことである。そしてギリシャ人が彼らからそれらを学んだのだ。その証拠として私が考えているのは、エジプトにおける諸々の儀式は太古から行なわれていることが明らかなのに、ギリシャのそれは最近始まったということである。

(*)Panegyris:英訳文では「solemn assembly」。青木巌氏は「国民祭」としている。

59.エジプト人が例大祭を行なうのは年に一度だけではなく、何度も行なう。それらを代表し、最も熱狂して祝うのがブバスティス(31)の街で開かれるアルテミス祭で、これに次ぐものがブシリスの街のイシス祭である。この街はナイル・デルタの真ん中にあり、そこにイシスの壮大な神殿がある。なお、イシスはギリシャ語ではデメテルとなる。

(31)ブバスティスはナイル・デルタの「パシPasht」の街にある。ネコの頭をもつパシ女神(ヘロドトスはこれをアルテミスとしている)が祀られている。

三番目に大規模な例大祭はサイスのアテナ祭、四番目はヘリオポリスの太陽祭、五番目はブトのレト祭、六番目はパプレミスのアレス祭だ。

60.人々がブバスティスの街に集まるときには、舟で河沿いに行くのだが、どの舟にも男女の別なく、とてつもなく多くの人々が乗船している。カスタネットをガラガラ鳴らす女がいるかと思えば、旅のあいだずっと笛を吹いている者もいる。そのほかの者たちは、男も女も手拍子で歌っている。

船旅の途中でどこかほかの街に近づくと、船を岸につけて、乗船者はこんなことをする。一部の女たちは先に言ったようなことを続けているが、ほかの女たちは大声で街の女たちをひやかしたり、一部は踊ったり、一部は立ち上って服の裾をたくしあげたりする。彼らは河沿いの街を通過するたびに、こんなことをするのだ。

ブバスティスの街につくと、彼らは盛大な生贄儀式をささげて祭を祝うのだが、この祭で消費される酒の量は、一年の残りの期間に消費される合計量より多い。土地の者たちが云うには、この祭に集まる男女の数は子供を除き、毎年七十万人に達するという。

61.ブバスティスの祭のようすは右のとおりで、ブシリスにおけるイシスの祭のようすは、以前に話した(*)。生贄儀式が終わると、無数の男女がこぞって自分の体を打って嘆き悲しむのだが、誰のために嘆き悲しむのかということは、宗教上のはばかりがあるので、話せない。

(*)本巻四十節を参照

エジプトに住んでいるカリア人は、これ以上のことをする。彼らはナイフで自分の額を傷つけることまでするが、このことからして、彼らが異国人でエジプト人でないことがわかる。

62.サイスの生贄儀式にやって来る者たちはみな、夜になると家々のまわりの戸外で無数のランプに灯をともす。そのランプは塩と油を満たした平皿で、そこに燈心を浮かべ、これを一晩中燃やすのだ。そしてこの祭は「燈明祭Lychnocaia」(*)と呼ばれている。

(*)英訳文では「Feast of Lamps」。青木巌氏の訳では「点燈祭」となっている。

この祭に参加しないエジプト人は、生贄式の夜には必ずランプに灯をともす。であるからサイスに限らず、エジプト全土にわたって灯がともされることになる。なぜこの夜に灯をともして祝うかという理由については、聖説話が伝えられている。

63.人々がヘリオポリスとブトに行く場合には、ただ生贄をささげるだけである。パプレミスでは、ほかの所と同じように生贄をささげる儀式を行なうが、日没近くになると、数人の司祭が神像のまわりで舞い踊り、その他大勢の司祭は棍棒を手にして神殿の入ロに立つ。そのほか、祈願に来た千人以上もの男たちが、同じく棍棒を持って一団となり、司祭たちに対峙するのだ。

金箔を張った小さな木の祠に納められた神像は、祭の前日に別の聖所に移しておく。そして神像に仕える数人の司祭が、祠に納めた神像を載せた四輪車を曳いてくると、神殿の扉の横にいるほかの司祭たちが、それを境内に入れまいとする。すると祈願者の一団は神に加勢して司祭たちに打ちかかり、司祭たちもこれに対して身を守る。

そこで棍棒による激しい打ち合いが始まり、互いに頭を叩き合うので、怪我して死人が大勢出るように思うのだが、エジプト人の云うには、死人は一人も出ないそうだ。

土着の者たちの話では、この祭が風習となったのは次のような出来事がきっかけだという。この神殿にはアレスの母が住んでいるのだが、アレス自身は母と離れて育てられたのだった。そして成人してから母に会いたと思って訪ねてきたところ、母親の召使たちはそれまでアレスに会ったことかなかったので、戸外に押しとどめて中へ入れようとしなかった。そこでアレスは別の街から男衆を連れてきて召使たちを手ひどくいためつけ、神殿の中にいる母のところへ入っていったという。このことから、アレスの祭ではこのような乱闘をすることが風習になったと土地の者は云っている(32)。

(32)ヘロドトスの云うエジプトの神アレスが何を指すのか不明。ギリシャのパピルスには「アレス」はエジプトの神アンフル(Anhur)であると記されている。ただし「シューShu」や「ヘラクレス」との区別は不確か。

64.さらに、神殿内では女と交わらぬことや、女に触れたときには身を清めてからでないと神殿内に入らないという戒律を定めたのも、エジプト人が最初である。というのはエジプト人とギリシャ人を除けば、ほとんどすべての民族がこれに関して無頓着で、人もほかのどんな動物も同じだと考えているからだ。

獣も鳥も神殿や聖域内で交尾するのを見受けるので、これが神の不興をかうのなら、獣もそんなことはしないはずだと、彼らは云うのだ。これがほかの民族が自分たちの行ないに対する言い訳であるが、こんなこと、私は認めない。

65.以上のことも含め、ほかの全てのことに関して、エジプト人は宗教儀式に関して、極めて厳格に戒律を守っているが、次のこともその一例である。

エジプトはリビアに隣接しているが、この国にはそれほど多くの野獣はいない。その中であるものは家畜の一部にされるが、そうでないものもある。そしてこの国の獣はすべてが神聖なものとされている。なぜ動物がすべて神聖なものとされているか、その理由を云うなら、神に関する事柄に触れねばならないのだが、これは私が格別に避けたいと思っていることなのだ。この話題は、これまで必要なときだけにしか取り上げていない。

さてしかし、動物の扱いに関する風習について話すことにしよう。エジプトでは、動物の種類それぞれについて、男女の飼育係が任命されることになっていて、この役は息子が父親のあとを継ぐことになっている。

それぞれの街の住民が祈願する場合、その動物が献身している神に祈りを捧げる(*)。一方で自分の子供の頭髪を、すべてまたは半分、あるいは三分の一剃り上げ、剃り取った髪を秤にかけ、それを銀の重さで量る。そしてその分量だけの銀を女の飼育人に与える。飼育人はその銀で魚を買って動物のエサにするのだ。動物の食糧はこのようにして賄われる。

(*)Steinはここに、子供の病気平癒祈願の文が抜け落ちていると推定している;松平千秋氏による注。

これらの動物を故意に殺したりすると、死罪となる。誤って殺した場合は、司祭が命じたどんな罰でも受けねばならない。ただし、イビス(*)や鷹を殺した場合には、故意であろうとなかろうと、死罪に問われる。

(*)ibis=トキまたはコウノトリのことか?本巻七十六節を参照

66.エジプトには家畜が多いが、猫に次のようなことがなければ、もっと多くなるだろう。メス猫が子を産むと、オス猫を受け入れようとしなくなり、オス猫は交尾したくてもできなくなる。

そこでオス猫は、メス猫から子猫を盗んで連れ去り、殺してしまう。ただし、殺すだけで食べてしまうわけではない。子を奪われた母ネコはさらに子を欲しがってオス猫のもとへ寄ってくる。猫というものは子供を可愛がる動物なのだ。

火事が起きると、猫は大変奇妙な行ないにおよぶ。エジプト人は消火することよりも猫を気づかい、間を開けて立ち並び、猫を見張る。それでも猫は人の間をすり抜けたり飛び越えたりして、火の中に飛び込むのだ。

こんなことが起ると、エジプト人はひどく嘆き悲しんでこれを弔う。また、猫が自然死した場合には、その家の家族はみな眉だけを剃る。犬が死んだときには頭と全身の毛を剃る。

67.死んだ猫はブバスティスの街の霊廟へ運び、ここでミイラにして埋葬する。犬は飼い主の街の墓地へ埋葬する。イクネブモン(エジプトマングース)も犬と同じように葬る。トガリネズミと鷹はブトの街へ、イビスはヘルモポリスヘ運んで葬る。

この国には熊はほとんどいない。狼は狐よりやや大きいが、これらの獣は死んでいた場所に埋葬する。

68.ワニの性質は次のとおりだ。これは陸と水中の両方に棲む四足獣だが、冬の四ヶ月間というもの、何も食べない。陸で産卵、孵化し、一日の大半は乾いた陸で過すが、夜は河の中にいる。夜は大気や露よりも水の方が温かいからだ。

われらの知るすべての生物の内で、これほど小さく生まれ、これほど大きく成長する例はほかにない。その卵はガチョウの卵よりさほど大きくはなく、孵化したばかりのワニも卵に応じた大きさだが、それが成長すると十七キュービット(七百七十糎)あるいはそれ以上にもなる。

ワニの目はブタのような目をしていて、歯はその身体の大きさ相応の大きさで、長い牙のようである。またワニは唯一舌のない動物だ。これは下顎を動かさず、上顎を下顎に向けて動かすという、動物の中でも珍しい例だ。

そして強靱な鈎爪をもち、背中は突き抜けそうにないウロコ状の皮になっている。水中では目が見えないが、空中ではとても鋭敏な目をしている。水の中で生活しているので、ロの中いっぱいにヒルが棲みついている。ほかの鳥や獣はワニを避けるが、ナイルチドリ(trochilus;33)だけは例外で、ワニの役に立っているので、これと仲がよい。

(33)あるいは爪のような翼を持つエジプトタゲリ、またはシロクロゲリ(Hoplopterus armatus=Vanellus armatus)。

それというのも、ワニが岸辺に上がってロをあけると(ワニはいつもは西風に向かってロをあけるのだが)、ナイルチドリはそのロの中に入ってヒルを食べてしまう。ワニはこの労を多とし、この鳥には危害を加えない。

69.一部のエジプト人はワニを神聖視しているが、一方で目の敵にしている人もいる。テーベやモエリス湖周辺の住民は、ワニをきわめて神聖なものとしている。

この地の人たちはワニを一頭飼育し、飼い馴らしている。その耳にはガラスや黄金で造られた飾りをつけ、前肢には足輪をはめ、決められたとおりの飼料を与え、そのうえ生き餌まで与え、生きているあいだはこの上なく気をつかって飼育する。死ぬとミイラにして聖廟に埋葬する。

ところがエレパンティネ周辺の住民はワニを神聖なものとせず、これを食用にさえする。エジプト人はワニのことをクロコダイルとはいわず、カンプサ(khampsae)という。クロコダイルというのはイオニア人がつけた名で、イオニア人は、ワニが自分たちの国にある石壁の隙間に棲んでいるトカゲ(crocodile)に似ているところから、そのような名をつけたのだ(34)。

(34)「κροκόδειλος=crocodile」はイオニア語でトカゲを指す。より一般的な「σαύρα.=lizard またはσαῦρος=savros. χάμψα=champsa」という名は、エジプト語では「em-suh」となる。アラビア語では「timsah」。これはem-suhに女性接頭辞をつけた語である。

70.ワニを捕まえる方法にはいろいろあるが、話すに価する最上のものと思っているやり方を書いておこう。

まずブタの背肉を針につけて河の中ほどに流し込み、一方で子ブタとともに河岸に立ち、この子ブタを叩く。するとワニはブタの鳴き声を聞き、その声の方へやって来る。そこでワニはブタの背肉に出くわすのでこれを呑み込む。そして皆で糸を引き寄せるのだ。ワニを陸に引き上げると、まず最初にワニの両眼を泥で塗りつぶす。こうしておけばその後の処理は非常に簡単だが、これを怠ると大変めんどうなことになる。

71.カバはパプレミス地区では神聖なものとされているが、ほかの地ではそんなことはない。その姿形といえば、四足獣で、牛と同じくヒヅメが二つに割れている。鼻は平べったく、馬のようなたてがみをもち、牙のような歯が見えていて、尻尾も声も馬に似ている。大きさは、最も大きな牛ほどだ。その外皮は非常に厚く、乾かすと槍の柄に利用できる。

72.カワウソも河に見受けられ、エジプト人はこれも神聖なものとしている。レピドトス(lepidotos)(*)という魚とウナギも神聖なものとしている。これらの魚類と鳥の中ではエジプトガチョウ(Chenalopex)(35)がナイルの神聖物とされている。

(*)英訳語はscale-fish=ウロコ魚
(35)別名「ナイルガチョウ;Nile-goose」、エジプトガチョウ(Chenalopex Aegyptica)

73.さてこれとは別の聖鳥がいて、その名もフェニックス(ポイニクス)という。私自身はその姿を絵で見ただけで、実物は見たことがない。というのも、この鳥がエジプトに飛来することはまれで、ヘリオポリスの住民の話では、五百年に一度だけやって来るという。

そしてフェニックスがやって来るのは父鳥が死んだ時だと云われている。その絵が実際の大きさと姿で描かれているとするなら、羽毛は一部が金色、一部が赤で、その姿と大きさは鷲に最もよく似ている。

彼らが伝えているこの鳥の行動は、私には信じられない。すなわちこの鳥は父鳥の遺骸を没薬(もつやく)で塗りこめ、それをアラビアからヘリオス神殿(太陽神殿)に運び、ここに葬るのだ。

どのようにして運ぶかだが、まず自分が遅べる程度の重さの没薬を卵の形に作り、それを試しに持ち上げてみる。その試みを終えると、卵をくり抜いて父鳥の遺骸を入れ、あけた穴は、さらなる没薬で塞ぐ。そうすると父鳥を入れた重さははじめの重さと同じになる(と彼らは云う)。このようにしてフェニックスは父鳥を塗り籍めてエジプトのヘリオス神殿へ運ぶのだ。この鳥はこんなことをするとエジプト人は伝えている。

74.テーベの近くには神聖な蛇がいるが、これは人間には無害で、形は小さく、頭のてっぺんに二本の角が生えている。この蛇が死ぬと、ゼウス神殿に葬る。この蛇はゼウスの聖獣といわれているからである。

75.ブトの街からそれほど離れていないアラビアの地へは、私は、翼のある蛇について調ベに行ったことがある。到着して目に入ったのが、数えきれないほどの蛇の骨と背骨だった。背骨を積み上げた山がいくつもあり、山は大小こきまぜ、さらに小さいものまで、さまざまだった

背骨の散らばっている場所は、山間の峡谷が広大な平野に拡がるところで、この平野はエジプト平野に連なっている。

翼をもつ蛇は、春の早い時期にアラビアからエジプトに飛んでくるが、イビスという鳥が国の入ロで立ち向かって蛇の行く手を阻み、殺してしまうという。

この功績によって、エジプト人はイビスを大いに崇拝していると、アラビア人は云っているが、エジプト人自身も、イビスを崇める理由として同じことを認めている。

76.さてそのイビスの姿形である。これは全身真っ黒で、脚は鶴のそれだが、クチバシは鋭く曲がっていて、大きさはクイナほどである。これが蛇と戦うイビスの外見である。

ところがイビスは二種類(36)いて、人間に懐いている方のイビスは、頭から首にかけては羽がなく、頭と首、翼の尖端、尻尾の先は真っ黒で、これ以外は白い羽に覆われている。ただし脚とクチバシは別種のイビスに似ている。

(36)ハゲトキ(Geronticus Calvus) と 聖イビス(Ibis Aethiopica)。

先に話した蛇は水蛇に似ているが、翼には羽毛がなく、コウモリの翼にとてもよく似ている。

神聖な動物については、これで存分に話した。

77.さてエジプト人そのものの中でも、農業地の人々は、ほかのどんな人々よりも過去の記憶を保存することにこの上なく熱心で、私が訊ねまわったどんな人たちよりも歴史に詳しい。

