この度Go-21HomePageに喫茶「波浪亭」を開店いたしました。
このお店では、お馴染み波浪亭の紀行文や随筆を紹介しますのでお楽しみ下さい。
尚、このページで紹介する作品の著作権は波浪亭店主に帰属します。


                        
         波浪亭の栗より美味い十三里
        
〜思いつき旧道ぶらり旅〜 

                   第14回・最終回
             【番外編その3:川越城下案内】

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蓮馨寺を過ぎて次の交差点を左折し、10分程歩くと右側に成田山別院があります。
ここを右折すると突き当たりが、川越の大きな見せ場『喜多院』になります。
喜多院は830年、慈覚大師によって創建されましたが、何と言っても第廿七世の天海大僧正
(慈眼大師)が法統を継いでから隆盛を極めます。
ここは第三代将軍家光と縁が深く、寺内には江戸城紅葉山から移築された『家光誕生の間』
、1604年、家光の乳母となった春日局の『化粧の間』があります。
春日局は竹千代(家光)を後継とするよう家康に直言し、実現させたことから大きな影響力を
持っていたと推測されます。これは今風に言うと、家康の知恵袋であった天海とのコラボレー
ションによる成果だったと言えるのでしょう。

話しは脱線しますが、「明智光秀は信長を本能寺で討った後、秀吉に討たれ、三日天下で終
わった」という歴史に対して「光秀は実は生き残り、家康の庇護を受けて天海僧正になった」
という説があるのをご存知ですか?
そんなバカな!?と一笑で投げ捨てずに歴史を想像で楽しみましょう。だって春日局の本名
は福。父親は斉藤利三といい明智光秀の武将なんですよ!さて、この事実をどう理解したも
のでしょうか・・・謎・・・

本線に戻しましょう。喜多院の見所はまだあります。境内の隅には『五百羅漢』様々な表情の
羅漢様が並んでいます。見る人の心を写した表情の羅漢様が必ずあるはず、と思って探して
みるのも一興です。

五百羅漢の反対を行くと『仙波東照宮』があります。この東照宮は静岡県の久能山から日光
に移葬する際、途中、喜多院に4日間逗留して天海僧正が大法要を営んだ因縁で、寛永10
年(1633年)創建されたものです。
ちなみに日光街道は江戸から千住、草加、越谷、粕壁(春日部)、杉戸、幸手、栗橋、古河、
小山、小金井、宇都宮、今市という道筋ですが、家康の移葬ルートはこの街道ではありませ
ん。日光脇往還と言われるこの道、久能山から沼津、三島、平塚、厚木、町田、府中、所沢、
川越、東松山、館林、栃木、鹿沼、今市と行きます。概ね東海道から旧鎌倉街道伝いに北に
上っていることになります。

さて、喜多院の境内を東に出て道路を渡ると小さな神社があります。ここが『日枝神社』。
この神社、小さいからと侮る無かれ。
日枝神社は日吉(ひえ)とも、山王権現とも言います。1478年、太田道灌は江戸城築城の
際、紅葉山にここの日枝神社を分祀します。この江戸城内の日枝神社、後に永田町に移さ
れることに。つまり赤坂、山王の日枝神社の起源がこの神社ということです。

日枝神社から喜多院の境内の外側をなぞるように歩くと、右側に『中院』が現れます。
元々、南院、中院、北院という三つの寺院の中心として位置していたお寺ですが、天海が北
院の僧正になって喜多院と名を改めた以降は、実権が移ってしまったようです。
今は手入れの行き届いた庭が美しく、境内には島崎藤村が義母に送った茶室が移築されて
保存されています。

ここから西武本川越の駅までは歩いて10分程の距離。
川越にはまだまだ見所があります。ここの一番良いところは、古いものが現役でいると。
ここに紹介した以外にも、まだまだ見所、食べ処あり。そしてお祭りも。
探検してみませんか、川越・・・。


  参考文献等  「考証 中山道六十九次」戸羽山潮著
「内藤新宿 殺め暦」本庄慧一郎著
         「地誌」新座市教育委員会編
         「鎌倉河岸捕物控 古町殺し」佐伯泰英著
         板橋区、練馬区、和光市、朝霞市、新座市、三芳町、大井町、川
越市の各教育委員会設置の案内板、パンフレット等



喜多院「鐘楼門



慈恵堂(本堂)



五百羅漢像・・なかなか味わいある表情です。





                        
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〜思いつき旧道ぶらり旅〜 

                      第13回
             【番外編その2:川越城下案内】

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本丸御殿から川越高校の脇を真っ直ぐ抜けると、川越市役所の前に出ます。ここを横切っ
ているのが川越街道から来る道です。

街道は城下に入ってここに来るまで、二つのクランクを過ぎて来ます。旧宿場や城下は防
衛の意味もあって、このようなクランクが必ず造られています。どこかの城下町出身の方、
故郷の町にもこのような道がありませんでしたか?

さて、この道を横切って行くと『札の辻』という交差点に出ます。
札の辻は高札(公共掲示板)があった所で、ここを中心に街が造られました。
この左の道が『蔵造りの町並み』です。

明治26年、街の1/3を焼失する火災がありました。この復興の際、蔵造りの家屋が火災
に強いということで、このような町並みが出来あがったそうです。多くの説明より写真をご覧
ください。明治の建造とはいえ江戸末期の雰囲気が十分に味わえること請け合いです。

札の辻を100mほど行くと左側に路地があります。ここが『菓子屋横丁』。昭和初期には70
軒以上の菓子屋が建ち並んでいたそうですが、現在でも10数軒の駄菓子屋が軒を連ねて
います。童心に帰る場所といえるでしょう。

札の辻から蔵造りの町並みを200mほど進んだ左側には、川越のシンボル『時の鐘』があ
ります。今も午前6時、正午、午後3時、午後6時の4回、時を告げています。時の鐘は「残
したい日本の音風景百選」に選ばれています。

蔵造りの町並みが終わる交差点を更に進むと、蓮馨寺(れんけいじ)があります。ここには
『おびんづる様』という像があり、自分の悪い所と同じ場所を擦ると治るという言い伝えがあ
ります。

お陰でおびんづる様はテカテカに光っています。



蔵造りの商家



菓子屋横丁



川越のシンボル「時の鐘」




                        
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                      第12回
             【番外編その1:川越城下案内】

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さて、川越城下のご案内をしましょう。
 
まずご案内するのは『川越城本丸御殿』。

川越城は関東管領の扇谷上杉持朝が家臣の太田道真、道灌父子に命じて1457年に築城し
ました。太田道灌は江戸城や岩槻城を築城した名建築家であることは良く知られています。
川越のルーツは鎌倉扇谷(おおぎがやつ)にあったことになります。

その後、江戸時代に入り酒井重忠が一万石で封じられ、その三十数年後に城主となった松平
信綱が拡張・整備を行い、近世城郭の形態を整えました。

現在残る本丸御殿は嘉永元年(1848年)に時の藩主、松平斉典が造営したものです。当時
は1025坪の規模を持っていたそうですが、明治維新後に次々と解体され、現在は玄関部分
と移築復元された家老詰所のみとなっています。
 
本丸御殿に隣り合った場所には『埼玉県立川越高校』があります。この高校、県立の男子校
で県内屈指の進学校でありながら、別のことでも有名に。それは映画「ウオーター・ボーイズ」
のモデルとなった男子シンクロナイズド・スイミング。今年も9月の学園祭に行われますが、鑑
賞はまず無理。例年、観客が溢れかえっています。
 
本丸御殿の向い側にはこの辺りの高校野球のメッカ『川越初雁球場』があります。夏の準々
決勝まではこの球場が使われ、今年も優勝候補の一角だった埼玉栄高校が、本庄早稲田と
いう進学校に負けて選手が泣き崩れる、というドラマがありました。(筆者、偶然目撃)
 
初雁球場の奥には『三芳野神社』。ここはこの歌発祥の神社です。

      とおりゃんせ とおりゃんせ
ここは どこの 細道じゃ  天神様の 細道じゃ
ちょっと とおして くだしゃんせ
  ご用のない者 とおしゃせぬ
      この子の七つのお祝に お札を納めに参ります
      行きはよいよい 帰りはこわい
      こわいながらも とおりゃんせ とおりゃんせ



川越城本丸御殿


                        
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                      第11回
           【〜川越宿】(〜新河岸駅〜川越駅)

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大井との行政境で旧道は再び左に逸れる。この先3kmほどは静かな旧道を歩くことになる。
残り僅か。のんびりと歩を進めれば街道最後の橋で不老川(おいしらずがわ)を渡る。
この川を下り新河岸川と合流した所が舟運の終点、扇河岸になる。

その昔、治安、防衛といった目的もあってか舟のまま城下に入ることはさせず、少し離れた所
に河岸を設けて不便にしたのかも知れない。ちなみに舟運の河岸は川越五岸といい、下流か
ら寺尾河岸、下新河岸、上新河岸、牛子河岸、そして扇河岸は最も宿場寄りの河岸である。

川越の舟運は寛永十五年(1638年)、焼失した仙波東照宮の再建資材を運搬するために寺
尾河岸が開設された。その後、上流に向けて次々と河岸が設けられた。

当初は藩の物資輸送が中心であったが、次第に商品輸送に比重が移って行ったという。
それぞれの河岸には船問屋が何軒も店を構え、問屋ごとに扱う商品が決められていた。
また河岸場でも取引地域が決められており、松山(現在の東松山)、越生、飯能、青梅方面
の荷を扱っていた。

青梅は多摩川の上流だが、なぜ多摩川は舟運が発達しなかったのだろうか不思議。
川越の船には並船、早船、急船、飛船と、4種類あり、旅客運送の早船を指して『川越夜船』
といった。この船は午後四時に出船し翌日の正午ごろに浅草裏の花川戸に到着したそうだ。
便利だよなぁ・・・やっぱり。

さて、川越街道は間もなく新道に合流する。合流点は国道16号線との交差点でもあり、歩道
橋を越えれば川越の城下である。

疲れた足を持ち上げて歩道橋を上りきると、西の空は秩父の山並みに日が沈むところ。
(カメラ、カメラ・・・)と慌ててバッグを下ろしてカメラを取り出すと、ファインダーを覗いた瞬間
に太陽が山並みに隠れてしまった。日没の瞬間とは、こんなにも早いものか。

そういえば、日没だから暮れ六つだよねぇ。この時刻に宿場に入るとすれば、旅人としてはギ
リギリセーフかな。
 
二日間のウオーキング。この日、体重を計測したら出発前より約3kg減。
でもねぇ、ダイエットのために歩いたけど、ダイエットしてから歩く方が正解だよな・・・と、しみ
じみ感じる私でありました。



新道に合流



粋な板塀



ここから川越宿




                        
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                      第10回
            【大井宿】=(ふじみ野駅〜)

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ウオ−キングも山場である。白子宿を過ぎた所で昼食をとり、休憩を挟みながらのんびりと歩
いてきたつもりだが、さすがに足が痛くなってきた。これからが体力と気力の勝負。

三芳町に入って2kmほど行くと左に広源寺がある。寛永16年(1639年)の開基というから、
400年近くも街道の変遷を見つめつづけてきたお寺である。この辺りを藤久保といい、明治7
年、藤久保小学校がこのお寺に開設されたそうだ。

しばらく行くと大井宿のあった現在の大井町に入る。大井小学校の街道際には旧役場の古い
建物が保存されている。ここを通り過ぎると、旧街道は左側に別れていく。始めて新旧街道が
左右入れ替わることになる。
 
分岐から500mほど行った交差点には常夜灯が建っている。『角(かど)の常夜灯』という。
川越周辺では丹沢の大山信仰が盛んで、交差している道が大山道と言われた。この角を曲
がって百姓衆の雨乞いの講が丹沢を目指して歩いていったのだろう。

道沿いには屋敷林も残っていて、疲れた体に優しい影を落としてくれる。間もなく新道に合流
するが、合流点の手前には神明神社があり、そこで一休みをする。ベンチに腰掛けて靴を脱
ぐと、汗ばんだ足に風が通って気持ち良い。境内全体が木に覆われていて、街道の気温とは
随分違う。

昔の旅人は足袋に草鞋。今よりもずっと条件が悪いのかも知れないが、アスファルトの硬さ
と照り返しは厳しいよなぁ・・・。

さて、もう一息と気合を入れ直して、再び歩き始める。

間もなく大井町から川越市に入るが、沿道の農家が往時を偲ばせるものの、『大井宿』として
保存されているものが街道沿いにこれといっては無かったようだ。


次回につづく



三芳町:広源時



旧大井町役場



角の常夜灯




                        
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                      第9回
         【大和田宿〜大井宿】=(柳瀬川駅〜鶴瀬駅)


