劇団3○○解散に関連しての資料

1997年12月



劇団3○○の杉島さんから、渡辺が各新聞社に流した文章を送っていただきましたので、掲示します。


 いつもお世話になっております。
 実は、この度、本年12月末日をもちまして劇団3○○
を解散することにいたしました。
 今年で丸19年、来年は成人式を迎える3○○ですが、東銀之介も遠い世界に旅立ち、ここで一区切りつけて、又、新たな出発をしようと考えております。
 劇団のない生活がどんなものか、まだ想像もできず、不安ですが、これからじっくり将来を考えるつもりでおります。
 劇団は今まで私の体の一部であり、まるで子供のようなものだったと思います。
 19歳になった子供が、外国に留学にでも出掛けたのだと思って、この先、帰国して、別な形に成長した子供とまた一緒に遊べる日が来るのを待つことにい たします。
 長い間応援していただきまして、本当にありがとうございました。

 11月30日 劇団3○○ 渡辺えり子


新聞各紙の記事抜粋
(協力:劇団3○○・劇団3○○ fanclub・渡辺えり子)



朝日新聞1997年12月1日(月)朝刊
渡辺えり子さん主宰劇団3○○ 年内で解散へ
 劇作家で女優の渡辺えり子さん(42)が主宰する劇団3○○(さんじゅうまる、劇団員17人)が年内いっぱいで解散することが30日夜明らかになった。
 座長の渡辺さんによると、「最近は若い俳優たちと、もっと上質の表現を求める私とのギャップが大きく、このまま演劇活動を続けるのが難しくなったた め」だという。解散は28日に開かれた劇団総会で決まったという。同劇団は渡辺 さんを中心に1978年に創立。「夜の影」「ゲゲゲのげ」など、現実と幻想の間を 行き来する渡辺さんのユニークな戯曲を一貫して上演してきた。しかし、創立以 来のメンバーが相次いで退団し、座長の渡辺さんと若手俳優たちとの年齢差が目 立つようになっていた。来年予定していた創立20周年記念公演は中止になる。

毎日新聞1997年12月1日(月)朝刊
「劇団3○○ 」が解散
人気女優で劇作家の渡辺えり子さん=写真=の主宰する劇団3○○が解散することが30日明らかになった。3○○は1979年に結成され、来年20周年を迎える予定だった。
 渡辺さんの作・演出・出演により、82年に第22回岸田戯曲賞を受賞した「ゲゲゲのげ」など、生活感の裏打ちのある幻想的で重層的なイメージのある作品 を発表し続け、女性主宰の小劇場劇団として、一頭地を抜く演劇活動を行ってき た
 しかし、創立メンバーの多くが退団し、若手中心となり、長老格だった東銀之介さんも16日に75歳で死去。渡辺さんだけに比重がかかる状態が続き、28日 の劇団総会で解散を決めた。最後の舞台は2日まで東京・新宿の紀伊国屋サザン シアターで上演した渡辺さん作演出の「ガーデン」。

スポーツニッポン1997年12月2日(火)
創立20周年直前 劇団3○○解散 座長渡辺えり子「若手とギャップ」
 劇作家で人気女優の渡辺えり子(42)が主宰する劇団3○○(さんじゅうまる) が今月末で解散することになり、1日、座長の渡辺が東京・南荻窪の劇団事務所で事情を説明した。劇団創立は1978年で、来年20周年を迎える直前のタイミ ング。解散は11月28日の総会で決まった。渡辺は「私が、芝居をきちんと作るこ とに専念するより、劇場手配の指示など日常的な"面倒"にわずらわされることが多くなった。そして、若手が求めるものと、自分の表現のギャップを感じるように なった。」と説明。
 この間、同劇団の長老格の東銀之介さん(享年75歳)が亡くなったことも、区切りをつける"引き金"になったという。「劇団がなくなった状態を味わったことがないので、想像もできず不安です。でも、これをマイナスにではなく、前向き に考えたい」と渡辺。来年予定していた20周年記念公演は中止になる。
(写真:突然の解散について、吹っ切れた笑顔で説明する渡辺えり子)