そんな彼らの生活様式はといえば、健康のために月に一度、三日続けて嘔吐剤と下剤を用いて体内を浄化する。人の病気はすべて口にする食物が原因だと、彼らは思っているからだ。

こんなことをしなくとも、エジプト人はリビア人の次に、全人類の中で最も健康なのだが。私の考えでは、その理由として気候が一年中変わらないことが考えられる。何かが変わること、とくに季節の変動が病気の主な原因となるからだ。

彼らはマイズ(maize)というスペルト小麦を粗挽きにして、いわゆるキレスティス(37)という円錐形のパンをつくって食している。酒は大麦から作る。この国にはブドウがないからだ。魚は日干しにしてそのまま食べる。または塩漬けにして保存する。

(37)円錐形に捻ったパン。

ウズラ、カモ、小鳥のたぐいは塩漬けにしてそのまま食べる、そのほかの鳥類、魚類は、聖獣と見なされるものを除き、炙ったり煮たりして食べる。

78.裕福な者たちが催す宴会では、それが終わる頃に、一ないし二キューピッドの大きさで、人の遺骸を正確に彫った木製の像を、ひとりの男が棺に入れて運び込む。これを同席者ひとりずつに見せてまわり、こんなことを云う。
「飲んで楽しみながら、これをご覧あれ。死んだら、あなたもこんな状態になられるのですぞ」
これが彼らの饗宴の席における習わしである。

79.彼らは父祖伝来の風習を守り続けていて、新しいことをしようとしない。注目すべき風習がいろいろある中で、このようなものがある。リノスの歌(38)というのがあり、これはフェニキアやキプロスそのほかの地でも歌われているものだが、民族によって独自の名前がつけられている。

(38)夭折した若者のための挽歌(初夏の消滅を表象するものといわれている)。Thammuz, Atys, Hylas,またはLinusと称される。セム語の反復句「アイ・リノ(ai lenu)」すなわち「哀れな我らよ(alas for us)」がギリシャ語の「αἴλινος=ailino」となり、リノスとなった

この歌はギリシャ人がリノスとして歌っているものと偶然にも同じだが、こうしてみるとエジプトには驚かされることが多くあって、これもそのひとつだ。一体エジプト人は、どこからこのリノスという名をもってきたのだろうか?エジプトではリノスというのはマネロス(39)と呼ばれているのだが、彼らがこの歌を昔から歌ってるのは明らかなのだ。

(39)マネロスというのはおそらく「ma-n-hra=come back to us(我らのもとへ戻れ)」という反復句に由来するのだろう。

エジプト人が話してくれたことによると、マネロスはエジプト初代王のただ一人の子で、若くして亡くなっている。そこでエジプト人はこの子に敬意を払ってこの挽歌を歌い、彼らが云うには、この歌がエジプトの最初にして唯一の歌になったのだという。

80.エジプト人が、ギリシャ人---といってもスパルタ人に限るのだが---と同じくしている風習がもうひとつある。それは若者が年長者に出会ったときには道をゆずり、また年長者が近づくと席を立つことだ。

しかし次のことはギリシャ人と異なっている。彼らが路上で出会ったときには、互いに挨拶をするのではなく、手を膝までさげてお辞儀をすることである。

81.彼らは脚のまわりに縁飾りのついたカラシリスという麻の肌着をつけ、その上に白いウールの外套をまとっている。しかしウールの衣服は神殿内へは持ち込まず、埋葬するときも身に着けさせない。これは宗教上の禁忌である。

このことは、いわゆるオルペウス教やバッコス教--実はこれらはエジプト起源である--またピタゴラス派の戒律と同じである。これらの宗派の儀式に参列する者は、ウールの衣服をつけて埋葬することを禁じられている。このことについては聖伝説が残されている。

82.エジプト人の始めた風習には、ほかに次のようなことがある。それぞれの月や日には帰属する神が決められている。またその人が生まれた日によって、どのような人生をたどり、どのように人生を終え、どのような人間になるかが決まると考えている。そしてギリシャの詩人たちが、これを利用しているのだ。

また彼らが見つけた予兆の数々は、ほかの全ての民族の発見したものよりも多い。エジプト人は驚異的なことが起きると、その結果を記録しておくのだ。そして似たようなことが再び起きたときには、同じ結果がもたらされると彼らは考えている。

83.彼らの神託術については、これは人間があつかうものではなく、いくつかの神に帰属するものとしている。すなわち彼らの国には、ヘラクレス、アポロン、アテナ、アルテミス、アレス、ゼウスなどの神託所があるが、その中でも最も崇拝されているのが、ブトにあるレトの神託所である。しかし神託のやり方は一様ではなく、いくつかの方法がある。

84.彼らの医術は専門化している。それぞれの医者はひとつの病気だけを扱い、ほかは診ない。それゆえ国中に医者が溢れていて、眼医者、頭の医者、歯医者、内蔵の医者、訳の分からない病気の医者などがいる。

85.彼らの死者の葬儀や埋葬はこうだ。著名人が死ぬと、その家の女たちは全員が顔や頭に泥を塗りつける。そして遺体を屋敷に残したまま、街中を練り歩いて哀悼の意を示すのだ。そのとき、腰には帯を締めて胸をさらけだし、自分の身体を打ち続ける。また死者の縁者の女たちもみな、これに同行することになっている。

男たちも同様に衣を帯で締めて肌脱ぎにし、自分の身体を叩いて嘆き悲しむ。そのあとは、ミイラにする場所へ遺体を運び込む。

86.そしてミイラ造りを専門の職とし、その技術もつ職人がいる。遺体が運び込まれると、本物のごとく絵具で色づけした木製の見本を、運んできた者たちにみせる。最も完全な手法のものは、その名を口にするのもはばかられる、ある人物の処理法だと説明し、二番目のものとしては、これよりも完成度が落ちるが値段も安いというものをみせる。そして三番目には最も値段の安いものをみせる。これらの見本をみせながら、職人は、遺体を持ち込んできた人たちに、どのやり方を希望するかを確認する。

金額が決まると依頼人たちは帰ってゆき、職人は仕事場に残って遺体の処理にとりかかる。最も完璧な処理法というのはこうだ。

まず脳に薬液を注入するとともに、鉄製の鈎を鼻からとおして脳をかきだす。次に鋭いエチオピア石のナイフで脇腹を切り裂いて内蔵をすべて取りだし、そこへヤシ油を注いだり、すり潰した香料を使って腹部を清める。

そのあと、すりつぶした純粋な没薬や桂皮、それに乳香をのぞくほかの香料を腹部に詰めてから、縫い合わせる。そうしてからこれをソーダに潰けて七十目間密閉しておく。ただしこの期間を超える密閉は許されていない。

七十日が過ぎれば遺体を洗い、上質の麻布でつくった包帯で全身を巻いてくるみ、その上に、エジプト人が膠の代わりによく利用しているゴムを塗りこむ。

こうしてミイラは近親者に引き渡される。彼らはミイラを納める人型の木箱を造ってミイラを納め、閉じた棺を墓室内の壁にまっすぐ立てかけて安置する。

87.以上、最も高価なミイラ調製法である(40)。高額な費用を避けて中級のものを希望する人たちのためには、次のように調製する。

(40)τοὺς τὰ πολυτελέστατα, sc. βουλομένους.=tous ta polytelestata, sc. voulomenou

ミイラ職人は、杉の油を注入器に満たし、これを遺体の腹部に充満するまで注入する。このとき腹部を切開して内蔵を取りだすことはしない。油は肛門から注入し、外に漏れないように栓をしておく。規定の日数だけソーダに漬けておき、期日がくれば先に注入していた杉油を腹から排出させる。

この油は、腸やその他の内臓を溶かし、ともに対外に排出させるのに大きな効力がある。一方で肉はソーダで溶かされるので、あとには骨と皮しか残らない。これがすむと、それ以上何も手を加えず、ミイラ職人は遺体を返す。

88.三番目のミイラ調製法で、貧しい死人の場合には次のようにする。下剤を用いて腹の中を洗浄してから七十日間ソーダに漬け、そのあと遺体を持って帰らせる。

89.高貴な夫人や、すぐれて美貌で評判の女性が亡くなったときには、すぐにはミイラ調製には出さず、死後三日目または四日目になってからミイラ職人にあずける。

このようにするのは、ミイラ職人がこれらの女性を犯すのを防ぐためである。事実、亡くなったばかりの女性の遺体をある職人が犯し、それを同業者に告発されて捕らえられたという話がある。

90.エジプト人であれ異国人であれ、ワニにさらわれるか河に流されて死んだときには、死体が岸に上がった街の者たちが、どんなことをしてでも、その遺体をできるかぎり見栄えよくミイラにし、聖廟に葬らねばならないとされている。

このとき、近親者、知人の別なく、誰も死体に触れることは許されない。このような遺体は人間以上のなにか別のものと見なされ、ナイルの司祭たちが手ずからそれを葬ることになっている。

91.エジプト人はギリシャの風習を受け入れようとしない。一般にこれはギリシャに限らず、すべての異国の風習に対して、そうなのだ。そしてほとんどのエジプト人はこの規範を守っているが、ただここにテーベ州のネアポリス近くにケンミスという大きな街がある。

この街には、ダナエの息子ペルセウスを祀る方形の廟が、ヤシの木立の中にある。この廟の参道門は巨大な石でできていて、入り口の前にも巨大な石作りの立像が二基立っている。この廟の境内に神殿があり、そこにペルセウスの立像が安置してある。

このケンミスの街の住民が伝えるところでは、ペルセウスはこの地、またこの神殿内に姿を現すことがしばしばで、かれの履いていた二キュービット(九十糎)もの大きさのサンダルが時々発見されるという。そしてこのサンダルが現われると、エジプト全土が繁栄するという(*)。

(*)「サンダルが残されていて、これがひっくり返るとエジプト全土が繁栄する」とも読める。

これが彼らの伝承話だが、ペルセウスを讃えて彼らが行なっていることがまさにギリシャ風なのだ。すなわち彼らは祝祭としてあらゆる種目の運動競技を催し、家畜や衣服、皮革を賞品にしている。

なぜペルセウスが彼らの前だけに現われ、またなぜ彼らがほかのエジプト人に似ず競技会を催すのか、という私の問いかけに彼らが答えていわく。ペルセウスはもともとはケンミスの生まれだといった。つまりダナオスとリュンケウスはケンミス市民だったが、彼らはこの街からギリシャヘ渡っていったのだと返答した。そして、この二人からペルセウスに至るまでの系譜を話してくれた。

またペルセウスがエジプトに渡ってきたのは、ギリシャ人の言い伝えどおりの理由によるものだった。すなわちリビアからゴルゴーン(*)の首を持ってくることだったが、その時ペルセウスはこの街を訪れ、一族の者たちすべてに挨拶し、この街の名は、エジプトに来る前に、母親から聞いてすでに知っていたと語ったそうだ。そして休育競技を催すのも、かれの要望によるものだと彼らは伝えている。

(*)ギリシャ神話に登場する怪物ゴルゴーン三姉妹の末娘メドゥーサ(Medousa)のこと。

92.以上すべては沼沢地帯より上流地域に住むエジプト人の風習である。沼沢地帯の住民の風習もほかのエジプト人のそれと同じで、とくに一夫一婦制もギリシャ人と同じである。そのうえ、食料を無駄にしない方法を工夫している。

ナイルが氾濫し、平野が水に浸かると、エジプト人がロータスと呼んでいるユリがびっしりと水中に発生する。これを集めて天日に干し、その中にあるケシの実に似た種をすり潰してパンを作る。

ロータスの根も食用になり、これは丸くてリンゴほどの大きさで、甘い。

ナイルには別種のユリも生えているが、これはバラに似ていて、根から別に伸びている茎になる実である。形はハチの巣によく似ている。実の中にはオリーブの核ほどの大きさで、食用になる種が多数入っていて、これは生のまま、または乾燥させて食べる。

パピルスは毎年生える。それを沼から採り、上の部分は切り取って他の用途に用い、その下の一キュービットほどの長さの部分は食べたり売ったりする。パピルスを特においしく食べたいと思う人は、赤くなるまで熱した天火(オーブン)で焼いて食べる。また魚しか食べない人たちもいる。彼らは魚を採るとはらわたを抜き、干物にして食べる。

93.ナイルには群れる習性のある魚はほとんどいない。このような魚は湖に棲息しているものだが、その生態は次のようだ。この種の魚は産卵期になると群をなして海へ泳ぎ出す。オス魚が白子を出しながら先を泳いで行くと、あとに続くメス魚がそれを呑みこんで受精する。

海でメス魚が孕むと、すべての魚は元のねぐらを目指して河を上る。しかし先頭を行くのはオスではなく、メスが先導役となる。メス魚は先にオスのしていたことと同じことをする。つまりメス魚は粟粒ほどの大きさの卵を少しずつ放出し、あとに続くオス魚がそれを捕食する。この粟粒状のものすなわち卵が魚に成長するのだ。

そして呑みこまれずに生き残った卵が魚に成長する。海に向かっているときの魚を捕らえてみると、頭部の左側に擦り傷があるのだが、河を上ってゆく魚には右側に傷がある。

この現象が起きる理由は、海へ下るときも河を遡るときも、魚は河の左岸に沿い、できるだけ岸に近いところをかすめながら泳ぐからだ。これは河の流れで道に迷わないようにするためかと思われる。

ナイルが氾濫しはじめると、最初に河ぞいの窪地や湿地帯が水につかる。河から水があふれ出てくると、すぐに水が満ち、そして瞬時にして小魚があふれかえる。

この小魚がどこからやって来るのか、私にはわかるような気がする。つまり前の年にナイルの水が引く時に、泥の中に卵を生んだ魚は最後の水とともに去って行く。そして次の年に再び水が満ちると、ただちにこの卵から魚が孵化するのだ。以上、魚の話である。

94.沼沢地に住むエジプト人は、エジプト語でキキというトウゴマの実から採った油を利用する。これはギリシャでは野生植物だが、エジプト人は河や湖のほとりに種をまく。

エジプトで栽培されたものは無数の実をつけるが、悪臭がある。彼らはこの実を集め、すり潰して搾ったり、火で炙ってから煮こんだりして実から出る油を集める。この油は油気が強く、オリーブオイルに劣らぬほど燈油に適しているが、堪えがたい臭気がある。

95.おびただしい数の蚊に対してエジプト人がとっている対策は次のとおりだ。沼沢地帯より上流の住民は、塔にのぼって眠る。蚊は風に妨げられ、高いところまで飛べないからである。

一方、沼沢地の住民は塔の代わりに別の方法を用いている。ここでは誰もが投網を持っていて、昼間はそれで魚をとり、夜は自分の寝床の周りにこの網を張りめぐらし、その中へ這い入って眠るのである。

上着や布にくるまつて寝ると、蚊はその上から刺すが、網の場合には、これを通して剌すようなことはまずありえない。

96.貨物を運ぶ船はアカシア材(41)で造られている。アカシアはその形がキュレネ産のロータスによく似ていて、この木の樹液がゴムになる。このアカシアから長さ二キュービット(九十糎)の板を切り出し、これを煉瓦のように並べて船を造る(42)。

(41)Mimosa Niloticaミモザ・ニロティカ;これは今でもエジプトで船材に利用されている。
(42)つまり、レンガが互いに直接重なるのではなく、交互に接合するように配置する。

この二キュービットの板を並べておき、その間に木釘を差し込んで接合する。そのあとは船板を交叉するように横桁(よこげた)を張る。このとき肋材は用いない。板の継目は内側からパピルスを詰めてふさぐ。

舵は一つで、これは竜骨にあけた穴に通す。帆柱はアカシア材、帆はパピルスを用いる。この種の船は強い風が吹かないかぎり、河の上流に向かって航行できないので、岸から牽いてゆくが、下流に向かって行くときには次のように操作する。

御柳の木をアシのゴザで繋ぎあわせて筏をつくり、およそニタラントン(五十~八十瓩)の重さの石に穴をあけておく。筏は綱で船の前部に結びつけて流し、石はこれも綱で船の後部に結びつける。

