慶光山 西福寺(久米郡美咲町休石347)

本尊 

縁起

 室町時代前期応永のころ(1400前後)より現在の柵原町吉ヶ原平岡に真言宗平岡山弘法寺があった。明応五年(1496)この弘法寺の住職法華宗門に移り、弘法寺は無住廃墟となり、この時、真言宗に吸収された。以前は天台宗であった住民が、天文十七年(1548)弘法寺にあった本尊を、現在の柵原町休石三四七番地に遷し、草庵を建てた。
 再び天台宗に改め比叡山延暦寺の末寺として、山号を慶光山と号し、寺名を西福寺と名づけた。そして、寺門の興隆をはかり民衆の帰依も厚く、法灯輝き香花の絶ゆることなく、隆盛を極めることとなった。江戸時代の中期享保の末年(1735)諸堂宇ことごとく灰燼に帰し、その後直ちには諸堂宇の再建も困難なため、いささかな庵をしつらえて、法灯をまもることとなった。
 住僧もいつしか不在となって、他寺(本山寺、小桁の極楽寺、小瀬の寺、国分寺)の兼務となることが多く檀徒も減少した。
 その後たびたび修復は重ねられたが、歳月の流れは早く、腐朽の度を増して、屋根は苔むし軒もさがりて、草庵は廃寺のごとく、昔を偲ぶ寺の塀覆だけが白壁で光り、この様を見て人々は、「休石に過ぎたるは寺の塀覆と○○の倉」と嘲笑の代名詞を残している。しかし一八二〇年ごろより一九〇六までの間の住職の位牌は八体ある。
 そして、この後を受けて明治四十年(1907)山内能寂住職となり、大正五年(1916)山内和尚の熱意と檀徒の多額の浄財の喜捨により、本堂の改築をして現在に至る。