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野火止から屋敷林の作り出す日陰を選んで歩いていくと、再び下り坂となる。この辺りが大和
田宿。田中の交差点を過ぎると一方通行なので車の数が少なくて歩きやすい。古い地図を見
ると白子宿の次が大和田宿と標記されているから、ここは重要な宿場だったに違いない。しか
し鉄道の駅を中心とした近代社会の発展からは取り残されてしまったのか、これといった町づ
くりのコンセプトもないまま現在に至っているようだ。朽ちた観音堂の地蔵菩薩があまり厚遇を
受けているようには見えないのが悲しい。

東上線と川越街道の距離が離れてしまう和光市を過ぎた辺りから川越まで、このような景色
が続くことは寂しいことだと思う。
 
旧川越街道はこの先で合流し、英橋で柳瀬川を渡る。ここからは昔のままの道路幅員になっ
ているが、少し歩くと所々に中央分離帯を配した広い造りの道路となる。この道は旧建設省が
『川越街道』を意識して築造したのだろう、中央分離帯には石碑風の川越街道という大きな看
板?がある。沿道の景色は地方のバイパスに見る景色とあまり変わらないのが残念だ。しか
も中央分離帯も歩道も雑草の伸び放題で二重の残念。

中央分離帯に植えられている高木は松や欅。松は東海道に見られる典型的な樹木であり、
欅は武蔵野の代名詞のような樹木である。
 
ところで旧東海道には松並木、日光街道には杉並木というように、それぞれの街道は旅人を
保護するために幕府が並木を植えたと言われるが、徳川幕府、実はそんなに優しく無く、本当
は防衛の意味があったという。敵の侵攻があった場合に並木を切り倒して進路を妨害する。
しかし明治維新のおり、幕府がそのような手段を組織的に採ったという事は聞かないので、真
偽のほどは定かでない。

もしかしたら当事の幕府は300年も続いた平和ボケで、街道の並木にそのような目的があっ
たことを忘れてしまったのかも。何やら現代でも同じような状況があるような気がしないでもな
い。
 
次回につづく



大和田宿の観音堂(お地蔵様??)



柳瀬川も水質良好



街道の松(建設省の固定観念?)



                        
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                      第8回
          【膝折〜野火止】=(〜朝霞駅〜志木駅〜)


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切通しを上りきって暫らく行くと旧道が再び右に分離する。旧街道は和光市駅前を通り過ぎて
朝霞市に入るが、間もなく「駅から離れた場所なのに、こんなにスナックや居酒屋があるの?」
という一角に入る。

そう言えば、昔はストリップ劇場もあったよなぁ。戦後、進駐軍が駐留していたころの名残なの
かもしれないが、今は自衛隊で商売が成り立っているのかな。大きなお世話か。
 
旧道はこの先、朝霞警察署の所で新道と急接近し再び離れて行く。旧道は再び下り坂になっ
ているが、これは川に至るアプローチ。このあたりは鬼鹿毛という名馬が骨折して埋葬された
とかで、膝折(ひざおれ)が地名となっている。旅人も七つ立ちをして日本橋からここまで歩い
てくると膝がガクガクするだろうから地名もピッタリだ。

この地も古い木造家屋が残されており、雰囲気があって良い。街道脇に残るのは旧脇本陣の
村田屋。川越のお殿様は殆ど江戸詰めであったそうで、川越街道に大名行列が通ることはめ
ったになかった。しかも通る際には一日で歩き通してしまったそうだから、脇本陣は休憩場所
だったのだろう。
 
村田屋の先の信号を左折して行くと流れる川は黒目川。新編『武蔵風土記』(天保元年:1830
年完成)によれば、「水上は多摩郡柳窪村にて 所々の清水あつまり 二条の流れとなり 同
郡落合村に至りて 合して一流となり 新座郡栗原村へ流れ入る。このあたりをすべて黒目里
と云。 故に此名あり。或いは久留米川とも書き 来目川とも記す。川幅或は二、三間、或は五
、六間あり。末流に至りては十間余に至る」

と記されるとおり、川越街道を横切る川としては大きな川である。因みに多摩郡柳窪村とは現
在の東京都東久留米市になるが、今も湧水は豊富で市内各所に清流が保たれている。
 
黒目川を渡って道なりに行くと、坂を上って間もなく野火止大門の交差点に着く。ここを左折す
ると古刹『平林(禅)寺』。フタバ文庫「鎌倉河岸捕り物控 古町殺し」佐伯泰英著では、何者か
に命を狙われる町年寄り樽屋藤右衛門が親戚の法事に出席するため、金座裏の宗五郎親分
の手先、政次を警護に付けて平林寺に向かう場面が出てくる。彼らは七つに日本橋を出立し、
駒込追分を抜けて平林寺に八つ半(午後三時ごろ)に到着する。フィクションとはいえ時代小説
は考証がしっかりしている。概ね11時間かかったことになるのは、昨日から通算すると私のペ
ーストほぼ同じ位になっている。

この交差点の近くには古い町医者の建物が残っている。残っているではなく、残されていると書
きたいものだ。

ここから少し行くとJR武蔵野線の新座駅である。駅の近くには「絶品の塩ラーメン」があるとか・
・・あ〜暑くてラーメンのことなど考えたくも無い・・・ということで、街道沿いの小さな神明社の隅
に腰を下ろして休憩をする。屋敷林が残されたこの地域、夏の盛りに歩くには絶好である。

木立を抜けてくる風が気持ち良い。

   神明社 青葉の庇に 守られて  (波浪亭)

次回につづく



膝折宿の脇本陣村田屋



名刹、平林寺大門の交差点



日差を避けて神明社




                        
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                      第7回
            【新田坂〜白子宿】=(〜和光市駅)


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成増を抜けると直線の下り坂になる。日本橋からここまで石神井川の支流は越えたがこれと
いった川はない。

この下り坂は最初の川らしい川、白子川に向かって傾斜している坂で新田坂と言う。現在の
道路は切り通しになっているが、旧道は坂の途中にある小さな八坂神社で右に分離して下っ
て行く。旧道の景色はそれまでとガラリと変わる。

坂を下りきった辺りが旧白子宿。宿場として栄えていたころを思わせる木造家屋がチラホラと
残っている。見ようによっては、まちづくりの種が放置されているようにも・・・。
 
文化十二、三年ごろというから1815、6年の成立といわれる『郊遊漫録』という書物がある。
著者は江戸末期の観光ガイドブック『江戸名所図絵』を父幸雄・息子幸成と共に完成させた斎
藤幸孝。『郊遊漫録』は『江戸名所図絵』編纂のための調査記録である。
 
文化十二年乙亥十月廿三日より十一月二日に至る。
廿三日、江都発足。巣鴨鶏声ヶ窪より上板橋宿、練馬赤塚より白子宿入口新田坂迄すべて
北をさして行、白子新田坂を下りて宿に入る。此所屈曲して是より川越へは東より西をさして
行街道也。此宿まで江戸より行程四里半、此日発足も遅刻巣鴨より小雨降出し、持病の痔
さえいたみ出ぬれば、歩行心に不任申のかしら白子宿柏屋右十衛門に草枕かりのやどをも
とむ。
 
いやはや、昔の取材旅行も大変だったようで・・・。
 
白子川に架かる白子橋の欄干には『靴が鳴る』の歌碑プレートがある。

   おてて つないで 野道をゆけば
   みんな かわい  小鳥になって
   うたを うたえば 靴がなる
   晴れた お空に 靴がなる

作詩者の清水かつらが大正8年から昭和26年に亡くなるまで、この地に住んでいたそうだ。
教育上の観点で清水かつらの歌碑をつくるなら『靴が鳴る』を選曲するのかも知れない。しか
し、小さな宿場町から一歩外れれば田畑と雑木林という当時の武蔵野の環境を思えば、私な
ら風景や生活が絵になって浮かび上がる『叱られて』を選ぶけどね。

叱られて 叱られて
あの子は 町まで お使いに
この子は 坊やを 寝んねしな
ゆうべ さみしい 村はずれ
コンと キツネが 鳴きゃせぬか

白子川を渡り左折すると旧バイパスと合流して切り通しの上りへ。新バイパスと旧バイパスは
白子川の手前で分離し、新バイパスは南に大きく回りこみ、世界のホンダ、本田技研を包み
込むようにして旧道と平行して西へ向かう。ここ和光市は財政的に裕福な自治体である。最近
では近隣市との合併協議からも離脱をして自立する道を選んだが、だからこそ昔の風景にも
う少しお金をかけられないのかなぁ、もったいないなぁ、と思うわけだ。


次回につづく



新田坂の八坂神社



白子川の両側は急な切り通し




                    
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                      第6回
      【下練馬宿〜成増村】=(東武東上線:上板橋駅〜成増駅)


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この日は、昨日と同時刻の9時30分に上板橋から歩き始める。
ここで川越街道の道のりを確認しておこう。
 
日本橋〜(三里)〜板橋〜(三里六丁)〜ねりま〜(一里十丁)〜白子〜(一里)〜膝折〜(一
里)〜大和田〜(一里)〜大井〜(三里)〜河越
 
上板橋の商店街を抜けると練馬区に入る。

この辺りは旧下練馬宿、現在の東上線東武練馬駅。ここの商店街がかなり長く、この日は商
店街を挙げての特売日で全店が工夫を凝らした目玉商品を提供するのだとか。酒屋さんには
長蛇の列があり、並ぶ人のお目当ては30人限定の『越の寒梅3800円』。下戸の私には関係
のない世界なので通過。

有名な商店街ほどではないにしても、この商店街は活気を感じた。デフレによって生き残れな
くなった個人商店が店を閉め、商店街も櫛の歯が抜け落ちるようになってしまうといったことは
目にするが、この商店街は商店街としての努力で環境に立ち向かっているようだ。ここは新道
が自動車通過のバイパスとなり、旧道は歩行者が買い物を楽しめる商店街になっている。
旧道の良さが十分に生かされているとも思える。好感・・・。

暫らく行くと右側に北町観音堂が現れる。練馬区内最大の石仏、270センチの『北町聖観音坐
像』のお住まいである。
 
さて川越街道の旧道は住宅街を抜けると新道に合流するが、手前の和菓子屋さんがちょっと
気になる。創業○○年の食べ物に弱い私。

ここからは旧道の上に重ねて新道が造られているので、古いものは殆ど残されていない。残さ
れているのは馬頭観音のような交通に関係のある石碑のみ。新道築造の際にほんの僅か配
慮されたものだろう。これを「良く残した」と評価するのか「これしか残さなかった」とするのかは
難しい所だ。現に車社会の幹線道路として十分に機能しているのだから。ただ、これだけ幅員
のある道路の両側は商店街にはなり得ないし、歩行者もあまり見かけないことも事実だ。まち
づくりは難しい・・・

川越に向かって右側を歩いていると交番のそばに庚申塚がある。小治兵衛窪(おじべえくぼ)
の庚申様と呼ばれるこの塔、道路新設の際に邪魔扱いされて近くのお寺に引越しをさせられ
た。しかし事故が多発するので、元の地に戻ってきたそうである。塔に彫られた金剛坐像が、
現代人の浅知恵を笑ってるんだろうなぁ。


次回につづく 



この日の出発点、上板橋



ちょっと古い和菓子屋さん



小治兵衛窪の庚申様



                    
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              第5回 【板橋宿〜上板橋(泊)】

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さて、板橋駅の商店街を通り抜けると国道17号線に合流する。

板橋宿とは所謂総称で、上宿、中宿、平尾宿と三つに分かれ、この合流地点が一番江戸寄
りの平尾宿になる。江戸時代の旅篭には大旅篭と小旅篭があり、大旅篭の泊まり賃が一泊
二食1200文〜1500文、小旅篭が50〜60文というから、食事付きシティホテル泊とビジネ
スホテルでカップラーメン位の差があることになる。

また飯盛り旅篭と呼ばれる旅篭が、この板橋宿だけでも数十軒あったようだ。「名残惜しい
なぁ・・・もっと先まで送って行くよ」とか言いながら駒込追分を通り過ぎ、長屋の八っあん熊
さんが板橋宿まで見送りに来る目的はこれである。

明和元年(1764年)、千住、板橋、品川の三宿場連名で『飯盛り女』の増員願いが奉行所
に提出されており、この決定が品川200人、千住と板橋がそれぞれ150人となっている。
しかし実際の人数はもっと多かったようで、「玄関に 女郎の小出し 二三人」という川柳が
残っている。内藤新宿が何故無いかというと、この時は廃止されていたから。この後、「風紀
を守る」ことを条件に宿場が復活するが、この当時の風紀とは何だったのかしら。今も昔も
商人と役人の建前と本音は判りかねる・・・。