日刊スポーツ12月2日(火)
劇団3○○解散 20周年公演は中止
 女優の渡辺えり子(42)が主宰する「劇団3○○(さんじゅうまる)」が今年いっぱいで解散することが1日、分かった。劇団は来年創立20周年となるが、 創立以来のメンバーの退団が相次ぎ、現在の若手劇団員と渡辺との年齢差が広が ったことなどが解散の理由。先月28日の劇団総会で解散が決まった。来年予定し ていた20周年記念公演は中止になる。渡辺は解散の理由について「若手がの劇団 員が求めるものと自分の表現とのギャップを感じるようになった」と語った。ま た、この日、マスコミ各社にファクスで正式なコメントを発表し、「劇団は今ま で私の体の一部であり、まるで子供のようなもの。19歳になった子供が外国に留 学にでも出掛けたのだと思って、べつな形で成功した子供とまた一緒に遊べる日 が来るのを待つことにいたします」などと心境をつづっている。
 劇団は1978年(昭53)創立。渡辺が岸田戯曲賞を受賞した「ゲゲゲのげ」をはじめ、現実と幻想のがあ入り乱れた時空を超える舞台で人気を集めた。

報知新聞12月2日(火)
渡辺えり子主宰 劇団3○○解散
 劇作家で女優の渡辺えり子(42)が主宰する劇団3○○(さんじゅうまる、劇団員16人)が今年いっぱいで解散することになった。劇団は来年創立20周年と なるが創立以来のメンバーの退団が相次ぎ、現在の若手劇団員と渡辺の年齢差が 広がったことなどが解散の理由という。劇団は1978年創立。渡辺が岸田戯曲賞を 受賞した「ゲゲゲのげ」をはじめ、現実と幻想のがあ入り乱れた時空を超える舞 台で人気を集めていた。今年も11月初めに東京で新作「ガーデン」の公演を終え たばかりだった。
 解散は11月28日に開かれた劇団総会で決まった。渡辺は解散理由について「若手の劇団員が求めるものと自分の表現とのギャップを感じるようになった。 近い将来、新劇団を作りたい」と話している。来年の記念公演などは中止になる 。

読売新聞12月5日(金)山形地方版
「劇団3○○」年内解散 地元ファンも「残念」
 主宰の渡辺さん「山形では公演したい」

 山形市出身で女優・劇作家の渡辺えり子さん(四二)が主宰する「劇団3○○( さんじゅうまる)」が今年いっぱいで解散することになった。劇団を支援してきた地元山形のファンの間でも残念がる声が相次ぎ、解散を決める後援会も出 てきた。都内で読売新聞の取材に応じた渡辺さんは「機会があれば、今後も山形 で公演をやりたい」と話している。
 
 劇団3○○は、渡辺さんを中心に1978年に創立。以来、一貫して渡辺さんの作品を上演してきた。80年代の演劇ブームに乗って人気を広げ、八三年に「 ゲゲゲのげ」で岸田戯曲賞、八八年には「瞼の女」で紀伊国屋演劇賞を受賞した 。
 ここ数年、創立以来の劇団員らが相次いで退団し、若手中心の劇団に変容、「このまま活動を続けるのは難しい」と先月末の劇団総会で解散を決めた。
 渡辺さんの出身地・山形市内では、八七年から定期的に公演を行い、幅広い年齢層の観客に支持され、「劇団3○○後援会」や「劇団3○○fanclub」といった支援組織も生まれた。
 会員が五百人を超える「劇団3○○後援会」はチケットの販売に協力したり、東京公演に花輪を贈ったりしてきた。
 同後援会事務長の阿部秀而さん(六四)は「解散の話は全く知らなかった」と、ショックを隠しきれない様子。渡辺さんの作品について「現実の世界と夢の 世界を行き来して、巧みにのその二つを紡いでいく。その根底には、常に現代を 見つめる視点があった。見ていて笑いが絶えず、客へのサービス精神があって本 当に楽しかった」と話している。
 芝居好きの若者たちが中心の「劇団3○○fanclub」も山形公演では劇団員の世話をしたり、会報誌を発行してきた。
 代表の菊地悦郎さん(三八)は「私自身、演劇をしているだけに、「3○○」の存在は、地元の芝居好きたちにいい刺激を与えてくれた」と、解散を惜し む。また、菊地さんは「私たちはあくまで劇団のファンクラブなので」との理由 から、劇団に合わせて年内いっぱいでファンクラブを解散することを決めたとい う
 渡辺さんは「今はじっくりといろんなことを考えている最中だが、今後も山形を活躍の場として重視していきたい」と話している。

