モーツァルト:歌劇『魔笛』序曲 K.620


 モーツァルトおよびハイドン研究の第一人者、H.C.ロビンス・ランドンが『MOZART’S LAST YEAR』という著書を書くほど、1791年12月5日に没したモーツァルトにとってその最期の年は音楽史上に残る数々の傑作を生み出す輝やかしい1年でした。

モーツァルト(1756-1791)   シカネーダー  モーツァルトが『魔笛』作曲した小屋 現在はザルツブルグにある   


 モーツァルトはその年の3月7日、俳優であり台本作家・興行師のシカネーダーからドイツ語によるオペラの作曲依頼を受け、その翌週には台本を受け取ります。ちょうどその頃、これまでモーツァルトに台本を提供してきたダ・ポンテはスキャンダルに巻き込まれて王室から解雇されます。サリーエリがウィーンの宮廷楽長の座にいるために、ダ・ポンテのいない宮廷劇場からモーツァルトにオペラの話がくる可能性がなくなっていただけに、シカネーダーからの依頼にモーツァルトが飛びついたのは自然なことでした。シカネーダーは管理しているアン・デア・ヴィーデン劇場の裏庭にある小屋をモーツァルトに提供します(この小屋は「魔笛の東屋」として現在はザルツブルグに移設されています。)。


 7月頃までには大部分の作曲を終えていましたが、9月6日にプラハで行われるレオポルド王の戴冠式のための歌劇『皇帝ティトスの慈悲』の作曲注文があり、さらには、謎の人物(実際はフランツ・フォン・ヴァルゼック=シュトゥパハ伯爵の執事)からの有名な『レクィエム』の依頼を受け、『魔笛』の作曲は一時中断。8月の末にはプラハへ出かけ上演の準備を始めます。プラハでは『フィガロの結婚』以来モーツァルト人気は高く、その時も数多くのモーツァルトの作品が演奏され、『皇帝ティトスの慈悲』の初演も無事終えます。9月中旬にウィーンに戻ったモーツァルトは『魔笛』の序曲と「僧侶たちの行進曲」を仕上げることで、ようやく全曲を完成させます(9月28日)。初演のわずか2日前のことでした。なお、ゲーテは『魔笛』の続編を書こうとしたり(未完)、ベートーヴェンはこの曲の主題による変奏曲をチェロとピアノのために2曲書いたりと、後世へ極めて大きな影響を残した作品となっています。


パパゲーノ  現在のアン・デア・ウィーン劇場にあるパパゲーノの像  初版の台本の挿絵   


フリーメイソンと『魔笛』
 フリーメイソンは直訳すると「自由な石工」で、14世紀イギリスでウィンザー城建設時に石工たちが自分たちの権益を守るために作った組合が起源とされています。18世紀になると貴族や知識人による科学技術や芸術などを保護推進する知性集団及び友愛団体に変貌してヨーロッパ中に広がります。モーツァルトは8つもあったウィーンの支部のひとつに加入します(1784年)。なお、ハイドン、ゲーテ、ワシントン、ジェファーソンなど当時の知識人、政治家など参加の度合いは様々ながら各地のフリーメイソン支部の一員でした。

 『魔笛』の初演と同時に出版された台本の初版の表紙にはフリーメイソンの古式による儀礼を示唆する口絵が印刷されているばかりか、歌詞にその儀式での言葉が次々に出てきたり、フリーメイソンの重要な儀式とされる3回のノックを模倣する「3つの和音」が何度も現われたりします。そのため、初演当初から人々はこのオペラをフリーメイソンと結びつけていました。シカネーダーとモーツァルトはフリーメイソンの思想を込めようとこのオペラを書いたことは間違いないのですが、その理由や意図は諸説あるものの未だ定説はありません。儀式の内容は秘密であったため、それを明らかにしたモーツァルトはフリーメイソンによって殺害されたという説もありますが、これも現在ではほぼ否定されています。