ここで一つ気が付く。千住宿、品川宿、内藤新宿、そして板橋宿は四宿と言われた。江戸か
ら次の宿場までが長いので、これらの宿場が設けられたとも。でもねぇ・・・何となく判っちゃ
ったね。これらの宿場は江戸から出て行く旅人のものではなく江戸に入ってくる旅人のもの
、しかも藩邸勤めの武士や出張帰りの番頭さんや手代さんが、堅苦しいお勤めに戻らなけ
ればならない最後の一夜を、羽を伸ばして過ごすために設けられた宿場なんだね、きっと。

この板橋宿、品川や千住とは違う趣があったようだ。1774年刊「婦美車紫鹿子」に曰く「髪
の風、衣裳、人がら、ともに音羽(護国寺門前の岡場所)に真似る。ただし、ここは言葉づか
い田舎めいておかしみ有」とか。
 
旧中山道は17号線を横切って真っ直ぐ進み、板橋宿の中心である中宿に入っていくが、旧
川越街道はここから左折して東上線大山駅に向かう。そして大山の商店街を横切って現在
の川越街道に出るが、旧川越街道はすぐに右側に分岐する。本格的な旧川越街道ぶらり
旅はここからが本番となる。

分岐した旧道は今も生活道路として息づいている。所々に古きを残し、六蔵菩薩が袂にある
下頭橋で石神井川を渡って上板橋宿を抜ける。
 
梅雨明けの暑さのせいもあって私はそろそろ限界。街道脇の天祖神社の木陰で休憩。時刻
は午後2時。歩き出してから4時間30分。私はヘロヘロに疲れているが、七つ立ちをした昔
の旅人にすれば序の口なんでしょうねぇ。ここに至る間、信号待ちも電柱が作り出す細長い
陰の下に入ってボー・・・としている私。

  梅雨明けや 柱の陰に 身を寄せて  (波浪亭)

疲れた・・・腹へった・・・今日はもう止めよう・・・ともう一人の自分が囁きかける。でも、今日
中に1/2を歩くとなると目標は東上線の下赤塚か成増あたり。ここ上板橋で止めるとまだ
1/3。明日がきついかな・・・などと迷いつつ、目先の楽を選んで一日目の旅は終了するこ
とにして上板橋駅へ向かう道を選ぶ。やはり七つ立ちをして、涼しいうちに距離を稼ぐのが旅
人の鉄則なのだろう。
 
宿泊はこの日の朝に予約した板橋のホテル。自宅まで1時間ほどなのになぜホテル泊にし
たかというと、家に帰ったら間違いなく明日は出てくるのがイヤになってしまうと思ったから。

このホテルは個性的な風貌でマスコミ露出好きオバサマが社長のホテル。設備も料金も文
句はないが、チェックインして部屋に入ると案の定、社長の顔が表紙になった本が置かれて
いる。(今晩、夢に出てきそう・・・)と不安を覚えるも、疲れから早々に熟睡し夢を見ることもな
く翌日は健やかにお目覚めをした。めでたし、めでたし、である。


次回につづく



旧平尾宿(新旧中山道合流点)



六地蔵と石神井川



天祖神社



                    
         波浪亭の栗より美味い十三里
        
〜思いつき旧道ぶらり旅〜 

                 第4回 【巣鴨〜板橋】

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巣鴨駅に出ると中山道は新道の国道17号線と旧道に別れる。
そう言えばかつてTV局の女子アナが、横書きされた旧中山道を(いちにちじゅう、やまみち)
と読んでいたっけ、など思い出しながら、新道の左に逸れていく旧道を行くが、この入り口に
あるのが真性寺。江戸に入る諸道入り口にお地蔵様が安置され通称六地蔵と呼ばれた。一
番が品川の品川寺。二番四谷の太宗寺。そして三番がここ巣鴨の真性寺。四番山谷の東
禅寺。五番深川の霊巌寺。六番同じ深川の永代寺となっている。そしてこの少し先右側が
『とげ抜き地蔵』の高岩寺。おばあちゃんの原宿の異名どおり、離れた所から『巣鴨地蔵通
り商店街』を見ると、夏だと言うのに全体のトーンが茶色だぜ。
 
商店街ではそれぞれの店のオバチャンが次々通る参詣客と目線が合うと、気軽に声をかけ
て立ち止まらせる昔ながらのキャッチセールス。これは商売としてなかなかの高等戦術とお
見受けした。

私が商店街を歩いていると、向うから60年配の杖をついた男性とその奥さんと思しき介助す
る女性がきた。ヨロヨロとした足取りなので私が道の中央寄りに避けると、沿道の和菓子屋
のオバチャンがお決まりの声をかけた。
「どうしたの?」
介助の奥さん、それに応えて
「この人、四階から落ちちゃって」
「へー、大変だったねぇ」
(一寸待て・・・あんたらの会話、おかしいぞ!それにオヤジ、あんたはお参りが必要ない位、
ツキがあるぞ!)
オバサン二人のさり気ない遣り取りに心の中で叫んだ私でした。
 
この商店街はかなり長い商店街で、都電荒川線の庚申塚駅まで続いている。私が子どもの
頃、都電は銀座にも走っていたし、新宿の角筈からも池袋からも走っていたが、今では軌道
敷きの専用地を持っていたこの荒川線だけが残っている。ならば『荒川線』の表示はいらな
いのかね・・・とも思うけどな。

庚申塚で都電の線路を渡ると、これといって特徴のない道が続く。暫らく行くと右側に数十年
は経っているだろう、昔の事務所然とした建物が現れる。これが『亀の子束子総本舗』。今の
若い人には『束子』は読めないかな・・・ということで、これが『タワシ』。今でこそあまり見かけ
なくなったが、一昔前は一家に2つや3つはあった家庭の必需品。この『亀の子束子』の総本
舗がここにあるということが、この道がある時点まで幹線道路だったことを証明している。
 
間もなく旧中山道は板橋駅東側でJR埼京線を横切る。板橋駅の前には新選組局長、近藤
勇の墓がある。ここは胴塚。処刑された首は小塚原(今の南千住駅あたり)に晒され、胴体
がここに埋葬されたとのこと。

劇中の近藤勇は知的なリーダーのように描かれることが多い。しかし、いろいろと書かれて
いるものを見ると、上昇志向が強いコンプレックスの塊で典型的な俗物という姿も浮かび上
がる。副局長の土方歳三が武士としての筋を通し、会津から北へ北へと流れ、函館の五稜
郭で官軍に徹底抗戦し、壮絶な戦死をしたのとは大きく違う。

ところで新選組なのに、近藤はなんで組長ではなく局長なんだ?

次回につづく




おばあちゃんの原宿、地蔵通り商店街です。




高岩寺(刺抜き地蔵)と門前の托鉢



これが亀の子束子本舗です。


                    
         波浪亭の栗より美味い十三里
        
〜思いつき旧道ぶらり旅〜 

                 第3回 【本郷〜千石】

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反対側を歩いていると車が多くて見過ごしてしまいそうな本郷薬師堂の前を通り過ぎ、次に
目指すは百万石と言われた加賀藩上屋敷。今はその跡に東大が建っている。

ところで百万石だが、一人一食に一合の米を食べる計算にすると、1年で食べる量が概ね一
石になるそうだ。つまり加賀藩は百万人を養う石高があったということ。徳川幕府は外様大名
には財を与え、譜代大名には財を与えず政治の中枢に置いて権力を与えた。
そして千代田城の周りは譜代大名の屋敷で固め、外様大名の屋敷はその外側に置いた。

赤門を通り過ぎたところが本郷弥生町交差点。この角にはカバン修理の達人、吉田カバン店
が鎮座。お気に入りのバッグが壊れたら、ここに駆け込めば何とか直してくれるそうだ。高級
バッグや思い出の品が壊れてお困りの方はチェック。
 
次の交差点がその昔、駒込追分と言われた分岐。真っ直ぐ伸びるのは日光街道。私は左折
する中山道を辿り白山方面へ向かうことになるが、ここまでで丁度2時間、昔で言えば一刻。
七つ立ちをしていれば、春秋の季節は空が明るくなる頃である。江戸時代のお見送りはこの
辺りまでが普通で、ちょっと下心のあるお見送りは板橋宿まで行ったとか。

なぜ板橋宿かというと―― 詳細は板橋宿で ――。
 
さて、私は左折する中山道を辿り白山上で水道橋から上ってくる道と合流して巣鴨方面へ。
少し歩いた文京区千石に出ると、道幅がドーンと広くなり国道17号線だなぁと感じる味気な
い景色になる。右に入っていくと忠臣蔵の一方の主役、柳沢吉保の屋敷跡である六義園に
なる。四季折々お勧めの大人のデートスポットであるが、この年になると一緒に散策する相
手にも不自由するので、静かな庭園は私的事情によって寂しい庭園になってしまう。


次回につづく



ご存知東大赤門です。



本郷弥生町のカバンのお医者さん「吉田屋」さんです。




                    
         波浪亭の栗より美味い十三里
        
〜思いつき旧道ぶらり旅〜 

            第2回 【出立・日本橋〜神田明神

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長引いた梅雨が明けた2003年8月1日、出勤時間帯にポロシャツ、コットンパンツスタイルで
電車に乗る。バッグには最小限の着替えとカメラ。電車が混んでくると周りは出勤する人ばか
りで少し気が引ける。でも、ちょっと嬉しい感じもある。

街道と言えば起点は日本橋と決まっているが、いざ橋の上に立つと川越まで完歩できるのか
ね、と不安になる。自分に負荷がかかることが予想されると、もう一人の自分が「止めれば?
・・・止めれば?」とささやいてくるのは何時ものことだ。今回は遊びよ!飽きたら止めりゃいい
のさ、と自分に言い聞かせる。
 
♪♪お江戸日本橋七つ立ち♪♪
と歌われた日本橋は1603年の架橋。これは江戸開府の年である。因みに今年は江戸開府
400年。七つ立ちとは現在の朝四時ごろにあたるので、まだ暗いうちから旅籠の密集する馬
喰町周辺から諸街道への道筋は旅人で賑わっていたことになる。江戸時代は日の出を明け
六つ、日没を暮れ六つとし、その間を六等分した時間で生活をしていたので、同じ一刻でも冬
より夏の方が長い。明るいうちは働くという点で合理的だが、勤め人の私としては一年中冬時
間で働きたい。サマータイム反対!!
 
そんな事を考えながら、とりあえず9時30分出発。
日本橋界隈は江戸の中心部で、三越の奥にある日本銀行は金座跡。この界隈は東京で一
番古い街なので創業200年の商店は当たり前。これは鎌倉のお寺で仕入れた余談だが、
七五三は日本橋の三井越後屋(三越)と栄太郎という呉服屋と飴屋が仕掛けた行事だそう
だ。さしずめ江戸時代に日本橋から発信されたバレンタインというところ。日本人は昔っから
この手のセールスに弱かったのね。

神田駅を通り過ぎ、神田須田町のだだっ広い交差点に出る。ここは八つ小路といわれた公共
空地だったので、このだだっ広さはその名残かも。交差点を渡り、交通博物館脇から昌平橋
へ。この左奥には蕎麦の名門、神田藪がある。(藪といえば、今年も寒くなったら、浅草雷門
、並木藪の鴨南を食いに行こうかな・・・)と思う。
 
昌平橋を渡り左折して本郷通りに入るとすぐ左手に木立の塊が見える。これが湯島聖堂で
道路の反対が神田明神。てーことは、さっき左折したところが明神下、銭形平次親分がいた
ところね・・・などと頭に浮かぶ。どうせ歩くのなら、想像力を働かせながら歩いた方が退屈し
ない。

神田明神参道入り口の天野屋といえば『柴崎納豆』。小粒のチマチマした納豆ではなく大粒
の食べ応えのある納豆。子どもの頃に食べた納豆だ。聞くところによるとこのお店、地下に
納豆製造のためのムロが掘ってあるが、他人の土地の下まで入り込んでいて、どこまで入
り込んでいるのか詳しくは判らないとか。昔は大らかだったんだよねえ。



次回につづく



日本橋



日本橋室町界隈



神田明神



                    
         波浪亭の栗より美味い十三里
        
〜思いつき旧道ぶらり旅〜 

                 第1回 【プロローグ】

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ダイエットがブームだそうだ。そのせいかウオ−キングもブームなのだそうだ。我が身全体を
鏡に写せば95センチの胸囲は15年前と変わらないものの、ウエストは73センチから82セ
ンチに“育ち”、年々クビレが無くなって来ている。今更、昔の姿に戻ろうなどと大それたことは
思わないが、せめて健康診断で高脂血症の判定を避けるくらいの努力はするべきか?という
ことで、私もウオ−キングをすることにした。