読売新聞12月5日(金) コラム:フロッピー (杉)氏
小劇場ブームの終わり
 渡辺えり子主宰の劇団3○○が、年内で解散することを決めた。
 1980年代に小劇場ブームを起こした劇団、転形劇場、秘宝零番館、夢の遊眠社、転位・21、東京壱組、東京サンシャインボーイズは既になく、青い鳥、東 京キッドブラザーズは活動を休止している。これらに続いて、3○○が姿を消す ことになった。
 渡辺は解散について、「劇団内の世代ギャップ」を理由の第一に挙げた。結成から十九年がたち、旗揚げメンバーは渡辺一人になっていた。現在の劇団員 は、渡辺の描き出す世界にあこがれて入団してきた若手で、「私と劇団員が、教 え−教えられる関係になってしまっていた」と言う。
 独創的な表現を求め、互いに切磋琢磨する場所だった劇団が、メンバーの入れ替わりで変化していた。表現活動に物足りなさを覚えていたことに加え、「 俳優養成に多くの時間を割くようになっていた」現実の責任の大きさが、負担に もなっていたようだ。
 日本では、経済的に恵まれない小劇団が俳優養成の役割を担っている。
 しかし、かつてのような根性や理想を押しつけるだけでは成り立たない風潮の中で、集団維持が限界にきていたのも事実だ。多くの劇団が解散していく中 で、渡辺は劇団制にこだわり、歯を食い縛ってきた。その渡辺が、解散を決意し たことに、小劇場ブームと呼ばれた時代の終わりを感じる。(杉)

朝日新聞1997年12月18日(木)山形地方版朝刊 コラム:文学館
山形市出身渡辺さん主宰「劇団3○○」
年内解散惜しむ声
地元支援で県内公演も

 山形市村木沢出身の女優、渡辺えり子さん(四二)が主宰する「劇団3○○(さんじゅうまる)」が今年いっぱいで解散することが決まり、地元では解散 を残念がる声が上がっている、3○○のような小劇場形式の演劇は、上演がどう しても東京などの大都市中心になりがち、だが、同劇団は、十年ほど前から、計 5回の山形公演を続けてきた。地元で活動を支えた人と一緒に、その舞台を振り 返った。

 山形西港演劇部で活動していた渡辺さんは卒業後、上京して一九七八年に「劇団2○○」を旗揚げした。この劇団が二年後、現在の3○○に改名する。
 渡辺さんとは西高演劇部時代からの親友という山形市の中井由美子さん(四二)は、過去五回の3○○山形公演で宣伝・制作などを担当してきた。今回の 解散について、「残念。来年の創立二十周年までは頑張ってほしかった気もする 。でも劇団員に若手が多くなった今、一方的に指導する立場は大変だろうし、仕 方がないと思います」と話す。
 かつては東京で、劇団の初期の三作品に照明係として参加したこともあった。「当時の作品には、特に(渡辺さんが過ごした)村木沢の風景が影響してい たと思います。温かい人たちに囲まれた生活。自然とのつながり、その怖さや、 暗さ、闇(やみ)の部分もある。そういう宇宙的な広がりを楽しく、分かりやす く提示するのがすごいと思いましたね」
 ◇ ◇ ◇ ◇
 人間に交じって動物たちが登場し、時空が交錯する3○○の舞台。だがそれが、決して絵空事に終わらないのが特徴だ。
 たとえば、二月に山形で上演された「深夜特急」。ある日突然、自ら命を絶ってしまった小学生の北斗。彼の家族は自殺の原因を探るうちに、ふとしたき っかけでカエルたちが言葉を話す府杉菜守谷と迷い込む。そこで彼らは、失って いた家族のつながりや懐かしい記憶を探し始める。
 物語には、いじめや親子の断絶といった現代的な問題が登場する。「現実に根ざした夢でなければ、見る人に勇気を与えることはできない」(渡辺さん) との考えが、その根底にあるからだ。
 また3○○はこれまで、多くの演劇人を育ててきた劇団でもあった。テレビでも活躍中のもたいまさこ、豊川悦司らの個性派が次々とデビューした。が、 彼らは八十年代後半に一斉に退団。また十八年間舞台に立ち、劇団の柱となって いた東銀之介は今年十一月、七十五歳で他界していた。
 ◇ ◇ ◇ ◇
 「せっかく固定客がついてきたころなのに残念。」と話すのは、3○○ファンクラブ代表の山形市の菊地悦郎さん(三八)。小学校教師を務める傍ら、仲 間と一緒に年二回ほどの会報を発行。全国役百六十人の会員に山形から情報を発 信してきた。
 3○○と出会ったのは東京で過ごした大学時代のことだ。「『ゲゲゲのげ』の初演を見ました。最初からストーリーが分かってしまうような芝居が多い中 で、不思議な世界に取り込まれた。次は何が出てくるのだろうかと夢中になった 」。以来約十五年間、その舞台に魅了されてきたという。
 山形公演では、劇団員の身の回りの世話などの雑用もこなした。小劇場の上演が大都市に集中する中、赤字覚悟で山形にこだわってきた3○○は異色だっ た。「山形でも消して手を抜かず、東京に見劣りしない立派な舞台を続けてきた 。そのかいもあって、最近は本当に演劇を好きな人たちが『そろそろ3○○の季 節かな』といって来てくれるようになっていたんです」
 ◇ ◇ ◇ ◇
二月の山形公演の際には「村木沢にけいこ場を持つのが夢」とも話していた渡辺さん。いつかまた故郷の舞台で、3○○に続くような力のある演劇を見せて くれるに違いない。
(写真:今年2月の山形公演「深夜特急」の舞台に立つ渡辺さん(中央)=山形市で(劇団3○○提供))