筏は流れに乗って速く進み、バリス(この種の船の名称)を引張ってゆく。後方の石は河底を引きずられることで、船の進路を真直ぐに保つ働きをする。この種の船は実に多く用いられていて、あるものは数千タラントンもの貨物を運んでいる。

97.ナイルが大地に氾濫すると、市街だけが水の上に残り、それはまさにエーゲ海に浮ぶ島嶼のようである。すなわち街並みだけが屹立し、エジプト全土は一面の海となる。この状態になると、人々はいつものように河に沿って移動することはせず、平野の真中を突っ切って行く。

たとえばナウクラティスからメンフィスヘ船で航行するときには、船はピラミッドのすぐ近くを通る。ただこれは通常の航路ではなく(43)、普通はデルタの頂点とケルカソロスの街を通ってゆく。海からきてカノボスの街を経由し、平野を通ってナウクラティスヘ航行するときには、アンティラと「アルカンドロスの街」という街を通る経路をたどることになる。

(43)この文は曖昧。ある人は「この航路はそうではなく」と解している。そして「ὁ ἐωθώς = o eothós」が「οὗτος = oútos」の後ろから缺落しているのだろうと推測している

98.アンティラの街はある意味で名のあるところで、この街は歴代エジプト支配者の妃に履物料として与えられる特別な領地になっている。これはエジプトがペルシャの支配下に人ってからのことだ。

もう一つの街の名は、ダナオスの娘婿アルカンドロスー父はピティオス、祖父はアカイオスーから来ていると私は思っている。この街が「アルカンドロスの街」と呼ばれているからだ。アルカンドロスという人物がほかにいたかもしれないが、どちらにしてもこれはエジプト人の名ではない。

99.以上、これまで私が話したことはすべて私自身が見たこと、判断したこと、調べたことであるが、これ以後は、エジプトの歴史について私がこの眼で確かめたこともいくらか交えつつ、聞き取ったことをそのまま書き留めてゆくことにする。

司祭たちが語るには、エジプト初代の王はミンといい、堤防を築いてメンフィスをナイルから守ったのはこの王が最初だという。この河はその全長にわたってリビア側の砂質の山脈のふもと近くを流れていたが、ミンはメンフィス南方およそ百スタディア(十八粁)の上流部で河の屈曲部に堤防を築いて元の流れを涸らし、流れを誘導して山と山の間を流れるようにしたという。

この屈曲部はいまでもペルシャ人によって厳重に管理されていて、流れを保つために毎年補強されている。ナイルが堤防を破壊してそこから氾濫を起こすと、メンフィス全市が洪水の危機に陥るからである

こうして初代王ミンは河を堰き止めたあとの土地を乾燥地に変え、真っ先にここに街を造ったのだが、これが今日メンフィスと呼ばれている街で(メンフィスもエジプトの狭隘部にある)、さらに街の外側の北部と西部に(東にはナイルが接して流れている)ナイルから水をひいて湖を掘ってつくった。そして次にこの街にヘパイストスの神殿を建立したが、これは宏壯で最も注目に値するものである。

100.ミンのあとには三百三十人の王が続いたが、司祭たちはパピルスの巻物をひもとき、その名を列挙してくれた。その長い世代のうち、エチオピア人の王は十八人で、一人だけ地元生まれの女がいて、ほかはすべてエジプト人の男である。

女王の名は、あのバビロンの女王と同じくニトクリスといった。彼らがいうには、彼女の兄弟はエジプト王だったが、臣下の者たちがかれを弑逆し、王位をニトクリスに与えた。ところが披女は、大勢のエジプト人をだまして殺し、兄弟の仇を討ったという。

彼女は広大な地下室を造り、その完成式を行なうふりをし、内心では全く別のことを企らんでいた。彼女は、兄弟の殺害を共謀し、これに最も深く関わったエジプト人たちを盛大な宴席に招き、その最中に、密かに造っておいた大きな水路から河の水を客の上に流し込んだという。

この女王に関する司祭たちの話はこれですべてである。ただ、これを終えたあと、報復から逃れるために、女王は灰の充満している部屋にその身を投じたという。

101.その他の諸王のについては、目立った業績や活躍をした者はいないと司祭たちは語った。ただ例外として歴代最後の王モエリスの名をあげた。

モエリスの名は、ヘパイストスの神殿北面の楼門を建立したことで記憶せられ、また湖を開削し(この湖の周囲が何スタディアもの長大さであるかは後に示す)、その湖の中にピラミッドも建てた。ピラミッドの大きさについては、この湖について語るときに取り上げるつもりである。以上がモエリスの業績だが、ほかの王は誰ひとりなんの業績も残していないという。

102.それゆえ残る王たちのことはさておき、そのあと王位についたセソストリス(44)ついて話すことにしよう。

(44)ラムセス二世のこと。ギリシャ人はセソストリスと呼ぶ。紀元前十四世紀に王位にあったと伝えられている。

司祭たちの話では、この王は始めて船体の長い艦隊(45)を率いてアラビア湾を出航し、紅海沿岸の住民を征服したあと、さらに船が航行できなくなる浅瀬の海域にまで到達したという。

(45)戦艦のこと

その後も司祭たちの話は続き、そこからエジプトに帰還すると、王は大軍を編成して大陸に進出し、その進路にあたる民族を手当たり次第に征服した。

自由のために戦う勇敢な民族に遭遇するたびに、この王はその国に記念碑を建て、その碑には自身の名と祖国の名、そしていかにして自分の力によってこの国を征服したかを刻み込んだのである。

しかし抵抗もなくやすやすと占領した国には、勇敢に戦った民族の場合と同様の碑文を刻んだ上、さらに女陰の形を彫り込ませた。それによってこの民族が臆病だったことを示したのだ。

103.かくのごとくしてかれは大陸中を進軍し、ついにはアジアからヨーロッパにまで至り、スキタイ人やトラキア人も征服した。私が思うに、これはエジプト軍が最も遠くまで遠征した例である。いうのは彼らの国内では例の記念碑が建っているのを実見できるが、それを越えると記念碑など全く見当たらないからである。

彼はそこから国に引き返したが、パシス河に達したとき、私には正確なことは云えないのだが、セソストリス王は軍の一部をさいてその地に入植させたようだ。あるいは一部の兵たちが王の放浪に厭気がさし、パシス河畔に住みついたのかもしれない。

104.というのも、他人から聞く前から私は知っていたので云うのだが、コルキス人は明らかにエジプト人である。この考えを思いつくと、私は双方の国びとたちに問い質してみたところ、コルキス人はエジプト人のことをよく覚えているが、エジプト人はコルキス人ほどには彼らのことを覚えていないことがわかった。

エジプト人は、コルキス人はセソストリスの遠征軍の一部だと思っていると云った。私がそのように推定した根拠の一部は、コルキス人が色黒で、縮れ毛だということにある。しかしほかにもこのような人種がいることゆえ、これだけでは何の証明にもならないのだが、それよりもさらに有力な根拠になると私が考えていることは、コルキス人とエジプト人とエチオピア人だけが昔から割礼を行なっていることである。

フェニキア人とパレスティナのシリア人は、この風習をエジプト人から学んだことを認めているし、テルモドン河畔やパルテニオス河畔に住むシリア人、それに彼らの隣接地に住んでいるマクロネス人は、近年になってから、この風習をコルキス人から学んだと云っている。結局、割礼をしているのはこれらの民族だけで、そのやり方もエジプト人のそれと全く同じなのだ。

エジプト人とエチオピア人については、どちらが他から学んだのか、私には何とも云えない。この風習は明らかに非常に古くから行なわれているからである。エジプトと交通していることによって、ほかの国がその風習を学んだということは、次の事実が確かな証拠になると私は考えている。つまりギリシャと交流のあるフェニキア人は、この風習についてはエジプト人を見習うことをせず、子供たちに割礼をしない。

105.コルキス人がエジプト人に似ている点をもう少し話しておこう。それはこの人々とエジプト人だけが亜麻を同じ方法で栽培していることである。またそのすべての生活様式も言語も互いに似ている。なおギリシャ人の云う亜麻には名前が二つあり、コルキス産の亜麻をサルディニア亜麻(46)、エジプト産をエジプト亜麻と呼んでいる。

(46)コルキス産の亜麻とサルディニアを結びつける根拠はないようだ。(Σαρδωνικόν=Sardonikon は当然サルディニアとなるが)コルキスという発音がサルディニアという発音と似ていたのかもしれない。

106.エジプト王セソストリスがいろいろな国に建てた記念碑は、もはやそのほとんどを眼にすることがない。しかしシリアのパレスティナ地区で、私自身はその幾本かを確認した。それには先ほど話した碑文や女陰が刻まれていた。

またイオニアにも、岩に刻まれたこの人物の像(47)が二つある。ひとつはエフェソスからフォカイアに向かう途中に、もうひとつはサルディスからスミルナに向かう途中にある。

(47)これら二体の像はエフェソスからスミルナに向かう古代街道の近くにあるカラベルで発見されている。しかしその姿はエジプト人のそれではない。

双方の場所とも、像の高さは四キュービット半(二米)ほどで、右手には槍を、左手には弓をもち、その他の装備もエジプト様式やエチオピア様式である。

そして片方の肩からもう一方の肩にかけて、胸にはエジプトのヒエログリフ(神聖文字)で次のごとく文字が刻まれている・
「われこそは、この地をわが双肩によりて得たり」
しかしこの人物が誰か、どこから来たのかは記されていない。ほかの場所の像にはしるされているのだが。これらの像を見た人の一部は、これをメムノン(*)の像だと推測しているが、彼らは真実から遠く隔たっている。

(*)ホメロスのオデッセイア(第四歌百八十八節、第六歌五百二十二節)に登場するエチオピア王。トロイの応援に駆けつけた。

107.司祭たちの語るところによると、このエジプト人セソストリスが、征服した国々で捕らえた多くの住民を従えて帰国の途中、ペルシオンのダプナイに着いたときのことだった。エジプトの統治をまかせていたかれの弟が、かれとその息子たちを饗宴に招き、その屋敷のまわりに薪を積み上げ、火を放ったのである。

これに気づいたセソストリスは、連れてきていた妻にすぐ相談した。すると妻は、六人いる息子のうち二人を火の上にねかせ、燃えている火の上を渡る橋にすれば、自分たちは二人の身体の上を歩いて脱出できるだろうと云った。セソストリスはその通り実行したので、二人の息子は焼死したが、残りの息子は父とともに生き延び、助かったという。

108.エジプトに帰ったセソストリスは弟に報復したのち、征服地から連れ帰った大勢の捕虜を次のように使役した。

この王の統治下で、多数の巨石をヘパイストス神殿までひいて運んだのは、このときの捕虜たちだった。また現在エジプトにある運河はすべて捕虜たちを使って開墾したものである。その結果、はからずもこれまでは全土が馬や荷車の通行に適していたのが、これ以後まったく適さなくなってしまったのである。

このあとエジプトは、平坦な国土であるのに馬や荷車を使用できなくなってしまった。それは、あらゆる方向に走る無数の運河のためである。

この王が国中に運河を縦横に走らせた理由はこうだ。ナイルの流域からはずれた奥地の住民は、氾濫のあと水がひくたびに、いつも水が不足し、井戸からくんだ塩気の強い水を飲むしか法がなかったからである。エジプトに運河が縦横に走っているのは、このためである。

109.司祭たちの話によると、この王はすべてのエジプト人に同じ面積の方形の土地を与え、これによって年貢を納める義務を課し、国の歳入とした。

河によって所有地の一部を失ったときには、王のもとへ出頭し、事情を報告することになっていた。すると王は人を送ってそれを確かめ、そのうえ失われた土地の広さを測らせ、それ以後は最初に決められた税に応じて年貢を納めさせた。

幾何学はこのようにして見いだされ、その後ギリシャヘ渡ったものと、私は考えている。というのも、ギリシャ人は土地の測量術やポロスやグノーモン(gnomon)という日時計、一日を十二分割すること(*)などをエジプト人からではなく、バビロン人から学んでいるのだから。

(*)ここでいう「一日」は日の出から日没までのことだろう。

110.またセソストリスはエチオピアをも支配した、ただひとりのエジプト王だった。かれは自分の名声を記念するために、ヘパイストス神殿の前に、自分と妃の姿を模した、三十キュービット(十四米)もの二体の石像と、四人の息子のために、それぞれ二十ミュービット(九米)の石像を残している。

その後ずいぶんたってから、ペルシャ人ダリウス王がこの像の前に自分の像を建てようとしたが、ヘパイストスの司祭は、ダリウスにはエジプト人セソストリスに匹敵するほどの業績がないといって、それを許さなかった。その司祭の言では、セソストリスはダリウスに劣らぬほど多数の民族を征服したうえに、スキタイ人をも従えたのだが、ダリウスはスキタイを征服できなかったのだ。

それゆえ、セソストリスの業績に及ばないダリウスが、その人の像の前に自分の像を建てるべきではないというのだった。ダリウスは司祭のいうことを諒解したという。

111.セソストリスの歿後、司祭たちの言ではその子ペロス(48)が王位をついだという。この王は軍を率いる遠征は行なわなかったが、次のようなことで盲目になったといわれている。ある年ナイルが、その水位が十八キュービット(八米)にもなる、かつてないほどのひどい氾濫をおこし、水が耕地に押しよせ、強い風に吹かれて水面は荒れ狂った。

(48)プトレマイオス朝時代の歴史家で司祭のマネト(Manetho)の残した歴代王のリストにはこの名がない。おそらくペロスというのは名称ではなく、ファラオを意味する称号だろう。

言い伝えによると、この時この王は無謀にも槍を手にとると、逆巻く流れの真ん中にこれを投げ込んだという。その直後、かれは眼の病にかかり盲目になってしまったのだ。こうして盲目のまま十年が過ぎ、十一年目となったとき、ブトの街からひとつの神託が届いた。それにはかれの処罰が終わったことと、夫のほかには男を知らない女の尿で眼を洗えば、再び見えるようになるだろうと告げられていた。

そこでポロスはまず自分の妃でためしてみたが、依然として見えないままだったので、次々と多くの女をためしていった。そしてついに見えるようになった王は、視力がもどった女を別として、これまでためしてきた女たちを、今日「赤土(エリトラボロス)」と呼ばれている街に集め、女たち全員を街とともに焼き払ったという。

そして視力の回復に効のあった女は、自分の妃としてむかえ入れた。盲目から解放されたのち、彼は名の知れた神殿に軒並み多くの奉納品を献じたが、中でも語るに足るものは、太陽神(ヘリオス)の神殿へ奉納した、見事な二体の石造オベリスクである。これは各々が百キュービット(四十五米)の高さで、幅は八キュービット(四米)、ともに一つの岩石で作られている。

112.伝承によると、ペロスの後を継いだのはメンフィスの出身で、ギリシャ語ではプロテウスという名の人物だった。そこでメンフィスには、ヘパイストス神殿の南方に、プロテウスを祀る派手な造りのよく調えられた神殿がある。そしてこの神域のまわりにはテュロスから来たフェニキア人が住んでいて、この地一帯が「テュロス人陣営」と呼ばれている。

さてこのプロテウスの神域の中に、「異国のアフロディテ」と呼ばれている神殿がある。私の推測では、これはティンダロスの娘ヘレネを祀る神殿である。その理由のひとつは、ヘレネがプロテウスとともに住んでいたという伝承を聞いていたことと、ひとつには、この神殿に「異国の」という名がつけられていることだ。ほかのアフロディテ神殿で、この名を冠せられたものは、ひとつとしてないのだ。

113.私が司祭たちに訊ねたところ、彼らはヘレネの物語(*)を語ってくれた。アレクサンドロス(パリス)はスパルタからヘレネを連れ去り母国(トロイ)に向かって船出したが、エ-ゲ海で船は暴風に見舞われ、エジプトの海へ流されてしまった。そして風が吹きやまぬまま、エジプトのナイルの河口で今日カノボス河口と呼ばれている場所に漂着した。ここはタリケイアの街の近くである。