Go-21HPも1年間休眠していて、肩身が狭いしね。
 
とは言えコツコツと自宅の周りを毎日歩くことなど、子どもの頃から三日坊主が染み付いてい
る自分に無理なことは明らか。さりとて短期集中日程の一日だったとしても、長い距離を歩こ
うとすれば挫折するに決まっている。この手のことは情けないことに自分を自分が一番信用し
ていないのだ。そこで自宅から程近く、昔から特産の薩摩芋に引っ掛けて、栗より(九里+四
里)美味い江戸から十三里の道のりと言われている川越街道に目をつけた。これなら一泊挟
めば行けるかも・・・
 
川越は江戸時代、徳川親藩が歴代の城主を勤めた由緒ある城下町。知恵伊豆と呼ばれた川
越藩主松平信綱は荒川支流の新河岸川を整備し、隅田川を利用した浅草花川戸までの舟運
を開いた。この舟運、川越の同じ船の出船日をもって一六(いちろく)、二七(にしち)、三八(さ
んぱち)、四九(しく)、五十(ごとう)と呼ばれる船が、その名のとおり5日で1往復したと言われ
る。旅人の移動手段としては陸路の方が早かったかもしれない。もっとも舟運の場合は九十
九曲がりと言われるほど難所の連続であり、新河岸川に入ってからは地元の人たちが川岸か
ら縄で牽引していたそうである。また水路は直線的に川越へ向かう陸路とは異なり、川が北に
膨らんでいるため、距離そのものも相当に長くなっている。
 
川越街道は道幅5間、約9mあったとされている。幕府が決めた街道の規定幅員は5間が原
則で、地理的条件によって狭くなったりもしたそうだ。現在の道路でいえば一車線3.5mなの
で、2車線プラス両側に1mずつの歩道という結構な幅員である。

五街道の一つ中山道と平行しているこの道は脇往還。中山道ほど役人の目も届きにくく、縞
の合羽に三度笠といったヤクザ者やワケ有りの人たちにも都合の良い街道だったに違いない。

・・・ワケ有り・・・情緒があっていい響きだ・・・


次回につづく


  




                    
                  波浪亭の食日記 

                その2 『チューインガム』

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ここ10数年、私は毎朝、始発駅から同じ電車で通勤をしている。乗客の心理は概ね一様で、
皆さん同じ車両に乗り込んでくるため、声をかけるなどということは無いにせよ、いつもの場所
にいつもの人が自然に収まって電車は動き出す。

途中で乗車してくる方も同じで、途中下車する私の前には30前後とおぼしき女性が定位置と
決めているらしく、彼女が大きな紙袋を下げていたりすると「持ちましょうか?」と声を掛けよう
か逡巡した挙句、それも大きなお世話かと気が引けて狸寝入りを決め込み、せいぜい降車駅
の手前で少し早めに席を立つのが最大の配慮となっている。

このような配慮は、イイ年のオヤジと言われる年代になった私のささやかな楽しみでもあるが
、時として非常識自覚症状皆無症候群に頭脳の芯まで侵されたオヤジが隣に座ってしまうこ
ともある。

このオヤジ、年の頃は60代前半。夏物のスーツを着込んだ痩身の一見紳士風。始発駅で乗
り込んで来るなりドサッと座席に腰を置く。そしてズルッと尻を滑らせて浅く座り直し(崩し?)
左の足首を右の膝上に乗せると、おもむろに小脇に抱えた日経新聞を大開き。多少の乗客の
増加は見えないらしく、組んだ足を解いて座り直す様子も無い。そして私が降りるまでの約40
分間「クチャ、クチャ」と延々続くガムを噛む音。

一体この人のインテリジェンスは人格にどう反映されているのだろうか、子供の頃の躾は無か
ったのか、自分の子供に躾はしてないのか、などと色々考えてしまう。

きっと「ギブ ミー チューインガム!」と叫びながら、進駐軍のジープを追いかけたまま、ジジ
イになってしまったのかな。そう思うと気の毒でもある。

しかし公務員という日陰者(注:人様の稼ぎの中からカスリを戴いて飯を食っているのは公務
員とヤクザだけ、だと私は思っている)は、人様に後ろ指を差されない様、自らの立ち居振舞
いに気を配らなければならないと、遅まきながら年と共に考えるようになってきた私にとって、
このオヤジの行動は許し難い。そこでヒトコト。

「申し訳ありませんが、クチャクチャ、ガムを噛む音、止めて貰えませんかね」

言われて不満だったのかこのオヤジ、渋々ガムを紙に包んでポケットに仕舞い込みましたが、
次の日から同じ車両に乗らなくなりました。別の車両でクチャクチャやってるのかね。

日経を愛読する非常識者。世の中を歪ませているのは、こうしたインテリ層なのかな?と思う
『注意んガム』の一席でした。





                    
                  波浪亭の食日記 

               その1 『寂しいウドン』後編

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さて、話は変わって6月の土曜日、所は『ウドンの町』として一時名を馳せた埼玉県某市。

先天性炭水化物多量摂取症候群の私、数年前から成長が止らない腹部に力を入れてウイ
ンドーに己が姿を写し、「まだ、まだ、大丈夫」と自分を欺きながら「美味しいウドンが食べら
れる」と、期待に腹を凹ませて東武線の市名を冠した駅に降り立ちました。

郊外の町とはいえ、歩いている人は疎ら。ガランとした駅前のロータリーの隅には観光マッ
プならぬ大きなウドンマップ。所用ついでの立ち寄り故に時間も余り無く、おまけに空腹の
ため30軒程の店の中から近場の1軒を選び出陣。この町のウドン屋さんは、全店共通の
緑色のノボリを立てているので、目指す店はすぐに見つかります。もっとも商店が少ないこ
ともあるんだけどね。

何の変哲も無い店構え。店に入るとオバちゃんがテレビで《利家とまつ》を鑑賞中につき、ち
ょっと迷惑そうに「いらっしゃいませ」(←客がいない=私は不安)。

盛りウドンを注文して店内を見渡すと、子供客からの手紙が彼方此方に貼ってある(←これ
見よがし=私は不安)。

暫くすると店の戸が開き「納品デース」と作業服のオニイサンが入ってくる。担いでいる大袋
は小麦粉。袋の脇に○清製粉の印刷(←大手製粉会社=輸入小麦粉?=とっても不安)

不安が増幅していくうちに「おまちどうさま」の声。
器は一目でそれと判るプラスチック製。
ウドンは故鈴木その子も裸足で逃げ出す美白(←地粉は黒っぽい=私はとっても不安)。

ウドンを数本、箸で摘み汁をつけて口へ運ぶ。そして一噛み…。グニャ…(←歯ごたえまる
で無し=私は嫌い=私には不味い)。
あ〜あ。

ウドンの町を1店で判断しちゃ○○市に失礼かもねと、妙な親切心を発揮して「もう1人前位
は入るだろ」と自らの腹を撫で回し、その店を出てもう1軒。

前の店よりちょっと小奇麗な店構え(←マシかな?=期待膨らむ)

店内に入ると2組の先客(←ちょっと安心)

かき揚付きの盛りウドンを注文すると、テキパキとしたオバちゃんの応対と身のこなし(←期
待は更に膨らむ)

 程なく注文したウドンが目の前に
 …真っ白のウドン
 …プラスチックの器
 …かき揚がクタッ(←揚げ置き)。
 ………。(←グーの音も出ない)
 
この2店、『丙、丁』付け難し。

誤魔化しの利かない素朴な食べ物ほど、明確に主張するものが必要だなと再認識しつつ、
寂しいウドンで無駄に膨らんだ腹を突き出しながら、この町を後にする私でありました。

【付録:食い物の逆恨み】

『税金で町興しをするなら、関係者は最後まで責任を持つべし!』

行政の担当は、誰よりもウドンを食して美味さを理解し、せめて美味しい小麦粉の調達ルー
トを開拓するとか、一定レベルの店にだけノボリを配布し、手抜き店からはノボリを剥奪する
といったこと位はするべき。

補助金を出して、看板を立てて、パンフレットを作って、それで仕事は終わりじゃないでしょう。

公金が特定団体を対象に支出される理由は、それが公の利益になるからであり、支出され
た公金の作用を、公金の出し手である住民の利益(この場合、間接利益として市のイメージ
アップとか)に結び付けることが仕事だろう、と私は思うわけです。

公費の支出を受けた団体(この場合、ウドン組合?)は、公費に貰い得は無いと心して努力
すべし。

後日、書店でグルメ案内本を見たところ、私が行った店の掲載はありませんでした。たまた
ま私の運が悪かったのでしょう。しかし、その店も入れて『○○のウドン』であることも事実。

公費とは、個人的には縁も無い他人のお金です。団体としてのレベルを向上させる努力を
続けなければ、ただ恵んで貰ったことになってしまいます。そりゃあ寂しい話だと私は思い
ますなぁ…

もっとも市が町おこしブームの時に、一人で『ウドンの町』とハシャイだだけかもね。

何しろ昨今の役場というところ、後先考えないミーハー的な行動を起こしがちな体質になって
いるからな…。

おしまい。





                    
                  波浪亭の食日記 
               その1 『寂しいウドン』前編

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「関東と言えば、やっぱりウドンが美味しいね」てなことを言えば、相当な捻くれ者と言われそ
うですなぁ。ま、捻くれ者を否定はしませんが。しかし、蕎麦の食文化が発達したのは江戸と
いう狭い地域であって、産地との関係で考えた方が良いのではないかと私は思うわけです。

『蕎麦の産地は蕎麦が美味い、小麦の産地はウドンが美味い』これ、当然のこと。

関東と言っても結構広く、例えば茨城県金砂郷は蕎麦の名産地。この時期、久慈川で取れ
た鮎を肴に地酒を楽しみ、蕎麦で〆るなんぞと結構な楽しみ方もある。(下戸の私は口惜し
い)

東京はというと、江戸の落語でお馴染みの蕎麦文化は今だ枯れず。藪・更科・砂場の御三家
は健在で、『背筋をスッと伸ばした姿勢で蕎麦猪口と箸を持ち、蕎麦の先から一寸だけに汁
を付け、一気に啜り込んで香りを楽しみ、喉で味わう』てな事をすると、誰でも粋な江戸っ子
気分に浸れるという寸法。

因みに蕎麦汁を少ししか付けないと言うのは、御三家のひとつ藪の蕎麦汁が濃いからであっ
て、どっぷりと漬けてしまっては、辛すぎて蕎麦の美味さも香りも死んでしまうから。

塩分の取りすぎで健康にも悪いしなぁ、蕎麦と一緒に自分も死ぬかも…。

これが同じ東京でも多摩地域の平野部から埼玉にかけてはと言うとウドン。長年この地域を
ベースに生活をしていて、「蕎麦が食いたいねぇ」とは聞いたことが無い。

旧北多摩地域では冠婚葬祭等人寄せの〆は必ずウドン。このウドンは麺と汁、そして糧(か
て)と呼ばれるホウレン草や茗荷といった季節の具が別々に出てくる。当然のことながら家々
でウドンの固さも違えば味も違う。毎日食べても飽きないんだなぁこれが。

この仮称『糧ウドン』、冷たいのを好む人も多いが、私は生暖かい麺と汁の組み合わせが美
味しいと思う。これだと味が判り易いし、季節を選ばないからね。

そして、このウドンの最も重要なポイントは、地元で収穫された小麦を製粉した『地粉(じごな)』
で作ること。地粉はウドンを打つ過程で黒味ががってくる。そして、柔らか目に打とうが独特
の歯切れ感が残り、小麦の味が十分に楽しめる。

旧北多摩地域には美味しいウドン屋さんも多いが、私のお奨めは小平の○○と東村山の○○
屋。小平の○○は麺が磨かれたようにツルツルで、言わば料理の域に到達した美味。東村山
の○○屋はこの地域に根付いた伝統の飾らない美味。どちらも『甲、乙』付け難い。


次回につづく








波浪亭、古代史を歩

煌きの皇女

2002年4月14日             最終回
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浩介は言葉を続けた。