応援ありがとう
「今は気が抜けた状態」

渡辺えり子さん語る
 これまで応援して下さって大変ありがとうございました。解散の原因を大ざっぱに言うと、今の劇団のシステムではこれ以上やっていけないと判断したこ と、それに劇団で十八年間やってきた俳優の東銀之介が亡くなったことです。
 劇団ではこれまで役者が制作(プロデュース)の仕事も兼ねてきました。しかしこの一年間で、その仕事に大きなミスが続きました。たとえば本多劇場で 再演を予定していた「ゲゲゲのげ」が、劇場がとれなかったために中止になりま した。私は演出だけでも大変なのに、他の部分に神経を使いすぎて精神的に参っ てしまったのです。
 また、東銀之介は劇団で一番長い俳優でした。3○○は来年、創立二十周年記念として三本の公演を予定していたのですが、東がいない現状ではそれは難 しくなりました。これも解散の要因の一つです。
 今は子育てが終わった母親のような、気が抜けてしまった状態です。もちろん自分で書いて演出する芝居は今後も続けますが、それは劇団になるかプロデ ュース公演になるか分かりません。人とわいわいやるのが好きなので、数年後に は同じことをやっているかもしれません。


(ほかにサンケイスポーツにも関連記事が掲載されている模様です)


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劇団3○○の解散について、資料となるようなものとして、1997年11月26日午前1:15分からNHK衛星第2放送で放送された「80年代演劇大全集:渡辺えり 子:げげげのゲ-逢魔ヶ時に揺れるブランコ-」(注:初演は1982年シアターグリーン 。放映されたのは1985年本多劇場での再演 )より、演劇評論家扇田昭彦氏と渡辺えり子の対談部分の一部(劇団運営に関する部分 を書き起こします。
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扇田氏:私が初めて劇団3○○を見たのは「夜の影」(1981年) だったんです。大変感動しまして、あのころは劇団、大変だったんじゃないですか?
渡辺 :そうですね、やっぱり、やめた方がいいのかな、なんて思ってたんですよ。というのは、生活もしんどいし、みんな25〜26(歳)になったのかなあ。そろ そろ家庭を持たなきゃいけないとか、親から、いつまでそんなことやってんだ、 なんて言われる状態でして、保険にも入れませんし、けがをすればそのまま終わ りだったりして、光永(吉江)からなんか「あんたが死んでくれれば助かる。」 なんて言われたんですよ。「劇団はつらいけど、戯曲や演出は好きだから死ねば 一番いい。」と、「死んでくれないか。」と言われて・・・シャレじゃなく。こ りゃやめた方がいいかなと。ほんとに考えてた時期ですよね。

扇田氏:どう、劇団を切り回していたんですか。
渡辺 :その当時は、制作はもたいまさこと光永吉江がやってくれてましたから。そして、その当時は私が一番年下だったんですよ。だから、可愛がられながら って言うか、同世代では、お客様の接待なんかはもたいたちが引き受けてくれて 。私は創作上のことに集中してればいい、という状況で。ただ、電話が1台私の 部屋にありまして、予約を受けるのはみんな私だったんですよ。必要に迫られて 愛想良くなったというんですか、社会性ができたころでもありますね。