(*)ヘレネの夫は伝説上のスパルタ王メネラオス

この海岸にはヘラクレスの神殿があり、これはまだ残っている。この神殿は、誰の奴隷であろうと、ここへ逃げ込み、その身を神に捧げる証の神聖な焼き印をつけてもらえば、その者に触れることは許されなくなるのだ。この風習は太古から今日にいたるまで、変わることなくずっと続いている。

アレクサンドロスの従者たちの一部は、この神殿の慣習を知るとかれのもとから逃げ出し、この神の庇護をもとめてその身を投じた。そしてアレキサンドロスに鉄槌を下そうとしてかれを告発した。従者たちはヘレネに関することや、メネラオスに対する悪業などを一部始終語った。そして神殿の司祭たちばかりでなく、この河口の警備長官であるトニスという男にも、この話を聞かせたのだった。

114.この話を聴いたトニスは、メンフィスのプロテウスのもとへ急使を送って次のように報告させた。

「当地にトロイ族の異国人がやって来ております。この者はギリシャにおいて不遜なる行ないに及んだ節があります。それは自分を宴に招いてくれたあるじを欺してその妻をかどわかし、あまつさえ莫大な財宝を掠め取って来る途中、風に流されて殿の国へ到来した次第であります。さればこの者、なんら手をかけず出航させましょうか、または所持品を没収いたしましょうか?」

プロテウスは次のように伝えさせた。
「何者か知らぬが、自分をもてなしてくれた者に不埒を働くとは。その者を捕らえて予のもとへ連れて参れ。そやつが何と云うか聴いてやろうではないか」

115.これを聞いたトニスはアレクサンドロスを捕えてその船団を抑留し、この男とヘレネ、その財宝、嘆願者たちをともにメンフィスヘ送った。

一同が到着すると、プロテウスはアレクサンドロスに対して、汝は何者でどこから出航してきたのかと訊ねた。アレクサンドロスは自分の家系を語り、次に母国の名も告げ、どこから出航してきたかを語った。

そこでプロテウスはどこでヘレネを手に入れたのかを訊ねたが、アレクサンドロスが曖昧なことをいって本当のことを云わずにいると、歎願者たちが反論し、かれの悪事を洗いざらい話した。

結局プロテウスは次のような決定を彼らに下した。
「風に流され、わが国に漂着した異国の者は決して殺さぬと、予が心に決めておらなんだとしたら、予はかのギリシャ人に代って汝を罰したことであろう、この極悪人めが。お主は歓待されたことを棚に上げ、この上なき不埒な行ないを働いておる。接待主の妻を掠め取りおって。

なおそれに飽きることなく、女とともに出奔しおった。いや女ばかりでなく、饗応主の屋敷から財宝をも奪ってくるとは。

そこでじゃ、予は異国の者をあやめぬと決めておるが、この女と財宝はお主に持って行かせることは許さぬ。これらは、お主をもてなしたギリシャ人が来て、持ち帰りたいというまで予が預かっておく。お主とその船員どもは三日のうちにわが国を去り、他国を目指すよう言い渡しておく。これに従わざれば、敵と見なすぞ」

116.司祭たちは、ヘレネがプロテウスのもとへ来たいきさつを右のごとく話してくれた。私が思うには、ホメロスもこの物語を知っていたことだろう。しかしこの物語は、かれが用いたほかの物語ほどには叙事詩に適さなかったので、これを使わなかったものの、同時にこの話を知っていたことは明らかにしている。

それはかのイリアスの一節においてアレクサンドロスの放浪を語り、そしてヘレネとともに進路からはずれてさまざまな地を漂泊したことを述べ、中でもフェニキアのシドンヘ行ったことを語っているが、ほかのどの部分においても、それを訂正してはいないからだ。

このことは、「ディオメデスの武勲」の一節に述べられていて、以下がその詩文である。

 あでやかなる刺繍(*)の晴れ着、これにあり。
  こはそも、シドンのおなご衆の作にて
  神のごときアレクサンドロスその人が
  大海原を渡りてシドンより伴ひし、おなごどもなり。
  そは、高貴なる血筋のヘレネをば連れ帰る船旅途上のことなり。
   イリアス第六巻;二百八十九~二百九十二行

(*)「色とりどりの」としている訳者もある。

ホメロスはオデッセイアにおいても、これに触れている。

  ゼウスの息女(ヘレネ)は、かくのごと効能あらたかなる妙薬を
  携えておりしが、これはトンの妻女にしてエジプト女なる
  ポリダムナから与えられしものなり。
  かの国の豊穣なる大地は薬草を産することいとあまたにして、
  混ずれば良薬となるもの多しといえども、毒薬となるものも多し。
   オデッセイア第四巻;二百二十七行~二百三十行

そしてメネラオスもテレマコスに向かってこう語っている。

  一刻も早い帰国を欲する吾輩を、
  神々は依然エジプトに留めおきめさりぬ。
  牛百頭の生贄を神々に捧げ祀ることを怠りしゆえに。
  オデッセイア第四巻;三百五十一~三百五十二行

これらの詩文から、アレクサンドロスがエジプトに放浪したことをホメロスが知っていたことは明らかである。シリアはエジプトと境をなしていて、シドンの街のフェニキア人はシリアに住んでいるのだから。

117.これらの詩文と文節から、叙事詩「キュプリア」(*)がホメロスの作ではなく、ほかの誰かの作であることは全く明らかである。キュプリアでは、アレクサンドロスはヘレネとともにスパルタを出帆し、追い風と波静かな海のおかげで三日目にイリオン(トロイ)ヘ着いたとしているが、イリアスでは、かれはヘレネを連れて進路をはずれて漂流したとされているからだ。ホメロスとキュプリア叙事詩のことはこれまでとしよう。

(*)トロイ戦争を描いた「叙事詩環」の最初に位置するもの。トロイ戦争の発端と初期の状況を描いていて、「イリアス」はこの後に続く。ただし、作られたのは明らかに「イリアス」の方が早い。作者についてはスタノシスそのほかの人物が推定されている。

118.イリオンで起きた事績に関するギリシャの伝承が偽りかどうかを私が問い質したところ、そのことについてはメネラオスその人から聞き取って知っていると彼らは返答し、次のように話してくれた。

ヘレネが掠奪されたあと、メネラオスに加勢したギリシャの大軍がトロイの国に至り、その地に上陸し陣を構えると、イリオンの城に使者を送ったが、メネラオス自身もそれに同行した。

使者の一行が城内に入ると、彼らはヘレネの返却およびアレクサンドロスがメネラオスから掠奪した財宝の返還と悪業に対する賠償とを要求した。しかしこの時のトロイ人の返答は、その時以来宣誓したりしなかったりしたのと同じ陳述だった。すなわちヘレネも、彼らが訴えている財宝も保持しておらず、それらはすべてエジプトにあると返答したのである。それゆえ、彼らは、エジプト王プロテウスのもとにあるものに対して賠償することは全くできないと云ったのだ。

ところがギリシャ側はトロイ人に愚弄されたものと見なし、トロイを攻囲して征服した。そして城壁を突破したものの、ヘレネの姿は見当たらず、以前と同じ話を聞かされたので、ギリシャ人はさきの話を信じることとなり、メネラオスをプロテウスのもとへ送りだしたのである。

119.エジプトに着いたメネラオスは、河をさかのぼってメンフィスへゆき、事態の真相を話したところ、盛大なもてなしを受け、無傷のヘレネと、その上自分のものだった財宝も返してもらった。

これほどの待遇を受けたメネラオスではあるが、かれはエジプト人に対して不埒な罪を犯したのである。当人が出帆しようとしたところ、悪天候によって足止めされ、これが何度も続いたので、非道にも土地の子供二人を捕らえて生贄としたのだ。

この行為が知れわたると、かれは憎まれ追跡されることとなり、自分の船団とともにリビア目指して一目散に逃走した。しかしそこからさらにどこへ向かったか、エジプト人は話せなかった。司祭たちが話してくれたことは、これまでの話の一部は調べてわかったことで、自国内で起ったことに関しては確実なことだという。

120.エジプト人司祭たちはこのように話してくれたが、ヘレネに関する話の内容は、私自身も同じ考えだ。その理由はこうだ。ヘレネがイリオンに滞在していたなら、アレクサンドロスが納得しようがしまいが、ヘレネはギリシャに引き渡されたはずだ。

なぜなら、プリアモスや彼の周辺の者たちも、アレクサンドロスをヘレネと同居させるために、わが身、わが子、自分の国まで危機にさらそうとするほど正気を失っていたとは考えられないからである。

たとえ最初に彼らがその考えでいたとしても、ギリシャ軍との戦のたびに多くのトロイ人が斃れるばかりか、ー叙事詩を信じて云うならープリアモス自身の息子たちも、二人と云わず三人あるいはそれ以上が戦のたびに討ち死にすることになれば、私が考えるに、結局は、たとえヘレネがプリアモスの妻であったとしても、差し迫った危機を乗り越えるために、これをギリシャに返したはずだ。

そのうえ、アレクサンドロスが王位継承者であれば、プリアモスはすでに老いていたことでもあるし、かれが実権を握っていたかもしれないが、実際にはそうではなく、アレクサンドロスより年長で人物も優れているヘクトルが、プリアモス亡きあとはその王位を継ぐことになっていたのである。また、この弟が原因で、とりわけヘクトル自身や全てのトロイ人に大きな危難が降りかかろうとしているときに、かれが弟の悪事を黙って見逃すはずがないのである。

とはいえヘレネがそこにいない以上、彼らがこれを返すことはあり得ず、しかも真実を語ったにもかかわらずギリシャ人は信じようとしなかった。ここで私の信じるところを云うなら、トロイ人の壊滅をもたらされた神の力が、大罪には大罰をもって返すという神の摂理を、これによって全人類に明らかに示され給うたのである。これが私の考えで、ここに述べておく。

121.彼らの話では、プロテウスのあとに王位についたのはランプシニトスだった。彼の名が残る遺跡はヘパイストス神殿の西の楼門だが、かれはこの楼門の前に高さ二十五キュービット(十一米)の二つの像を建てた。エジプト人は北側の像を「夏」、南側のものを「冬」と呼んでいる。そして「夏」と呼んでいる像には礼拝し、鄭重に扱っているが、「冬」と呼んでいる像に対する扱いはこれと全く逆である。

121A. 彼らの云うには、この王は莫大な量の銀を所有し、あとに続くどの王も、それを凌ぐことも、近づくこともできないほどだった。王はこの財宝を安全に保管するために石室を築いた。それは一方の壁が屋敷の外壁となっていた。ところがその作業をした職人が、抜け目なくも壁の石をひとつ、一人か二人で動かせるように細工したのである。

石室が完成すると王は財宝をここにおさめた。そして時が過ぎ、その職人が息を引き取る間際のこと、二人の息子を呼びよせ、彼らが安逸に暮らせるように準備したことを、すなわち王の宝物殿を建てる際に施しておいた細工のことを話した。そして石の動かし方をしっかり説明してから、その位置を教え、これを心に刻み込んでおけば、王の財宝は思い通りになるだろうと話した。

その職人が死ぬと、息子たちはさっそく仕事にとりかかった。夜にまぎれて王宮に忍び入り、建物の中の石を難なく探り当てて取りはずし、多くの財宝を盗み出したのである。

121B.そして王がたまたま蔵を開けてみると、宝の容器がいくつかなくなっているのがわかってびっくりした。しかし部屋の封印は破られておらず、蔵もしっかり閉じられているので、誰の仕業かはわからなかった。ところが二度目三度目と蔵を開けるたびに財宝が減っているので(盗賊は盗みをやめなかった)、かれはワナをいくつも作らせ、これを宝の容器のまわりに仕掛けたのである。

盗賊たちは以前のようにやって来て、一人が蔵の中に忍び入り、容器に近づくとたちまちワナにかかってしまった。かれは、自分が厄介なことになっているのがわかると、すぐに兄弟を呼んで事情を説明し、中に入って自分の首を切り落とせと告げた。さもないと顔を見られて身元がばれ、お前も破滅する怖れがあるというのだった。云われた兄弟は、もうひとりの云うことがもっともなことと思い、促されるままに兄弟の首をはね、石を元どおりにすると、その首を持って家へ帰った。

121C.その夜が明けて王が蔵に人ってみると、ワナには首のない盗賊の死骸がかかっているのに蔵には異常がなく、出入りした痕跡もないのを見て驚いた。困惑した王は、盗賊の死骸を壁に吊して見張りをつけ、死体を見て嘆き悲しむ者がいれば、その者を捕らえて自分のもとへ連れてこいと命じた。

吊された死骸を見た盗賊の母はひどく悲しみ、胸に一物かかえる態で、生き残った息子に云った。すなわち何とか工夫をこらして兄弟の死体をおろし、それを自分のもとへ持って帰るように言いつけたのだ。そしてもし言いつけに従わないのなら、自分が王のもとへゆき、息子が財宝を持っていることを訴え出るとおどした。

121D.生き残った息子を激しく責め立てる母親に対し、その息子は言葉をつくしてはみたものの、母親の気持ちを変えることができず、とうとう次のような企みを思いついた。牽き具をつけた数頭のロバを用意し、これに酒を満たした革袋をいくつものせ、ロバを牽いて出かけた。そして死体を見張っている番人の近くまでくると、数個の革袋の口を縛っている紐を引っ張ってゆるめた。

酒が流れ出すと、男はどのロバを最初にかたづけたらよいか迷う態で、自分の頭を叩きながら大声をあげた。一方で番人たちは酒がふんだんにこぼれ出るのを見るや、しめたとばかりに器を持ってきて流れ出る酒を受けようとして路に走り出た。

男は怒ったふりをして一同に悪態をついていたが、番人たちがなだめると、気持ちが落ち着き怒りも収まったように装い、最後にはロバを道端に牽いてゆき、牽き具を元通りにした。

そのあと、さらに話をしているうちに冗談をいって男を笑わせる者も出てきたところを見計らい、男は酒袋の一つを番人たちに与えた。彼らは早速その場に腰をおろして飲もうとしたが、その男にも、ここにとどまって一緒に飲もうといった。当然のこと男はそれに応じてそこに腰をすえた。

飲んでいるうちに、彼らは男に親しげに話しかけるようになり、そこで男はさらにもうひとつの革袋を差し出した。たらふく酒を飲んだ番人たちは酔いつぶれ、眠気に負けて飲んでいたその場所で眠り込んでしまった。

夜も更けていたので、男は兄弟の死体をおろしておき、番人たちを侮辱するために、ひとり残らずその右頬の髭を剃ってしまい、死体をロバにのせて家へ牽いて帰つた。こうして男は母に命じられたことを果したのである。

121E.盗賊の死体が盗まれたという報告をうけた王は怒りをつのらせ、このような企らみを実行したのが何者であるか、何としても見つけだしたいという思いに駆られ、次のようなことをしたと彼らは云うのだが、これは私にはとうてい信じられないことだ。

なんと王は自分の娘を女郎屋に送り、来る客を全て受け入れ、床につく前に、これまでの人生で一等巧妙でしかも一等悪辣なことは何だったか聞き出し、例の盗みのことを話す者がいれば、その男を捕らえて逃がさぬようにせよと言い含めたのだ。

娘は父の言いつけどおりにしていたが、盗賊の側では、この女がなぜそんなことをしているのかを知ると、王の策略を出し抜いてやろう思って次のようなことをした。

男は真新しい死体の片腕を肩から切り落し、これを上着の下に隠し持って王女のもとへ向かった。そして他の者たちと同じことを問われると、一等非道な行ないは王の宝蔵でワナにかかった兄弟の首をはねたことで、一等巧妙な話といえば、番人どもを酔わせて吊るされていた兄弟の死骸をおろしたことだと話した。

それを聞いた王女が男をつかまえようとしたが、盗賊は暗闇の中で死骸の腕を女の方へ差し出したので、王女は男の腕をつかんだものと思いこみ、その腕をしっかり握って放さずにいた。ところが盗賊はその腕を女に突き放して出入り口から去って行ったという。

121F.このことも王の耳に入ると、王はその男の巧妙なことと大胆不敵に驚嘆し、とうとう全て街へ布告を送り、盗賊本人が王のもとへ出頭すれば罪をゆるし、莫大な褒賞を与えることを約定した。