「天智と天武の外交政策が異なったことについては、異論を挟む余地はない。ただ、殺し合
う程かは分からない。意見が異なっても議論は会議の場だけという関係もあるし、また、重
大な政策決定になればなるほど、意見の食い違いを長々と続け、調整と称して時間稼ぎを
し、環境や条件の変化に期待するということは、中国の『遠交近攻』と同じく、伝統的に日本
人の体質に組み込まれた手法だと思う。いわゆる『先送り』さ」
「なるほど」
久実子が無意識に浩介の口癖をつぶやいた。
「天智と大海人それぞれの政策は異なったが、天智は娘4人を嫁がせるほど大海人を信
頼し、実力を認めていた。そして天智は次期天皇にと大海人に打診をかける。大海人は諸
説で言われるとおり、天智の同母弟(兄という説もある)だが、父の身分の高さに皇位継承
者として難点があることを自覚してこれを断る。注目すべきはこの時、大海人は次期天皇
に息子の大友ではなく、天智の妻である大后を指名したこと。ここに、天智、大海人双方一
致した大友の評価があると思うよ。

つまり、この段階の天智の判断は、大友を皇位継承者として時期尚早と考えていた。もしこ
の時点で大友の力量を認めていたなら、生前であっても皇位を譲れば良いだけのことだか
らね。そして、大海人も大友の能力を大后以下と評価していた。

日本書紀の、大海人が出家せずに即位を受諾していたら、その場で命を取ろうと用意して
いたという記載だけど、その罠を張ったのが天智ではなく、大友だと考えれば、出家した大
海人を討つべく大友が準備をしたという話とも繋がってくる。大友自身に天皇としての器量
があり、皇族間に人望があったなら、実力者の大海人は、政策運営の協力をするだろうか
らね。しかも、大友の妃、十一(とうち)皇女は大海人の娘。

実父、義兄(義父)から評価して貰えない大友にとっては、実力者の義兄が出家して第一
線を退き、実父も病み上がりで宮廷内の統治力が薄れている。天智が病床に着いてから
は、政治の実務は大友が仕切っていたから、権力に寄生する蟲のように大友をそそのか
す取り巻きもいただろうね。自分を過信するには十分過ぎるほどの条件が整っている。

大化の改新を成し遂げ、天皇の地位回復を実現した父が背後にいればこその大友の統
治力。その肝心な部分が欠落した心の闇に入り込んだ鬼の囁き。その囁きに心を奪われ
た大友が招いた皇統の悲劇、と考えるのも無理な筋道じゃないと思うよ」

浩介は更に庭石の一点を見るように集中して話を続けた。
「大友が大逆罪に直接手を下したとは思えないが、疚しさのある大友は天智の墓を、近江
がら見える場所にも、将来、自分が葬られる可能性のある飛鳥にも置きたくない。そこで
『宇治の木幡』の何処かに葬る。そして、山科の『沓』が落ちていた場所を墓としたわけだ。
ただし宇治の木幡は山科より広い範囲を示しているから、魂が彷徨っている木幡が、山科
という狭い範囲を指しているかどうかは分からない。

一方、天智の崩御も大友の即位も知らなかった大海人は、後に事態を把握して怒る。
しかし、大海人よりも怒りが強かったのは大海人の妃、後に持統天皇となる聡明な鵜野讃
良(うののさらら)皇女だったはずでだよ。実父と夫の弟に対する評価は、彼女の評価でも
あったはずだからね。弟の乱心が尊敬されるべき皇統を乱した。正せるのは自分しかいな
い。

大友はそのような姉の気性を知らぬ筈はない。しかも、夫は実力者大海人。先んずれば制
すと言うのは戦いの常識だよね」

浩介は久実子に確認するように話を切った。
久実子は肯きながら
「それで大友は姉夫婦討伐の準備を進めたけど、そもそも無茶苦茶しているから部下の統
率も効かない。従って情報が大海人に漏れる、ってことね」
と言った。久実子も浩介と同じ方向に思考を働かせている。
浩介が続けた。
「そして壬申の乱が勃発。壬申の乱の実態は大友と鵜野讃良、実戦は大友と大海人の代
理戦争となったわけだね。おまけに双方には兵力の数も大差がつく。大義名分は鵜野讃良
にあるから味方が沢山できる。結果、壬申の乱は短期間に終結する。そこですぐに鵜野讃
良が即位しなかったのは、当事者だったから。確か父の天武もそうしているよね」

「ええ、大化の改新の後、皇極天皇(天智・天武の母)が退位し、弟の孝徳天皇が即位しま
す。その後、叔父の天皇と不仲になった皇太子の中大兄(天智)は、天皇を難波京に置き
去りにして飛鳥遷都を強行。孝徳天皇を死に至らします。普通なら皇太子の中大兄が天皇
になるのが順序ですが、実行者であるため、先々帝(皇極帝)に再び即位してもらいます。
それが斉明天皇です。中大兄は斉明天皇が崩御された後に即位しています」
「当事者と言う点では大海人も同じだけど、多分、大海人は鵜野讃良のために一時的に即
位したんだと思うよ。大逆の謗りを自分が受け止め、なおかつ鵜野讃良に皇位を引き渡せ
る実力者は、大海人しかいないからね。所謂、泥を被るってこと」
「それだけ絆が強かったってこと?」
「そうだよ。だって久実ちゃん、持統天皇陵はどこにあるの?」
「あっ、天武天皇陵に合葬されてるんだわ」
「そう、同じ墓に入った。それは、心ならずも激動の時代の中心にいた持統天皇が、人事を
尽くし、命の灯が消えかかるとき、自らの意思で皇女の頃に戻り、再び黄泉の国に住む大
海人皇子に嫁いで行った、とオレは考えたい」
「いいなぁ。なんか、イメージ変わっちゃうな、天武も持統も」
久実子の声が、かすかに震えていた。

「さて、弘文天皇陵のことだけど、あれは陵というより三井寺の中にあるお墓と理解すべき
だと思うよ。今でもあの規模のお墓は、民間人でも居て不思議ない広さだからね。しかも、
新羅善神社が見下ろす位置。これは木沢が言うとおり『大友の怨霊封じ』だと考えることが
合理的だね。明治以後、外の場所に移されなかったのは、まさに『触らぬ神』ということさ。
そうした意識が働かなければ、最低の措置としても神社との位置関係は逆にしている筈さ」
「凄いわ、こんなに短い期間に、そこまで推理を働かせるなんて」
久実子は興奮が最高潮に達しているのか、午後の冷え込みかかった座敷に座っているに
もかかわらず、頬が紅潮していた。
「最後に泉涌寺の歴代天皇の回向の件だけど、回向を外される側から見て、合理的な理由
が成り立てば、天武直系が怨霊になって祟る心配はないよね。
その線から考えると、天武自身は父方の血筋から自分が天皇になるとも思っていなかった
わけだし、当然、持統天皇への繋ぎ、その後は天智系に戻ると思っていた筈だから、天武の
御霊(みたま)は納得できるよね。そうではなく、天武が仮に権力志向で、天皇になるのが当
然だったと考えていたなら、そして、それが当時の皇族に浸透していたなら、天武と外の女性
との間に生まれていた高市皇子や外の皇子達が、天武の次に皇位を継いでもおかしくない。

しかし、天武に似てかなりの実力者だったとされる高市ですら、持統天皇のサポートに徹す
る。天武や息子達には、野心はなかったということの証明さ。だから回向されなくとも祟るこ
とはない。
そして持統天皇も回向から外される。これも持統天皇自ら理解できるよね。仮にも天皇に即
位していた弟を討ったわけだから。

それ以下の天武系は、天武が除外されているのに直系が回向される筈もないという理由が
成り立つ、ということだね。
ただ、泉涌寺の回向は、お寺が建立された時代の日本書記の解釈が作り出したルール、と
いうだけなのかも知れない」
そして浩介は、それまでよりもゆっくりとした口調で言った。
「鵜野讃良という傑出した皇女の、煌くような生涯によって、皇位は正統に保持された。これ
がオレの結論だよ」
話し終えた浩介は、大きく深呼吸をした。
冷えた空気が美味しかった。
久実子は、浩介をじっと見ると
「よく分かりました…」
と言い、小さくため息をついた。

閉門時間が近づいている。
浩介と久実子は視線を合わせると、ゆっくりと立ち上がり、もう一度、枯山水の庭全体を見渡
した。
冬の夕暮れの弱い光の中で、一分の隙も無い配置の庭石が美しいく浮かんでいる。
一瞬、滝に見たてた石が、白く煌く水の動きをしたように、二人の目には映った。


おわり

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あとがき
この小説モドキは、井沢元彦氏の「逆説の日本史」をモチーフに書いたもので、中盤まで
の展開は井沢氏の推理に、現地を実際に歩いてきた私の感想を加える形で書いてありま
す。言い換えれば、井沢小説ファンの私が、彼の本をガイドブックに見たてて歩いたレポー
トです。
また、GO21HP「湘南だより番外編」への掲載を意識し、観光ポイントの解説を入れてあ
ります。
歴史推理は誰もが勝手に想像を働かせることのできる世界です。従って、結論に至って
は私の独断と偏見に満ちた空想の産物で、辻褄は合わせるという最低限の論理は組み
立てたつもりで
すが、さりとて絶対の自信があって提示したものではありません。
このような文章を他人が読まれて楽しめるものか私にはわかりませんが、もし、奇特な方
がおられ、一人でも二人でも楽しんでいただけたなら、私としてはこの上ない幸せです。

尚、本編は想像の産物ゆえ、ストーリー、登場人物はもとより、波浪亭なる喫茶店もフィ
クションです。とりわけガイド役の久実子は、オヤジの一人旅の淋しさからくる願望が
創り出した架空の
人物です。特に太字にしてお断りしておきます。

2002・1・26 波浪亭

【参考文献】
井沢元彦著「逆説の日本史」
その他、各寺院発行のパンフレット類


長らくお楽しみ頂いた波浪亭氏の小説も今回が最終回となりました。作品を提供頂いた波
浪亭氏に感謝するとともにご愛読頂いた皆さんにお礼申し上げます。
次回の作品を期待しています。どうも有難うございました。

世話人敬白




泉涌寺、舎利殿と仏殿です。
この泉涌寺は、昔から皇室との関係が深い寺で、仁治3年(1242)に四条天皇
が月輪陵に葬られてからは、歴代天皇の小陵がこの地に営まれるようになり、
以来皇室の御香華院(菩提所)として篤い信仰を集めており、「みてら」といわれ
るようになりました。このような事から、天皇陛下、皇太子殿下をはじめとして、
皇族が京都に来られた折りには、必ず歴代天皇陵にご参拝になり、この泉涌寺
に立ち寄られます。



泉涌寺御座所庭園の紅葉です。 京都の中では色づきは早いそうです。
素晴らしいの一言です。



2002年3月31日             第9回
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哲学の道は高名な銀閣寺の参道入口で終わる。参道の両側は土産物屋が並び、歩い
て行くと数メートルおきに生八橋を盆の上に載せ「おひとつ、いかがですか」と声をかけら
れる。
売り子の声にその都度反応する久実子を見ていると、浩介は思わず顔が緩んでしまう。
「久実ちゃん、いちいち反応すると大変でしょ」
浩介が笑いながら言うと
「だって、無視して通り抜けちゃ、悪いじゃないですか」
と言った。

東山文化の最高峰と言われている銀閣寺は、正しくは東山慈照寺といい、1482年、室
町幕府八代将軍足利義政公によって建立された。修学旅行や一般的な観光コースとし
ては、金閣寺と対になる必須ポイントでもある。
綺麗に刈り込まれた高い生垣の間を通り入口を抜けると、銀閣寺を誰もが思い浮かべ
る建物である観音殿や、東求堂といった国宝の建築物が並んでいる。庭園はそれらの
建物から見渡せるように、白砂で波紋を描いた銀沙灘(ぎんしゃだん)、向月台(こうげ
つだい)が配置されている。
浩介の気に入ったビューポイントは、眼下に慈照寺の全景が眺められる、山沿いを登
った展望所である。また、展望所に繋がる道の両側にある植え込みは、見事なまでの
苔の絨毯に覆われていて、土地全体の凹凸と日光によって生ずる、微妙な緑色の変化
が心を和ませてくれる。
「ちょっと忙しいけど、行きたいところがあるから、ここはもういい?」
申し訳なさそうに浩介が言うと
「ええ、きっと次の所も素敵なんでしょ」
と、久実子が答えた。
「もちろんさ」
二人は参道口に戻ると、タクシーに乗り込み、浩介が告げた。
「曼殊院(まんしゅいん)、お願いします」

曼殊院門跡
曼殊院門跡は枯山水の名庭園で有名である。桂離宮を造営された八条宮智仁親王の
次男、良尚親王が13歳で出家されると、智仁親王は喜ばれ、この地における曼殊院
造営に助力された。
建築・作庭の基本理念は細川幽斎から伝授された古今和歌集、古今伝授、源氏物語
、伊勢物語等の詩情を形象化することであった。それが当院の大書院、小書院、枯山
水の庭園となって実を結んだ。(曼殊院門跡パンフレットより)

