ラフマニノフの生い立ちと作品の成立

セルゲイ・ラフマニノフ(1873〜1943)  セルゲイ・ラフマニノフ(1873〜1943)  セルゲイ・ラフマニノフ(1873〜1943)
ラフマニノフの生い立ち
 1873年4月1日セミョノフ(ロシア帝国の首都ペテルブルクの南、約100km ノヴゴロド県)でワシーリー・ラフマニノフとその妻リュボーフィ(旧姓、ブタコーワ)の 間に次男(6人の子供の第4子)として生まれました(伝記によっては3月20日とされていますが、それはユリウス暦です。)。

 ラフマニノフ家は400年以上の歴史ある旧家の貴族で、一族の創始者の息子がとても愛想がよく、客好きだったことから「ラフマニン」=「愛想のよい客好きな人」というあだ名がつけられ、これが一族の苗字になったとされています。一族は音楽の才能に溢れ、セルゲイ・ラフマニノフの曽祖父アレクサンドル・ゲラシモヴィッチとその妻は合唱団とオーケストラを編成し、祖父アルカージー・アレクサンドロビッチはノクターンで有名なジョン・フィールドに師事したアマチュア音楽家、祖母ソヒヤは古い民衆音楽をよく知り、その道の権威とされていました。幼いセルゲイがノヴゴロドに伝わる民衆音楽や鐘撞き名人たちの音楽を聴いて育ったことが、彼の音楽に大きな影響を及ぼしていると見られています。なお、セルゲイの父親の従兄弟アレクサンダー・ジロティもリストに師事したピアニストであり、セルゲイの姉エレーナはボリショイ歌劇場の歌手になります。

ノヴゴドロ   ノヴゴロド


音楽教育
 セルゲイは幼少の頃から人並み外れた音楽の才能を示し、祖父と母親から特別に可愛がられ、系統的にピアノの演奏の練習を始めます。しかし、何不自由ない幼児期を過ごしていたセルゲイに突然大きな変化が押し寄せてきます。1882年、セルゲイが9歳の時、ロシアの農奴開放政策の影響や父親の浪費でラフマニノフ家は破産します。一家はペテルブルグに引っ越し、セルゲイはペテルブルグ音楽院幼児コースに給費生として入学します。その年、姉のソフィアを病気で亡くし、そしてついに両親が離婚。1885年、セルゲイは音楽院の最終試験に落第してしまいます。12歳の時でした。その夏、さらに歌手であった姉のエレーナも病気で亡くします。多感な少年時代のこのつらい体験は彼の人生に暗い影を落とすことになります。


少年ラフマニノフ  ペテルブルク音楽院


 この後、ジロティの薦めで名門、モスクワ音楽院に転校し、ジロティの恩師でピアノの名教授ニコライ・ズベレフの家に内弟子と寄宿しながら音楽院に通います。ここでは毎朝6時に起床して3時間ピアノの練習をするという厳格な指導を受けることになりますが、ズベレフ家には数多くの音楽家が集まるため、ラフマニノフはアントン・ルーヴィンシュタインやチャイコフスキー、アレンスキーらの前でピアノを演奏する機会を与えられたのでした。ラフマニノフはとりわけチャイコフスキーを尊敬していて、1886年にはチャイコフスキーのマンフレッド交響曲を2台のピアノのために編曲をして作曲家自身の前で演奏し、感銘を与えたとされています。この頃から作曲も始め、その才を認められてセルゲイ・タニエフの対位法のクラスに入り(ここで彼はアレクサンドル・スクリャービンと知り合います。)、作曲だけでなく、生き方や仕事、話し方など多くのことを学び、深い感銘を受けました。ラフマニノフの禁欲的な性格はズベレフの厳しい指導を受けたことより、タニエフとの出会いから形成されたと考えられます。

ジロティとチャイコフスキー  モスクワ音楽院とチャイコフスキーの像
   

キャリアのスタート
 1890年、17歳のラフマニノフはピアノ協奏曲第1番の作曲を始めます。翌1891年ラフマニノフは卒業まで1年を残していましたが、特別に許されてモスクワ音楽院での勉強を修了させます。もちろん、その試験はすばらしい成績でした。その年ピアノ協奏曲第1番を完成させます。翌年には、鐘の音を模したと言われる名曲、前奏曲嬰ハ短調(作品3-2)とプーシキンの詩による1幕の歌劇『アレコ』を完成させます。この歌劇は翌1893年モスクワのボリショイ劇場の舞台にかけられ、ラフマニノフは作曲家として順風満帆のスタートをきります。しかし、その年の秋、かけがえのないものをたてえ続けに失うことになります。10月には恩師のズベレフが、11月は大きな影響を受け尊敬するチャイコフスキーが亡くなります。ラフマニノフはチャイコフスキーの死を悼んで悲しみの三重奏曲第2番作品9を作曲します。