盗賊がその布告を信じて王のもとに伺候すると、ランプシニトスはかれを大いに賞賛し、誰にも劣らぬこの上なき知恵者であるとして、かの王女を妻に与えたという。そして王が云うには、エジプト人はあらゆる民族のなかで最も優秀であるが、この男はそのエジプト人の中でも飛び抜けて智に長けているという。

122.彼らの話では、その後この王はギリシャ人がハデスと云っている地下の冥府へ生き身のまま降りてゆき、ここでデメテルとサイコロ遊びをし、勝ち負けを繰り返したのち、この女神から黄金のハンカチをもらって帰ってきたという。

ランプシニトスの冥府への行き帰りが発端となって、彼らが云うにはエジプトで祭が催されるようになったという。彼らが今でもこの祭りを祝っていることは私も知ってはいるが、その祝いの起源が果してこのことなのかどうか、私には云えない。

祭の当日には、司祭たちは衣を一枚織り上げ、そして司祭のうちのひとりを細帯で目をふさぎ、その衣を着せてデメテル神殿に通じる道まで連れて行き、自分たちは引き上げる。細帯で目隠しをされた司祭は、ここから二頭のオオカミ(49)に導かれて街から二十スタディア(四粁)離れたデメテル神殿へゆき、またオオカミに連れられて神殿から再び同じとことろへ帰ってくると、彼らは云うのである。

(49)オオカミはエジプトの遺跡にある死者の守護神アビヌスを表している

123.このようなエジプト人の話は、信じられると思う人はこれを受け入れればよい。私としては、各地の人々から聞いた話を、そのまま書きしるすことが、この歴史譚全体を通しての基本姿勢であることをわかっておいてもらいたいと思うものである。

さてエジプト人のいうところでは、デメテルとディオニソス(50)が冥府の支配者であるという。また次の教義を唱えたのもエジプト人が最初だという。すなわち人間の霊魂は不滅で、肉体が亡びると霊魂は次に生れてくる他の生き物に入るという説である。そして霊魂は陸、海、空のあらゆる生物を一巡すると、再び生れくる人間の体内に入るが、それが完了するには三千年かかるという。

(50)イシスとオシリス

ずっと以前にもあるいはずっと後になってからも、この教義があたかも自分の考え出した説であるかのように唱えているギリシャ人がいる。私はその者たちの名を知っているが、ここには書かないでおく。

124ランプシニトス王の時代までは、エジプトは全体によく統治され、国は大いに栄えたが、そのあとに王となったケオプス(クフ)は、国民をきわめて悲惨な状態に陥れた、と司祭たちは語った。かれは初めにすべての神殿を閉鎖して誰も生贄を捧げられないようにし、次いでエジプト国民全員を自分のために強制的に働かさせたという。

かれは、ある者にはアラビア山中の石切場から石をナイルまで運搬する労役を命じ、またある者には船で運ばれて河を渡ってきた石を受け取り、いわゆるリビア山脈まで牽いて行く課役を命じた。

国民は常に十万人ごとに三ヶ月交替で労役に服した。そして十年間というもの、国民は石を牽いて行くための道路普請に携わった。私が思うに、この労役はピラミッド(51)建設にくらべてさほど軽いとはいえない労働である。

(51)クフ王の大ピラミッド

その道は全長二十五スタディア(四千五百米)、幅十オルギュイア(十八米)、高さは最も高いところで八オルギュイア(十四米)あり、敷石は磨かれ、さまざまの動物の形が彫られている。そしてこの十年間には道路建設のほか、ピラミッドの立つ丘の中腹に地下室も造らせた。これは王が自身の玄室として造らせたもので、ここにナイルから水路をのばし、周囲に水を満たした。

ピラミツド自体の建設には二十年を要した(*1)。ピラミッドの底は正方形で、一辺の長さは八プレトロン(二百四十米)、高さもこれと同じで(*2)、すべてが磨かれた石できっちり合わせて造られている。またどの石も三十フィートを下る長さのものはない。

(*1)二千十三年に発見された、ピラミッド建造に関わった監督官であるメレルの日誌から推定されるところでは、このピラミッドの建造期間は二十六年~二十七年らしい。
(*2)正確な大きさは、底辺が各二百三十米、高さ百四十七米の四角錐。

125.このピラミツドは階段状の構造物によって建造される。これはクロッサイ(胸壁)とも、ボミデス(祭壇)とも呼ばれている。最初にこの階段を完成させてから、短い木材を梃子にして(*1)残りの石を揚げるのだ(52)(*2)。

(*1)Godleyは「梃子(lever)」と訳しているが、ほかの三名の英訳者はいずれも「短い木材で造った装置(machine)」としている。松平、青木両氏ともにこれを「起重機」としているが、具体的な形状はわからない。
(52)すなわち石を階段状に積み上げ、そのあとでピラミッドを滑らかな斜面にするのである。ケオプス(クフ)、ケフラン(カフラー)、ミケリノス(メンカフラー)が建造したピラミッドはカイロの近くのギザにある
(*2)クフ王のピラミッドが建造されたのは紀元前二千五百年頃。ヘロドトスの時代から二千年ほど前になる。

まず石を地面から階段の一段目に揚げる。そこに石が揚げられると、一段目に備えつけられている梃子を用いて次の段に石を揚げる。

それぞれの階段には梃子が備えられていたようだが、あるいは梃子は一台だけで簡単に移動できるもので、順に階段を移動させたのかもしれない。二通りの方法が伝えられているので、そのままをここに述べておく。(*)

(*)現在では、傾斜路上を滑らせて積み上げる方法が有力視されている。

ピラミッドは、最初に頂点を完成し、つづく下の部分を仕上げるという手順を踏み、最後に一等下の底部を完成させた。

ピラミッドには(53)エジプト文字で、大根、玉葱、ニンニクを労働者にどれほど支給したか書かれている。通訳がその文字を読んで聞かせてくれたが、一千六百タラントンの銀が支払われたということは確かに聞いた。

(53)「ピラミッドの中には」とも読める。

もしそのとおりだとすると、作業に用いた鉄や、労働者の食物や衣服に要した費用はどれほどの金額になったことだろう。さきほど話した築造年月と、石を切り出して運び、地下の水路を掘り進むにも、長い年月が費やされたと推察されることも考慮すれば。

126.ケオプスは金に窮するあまり悪逆非道に走り、自分の娘を女郎屋に送り、金を稼がせるようなことまでした。その額については彼らは何も云ってくれなかったが。娘は父が指示した額の金を工面したが、自分自身のためにも記念となるものを残したいと思い、やって来る客それぞれに、自分のために建設用の石をひとつ寄贈してほしいと頼んだという。

彼らの話では、大ピラミツドの前面にある三つのピラミッドのうち、中央のものは、この石が使われているという。このピラミツドの各辺の長さは一プレトロン半(四十五米)である。

127.エジプト人が云うには、ケオプスの統治は五十年続き(*)、かれの死後はその弟ケフラン(カフラー)が王位を継いだが、この王も何から何までケオプス流だった。ピラミツドも造つたが、それは兄のものより小さい。これは私が自分で測って確かめた。

(*)現在の有力説では,クフ王の在位期間は二十七年前後。

このピラミッドには地下の玄室もなく、ほかのミラミッドに見られるナイルからの水路もなく、従って彼らの云うケオプス本人の眠る島を取り巻くような掘割りもない。

またこのピラミッドはほかのピラミッドと同じ規模で建造されているが、高さは四十フィート低い。そして大ピラミッドの近くにあるが、その最下層には色とりどりのエチオピア石が配置されている。この二つのピラミッドはともに百フィートほどの高さの丘の上にある。ケフランの統治は五十六年だったと彼らは云った。

128.かくて彼らはこの百六年間をかえりみて、この期間のエジプトはひどく悲惨な状態で、神殿もこの長い年月にわたって閉鎖され、ついぞ開くことはなかったと云っている。エジプト人は、この二人の王を忌み嫌うあまり、この王たちの名前を口にしたがらない。ピラミッドを呼ぶときも、その当時この地で牧畜を営んでいたピリティスという牧童の名で呼んでいる(54)。

(54)ヘロドトスは、『遊牧民(ヒクソス』による支配を物語るときに用いている。ヒクソスはB.C.二千百年~一千六百年頃、下エジプトに居住していた。

129.次のエジプト王は、と彼らが云うには、ケフランの子ミケリノス(メンカフラー)だが、この王は父の行ないを良しとせず、閉鎖されていた神殿を開き、悲惨をきわめていた国民を解放して生業につかせ、生贄の神事も許した。またあらゆる王の中で最も公正な裁きを下したという。

このような行ないによって、エジプトの全支配者のうちで、かれが最も高く賞賛されている。その裁定が公正であったことだけでなく、判定の結果に納得しない者には、ミケリノスは自分の資産から、その者の損失を補ったという。

麾下の臣民に対して仁慈深く、またそれを心がけていたミケリノスだが、そのようなかれに不幸がふりかることとなった。最初の不幸は、家族の中でたったひとりの子である娘が死んだことだった。この悲運に深くうちひしがれたミケリノスは、とびきり豪華に娘を葬いたいと思い、金箔を貼った木製の牛を作り、それを中空にして、そこへ娘の遺体をおさめたという。

130.この牛は地中に埋められることなく、サイスの街にある王宮内の、見事に飾られた部屋に安置され、私の時代でもまだ見ることができた。その前面には日ごとあらゆる種類の香が焚かれ、そばには毎晩夜を徹して燈明が灯された。

この牛の入っている部屋に近い別室には、ミケリノスの側室たちの像が据えられているとサイスの司祭たちが語っている。実際、そこにはおよそ二十体の巨大な木製の女の裸体像が据えられている。その名を教えられたものは別として、誰が誰とはその名を示すことができない。

131.ところがこの牛と巨大な木像については、ある人は次のような話を伝えている。ミケリノスは自分の娘に魅せられたあげく、無理矢理に犯してしまったというのだ。

彼らが云うには、その後娘は悲歎のあまり首をくくり、ミケリノスは娘をこの牛の中に葬ったのだが、娘の母親は、娘を父の手に渡した侍女たちの腕を切り落したという。そのため、彼女らの像は、生きていたときと同じ状態になっているのだという。

しかしこの話は、ことに木造の腕に関してはバカげていると私は思う。実のところ、像から腕が抜け落ちたのは老朽化によるものだと、私はこの眼で見て確かめているし、私の時代においても、その腕は像の足もとに転がっているのが見えていた。

132.この牛は紫の布で覆われているが、頭と首だけは見えていて、これには分厚い黄金がかぶせられている。また角の間には太陽に似せた黄金の球体が載せられている。

牛は立たずにひざまづき、大きさは生きている大きな牛ほどである。この牛は、エジプト人が神を哀悼する儀式のとき、毎年一度安置室から引き出される。ただ、私はこのような場合、神の名前(*)を口にするのを控えることにしているので、悪しからず。

(*)オシリス

このようにその牛は外に持ち出されるのだが、彼らが云うには、王女が息を引き取る間際、一年に一度は太陽を拝ませてくれるよう、父のミケリノスに頼んだからだという(55)。

(55)牛を崇拝するのは明らかにイシス崇拝である。これはニルの名でサイスに祀られている。

133.娘の悲運に続き、次のことがこの王にふりかかった。それはブトの街から届いた神託で、王の寿命はあと六年で、七年目には死を迎えるという内容だった。

王はこれに憤慨し、神を非難する伝言を持たせて神託所へ使者を送った。それには、自分の父と叔父は神殿を閉鎖して神々を軽んじ、その上人々を破滅に追いやったにもかかわらず長命だった。ところが神を深く敬う自分がかくも早く死を迎えねばならないというのは理不尽だといったのだ。

すると第二の神託が届き、彼の人生が早く閉じるのは、まさにそれが原因だというのだった。つまりエジプトは百五十年にわたって辛酸をなめるべきであったのに、かれはその運命に逆行するふるまいをしたというのであった。かれの前の二人の王はそのことをわかっていたが、かれはそれを理解していなかったという。

これを聞いたミケリノスは自分の命運は定まったものと観念した。そこで王はあまたの燭台を作らせ、日が暮れるとこれに火を灯し、夜を日についで酒と歓楽に耽り、また沼沢地から森林地帯にいたるまで、享楽に適した場所があれば、どこであれ徘徊してまわった。

なぜかれがこんなことをしたかというと、夜を昼に変えることで六年という余命を十二年に延ばし、神託が偽りであることを証明するためだった

134.この王もピラミツドを残したが、父のものよりもはるかに小さく、底部の正方形の一辺が二百八十フィートで、半分はエチオピア石で造られている。ところでギリシャ人の中には、このピラミッドは娼婦のロドピスが建造したという者があるが、彼らは間違っている。

実際、ロピドスが何者であるかを知らずに、彼らがこのようなことを言っていることは、私にははっきりしていて、知っていたなら、勘定できないほど巨額の資金を費やしたピラミッドの建造が、彼女の事績であるというはずがないのだ。またロドピスがその名を馳せたのはアマシス王の時代であって、ミケリノスの時代ではないことを知らないのもはっきりしている。

ロドピスは、ピラミッドを残した王たちの時代より遥か後年、トラキア生まれの人物で、ヘパイストポリスの子イアドモンというサモス人の奴隷女だった。そしてかの寓話作家イソップとは朋輩の間柄だった。イソップもイアドモンの奴隷だったことは確かで、これは次のことから明々白々である。

すなわちデルフォイ人が神託に従ってイソップ殺害の補償金の受取人を募る布告を数多く発したとき、誰も出頭しない中で、ただ一人出頭したのは、イアドモンの孫で名も同じイアドモンだったということから、イソップもまたイアドモンの奴隷だったことは明らかだ。

135.ロドピスはサモス人のクサンテスに連れられてエジプトヘ来ると、春を売って身すぎしていたが、ミティレネ人のカラクソスという人物に大金でもって身受けされた。このカラクソスはスカマンドロニモスの子で、かの詩人サッポーの兄弟である。

自由の身となつたロドピスはなおエジプトに住んでいたが、その魅惑を売り物にして大金を稼いだ。しかしその資産は、そのようなロドピスにとって充分すぎるほどであったろうが、あのピラミッドの建設費用をまかなうほどの額にはおよばなかっただろう。

いま現在でも、彼女の資産の十分の一がどれほどのものか、見たいと思えば誰でも見ることができるのだが、(そこから推定すると)彼女が莫大な富を持っていたとは云えない。なぜならロドピスは自身の記念物をギリシャに残そうと思い、ほかの誰も思いつかず、誰も神殿に奉納したことがないものを造らせ、これを自分の記念物としてデルフォイに奉納したのである。

ロドピスは自分の資産の一割を割き、牛を焼く鉄串をできるだけ多く作らせ、これをデルフォイに送った。この鉄串は現在でも本殿正面のキオス人が奉納した祭壇の後ろに山積みにされている。

ナウクラティスの遊女たちは格別に性的魅力に富んでいたようで、いま話題にしている女も、ギリシャ人なら誰でもその名を知っているほど有名である。また後にアルキディケという遊女がギリシャ全土でその名を歌われることになったが、ロドピスに並ぶほど名を馳せたとはいえない。

カラクソスはロドピスを自由の身にしたあと、ミティレネに帰ったが、サッポーはその詩の中でかれのことを手ひどく面罵している。ともかく、ロドピスについて語るのはこれまでとする。

136.司祭たちの話では、ミケリノスの後にエジプト王になったのはアシュキスである。この王はヘパイストス神殿の東の楼門を築いたが、この楼門は他のどれよりも格別美しく、壮大である。いずれの楼門もさまざまな造形の彫刻と多数の装飾が施されているが、この楼門はほかのものをはるかに凌駕している。

この王の治世中のこと、金のめぐりが極度に悪化したため、エジプト人は父親の遺体(ミイラ)を担保にして借金できるという法律が公布されたと彼らは語った。さらに追加の法律が制定され、それによれば貸し手は借り手の墓全体の権利を有するとされ、借り手が借金を返さないときには、本人が死亡したときには父祖の墓といわず、他のどんな墓にも埋葬してもらえず、そのうえ死亡した家族も墓に埋葬することを許されないという。