午後3時を過ぎた平日のため、観光客は浩介と久実子だけだった。
「貸し切りですね」
「うん、こんなラッキーはないだろうね」
「紅葉の名所ですよね、ここは。なのに、冬だとこんなに人が少ないのね」
「外の観光名所からは、離れているからかな」
二人は誰もいない絨毯敷きの座敷に並んで座ると、暫く枯山水の庭園に見入っていた。
「話の続きをしようか?」
「ええ」
浩介は庭に視線を置いたまま話し出した。
「通説では天智の病死後、大海人と大友が皇位を争い、大海人が天武天皇になった。
木沢説では、大海人が外交政策の誤りを修正しない天智を山科で暗殺し遺体を隠避
する」
「そうです」
「オレは、こう考えられないかと思うんだ」
久実子は期待に満ちた瞳で、浩介の横顔を見つめた。
「万葉集の歌からも扶桑略記からも、天智が山科で暗殺されたという推理は合理性が
あると思う。ただ、死体を隠避する理由は、天武が実行犯という木沢説の立場に立って
考えると、大友を即位させないためでなければならない。つまり、行方不明であれば死
亡認定ができない以上、大友が即位するわけにはいかない。あとから天智が帰ってき
たら困るからね。
しかし実際はどうかと言えば、弘文天皇は明治政府が即位したものと認め、更に扶桑
略記には『12月3日天智天皇崩御、同月5日大友皇子が即位』と記録されている。
山科で行方不明になり、誰も遺体を確認していないという条件下で、何故、2日後に大
友皇子が即位できたのか。それは大友皇子が『遺体は無くとも、天智が亡くなった事を
知っていたから』という理由しかない、とオレは考えるんだよね」

久実子は少し興奮を表した高い声で
「それは、大友が実の父親の天智を…ということですか?」
浩介は久実子を見ると、静かに首を縦に振った。





曼殊院 の見所はなんといっても、書院前に広がる枯山水の庭でしょう。
ただ同じ枯山水といっても、竜安寺に代表されるような禅寺の庭のような、
はりつめた緊張感はなく、なんとなく王朝的な雅さを漂わせており、
心をなごませてくれるすてきな庭です。



「媚竈(びそう)」
曼殊院の玄関に掲げられているのは、「竈(カマド)に媚びよ」と書かれた額。
現在の曼殊院を築いた良尚親王(江戸時代初期)の筆になるものだとのこと
ですがどんな意味があるのでしょうか?
それは、「家の主人に媚びへつらうのではなく、かまどを受け持つような
下働きの人々に感謝をせよ」という意味だそうです。
たった二文字に 深い意味がありますね。



 2002年3月24日             第8回
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南禅寺三門
山門は正しくは三門と書く。三門は空門、無相門、無願門の意味で仏教修行の三解脱を
あらわす。
南禅寺の三門は天下竜門と号し上層の楼を五鳳楼と云う。日本三大門の一つで有名で
ある。現在の門は藤堂高虎が寛永5年(1628)に、大阪夏の陣に倒れた将士の菩提を弔
うために再建したものである。
純然たる禅宗式三門の形式を備え、その高さ約22メートルで、左右の山廊より昇降する
楼上には、勾欄を附した廻り縁をめぐらしている。(南禅寺三門チケット解説より)

「落ちないで下さいよ」
久実子は少しハシャギながら、三門内の急な階段を先に昇ろうとする浩介に向かって言っ
た。
「君が先でもいいけどね」
「イヤです。お尻がド・アップになっちゃう」
「オレとしては、それもヤブサカじゃないけどな…」
日ごろ運動不足の浩介には、かなり負担となる急な暗い階段を昇りきると、回廊に出て、
突然、展望が広がる。歌舞伎『楼門五三桐』では、石川五右衛門が大きなキセルを持ち
「絶景かな、絶景かな」と見得を切るこの回廊も、現実は当然の如く禁煙である。しかし、
絶景は十分に保たれていた。
「飯前だったらキツイよね、この階段。でも、食後の運動と景色のデザートで最高かな」
浩介が言うと
「そうですね。でも、デザートなら、まだ入りますよ」
と、久実子は笑った。
(京都に来てからは、店にいる時より良く笑うな)
久実子の少し違った一面に接し、店に来て何年も彼女のことを知らないまま過ごしてきた
自分に、浩介は改めて気づいた。今まで久実子のことを詮索しなかった自分の無意識の
行動が、久実子を傷つけまいとするためだったのか、自分の内にある防御本能のせいか
、浩介はその結論を出そうとするでもなく、ぼんやりと考えた。
「それにしても、久実ちゃんはこっちに来てから良く食べるね」
浩介は声をかけた。
「そうかしら?そんなに食べてます?私」
「いや、お嬢様かと思ってたからさ」
「この年でお嬢様は、気持ち悪いです。世間では立派なオバサンだもん」
久実子はそう言うと
「あまり大切にしてもらわない方が、嬉しいな、私」
と歩きながら呟き、回廊の角を曲がって浩介の視界から消えた。

三門を出て寺の北側に伸びる道を暫く行くと、観光名所の一つ『哲学の道』に出る。この散
策路は哲学者西田幾多郎が散策したと言われ、哲学の道といわれるようになった。

浩介と久実子は水路沿いの静かな散策路を、水面を泳ぐおしどり鴨と同じ速度で歩いてい
た。二人の右側には水路が続き、左側には観光客を目当てにした小物を売る店が所々に
現れる。久実子はそうした店先に興味を惹かれる度に道から外れ、商品を手にとっては楽
しんでいる。これも平日だからこその楽しみで、浩介は後を着いて行く。

「つまらないですか?」
久実子は浩介に気を遣い、散策路に戻りながらそう言った。
「そんなこと、無いよ。男は女性が楽しんでいるのを眺めて、十分楽しめるものさ」
「やっぱり、違うんだよなぁ・・・」
「何が?」
「離婚した人と」
「ふーん。そんなものかね。きっと、男の種類と久実ちゃんの相性が行き違っただけじゃない
のかな。オレが上とか下とかいうことじゃないと思うよ」
「種類を見誤ったのか・・・ワタシ」
「どうかな。でも、久実ちゃんは、これからさ」
「だと、いいなぁ」




紅葉の季節の哲学の道です。私にとっても想い出深いところです。



 2002年3月17日             第7回
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翌日、浩介と久実子は泉涌寺に向かう。

泉涌寺は皇室の菩提寺である。皇室が仏教と一線を画すようになったのは、明治維新後
に起こった廃仏毀釈(国家神道を徹底するため、釈迦の教えを捨てさせ、仏教を廃止する
運動)以降のことである。それ以前の皇室は仏教徒でもあり、一線を画した後の現在でも、
このお寺を菩提寺として先祖の回向を欠かしていない。

市営バスに乗った浩介と久実子は、東福寺手前の泉涌寺通りバス停で降車すると、坂道
を登り始めた。途中に山門があり、脇に寺域の全景図がある。いくつもの別院が並び、か
なり広い。

「あれから何か、木沢先生を驚かすような考えが纏まりました?」
久実子は期待するように言った。
「昨日は酔っ払いを部屋に送る力仕事をしたから、自分の部屋でグッスリさ。でも、ここが
仕上げかな」
「楽しみだわ、私」
「あまり期待するなよ、プレッシャーがかかるから」
「いいえ、楽しみにしてます。だって、浩介さんは探偵さんみたいだもん。素敵な推理を聞
かせてくれたら、今の『力仕事』発言は聞かなかったことにしてあげます」
久実子は子供のように瞳を輝かせた。
「ところで、このお寺はいつ頃できたの?」
「1200年代の初めです。詳しくは入口でパンフレットを貰いましょ」
久実子の指示に従って泉涌寺の大門に辿り着くと拝観料を支払い、落ち着いた色合いの
パンフレットを貰う。
入口の左手には楊貴妃観音が奉られる堂があるが帰りに拝観することにして、とりあえず
仏殿に続く広く長い坂道を降りて行く。
「浩介さん、ここを読んで下さい」
久実子は開いたパンフレットの左下を指した。

黎明殿
―― 略 ――
天智天皇以来の歴代皇族の御尊牌が奉祀されており、皇室とのご縁も深く
―― 略 ――

「この部分に何かがあるんだ」
「そうなんです。これは木沢先生の本ですけど、以前、先生がいらした時のパンフレットには
、このように書かれていたそうです」
そう言うと、久実子は一節を読み出した。
「黎明殿 ―― 略 ―― 平安京の第一代桓武天皇、その御父光仁天皇、その直系の御祖
天智天皇、この三天皇が黎明殿の奉祀の特にお古い御方で、歴代天皇が奉祀されている」
「えっ、それって」
久実子は浩介の理解を見てとり
「そう、天武、持統、文武、元明、元正、聖武、孝謙(称徳)の八代の天皇7人、つまり天武直
系が全て外されているということです。」
「持統天皇は天智の娘だよねえ…」
「直系という場合、男性を指して言いますから、持統天皇は天智天皇の娘ですが天武天皇に
嫁いだ時点で、天武系に入ります」
「なるほどね」
「明治になって廃仏毀釈運動が起こらなかったら、このようなことは永久に分からなかったろ
うと、木沢先生や異説を唱える人達は言っています」
「仏教を軽んじたから、表に出たということか」
浩介は境内の隅にあるベンチを見つけ、腰を下ろすとタバコに火をつけた。
「そういえば、マスター、じゃなくて浩介さん、京都ではあまりタバコを吸いませんよね」
 浩介は考え事をする時は、あまりタバコを吸わない。頭を働かせる事に夢中になって、タバ
コを忘れるだけだ。
久実子の問いかけに浩介は反応せず、全く別のことを聞き返した。
「持統天皇の名前のことだけど」
「木沢先生の言ってる、血統を保持した天皇ということですね」
「血統を保持ねぇ…」
「何か、変ですか?」
「皇位を正統に保持、かなって」
それまで浩介は久実子の目を直視した話し方をしていたが、突然、視線を緩め
「次は美人とのご対面だぁ」
と言って、備え付けの灰皿で火を消しながら立ち上がり、観音堂に向かって歩き出した。
久実子は浩介から少し送れて歩きながら
「纏まったんですね」
と、声をかけると、浩介は右手を肩の高さに挙げ、人差し指と中指の2本を立ててVの字を作
った。

「お連れさん、この観音様に、よう似てはりますなぁ」
楊貴妃観音に見とれていた浩介に、この堂の管理を担当している初老の男が、京言葉独特
の滑らかな言い回しで囁いた。
「そうですかね」
浩介は少し素っ気無く答えたが、見とれていた原因はそこにあった。

楊貴妃観音像
唐の玄宗皇帝の妃である楊貴妃は、絶世の美女として知られているが、玄宗は亡くなった妃
を偲んで、等身坐像にかたどった聖観音菩薩像を彫らせた。この像は1225年湛海律師に
よって泉涌寺に将来された。その像容の美しさと尊さは人々の心を捉えて離さない。(泉涌寺
パンフレットより)

観音像は真上からの光のみが照らされ、仏像独特のふくよかな顔立ちに彫られているはず
の輪郭が、実際より細面に見える。眉から目にかかる陰は、単なる美しさだけでなく、切れ味
鋭い聡明さとそれに矛盾するほどの優しさに溢れた、静かな表情をしている。

浩介がはじめて見た直感は(時代を超えて久実子がそこに座っている)というものだった。
久実子は極めて美人というわけではないが、大き目の瞳に優しさと聡明さを漂わせ、接する人
に美人と錯覚させる不思議な魅力を持っていると、常々、浩介は思っていた。
「何?そんなに見とれちゃって」
少し離れた壁にあるポスターを見ていた久実子が、傍に寄ってきたのにも気づかなかった浩
介は、声をかけられて驚いた。
「あ、いや…君に似てるかなって思ってさ」
「そうですか?」
久実子は観音像の方へ少し体を乗り出すようにして見ると
「光栄だわ。私に見とれてたって理解させていただきます」
と言い、小声で笑った。
「うーん、幸せな性格だ…その調子じゃあ、もうお腹が空いてるだろ」
「はい。久しぶりに頭を使っているから、お腹、空くみたい」
「じゃ、南禅寺に行って湯豆腐でも食べるか」
と言い、浩介は堂の外へ出た。