扇田氏:80年代に創立メンバーがたくさんやめましたよね。今、渡辺さんと若手のメンバーとの間に年齢差があると思うんですが、たいへんとかありません?
渡辺 :それを聞かれると、3日ぐらいしゃべってますね(笑)。旗揚げメンバーは同世代ですから、同じように社会のことも考えてて、倫理観も一緒のところ もありますけど、世代が違うと、全然違うんですよね、集団で何かやるなんて意 味も、見つけられないでしょうし。
 あと、何でもある状況で生まれてきてますから、自分で創造して工夫して何かをやることが苦手なようなんですよ。何でも聞くわけですよね、「これどう したらいいんですか?」って。マニュアルで動くって言うんですか。指示しない と動かない。これはちょっと・・・劇団にとっちゃちょっとね。うちの劇団だけ かもしれませんけど。悩みは尽きないですよね。若くなればなるほど。
 それでまた、私は劇をやってる仲間として、どんどん(劇についての議論を対等に)やりたいんですけど、どうしても先生と生徒みたいになっちゃって、 教えるもんだ、教わるもんだ、というふうになっちゃって。言われるのを待って るって状況が、それがもう拷問ですね。意見を言って欲しい訳じゃないですか。 戯曲をこうしたらいいんじゃないかとか・・・。でもまあ、これからですね。
 あと5年とかと思ってて・・・そしたら、「夜の影」の再演 のときに撮ったビデオで、インタビュアーに私が聞かれてて、その時「あと5 年ですね。」って。10年前に言ってたってのがありますから、なかなか育ってくれないけれども。だけどざるで水汲んでも、ざるの縁にたまった水はたまる からと思いますけれども。
 そのうち年とってきますでしょ、もっともっと自分が。劇団をやっていく意味があるのかなあと、悩んでる時期では、正直に、ありますね。

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12月10日。渡辺えり子に質問する機会があったので電話で聞いてみました。

1.劇団3○○は解散しても、演劇活動は続けると思いますが、どんな形で再開すると考えていますか。(どだなこどになんなだべ)

 何も考えていない。開始するとすると来年(1998年)の春くらい。疲れたので、芝居の虫がうずき出すまでは休養。ただ、大竹しのぶさんのコンサートとシ アターコクーンの仕事は解散前に引き受けていたので、やります。

2.劇団3○○の役者さんたちが新しい劇団を別に作るような計画はありますか。(げぎだんつくっどがは、ないんだべが)