さらにこの王は自分の前に即位していたエジプト王たちを凌ぎたいと思い、煉瓦で造ったピラミッドを自らの記念物として残し、それに次の碑文を石に刻んだという。

 石のピラミッドより小さきとて吾を侮るなかれ。
 予があれらに勝ること、ゼウスが他の神々に勝ることに等し。
 泥中に棒を突き、付着せし泥をかき集め煉瓦となし、
 かくして吾を築きしものなれば。

以上が、この王の事蹟だった。

137.アシュキスの次に王位についたのはアニシスという盲人で、同じ名前の街の出身だった。この王の時代にエチオピア王サバコスが大軍を率いてエジプトに侵攻してきた(56)。

(56)プトレマイオス朝の司祭マネト(Manetho)の残した歴代王のリストでは、三人のエチオピア人王が第二十五王朝をなしていた。サバコス、セビコス、タルコス(旧約聖書ではタハルカ)の三名である。

そこで盲目の王は沼沢地帯へ避難したが、エチオピア人王は五十年間エジプトを支配した。この年月の間にサバコス王は次の業績を残している。

かれはエジプト人の犯罪者を死罪にすることは決して行なわず、罪の重さに応じて判決を下し、各々の罪人が生まれ育った街のために堤防に土を積み上げることを命じた。こうして街々は以前より地面が高くなった。

初めて堤防を築いたのは、セソストリス王(ラムセス二世)の時代に運河を開墾した者たちだったが、エチオピア王の統治下で再び街々が高くなったのだ。

私の考えでは、エジプトには土を盛って高くなった街がほかにもあるが、ブバスティスの街は中でも抜きん出ていて、ここにはこの上なく注目に値するブバスティス神殿もある。この神殿よりも大きくまた多くの費用をかけた神殿が他にもあるが、この神殿ほど見る者をして喜びを感じさせるものはない。なお、ブバスティスというのはギリシャ語ではアルテミスとなる。

138.この女神の神殿の造りは次の通りだ。入ロを別として、すべて島の上にある。ナイルから二本の水路が交叉することなく、それぞれの周りをめぐって神段の入ロに達している。水路の幅はそれぞれ百フィートあり、木陰に覆われている。

楼門は十ファゾム(十八米)の高さで、六キュービット(二百七十糎)の高さの素晴らしい彫刻で飾られている。この街のまわり全域からは、神殿の中央部まで見渡すことができる。というのも、街の地盤は盛り土によって高くなっているが、神殿は造営当時のままの地盤なので、上から眺めることができるのだ。

そして神殿は彫刻を施した石塀で囲われていて、その内側では巨木の木立が、女神像を安置している壮大な聖堂のまわりに繁っている。神殿は正方形で、一辺が一スタディア(百八十米)である。

入ロに向かっておよそ三スタディア(五百四十米)の間は敷石が並び、この道は市場を抜けて東に走っている。道幅はおよそ四プレトロン(百二十米)である。道の両側には天にも届くごとき大木がそびえ、これはヘルメスの神殿に通じている。これがブバスティス神殿のありさまである。

139.さて彼らの云うには、エチオピア王がエジプトから引き揚げたのは次の事情による。夢に一人の男が王の枕もとヘ立ち現れ、エジプト中の司祭たちを全て集めて、その者たちを真っ二つに切断せよと告げたので、王はこの国から飛ぶように退散したという。

王が云うには、自分が見た夢は、自分に神を冒涜させ、神または人間が自分に罰を下そうとするために神が示されたものと思ったという。自分はそんなことを実行するつもりはないが、神託の告げるところでは自分のエジプト統治期間も満了したことでもあるし、自分はエジプトを去る、と云ったそうである。

それは、かれがまだエチオピアにいた頃、その国の人々が伺いを立てた神託の告げるところでは、この王はエジプトを五十年間統治する運命にあるとされていたのだ。このことを思えば、このときにちょうどその期間が完了したことでもあるし、夢に見たことが気にもなっていたので、サバコスは自らエジプトをあとにしたのである。

140.さてエチオピア王が引き揚げると、盲目の王が沼沢地から戻ってきたと彼らは語った。かれは灰と土を盛って造った島で五十年間すごしたのである。エチオピア人たちの目をかすめてかれに食糧を届けたエジプト人たちに、灰も一緒に届けるように王が頼んだのだという。

この島はアミルタイオスの時代に至るまで、誰も発見できなかった。これ以前の諸王は、七百年以上もの間、この島を見つけ出せなかったのである。この島の名はエルボといい、四辺は各辺が同じ十スタディア(一千八百米)であった。

141.その次の王はヘパイストスの司祭で、名をセトスといった。この王はエジプト人戦士たちを無用なものと軽視して見下すばかりか、彼らの名誉を傷つけることまでした。それはこれまでの諸王がそれぞれの戦士たちに特別に与えていた十二アルラ(五百四十米四方)の土地を取り上げたのだ。

やがてサナカリボス王(57)がアラビア人とシリア人の大軍を率いてエジプトに来攻したが、エジプト人戦士たちはこれに応戦することを拒んだのである。

(57)センナケリブのこと。この王によるユダ王国のヒゼキヤ王攻撃は、エジプト進軍のときに行なわれた。ユダとイスラエルの王の歴史を記している二冊の旧約聖書うちの第二:第十八節を参照。

困惑した司祭は神殿内の聖堂に入って神像に向かい、自分に降りかかろうとしている苦難を悲痛な調子で歎き訴えた。嘆いているうち、いつしか眠り込んでしまった司祭は、神がかたわらに現われ、援軍を送ってやるゆえ、アラビア軍に立ち向かうも悲惨な目には遭わぬだろうと勇気づけてくれたように見えたのだった。

この夢を信じた王は、彼に従う気のあるエジプト人を率い、エジプトへの進入ロとなっているペルシオンに陣を構えた。かれにつき従った戦士はひとりもおらず、ついてきたのは商人や職人、それに市場の労働者たちだった。

敵軍がこの地にやって来ると、夜になって野ネズミの大群が敵陣に群がり、その矢筒や弓、さらに盾の取っ手まで囓り尽くしてしまった。そして翌日の戦では丸腰のまま逃走する羽目になり、多くが戦死した(58)。

(58)このくだりは、エルサレムでのアッシリア撃滅に関するヘロドトス流のヘブライ人危難譚だ。ギリシャではネズミは疫病の象徴である。イリアスでは、疫病を起こし、またそれ終結させたのはアポロ・スミンテウス(ネズミの神)である。ネズミが疫病を運ぶというのは昔から知られている。

現在ヘパイストスの神殿にはセトス王の石造が立っているが、その手には一匹の鼠がのっている。そしてこれには次の銘文が刻まれている。

 吾を見て神を怖れ敬うべし

142.ここまでの記録はエジプト人と司祭たちが語ったことである。彼らが私に語ったところでは、初代王の時代から最後の王であるヘパイストスの司祭まで三百四十一代にわたり、従ってその間、司祭長と王とが同じ人数だけいたことになる。

ここで、三世代が百年に等しいので、三百世代では一万年である。この三百世代に加え、残り四十一世代が千三百四十年となる。

すると合計は一万一千三百四十年になるが、彼らの云うには、この間神が人間の姿となって王についた例はないという。またそれ以前にも後にも、その他のエジプト王の場合にも一度もなかったという。

また彼らの語るところでは、この年月の間に、太陽がそれまでと逆方向から、すなわちいま日の沈んでいるところから昇ったことが二度あり、またいま日の昇っているところから日が沈んだことが二度あるという。しかしそのとき、エジプトでは何ら変わったことは起きず、また河や大地からの収穫、病気や死に関することまで、変わったことは何も起きなかったという。

143.かつて史家のヘカタイオス(59)はテーベで自身の系譜をさかのぼり、自分は十六代前に神につながっていると語った。ところがゼウスの司祭たちがかれに対して行なったのと同じことを、私も体験したが、私は自分の家系をたどったわけではない。

(59)ヘカタイオスはペルシャ戦争の直後に歿している

彼らは私を神殿内の壮大な広間にみちびき、巨大な木像の数々を見せ、その総数を数えたが、その数は彼らが前に云ったとおりのものだった。というのも、歴代の司祭長はそこに自分の像を生前から安置しているからである。

司祭たちは木像をひとつずつ指さして数え、いずれも父の後を継いでいることを示してくれた。彼らは一等最近に歿した司祭長の像からさかのぼって、すべての像を順にたどっていった。

こうしてヘカタイオスが自分の家系を過去にたどってゆき、十六代目の先祖が神だと主張したとき、司祭たちも自分たちの流儀で系譜をたどり、神から人が生れたというヘカタイオスの説はとうてい認められないといった。彼らは三百四十五体の像を順にたどり、そのどれもがいかなる祖先の神や神人ともつながらないこと、そしてそれぞれの像は「ピロミス」から生まれた「ピロミス」であると明言した。このピロミスというのはギリシャ語では「普通の人(*)」という意味である。

(*)英文は「good man」だが、これを「善良な人」とか「立派な人」とすると文脈とかみ合わないので「普通の人」とした。

144.こうして彼らは、そこに立っているすべての像が普通の人で、神と似ても似つかぬものであることを示した。

これらの男たちより以前、と彼らが云うのだが、エジプトの支配者たちは神であり、人間とともに居住した神はだれもいない。そしてこれらの神々のうちでひとりが、その時々に強権をもっていたという。神々のうちで最後にエジプト王となったのはオシリスの子オロスで、ギリシャではアポロと呼んでいる。この神がテュポン(60)を倒し、エジプトにおける最後の神としての王となった。なおオシリスはギリシャ語でディオニソスという。

(60)テュポンはエジプトの怪物で破壊の神。

145.ギリシャでは、ヘラクレスとディオニソスとパンが最も新しい神とされているが、エジプトではパン(61)がこのうちで最も古い神とされていて、一等古いとされている八神の中に入っている。ヘラクレスは、いわゆる十二神という第二世代に属している。そしてディオニソスは十二神に次ぐ第三世代に含まれる。

(61)エジプトのケム(Khem)

ヘラクレスからアマシスにいたるまで年数がどれほどであるかは、エジプト人による伝承をすでに私が話した。パンはそれよりもはるかに長い年月存在していたと伝えられていて、ディオニソスからアマシスに至る年数が一等短く、エジプト人はこの期間を一万五千年としている。

彼らはつねに年数を数え、これを年代ごとに記録しているので、この数字はすべて確かであると云っている。

そしてカドモスの娘セメレから生れたといわれる息子のディオニソスは、私の時代をさかのぼることおよそ千年で、アルクメネの息子ヘラクレスはおよそ九百年前、ペネロペの息子パン(ギリシャ人の伝説によると、パンはペネロペとヘルメスの子とされている)は私の時代よりおよそ八百年前で、トロイ戦争のあとになる。

146.パンとディオニソスに関するふたつの説については、信用できると思う方に従えばよいだろう。これに対する私の見解はすでに明らかにしている。ただ、セメレの息子ディオニソスやペネロペの息子パンも、アムピトリオンの息子ヘラクレスと同様、ギリシャで名を知られ、そこで老いたのであれば、ヘラクレスと同じく彼らもまた人間で、古代の神々の名前であるパンとディオニソスの名をつけられたのかもしれない。

しかしギリシャの伝説では、ディオニソスが生れた直後、ゼウスはかれを自分の太股に縫い込み、エジプトを越えてエチオピアのニーサに運んだという。またパンが生れたあとのことについてはギリシャ人は何も知らない。従ってギリシャ人がこのふたりの神を知ったのは、ほかのすべての神々を知った後であることが明らかだと私は考えている。そしてギリシャ人は、この二神の生まれを、彼らがその名を知った時代にあわせているのである。

147.以上、これまではエジプト人自身が伝えるところを記録した。これ以後はエジプト人も認めている異国人の伝えることを話すことにする。くわえて私自身がこの眼で見たことも話すつもりだ。

ヘパイストスの司祭が王となってからは、エジプト人は自由の身となった。しかし彼らは王という存在なくしては生きてゆけない民族だったので、彼らはエジプトを十二の区画に分割し、十二人の王をたてたのである。

これらの王は互いに婚姻関係を結び、親密な友好関係を築き、お互いに侵略することなく、他国より以上のものを求めないという協定を結んでいた。

彼らがこのような協定を結び、これを厳格に守った理由は次のことによる。つまり彼らがその区域で王についた直後、神託がおりて告げるには、彼らのうちヘパイストス神殿において青銅の盃を用いて献酒する者が、エジプト全土の王となるであろうということだった。その当時、王たちはエジプトのどの神殿へも、こぞって参拝する習わしだった。

148.さらに彼らは自分たちの名を残す記念物を共同で築くことを決め、モエリス湖のやや上手で、俗にいう「ワニの街」の近くに迷宮(ラビリンス)(62)を建設した。私はみずからこの迷宮を見たが、それは言葉では言い表せないほどのものだった(63)。

(62)この「迷宮」は一群の馬蹄形をしていた。ハワラ(サイス)のピラミッドの近くにあったと推定される。
(63)「ἤδη(ídi=already )」を、「λόγου μέζω(lógou mézo=for example )」とともに「ἦ δή(í dí)」と解した。

ギリシャ人が造り上げた城壁そのほかの建造物をすべて寄せ集めたとしても、この迷宮ほどには、要した労力、費用はとてもおよばないだろう。とはいえ、エフェソスやサモスの神殿が注目に値するのは言うまでもないことだが。

ピラミツドもまた言語に絶するもので、それぞれがギリシャの巨大建造物を多数合せたものに匹敵するが、迷宮は、そのピラミッドさえも凌駕している。

迷宮には屋根つきの中庭が十二あり、六つが北向き、六つが南向きで、それぞれ一対となって出入ロでつながっていて、すべてが同じ外壁で囲まれている。各部屋は地下とその上の部屋との二層になっていて部屋数は各層に千五百、上下合わせて三千ある。

私たちはみずから地上の部屋をひとわたり見てきたので、見たままを述べるのだが、地下室のことは話に聞いたことを報告するしかない。というのは管理しているエジプト人が、地下にはこの迷宮を造営した王たちと聖なるワニを埋葬している部屋があるといって、どうしてもそれを見せようとしなかったからである。

というわけで地下の部屋については聞きとったことを述べるにとどめるが、上の部屋は我ら自身が見ていて、それらは人が造ったとは思えぬほどのできばえだった。部屋を出て回廊へ、そこから見事な装飾の中庭に進み、その向こうの部屋へ、またその部屋から柱廊へ、柱廊からほかの部屋へ、そこから再び別の部屋へと進んで行くと、不思議な無限の世界を感じたものだった。

これらの建物の屋根は、すべて塀と同じ石でできていて、塀には模様が刻まれ、中庭は、隙間なくびっしり合わせられた白い石の柱でまわりを囲まれている。迷宮の終端の角ちかくには、高さ四十ファゾム(七十米)のピラミツドが立っていて、これには巨大な彫刻がいくつも刻まれている。またこれに通じる地下の通路も作られていた。

149.以上が迷宮のありさまであるが、これ以上に驚異なのは、迷宮の近くにあるモエリス湖である。この湖の周囲は三干六百スタディアあるいは六十スコイノス(六百四十八粁)で、エジプトの海岸線と同じ長さである。湖は南北に延びており、最も深いところの水深は五十ファゾム(九十二米)である。

この湖は、人の手で掘削されたものであることを湖自体が物語っている。なぜというに、湖のほぼ中央に二基のピラミツドが立っているのだが、どちらも水面上の高さが五十ファゾム(九十米)で、水面下も同じく五十ファゾムあり、ふたつともその天辺に、玉座に坐つた巨大な石造がすえられている。

かくしてこれらピラミッドの高さは百ファゾム(百八十米)となる。百ファゾムは一ファーロング(六百フィート)で、一ファゾムは六フィートまたは四キュービットに相当し、一フィートは四スパン、一キュービットは六スパンである。

湖の水は、この地方が極度な乾燥地帯であるため、天然の湧き水ではなく、ナイルから引いた水路によるものである。六ヶ月間は水が湖に流れこみ、残りの六ヶ月間は河へ戻ってゆく。