                        第6回
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大津から久実子を連れてホテルに戻る途中、浩介はホテルに電話を入れた。
「701に宿泊している朝田ですけど、連れができたので部屋を用意してほしいんですが」
「はい、かしこまりました。本日はツインもダブルもご用意できますが」
浩介は瞬間、全身に汗が噴出した。
「そうじゃなくて、シングルをもう一部屋用意して欲しいんです」
久実子はそばで様子を伺い、会話の内容を察し、両手で口を塞ぐようにして笑っていた。
普段は落ち着いた雰囲気の久実子だが、時として内面に持っている明るい性格が表面
に出る。それが久実子の魅力の一つだと浩介は思っている。

ホテルに戻り、シャワーを浴びた後、ロビーで落ち合った浩介と久実子は、近くの四条
河原町にある日本料理店に向かった。

四条河原町は京都で一番の繁華街で、高島屋、阪急といった百貨店が建ち並び、一見、
東京との違いを見つけることは難しそうに思えるが、旅行代理店の脇に『坂本竜馬終焉
の地』の石碑がさり気なく立っているといった、歴史と現代が混在した街になっている。

「♪♪泣いて別れた 河原町♪♪」
歩きながら浩介が小声で口ずさむと、隣で久実子が言った。
「何ですか?その歌」
「知らないの?」
「はい」
「そうか…ジェネレーション・ギャップだな」
そもそも『お座敷小唄』は浩介が中学生の頃に流行った歌で、久実子は未だ生まれてい
ない。

目的の店に着き、取り留めの無い話をしているうちに、京都の家庭料理『おばんざい』が
並ぶ。酒が苦手の浩介だったが、とりあえずはお決まりと、伏見の清酒を2本注文した。

酒が運ばれ乾杯をすると、浩介は一口含んだ。酒が上質のせいか、口の中にボワッと広
がる熱燗独特の嫌な香りは無かった。

(あれ?美味いのかな…)
そんな事を考えていると、
「何で別の部屋にしちゃったんですか?」
と、久実子は不満げにつぶやいた。そして
「でも、きっと、そうすると思ってました」
と言って笑った。
「なんだ、それ」
浩介は適当に答えると、料理に手を出した。

(京都の料理は美味い)と浩介は思う。しかし、東京で生まれ育った浩介が潜在的に要求
する味付けとは、やはり違うとも思う。浩介の場合、濃い味付けに馴れているせいもある
が、成長期に化学調味料で育ち、味覚がいい加減になっているのだろう。おそらく最高級
の昆布出汁とインスタント出汁の区別もつかないと、浩介自身は思っている。

浩介も一時、グルメブームに翻弄された時期があった。しかし、自分の舌のレベルが分か
って以来、殊更有難がったグルメ志向は捨てた。浩介の味覚では『美味い:不味い』の区
別はつく。しかし『美味い:特別美味い』の区別はつけられなかった。その料理が『特別美
味い』と思うのは、最高の素材が使われているという先入観や、一流の評価を得ている店
であるといった類の優越感が生み出したものだ。今は、そう考えている。

(値段相応の美味いもの)が、浩介にとって最高のご馳走である。

「今日の感想を聞かせてくださいよ、コウスケサン」
久実子は顔を近づけて言った。
「そうだねぇ…木沢説を概ね支持ってとこかな」
「概ねですか?」
「うん。先ず、天智天皇が書記に書かれているような亡くなり方ではない、ということについ
ては、オレもそう思う。それは、木沢も根拠にしていた万葉集の歌を、扶桑略記の記述が
裏付けていると考える方が合理的だよね。山科陵は『これから造る』ことが理由になって
壬申の乱が起こるわけだから、魂が彷徨っている時点では、まだ天智陵は存在しない」
「だったら、なぜ木沢説全面支持じゃないの?」
「久実ちゃんに質問だけど」
「なんですか?」
久実子は嬉しそうに応えた。
「弘文天皇陵は、何故あんなに小さいの?」
「何故って、天皇即位を認めたのは明治になってからだから」
「もう一つ、天智天皇が反新羅ということは、息子の大友皇子(弘文天皇)も反新羅と考え
ていいんだよね」
「もちろん」
「だったら、何故、陵の向かい側に新羅善神社があるのかな。それも、あそこは傾斜地だ
から、新羅善神社が陵を見下ろす位置になる。神社に大雨でも降れば、洗い流されたも
のは何処に行くことになるのかな」
「うーん」
久実子は少し考えると
「陵を造る時、あそこしか場所が無かった」
さすがに苦し紛れを承知して口にした久実子は、両肩を窄めて微笑んだ。
「琵琶湖の周囲は平地が少ないからね。でも、それなら山科陵に合葬するとか、飛鳥に
造るとかできたんじゃないのかな、ってオレは考えるのさ」
「まあ、そうすることも可能ではあるけど」
「いや、明治以後の日本を考えると、そうしなければならないと思うよ」
「どうして?」
「明治から昭和20年までの日本の政策は、朝鮮半島を併合して満州国まで作るんでし
ょ。今の日本人の人権感覚としては虫唾が走る思いがするけど、当時の善良な日本人
は、国から与えられた教育と情報で、朝鮮や中国の人達を二等国民とか三等国民とか
言って不当に蔑んでいたことは事実だよね。だったら、大友皇子を天皇と認めた明治政
府なり軍部主導で動いた政府は、最低限、弘文天皇陵と新羅善神社の位置を、上下反
対にする位のことはするんじゃないの?」

久実子は黙って、浩介の顔を見つめていた。
浩介は話を続けた。
「だとすれば、明治政府やその後の政府が、今のままで良いとする何か理由があるのか
な?と思うわけさ。だから、木沢説支持は概ねってこと」
「ス・テ・キ」
久実子が一語ずつ呟いた。
「オレが?」
浩介が自分を指差すと
「違います、えっ、いや、違わなくなくて、違う…あー、分からなくなっちゃった」
 久実子は酔いも手伝って混乱した。並んだ料理が寂しくなったテーブルには、久実子が
ほぼ一人で空にした徳利が5本並んでいた。
「すみません、一人で飲んで」
「いや、構わないよ。オレが付き合えなくて、申し訳ない位だ」
「冬だからかな?お酒とお料理がぴったりして、とっても美味しい」
「良かったら、もっとどうぞ」
浩介が勧めると
「止めときます。これ以上飲んだら、絡んで嫌われそうだから」
と言って、猪口をテーブルに伏せた。
勘定を済ませて店外に出ると、ピシッと頬に感じる程の密度の濃い、冷たい空気に身体
全体が包まれた。





                        第5回
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三井寺とは俗称で、正式には園城寺という天台宗の寺院である。木沢は「一般には天智
・天武・弘文の3天皇の意向によって建立されたとしているが、このようなことはあるはず
がない。この3者は壬申の乱で争った者同士である」と言っている。当然の判断だと浩介
は思う。

「久実ちゃん、扶桑略記について教えてくれる?木沢の本も、一度読んだだけじゃ頭に入
らないし」
「はい、助手だった頃を思い出して頑張っちゃお、若返って」
久実子は笑いながら解説を始めた。
「扶桑略記はこのお寺の住職と言っても良い高僧の皇円という方が書いた本です。問題
はその内容です」
「天智天皇が殺されたっていう?」
「はい。簡単に訳すと、天智天皇は山科に狩に出かけて行方が分からなくなった。天皇の
沓(くつ)が落ちていた場所を陵とした」
「なるほどね。それで学者さん達は?」
「扶桑略記は日本書紀よりも400年後であること。もう一つ、日本書紀は多くの学者が集
まって編纂した国史で、扶桑略記は個人が書いたもの。この二つの理由で日本書紀の方
を信用すべき、ということです。つまり書記にない扶桑略記の記述は、資料としての価値を
持たない」
「書記偏重で歴史が語られてきたってことか」
「そうなりますよね」
「皇円は高僧ってことだけど、どの程度の人?」
「浄土宗を開いた法然の師に当たる方です」
「それでも個人は信用できないか…国だから信用できるってもんじゃないけどな、世間の
常識では」
「そうですよね、今だって」
「うん。だから木沢のように国史より万葉集の歌の方が、よっぽど真実を含んでいるとい
う考えも出てくるよね。その歌は、どこにあったっけ?」
浩介がショルダーバッグから木沢の本を取り出すと、久実子が手に取り、すぐにページを
開いた。

一書に曰く、近江天皇の聖体不予にして御病急かなる時、大后奉る
御歌一首
 148
青旗の 木幡の上を通うとは 目には見れども ただに会わぬかも

「この意味は?」
「桜井満という万葉集研究家の訳だと、こうなります」

山科の木幡の山の上を御霊が行き来しているとは、目には見えるけれども、これを天皇
のお体に呼び戻して、じかには会えない事だ。

「なるほどね。山科の上を魂が彷徨っているって事だね」
「そうです」
「病気で亡くなったのに、魂が山科を彷徨する?」
「はい、山科に陵が・・えっ・・・天智の陵を造るという口実で大友は兵を集めたんだから
・・・どうゆうこと?」
久実子は矛盾に気がついて、浩介の顔を見た。
「おかしいよね。それに、歌の前にある詞書(ことばがき)だけど、歌を詠んだ状況を書い
たものが詞書だよね。だったら、『御病急かなる時』だから、天皇は未だ崩御されていな
いんじゃないのかな」
浩介は当然だという顔をして話を続けた。
「この歌の最後の部分だけど、御霊は見えるけどご遺体には会えない、と読めないのか
な」
問い掛ける浩介に、久実子は力のある口調で言った。
「さあ、学者はこう読むものだって決め付けますからね。でも、マスターがこう解釈したっ
て言えば、それまでのことですよ。学者が認めなくとも、私という第三者が一人でも認め
れば、私にとっては立派な説です」

二人は境内を一巡すると、郷土資料館の背後の山の中腹を回り込む道を伝い、新羅善
神社に向かった。

ゆっくりと歩きながら浩介が話しかけた。
「久実ちゃんさぁ、さっき、タクシーの中で『離婚前の結婚の前の』とか、回りくどい言い方
をしたじゃない。あれは、何で?」
「あれですか。だって、独身の頃って言ったら運転手さんは私のことを人妻だと思っちゃう
じゃないですか。やだ、そんなの」
「なるほど…怪しい関係に思われるよな」
浩介は苦笑いをした。
「所で提案なんだけど、こっちに居るときだけマスターは止めない?」
「じゃぁ・・・」
久実子は数秒の間を置くと
「浩介さん」
と、小さな声で言った。浩介が
「それでもいいけど、うっかり店で使ったら木沢なんか、椅子から転げ落ちるぞ」
と言うと、久実子は
「気をつけます」
と言った。浩介は久実子との距離が、前よりも近くなったような気がした。

新羅善神社は傾斜地の上にある。鳥居をくぐると、参道は所々に苔がむしていて、ほとんど
未整備といっても良いくらいの状態だが、逆にそれが歴史を醸し出している。
「天智天皇は反新羅派、天武天皇は親新羅派だったよね」
「はい、その政策の違いが天智天武の兄弟が不仲になる決定的な要因と考えられてます」
「遠交近攻だっけ?」
「そう、中国の伝統的な外交政策で、離れた国と軍事協定を結び、挟まった国を攻める」
「賢いけど、ずるいよな」
「当時、唐は新羅を攻めていました。だから唐は日本と協定を結べば、都合が良いというこ
とですよね」
「新羅派の天武は、唐と結ぶことを良しとしない」
「それだけではないんです。中国は遠交近攻を繰り返す歴史を持っています。現に高句麗
を攻めるときには、新羅と協定を結んでいました」
「天武としては、新羅に頑張ってもらうことが日本の安全になる、か」
「日本の歴史上、朝鮮半島が一国に支配された時、国内の安全が脅かされるという事実が
あります」
「鎌倉時代の元寇もしかりだね。だとすれば、この時代にそれを直感していた大海人は、国
際感覚も優れていたと言えるね」
「はい。しかし天智は新羅が嫌いだから、唐と結ぼうとした」
「天智が亡くなる頃、丁度、唐の特使が来ていたんだよね」
「天智天皇が崩御されたため、協定は結べないまま唐に帰ります」
「その1月後に壬申の乱が勃発する…か」
境内は特に見るべきものもなく、すぐに戻ってくると正面に弘文天皇陵が見える。
「あれ…こんなに狭いの」
浩介は意外な声を出した。
陵は住宅地内の公園程度の広さしかなかった。
「弘文天皇は、明治政府に天皇と認められたからじゃないかしら」
「あ、そうか。大友が皇子だったから大海人が戦争できたってわけだね」
「そう。じゃなければ壬申の乱で天皇を殺した大海人は、大逆罪となって人心を掴むことは
できないことになるんです」
「その辺も書記には天武の創作があると、木沢は言いたいわけだね。で、扶桑略記には大
友皇子はどう書かれてるの?」
「12月3日に天智天皇が崩御された。5日に大友皇子が天皇に即位した」
「えっ、大友皇子が2日後に即位したって書いてあるのか…」
浩介は遠くを見つめ、少しの間、考えていた。視線の先には、1300年前を彷彿とさせる雄
大さと青さを湛えた琵琶湖が広がっていた。