序曲
 曲の冒頭と中間部で奏される「3つの和音」はフリーメイソンの儀式に大きく関わるということは初演当時から言われていました。第2幕の幕開きでザラストロをはじめとする僧侶たちが入場した後、若者タミーノに試練を受けさせるかどうかの審判をする時に管楽器だけで演奏されるものとほぼ同じ「3つの和音」を序曲の中間部に採用し、冒頭ではそれに音を少し変え、弦楽器を加えて堂々とした和音に変えています。しかし、1779年にモーツァルトが作曲した劇場音楽『エジプト王タモス』でも類似の「3つの和音」があり、『魔笛』の舞台がエジプトという設定であるためにこれを引用したという説もあります。

 アレグロの主題部に入るとヴァイオリンが8分音符をスタカートで刻みます。この主題は交響曲第38番『プラハ』第1楽章の主題と極めて類似していて、この曲を書く直前にモーツァルトお気に入りのプラハに出かけたということに起因すると考えられます。さらに、第2幕第8場で復讐に燃える夜の女王が歌う有名なアリアの旋律の変形とも言えます(その時の歌詞は「おまえはもはや私の娘ではない」)。また、中間部での「3つの和音」の後、弦楽器の刻みの合間にフルートが奏するパッセージは、試練を受けている間タミーノが吹く魔法の笛と音型がやや似ていることから、この序曲は【悪=夜の女王】と【善=ザラストロ&タミーノ】という2者の対立を序曲に盛り込んだという見方もできます。しかし、こうした理屈抜きでも曲想、旋律、構成などすべの点で抜きん出た傑作と言えることは間違いありません。



パパゲーノとタミーノ  パパゲーノ  タミーノに扮するペーター・シュライヤー パミーナの絵姿を見ながら歌う  タミーノに扮するフリッツ・ヴンダーリッヒ


あらすじ

第1幕
 幕が開くと舞台は岩山。タミーノが大蛇に追われながら登場します。場所はエジプトと推測されますが、何故かタミーノの衣装は「日本の狩衣」という指定になっています。タミーノは「助けて」と歌いつつ気絶すると、夜の女王に仕える3人の侍女が現れて大蛇を退治します。3人は倒れている美青年に見惚れつつ女王のもとへ報告に出かけます。そこに鳥刺しのパパゲーノが鳥の羽の衣装をまとって現れ、目を覚ましたタミーノに大蛇を殺したのは自分と嘘をつきます。するとたちまち3人の侍女が出てきて、罰としてパパゲーノの口に錠前をかけてしまいます。侍女たちはタミーノに若い女性の肖像画を見せると、タミーノはひと目惚れしてしまいアリア「何と美しい絵姿」を恍惚として歌います。その絵は夜の女王の娘パミーナで、悪者(ザラストロ)に誘拐されたと侍女たちは説明し、次いで現れた夜の女王がタミーノに優しく呼びかけ、子を奪われた母親の苦しみを訴え、さらには救出できれば娘を与えようと歌います。このアリアは劇的な迫力に溢れ超絶技巧を駆使する曲で、コロラトゥーラの名曲のひとつに数えられています。侍女たちは、娘の救出に燃えるタミーノに「魔法の笛」を与え、口の錠前をはずしてもらったパパゲーノには「魔法の銀の鈴」を渡して従者になることを命じます。さらに3人の童子が道案内につくことになり、一行はパミーナの救出に向かいます。

 舞台は変わってエジプト風の部屋の中。パミーナがザラストロの奴隷頭の黒人モノスタトスに連れてこられます。そこへパパゲーノが登場、モノスタトスはパパゲーノの鳥の羽に覆われた異様な風体に驚き逃げ出します。パパゲーノはパミーナに、タミーノが助けに来ること、さらに肖像画を見たタミーノはパミーナに恋をしていることを話し、二重唱「愛を感じる男なら」を歌います。ベートーヴェンが感動してチェロの変奏曲を書いたほど高貴で高い道徳性に溢れる曲です。