 たぶん、ない。そんなことがあったら、解散はしなかっただろう。



「劇団3○○」解散に寄せて

「成長」


渡辺真紀夫
 気がついてみると、私自身も白髪の目立つ四〇歳になっている。
姉が劇団3○○(当時2○○)を旗揚げしたのは、私がまだ大学生の頃だった。劇団との最初のつながりは、旗揚げ公演「モスラ」(一九七九年二月)に使う「双子のこびとの人形」を作ってくれといわれたことで、友人と二人で四畳半のアパートで作り上げた。
このときはまだ楽しかった。
 「ブルートレイン」(一九八〇年五月)と「改訂版タ・イ・ム」(一九八〇年八月)で舞台監督の助手や舞台監督をやらされたことが演劇に対する精神的外傷≠ニなってしまった。初めて、芝居の「裏につく」ことを体験したのだが、それは私にとって決して決して楽しいものではなかった。一つ一つのせりふをきっかけにして、常に現実の時間で進行する、人間たちの緻密な連係プレーなのだ。なにしろ私は小心者なので、ここで自分がしくじったらいかんという、強迫神経症的なプレッシャーを感じてしまい、非常につらかった。
 舞台のそでで聞くせりふも、舞台音楽も、照明も、非常に美しく感じたが、芝居を作ることに携わっている自覚のないピンチヒッターだったのだ。その時、「芝居は観るだけに限る」と強く思った。
ところが「観るだけ」は叶わず、今度は作品の中にモチーフとして描かれることになってしまった。
そして、劇団3○○の芝居が私自身に大きな意味を持ち始めるのも、姉が作品の中で姉自身と家族のエピソードを虚実ないまぜにして織り込み始めた、「夜の影」(一九八一年一二月)からだったと思う。
 「夜の影」で、私自身の子供の頃のつらい思い出が舞台上に展開されたとき、それまではあまり思い出したくもなかった少年時代が、客観的になつかしく、そして美しいと感じられたのだ。
 小説でも絵画でも、感動を与えてくれる作品と出会えるというのは、一生のうちにそう何度もあるものではない。私は幸運にも、感動を与えてくれる作者「渡辺えり子」と「劇団3○○」を再発見することができたのだった。
 しかし、当時は、いったい何に感動したのかを自分でも分からなかったし、ひとに説明することもできなかった。「感動は人を沈黙させる」というが、正にそれだった。なにがなんだかわからないのだ。
 渡辺えり子が次に書いた作品「ゲゲゲのげ」(一九八二年九月)が白水社から出版されることになったときに、あとがきに文章を載せたいといわれ、判然としないまま何とか書いた。書くことができたのは、主人公の名前こそ「マキオ」で、いじめられっ子だった私をモデルにしているとされてはいるものの、そこに描かれているさまざまの場面が、私の体験より渡辺えり子自身の体験や友人への取材によるところが大きく、いくらか客観的に見ることができた作品だったからかもしれない。
 それ以後、自分が何に感動したのか、劇団3○○の芝居のおもしろさはどう説明すればいいのか、と考えてはいたのだが、作品のおもしろさはいつも説明できないのだった。
 たとえば、「瞼の女」(一九八四年六月)のおもしろさも、うまく言葉にすることができなかった。論点を定めようとしても、そのおもしろさはするりとその論点から逃げ出してしまうのだった。演劇自体を成立させている条件の多さをつくづく感じ、また、その条件の多さが、演劇に対する客観的な研究を少なくしている原因ではないかとうすうす判った。
 そして、感想らしい感想を書くことができたのは、結局、旗揚げメンバーがほとんどいなくなった「風の降る森」(一九八九年五月)だった。感想を姉に送ったところ、姉から「理解してくれる人がいてうれしい」という返事をもらった。実はうれしかったのは劇作家兼演出家(出演も)から直々に手紙をもらったこっちの方だった。(このとき書いた感想をもとにして書いた文章は、一九九五年八月に再演されたときのパンフレットの解説として採用してもらった。)
 劇団3○○に関わったことといえば、なんといっても夢人塾(劇団員を養成するための養成所。一九九二年四月〜一九九五年三月。三期生まで。既知の通り、我が義兄の土屋良太氏も第一期生の一人)である。突然の話で、そこで、渡辺えり子の「戯曲分析」の講座を持たないかというのであった。
 話を聞いたときは、「何で俺なんかが」とびっくりしたが、渡辺えり子の作品に対する客観的な資料が残せるかもしれないということもあり、引き受けた。(いくらかお金をもらえることも大きかった。渡辺は多分に、子供が産まれたばかりの私の生活も心配してくれたようだった。もらったお金で新しいワープロが買えたので、後にホームページを作るときに、資料を流用することもできた。)
 興味のあることについて、調べたり、勝手な意見を述べたり、なによりも生徒が熱心で、話を良く聞いてくれたので、非常に充実していた三年間だった。
 夢人塾の塾生には全くの素人が多く、全くの素人に演劇の一から教えてくれたという点で(プロの現役の演劇人の講師に混じって、私というズブの素人の講師が一人混じってはいたが、)すばらしい教育機関だったと思う。経営としてはずっと赤字で苦しかったと聞いている。
 もし私が劇団3○○にとっていくらかでも役立つことができたのであれば、それは、劇団3○○の作品や、夢人塾での授業によって劇団に育ててもらったからである。渡辺えり子が必死で続けてきた劇団とは、たぶん、そんな、人を育てる場所でもあるのだろう。

 今回劇団3○○が解散するに当たって、その原因は渡辺と団員との世代間格差だとされている。
 一九九七年一一月二六日にNHK衛星第二放送で「八〇年代演劇大全集:渡辺えり子:ゲゲゲのげ 逢魔ヶ時に揺れるブランコ 」が放送された。その中の劇評家扇田昭彦氏のインタビューで、役者たちとの年齢差による運営の難しさを聞かれ、渡辺は「教えるもんだ、教わるもんだという関係になって活性化が図れない」という旨を答えていた。
 作品を作り上げるために、俳優の養成に力を使い果たさなければならなかった渡辺えり子の労力は大変なものだっただろうが、逆の視点から見れば、渡辺自身が一から教えた役者に、劇団主宰者であり、二〇年のキャリアのベテラン女優であり、劇作家であり、演出家であり、また教師でもある渡辺と対等な立場を要求するのは、やはり酷だったのではないだろうか。
 一九年間で、劇団3○○も成長したし、劇団3○○に関わった人間も成長した。そして、渡辺えり子も成長した。自ら望む能力も、他から期待される能力もより高いものになった。成長していなかったのならば、ずっとそのままで、解散もなかったのだろう。
 一九年でここまできたのなら、みんな劇団3○○の解散からさらに一九年後も成長していたいものだ。私もその頃は六〇歳に手が届く。


(この文章は「劇団3○○fanclub」の最終号(2001.1.1発行)のために、1998年に書かれました。)