                       第4回
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「ホントに来ちゃったの?」
「アハハ、現地調達って言ってたから、私が調達されちゃおうかと思って」
「なるほどね」

屈託無く笑う久実子に、浩介もつられて笑うと、陵の出口に向かって二人は歩き出した。
「良く分かったね、ここが」
「昨日、木沢先生が帰られる時に、マスターにあげたのと同じ本を私に下さって、多分、
奴はこの順序でまわるよって」
「目を離した隙にそんなことを。しかし、オレは木沢の読みどおりだったてことか…」

木沢の論理的思考からくる推理力は、浩介も敬服していた。しかし、木沢の思考の範
囲内で動いた自分が少し悔しかった。
「それにしても、余計なお節介を…」
浩介は呟いた。
「迷惑でしたか?やっぱり」
「いや、そうじゃなくて」
「先生、言ってました。たまには社員旅行に連れてって貰えって。私、社員旅行でもい
いかなって…押しかけ社員旅行」
「なるほど。そういわれれば何時も都合よく働かせるだけで…」
「いいんですよ、それは。私、ヒマだし」
「折角のご配慮だから、楽しい社員旅行にしようかね」
「いいんですか?」
久実子の抜けるような白い頬に、薄桃色の紗が射した。

国道に出ると浩介はタクシーを拾った。
「三井寺、お願いします」
「ハイ、みいでら、ですね」
運転手は丁寧な言葉で応答すると、車を走らせた。
「園城寺へ行くんですか」
「おや、久実ちゃん、勉強して来たの?良く知ってるね」
浩介は少し驚いた。
「あら、私、話したことありませんでしたか?離婚前の結婚前の独身の時は、大学の研
究室にいたんですよ、それも日本史」
「聞いてたっけ?」
「聞いてるも何も、履歴書を渡しましたよ、確か」
「そうか、それで木沢が店に出入りするようになったのか」
「先生は私のいた研究室によく見えられていたんですけど、教授と大喧嘩して」
「やりそうなことだ」
「先生の思考は、学者には受け入れられないんですよ」
「どうして?少なくとも木沢の言うことは、論理的な筈だけど」
「うーん、何ていうのかな…学者は権威的というか、門外漢の言うことは聞かないとい
うか…」
「それは分かるような気がするな。学者の世界って、同級生でたった一人だけ生き残
れる世界だからね。自分が全て、になりがちだな」
「それに、特に古代史の世界は、滑稽なほど古さに重きを置くんです」
「日本書紀が絶対だということ?」
「そうです。日本書紀をどう解釈するかで議論があったとしても、新しい文献を根拠に
することはないんです」
「それが、これから行く所に関係するわけだね。『扶桑略記』」

タクシーは三井寺の門前に到着した。






                       第3回
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年齢的なことか、長くも続けたサラリーマンの習性か、浩介は毎朝6時には目が覚めて
しまう。冬場の外は未だ暗く、室内灯を付けてシャワーを浴びようとしたが、冷えた室内
での心臓のトラブルも怖いので、テレビをつけてお湯を沸かし、お茶を啜りながらタバコ
に火をつけた。

(なんか、ジジイになってるな、オレ…)

そんなことを思いながら、のんびりと身支度を整えて時間を潰し、浩介は部屋を出た。

「行ってらっしゃいませ」

綺麗な標準語を操るホテルの女性従業員に背を向けて外出するが、浩介には少々不
満あった。ホテル利用客の多くは遠隔地から来ているもので、京都のように美しい方言
のあるこの街が、なぜそれを積極的に使わないのか…。

鴨川沿いのホテルを後にした浩介は、地下鉄東西線を使って御陵(みささぎ)駅で降り
る。大津方面に少し歩くとJRのガードが見え、その左手前に公園風のスペースが現れ
る。ここが天智天皇の山科陵である。

入口の左隅に天智天皇が権力の証とした漏刻(水時計)に因んだ日時計のモニュメン
トがあり、そこから山裾に向かって道が続く。幸いにも?この日は雨。両側に続く鬱蒼と
した雑木林の陰と、小粒の雨が弱い光に反射してできる半透明のカーテンで作られる
沈んだ雰囲気は、この地に初めて足を踏み入れるシチュエーションとしてこの上ないと
浩介は感じた。

ガザッ、ガザッと、厚く敷かれた小さな砂利を踏みしめる自分の足音を聞きながら200
メートルほど歩けば中門があり、更に100メートルほどで行き止る。浩介はそれまで差
していた傘を地面に置き、左手の御手洗で己を清め、陵の正面に向かい、礼を表した後
に正面から外れる。浩介自身、思想的に特に持つものは無いが、御霊に礼を失するこ
とを恥じる常識は備えていた。しかしこの場所は、そうせずにはいられない気を感じる空
間であることが、正式な作法を知らない浩介を自然に振舞わせたと言ってよいのかもし
れない。

(陵の背後は山が迫っている。その向こうが大津、つまり天智が開いた近江京。これは
不思議なことなのかも知れない)と浩介は漠然と思った。

木沢説によれば、当時ここ山科は宇治の一部であり、天皇を初めとする大宮人にとって
は、何のゆかりも無い土地であると言う。

一方、歴史学者の定説は、天智自ら開いた近江京の近くであり、山科に陵を作ることに
何ら疑問は無いと言うことで、これが通説になっている。

(地図で見ていたら、通説に何の不思議も感じなかったろう。直線距離ではそのとおりな
のだから。しかし、距離は当時の感覚で測らなければならない。だとすれば、この山科と
近江は山に隔てられて遠い距離と考えるべきか。そして何より、ここからは琵琶湖が見
えない。近江京は天智一代限りの都なのに、何故、琵琶湖を望む地に御陵を造れなか
ったのか。)

浩介は不可解を一つ抱え、次の目的地に移ろうと振り返ると、30メートルほど離れた場
所に、紺色のハーフコートに身を包んだ久実子が立っていた。




                       第2回
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翌日、浩介は京都に向かった。
平日の「のぞみ」は、かなり空いていた。

荷物を網棚に置くと、昨日、木沢が
「お前のことじゃ、どうせ何も計画なんてないんだろうから、ネタがあった方が楽しめるだ
ろ」と言い、手渡してくれた本を開いた。
『逆転の日本史 木沢晴彦著』
木沢は日本ミステリー作家大賞の受賞作家で、デビュー作以来、歴史推理に新境地を
開いたと言われている。
『逆転の日本史』は、壬申の乱を中心に展開する木沢独自の理論で通説を批判し、容
赦なく覆している。
浩介は昨夜から読み始めた残りの数十ページを、自分の持っていた知識と重ねるよう
に時間をかけて読み終えた。

日本書紀を重要視する通説は、以下のとおりである。
病床に伏した天智(てんじ)天皇は、実力者で弟の大海人皇子(おおあまのみこ)を呼
び「朕は病で動けぬ。後を任せたいがどうか」
と聞いた。大海人は
「私は天皇のために仏道に励むため、出家します。後は皇后に託されれば良いでしょう。
その上で政務は大友皇子に任せれば良いでしょう」
と断り、その場で髪を切ると武器を全て天智に差出し、吉野に引き篭もった。
天智は、もし大海人が受諾すれば、その場で切り殺す準備をしていたと云われている。
やがて天智天皇は崩御し、息子の大友は天智天皇の墓を造るという口実で大海人討
伐の兵を集める。これを聞いた大海人は止む無く挙兵し、東西交通の要である不破の
地で大友軍と激突し圧勝する。
大海人は天武天皇となる。

この日本書紀を基本とする通説に、木沢は次のような疑問を投げかける。

○ 書紀は天武天皇の息子である舎人親王が編纂し、天武天皇の孫に当たる元正天
  皇の時代に完成した書物であるから、天武王朝に都合の良い書き方がしてあると
  言う前提で解釈する必要がある。
○ 書紀には必ず天皇陵の場所が書かれているが、天智天皇陵の記載が無い。
○ 書記には天武天皇の生年の記載が無く、年齢が分からない。
○ 天智が娘4人を嫁がせるほどの実力者、大海人皇子(天武天皇)の、40歳頃まで
  の存在が殆ど描かれていない。
○ 書記によれば、天智天皇の死後、半年も皇位が空白である。これは異例中の異例。

(なるほどね)
浩介は口癖を呟くと、車窓を覗いた。外には入り組んだ山に割り込まれた平地の雪景
色が広がり、近くに工場の大きな看板が見える。
(関が原か…)
豊臣・徳川、天下分け目の関が原。ここが壬申の乱の不破でもあることは、昨夜から
仕入れた知識で理解できた。




                        第1回
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鎌倉から藤沢を結ぶ通称江ノ電沿いの海を見下ろせる高台に『波浪亭』という小さな喫茶店
がある。メニューはブレンドコーヒーだけという極めて商売不熱心な店でありながら、不熱心
さが客の居心地の良さに繋がり、特異なコミュニティー空間として好む常連客も多い。

店主の浩介は店と同じマンション2階の1LDKに一人住まいをしている。人生の半ばを超え
た浩介が何故一人住まいをしているのかは、彼自身が語らないので誰も知らない。

「明日から臨時休業だと…流行ってもいないコーヒー屋のオヤジが生意気な」

常連客の木沢は、ドアの外の張り紙を見て、カウンター席に座ると同時に毒舌を放った。
もっとも毒舌とは相手にダメージを与えればこそのもので、浩介には何の影響も及ぼさない
から、木沢の言うことは毒舌にはなっていない。

「ちょっと野暮用にひっかけて、京都あたりを歩いて来ようと思ってね」

浩介は木沢専用のカップにコーヒーを注ぐと、カウンターの端から店員の久実子に渡した。
久実子は数歩移動して木沢の横に立つと、

「お待ちどおさま」

と言い、慎重にコーヒーを指し出し、カップの絵柄が正面になるように動かした。

「久実ちゃんに出して貰うと、お前の入れた不味いコーヒーも美味くなるよ。茶道の立ち居
振舞いを感じるもんなぁ」

木沢は久実子の背中に目をやりながら言った。確かに久実子の動作には、独特の優雅さ
があると、浩介も認めていた。
コーヒーを出して代金をいただく。これは常連で親しくなっても客との契約として絶対に守ら
なければならないという、浩介の店主としての一面である。従って、相手が親しい常連の木
沢であっても、カウンター越しに商品を提供するということは絶対しない。久実子も店主のこ
だわりを理解して動いている。

「それにしても貧乏人のくせに優雅だなぁ。何も京都くんだりまで行かなくとも、鎌倉でいい
じゃねえか。今も行って来たけど、蝋梅が綺麗だったぞ。もう少しすると、宝戒寺あたりの
梅も満開になるし。で、これは?」

木沢は小太りの体型に似合う、ポッチャリとした小指を立てた。

「現地調達かな」
「悪い奴だ」
「ホントにそう思うか?」
「いや、羨ましい」
「だろ!ザマア見ろ」
「お前なぁ、オレは客だよ。だいたい店を閉めなくてもいいじゃネエか、久実ちゃんが開けてり
ゃ。お前なんかがやるより、よっぽど流行るぞ、この店は」
「バカヤロ、パートで来て貰ってるのに、そこまで頼めるか」
「そんなこと無いだろ、なぁ久実ちゃん」

木沢は身体を半回転すると、レジ周りを整理する久実子に話しかけた。

「エーッ、私には無理です、お店を任されるなんて。京都なら一緒に行けますけど」
「ングヘッ!!!」

浩介と木沢は、口に含んだコーヒーを気管に入れて同時に咳き込んだ。

「久実ちゃん、冗談でもダメだよ、そんな事言っちゃ。君はこの店に来るオジサンたちのアイ
ドルなんだから。このヤモメオヤジは一見優しそうで、実はとんでもないオヤジだぞ。」
「あら、嬉しいです、アイドルなんて。年も大台に乗っちゃったし、バツイチだし…それより、と
んでもないって本当ですか?マスター」

久実子は微笑みながら言った。

「ンー、そうかもね」

浩介は久実子の視線から逃げるように、汚れてもいない台布巾を手に取ると蛇口を捻った。




これは宝戒寺ではなくこれから湘南便りでご案内する予定の瑞泉寺の蝋梅です。
丁度今が見頃でしょうか。





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