 一方、3人の童子に導かれたタミーノは寺院の入り口の前に立ち、そこから出てきた弁者と教義問答のようなやりとりをします。この長いレチタティーヴォはきわめて精緻な筆致で書かれていて聴きどころのひとつになっています。復讐を求めるタミーノは神殿の中に入ることを拒まれ舞台を去ります。入れ替わりにパパゲーノとパミーナがモノスタトスらに追われて走ってきます。とっさにパパゲーノが「魔法の銀の鈴」を鳴らすと、追っ手は踊り出しどこかへ行ってしまいます。しかしそれもつかの間、外出していたザラストロが戻ってきます。パミーナは黒人に襲われそうになって逃げたと告白して許しを請います。そこへタミーノが捕らえられて登場、ふたりはしっかりと抱き合います。ザラストロはふたりを試練に導きます。唐突に「試練」という展開になったり夜の女王とザラストロの善悪が逆転したりするストーリーの飛躍と矛盾や、台本へのフリーメイソン思想の反映など初演以来論議の対象になっています。


第2幕
 ザロストロと僧侶たちが厳かな行進曲とともに入場してきます。モーツァルトが初演直前に序曲といっしょに書き上げた曲です。序曲にも現れる「3つの和音」が奏されると、ザロストロはタミーノを高い徳に導いてパミーナを娶らせることを告げ、アリア「おお、イシスとオリシスの神よ」を歌い、ふたりが試練に耐え抜くことを神々に祈ります。

 タミーノとパパゲーノが試練を受けるかどうか弁者と僧侶から問われます。友情と愛を求めて命を賭けると宣言するタミーノに対して、恐ろしい試練なんかまっぴらだと滑稽なやりとりをするパパゲーノ。この場面はパパゲーノを演じた台本の作者でもあるシカネーダーの一番の見せ場となりました。パパゲーノは若い娘パパゲーナを与えられると言われて渋々従い、ふたりはまず沈黙の試練に向かいます。そこへ夜の女王の3人の侍女が現れ、タミーノはしっかりと沈黙を守り、パパゲーノは運良く気絶していたためふたりは第一の試練に合格します。

 舞台は変わって夜の庭園。眠っているパミーナに奴隷頭モノスタトスが近づこうとしています。そこへ夜の女王が現れ、モノスタトスを追い払って娘を起こします。夜の女王はパミーナに短剣を渡してザラストロを刺すよう命令し姿を消します。この夜の女王のアリア「復讐の心は地獄のように胸に燃え」は第1幕の曲に輪をかけた難曲として知られ、その旋律は序曲に相通じるところがあります。陰でその様子を見ていたモノスタトスはパミーナから短剣を取り上げて自分のものになれと脅迫します。そこへザラストロが現れてモノスタトスを追い払い、パミーナには復讐より愛、義務、友情が大事であることを諭します。


 タミーノとパパゲーノの試練は続きます。沈黙を強いられているタミーノのもとへパミーナがやってきますが、パミーナは沈黙の意味を解せず嘆き悲しみます。パミーナのアリア「愛の喜びは露と消え」はモーツェルトの悲劇的な調性ト短調で書かれた作品で、恋する女性の慟哭を静かにかつ極上の美しさをもって歌い上げたオペラ史上最高傑作のひとつに数えられています。一方のパパゲーノは若い娘パパゲーナを一瞬見せてもらいますが直ぐに引き離されます。

 3人の童子が空から降りてきて試練は間もなく終わることを歌っていると、タミーノと別れて錯乱状態のパミーナが現れ短剣を抜いて自殺しようとします。童子たちはそれを止め、パミーナをタミーノの試練の場に連れて行きます。タミーノが水と火の試練を受けようとしているところへパミーナが駆けつけ、愛と「魔法の笛」の力を借りてふたりで試練に立ち向かいます。

 一方、パパゲーナを探し出せないパパゲーノは首を吊って死んでしまおうと決心します。そこへ3人の童子たちが現れ、「魔法の銀の鈴」を鳴らすよう教えます。鈴を振ったパパゲーノのところにパパゲーナが現れ軽妙で陽気な二重唱「パ、パ、パ、パ、パパゲーノ!」をふたりで歌い出します。

 夜の女王と侍女たちはモノスタトスに手引きされて復讐にやってきますが、雷鳴と稲妻とともに永遠の夜の世界に追放されます。舞台は明るく輝く太陽の神殿となり、試練に勝ち浄められたタミーノとパミーナはザラストロらに祝福されます。イシスとオリシスの神を讃えつつ「美と英知には永遠に輝く」と全員で歌って幕となります。

    

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