流れ出る六ヶ月間というもの、一日の漁穫の収穫は銀一タラントン(二十六~三十七瓩)となり、これは国庫におさめられるが、水が湖に流入する期間は、それが一日につき二十ムナ(*)になる。

(*)一ムナは三分の一タラントン

150.土地の者たちの話では、この湖の水は西方の内陸に向けてメンフィス上流にある山脈の下を流れ、リビアのシルティスに注いでいるという。

この湖を掘ったときの土がどこにも認められなかったので、不思議に思った私は湖のすぐ近くに住んでいる者たちに、掘り出した土はどこにあるのかと訊ねてみた。すると彼らは土を運んで行った場所を話してくれたが、それを聞いて私はすぐに納得した。というのも、アッシリアのニノヴェでもこれと同じようなことを聞いたことがあったのだ。

ニノヴェ王サルダナパロスは莫大な財宝を地下の宝物庫に納めていたが、あるとき盗賊が盗み出すことを企んだ。彼らは自分の家から王宮までの道筋を調べて地下道を掘ったのだが、掘り出した土は、夜になってからニノヴェに流れているティグリス河に運んで捨て、ついにその企てをやり遂げたのであった。

エジプトの湖を掘ったときもこれと同じことを聞かされたのだが、ただ夜の間にやったか昼間にやったかが違うだけである。掘り出した土をエジプト人がナイルヘ運ぶと、当然ながら土は河に巻き込まれ、流されて散らされる、というわけである。かくのごとくに、この湖は開墾されたといわれている。

151.さて十二人の王は律儀に協定を守っていたが、あるとき彼らがヘパイストス神殿において生贄を捧げることがあった。祭礼の最後の日に献洒をすることになり、いつも彼らが使っている黄金の盃を司祭長がもってきたところ、数を間違え、十二人いるところへ十一個しかもってこなかった。

十二人の最後にいたプサンメティコスは、盃がないので青銅の兜を脱いでそれを捧げ、それを用いて献酒を行なった。王たちは誰もが常に兜をかぶっているのだが、この時も皆がかぶっていた。

プサンメティコスはなんの下心もなく兜を利用したのだが、ほかの王たちは、かれのふるまいを胸の内で憶測し、かつは前に下された神託、すなわち青銅の盃をもって献酒をした者がエジプト全土の王となるという予言を思い起こした。しかし、調べによってプサンメティコスには何の意図もないことがわかったので、かれに死罪を課すべきにあらずと考え、かれからその権力のほとんどを剥奪してうえで沼沢地へと追放し、その地以外のエジプト地方との交渉を禁じることを決めた。

152.このプサンメティコスは以前にも、父のネコスを殺害したエチオピア王サバコスから逃れ、シリアに亡命したことがあった。その後エチオピア王が例の夢を見てエジプトを去ると、サイス地区のエジプト人はかれをシリアから連れ戻したのだった。

かくしてプサンメティコスが王位についたのが二度目となったのだが、今度は兜の件で、十一人の王によって沼沢地へ追放されてしまったのであった。

ここにおいてプサンメティコスは、他の王たちから不当に扱われたものと考えていたので、自分を追放した者たちに報復するつもりでいた。そこでかれは、エジプトで一等信用できる神託が下されるブトの街のレトの託宜所へ使者を送った。下された神託には、青銅の男たちが海より出ずるとき、復讐は遂げらる、とあった。

プサンメティコスは、青銅の人間が自分を助けにくるなど、全く信じていなかった。ところがまもなく、掠奪を目論んで船出してきたイオニア人とカリア人の一行がエジプトの海岸に漂着したのであった。このとき、かれらは青銅製の武具をまとって上陸してきたのだが、それを見たひとりのエジプト人が沼沢地を目指し、プサンメティコスにこのことを知らせた。この男はかつて武装した男たちを見たことがなかったこともあり、青銅の男たちが海から来て平地を荒らしまわっていると報告したのだ。

神託が実現したことを覚ったプサンメティコスは、イオニア人とカリア人と親しくつきあいを深め、自分に加勢するなら多大な褒賞を与えることを約束した。そして彼らを説得したあとは、これらの同盟軍とエジプト人志願兵を率いて十一人の王たちを倒したのだった。

153.エジプト全土を支配したプサンメティコスは、メンフィスのヘパイストス神殿の南楼門を築造し、またこれに正対する場所に、聖牛アピス(*)のための中庭を築いた。これはアピスが現われたとき、これにエサを与え養生させる場所としたものである。この中庭は周囲に柱廊がめぐらされ、これには多くの模様が刻まれている。屋根を支えているのは、高さが十二キュービット(五百五十糎)の巨像の列である。ここでアピスとはギリシャ語でエパポスのことである。

(*)本巻三十八節

154.プサンメティコスを支援したイオニア人とカリア人のために、王は住む地所を与えたが、これは「陣屋」と呼ばれた。この地所はナイルを中にはさんで向かいあっている。これだけでなく、王は約束していた褒賞もすべて与えたのだった。

さらに王はエジプト人の子弟を彼らにあずけてギリシャ語を学ばせた。この時にギリシャ語を学んだ者たちの子孫が、現在のエジプト人通訳なのである。

イオニア人とカリア人は長い期間にわたってこの地に住んだが、この地はナイルのいわゆるペルシオン河口にあり、ブバスティスの街のやや下流の海辺にある。それからずいぶんあとになって、アマシス王は彼らをこの地から移してメンフィスへ移住させ、エジプト人をさしおいて自分の護衛隊とした。

我らギリシャ人が、プサンメティコス以後の世代におけるエジプトでのあらゆる出来事を正確に知りえているのは、エジプトへのこれら移住者たちとの交流のおかげなのである。

異国人としてエジプトに定住した異国人はこの者たちが最初で、彼らがその地を立ち去った跡地には、船を揚げる装置(64)や住居跡が私の時代まで残っていた。以上、プサンメティコスがエジプトを手中におさめたいきさつである。

(64)船を岸に引き上げるための巻き上げ機だろう

155.エジプトにある神託所のことは、これまでもしばしば話題にしていたが、改めて述べるに値すると思うので、これについて話してみよう。ここでいうエジプトの神託所というのはレトの神殿のことで、海からナイルをさかのぼって行った先のセベンニュテス河口にある大きな街にある。

この神託所がある街の名は、前にも話したことがあるブトだ。ブトにはアポロンとアルテミスの神殿もあるが、神託所のあるレトの神殿はそれ自体がかなり宏大で、その楼門の高さは十ファゾム(十八米)ある。

ここで見たもののうち、私が最も驚嘆したものをぜひ話しておきたい。それはレトの聖城内にある社殿で、ここの壁は縦、横ともに一枚の岩盤でできていて、どの壁面も幅と高さが同じで、それぞれ四十キュービット(十八米)ある。そして社殿の屋根には別の一枚石がのっていて、これが幅四キュービット(二米)の廂になっている。

156.レトの神殿の中で見たもののうち、一等感嘆したのはこの社殿だったが、これに次いで驚嘆したのはケンミス(*)と呼ばれる島である。

(*)本巻九十一節

これはブトの神殿ちかくにある広く深い湖の中にあり、エジプト人はこれを浮島だといっている。私はその島が浮いているところも移動しているのも見ていないので、その島が本当に浮いているのだろうかと首をかしげたものだった。

ところでこの島にはアポロンの宏大な神殿があり、ここには三つの祭壇が設けられている。また多くの椰子の木が繁っていて、そのほかにも実のなる木、ならない木をとりまぜてさまざまに繁っている。

以下は、ケンミスが浮いている理由をエジプト人が語ったことである。それによれば、この島はもともと浮いてはいなかったという。そしてエジプト最古の八神のひとりで、自分の神託所のあるブトに往んでいたレトが、イシスからアポロンを預かったのだが、例のテュポン(*)がオシリスの子を捕まえようとして世界中を探してこの地に来たとき、いま現在浮島といわれているこの島にアポロンを隠してかくまったというのだ。

(*)本巻百四十四節を参照

彼らの云うには、アポロンとアルテミスはディオニソス(オシリス)とイシスの子で、レトはこの二人の乳母で、かつは守護者だったという。なお、エジプト語でアポロンはオロス、デメテルはイシス、アルテミスはブバスティスである。

エウポリオンの子アイスキュロスが、アルテミスをデメテルの娘だとしたのは、かれ以前の詩人が云わなかったことで、この考えの出どころは以上の伝説以外には考えられない。この島が浮島になったのは、かくのごとき理由よると彼らは伝えている。

157.プサンメティコスがエジプトに君臨したのは五十四年だったが、そのうちの二十九年間をシリアの大都市であるアゾトスの攻囲に費やし、ついにこれを征服した。われわれの知る限り、このアゾトスは、ほかのどの都市よりも長期にわたる攻城に耐えた街である。

158.プサンメティコスにはネコスという息子がいて、かれが次のエジプト王となった。「紅海」に通じる運河(65)を造り始めたのがこの王で、のちにペルシャ人ダリウスがこれを完成させたのである。この運河の長さは、航行すること四日におよび、幅は二隻の三段櫂船が並んで航行するのに充分なほどに掘削されている。

(65)この運河はテル・バスタ(ブバスティス)の近くから発し、スエズに至っているようだ。ダリウスによる建造を記録した碑が、その近くで発見されている

水はナイルから引き、ブバスティスの街のやや上流地点から発し、アラビアの街パトモスのそばを通って「紅海」に達している。掘り始めたのはアラビアに近接するエジプト平野だったが、この平野のすぐ近くには石切場のある山脈が走っていて、この山脈はメンフィスに達している。

運河はこの山脈のふもとに沿つて西から東へ長く延びていて、そのあとは峡谷に入り、そして山地から出ると南へ走り、アラビア湾に達している。

ところで、北の海から南の海、いわゆる「紅海」へ至る最短経路は、エジプトとシリアの境にあるカシオス山からアラビア湾に至る経路である。この距離はちょうど千スタディア(百八十粁)である。

これが最短距離だが、運河はいたる所で曲がりくねっているので、これよりはるかに長い。ネコスの統治下で運河の開墾中に死んだエジプト人は十二万人に達した。しかしネコスは、このエ事が異国人のためのお膳立て仕事だという神託が下されたことで、開墾をやめてしまつた。エジプト人は、異なる言語を話す者は、すべて異国人と呼んでいる。

159.運河の開墾を中止したネコスは、次に戦の準備に意を注ぎ、三段櫂船を建造したが、その一部は北の海のため、そのほかは紅海のためにアラビア湾で建造された。その巻き上げ機は今でも見られる。

ネコスはこれらの船を必要に応じて用いたが、陸軍はマグドロス(66)でシリア軍と戦ってこれを破り、その合戦のあと、シリアの大都市カディティス(67)を領有した。

(66)マグドロスは旧約聖書に出てくるミグドル
(67)ガザ

ネコスはこの時の勝利に際して、身につけていた装束をミレトスのブランキダイへ送り、アポロンに奉納した。ネコスは十六年在位したのちに歿したが、その息子のプサンミスが王位を継いだ。

160.このプサンミスがエジプト王の時代に、エリスから使節団がやってきたことがある。エリス人たちは、自分たちが開催しているオリンピア競技が、この世にたぐいまれなきほどの公明正大をもって運営していることを誇りに思っていて、世界中で最も聡明な民族であるエジプト人といえども、これ以上立派に実行できないだろうと考えていた。

エジプトにやってきたエリス人たちが訪問の目的を告げると、プサンミスはエジプトで一等聡明と評される者たちを召集した。集まったエジプト人たちは、エリス人から競技の運営法を細大もらさず聴き取った。すべてを説明し終えたエリス人たちは、エジプト人により公正なやり方の思案があるなら、それを学ぶためにやってきたのだと語った。

エジプト人たちは合議したのち、エリス人も競技に参加するのかと訊ねた。すると彼らは、その通りと返答し、自分たちも含め、すべてのギリシャ人は、肴望すれば誰でも競技に参加できるのだと答えた。

するとエジプト人は、そのような規則があるなら、完全な公平さを缺く、と語った。「なぜというに、競技において同国人をえこひいきせず、他国人に不利を与えないという保証はないからである。お手前方が真実公平な規則を作りたいと望み、そのためにエジプトにきたのであるなら、競技は他国人のみの参加とし、エリス人の参加を認めるべきではない」これが、エジプト人がエリス人に向けた勧告だった。

161.プサンミスのエジプト統治はわずか六年で、エチオピアに侵攻した直後に歿したが、その子アプリエス(68)が王位を継いだ。

(68)アプリエスは旧約聖書ではホフラ。推定在位B.C.589~B.C.570。テュロスとシドンを攻撃したという記述は、ユダヤ史と食い違っている(エレミア書二十七節、エゼキエル書十七節)。

曾祖父のプサンメティコスを別として、かれは諸代の王のうちで一等繁栄した人物で、二十五年間の在位中に軍をシドンに送ってこれを攻め、テュロスと海戦を行なった。

ところが運命は災いをかれの身にもたらし、その原因については、ここで簡単に触れておくが、詳しくはこの歴史譚におけるリビア史(*)の中で述べることにする。

(*)第四巻百五十九節

それは、アプリエスがキュレネに大軍を送ったものの大敗を喫したときのことだった。エジプト人たちは、その責めを王にきせ、謀叛を起したのである。彼らの考えでは、アプリエスは兵士たちを死地に追いやるとわかっていながら、あえて出兵したのであり、自分たちが破滅することで、王は残りのエジプト人をより一層安寧に統治できるだろうと思っていた、というのだった。これに憤激した帰還兵士たちと戦死者の身寄りの者たちが、公然と叛旗を翻したのだ。

162.これを知ったアプリエスは、彼らを説得するためにアマシスを送り出した。アマシスは叛乱エジプト人のもとへゆき、蜂起を思いとどまるよう熱心に説いていた。ところがその時、一人のエジプト兵がかれの背後にまわり、これは王の証だと云いながら、その頭に兜をかぶらせたのだ。

このことがアマシスにとって不快でなかったことは、その後のかれの行動から明らかである。というのも、エジプト人叛逆者によって王に推されたアマシスは、ただちにアプリエスに向けて進軍する準備を調えたからである。

これを聞いたアプリエスは側近のパタルベミスなる者をアマシスに差し向け、かの叛逆者を生け捕りにして自分のもとへ連れてこいと命じた。パタルベミスが到着してアマシスに出頭するよう要請していると、そのとき馬上にいたアマシスは、尻を浮かして放屁し、これをアプリエスのところへ持ち帰れと使者に告げた。

このような応対にもめげず、なおパタルベミスは王のお召しに従い出頭すべきであると説得に努めたが、アマシスはそれに答えて曰く、このことは以前から準備していたことで、そのうちほかの者たちも引き連れて自分も出頭するつもりであるゆえ、アプリエスは吾輩を非難するには当たらない、といった。

これを聞いたパタルベミスは、アマシスの真意を読み取り、覚悟も定まっていることを見て取ると、事態を一刻も早く王に知らせるべく、急ぎ帰途についた。かれがアマシスを連れずに現われたのを見たアプリエスは、ふかく考えることもせず怒りのあまりに、かれの耳と鼻をそぎ落とさせてしまった。

ここに至って王を支持していた他のエジプト人たちも、自分たちの間で一等名高い人物が、かくも非道な仕打ちを加えられたのを見るや、間髪を入れず離反して敵方に走り、アマシスに身を投じたのであった。

163.またこのことを知ったアプリエスは、異国人の傭兵部隊を武装させてエジプト人部隊に向けて出陣させた。かれはカリア人とイオニア人の護衛部隊三万を抱えていて、サイスの街に宏大で見事な王宮をもっていた。

かくしてアプリエス軍はエジプト人部隊に向けて出陣し、一方のアマシス軍は外人部隊を目指して進軍した。両軍はモメンピスの街で遭遇し、いよいよ勝敗を決することとなった。

164.ところでエジプト人には七つの階級があり、司祭、戦士、牛飼、豚飼、商人、通訳、航海士がそれである。階級は以上の通りだが、その名称はその職業にちなんでつけられている。