挫折
 1895年の初めにラフマニノフは交響曲第1番の作曲にとりかかり9月に完成させます。初演は1897年3月28日、ラフマニノフにとってまさに運命の日となります。この演奏会は広く音楽界の注目を集め、ペテルブルグの会場にはR=コルサコフ、キュイ、タネイエフなど音楽家が集まりました。演奏の指揮をしたのが作曲家アレクサンダー・グラズノフでしたが、結果は悲惨でした。グラズノフはラフマニノフと異なる派閥だったために非協力的だったとか、演奏会当日グラズノフはひどく酒に酔っていてそのまま指揮をしたとか、いくつかの記録が残っています。ラフマニノフは自分が指揮をしなかったことを悔やみながら舞台裏の階段にしゃがみこんで演奏が終わるのを待っていましたが、終演後外へ飛び出し、ペテルブルグの街を一晩中さ迷い歩いたと伝えられています。翌日の新聞も酷評を極め、作曲家のキュイは「もし、地獄に音楽学校があったなら、間違いなくこの交響曲は1等賞である。なぜなら彼の不協和音は悪魔的だからである。」と記事にしました。ラフマニノフは大きな痛手を受けます。

グラズノフ  R=コルサコフ  キュイ  1897年のラフマニノフ


苦悩
 しかしラフマニノフはモスクワ・プライベート・ロシア・オペラ・カンパニーで指揮の職を得、同年10月サン=サーンスの歌劇『サムソンとデリラ』で指揮デビューを飾ります。なお、ここで彼の生涯の友人となる歌手フェオドール・シャリアピン(シャリアピン・ステーキにその名前を残しています。)と知り合います。ラフマニノフが作曲した前奏曲嬰ハ短調(作品3-2)がロンドンで評判になっていたためにフィルハーモニー協会が指揮者として招きます。ここで彼は第1番のピアノ協奏曲ではなく、新しいピアノ協奏曲を作曲して演奏旅行に持っていこうと考え、オペラ・カンパニーでの指揮の職を辞して作曲に専念します。この曲が不朽の名作ピアノ協奏曲第2番となるのです。

指揮をするラフマニノフ  ピアノを弾くラフマニノフ  文豪トルストイ

 ところが、作曲はなかなかはかどりません。ラフマニノフは次第に神経衰弱に冒されていきます。心配した親類家族は彼が尊敬するトルストイのところへ訪問させます。そこでラフマニノフは自作の歌曲を聴かせますが、「誰がこんな曲を聴きたいと思うかね?」と老トルストイ言われてますます自信を失い、いよいよ病状を悪化させてしまいます。かなりの高齢だったトルストイはその頃すでにボケ気味だったらしく、ラフマニノフにとっては不運だったとしか言いようがありません。後にトルストイは謝ったとも伝えられています。


名曲の誕生
 1899年、ラフマニノフはイギリスへ渡り演奏は大評判となります。しかし、作曲の筆は全く進みません。1900年になって、親類の知人だったニコライ・ダール博士という催眠療法を行なう精神科の医師のとろへラフマニノフは治癒に行きます。アマチュアのヴィオラ弾きでもありラフマニノフの音楽を知っていたダール博士は無償でラフマニノフの自信を取り戻すべく治療を行ないます。その結果、ラフマニノフはピアノ協奏曲第2番の第2,3楽章をその年の10月に完成させ、年末に初演します。聴衆の反応はとても良く、それに元気付けられたラフマニノフは翌1901年の4月には第1楽章を完成させ、作品をダール博士に献呈します。1901年11月9日モスクワで全曲が初演され、大成功を博します。ここに名作ピアノ協奏曲第2番が誕生したのです。
 ラフマニノフは翌年の初めには従妹であり長年の友人であったナターリャ・アレクサンドロヴナ・サーチナと結婚し、モスクワで教師の職を得るなど実り多い人生がスタートします。その年、1902年5月29日、従兄弟のジロティがロンドンのクィーンズ・ホールでピアノ協奏曲第2番のイギリス初演を果たし、大成功を収めます。

ラフマニノフ夫妻   ニコライ・ダール博士


Copyright (C) Libraria Musica. All rights reserved.