ラフマニノフとチャイコフスキー

 チャイコフスキー     ラフマニノフ
 ラフマニノフはチャイコフスキーをとても尊敬していました。直接教えを受けることはありませんでしたが、チャイコフスキーはこの若き才能に注目していたようです。
 
 ラフマニノフが最初にチャイコフスキーに出会ったのは、ラフマニノフが師事したズベレフ家においてでした。この家で催される音楽の夕べにはチャイコフスキーをはじめ数多くの音楽家が招かれるのが通例で、1885年頃ラフマニノフは出席していたチャイコフスキーの前でピアノを演奏する機会を与えらました。同じ頃、和声学の修了試験でチャイコフスキーはラフマニノフの前奏曲が気に入り、採点で最高点の5をつけ、さらに+を4つつけています。

 1886年、ラフマニノフはチャイコフスキーのマンフレッド交響曲を2台のピアノのために編曲をして作曲家自身の前で演奏し、感銘を与えたとされています。

 1890年、ラフマニノフはジロティからの依頼で、チャイコフスキーのバレエ曲『眠りの森の美女』をピアノ・デュオ版に編曲します(ラベック姉妹などの演奏をCDで聴くことができます。)。当時、出版社から編曲を依頼されたチャイコフスキーは手を怪我していたために、その仕事をジロティに回わします。しかし、ジロティは多忙でできなかったために若きラフマニノフに100ルーブルという破格の報酬で依頼したのでした。しかし、出来はさんざんで、チャイコフスキーは激怒したそうです。慌てたジロティは自分で手直しをしてチャイコフスキーに渡したとか。ジロティは『眠りの森の美女』が完成されたときに既にピアノ・リダクション(ソロ・ピアノ)を行なっていましたから、ピアノ・デュオ版はやる気はなかったのでしょう。

 1893年2月27日、ラフマニノフはチャイコフスキーに自作の5つのピアノ曲作品3を贈ります。

 1893年4月、ラフマニノフが歌劇『アレコ』のリハーサルに立ち会っていると、チャイコフスキーが来て自作の歌劇『イオランタ』と『アレコ』を(共に、一夜全部使うには短い作品なので)一晩の公演でいっしょに演奏したいと申し出ました。『アレコ』の初日(4月27日)にチャイコフスキーは立会い、「とても気に入った」と喝采をしています。

 1893年5月3日付けのジロティ宛ての手紙でチャイコフスキーは「彼(ラフマニノフ)のピアノ小品集もとても気に入った。」と書いています。

 1893年9月、タネイエフ家での音楽の夕べでラフマニノフが弾く幻想曲『岩』を聴いて気に入り、ヨーロッパ演奏旅行の際に演奏すると申し出ます。しかし、1893年11月、チャイコフスキーが亡くなり、演奏は実現できませんでした。ラフマニノフはチャイコフスキーの死を悼んで悲しみの三重奏曲第2番作品9を作曲します。


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