光清寺(岡山市清輝橋一丁目4-8)

本尊 阿弥陀如来

縁起

本願寺派(西本願寺)の真宗の寺。創立年代不詳、はじめ千阿弥寺と称する時宗の寺。創立年代不詳、はじめ千阿弥寺と称する時宗の寺院で現在の栄町辺にあった、天正四年に本願寺顕如上人の経論に帰依して真宗に改め、同十一年四月二十四日顕如上人裏判にて阿弥陀如来の影像を授かり光清寺と改めた。
以上が同寺縁起の概略であるが、この寺が真宗に改宗したことは時代的に考えても岡山城下に真宗の弘通された初めであって、本願寺が豊臣秀吉に接近し、大阪天満に寺地を得て移転した前後にあたる。織田信長が大阪石山の本願寺に対して寺地を要求したことからはじまった石山合戦は、元亀元年(1570)九月から天正八年(1580)まで十一年間におよんだ、そして正親町天皇の勅により和議が成立、顕如はその年紀伊国鷺森に移ったが、天正十年六月織田信長は本能寺の変にたおれ、豊臣秀吉の時代に移った。本願寺と秀吉との関係はこの頃からはじまり、顕如は
天正十一年鷺森を去って和泉の貝塚に移り、ついで同十三年大阪天満に寺地を与えられて、ここに本願寺の伽藍を経営しはじめたのである。
光清寺が顕如の教えに帰依して改宗に改めたという天正4年は、まだ石山]合戦の最中であって、この改宗年代に誤りがないとすれば、信長のような大勢力を相手に戦いつつある争乱の間にもなお宗派の拡張に努力を忘れなかった顕如の偉大さにうたれる。
しかし池田家類纂に「寛文七年閏二月廿九日時の住職恵海犯罪あって獄に繋がれ寺院の堂宇をも破棄せられるべきに極まりしを以って、時の奉行加世八兵衛、藤岡内助建議に因り三月三日其の跡地を町の手習い処に取立つべき旨命あり、然るに西本願寺よりしばしば請願の趣あって破棄の儀は停められる。」とあって、備前藩が厳重に寺社の整備を行うた前後にあたり、上記のような受難事件があり、このときも西本願寺から請願があって伽藍の破棄だけは免れた。その後も多少の屈曲があり、一時は寺を岡山の外にうつして再興させる意向もあったが、寛文八年七月十六日付で、不受不施宗の故で廃寺となった妙恩寺の跡に移すよう指令が出て、現在の地に光清寺を再興したことが類纂に載せてある。
戦前は本堂・庫裡・鐘楼・山門などがあった。このうち本堂は寛文の受難以前からあった建物で、その内部も真宗寺院に相応した設備になっていた。昭和二十年の戦災でこの辺りは一帯に焼け野原となり光清寺も一宇残さず灰燼に帰した。戦後二十三年に焼跡に仮本堂を建て、二十七年に庫裡を建て、境内の整理を行うた。