戦士階級はカラシリエスとヘルモトビエスと呼ばれており、次の地区の出身者で構成されている。これはエジプト全土が地区に分けられているからである。

165.ヘルモトビエス地区を構成してのは、ブシジス区、サイス区、ケンミス区、パプレミス州、プロソピテイスと呼ばれる島とナトの半分である。ヘルモトビエスはこれらの区の出身である。ヘルモトビエスの人数は、最も多いときで十六万に達する。彼らはほかのどんな仕事も習得せず、軍事にのみ携わるのである。

166.カラシリエス地区には、テーベ区、ブバスティス区、アプティス区、タニス区、メンデス区、セベンニユテス区、アトリビス区、パルバイトス区、トムイス区、オヌピス区、アニティス区、ミエクポリス区が含まれる。最後のミエクポリス区は、ブバスティスの街に相対する島にある。

以上がカラシリエスの区で、ここは最も多いときでその数二十五万に達する。彼らもまた、どんな職につくこともなく、軍事を世襲している。

167.さて、ギリシャ人がエジプト人から、かくのごとき慣習を学んだのかどうか、私は確かな判断を下すことができない。なぜというに、トラキア人、スキタイ人、ペルシャ人、リディア人、それにほとんどすべての異国人が、職業技術を習得する者たちとその子孫を、ほかの市民より軽んじ、また職人仕事についていない者、特に軍事に専念する者を高く崇拝しているのを、私は知っているからである。

しかしながら、ギリシャ人はすべてこのような慣習を学んでいて、とくにスパルタ人がこれに当てはまる。職人を下にみることが最も少ないのはコリント人である。

168.エジプトでは、司祭を除き戦士階級だけの特典があり、それぞれに無税で十二アルラ(五百四十米四方)の土地が割当てられている。一アルラは百エジプト・キュービット平方の面積で、エジプト・ペキユスはサモス・ペキユスと同じである。この土地が全員に割り当てられたのだが、同じ人間が耕作したのではなく、順番に耕筰した(69)。

(69)つまり十二アルラの土地は、年ごとに新規の小作人が耕筰したのだ。(この文は、ほかの訳文にはない)

これは彼ら全員に与えられた特権だが、順次交代で二度は受けられない特典もある。それはカラシリエスとヘルモトビエスから千人ずつが一年間だけ王の親衛隊につくのである。そしてこれらの隊員には、特典の土地のほかに、日当として一人につき炒った穀物五ムナ(二瓩)、牛肉ニムナ(八百グラム)、酒四アリステル(一リットル)が支給された。以上が親衛隊それぞれに与えられた。

169.さて外人傭兵部隊を従えたアプリエスと、エジプト全軍を率いるアマシスは、モメンフィスの街で会して干戈を交えた。外人部隊はよく戦ったが、圧倒的に少ない軍勢だったゆえ、敗北を喫した。

彼らの言い伝えでは、アプリエスは、神といえども自分を王位から退けることはできないと、固く信じていた。そしていま、かれは合戦に敗れて囚われの身となってサイスの街の、かつては自分のものでいまはアマシスのものとなった王宮へ送られた。

アプリエスはこの王宮でしばらく幽閉され、アマシスもかれを厚遇した。しかしエジプト人から、自分たちにとっても自分たちの王にとっても最も忌むべき人間を生かしておくのは正義にもとるという抗議がでるや、アマシスはアプリエスをエジプト人に引き渡した。エジプト人たちはかれを絞め殺したのち、先祖の墓所に葬った。

この墓所はアテナ神殿の境内にあり、神殿入り口の左手の、正殿のすぐ近くにある。サイスの人々は、その地区出身の王はすべてこの神殿内に葬っている。

アマシスの墓は、アプリエスとその祖先の墓よりも正殿から遠いとはいうものの、やはりこの神殿の境内にある。この墓は巨大な石の柱廊で、ヤシの木を模した柱や華美をきわめた装飾が施されている。柱廊の内部には両開きの扉があり、その内側に棺が安置されている。

170.サイスにはまた、その名を言挙げするにはあまりに不遜な人物(*)の墓所もある。それはアテナ神殿内の正殿のうしろで塀に接するようにして、端から端まである。

(*)オシリスのこと

さらにその構内には巨石を用いたオベリスクがいくつか立っていて、近くには石で縁取りをして飾られた真円の池もある。私が見たところ、この池はデロスのいわゆる「丸池」と同じくらいの大きさだった。

171.この池では、神の受難劇が夜に上演される。この儀式をエジプト人は秘儀と称している。これに関して、私はより詳しい次第を知ってはいるが、ここでは沈黙を守ることにしておく。

ギリシャ人がテスモポリア(70)と称しているデメテルの密儀についても、神への敬いをおかさぬように、許されることだけを述べ、それ以上のことは口をつぐむことにする。

(70)デメテルとその娘ペルセポネを祭るアテネの女だけの祭りで、秋に開かれる。

この密儀をエジプトからペラスゴイの女たちに伝えたのは、ダナオスの娘たちだった。しかしペロポネソスの住民がドリス人に逐われたあとは、この儀式もほろび、ペロポネソスの住民のうちで逐われることなく国にとどまったアルカデイア人だけが、この密儀を保存していたのだ。

172.アプリエスをしりぞけたあとはアマシスが王位についたが、かれはサイス区のシウプと言う街に生まれている。

はじめの頃エジプト人は、アマシスが平民の出で、高貴な家柄の出でなかったことから、かれをさげすみ、見くだしていた。しかしやがてアマシスは、尊大に走ることなく賢明な方法で国民の心をつかんだのである。

かれの持つ無数の財宝の中に、黄金の足桶があった。アマシスやそのまわりの者は、いつもこの桶で足を洗っていたのだが、アマシスはこの桶を鋳つぶして神像を作らせ、街のなかで一等目につく場所にこれを据え置かせた。するとエジプト人たちは足繁くこの神像に詣で、これを大いに崇め奉ったのである。

街の者たちの振る舞いを知ったアマシスは、エジプト人を呼び集め、語りかけた。神像は足桶から作ったもので、以前はエジプト人がその中に嘔吐、放尿し、足を洗ったりしていたが、今は諸君が大いに崇めているのだと。

そして続けて云うに、自分も以前は平民だったため、この足桶のように見られていたが、今はお前たちの王なのであるから、自分に礼を尽くし、敬意を払うべしと説いたのである。こうしてアマシスはエジプト国民の人心をつかみ、彼らが臣従することを納得させたのである。

173.次に、かれが日常をどのように過ごしていたかを話そう。午前中、市場に人が溢れる頃までは、持ち込まれた仕事をテキパキこなすが、そのあとは酒を飲みながら気のおけない仲間たちとふざけちらし、だらだら戯れて時を過ごすのだった。

王に親しい者たちは、このことを気にして忠告した。

「殿、軽率なる悪ふざけにふけっておられるのは、立派な振る舞いとはいえませぬぞ。御身はいかにも名高いお方ゆえ、荘厳なる玉座にて終日威厳をただして政務なさるべきでござる。さればこそエジプト国民も偉人に治められているという自覚を持ち、殿の評判も良くなることでござりましょう。しかし現今のふるまいは、王たる身にふさわしくござりませぬ」

アマシスはこう返答した。
「弓を使うときには弦を張らねばならぬが、使い終われば緩めるものじゃ。弦を強く張ったままだと切れてしまうからな。切れると必要なときに使い物にならなくなるぞ。

人もまた同じことじゃ。常に生真面目に仕事を続け、一時たりともくつろがずにいると、知らぬうちに気が狂ったり、痴呆になったりするものじゃ。ワシはこのことを充分承知しておるゆえ、生活の中で両方の時間を使い分けておるのじゃ」
これが、友人たちへの返答だった。

174.アマシスは、一市民だった頃から、酒好きでまたふざけることが好きで、決して謹厳実直な人物ではなかった。酒や享楽のために金に窮すると、盗みをしてまわったという。盗んだ物を隠しもっていると云われて、かれがそれを否定すると、被害者たちは手近にある神託所へかれを突きだしたものだった。そして神託によって罪を宣告されることもあったが、神託のおかげで罪を免れることもあった。

そして王位についたアマシスは、盗みの罪を問わなかった神々の神殿の世話をすることはなく、維持管理のための寄進もせず、生贄を捧げることもしなかった。神託に嘘いつわりのある神々は崇めるに足りずというのだった。しかしかれに罪を宣告した神々に対しては、これこそまことの神であり、正しい神託を下すものとして、丁重に遇したという。

175.アマシスは、サイスのアテナ神殿(71)に、その高さ、規模ともに他に類を見ないほどの宏大な、素晴らしい楼門を造営した。また使用された石垣の大きさと質たるや、どんな楼門もおよばぬものであった。これに加えて数基の巨大な像と、人間の頭をいただく巨大なスフインクス(72)を奉納し、修理用として数々の巨石を運び込ませた。

(71)ニルのことだろう。デメテルともされる。本巻百三十二節の注を参照
(72)カルナックには神殿の参道に二基のスフィンクスがある

この巨石の一部はメンフィスの石切場から運ばれてきたものであるが、最大のものはエレパンティネ(73)の街から船で二十日かけてサイスまで運ばれている。

(73)アスワンの対岸にある島。アスワンの石切場は太古より名高い。

しかし私が最も素晴らしいと思ったのは、エレパンティネの街から運んできた、一枚岩からなる社殿である。これは二千人の人夫が三年かけて運んだものである。そして人夫はすべて航海士の者たちだった。この社殿の外側の長さは二十一キュービット(九百五十糎)、幅は十四キュービット(六米)、高さは八キュービット(三百六十糎)である。

この一枚岩の社殿の外形寸法はこの通りだが、内側の長さは十八キュービットと一ピュゴン(八百五十糎)(*)、幅は十二キュービット(五百四十糎)、高さは五キュービット(二百三十糎)である。そしてこの社殿は神殿の入ロ近くに安置されていた。

(*)一ピュゴン=二十ダクティロス=三十七糎

なぜこれを神殿の中へ曳き入れなかったのか、言い伝えでは、この社殿を曳いている途中、この仕事があまりに長く時間がかかって疲労困憊した人夫頭が大声で溜息をついたところ、これを心配したアマシスが、それ以上曳いて行くことをやめさせたということだ。別の伝承では、社殿を梃子で持ち上げていた人夫のひとりが、それにおしつぶされてしまったので、神殿の中へ曳き入れるのを中止したともいう。

176.これに加えてアマシスは、これ以外の著名な神殿すべてに目を見張るほどの規模の建造物を献じたのみならず、メンフィスのヘパイストス神殿の前に据えられている、とてつもなく大きな仰臥巨像も奉納している。そしてその長さは七十五フィートである。この像と同じ台座には、その両側に同じ石で造られた巨像が二基立っていて、ともに高さは二十フィートある。

このメンフィスの像と大きさも同じで、同じく仰臥した石像がサイスにもある。メンフィスに、宏壮でこの上なく見事なイシスの神殿を建造したのもアマシスだった。

177.アマシスの統治下で、エジプトはこれまでになく繁栄したといわれている。それは、ナイルが大地に繁栄をもたらし、大地が人々に繁栄をもたらしたのである。国内での人の住む街の数は二万に達したという。

またアマシスは、エジプト人それぞれが毎年自分の生業を地区の長官に申告することを義務づける法律を制定した。そしてその申告を怠ったり、実際の職業を申告しなかった場合には死罪に処す、というものだった。アテネのソロンはこの法律をエジプトから手に入れ、アテネ人に向けて制定したが、彼らはこれを完全無缺の法律であるとして、ずっと守り続けている。

178.アマシスはギリシャを贔屓するようになり、一部のギリシャ人に示した好意のほかに加え、エジプトにやって来たギリシャ人にはナウクラティスの街に住むことを許した。またここに定住するつもりのない旅行者には、彼らの崇める神々の祭壇や聖域を築くための土地を与えた。

それらの中で最も大きく、最も有名かつ最も参詣者の多い聖域といえば、ヘレニオンと呼ばれているもので、これは次のギリシャ諸都市が協同で建立したものである。イオニア系の街ではキオス、テオス、ポカイア、クラゾメナイの諸都市、ドーリス系ではロードス、クニドス、ハリカルナッソス、パセリスの諸都市、アイオリス系としては唯一ミティレネの街だった。

この聖城は右の諸都市が管理していて、貿易取引所の監督官もこれらの街から任命されていた。従ってほかの街がこれに加わっているとしても、なんの権利もないのに、それらしい顔をしているだけなのである。ただアイギナ人は彼ら独自のゼウス神殿を建立していて、サモス人はヘラの神殿を、ミレトス人はアポロンの神殿を独自に建立している。

179.かつてはナウクラティスがエジプト唯一の貿易港だった。それゆえ、ナイルのほかの河口に到着すると、故意にきたのではないことを宣誓せねばならず、そのあとは船をカノボス河口まで移動させねばならなかった。逆風によって回航できない場合には、積荷を艀に移してデルタを迂廻し、ナウクラティスまで運ばねばならなかった。このような特権を、ナウクラティスは与えられていたのである。

180.現在デルフォイにある神殿の築造に際して、隣保同盟(アンピクティオン)(*)が三百タラントンで請け負わせたとき、以前の神殿は失火で焼失したのだったが、デルフォイ人が費用の四分の一を負担することになった。

(*)ある特定の神殿もしくは聖域を共同で維持管理するために近隣の都市国家で結ばれた同盟のこと。デルフォイのアポロ神殿の同盟が有名

そこでデルフォ人はあちこちの街をめぐって寄付を募ったが、そのときにエジプトから得た寄附が最も多額となった。それというのも、アマシスが千タラントンもの収斂土(74)を与え、エジプト在住のギリシャ人は二十ムナを寄附したからである。

(74)明礬(みょうばん)のことだろう。

181.アマシスはキュレネ人と友好同盟を結び、あまつさえその地から妃を迎えようとした。それは、ギリシャ人の妻を持ちたい思ったからなのか、あるいはキュレネ人との友好のためなのか、わからないが。

そこでラディケという女を妻としたが、この女はアルケシラオスの子バットスの娘であるとも、キュレネの重鎮クリストブロスの娘であるともいわれている。ところがアマシスが妻と床につくと、情を交わすことができないのだった。ほかの女とでは欲するままに交わりを結ぶことができたというのに。これが何度も繰り返されるので、アマシスは妻のラディケに云った。

「この女め、お前はわしに呪い(*)をかけたな。さればお前には、どんな女も経験したことのないような惨めな死に方をさせてやる」

(*)「薬」としている訳者もいる。

そんなことはしていないとラディケは否定したが、アマシスの気が静まることがないので、アフロディテに願をかけ、その夜アマシスが自分と交わることができれば、それで救われるので、神像をキュレネに送って奉納することを誓ったのである。そうやってラディケが祈った直後、アマシスは彼女と交わることができた。その後はアマシスが彼女のもとへやってくるたびに情を交わせるようになったので、以来かれは妻を大いに可愛がったという。

ラディケは女神への願かけの誓いを果たすために神像を造らせてキュレネに送った。この神像は私の時代まで保存されていて、キュレネの街の外へ顔を向けて立っていた。その後カンビュセスがエジプトを征服し、ラディケの素性を知ると、彼女を無傷のままキュレネへ送り帰したという。

182.さてアマシスはギリシャにもかずかずの奉納品を献じたが、キュレネには黄金をはりつけたアテナ像と自身の肖像画を、リンドスのアテナには石の神像二体と見事な麻の胸甲を、サモスのヘラには自身の木像を二体奉納した。この木像は、私の時代に至るも、大神殿の扉のうしろにまだ立っていた。

アマシスがサモスに奉納したのは、アイアケスの子ポリクラテス(75)との友好関係によるものだったが、リンドスに奉納したのは友好によるものではなく、リンドスのアテナ神殿が、アイギプトスの息子たちから逃れてこの地に上陸したダナオスの娘たちによって建立されたという言い伝えがあったからである。以上、アマシスによる奉納品のかずかずである。また、キプロスを征服し、これを朝貢させた最初の人物が、誰あろうアマシスだった。

(75)ポリクラテスの統治はB.C.532頃に始まる。アマシスとの友好関係については第三巻三十九節を参照。

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